■NO 139号 モピ通信 特別号

 モンゴルウドリーンソニン新聞記事翻訳(小林 志歩) ◆ 特別号

ウドリーンソニン紙 2013年6月19日記事

モンゴル新聞に掲載された記事を、会員の小林志歩さんが丁寧に翻訳してくださいました ので、掲載させていただきます。インタビューはもっぱら日本語でおこなわれ、その後、モ ンゴル人記者によりモンゴル語の記事にされました。そのため、わたし自身の語った意図と ややニュアンスが違っているところもあります。たとえば、モンゴルではこれまで文献学が 主流であり、現地調査にもとづく民族学・文化人類学の研究は少なかった、という文脈のと ころを、小長谷一人がやってきたような回答になっているなどです。なにとぞご容赦いただ きますようお願いします。                                           (小長谷有紀)

モンゴルに行っていなかったら、普通の日本人だったことでしょう。

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モンゴル研究者の小長谷有紀さんが、日本国政府の褒章のひとつである紫綬褒章を受章され、 その後にインタビューした。現在、大阪市にある国立民族学博物館で研究を行う傍ら、モンゴル パートナーシップ研究所という市民団体を主宰している。

―何よりまず、国から権威ある褒章を受けられたこと、おめでとうございます。
今回受章された褒章について、教えていただけますか。

「日本国の褒章は、リボンの色ごとに意味が異なります。社会を啓蒙し、教育文化に寄与し た人に『紫綬』、人命救助に功績のあった(わが国のショダラカヨス=正義メダルに相当) 人に『紅綬』、科学技術分野で新しい発明等をした人を『藍綬』、個人の財産を社会福祉の ために寄付した人に『黄綬』、とそれぞれ褒章が授与されます。この春の褒章では、日本全 国で紫綬褒章を受けた20人のうち、女性は4人(訳注:実際は2人)でした。秋にも授与 されます。多くは、化学や生物学、数学などの理系でしたが、唯一、人文系からの受賞者が、 私でした。皇居で行われた授章式(訳注:授賞の手続きを伝達式といい、その後、皇居で拝謁する) に参加して来ました。モンゴルを研究して30年あまりになります。1979年、22歳の とき、政府間の交換留学生としてモンゴルに渡った初の女子学生でした。当時のモンゴルは 社会主義でしたから、自由に動き回ることは許されない時代でした。私は地方の生活や遊牧 文化、普通の人々の暮らしをこの目で見、体験したくてならなかったのに、スパイと同一視 され、自由に地方を訪問することもままならない。ただ授業で学びながら、孤独を感じまし た。モンゴル人と日本人は、顔立ちは似ているが、行動様式や習慣は全く違う。京都大学で 地理学・歴史学を学び、モンゴルに渡った私ですが、許可されたのは、モンゴル国立大学で モンゴル語を学ぶことのみでした。スタートとしては、それはそれで、良かったのでしょう。 言語を全く知らないのだから、まずそこから入るべきです。まずはモンゴル語を学んで帰国 しました」

 

―あなたは、学生寮で学んでいた頃、同室の女子学生と窓を開けるか
閉めるかで毎日けんかするうちに、モンゴル語が話せるようになったと聞きました。
遠慮深いところのあ る日本人にとって、ストレートに思いをぶつけることは、
初めのうちは大変でしたか。

「(笑いながら)そうでした。しかし、時間がたつうちに、相手に心を開いて全力でぶつか ることの大切さを理解しました。思いを伝えるために、われ知らず言葉が出てくるようにな るものなのだと初めてわかったのはこのとき。その女子学生の話すことは普段はよくわから なかったのですが、けんかのときだけは何を言っているかよくわかるようになった。モンゴ ル語で夢を見るようになったのもこの頃からです」

 

―その女子学生とは、今でも付き合いがありますか。

「付き合いはありませんが、今どこで何をしているかは知っています。満州について研究す るブリヤートの方です。当時の学生は子どもがいる人も多かった。ひとりの若者が私に言い 寄ってきて、しつこいので『子どもができたらどうするの?』とはっきりと尋ねたら、『心 配ない、ここで産んで置いて行けばいい』。モンゴル人には、本当にストレートに話さない と誤解されると、はっきりわかりました。日本人は遠まわしに伝えるでしょう」

 

―彼はあなたに恋していたのですね。

そうでしょう。当時は、私も直接、好きではないと言えなかった。私も彼を好きだったか も…。でも付き合うことはできないと伝えるために、『子どもができたらどうするの』と言 ったの」

 

―モンゴル人のように、ストレートに話すことを学んだのですね。このように、自分の 思いをはっきりと表わせるようになったことは、モンゴル語上達につながりましたか。

 

「そのとおりです。わたしは言語学者ではなく、モンゴル人の伝統や遊牧文明の研究者で、 同時に人々の思いや習慣について研究していますから、このようにモンゴル人とさまざまな 思いをぶつけあって、人間関係のただなかにいたことはとても良かった。1年間の学生生活 はとても有意義でした」

 

―帰国してから、日本人と話す際に、何か困難を感じたことはありましたか。

「モンゴル人と仕事をしていると、時々日本人のやり方を捨てることが必要になります。彼 らの心をつかむには、モンゴル人のように振る舞うことが求められる。日本でさまざまな会 議や集まりに参加する際には、モンゴル研究者といってもモンゴル式に気持ちをぶつけては いけない。だから、わたしの心にふたつの灯りがあるようなもので、日本にいるときは日本 の灯りを、モンゴルではモンゴルの灯りのスイッチを入れます」

―日本で生活する私たちモンゴル人にとっても、ためになる話です。 
「水を飲んだら習 慣に従え(郷に入っては郷に従え)」でしょうか?

「それが正しいように思います。だんだん環境に慣れるうちに、人は知らないうちにそうな っていくようにも思います。さもないと、その社会に適応していくのは難しいでしょう。モ ンゴル研究者の多くが言語を研究するなかで、私だけがモンゴルの地方の暮らし、遊牧民の 文化の研究を続けてきました。外部の人の目に、自分たちがどう映っているかということは、 モンゴル人にとっても興味深く、地方の人が都会の生活を知らないのと変わらず、自分が中 にいると気付かないことが多いものです。モンゴルについての私の著書は、北京や内モンゴ ルの学校でも教科書になっています。これをキリルにしたものをモンゴルで出版します。間 違いがあれば、教えてください。たくさん本を書いていますが、特に興味深いものになりそ うです。人類の文化史を、モンゴルの地方の生活と関連付けて書いたものです」

―学生時代のもっとも楽しい、笑える思い出などあれば、聞かせていただけますか。

「逮捕されたこと(笑)。当時、社会主義時代のモンゴルでは、資本主義国の人は、40キ ロ以上離れた場所に行ってはいけないという規則がありました。しかし、地方に行きたくて たまらなかった私は、別の日本人学生と一緒に、北に向かう汽車に乗ってチョイルまで出か けました。40キロの境界をはるかに越えています。1980年頃、自動車はほとんど走っ ていなかった。ガラスのない貨物列車に腕で顔を隠すようにして座り、草原の駅で降りて、 牧民のゲルに行きました。おばあさんがひとりいました。馬に乗り、わずかながら、草原の 暮らしを体験することができました。首都に戻ると逮捕され、内務省に呼び出されました。 もうひとりの学生はモスクワに行ってしまったので、私ひとりです。さまざまなことを質問 されました。資産はどのくらいか、家畜は何頭所有しているか、ゲルは持っているか、余剰 のゲルはあるか、など尋問を受けました。資産なんてまったくありません、と言いました。 何もわからない、ひよっこの学生でしたから、すごく怖くて我を失いそうでした。彼らは、 即刻帰国せよ、と言いました。本当に怖くて泣きそうでしたが、この人々と渡り合うには言 わなきゃ負けだ、と思って、『わかりました。しかしあなた方が私を帰国させれば、日本で 学んでいるモンゴル人学生も帰国させられる。本当にそれでいいのですか』。私は生まれて 初めて、はったりで挑みました。何とかしてモンゴルに残るためです。そうすると、彼らは 『わかった、わかった。それなら留まりなさい』と。この出来事は、私にとって生きる上で の大きな教訓となりました。モンゴル語だけを学ぶのではない、今後もモンゴル人とどのよ うに関係を気付き、話し合い、けんかをすればいいか、ということに関して、この経験から 多くのことを学んだのです。学生としてモンゴルで過ごした1年間は、教科書だけでなく、 生活そのものから学んだ月日でした。女性が地位を築き、男性と肩を並べて仕事することが困難な日本に戻り、どのように仕事をし、自分の地位を築いていくかの基盤を、モンゴルで 学んで帰ってきたと言えます」

 

―あなたは知識層の家庭で育ち、わがままだけれど成績優秀な女の子だったと
聞きました。モンゴルで独り立ちし、さまざま経験をして帰りました。
その頃身に付けたことは、 現在もあなたの生活に生かされていますか。

 

「何も知らない女の子がひとりで国境を越えて学ぶということが当時は特別だったのでしょ う。この度の受章も、社会・文化の分野ですが、女性の受章者は本当に数少ないのです。人 より秀でるためには、普通の人の何倍も努力することが求められます。周囲の人と調和し、 けんかもしながら、互いを理解し、学び続けるうちに、人の行かない道を切り開き、不可能 を可能にし、過去になかった研究をしたことが、価値ある受章につながったと思います。 日本社会では、上層部がダメと言ったら何もできない、すべてが細かく計画され、すべき仕 事の範囲が明確にされているので、求められる以上の努力をしないところがあります。モン ゴルの広い草原で、道がなくても道を開きながら走っていくのと同じく、モンゴルの人々は、 可能性がないなどと考えない。何とか方法を見つけてモンゴル式に対処する。このような生 活の知恵を、私はモンゴルから学びました。モンゴル人は人に左右されることなく、ひとり ひとりの人生を歩んでいるように見えます」

 

―社会主義下のモンゴルで学んだあなたにとって、現在と比較して最も大きな相違は何 だと感じますか。

 

「当時は皆が、等しく幸せに暮らすべきだという考えがありました。社会をよりよくするた めに、個人も良い暮らしをするべきだと言われていました。 社会が求めることに少しでも外れ、反対することをすれば、厳しく取り締まれるのだという ことを経験しました。そのために、挫折を味わい、酒に溺れる人もいました。一転して、現 在はまったく違い、平均的な暮らしより、非常に裕福であるか、本当に貧しいかという隔た りが大変大きくなっています。国や社会のために、というより、個人が自分の利益のため、 お金を得るためにと横柄になっているように思えます。社会主義でない現在においては、貧 富の差が生じるのは当然のこととはいえ、お金を持っている人からは応分の税金を支払わせ る必要がある。かつてのモンゴルで寺院を建てる際に、寺院の財産制度がありました。裕福 な人々は寺院に家畜を寄進し、それから寺院の恵みとして貧しい人たちに分け与えられた。 言い方を変えれば、寺院が社会の調整を担っていた。今、ウランバートルでザハ(訳注:市 場)に行くと、日本で見かけないような高級車であふれています」

 

―当然モンゴル人の考え方も大きく変わったと...。

 

「変わらない面もあります。モンゴル人は、新しい物好きです。そうした性質は変わってい ないと思います。(運を天にまかせて)とにかくやってみる、という気概も、日本人には特 別に思えます。そうしたところは全く変わらず、そのままです。そういうモンゴル人に魅力 を感じます。何世紀も前から受け継がれてきたこうした性格は、外から見ると羨ましい限り です。私たちも学ぶべきところです」

 

―モンゴルの何が特に素晴らしいと思いますか。

「(運を天にまかせて)とにかくやってみる、という、恐れずひるまず、腕まくりして前進 する闘志をモンゴルから学んだからこそ、今の私があります。モンゴルに行っていなければ、 普通の日本人だったでしょう。このような素晴らしい褒章を受けることもなかったと思います。

―モンゴル国が発展するために欠けているものは何でしょうか。

 

「莫大な地下資源、鉱山によって発展しようとしているまさに今、政府がお金を正しく使っ てほしい、と言いたい。 日本で最大の、多くの研究者が仕事をしている非常に大きな図書館・資料館を備えた国立民 族学博物館(勤務先でもある)は1970年代の日本の経済成長期に建設されました。現在 の日本では到底できません。成長しているときに、重要なことをしっかり実行しておくこと。 モンゴル人は、過去に作られたものを保存して後世に伝えるという面が弱い。ハラホリンは あとかたもなく遺構となってしまった。貴重な文化的事物の価値を認めて保存し、未来に伝えてほしい」

 

―モンゴル研究者の木村理子さんが『タルヒニー トラール(脳の疲労)』を
出版し、 一部の人を刺激し、物議をかもしました。このことについてどう思いますか。

「彼女は仕事を通じた知り合いです。少し、大げさなところもあったのでしょうか。新聞に 寄稿したものなので、強調した書いた面もあるかと思います。彼女はもともと、チャム(訳 注:仮面舞踊)の研究者です。研究とは全く関係ないことでしょう」

 

ー できれば厳しい言葉でモンゴル人を評価していただけますか?

 

「人には厳しい言葉がひつようですものね。モンゴル人を水平な視点で見ると袋に入れた牛の角のように思えます。

モンゴル人と共同で仕事をするときに、モンゴル人同士がお互いをののしり、難儀な状態になります。ひとことでいえば、共同して仕事をする能力が少し不足している。

何か依頼しても、あの人と一緒にはできない、と言ってみたり。

しかし私には両方の人と必ず一緒に仕事をする必要があるのです。

もっと、うまく協力し合ってほしい。

私は、人を評価するときは、厳しい言葉も必要だと考えます。

彼らも自分のことをよくわかっています」

―中学校にも多くの黒板を寄贈されていると聞きました。

「1999年のゾド(訳注:気象災害)の時に、何人かの研究者がモンゴルパートナーシッ プ研究所という市民団体を設立しました。まず、ゾドの被害が多かったウブルハンガイにボ ランティアの医師を派遣しました。多くの学校で黒板が不足していることを知りました。6 0年以上たって、チョークで書くのも難しい黒板が使用されていたので、日本の黒板製造会 社と契約して、黒板を送りました。今はモンゴルで黒板が作られています。最近は、先生方 の交流を通して専門知識を磨き、経験を積んでもらうような事業を行っています。今後も継 続していきます。

人にとってお金はいつでも得られるが、お互いに直接出会い、友情を築くことは何ものに も代えがたい価値がある。国境で隔てられた国際(international)交流ではなく、国家を越 えた(transnational)友情を通じて、もっと平和な世界をつくることがとても重要なのです」

ご子息も、アジア研究者を目指して学業に励んでおられるそうだ。現在は、社会主義 時代の宣伝や広告看板の写真の収集と研究に取り組んでいるという。「だれも気に留め ないから、私が研究しているの」と、笑顔で、はきはきと話す。

大阪市にて

X.エルデネツェツェグ

(ウドリーンソニン 2013年6月19日付)

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(モンゴル国からは優秀研究者の徽章をいただきました。)

チョナイ・クランダ駐大阪モンゴル国総領事(モンゴル留学中の同窓生だった)から表彰状を手渡された。

  編集後記

モピ通信7月1日号に添付したモンゴル新聞記事、会員の小林志歩さんが翻訳してください ました。特別号として発刊することに致しました。内容が読み取れて幸です。

ありがとうございました。郵送の方々には140号と一緒に送付いたします。

(事務局 斉藤生々)

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