■NO 143号 モピ通信

■NO 143号           2013年12月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

 オンドルマー先生からの感謝状

 オンドルマー先生日本訪問に同行して

 オンドルマー先生招へい事業 (つづき)

 ノロヴバンザトの思い出 その44

 東京・ウランバートル3000キロメートル(21)

 編集後記

 

 オンドルマー先生からの感謝状

オンドルマー先生からの感謝状

セレンゲ県ズーンブレン・ソム学校                    モンゴルパートナーシップ研究所事務局宛

2013.11.11

感謝状

当校、貴機関との交流活動において、日本国を訪問し、その発展や習慣、文化を知るチ ャンスをいただいたことに非常に感謝しています。

日本の子どもたちに会い、彼らの学んでいる状況、環境、給食について知りたいと思って いた校長という立場の私にとって、多くのことを考えさせられ、またこの先やるべき仕事へ のあたらしいアイデアをいただきました。

両国の親密な関係をさらに発展させ、学校の教師たちの枠組みにおいて、交流活動を行いたいと思っています。

貴機関のメンバーのみなさん、支援している方々を、 当校にぜひお招きしたいと思います。

モンゴル国、モンゴル人について、日本で紹介してくださっている貴機関のみなさまの成功をお祈りしています。

校長 B.オンドルマー

奈良大仏殿前にて(10 月 25 日)

 

 オンドルマー先生日本訪問に同行して

(斉藤 美代子)

常に元気なオンドルマー先生は、初めての飛行機、初めての日本ということで、朝 5 時す ぎに空港であったときから、パワー全開でした。途中でつかれてしまわないかと心配しましたが、結局 10 日間、ずっとパワーダウンすることなく帰国されました。

毎日毎日が盛りだくさんで、今日程を見直すと、よくこんなに見てまわれたなあと思いま す。ズーンブレンに行かれた先生方やきばやし歯科医院の方々との再会も果たせました。京 都の時代祭、神戸の海、大阪のスカイビル、奈良の大仏さまという関西の名所も回れました。 国立民族学博物館の展示もじっくり見る機会を得ました。

オンドルマー先生日本訪問

奈良学園では日本でも 3 校くらいしかないという最先端の校舎を見学し、子どもたちと給 食を楽しみました。奈良学園の設備はあまりにも モンゴルの現状とはかけ離れているので、「子ど もはもう間に合わないから、孫の時代にはモンゴ ルの学校もこうなっていてほしい」とため息をつ かれていました。ただ、ウランバートルにある私 立学校は奈良学園よりも授業料が高い学校もあ るのです。モンゴルで起きている最近の価格の人 為的高騰が教育分野にも及んでいること、価格と それに見合ったサービスや品質のバランスが取 れていないこと、モンゴルにいれば、こんなもの か、で過ごしてしまいがちなことも、そうではな いのだと実際に見ていただけたと思います。

先生は、帰ってみんなに話さないといけないから、と言って、これは何?こういうこと? と質問をしては、納得し、自分の iPad で解説入りのビデオを撮っておられました。今回体験 したことを家族だけではなく、学校の先生や生徒、ソムの人々にも伝えるそうです。

また、先生は料理を作るのが好きだそうで、すべての 食事を写真に納め、モンゴルで作れそうなものについて は、作り方をメモしておられました。唯一先生がだめだ ったのはイカでした。10 本足を想像するとだめなのだそ うです。

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⇧(普段日本人が食べているものをという

希望でしたので毎日 ごく普通の献立で・)

帰りの飛行機の中で、日本の何が気に入った?という質問してみたところ、「この上なく気 に入ったものが 3 つあるわ。1 つ目は道路。経済的な効果ももちろんだけど、普通の人々の生 活は道路がいいということで時間にゆとりができている。それが心のゆとりにもつながると 思う。2 つ目はトイレ。どこに行っても清潔できれい。これは戻ってから学校でせめて手洗い 場をきれいにしたいと思った。3 つ目は人々が何か小さなことでも一生懸命に打ち込んで、そ の成果に満足していること」とおっしゃっていました。3 つ目は最終日に見た民博のイベント でのモピスタッフの姿からそう思われたのかもしれません。

先生の招待に関わってくださったすべてのみなさまに私からもお礼を申し上げます。先生 の経験がまたズーンブレン・ソムの子どもたちに伝わっていくだろうと思います。また、モ ピのみなさんがモンゴルに来られて、先生始め、ソムの子どもたちに会いに行くお手伝いが できればと思っています。

 

 オンドルマー先生招へい事業報告 (つづき)

(畑中 美智子)

オンドルマー校長先生との再会。5年前と同様、みんなを包み込むあの笑顔が・・・。

伊藤さんや山田さんともお会いでき、5年前にタイ ムスリップしたようでした。校長先生からあの時のか わいかった子どもたちが医者や検察官、物理学者の道 を目指しているとお聞きして、時の流れを感じるとと もに、志の高さに驚きました。

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5年前、ズーンブレン小学校プロジェクトに参加さ せていただいてから私は、和泉市内の小学校に、モン ゴルの話の出前授業をボランティアで続けています。 5年間で約3000人の児童に話をしたことになり ます。2年生で5クラスもある学校だと5時間も続けて話すので体力はいりますが私のほうが元気をもらって帰ることになり楽しいです。「モン ゴルに行きたくなったよ」「楽しかった。また来てね」なんて言ってもらえるからです。

授業の内容はというと、デールを着た私が「サィンバイノー」と言って教室に入ります。 子どもたちは「馬頭琴は本当に馬の形してるわ」「馬頭琴は思っていたよりでっかいなー」な ど言って釘付けです。次に私が馬頭琴を弾いてみるがいい音が出ません。そこで子どもたち には机に顔を伏せてもらい、あたかも私が弾いているようにしてCDの演奏を聞いてもらい ます。馬頭琴の音色を初めて耳にした子どもたちはその迫力ある音色に聞き入ります。

「馬が草原を駆けているみたい」「馬の鳴き声がする」など感想を言ってくれます。それから男女ペアでデールを着たり、ミニチュアのゲルで扉の開け方や仔馬の抱き方を説明したり します。さらにモンゴルの人は家畜のなかでも特に馬は大切に思っているなど「スーホの白 い馬」の読解に繋がることも付け加えて話をしています。

また、モピ通信から得た新しい情報、例えば美代子さんのお子様のお話で『文字はボールペ ンを使用する』『学校はゴイ(楽しい)』『家庭学習の時間は5時間くらい』なども話題に入れ させてもらっています。今年もオファーが来ているので先日のオンドルマー先生との再会の 話をさせてもらうつもりでいます。

このようにモンゴルや皆様と出会えたおかげで、子どもたちとの繋がりをいただきました。

 

 ノロヴバンザトの思い出 その44

(梶浦 靖子)

実家からの物資

渡航してからずっと、二ヵ月に一度は日本の実家から物資を送ってもらっていた。レト ルト食品、インスタント食品、お菓子などだ。たまにシャンプーやリンスも送ってもらっ た。モンゴルで売っているヨーロッパ製品では髪がガサガサになるのだ。トイレットペー パーもである。モンゴルでは手に入りにくい時があった。

社会主義の名残りで、外国からの荷物は受取人が税関まで取りに行くのだった。市の西 端にある税関までは、スフバートル広場の裏手からバスに乗って行く。荷物を持ち帰るた めのカートか大きなバッグを持参しなければならなかった。税関窓口では荷物を開封され、 中身のいくっかについて、これは何だ?と詰問されてからようやく受け取れる。持参した バッグに中身をその場でつめ直し、担ぐかカートに縄で縛りつけて運ぶ。外側のダンボー ル箱もたたんで持ち帰った。

ある時、荷物にビデオテープが入っていた。日本のテレビ番組を録画してもらったのだ。 すると税関の係員が、これはいったん預かると言った。お前は悪いものを輸入する人間で はないと思うが規則だから、と、すっかり顔見知りになっていたその係員は言った。調べ るから明日鉄道の駅で受け取りなさい、と言われその日は帰った。

翌日、言われたとおり鉄道のウランバートル駅に行った。奧の部屋に案内され、駅員が 大きな金庫から一件のビデオテープを取り出し、こちらに手渡した。包んでいたビニールは 開けられた様子もない。ただ、こちらに運ばれて金庫で一晩寝かされただけらしかった。 すっかり形だけになった手続きが、何とも可笑しく思えたものだった。

 

荷物運びを手助けされる

荷物を持ってバスに乗り寮に帰る際、毎回必ず通りすがりの人が荷物を運ぶのを助けてくれた。荷物を抱えてバスに乗る時、降りる時、まったく見ず知らずの人がさっと手を出 して荷物を一緒に持ってくれた。男性が多いが女性も持ってくれることがあった。カート を引いて歩いていると、必ず手伝ってくれる人がいた。二十代から五十代初めくらいの男 性が多かった。

こういう場合、他の国では用心しなければならないかもしれない。持ってあげると言っ てそのまま持ち逃げされたり、あとで運搬料を請求されるかもしれない。ところがモンゴ ルでは本当に運んでくれて、謝礼も要求されなかった。持とうか?と声をかけてきて、こ ちらが返事をしないうちに持ってしまい、どっちに行くんだ?と言うのだった。

運びながら、どこの国から来たんだ?いつ来たんだ?モンゴルはどうだ?故郷が恋しい だろう?などと気さくに話しかけ、寮の玄関に着くと、じゃあな!と行ってしまうのだ。 自分の電話番号を書いて渡してきた人は一人くらいしかいなかった。金品が目的ではなく、 女性に声をかけたいからでもない。本当に親切のための親切だった。モンゴルの助け合い の精神には何度も驚かされた。

 

配給が始まる

この年の秋、まだ雪が降る前のある日、エンフタイワン通りを歩いていてぎょっとした。二頭の大きなシカが、街路樹の葉をむしゃむしや食べていたのだ。二頭ともそばの木の一部と見まがうような大きな角を生やしていた。地面から頭のてっぺんまで2m近くありそうで、あまりの大きさに一瞬、怪獣が出現したかと思ったものだ。

これが日本なら大変な騒ぎだろう。あちこちで悲鳴が上がり、警察や消防やレスキュー隊や、いろいろ出動するに違いなく、大捕り物となってニュースで報道されるだろう。

しかし道行く人は誰一人驚きもしていない。立ち止まって見入っているのは私だけだ。

杖を突いたデール姿の老婆は、シカを見ておや?という顔をしたが、興味なさげに通りすぎてしまった。

木の葉を食べに来ただけで、満腹したら山へ戻ってしまうと皆知っているのだ。モンゴルの人々は概して動物に強い。馬と親しくつき合い、家畜を飼いならしてきた遊牧民の血のなせるわざなのか、動物を恐れることがあまりない。犬でも、けっして人に飛びかからないように手なずけてしまう。シカの件がニュースになった様子はなかった。日本でも動物が街なかに出現した事件はあるが、日本人が動物を怖がりすぎて騒ぎを大きくしていることもあるのではないかと思えた。また一つ日本とモンゴルとの違いを見せられたことだっ

た。けれど、シカが街まで降りて来るのは山に十分な食料がないということだ。今にして思えば、その後モンゴルに起こることの前触れだったかのような気もする。雪がちらつき始めたある日、食料の配給制が開始されたのだ。

肉、小麦粉、米、酒、砂糖などが配給の対象となり、留学生にもその受取のための書類が配布された。少し前から、経済危機や混乱のことを耳にするようになっていたし、店からは品物が減ってきていた。食料品店では、今日はキャベツがない、次の日はニンジンがない、ということが続き、やがてジャガイモしかなくなった。商品棚にはヒマワリ油のボトルだけが横一列に並んだ。衣料も入ってこなくなり、国営百貨店の売場もがらんどうに近くなった。

物価も跳ね上がった。留学生は毎月つつがなく暮らせるだけの給費をモンゴル政府から支給されていたが、それがあっというまに、わずか一、二週間の食費程度の価値になった。

皆、手持ちの米ドルを切り崩し換金しなければならなくなった。

学校の試験か何かでノロヴバンザドのクラスは休みになっていた。今後の予定を伺おう と私はノロヴバンザドに電話をかけた。配給の件に話がおよび、彼女が、 「暮らしはどう?変わりないの?」と尋ねたので、私は思わず、 「私たち留学生は貧しくなってしまいました」 と答えた。するとノロヴバンザドは、 「なんですって?あなたがたは貧しくなってしまったの?」 と聞き返してあっはっはと笑い、 「それなら家にご飯を食べに来なさい」と明るく言うのだった。留学生は日本の実家からの物資もあったし、知り合いのモンゴル人が助けてくれたり、日本大使館の人から野菜を分けてもらったりして、ほとんど配給に頼らずに済んだ。

ノロヴバンザドのクラスでいつも伴奏をしているモリン・ホール奏者のI.ツォグバド ラハ氏も私を自宅に招いて食事を振る舞ってくれるようになった。ご夫人の作ったバンシ (モンゴル風水餃子)をお皿に山盛りにして、さあ食べなさいと出してくれた。親類の牧民の家から肉を送ってもらっているので食べるには困らないと言うのだ。 「モンゴル人は最低限、肉と塩と小麦粉があれば生きていける。今くらいの混乱はどうということないさ。本当に困っているのは牧民につてのない人だけだよ」 ツォグ氏は明るくそう言ってヒツジ肉の脂身をかじり、私にもっと食べるようにすすめ た。ほんのひと冬だけならそうだったかもしれない。しかしモンゴルの経済危機はあと数 年続いた。とはいえこの頃は、モンゴルの人々やいろんな人に助けられて、留学生たちはさほど大きな影響は受けずに済んだのだった。                                                                                                             (つづく)

 

 東京・ウランバートル3000キロメートル(21)

-カザフ絨緞の顛末 –

(梅村 浄)

<カザフ刺繍に魅せられて>

ウルギーへの旅を書く時、参考にしたウェブサイトがあります。「ケステ」というこのサイトの名前はカザフ語で刺繍という意味ですが、カザフの人々の衣食住文化が、若い女性研究 者の目を通して、様々に描かれています。カザフ人の住居ウイと冬の住居について書いた時 に、管理人の H さんにメールを出して、やりとりをするようになりました。彼女はカザフ刺 繍に魅せられて、カザフ人の先生の元に、習いに通っていることを知りました。

私はといえば、1 年間ウランバートルに住み、さて、帰国前にお土産を買って帰ろうという 時に、友人から Mary&Martha というカザフ刺繍の店を教えてもらった時が、初めての出会い でした。この店は WFTO(World Fair Trade Organization )の表示をしています。フェアト レードとは、「公平な貿易」と言う意味です。アジアやアフリカ、中南米の、途上国と言わ れる国や地域の人たちが作ったモノを長期的に、適正な価格で買って、人々の生活をサポー トしようという仕組みです。当時はノミンデパートの並びにあるビルの地下に降りて行った 一画にありましたが、昨年、引っ越して広い店舗を構えるようになりました。

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Mary&Marthaのクッション 2013年11月24日 梅村浄撮影

赤、ピンク、みどり、オレンジ、紫と色とりどりの糸で花 や星形、抽象的な図形を繰り返し刺繍した壁掛けや、バッグ、 クッション等が目を惹きました。その華やかな彩りは、一つ のアクセントとして日本の暮しにもとけ込むデザインで、家 族や友人達にも喜んでもらえるものでした。

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カザフゲルの内部 2013年8月12日 梅村浄撮影

ウルギーに行ってウイ(カザフゲル)を訪問する 機会がありました。そこではゲル内全部が刺繍布で 飾られているのを見ました。娘が結婚すると母親は、 1年間のうちに家財道具一式を揃えて娘に与えなけ ればならないそうです。ウルギーは雨が少なく、緑 が限られています。一歩ウイに入ったら溢れるよう な色彩の中での暮しは、どんな感じがするものでしょうか。

<カザフ絨緞の顛末>

私は以前から、こども診療所で子どもたちが遊ぶ時に床に敷くモンゴル絨緞が欲しいと思っていました。ネットで購入しようとしたこともありますが、せっかくモンゴルに行く機会 があるのだからと、やめておきました。今年の夏、ノミンデパートの絨緞売り場をのぞいて みたのですが、すっかり製品化されている風合いに気持ちが引いてしまって、そのまますご すごと帰ってきました。

ウルギーで障害児センターの職員と一緒にハイキングに行った時、ピクニックシート感覚 で絨緞が使われているのを見ました。薄いフェルトの絨緞を何枚も車に積んで出かけ、風よ けテントの中に敷いて「さあさあ、ここで休みなさい」と勧められました。皆が火を起して 料理している間、私と涼は寝袋にくるまって昼寝をしましたが、地面からの冷たさを絨緞は遮ってくれました。もちろん、刺繍はここにもありました。

ノルカ医師の家に招待された時には、ペルシャ絨緞 とカザフ絨緞が敷き詰められた床に、食事用の布が広 げられて、その上にご馳走が並んでいました。

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絨緞の上に並んだご馳走 2013年8月14日 梅村浄撮影

ケステの管理人である H さんは、帰国後カザフ刺繍を日本で紹介するために展示や、ネッ ト販売を計画していることがわかりました。自分では購入して持ち帰ることができなかった カザフ絨緞を送ってもらえないだろうかと頼んでみました。

「私は、絨緞は扱いません」

というのが返事でした。というのも、以前持ち帰った絨緞を夏中不在のまま、自宅に放置し ていたところ、虫が湧き、絨緞だけではなく畳までボロボロになってしまったということで した。おそろしい。そのシーンを想像して、私も一旦は諦めました。

そうこうするうちに、彼女が絨緞を探して、写 真を送ってくれました。カザフの柄が刺繍され た 1×1.8m の中古品です。

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カザフ絨緞 2013年11月1日 Hさん撮影

心が動きました。しかし、虫はどうしたら駆除 できるだろうか、それが問題です。ネットで検 索しているうちに、国立民族学博物館の S さんが、博物館で展示する民族資料を高温処理、低温処理をして殺虫している論文を見つけまし た。薬を使わないので安全そうです。しかも、高温処理は夏場の車内に放置すれば 70°Cにな るので、それで虫は全滅するという内容です。さっそく、モピの小長谷有紀さんを通じて S さんに連絡をとり、個人でもできる殺虫方法を教えてもらいました。

さらにこの絨緞の上に子どもが座ったり、這ったり、舐めたりした時に、細菌やウィルス がついていたら病気がうつらないだろうか?と小児科医としての心配が湧いてきました。そ れを伝えると、S さんが東京にある消毒会社の研究員 K さんを紹介して下さいました。

絨緞が着いたとメールで知らせたら、5日後にはKさんが絨緞を見にきてくれました。

ちょ うど昨日のことです。私も初めてカザフ絨緞に対面しました。

「いやあ、これは日本では初めてみるなあ」
と、K さんは写真をパチパチ。裏側はくるくる巻いた羊の毛がフェルト状に押し固められてい ます。表側は梳いた羊の毛で作ったフェルトの上に、カザフ模様がしっかり刺繍されていま した。ところどころに枯れ草もついています。

「ウルギーがやってきた」って感じで、私はまごまごしてしまいました。数千キロの彼方 の暮しが絨緞に乗って飛び込んで来たので、どうしていいか分かりません。細菌やウィルス の心配は単にその象徴かもしれません。工場で製品化された絨緞は日本にでもある安全なも のです。これは荒々しく、牧民の暮しそのものだから、危険なものに感じられるのでしょう。 「人間がこの上で生活していたんだから、だいじょうぶですよ」 日本とは限らず、世界の文化財を喰い荒らす虫と長年付き合い続けてきた K さんのことばに、 励まされました。絨緞はダンボール箱に戻した後、透明ビニール袋 2 枚で包んで、端をガム テープできっちり留めました。低温の部屋で管理し、今後の消毒方法については K さんから の指示をまっているところです。                                                               (2013.11.26)

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 編集後記

2013年度最後のモピ通信をお届けします。今年は秋が短く、いきなり寒い季節になり ました。気候も人の営みも、何か変だと思うことの多い一年でしたがMoPIは、年度初めに、 小長谷理事の紫綬褒章授章、モンゴル国文化勲章授章とめでたくうれしいことから始まりました。オンドルマー先生招へい事業も、無事に終えることが出来ました。

おかげさまです。ありがとうございました。

最近MoPIには、ホームページを見たという人から多数の問合せなど入るようになっています。しっかりと世の中の波に乗れているということでしょうか・

NPOの活動は、みなさまの協力がなければ立ち行きません。

どうぞ来年も引続きよろしくお 願い申し上げます。

(事務局 斉藤生々)

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