■NO 131号 モピ通信

■NO 131号           2012年11月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 ミホ美術館見学記

 

 2012年秋 モンゴルの旅・金子みすず記念館の方々とご一緒して

 

 ノロヴバンザトの思い出 その34

 

 意見広告受賞報告

 

 写真展ご案内

 

 編集後記

 

 

 ミホ美術館見学記                                             (金田 悦二)

4 才と 0 才 7 カ月の 幼児2人の育児に追われ、なかなかモピのイベントにも行けずにいたのですが、 長女も少しは鑑賞という場を経験させるころかと思い、子連れで参加させていただきました。

ミホミュージアムは、山深い自然の中にあらわれました。 レセプション棟から、美術館棟までの 500 メートルあまりのアプローチは、紅葉が始まった木々が雲ひとつない青空に映えて美しい光景でした。無料の電気自動車で大きなトンネルを抜けたら、美術館の入り口です。入母屋風のエントランスから中に入ると、 そこは、ガラス張りの大屋根で正面も全面ガラス張り。ところどころ紅葉が始まった山々の姿が目に飛び込んで来ます。

自然景観保護のため、建物の80パーセントが、地下にあるとは思えないほど光に溢れています。心が豊になり、展示会場に入る気持ちも否応なしに高まっていきます。設計はルーブル美術館のガラスのピラミッドを設計したI.M.ペイ氏に依るものだそうです。

前置きが長くなりましたが特別展は、「土偶・コスモス」です。私の記憶では、縄文時代は狩猟生活で貧しく文化的にも未開でたいして見るべきものはない時代だと習ったように思います。しかし、その後の研究で縄文時代に対する歴史観・文化観は大きく修正され、近年、縄文時代が注目されるなか、全国から出土した多数の土器・土偶を鑑賞できる機会が得られたのはうれしいことです。会場の入口に岡本太郎の立体作品が置かれていました。太郎は、1951 年火焔式土器をみて衝撃を受け、それがその後の創作活動の根本になったという話は有名ですが、万博当時アバンギャルドの太郎が万博を引き受けると聞いて私はがっかりしたのでした。しかし、去年、太郎の生涯を描いた NHK のドラマで、あの太陽の塔のプレス発表の時に「人類は進歩なんかしてないじゃないか、土偶の一つも創れない」と言い放ったシーンがありましたが、事実だそうです。それで、失礼で不遜ですが、自分として太郎を見直したのでした。

さて、展示されている土偶はどれも面白い造形で、とりわけ縄文のヴィーナスと呼ばれるものや、仮面土偶、合掌土偶など、どうしてこのような造形を思いついたのかと、古の作家たちに思いを馳せました。長女はハート形土偶を面白がっていました(何でもハート形が好きなのです)。私が子どもの頃聞いた「遮光器土偶は、地球にやって来た光に弱い宇宙人がサングラスしているものだ」といった話を思い出しました。今回の特別展示は 10 月 14 日の NHK 日曜美術館でも取り上げられていました。その中で、中空土偶(11 月 30 日から展示)の再現をした作家が、その技術の高さと、造形の巧みさに感じ入っていました。また、グラフィックデザイナーは、プリミティブなだけではなく現代デザインに通じるモダンな造形だと具体例を挙げて説明していました。今回、多数の土偶を一堂に観てなるほどと納得しました。また、大きな石も運んで並べた共同墓地といわれる環状列石が日時計でもあり、暦を理解していたことがあきらかで、そこに建てられていた石棒も展示されていました。男性器を型どったものだそうです。石器に続いて土器づくりが始まったのは、おおよそ 7500 年前がアマゾン川流域で、8500年前がヨーロッパ、9000 年前が西アジアで、15000 年前が日本だそうで、1 万年以上さかのぼる物は日本の他には出土していないそうです。なぜ狭い島国の日本で先進的な土器づくりが、世界で一番早く始まったのか、また他の地域ではないあのような独創的な造形が生まれたのか、誰も説明できないだけに自由な想像が許され愉しいのです。ましてや、土偶となると私の想像力では追いつきません。日本の独創的な土器や土偶を目の当たりにして、文化・文明は中国からもたらされた物との思い込みを訂正させられました。さらに、コレクションの常設展示では、古代オリエントから中国に至る古代美術が展示されていました。こちらも、それぞれに逸品で、見応えが、ありました。縄文時代は、約 15000~16000 年前頃からを言うそうですが、原発の核廃棄物が無害になるまで 10 万年かかるそうで、その途方もない年月を思うと無駄にエネルギーを使って、繋ぎのエネルギーのためにこんなものを生み出した人間の愚かさに改めて思い至りました。縄文時代はもちろん厳しい生活だったでしょうが、思った以上に豊かでその生き方は現代の私たちに示唆するものがあるのではないでしょうか。もっと深く縄文を知りたくなりました。

鑑賞の後は、レストランで自然食をいただき、広場の緑陰で懸案の説明や小長谷先生の決裁をいただいたりと、無事例会も終えました。素晴らしい環境で、モピの皆さんと過ごした1日は本当に素敵でした。ありがとうございました。子どもも、何かを感じたのかもう一回見ると言うので電気自動車に乗ってエントランスに向かいました。

※一部は芸術新潮 11 月号 大特集「縄文の歩き方」を参考にしました。縄文時代の食・生活・各地のお国柄・生き方・男女の役割など角度を変えて紹介されています。興味のある方はご覧下さい。

 2012年秋 モンゴルの旅・金子みすず記念館の方々とご一緒して                                                                                     (会員 瀬戸岡文子)

 

今年9月末、金子みすゞ記念館の館長である矢崎節夫先生はじめ関係の方々がはじめてモンゴルを訪れる機会があり、以前から金子みすゞとモンゴル、その両方が大好きな私も、やはりみすゞの好きな友人と一緒に同行させていただくことができました。その旅の一部をご報告したいと思います。メンバーは6人。記念館館長の矢崎節夫先生(16年にもわたるみすゞ探しで金子みすゞの全作品の遺稿に出あい、金子みすゞ全集を出版。今も全国をとびまわり、みすゞの講演など多忙な方)、同じく記念館主任の草場睦弘さん(記念館のある山口県長門市在住。昨年の東日本大震災後東北3県のすべての小中学校にみすゞの本を届ける“こだまでしょうか募金”活動をすすめている方)とその娘さんのなおみさん、岡崎魅すゞ会の畔柳佳子さん、友人の岡崎文代さんと私でした。

旅を準備し案内してくださったのは、松田ヒシグスレンさん。札幌在住のモンゴル人女性で、ご主人は温泉研究でも著名な松田忠徳氏。ヒシグスレンさんは、数年前に金子みすゞの詩をモンゴル語に翻訳し、『ハイル・ゲゲー』として出版。一昨年から全国をまわっている『没後80周年・金子みすゞ展』にも、そのモンゴル語訳を出品。日本とモンゴルを行き来しながら、モンゴルのいくつかの学校などでみすゞ作品の紹介をしている方です。わかりやすい言葉で、やさしくて深い意味のある多くの詩をつくった金子みすゞが大好きな私は、モンゴルにも金子みすゞの詩を紹介したい…どなたか金子みすゞの詩をモンゴル語に翻訳してくれる人がいないものかとずっと待ちのぞんでいたのですが、この展覧会のご縁でヒシグスレンさんと知りあうことができました。私たちは二人ともモンゴルが大好きで、そして金子みすゞが大好きということで親しくなり、いつか一緒にモンゴルに行きましょうということをちょうど話していたところに、矢崎先生のモンゴル行きのお話が重なりました。

私以外の日本人のみなさんは、今回モンゴルがはじめてで、矢崎先生の空いている日程も短かったので、いくつかの学校での矢崎先生の講演のほか、あとの半分は観光、草原のゲルでゆっくりとすごす時間をとりましょうというスケジュールでの旅行になりました。車の運転やガイドは、ヒシグスレンさんの息子さんの友人であるオルノーとアムガーがとても気持ちよく手伝ってくれまた。

≪モンゴルの大詩人・スレンジャブさんの“バクシ”の詩≫

ウランバートルに到着した翌朝、まずはじめに行ったところは、国立教育大学の前にある『バクシの詩碑』。“バクシ(先生)”という詩はモンゴル人なら誰でも知っているという大詩人スレンジャブさんの詩で、2年ほど前にその詩碑がつくられたということを聞いていたので、ぜひ訪れてみたいと思っていました。開いた本のページに詩が刻まれ、かたわらにカバンをしょった男の子と女の子の像があります。そして何とその場に、スレンジャブ先生自からが来てくださって、ご高齢にもかかわらずかなり長文の自作の詩を朗々と暗唱してくださったことは、ほんとうに驚きでした。スレンジャブ先生はヒシグスレンさんのお父さまと聞いていました。ヒシグスレンさんによれば、日本人がそこに行きたいと言っていると聞いた先生は、子どものようにワクワクし、朝からはりきって早起きをして、若々しいサーモンピンクのシャツに同系色のネクタイ、勲章つきのスーツ姿で像の前に立ち、私たちのひとり一人に、すてきなサインつきの自作詩集をプレゼントしてくださったので、とても光栄に思いました。今私は、モンゴル人留学生と一緒に“バグシ”の詩を少しづつ読んでいるところです。

≪トゥブ県バヤンソムのドンドグさんのゲルで≫

その後、郊外の観光地、“チョンジン・ボルドグ”のチンギスハーン像と博物館を見学後、次に向かったのは車で南に1時間ほど行ったバヤンソム近くのドンドグさんという方のゲルでした。途中の道は結構よく、きけば日本の援助で作られた舗装道路で、とてもよくできているとのことでした。最近モンゴルでは鉱山資源の開発が進められ、その関係の大型トラックが多く見られました。やはり鉱山のボタ山のようなところから舗装の道をはずれ、土の道に入って、草原を走り出したので、車の窓を開けると、ふわーとモンゴルの草の香りがしてとってもうれしくなりました。空気もきれい。(あー、モンゴルに来た!)という実感がやっとわきました。ウランバートルに住むモンゴルの人たちも田舎が大好きで、夏休みになると、みな田舎に行ってしまうという気持ちがよくわかります。360度みわたす限りの広々とした草原に、たった3つのゲル。なんともモンゴルらしいぜいたくな空間に何十頭もの馬たちがゆうゆうと草を食んでいます。まずは、ゲルの中でドンドグさんとかぎたばこの挨拶。テーブルには新鮮なウルムやアーロールなどの乳製品が載せられています。トゥブ県もボルガン県、アルハンガイ県、ドンドゴビ県などと並んで馬乳酒のおいしい土地だそうで、さっそくタグシという木のお椀に馬乳酒をなみなみと注いでくれました。日本人にはちょっと酸っぱいアイラグですが、矢崎先生は代表して?三杯も飲んでくれました。

少し風の強い日でしたが、私たちは外に出て、ドンドグさんご自慢の美しい馬たちを見せていただきました。馬たちも(このお客さんたちは誰?)とでもいうように、私たちに近づいてまっすぐな目で私たちを見つめるので、馬も好奇心が強いのだなあととても面白かったです。またひとり一人馬に乗せていただき、少年たちのミニ・ナーダムを見せていただきました。小さなときからはだかの馬に乗って育つ子どもたちの凛々しさを見ました。また近所の遊牧民の方々がオールガという馬とり竿や投げ縄で馬を追い、馬を捕まえ、おとなしくさせるのを見せてくれました。テレビなどで見たことはありましたが、実際に見たのは初めてでした。迫力があって、現在相撲で活躍するモンゴル人力士の身体能力のすぐれていることは、こうした遊牧民の日常の生活の中で培われてきた伝統なのだということがよくわかります。夕方馬頭琴奏者がゲルに来てくれて演奏し、もと歌手のドンドグさんの奥さまもすてきな歌声をきかせてくださいました。

この地方の名士でもあるドンドグさんは、この夏、モンゴルの有名な詩人ナツァグドルジの故郷でもあるトゥブ県、グンガルータイではじめての馬乳酒祭りを企画し、馬乳酒コンクールをしてモンゴルの伝統文化の継承活動に力を入れているそうで、その様子を記録したDVDもいただきました。ドンドグさんの家のおいしい馬乳酒は、牛の皮袋で攪拌するという伝統的な方法で作っている..その方法が一番おいしいとのことで、実際に馬乳酒作りやウルムを作っている様子も見せていただくことができました。ゲルで1泊した翌朝の草原のしっとりとした美しさ、静けさはまた格別でした。朝露に濡れて、キラキラと美しく輝く草たち。草原はもうすっかり秋の色に染まっていました。金子みすゞにも“つゆ”という詩があるほか、“つゆ”にさまざまなものが映っているさまをみすゞはいくつかの詩にしています。また草についても、みすゞは多くの詩を残しています。金子みすゞの詩は、モンゴルの人々にもきっと共感をもって受け入れられるものがたくさんあるだろうと思いました。その日の空は、まさに“モンゴリアンブルー”。空はどこまでも高く美しく澄んでここちよく、たくさんのヒツジ、ヤギ、馬、牛たちがゆったりと草をはむ絵のような風景が広がって、とても幸せでした。出発までの短い時間、野生のヤギの角で作った弓を射る遊びをみなで順番にして楽しみました。今回私たちが訪れたのは日曜日で、また日程の都合で昨年MoPIの黒板を届けていただいたバヤンソムの学校を訪問することができませんでしたが、ドンドグさんに、校長先生に金子みすゞの絵本『ほしとたんぽぽ』(JULA出版)(モンゴル語訳つき)をお届けしていただくことをお願いして、ゲルをあとにしました。

≪ウランバートル大学、技術専門学校への訪問≫

ウランバートルに戻り、ガンダン寺のお参りをすませた後、ホテルで少し休憩し、夕方ウランバートル大学を訪問。文学部の先生方に挨拶した後、案内された教室には、偉大な文学者ナツァグドルジの写真を中心に、そうそうたる歴代の文学者の写真がはられていました。教室の前の方には、大きな金子みすゞの写真と私たちを歓迎する美しいモンゴル文字が飾られていて、そこで矢崎先生が金子みすゞについての講演をされました。矢崎先生にとっても、海外でみすゞのお話をされたのは、今回が初めてのことだったそうです。先生が日本語でお話しする言葉を、ヒシグスレンさんがすぐに同時通訳されるのを学生たちがとても熱心に聞き入っていました。最後には、同席されたツェー・ダムディンスレンというやはり有名な詩人やヒシグスレンさんの友人の詩人、ニャムさんが自作の詩を暗唱し、学生の方も、有名な詩人ヤボホランの詩を朗読してくれました。モンゴルでは、ことばがとても大切にされ、詩を暗唱することがとても自然に行われていると感じました。

翌日午前中は、市内の歴史民俗博物館をゆっくりと時間をかけて見学した後、夕方から“フグジム・ブジグ・ドンド”という国立の技術専門学校を訪ね、矢崎先生の講演が行われました。この学校は6才くらいから16歳くらいまでの音楽・舞踊を専門とする才能のある子どもたちの学校で、ヒシグスレンさんはこの学校の先生と友だちで、金子みすゞについて何度もお話されているとのことで生徒たちもみすゞの作品をよく知っているようで、たいへんな歓迎をされました。講演後、生徒さんたちがコンサートで、詩の暗唱のほか、弦楽四重奏、馬頭琴四重奏、吹奏楽、オルティンドー、モンゴル舞踊、など見事な演奏と踊りを披露してくださいました。すてきな子どもたちでした。またそのクラスの10年生(16歳くらい)の生徒たちが,金子みすゞの詩についての感想を書いてくださった中から、そのいくつかをご紹介したいと思います。

○ “大漁”の詩で、村の人々がたくさんの魚をつかまえて、村のみんなが喜びました。

でも魚たちは悲しんでいます。この詩を読んで、笑いのうら側に悲しみがかくれていと 言いたいと思います。(ムンフツェツェグ、女)

○ “大漁”の詩で、村の人々がたくさんの魚をつかまえて、村のみんなが喜びました。

でも魚たちは悲しんでいます。この詩を読んで、笑いのうら側に悲しみがかくれていると

言いたいと  思います。(ムンフツェツェグ、女)

○ “こころ”の詩。お母さんは息子を可愛がっています。

息子はお母さんより大きなことを考えます。

お母さんは息子が大好きだから、自分の息子を可愛がる時は

お母さんの優しさを感じます。(ガンビレグ、男)

○ “みんなをすきに”という詩は、だれでも何でも残らず好きになって、

尊敬していることが、ほんとうに感動しました。

だからみすゞさんの“みんなをすきに”という詩はとても気に入りました。

(エンフゾラ、女)

○ みすゞさんの書いた詩を読むとき、ぼくの心の中にいろいろな考えが残りました。

ふつうのことなんだけれど、人々があまり気がつかないことをとくべつな考えで

心の中に深く残るように書きましたね。

ぼくが読んだ全部の詩が気に入りました。ぼくはいつまでも忘れないです。

ありがとう。(シュテーン、男)

帰国後、留学生と一緒に感想を翻訳して、記念館にお送りしたところ、草場さんから「みすゞの詩がまさに人間の詩で国境を超えるということを感じさせてくれますね。」といううれしいお返事をいただきました。今回の旅をとおして、モンゴルの人たちのあたたかさや貴重な文化にたくさんふれ、また金子みすゞがモンゴルの若い人たちの中に、少しづつ広がりはじめていることを知ることができて、とてもうれしく思いました。よい旅をともにし、お世話になったみなさんに、あらためて感謝の気持ちをおつたえしたいと思います。

 ノロヴバンザトの思い出 その34                          (梶浦 靖子)

モリン・ホール学習への批判

ノロヴバンザドのレッスンと歌舞団の発声練習や、モリン・ホールを習うなどで、劇場に足しげく通うようになった頃、気温もようやく緩み、冬から春へと移りつつあった。しかしモンゴルで春といえば一年でもっとも厳しい季節とされている。雪は溶けるというより干上がって消えていき、草木もまだ生えそろわず、家畜の餌に困るのだ。むき出しになった地面の上や砂を風が舞い上げ、髪や衣服、鼻の中まで土ぼこりにまみれてしまう。 ある日、劇場の廊下で人と立ち話をしている発声トレーナーに会った。あいさつをし、何か珍しいことはあったか?とやりとりをすると、「アリオンボルドにモリン・ホールを習っているんだって?」と尋ねるので、そうですと答えた。するとトレーナーは何やら不満そうな表情をしでこう言った。

「そういうことをする人間を、モンゴルでは○○と言うんだ」

残念ながら、どのような文言で何と言ったのか忘れてしまった。ともかく、「二兎を追う者、一兎をも得ず」に似たような、あれこれと手を出しすぎる人間を批判する意味のことわざだった。ご存じの方にぜひともお教えいただきたいところだ。つまりトレーナーは私の行動を不面目で、モンゴル音楽を軽視する態度のように思ったらしい。オルティン・ドーを習う片手間でモリン・ホール奏者にもなれると思っているのか?どちらも才能がなければマスターできるものではない、モンゴルの音楽を見くびるな、と言いたかったようだ。私はあわてて、音楽民族学関連の文献や授業からかき集めた言葉をつなげ合わせ、次のように弁明した。

「私は歌手と楽器奏者の両方になろうとしているのではなく、オルティン・ドーとモリン・ホールの習得を安易に考えているわけでもありません。モンゴルの音楽を研究する上で、その中のいろいろなジャンルを見渡すことも必要なんです。オルティン・ドーのことを深く知るには、伴奏楽器であるモリン・ホールのことも知っておく必要があります。そうすることでしか見えてこないものもあるかもしれません。楽器の奏でかたを知らなければその楽器の全体像や音楽の世界も見えてきません。歌を習いながらモリン・ホールの実技も学ぶのはそういう理由からです。」そう話したつもりだが、モンゴル語としてきちんと伝わったかどうかわからない。 トレーナーは怪冴そうな表情をしただけで、それ以上は何も言わなかった。いい加減な気持ちでやっているわけではないことだけは理解してもらえたのではないかと思う。

インドの例との違い

異文化の音楽を調査研究する者は似たことをしばしば経験するようだ。岡田真紀氏は小泉文夫氏が南インドでヴィーナという楽器を、北インドではサーランギという楽器を研究した際のことを取り挙げている。小泉氏は現地でそれらの楽器の実技を習ったが、インド音楽の全体をつかみたいと思い、他の楽器や声楽も習ってみたり、舞踊のための楽曲における体の動きと曲のリズムとの関連に興味を持ち、舞踊を習うなどしたという。小泉氏のそうした行動は、気が多く、インド音楽に対する敬意や愛が欠けているように受け取られ、現地の音楽家や研究活動を世話したインド政府の批判を受けた。小泉氏はインド政府宛に手紙を書くなされたらしい(『世界を聴いた男』平凡社 135~138 頁)。 音楽文化を継承する当事者と、その音楽を調べようとする者との根本的な違いがこうしため尽くそうとするインド人の国民性」(同上 138 頁)があるようだ。音楽に取り組む姿勢にも 「どうあるべき」という保守的な考え方が強いのかも知れない。音楽を調査する者は、自身の行動が調査の対象となっている人々にどう受け止められるか配慮する必要がある。そのことを「原罪のように常に自分に突きつけていなければならない」と岡田氏は指摘している。調査する立場からすれば、小泉氏の行動は当然で必要なことと考えられる。しかしまた、調査する者は、その音楽を継承する人々の考え方や伝統、慣習のありかたを考慮しながら、モンゴルの場合は、こちらの事情や考え方を話せば、100%理解するのでなくとも「それな りの考えがあってやっているらしい」と納得してくれるような、鷹揚で柔軟な様子がうかがえた。見知らぬ旅人をゲルに迎え入れ、食べ物や休息を提供してきた草原の習わしが、よそ者の異質な行動も寛大に受けとめさせるのかもしれない。また、モンゴルの社会全体が、20 世紀初めの革命により代々受け継がれてきたものが追い やられ、未知のものを受け容れた記憶が鮮明なこともあるだろう。もっと言えば、モンゴル 帝国時代に、異文化、異民族のるつぼを体験した記憶が、そうした寛大さを育んだかもしれ ない。ともかく、モンゴルの人々のそうした性質のおかげで、私は歌と楽器両方を習う際に小泉氏のような苦労は少なく済んだ。むしろその当時は上述のようなことまではさほど考えず、あの小泉先生と同じような問題に自分も直面することができたと、ややミーハー的に喜んだりしたものだった。                                                                                                            (つづく)

 写真展ご案内

 

 意見広告デザイン賞受賞報告

言葉と文字の深い関係を表現したデザインをタイボグラヒィと呼びます。

そしてその表現は絶えず変化している。

日本人は誰もが、被災地で自分に何が出来るかを考えています。

気仙沼で糸井重里さんが目にした言葉。

「最も強い者が生き残れるのではなく、最も賢い者が生き残れるのでもない。唯一生き残るものは、変化するものである。」

ダーウィンの「種の起源」が筆書きされ、神棚にかけてあるそうです。

僕も奮起して筆書きし、受賞者に贈りたい。

 編集後記

季節が一歩すすみ、寒くなりました。モピ通信131号お届けいたします。モンゴルの新聞に掲載した意見広告、2012年度のデザイン賞を受賞しました。

受賞者、受賞作品が一同に纏められた立派な本がモピ事務所に届けられています。モピ例会時にご覧下さい。

2012年の黒板配布の報告、梅村 浄さんの東京・ウランバートル3000キロの続きは、紙面の都合で132号になりました。ご了解ください。

(事務局 斉藤生々)

 

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