■NO 149号 モピ通信

■NO 149号           2014年6月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

 

  新刊のご案内

『Voice from Mongolia,2014 vol.2』

《ハワリンバヤルで『やまんば』紙芝居が上演されました..その        報告

  ノロヴバンザトの思い出 その49

  現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用

  編集後記

 

 新刊のご案内

小長谷有紀先生の著書が発刊されましたので披露させていただきます。 「実践的な研究者というのは必ずしも実用的な研究をする人のことでない。基礎的な研究をして、そこからの知見にもとずいて現実社会と多目的なつながりを展開できる人を言う」これからも、ずっとめざすところである。とあとがきの文中に書いておられます。

さすが、と思うことが満載されています。

(事務局)

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 『Voice from Mongolia,2014 vol.2』

(小林志歩=フリーランスライター)

「わたしの誇りは子どもたち全員が高等教育を修了したこと。
 親が毎日休まず働く姿を見て、 みな働き者に育ってくれた」

 

 -ツェンドさん(52)、ウランバートル在住(写真右から 2 人目)

国境を越えて学ぶことは、社会主義時代から今に至る「遊 牧」モンゴルの新しい伝統と言えるかも知れない。日本への 留学数は人口比でダントツの世界一、モンゴル国の国民1万 人あたり4人が日本で学ぶ機会を得ている。わたしの住む北 海道・十勝地方は酪農・畜産がさかんで(牛が人より多い!)、 畜産大学があり、獣医学や畜産を学びにモンゴル人がやって くる。家族ももれなく連れてくることが多い。そんな一家の お母さんを紹介しよう。

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トゥグス(28)=写真中央、アリオナー(27)=左上 はともに帯広畜産大学の大学院に 学ぶ留学生夫妻。昨夏 3 人目の子が誕生、保育所に通う 6 歳、3 歳、それに赤ちゃんとの生活 が始まった。ともに研究室での実験や論文書きは待ったなしで、産後をどう乗り切ろう?ほ どなく、トゥグスの母ツェンドさんがモンゴルから手伝いにやって来た。

「ウランバートルでも、日本でも孫の世話で大忙しだよ。夫は技師だから、牛の世話を人 に頼まなきゃならないし、私以外に乗る人がいない車を車庫に預ける費用もかさむけど、子 どもたちのためだから」

自称「ばあちゃん」はやり手である。息子のノートパソコン経由でモンゴルの家族と格安 通話し、滞在中に中古車の価格交渉も何のその。「牛の世話をしないから太ってしまって」 と自転車や徒歩でスーパーへお買い物。そして買い物に出れば「絶対手ぶらでは帰らない。 すべて孫や家族へのおみやげ」(家族談)。

「わたしの父はトラックの運転手でねえ。大きなロシア製のトラックを運転する父に教わ って、初めて運転したのは 9 歳のときだったよ。免許を取ったのは随分後になってからだっ たけどね。今は渋滞で曜日によるナンバー規制があってタイヘンだよ」。

そんな肝っ玉母さんにも、苦手もある。息子夫婦の住む市営住宅の台所のガスレンジが怖 くて、どうしても点火できない。また、帯広名物「ばんえい競馬」(農耕に馬が欠かせなか った時代を今に伝える、1トン近くあるペルシュロン種の馬に重い橇を曳かせる競馬)には 「馬がかわいそうで…」と言葉少な。やはり、心優しいモンゴルのお母さんなのだった。

クリスマスの時期に自宅に招いたら、まずクリスマスツリーの枝に千円札をお供え。おも しろいのでそのままにしておいたら、後日わが家に来たママ友が目を丸くしていた。早めの お年玉をくれた「モンゴルばあちゃん」に会いにモンゴルに行かなきゃね、子どもたち。

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「今月の気になる記事」 モンゴルの今を伝える現地メディアの記事をピックアップしてお届けします。NGOセー ブ・ザ・チルドレンの統計によると、モンゴルでは出産で亡くなる女性が 600 人に1人 (2010 年現在。日本は 1 万 3100 人に1人)。今回は、現地の産婦人科事情の現状を憂う、熱 いレポートをどうぞ。

「私立病院は妊婦相手にビジネス展開」(筆者:Б.エンフトール)

保健省が今年を「母子保健推進の年」に定めると発表したことを受けて、母と子の側に立っ て問題提起をしたい。わが国は今年中に 300 万人目の国民を迎えることになる。「ぜひうち の子が」と我が子や孫の誕生をわくわくしながら待つ人が少なくないようだ。しかし、この 熱い期待に水を差し、影を落とす問題も依然としてある。

母子の立場にたった施策が不在で、無事に出産する産科病院が十分とは言えないのだ。出 産にともなう医療ミスも 1、2 件ですまない。首都、地方問わず、医師、看護師の無責任、不 注意によるミスで、母のお腹で無事に育っていた子どもが生を受けることができないケース がある。国中の何千人もの女性にとって、出産する病院の数が増えるなか、政治決断が待た れる事態が続く。

現在、家庭で出産する人もいる。ベッドや病室の空きがなく、病院から門前払いを食らっ たのだ。辛くても、身を守って歯を食いしばる妊婦。多くの人がひしめくなか家畜のように 這って、医師と病院にたどり着く前に出産に至る妊婦も少なくない。ベッド1台に 2、3 人が 横たわって、疲労の極みにある産婦の心身が休まらず、居眠りしてしまって乳児が窒息死す るケースさえあるという。何が必要といって、モンゴルに産科病院は必要ないというのか?

国政から見れば産科病院の問題はささいなことかも知れない。政府は人口増加を重要視し ているのだから、この問題を産科病院の運営に関わり、物申す立場にあるすべてのレベルの 意思決定者に知ってもらいたい。なぜなら出産が増え、子どもを産む年齢の人口が増えてい る現在、産科病院の不備を受けて、営利目的のビジネスが増えているからである。能力と素 質を兼ね備えた施設なら国立病院の負担を分散させるが、能力も知識も伴わない輩が母子の 健康を扱うことになりかねないとの懸念もある。こんなことを言う背景には、近年「あなた の自宅に引けを取らない快適な環境で安全に出産できます」と謳う私立の病院が十指に余る ほど増えたことがある。病院に長年勤務したベテラン医師が名を連ねる。「ゴルバンガル」 「ハタグタイ」「タニートゥロー・ビド(あなたのために)」など既にサービスを提供して いる、または開業準備中の私立病院がいくつもある。責任をもって運営されている病院では、 多くの母親が無事出産する一方で、そうとは言えないレベルのところでは、出産の過程で深 刻な状況に陥った場合は、国の産科病院やクリニックの救急病棟に意識不明に近い状態で運 び込まれるケースが増えているというのだ。(中略)

妊婦が無事に赤ちゃんを出産できる、信頼できる医師たちを備えた国立の産科病院が緊急 に必要であることを、政府のリーダーに提言したい。中略)産科病院の問題にも注意を払い、 建設途中でそのまま放置された産科病院の工事を今年必ず実施していただきたい。国内で1 年間に生まれる赤ちゃんは8万人。今年のはじめの 2 ヶ月で1万2897人が出産した。だ れもが新築の産科病院を心待ちにしている。 

「未熟児は国立病院に搬送することもある」ゴルバンガル病院・産婦人科 П.ハグワスレ ン医師 

-ゴルバンガル病院では妊婦は高額の料金を支払い出産すると聞きます。詳しく教えてくだ さい。 「うちの病院に来る方々は自らの選択で来られることをご理解いただきたい。出産の料金は 90 万~140 万トゥグルグ。さらにベッドの料金が加算されます。個室を使っていただき、ご 家族も一緒に過ごせます。室料は 5 万~13 万トゥグルグ、平均 3、4 泊で退院します。部屋に よっては室料が加算されます。また出産後に贈り物があり、衛生用品の代金も含みます」

一1日の利用者数は?あなた方の病院で出産する妊婦はどこで検診を受けますか? 「1日に50~60人が検診を受け、1ヶ月に80~100人が出産しています。2011年1月の診療 開始以来、3 千人が出産しました。ここで産む妊婦さんはかかりつけの地元医院で受診するほ か、ここでも検診を受けています。検診を受けていない妊婦は受け入れません」

―出産時に困難な状況に陥った場合は国立病院に搬送されるというのは事実でしょうか。 「出産時の困難な状況は、さまざまな理由によってもたらされます。しかし、うちの病院から産婦を国立病院に搬送したケースはありません。未熟児を搬送したことはあります。未熟 児の受け入れが可能な国内唯一の病院で、妊産婦と赤ちゃんの救急受け入れはほかにありま せんから。うちの病院から国立病院へ搬送されるとの世間の誤解があるようです。分娩が始 まって未熟児の場合は、提携にしたがって国立病院の未熟児部門に搬送されます」

「困難なケースについても責任を担う」国立母子保健センター産婦人科病院 Гバトトルガ 院長」 

―私立病院で出産して困難な状況に陥った妊婦や赤ちゃんが国立病院に搬送されるといいま す。多くは診断のついた人々でしょうか? 「私立または二次病院で対応できない、診断のつかない産婦は皆うちへ運ばれて来る。私立 病院で出産、流産したあと搬送されてくるケースもある。分娩できる私立病院自体、数は少 ないので。しかし、そうした難しいケースは出産全体から見ればほんの一部ですが、母子の 命が危険にさらされることもあり、非常にたいへんです。とはいえ、うちではすべてのケー スを治療します。昨年の数字ですが、私立病院で出産して困難な状況となり母または子が搬 送されて来たケースが 2、3 例ありました。ひとつは、流産したが子宮に一部残ってしまい、 そのことから炎症を起こして重症化した。(中略)また手術による出産の後、子宮内腔に胎 盤が残り、診断できずに搬送されたケースもありました」

―私立病院で重症となった人が運ばれ、問題が生じた場合の責任の所在は? 「手術を行う医師が責任を持って問題に対応する。産科医たちが子宮をさらったあとを他人ま かせにする道理はないはずだと思う。病気が診断されないままに重症化した場合に隠すという 問題がある。しかし、責任はすべて負うことになる。私立でも国立でも何ら変わりない。うち の病院は、どんなに重症で搬送されても、治療の結果が出ずに二次的に重症に陥った場合、わ れわれが責任を担います」 

―2014年5月8日 政治ニュースサイト POLIT.MN より http://www.polit.mn/content/41787.htm (原文・モンゴル語)

(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)

 

 《ハワリンバヤルで『やまんば』紙芝居が上演されました》..そ    の報告

(会員 瀬戸岡文子)

この連休の5月4日・5日、東京・練馬の光が丘公園で恒例(18回目)のハワリンバヤ ル(春の祭り)がひらかれました。ハワリンバヤルは在日モンゴル人留学生会が主体となっ て、さまざまなモンゴルとの交流団体・個人が実行委員会形式でサポートする、日本における最大級のモンゴルのお祭り(来場者数は2日間で5、6万人)です。

オープニングにはフレルバートル・モンゴル国大使の挨拶もあって、その後のステージで はモンゴルの民族音楽(馬頭琴、歌や踊り)やモンゴルの現代音楽グループのライブや踊り、 ファッションショーなどがつぎつぎと華やかにくり広げられ、人垣に囲まれた芝生の広場で は相撲大会トーナメントなども開催され、大相撲で活躍しているモンゴル出身力士・横綱た ちも毎年訪れて、祭りをもりあげてくれます。

会場にはたくさんの NPO のブースとともにモンゴル料理の出店もたちならび、ゲルやテン トではモンゴルデールの試着体験などもできてモンゴルムードがいっぱいにあふれます。

また公園となりの図書館でも“モンゴルカレッジ”と称したモンゴル関連の講演などもあ って、まさに多彩な東京近郊のモンゴルファンには見逃せない一大イベントになってきている ので、私もここ数年は毎年楽しみに出かけて行きます。

さて今年は知りあいの留学生が実行委員をしていたご縁もあって、タヒ(蒙古野馬)とマザ ーライ(絶滅が心配されているゴビ熊)について展示された第1ゲルで馬頭琴体験・伝統遊 び・立体パスルの体験とともに梅村さんの『やまんば』紙芝居を上演する機会をいただくこ とができて、私もそのよびこみ(?)スタッフとして少しお手伝いすることになりました。

梅村さんの『やまんば』紙芝居については、その紙芝居ができるまでのいきさつなど MoPI 通信No144にもくわしく書かれていました。つぎつぎと思いを形にしていく梅村さんの行 動力をすばらしいと思います。その紙芝居がとてもきれいに印刷されて4月にはめでたく完 成していました。

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上演は2日間にわたり30分ずつ。ゲルの中に敷き物や小さ ないすなどもちこんでのにわか舞台で、まず梅村さんの語る日 本語バージョンに続き、知りあいのモンゴル人留学生ナムーン のお母さんのトンガラクさんがモンゴル語バージョンを読ん でくれることになりました。

トンガラクさんは病気の治療のために来日しているのです が、地域のボランティア活動への参加などその前向きな姿勢に はいつもとても感心させられています。

お客さんはよびこみにひかれて来てくれた小さな子どもたちやそのお父さんお母さんたち。 ほかにも MoPI 会員の川崎さんや藤原さん、声をかけたほかの知りあいも駆けつけ、私たちが 科目履修でお世話になっている東京外大の岡田先生もご夫妻で立ちよってくださいました。

『やまんば』紙芝居は語り手のちょっと静かな語り口にもかかわらず、その迫力満点な絵 に助けられて子どもたちをとてもひきつけていました。日本語でストーリーがわかったので モンゴル語でも楽しめます。子どもたちはもちろん、大人たちにとっても初めて聞くモンゴ ル語だったかもしれません。モンゴル語のひびきはどうだったでしょうか?

やまんばが追いかけてくる足音はモンゴル語では

“ピッド・パッド、ピッド・パッド”、おぼれる音は“プル・パル、プル・パル”など、モ ンゴル語にも擬音があってとてもおもしろいと思います。“おーい”などのよびかけの言葉は “フーィ”。何となくわかります。

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時間があまったのでもう1回ずつの追加上演もし ましたが、お客さんはけっこう最後まで残ってくれま した。当日、東京新聞や朝日新聞の記者さんも梅村さ んのこのとりくみを取材に来てくれたので、もしかし て記事になるかもしれません。ひそかに楽しみにして いるところです。

紙芝居》文化というものが、テレビの普及する50 年ほど前まではとても盛んな時代がありました。子ど もたちはいつもわくわくしながらお菓子を買う5円 玉を手に紙芝居屋さんがくるのを待っていました。

紙芝居というものが、小さな子どもたちにとって、とてもわかりやすい魅力的なツールだ ということを今回あらためて思いました。梅村さんのレポートにも…紙芝居を世界に広げる 会というのがあって…とありましたが、紙芝居は日本独特の文化なのでしょうか?

モンゴルでもゲルの中でおじいさんやおばあさんが語りつたえてきた“ウルゲル”があり ますし、どの国でも絵本はたくさんあることと思いますが、絵本よりももっとわかりやすく てドラマチックなのが紙芝居でしょうか?演じ手の自由度も高いかもしれません。

私はさっそくこの紙芝居を何部かいただいて、これからモンゴルにでかける知りあいなど を通してモンゴルとの交流に役立てていただけそうなところにお届けしたいと思っていると ころです。

 

 ノロヴバンザトの思い出 その 49

(梶浦 靖子)

ツァガーン・サル(旧正月)

そういえばこの1991年初頭、民主化した関係でモンゴル国ではツァガーン・サルを祝う ようになった。直訳すると「白い月」で、旧正月のことである。革命前まで伝統的に祝わ れていたが、社会主義体制となってからはソ連への遠慮もあり長らく途絶えていた。その 伝統が約七十年ぶりに復活するということで、人々も経済混乱をしばし忘れて活気づいた

その年の暦によって日にちは変動するが、この年は2月の初めに行われた。テレビでは ツァガーン・サル復活の意義について有識者たちが語り合う番組が放送されるなどした。

どこの家でも旧正月の特別な料理を出す。細長い楕円の乾パンを格子状に積み上げ、飴 などをのせたお供え菓子と、ヒツジの丸ゆでが食卓に飾られる。丸ゆでといっても、四肢 やあばらなどが骨付きのまま切り分けられ、皿に積み上げられている。ほかポーズや、砂 糖とレーズンを混ぜ牛乳で炊いた米も出される。

ツァガーン・サルの時期だけの挨拶のしかたがある。二人向かい合って、目下の者が目 上の者の両ひじを両手で持ち上げる動作をしながら、「アマル・バイノー(安寧ですか)? 」と言う。もっと長い文言の挨拶もあった。そうしながら目上の者は目下の者の両ほほに キスをするのである。その間、昼夜を問わず友人知人の家を互いに訪問しあい、「アマル・ バイノー?」と挨拶をしてヒツジ肉をほおばり、モンゴル・ウォッカを酌み交わす。三日 ほど続く。私もまだ極寒のウランバートルを昼から深夜まで知人に連れられて歩き、人の 家を訪ね回って、実に大変だった。

そう言えばツァガーン・サルの少し前、エンフチメグと再会した。連絡が取れなくなっ てからも何度か彼女のアパートを訪ねてみていた。誰も出てこなかったり、彼女の父親や 兄などが顔を出して、「エンフはいま地方に行っている」と答えるときもあった。いつ帰る のかと尋ねれば、知らないと言うばかりだった。年が明けてもう一度訪ねてみたところ 彼女がいたわけだ。

エンフチメグは何事もなかったように私を中に招き入れた。この数ヵ月、田舎の親類の 元で遊牧の仕事を手伝ったが体をこわし入院していたという。たしかに顔色がすぐれない ようで、嘘ではないのかもしれなかった。そしてツァガーン・サルの時はうちにいらっしゃ いと誘った。

ツァガーン・サル当日の夕方、やっとヒツジ肉がゆで上がったとエンフチメグが迎えに 来た。彼女の家では彼女の父親と兄2人と、片方の兄の家族も集まってテーブルを囲んで いた。祝いの料理のことや、挨拶のしかたなどはここで教わったのだった。

何やかやでまたお互いの家を行き来するようになった。気にせずまた友達づきあいをす ることもできたかもしれない。しかしやはり黙っていられず、あの時貸したお金はどうなっ たかとエンフチメグに尋ねた。彼女は明るく、 「もちろんちゃんと返します。忘れてなんかいませんよ」

と答えた。けれどその笑顔には少し影が差しているように見えた。

辛辣な批評家

ツァガーン・サルが終わってもまだ寒さは厳しい。しかしどこかもう寒いのが当たり前に

なったようで、外出時はしっかり着こむし、建物の中は集中暖房であたたかい。経済が混乱 してもそこだけは市民の生命線として保持されていたようだ。

ノロヴバンザドのクラスでは、夏には卒業となる生徒のレッスンに最後の追い込みがか けられてきた。ある日私が稽古部屋へ行くと、早めに来ていた女生徒が歌っており、ノロ ヴバンザドはその前でイスに腰かけ聞いていた。そして生徒が歌い終わると矢継ぎ早に批 評の言葉を繰り出した。この曲のあそこのフレーズはもっとこう歌うべきです、歌い方も 声の響きも乱暴、といったことを早口でまくしたてた。いくら言っても言い足りない様子 だった。

ひとしきり話し終えると、じゃあ次の曲を歌ってみなさいと促した。「雲のたなびくハ ンガイの山 Budarch kharagdakh khangai 」という曲だった。いま話したことに気をつけ るように言い、ひざに手を置き目を閉じて「さあ歌いなさい」と言ってイスに座り直した。 女生徒が歌い始めた。ノロヴバンザトはそれを一音も聞き漏らすまいというように、目を 閉じたまま眉間にしわを寄せ、真剣そのもので聞いていた。女生徒の歌唱力は相当なもの だった。じつに豊かな声量で聞く者の耳にビリビリと響く。息も長く全体に音をとても長 く引き延ばしていた。野性味あふれる堂々たる歌いっぶりだった。彼女が歌い終わると、 ノロヴバンザトは目を閉じたままかぶりを振って、

ああだめだめ、あなたの声はまったく乱暴できたなくて、とても聞くに堪えない」 と言った。

オルティン・ドーは「長い・歌」だからと言って、曲中のどの音でもやたらと長く伸ば

せば良いというものではない。ある音は長く、ある音は短く切るからこそ、そこに音の綾 とも言うべきものが生まれる。メロディーのデザイン的な美しさが表現される。それを何 かの一つ覚えのようにだらだら長く伸ばしてばかりいては芸も何もあったものではない。 オルティン・ドーは、声の大きさや息の長さを争う競技ではない。声が大きければ良いも のでも長ければ良いものでもない。スポーツとは違うのだ。声量と声の長さはあって当た り前。問題はその力をもとにどう表現するかだ。

声にビリビリした装飾をつけようと力み過ぎると、にごったきたない響きになる。オル ティン・ドーは声の強さ大きさを誇るばかりであってはならない。芸術なのだから何より も「美しいこと」を目指さなければいけない。声の響きもメロディーの描き方も、どうす れば美しいかもっと考えなさい。

そう言い渡してその女生徒の番は終わり、私も一曲聞いてもらった。それでレッスンは 終了し帰り支度となったが、そうしながらもノロヴバンザトの話は続いた。後輩のオルティ ン・ドー歌手の中には、声の強さ大きさ長さばかりを誇るような者がいて困ると嘆いた。 オルティン・ドーは高貴な芸術であるとして、野性味を前面に押し出すような歌い方は排 斥した。そして「OOは芸術性に欠けているのですよ」と後輩歌手の名前を挙げて批判す るのだった。ノロヴバンザトはオルティン・ドーの歌い方に関して最も辛辣な批評家だっ たと思う。

 

(つづく)

 現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用

一研究翻訳が文学作品へ転換されるときー

(1) 小長谷有紀(国立民族学博物館教授)

国際シンポジウム「文化資源として利用されるチンギス・ハーン」

@滋賀県立大学 080125

1.はじめに

民主化および市場経済への移行を果たしたモンゴル国では、チンギス・ハーンの名前や肖

像が多くの商品に使われるようになり、そうした利用の自由を制限する法律が必要ではない かと国会で議論されたことがあった。また中国内蒙古自治区では、チンギス・ハーンの祭祀 空間が観光化されることによって伝統的な文化が失われ、従来の生活も脅かされるという反 対が見受けられた。このように、チンギス・ハーンは、その末裔を自称する人びとのあいだ では、正統性(orthodoxy)や真正性(authenticity)が問われる問題であり、文化資源とし て必ずしも自由にアクセスできるものではないと知れる。

一方、日本では、歴史的にチンギス・ハーンとの直接的な関係がほとんどなく、それゆえ にチンギス・ハーンはほぼ自由にアクセスすることのできる文化資源である。たとえば、ジ ンギスカン鍋という焼き肉用の料理器具があり、誰でもどこでもチンギスやチンギス・ハー ンという焼肉料理の店を開くことができる。

本稿では、そうした日本人の一般的な利用の基礎となるイメージを与えていると考えられ る、文学的な利用について考察する。具体的には、『元朝秘史』あるいは『蒙古秘史』という 名で知られている、13 世紀のできごとを描いたとされる書が、研究者による翻訳を通じて一 般に知られるようになり、それらがさらに作家に利用されて小説となり、またさらに演劇や 映画に利用されていることに注目して、そうした文芸界におけるチンギス・ハーンの日本的 受容について明らかにする。

そもそも、日本人はチンギス・ハーンが大好きであると言っても過言ではない。たとえば、 明らかに史実ではないにもかかわらず、源義経を成吉思汗と同一視するという歴史的ミステ リーが今日なお新しく生産され続けている。なぜ日本人はこれほどチンギス・ハーン好きな のであろうか。

源義経が成吉思汗になったという説の起源と展開および論争については、すでにいくつか の研究がある。森村宗冬の整理によれば、江戸時代において、『本朝通鑑』に義経が生存して いるという噂が記録されており、さらには、『金史』別本に大陸へ渡ったと記録されている、 という話そのものが捏造された(森村 2005)。また宮脇淳子の解説によれば、明治時代になる と、世界を制覇したチンギス・ハーンが日本人であると主張することによって西欧に対して 抱いていた劣等感が克服されようとした(宮脇 2002:217-219、Miyawaki 2006)。こうした虚 構の展開は、日本が国家的に大陸進出を果たそうとした時代背景と無縁ではなかったであろ う。

本稿ではもっぱら、それ以後の現象をとりあげる。すなわち、第二次世界大戦後の日本文 学(本稿ではこれを現代日本文学と称することとする)において、チンギス・ハーンを素材 として利用した小説を取り上げ、その文学的主題の起源と展開ならびに多様性を明らかにす るものである。日本人がなぜチンギス・ハーンをこれほど大好きになったかという理由の一 端が了解されるに違いない。

2.日本における『元朝秘史』の翻訳と文学利用

13 世紀のモンゴルの歴史について自らの言葉で記した書物である『元朝秘史』は、歴史的

事実を反映したものではなく、あくまでも物語として編集されている。したがって、当時の 歴史というよりももっぱら生活習慣や言語を分析するうえでの貴重な資料であるとみなされ、 中国や欧米では 19 世紀末から研究されていた。そうした研究成果を取り込みながら、日本で は現在までに 4 人の研究者によって全文の邦訳が試みられている。

最初の邦訳は歴史学者の那珂通世の手になる。早くも 1907 年に原文に忠実な邦訳と訳注の ほどこされた専門書として『成吉思汗實録』が刊行された。本書は本邦のみならず、世界で 最初の全訳書となった。

さらに 1940 年になると、言語学者の小林高四郎が『蒙古の秘史』という題名で新たに訳書 を刊行した。こちらも専門的な研究成果を反映したものではあるが、むしろ一般向けの読み 物として提供されている。なお、小林高四郎は同じ頃、1936 年、世界的なモンゴル学者であ るウラヂミルツォフの著作も『チンギス・ハン傳』として邦訳しており、研究者や一般利用 者の便を大いに図っていた。

那珂通世の専門書『成吉思汗實録』と小林高四郎の一般書『蒙古の秘史』の違いは、「序」 のあと、本文に先立って記された「序論」ないし「解題」において鮮明に示されていると言 えよう。前者の「序論」には、もっぱら研究史が述べられているのに対して、後者の「解題」 には、研究史を踏まえつつも、そもそも「如何なる秘事が記してあるのか」について解説さ れている。そして、この後者の「解説」に提示された「秘密」の理解こそは、やがて日本文 学において独自の解釈が発生する根源となるのだが、これについては後述しよう。

その後、戦後になってから、平凡社の東洋文庫シリーズとして『モンゴル秘史』巻 1 が 1970 年、巻 2 が 1972 年、巻 3 が 1976 年に刊行されていく。歴史学者の村上正二が、那珂通世以 後の斯学の成果を反映させて、詳細な訳注を施したものである。

また、言語学者の小澤重男はライフワークとして『元朝秘史全釈(上)』を 1984 年、『元朝 秘史全釈続攷(中)』を 1988 年、『元朝秘史全釈続攷(下)』を 1989 年に完成させたのち、1997 年に一般向けに岩波文庫として『元朝秘史』(上)(下)を上梓した。 一方、こうした研究者の成果を利用することによって、日本ではこれまでチンギス・ハー

ンを主人公とする小説が幾多も創作されてきた。第二次世界大戦後に限定し、研究者による 解説書の類を除くと、小説家による作品としては以下の 5 つが代表的である。

まず、楳本捨三の『成吉思汗』が 1955 年に刊行され、本書は 1972 年に『ジンギス汗』と して再刊された。ただし、両者はまったく同じではなく、微妙に章のタイトルや字句が修正 されてはいる。その再刊に先立って、井上靖の『蒼き狼』が 1958 年から『文藝春秋』に連載 され、1959 年に書籍として刊行された。楳本の再刊本以後の作品を年代順に並べると、陳舜 臣の『チンギス・ハーンの一族』が朝日新聞に1995年4月から2年にわたって連載されて1997 年に書籍となり、その後、森村誠一の『地果て海尽きるまで―小説チンギス汗』が 2000 年に 刊行され、堺屋太一の「世界を創った男―チンギス・ハン」が日本経済新聞の連載として 2006 年から始まり、2007 年に書籍として刊行された。

チンギス・ハーンを素材とした日本の代表的な上記 5 作品は、内容上、明らかに 2 つに分 けることができよう。1 つは陳舜臣と堺屋太一の作品であり、もう 1 つは井上靖、楳本捨三、 森村誠一の作品である。

前者 2 点はともに新聞連載であるという共通点をもつと同時に、内容としてチンギス・ハー ン個人を超えて 13~14 世紀当時の社会現象全般を扱っており、歴史を理解することに主眼を 置いた作品であると言えよう。

一方、後者 3 点は、もちろんチンギス・ハーン 1 人だけを扱っているわけではないが、その 扱いの比重は大きく、前者に比べて歴史的解説は少ない。歴史的解説の代わりに文学的主題 が設定されている。その内容は作者によってやや異なるが、後述するように<出生の秘密> ないしは<出生の疑惑>がその中核を成している。

ここでは、井上靖の『蒼き狼』が発表当時、歴史小説ではないと厳しく批判されていたこ とについてのみ言及しておこう。作家の大岡昇平は、文芸雑誌『群像』に「『蒼き狼』は歴史 小説か―常識的文学論(1)―」という挑戦的なタイトルの評論を寄稿した。「歴史小説は近 代の産物で、歴史的人物を人間的に書くのを原則とする。人間とは無論現代人であるほかは ないが、現代的動機のために、歴史を勝手に改変していいかというと、そうは行かない」(大 岡 1961:221)という箇所に端的に表されているように、作者すなわち井上靖が、史料を曲解 して心理ドラマにしてしまったことを痛烈に批判している。

これに対して井上靖は同じく『群像』で「自作『蒼き狼』について」と題して直ちに応酬 し、「『蒼き狼』に於いて私が書きたかったのは、歴史ではなく小説である。・・(中略)・・ 小説家の歴史に対する対し方は、歴史学者の解釈だけでは説明できないところへはいって行 き、表面に見えない歴史の一番奥底の流れのようなものに触れることではないか。・・(後 略)・・」と控えめながら、しかし確信的に、解釈を織り込む自由が作者にはあると主張して いる(井上 1961:176)。こうした論争はさらに、歴史小説とは何かという議論に発展する(宮 脇 2006)。

このように、井上靖の名作とされる『蒼き狼』は、発表当時においてすでに歴史小説の定 義にかかわる議論を呼ぶほどであった。言い換えれば、そもそも歴史的文脈があまり考慮さ れていないだろうことが指摘されていたのである。したがって、実際に歴史的文脈から逸脱 している可能性は高く、その意味でまさしく文学的である、と評価することもできよう。そ のことはまた同時に、モンゴル文化という文脈から脱文脈化されている可能性もきわめて高 いことを容易に推測させる。

創作活動のための資料として、批評家の大岡昇平はドーソンの『モンゴル史』のほかに、『元 朝秘史』の那珂通世訳『成吉思汗實録』を挙げ(大岡 1961:219)、原作者である井上靖は『元 朝秘史』のほかにたくさんの資料を挙げているが(井上 1960:167-168)、にもかかわらず、 主たる史料であるとする『元朝秘史』については「那珂通世博士の名著」についてのみ明記 しており(井上 1960:166)、小林高四郎の『蒙古の秘史』には言及していない。しかし、1959 年に先行する訳書はすでに 2 種類存在しており、『成吉思汗實録』や『蒙古の秘史』が参照さ れなかったはずはあるまい。

以上のように、日本では、1907 年に刊行された『成吉思汗實録』と 1940 年に刊行された『蒙 古の秘史』という研究翻訳を情報源としながら、歴史や文化の文脈を逸脱する傾向をもつと いう意味できわめて創作的に、1958 年に井上作品が創出されたのである。

2007 年、角川春樹事務所によって映画「蒼き狼―地果て海尽きるまで」が製作、上映され た。この映画の原作は森村作品とされており、映画のサブタイトルはたしかに森村作品のメ インタイトルではある。しかし、映画のメインタイトルはむしろ井上作品のタイトルそのま まである。このタイトルの借用関係に明示されているように、日本では井上作品のインパク トがきわめて大きく、当該映画に描かれた物語の主題や構成もむしろ井上作品を踏襲してい ると思われる。

この角川映画「蒼き狼」は日本とモンゴルで同時に上映され、モンゴルでは内容に対する 批判が相次いでいた(小長谷 2008)。モンゴル人による諸批判の根本的な原因は、彼らが理解 する自らの歴史と文化に対する文脈から、当該映画が逸脱していたことにあった(フムース 紙 2007 年 3 月号・ゾーニーメデー紙 2007 年 3 月 16 日)。当該映画について指摘されている 脱文脈化は、そもそもその原作、さらには遡って映画タイトルに小説のタイトルが借用され ている、井上作品にこそ起を発するに違いない。

以下では、日本人研究者による 4 点の邦訳のうち戦前の 2 点が、戦後に文学作品の創作へ と応用された時点、すなわち楳本作品や井上作品が生まれるとき、どのように脱文脈化が生 じていったかについて、具体的な状況を跡付けていく。

(つづく)

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 編集後記

季節が移り変わりモンゴルの夏も近づいています。「ナーダムを見に行こうの旅」、ナーダ ムがあるモンゴルと日本の夏休みと日が会わないようです。

モンゴルの夏休みは6,7,8月の3ヶ月、遊牧民の子どもたちは、一家の担い手として働き、 都会の子どもは太陽をいっぱいあびて体を動かし過ごしているようです。厳しい冬を乗り越 えるための知恵が含まれた夏休みなのでしょう。

(事務局 斉藤生々)

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