■NO 130号 モピ通信

■NO 130号           2012年11月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

■ 東京・ウランバートル3000キロメートル(10)

■ ノロヴバンザトの思い出 その34

■ 外国人による日本語スピーチコンテストのご案内

■ ミホ美学記

■ モンゴル国立馬頭琴コンサート演奏会のお知らせ

■ 冬支度

◆ 編集後記

 

■ 東京・ウランバートル3000キロメートル(10)        (梅村 浄)

                         ― 障害を持っている子どもたちの通園• 通学事情 ―

ゲル訪問

ウランバートルの市街は、社会主義時代から都市計画のもとに国会議事堂を取り巻くように建設された中心部と、郊外に向かって急激に広がる周辺部(ゲル地区)、2 つの地域をつな ぐ中間部に分けられます。1992 年にモンゴルが社会主義から資本主義に移行後、遊牧では暮 しをたてられなくなった人々が、職を求めて周辺部にゲルを建てて住むようになり、現在で はモンゴル人口の半数 130 万人がウランバートルに住んでいます。

黒板ツァーの後、私と涼は 2 週間、ウランバートルに滞在しました。モピの仲間である徳 山理沙さんと、モンゴル在住の高橋生仁子さんと一緒に、H 君が住むゲルを訪問しました。き みこさんは 10 数年前に JICA の青年協力隊で保育士としてモンゴルに来て、その後 3 年間は 日本で仕事をしていましたが、再び、モンゴルに戻り、昨年秋からスジャータシャンドとい う NGO を立ち上げて、幼稚園や学校に通えない障害をもつ子どもたちの訪問保育をしてきま した。スジャータはお釈迦さまが修行中、疲労の極にあった時、ミルクがゆを作って差し上 げた少女の名前です。そのお陰で元気を回復されて悟りを開かれました。シャンドはモンゴ ル語で泉ですから「スジャータの泉」という名前です。モンゴルの子どもたちへの愛情が感 じられるネーミングですね。

H 君は 16 歳、ゲル地区に住んでいます。脳性麻痺で手がうまく使えませんが、壁に寄せて 置かれた自分のベッド上で、壁に寄りかかって両足を使って何でも操作します。きみこさんと作成した教材を全部、きちんとベッドの上に並べて、私達に見せてくれました。

『北風と太陽』の話をペープサートで演じました。涼が北風、H 君が太陽、きみこさんが旅 人の配役です。この劇は 5 月末に行ったスジャータシャンドの 1 年間の活動修了を祝う「私 たちのはっぴょう会」で上演して、うちわで扇ぎたいこどもがノリノリで大好評だったと聞 きました。この度は、初めて出会った者どうしでしたが、きみこさんの仲立ちでなんとか演 じ切りました。

昨年の秋、学校に行っていない H 君に、近くの特別学級の先生から「学校に来ないか」と 呼びかけがありましたが、保護者は気が進まず通学を断り、きみこさんは 1 年間訪問保育を 続けました。

1 週間後に私と涼はきみこさんと、6 歳の E 君のゲルを訪問しました。歩行器に坐って出迎 えてくれた E 君と、お土産のビーチボールを膨らませて、投げたり取ったりして遊びました。 足は不自由ですが、両手で大きなボールをはさんで受け止めます。妹も床に転がったボール を追って走り回りました。

お母さんは電気蒸し器にボーズをたくさん並べて蒸かしてくれました。どこのゲルも電気 は通っています。ゲル地区のあちこちに井戸の建物がありました。ポリタンクを持って水を 汲みにいきます。トイレは敷地内に穴を掘ってそこに排泄物を溜めます。いっぱいになると 埋めて、別の場所をトイレにします。

お母さん心づくしの手づくりボーズを食べて、スーティーツァイを飲んだ後、E 君は歩行器 で庭に出て散歩です。私たちもついて外に出ました。この歩行器はお父さんがパイプを組み 合わせて車輪をつけて作ったものです。モンゴル人は必要とあれば、何でも自分の手で作っ てしまう人たちです。

妹は幼稚園に通っていますが、E 君はずっと家にいます。帰国してからきみこさんから、「こ の秋から受け入れ先の幼稚園が見つかった」というメールをもらいましたが、お父さんが「今 年はもっとリハビリに専念したい」という意見で、実現しませんでした。代わりにきみこさ んが、ウランバートルの 2 箇所で、障害のある子どもたちを集めて始める集団保育に参加することにしたそうです。

モンゴルの通園• 通学事情

私は、モンゴルは冬が厳しく、道路事情も良くないので、障害を持っている子どもは、通

園通学が難しいのだろうと思っていました。
きみこさんに尋ねてみました。「幼稚園では 1 クラスの人数が多すぎるうえに、行政から助手の加配などの援助がないために、先生達も積極的に受け入れる体制になれない」

「学校は数 が少なく遠すぎるにもかかわらず、スクールバスが不十分にしか動いていないので、通学が 難しい」そういえば、昨年訪問した小学生の学校では、冬場にガソリンが手に入らず、スク ールバスが出せないので休んでいるという話をききました。

受け入れ側の体制が整っていないため、自家用車で送り迎えが出来る家庭でなければ、園 や学校に連れて行く大変さを押してまで、通わせる気持ちになれないのも頷けます。

また「学校は ABC や数字を学ぶ所で、それができない子どもは学校に行く必要はないと諦め てしまう」とのことでした。

学習が出来ないから学校に行く必要はないとの考 え方は、日本で障害を持っている子どもが普通学 級で学ぼうとする時に、親が悩む点です。日本で は特別支援学級、特別支援学校があり「能力に応 じた教育をしている」と説得されると、普通学級 を諦めて、他の子どもたちと分けられた場所で過 ごすことになってしまいます。日本では30年前か ら大阪を中心として「できなくても大丈夫。皆で 一緒に育っていこう」と、障害のある子どもを普 通学級に通学させる実践が続けられてきました。

いろいろな立場の人がモンゴルの子どもたちを、応援していけたらいいですね。 9月1日はどの園も学校も新学期を迎えます。きみこさんや保護者たちも黙っているだけで

はありません。 昨年度、日本人のカメラマンがきみこさんの訪問保育に同行して子どもたちを撮影した写真に「ボクたち、ワタシたちも幼稚園、学校に行きたい」というクレジットを付けて、番組 の合間に数10秒間流したモンゴルのテレビ会社がありました。8月下旬に1週間にわたって放映されました。

この会社はスジャータシャンドの主旨に賛同して、昨年、きみこさんの活動 を番組として放映してくれたこともあります。

スジャータシャンドは2年目の新学期がスタートしました。

きみこさんは訪問する家庭に渡すお知らせの中に「訪問保育を通じて、学校や幼稚園に通 わせることを積極的に考え、地域、学校・幼稚園と連携をとってください」と書きました。 これから保護者の理解を深めつつ、その内容を実践していきたいと考えています。

                                                                                                                              (2012.10.18)

■ ノロヴバンザトの思い出 その34          (梶浦 靖子)

彼は五線譜の読み書きも難なくこなせた。私が習い始めるとすぐ、五線ノートに、ピア ノで言う「ハノン』の練習曲のようなメロディー、をさらさらと書いてくれた。

また、簡単な練習曲としてボギン・ドー「十五夜の月 arvan tavny sar 」のメロディー も書いてくれた(譜例 21)。 シ♭、が主音の変ロ長調(♭は2つ)のように聞こえるが、アリ オンボルドは偶然か♭1つで書いている。理由は聞きそびれたが。

この曲を実際に歌手が歌ったレコー ドがあるのだが、そちらのメロディーを 同じ調と拍子で書くと譜例 22 のように なる。両者を耳で聞くと、なんとか同じ 曲か認識されるが、それにしても音符の 細かさなど、別の曲と言っていいほどの 違いがある。まるで西洋音楽の変奏曲の、 主題のメロディーとその変奏のようだ。 モンゴル伝統音楽の、旋律の変化の許容 範囲の広さを示しているように思える。 譜例 21 は、最低限こうした音の羅列が あればこの曲と認識しうる、という例か もしれない。

劇場の発声練習に参加

ノロヴバンザドのレッスン中には彼女の知り合いが訪ねてくることがあった。その際、

彼女はその人と世間話をしながら、生徒に「もっと大きな声で」「今のフレーズはもっと こう歌いなさい」などと指示をした。

ある日やって来たのは歌舞団の発声トレーナー-の男性だった。年齢は50歳前後かと思 われた。ノロヴバンザドと話をしていると私に目を留めて、この娘は日本人ですか?と尋 ねると彼女はそうだと答え、オルティン・ドーを調査研究したいというから授業に参加さ せていると答え、曲はよく覚えて正しく歌えるが声に力が足りないんだ、と話した。

するとトレーナーの男性は、自分が担当している劇場の歌手たちの発声練習に参加しな いか?と私を誘った。プロの歌い手と一緒に声を出せば良い効果が得られると思うよ、と 言ってくれた。とてもありかたく面白そうな話だったので、ぜひそうさせてくださいと返 事をすると、ノロヴバンザドも、そうしてみたらいいんじゃないか?と言った。すると彼 女はトレーナーに向かい意味ありげな笑みを浮かべて、

「この娘はドーロルグイですよ」と言った。
ドーロルとは、米ドル dollar のことで、モンゴル人はローマ字を一つずつきっちりと

読んで、「ドルラル」と発音するが、それが日本人の耳にはドーロルのように聞こえる。 「グイ」とは「持たない」「無し」という意味なので、ドーロルグイとは米ドル無しの

意味になる。 当時のモンゴル国では、外貨とくに米ドルでなければ買えない品がいくつかあった。その多くは家電など西側諸国製の商品だった。当時のモンゴル人は、少し知り合った外国人に、 よく米ドルとトゥグルクとの両替を依頼してきた。国の体制が変わろうという不安定な時 代に、少しでも豊かさを確保しようとするのは人としての権利かもしれないが、両替を持 ちかけられた側はやや損をする話なので、断るのに苦労したのも事実である。

ノロヴバンザドは同国人のそうした行動に批判的だったようで、そうした話をしている のを聞いたことがある。実際、ノロヴバンザドからそのようなことを頼まれたことは一度 もなかった。

「この娘は米ドルは持っていないから、両替をしてもらおうと思っても無駄ですよ」

と彼女は言ったわけだ。そのようなことをしないようにと、トレーナーにクギをさした 形だった。財力もない留学生に無理を言わないようにと、いわば私を守ってくれる行動だっ たと言える。

しかしそれは、ノロヴバンザドがモンゴル国の中で特別に恵まれた立場にあったからこ そできた行いかもしれない。彼女の住むアパートは外観こそ他と変わらないが、部屋の中 の壁、天井から浴室のタイルまで、一般のアパートのものより明らかに上質で美しく整っ ていた。

また彼女の住む地区は、けっして停電も断水もしないのだと聞かされたことがある。 19 90 年当時からウランバートルでは断水や停電がしばしばあった。停電の何割かは、火力発 電の燃料を節約するため、事前の公報なしで故意に電力を止めているのだと言われていた。 あくまで噂だが。そうした対象にならずに済むくらいの待遇を受けていたから、留学生ふ ぜいに「商談」を持ちかける必要もなかったとも考えられる。

しかしまた、ノロヴバンザドは美意識が高く、誇りというものを大切にする面もあった ので、自身の心情や信念から、そうした行動はとらなかったのだと思える。

その教日後の朝9時、教えられた1階奥の広い練習室に行ってみた。グランドピアノを 取り囲んでイスが並べられ、劇場の歌手、男女十数名がそれに座り、あるいは立ち話をし ていた。その中の見覚えのある人にあいさつし、いきさつを話すと、おおそうかと言って 私をイスに座らせた。この娘はノロヴさんに習っていて、などとその人が隣の人と話して いるとトレーナーがやって来た。私が腰を浮かせ会釈をすると、ああ来たかという様子で うなずき、さっさとピアノを鳴らして発声練習を始めた。

モンゴルの歌手十数名がいっせいに声を出すとすさまじい声量である。それより驚いた のは、さまざまな音色の声が混ざっていることだった。オルティン・ドー、ボギン・ドー など民謡の歌手のほかに、ゾヒオリン・ドーzokhiolyn duu の歌手も参加していた。

ゾヒオリン・ドーとは訳すなら「創作歌曲」となるだろうか。革命後、社会主義体制の もとで、西洋クラシック音楽の手法と文脈で作詞作曲された歌のことである。「明るく健 全」な響きの長調の曲や、軍歌のように勇ましい響きの短調の曲などがあったと思う。そ れらの曲は、やはり西洋の声楽に近い澄んで朗々とした発声で歌われる。

対して民謡は地声に近く、少しビリビリした響きも混ざる発声である。いわば両者の歌 声は響きが対照的で、そもそも歌のジャンルとしては歴史も文脈も違う、まったく別のも のだ。私の知っている常識では、それらの歌手が一緒に発声練習をするなどありえないこ とだった。

しかも伴奏としてピアノが使われ、西洋音楽の声楽のクラスでよく行われる発声練習の ようなメロディーで歌っている。「ドレミレドレミレド」とか、「ドレミファソファミレ ド」のフレーズを、トレーナーの「さん、はい!」に当たるような合図で、「ア」「エ」 などの母音で発声しているのだ。日本で、民謡や近世邦楽の音楽家がそのように稽古をす るだろうか?ありえない。クラシックの声楽のレッスンで民謡の人が一緒に発声練習をす ることがあるだろうか?まずありえない!

さらによく見るとホーミーkhoomii の人まで混ざっている。ホーミーとは、声帯で出 した声を口腔内に共鳴させて生じた倍音でメロディーを奏でる技法で、モンゴルやその周 辺諸国の遊牧民の間に伝わっている。「う~」とうなるような低くびりびりした声と、笛 のような、高く細い音とが一人の人間から同時に発せられるのだが、その高い音で一緒に ドレミレドなどのフレーズを追っているのだ。何でもありなのか?と心底驚き、軽くめま いを覚えたものである。日本では、例えば同じ三味線音楽であっても、一緒に声を出して 練習をすることなど、多分ないと思う。

モンゴルの文化は、日本と似たところがあるという文脈で語られることも多いが、西洋 音楽の取り入れかた、音楽ジャンルの扱いかたなどは、正反対とも言えるほどの違いがあ るわけだ。 大陸で常に周辺の異文化、異民族と接しながら生きてきたモンゴルと、島国で諸外国との 接触が少なかった日本、ということに違い大陸の理由が求められるかもしれない。家の中 が襖で区切られた日本と、ゲルの丸い一つの空間で家族も客人も共に過ごすモンゴル、とい う両者の違いにも呼応するものがあるように思う。

そういえばモンゴル帝国の頃は、政権の重要な役職をモンゴル民族以外の、たとえばム スリム系の人間が勤めることがあった。帝国の首都カラコルムは漢民族やムスリム系、西 洋系の人々が暮らし、仏教寺院や道教の廟堂、イスラムのモスク、キリスト教の教会が建 ち並ぶ国際都市だった。

日本は西洋音楽を取り入れても、既存の伝統音楽とははっきりと区別し、それぞれの音 楽の「居場所」を明確に区切り、けっして混在させることはしなかった。伝統音楽の各ジャ ンル同士もである。上記の発声練習の場は、それとは真逆に異文化と異ジャンルがともに集 っていた。

社会主義体制のもとでの伝統音楽に対する政策の影響ももちろんある。モンゴル人民共和 国の建国宣言からほどなくして、モンゴル国内各地の民謡をはじめとする伝統音楽を、新国 家を代表する独自の音楽芸術としてまとめ、組織化する政策が推し進められた。その際、西 洋音楽の理論、体系、音楽にまつわる慣習などが基盤とされたのである。

西洋音楽とモンゴル音楽とは歴史も文脈も違い、一方で他方をくくるのは本来むちゃな話 である。音楽ばかりでなく、その他の芸術にも同様の方針がとられた。そうしたことに異を 唱え、文化の独自性の尊重すべしと主張する者は、不遇な立場に追いやられ、時に苛酷な扱 いを受けて、そうした意見自体が社会から消されていった。

上記の場面は、そうした厳しい歴史がもたらしたものであることも間違いない。しかし私 の目にはそれが、違いを気にせず、訪れた者はすべてゲルに迎え入れ、飲食を振る舞うモンゴルの気の良さ、おおらかさの表れと受け取れたのも事実である。

(つづく)

 

■ 外国人による日本語スピーチコンテストご案内

■ ミホ美術館見学記                                           (村上 雅彦)

                                                                                                                                                                      モピ通信で案内があったミホ美術館を、10 月20日(土)に7名(小長谷・松本・中野・ 生々・鈴木・金田・村上-敬称略)のモピ会員 の方々と見学した。

例年であればこの時期、一面の紅葉を楽しむ ことができたと思うが色づき始めたばかりの景 色であった。

信楽焼で有名な滋賀県 紫香楽(しがらき) の里に総面積約100万m²、建築面積約900 0m²、設計者はパリ・ルーブル美術館のガラスのピラミッド、ワシントンのナショナルギャラリーを設計した I.M.ペイ氏で桃源郷をテーマ に1997年11月に建設された。

9月1日より12月9日の間, 秋季特別展「土偶・コスモス」が開催されていた。今から約 1万6000年前から3000年前の約1万以上続いた縄文時代に土で人形を作った土偶を 日本全国主に北海道・東北地方で発掘された土偶を300数十点を集めて展示されていた。 その中に今年9月に国宝に指定された“縄文のビーナス”(山形県立博物館所蔵)も展示されてる。

写真とか教科書でしか見たことのない私にとって、北海道から九州まで全国各地の土偶(今 回は主に北海道東北地方で発掘された土偶)を直接鑑賞出来たことは有意義であった。

最後に、常設展示されている、エジプト館、西アジア、南アジア館、中国・ペルシャ館、 ギリシャ・ローマ館も見学出来た。

            (ミホ美術館見学記、来月号で金田悦二さんのレポートを紹介いたします。)

 

■モンゴル国立馬頭琴オーケストラ演奏会のお知らせ

                                                                                                                                                             (小長谷 有紀)

のたび、文化庁の支援を得て、馬頭琴の演奏会「白い馬の物語」が行われます。

今回の公演の特徴は、2部構成になっていて、演奏の後に、「竹下景子の朗読」があること。 全国4箇所で開催されます。東京は池袋の「あうるすぽっと」(11月16~18日)を皮切りに、 横浜の神奈川芸術劇場(11月23日)、新潟県五泉市さくらんど会場(11月25日)、兵庫県尼 崎市ピッコロシアター(12月1~2日)の4箇所です。

会員のみなさまにおかれましては、ぜひ、お近くの公演にお出ましください。 なお、尼崎ピッコロシアターでは12月1日に劇団員によるワークショップも開催され、その際 にモピから民族衣装をお貸しする予定です。ピッコロシアターでのチラシを入手しましたの で同封します。全席指定席ですので、チケットは各自、ご購入ください。

尚、メール配信の方は、モピホームページにチラシをアップしていますのでご覧ください。

http://mongolpartnership.com/?page_id=1216

 

■ 冬支度                                                 (斉藤 美代子)

 

10 月といえば日本は一番いい季節なのではないでしょうか。モンゴルでは 10 月に入ったと たんに気温が下がり始めます。20 日現在、最高気温はプラス 1 度、夜中はマイナス 10 度くら いになっています。10 月初旬には最高気温がマイナスになった日もありました。暖房は、一 般家庭は 9 月 15 日から、公共機関は 10 月 1 日から入っています。

10 月に入ったころから、通学通園をする子どもたちの冬支度を始めます。帽子、マフラー、 手袋、暖かいダウンジャケット。それぞれ何段階かに分けて用意してあります。今の時期に は薄手のマフラーや帽子を着せ、昼間の気温がマイナス 10 度を超えるようになれば、カシミ アの分厚いものを着せることになります。そして、ここでは外側に着込むより、内側をまず 暖かくしなければならないので、その用意がかかせません。

まず、毛糸のタイツです。普通のタイツの上にはかせます。化繊の入った毛糸ではだめで、 必ずカシミアや羊毛でできているものを探します。100%カシミアだと柔らかくていいのです が、破れやすい。そのためカシミアと羊毛との混毛のものを購入します。今年、小さな工場 を見つけたので、下の子は織ってもらうことにしました。オーダーメイドですが 1500 円くら いでできるそうです。

そして足元。重ねて履かせる靴下はもち ろんラクダの毛で織ったもの。そしてブー ツが必要です。サイズアウトした下の子は これも新しく購入することになりました。 ブリヤート靴と呼ばれるモンゴルの伝統 的なブーツです。中にはもちろん羊毛がは ってあり、外側はモンゴルのウシの皮でで きています。これが一番暖かいようで、モ ンゴルの小さい子どもたちはみんなこれ を履いています。これはザハ(市場)で約 1800 円でした。 毛皮のコートもモンゴル製があって暖か いのは一番なのですが、重いのでうちの子 たちは寒冷地用のダウンコートを着せて います。

タイツに靴下、ブーツ、マフラー、帽子、手袋。す べてモンゴルの家畜たちの恵みでしっかり暖かさを キープして、寒い冬を乗りこえます。夏に雨が多かっ た今年の冬は寒くなる、という話も聞かれます。支度 を万端にして迎えたいと思います。

 

                      ヒツジの毛皮を加工した手袋

 


■■編集後記■■

日本の美しい四季が崩れ、物語の中だけに存在するようになったように思いますが ミホ美術館がある信楽は、木々が紅葉し美しい自然がたくさんありました。まさに秋・土偶から受ける豊かさ、感銘と合間っていました。

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