■NO 129号 モピ通信

■NO 129号           2012年10月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

■ MoPI例会&懇親会のお知らせ

■ 東京・ウランバートル3000キロメートル(9)

■ モンゴル日記~黒板を届けてきたよ~

■ ノロヴバンザトの思い出 (その33)

◇ 編集後記

 

■ MoPI例会&懇親会のお知らせ

再度のご案内です。「MIHO ミュージアム」の遠足を実施いたします。

MoPI例会、懇親会を兼ねています。

沢山のみなさまが参加してくださいますよう

ご案内申し上げます。

■ 東京・ウランバートル3000キロメートル(9)

                                                 ー あれこれてんやわんや車椅子の旅 ー

                                                                                                                                  (梅村 浄)

 

花に出会った黒板の旅

2012年7月31日、成田からミアット航空で飛び立ちました。

道連れは娘の涼とその介護者の石崎さん、目指すはウランバートルです。

チンギスハン空港の駐車場を牛が過って行くの を見た時

「あ、帰って来たな」と思ったものです。

黒板を贈る学校があるズーンブレンソムはウ ランバートルから車で 500 キロメートル、セレン ゲ県にあります。

昨年 6 月、列車でセレンゲ県の スフバートルに旅した時とは

異なった風景が広がってました。

花• 花• 花• 今年は雨が多くて草原には、なでしこ、われもこう、おだまき、

のぎく、まつむし そう等の花が咲き、所々に家畜が草を食べています。

その中に菜の花なのか、からし菜なのか、

黄色い花が何キロも咲き続けている箇所がありました。栽培している畑のようです。

しかし、役に立つ花ばかりではありません。 「これはあぶないよ。ぜったい注意して」 とムーギーさんに言われていたのに、ふらふらと草原 を歩いたら、イラクサに刺されてチクチクした痛みが 腕に広がり、秘かに虫眼鏡付きのピンセットで取り除きました。

大雨の中、目指した学校に到着。柔道着と黒板を贈 りました。生徒たちとしばし歓談。 「名前は?」「エンフゲレル」「何歳ですか?」「14 歳」

教室の後方の壁やテーブルには名前が書かれた プレートつきの鉢植えがたくさん置いてありました。大きく枝を広げピンクの花をつけているのはインパチェンスそっくりです。

壁にはデールの写真と裁縫の心得が張りだされていました。担任の先生がコンテストに出して、賞 をとった作品だと話してくれました。

新学期からこの明るい教室で使われる緑色の黒板たち、今後をよろしく頼みます。

車椅子でモンゴルを行く

数年前に、私が黒板を贈った学校を、車椅子の娘と訪問する旅を計画してもらったことがありました。直前に私が乗馬クラブで落馬し、鎖骨骨折したためキャンセルしてしまいました。今回もモピの皆さんが、娘の涼が長時間の車移動に耐えられるかどうか、日程や訪問先、 宿泊するホテルを細かく検討してくれました。

同行した石崎さんは、毎週、涼のアパートで生活を共にしている介護者です。黒板の旅の 間中、地面に凸凹があろうと、段差があろうとひょいひょいと、車椅子を押します。

帰りに 立ち寄ったドガンハタのツーリストキャンプ入り口では、ダシダワーさんはじめ周りのモン ゴル人男子が、車椅子ごと持ち上げてくれました。運転手のバイラーさんは太い腕で、涼の車椅子を押したり、階段の上り下りの際には車椅子を運んでくれました。

旅の後半、石崎さんは帰国し、涼と二人ウランバートルのアパート暮らしをしました。 昨年、留学中に借りていたムーギーさんのアパートです。ウランバートルの道路は歩道の 縁石が高いので、少しでも低い箇所を探し出して、けもの路ならぬ、車椅子路を探して押しました。 まったいらなスフバートル広場では、涼は使える右手で片手漕ぎの車椅子を漕いで進みました。二人乗りの自転車やローラースケートで疾走する子どもたち、広場で結婚式をあげる カップルとお祝いの人垣に見とれました。

何回か買い物に行ったスカイデパートには、エスカレーターがあります。二人だけで行っ た時のことです。2 階の食料品売り場に、車椅子ごとエスカレーターで上がりました。大きな 荷物を抱えて降りる時は、そうもいきません。荷物を抱えて涼の手をつないで、まずエスカ レーターに乗りました。さて、車椅子を取りに上がろうとすると、店員さんがエスカレータ ーに載せて降りて来てくれました。

「どうも、ありがとう!」 アパートの5階に住んでいる知人を尋ねました。お母さんと3人兄弟の家です。お父さん

は通訳の仕事で出張し、不在でした。13 歳の男の子がアパートの入り口まで迎えに来てくれました。日本ではエレベーターに乗るところですが、ここにはありません。涼は男の子の後 を追って、手すりにつかまりながら、5 階まで上りました。

帰宅時は隣に住んでいるモンゴル人の男性に車を出してもらい、友人は子ども達だけで留 守番させて、私達を送って来てくれました。

この旅では、知っているモンゴル人にも知らないモンゴル人にも、もちろんたくさんの日 本人の扶けを借りました。人々の笑顔から、

助けられる爽やかさを感じることができました。

バリアがあるからこそ、手が自然に差し伸べられ、涼自身の力を引き出してくれました。

障害者自立センター訪問

8 月 8 日にモンゴルの自立障害者センターを訪問しました。

モピメンバーの徳山さんと涼、ウランバートルで幼稚園や学校に通えていない子どもたちの訪問保育をしている高橋さん、 そして運転手のヒシゲーさんです。センターの代表を務めているバイラーさんはメガネをか けた 30 歳代の若者でした。ダスキンアジア太平洋障害者リーダー養成研修のメンバーとして、 兵庫県西宮市にあるメインストリーム協会に1年間研修に行っていたので、日本語に堪能です。涼は 12 年前から親の家を出て、アパート暮らしをしていることを話しました。

高橋さん がモンゴル語に通訳してくれます。

涼は当時、世田谷区に住んでいましたが、昨年の震災時に介護者が空白の時間帯ができ、 今後の災害対応を考えて、実家のある西東京市のアパートに引っ越して来ました。現在は 10 人の介護者が二交代で、介護しています。週に 2 回、電車で 5 駅先の本屋さんでバイトをしていて、その前後には実家に泊まります。

私がモンゴル語の単語と介護者ごとに色分けして記した介護者シフト表を見てもらいました。涼の財布の中味もモンゴル語で報告しました。収入は障害者年金と生活保護と障害者手 当です。家賃、光熱水費などの支出とトントンで暮らしているのですが、センターのメンバ ーは、この 2 枚の資料にじっくり見入っていました。「今、自分たちに必要なものは、自立を 実現するこんな制度なんだ」という気持ちが伝わって来ました。私は日本の障害者を巡る歴 史について、レポートしたのですが、隣に坐っているモンゴル人男性が発音を助けてくれました。

ウランバートルでは道路やエレベーターの設置が行き届いていません。バスは床が高く、 車椅子のまま乗ることは出来ません。冬に道路が凍ると滑るので、外出は困難です。障害者 年金はあるのですが、生活保護はなく、また、介護者派遣制度もないので、障害者は家族か ら自立して暮らすことができません。厳しい状況の中で、彼等は自立センターを立ち上げて、 政府への働きかけを行っています。日本のメインストリーム協会との連携もますます深めて いるようです。涼はモンゴルに住む障害者の支援ができたらと、自分の役割を見いだし、彼 等からいっぱいの元気をもらって来ました。(2012.9.17)

■ モンゴル日記~黒板を届けてきたよ~

■ ノロヴバンザトの思い出 その33

                                                                                                      (梶浦 靖子)

モリン・ホールを習う

女性記念日のパーティーから数日後、音楽ドラマ劇場に行くとモリン・ホール奏者の

アリオンボルド氏と出くわした。先日はどうもとあいさつし、今日は何を?と少し会話をし て、私は単刀直入に「モリン・ホールを教えてくれないか」とたずねた。モンゴルでは何 につけ、単刀直入に行くのが当たり前になっていた。

演奏の基本とモリン・ホールに関する基礎知識、その他、歴史でも何でもモリン・ホー ルに関することを教えて欲しいと頼んだところ、快くひきうけてくれた。楽器はすでに別 の知り合いから人手していたので、さっそく来週の何曜日にここの劇場で楽器を持ってき て何かやってみようと、たたみかけるように段取りが決まった。

そして翌週にレッスンが始まった。こちらからあれこれ質問し、話しながらの気楽な雰 囲気だったが、先方としてはモンゴルを代表する楽器を学ばせるという意識があるのか、 楽器の構え方などはずいぶん細かくに注意された。

モリン・ホールは椅子に腰かけて両脚のふくらはぎの出っ張りのあたりで楽器の胴の底 辺をはさんで固定し、棹の先が左肩に来るよう斜めに構える。しかも背筋は美しく伸びて いなければならない、ということだった。

基礎知識として、楽器の各部位の名称を教わった。面白いことに人間の「顔」の部位に たとえた呼び名が多い。共鳴胴の正面はまさに「顔 tsarai」で、棹は[首 khϋzϋϋ」、 である。これらは日本の感覚としてもわからないではないが、弦の張り(音程)を調節す る糸巻きは「耳 chikh」と言うのには少し驚いた。共鳴版の上で2本の弦を支える部品は「橋 gϋϋr」と呼んでいた。日本では同様の部品は「駒(こま)」と、馬にちなんだ呼び名だが。

楽器の弦も、弾く弓に張られた弦も馬のしっぽの毛束で、ひと束およそ数十本の毛から なる。アリオンボルドは「モンゴルのある学者は、それらの毛束は馬の毛 120 本に決められている、十二支や、 一年が12ヵ月であることと関連している、と述べたことがあるけれどと言っていたけれ ど、そんな決まりはないないんだ]と話した。

手でつかんで適当な太さの本数を使うだけで、その研究者は何か理屈がつけ たくてそんなことを言ったんだろうな、と笑っていた。

社会主義革命によって伝統的なやりかたが途切れたという可能性はあるかもしれない。 その場合は、かつてと現在の状況に違いがあることや、そのようになったいきさつ等を 説明しなければならないだろう。

弦の押さえ方は西洋でも日本の楽器でも見たことがないものだった。左手親指で棹を支 えるようにして、残りの指の爪の付け根あたりを真横から弦に押しつけるのだ。小指だけ は指先を押しつける。弦は割と高い位置に張られ、棹の面と離れているので、ギターのよ うに真上から押さえることはむずかしい。弓は右手の親指と人差し指ではさむように持ち、 残りの指先で弓の弦を押して張りを持たせる。

やってみて思ったのは、これらの動作はどれもずいぶんと力がいるということだ。両脚 で楽器をはさみ固定しながらとなるとかなりきつい。自分がモリン・ホール奏者になるこ とは絶対にないだろうと思った。

その上、楽器の製造工程の問題かもしれないが、少し雨が降るなどして湿度が変わると、 楽器の糸巻きが固まって回らなくなったり、逆にゆるんで弦を張ることができなくなった。 固まった時は、どんなに方を入れて回そうとしてもビクともしない。糸巻きを横から押し てみたりするうちに手首をくじいてしまった。本当に、自分はモリン・ホールを弾くには 向いてなさそうだと思ったものだ。

とはいえ、楽器についてひと通り知っておくためには、実際に楽器を手にしてみなけれ ばならない。ある程度、自分で音が出せるくらいにならなければ、その楽器について語る ことはむずかしい。特に、その楽器が奏でる音楽について語ろうとするなら、多少なりと も実技の経験が必要になる。

アリオンボルドはウランバートル生まれで、小学校を卒業すると音楽舞踊中学校に入学 した。名前は「中学校」だが、中学、高校、専門学校がひと続きになったようなもので、 社会主義時代に設立された。音楽と舞踊について、幼少からの英才教育を行う機関である。 アリオンボルドはそこでモリン・ホールを専攻し、モンゴルの伝統音楽のほか、西洋音楽 の理論や実技も学んだ。そのせいか理論家肌なところがあり、こちらの質問にもまるでそ のまま教科書や事典に載せられそうな客観的で論理的な説明や教え方をするのだった。歌 い手の人には、自分が話すのに夢中になり、こちらの質問に対する答えがどこかへ行って しまうという人が多かったのとは実に対照的だった。

■■ 編集後記 ■■

モンゴルの旅日記、後半を受持ってくださった梅村ファミリーのモンゴル満載の日々、

モ ンゴルに住みた~い」の一言、全てが分かります。

モピがこのような旅のお手伝いが出来ることは、

モンゴルに深く関わってきた賜物ですね。

これからも、こつこつと何かを積み重ね ていく努力を、

みなさまの協力を得ながら続けられることを願っています。

                                                                         (事務局 斉藤生々)

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