■NO 150号 2014年7月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
『Voice from Mongolia,2014 vol.3』
ノロヴバンザトの思い出 その50
小長谷有紀著「人類学者は草原に育つ」:書評
現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用
モンゴル核問題研究会公開勉強会
編集後記
『Voice from Mongolia,2014 vol.3』
(小林志歩=フリーランスライター)
「日本みたいに素晴らしい国は、ほかにないと思います。ラッキーですよ、日本人に生まれ て」
エルデネツォグト・オドゲレル・元十両城ノ龍関(30)、東京都在住
久しぶりに先日、東京で再会した。初めて会ったのは相撲留学 先の鳥取・城北高校の相撲部稽古場。シャイで控えめな、細身の 少年だった。思えば、短髪の彼を見るのはそれ以来のことだ。高 校卒業と同時に大相撲の世界に飛び込み、幾多の故障を乗り越え て関取となり、昨年 9 月場所を最後に引退。 横綱白鵬関も駆 けつけた断髪式でまげを切ったときは「やはり、さびしかったっ す」。まげは箱に収めて大事に保管してある。「たまに箱を開け て、鬢の香りをかぐんです」と、留学生として高校生活をともに 過ごした妻のトヤちゃん。ふたりの間には 3 人の子どもがいて(写 真右は長女ウランゴーちゃん)、4 人目が来月生まれる。
トゥブ県バットスンベル郡出身。村の相撲大会でスカウトされ、 幼馴染みのアマルメンド(元十両・星風関)とともに日本へ。「日 本に来たらお金に苦労しない、と思っていた。現実は全然違って、 お金はないし、稽古はきつかった。特に夏の暑さがつらかった」。 相撲部の寄宿舎では、日本人生徒の落とした小銭を拾い集めて、
月 1 回くらい缶ジュースを買ったり、レンタルビデオを借りたりするのが楽しみだったとい う。03 年、境川部屋に入門。「自分は稽古をまじめにやったんで、親方に本当に可愛がって もらった。どこへ行くにも連れて行ってもらいました。いつも『遠い国から来て一生懸命頑 張っているのに、お前らは何だ~』って日本人を叱っていました」。
靭帯や膝、網膜など、負傷に苦しんだ土俵生活。「やっと十両に上がって、親を呼んだの に、けがで 4 日目に休場したんですよ。でもおかげで多くのお医者さんと仲良くなり、それ が今の仕事につながっています」。引退後、モンゴルからの実習生派遣や医療コンサルティ ングなどを手がける会社を立ち上げた。「モンゴルでは、病気を正しく診断できないので、 診断を受けるために外国に行く人が多い。この現状を何とかしたい」。日本からMRIやC Tなど中古の医療機器をモンゴルに送っての画像診断センター開設や、医師が出張して手術 できる体制づくりも目指している。
周囲のすすめもあり、09 年に日本国籍を取得。実家の両親を支え、家族を呼び寄せるため には「それしかなかった」。親方の姓をもらい、日本名は「小林光星(こうせい)」。オド ゲレル(星の光、の意)から親方が名づけてくれた。
「自分は、実家が貧しかったから、お金のない子どもたちが酪農など仕事を学べる農場をつ くるのが夢です」。日本への実習生派遣は「もうかるビジネスではないけれど、日本へ来て 働く若者は、モンゴルでの数倍の収入が得られる。何よりも、日本人から、仕事への強い責 任感を学んでほしい。そして、それがモンゴルを良くするのに役立つと思います」。大相撲 の世界で揉まれ、周囲の愛情と敬意をいっぱい受けとめるうちに、別人のように雄弁になっ たね。その名のごとく、ふるさとの草原を照らす星のような活躍に期待している。
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今月の気になる記事」 地方の医療の現状が気になります。ちなみに、アルハンガイ県は、以前 MoPI のスタディーツアーを開催していたチョロート郡ハイルハン・バグのあるところ。タリアト郡は県西部に 位置し、匈奴時代の石人(フンチョロー)や、テルヒーンツァガーンノールなどの景勝地も 有名です。
P.ガンディーマー「診断のポテンシャルは向上している」 (筆者:э.オルホンスレン) アルハンガイ県庁 保健部長 P.ガンディーマーにインタビューした。 県の保健部に長年務められており、保健分野にお詳しいと聞きました。まず自己紹介をお 願いします。
「1989 年にアルハンガイ県エルデネボルガン郡の第2学校を卒業し、98 年に医科大学、2003 年に経営アカデミーの社会経営学部、同じ年にタイ・チュロロンコル大学の保健管理養成コ ース、2010 年に経営アカデミーの政治経営学部を卒業しました。医師で、保健管理が専門で す。1998 年からアルハンガイ県庁の社会政策課保健専門主幹、1999 年から保健部副部長とな り、2012 年から部長を務めています」
保健省は、今年を「母子保健推進年」と定めていますが、関連して何か計画がありますか?
「母子保健推進年」を受けて、アルハンガイ県は「すべての母子の健康のために」のスロー ガンのもとに、母子の支援策を強化すること、もれなく母を助けることを目標に据えました。 関連事業を企画するワーキンググループを組織し、県知事の指示を受けて事業を推進してい ます。一例をあげれば、母子保健推進年の開始式には、県知事、県議会議長と県内 19 郡の郡 長、家庭保健センター長、教育機関や生徒、家庭福祉課、国際機関、日本の児童保護基金や 親、子供たちの代表が参加しました。「健康な子は健康な母から」公開デー、「母子支援の 現状改善のための手法」というテーマで理論、実践について話し合う会議のほか、県下の全 バグの医師らを対象に「母子に対する救急対処、成人に対する救命法」研修を実施しました。 フランスの NGO「サンタ・シュド」の資金提供により、県内のバグ在住の 78 人の医師に、70 万 8 千トゥグルグ分の救急用具を支給しました。保健関連の機関の管理者による合同セミナ ーも開催、母子の健康推進に関する 2014 年の目標やねらい、具体的な計画を紹介し、専門的 な助言も行いました。また、通常の業務を活性化するために、「すべての母と子の健康のために」「心に残った8つの医療機関、保健関連職員」表彰、「母と子にやさしい郡長」選考 のための広報を行いました。
タリアト郡内の病院でいくつかのプロジェクトを実施中と聞きました。詳しい内容を教えてください。
「タリアト郡では、フランスの NGO『サンタ・シュド』とともに県庁保健部が、医療機関の ための推進事業を 2013 年から実施しています。この事業で、医療機関が、職員の参加を得な がら中期の発展計画を策定し、実施し始めています。今後は、発展計画も挙げられた必要な 医療機器を購入し、医療従事者の専門知識や技術を向上させる研修を実施していきます。ま た、リハビリテーションのための 7 種類の医療器具を整備し、住民が医薬品によらない治療 を受ける環境を強化しました。移動式のレントゲン機器も整備され、診断のポテンシャルは 向上しています。日本の子どもを守る基金の事業が、2011 年から同郡内病院で実施されてい ます。この事業では、病院の設備や医療機器、医薬品の購入を支援し、また住民への健康に 関する情報提供、広報を充実させ、子どもの予防のための検診も実施されました。また子ど もたちに歯科検診、口腔の健康に関する情報提供を行う計画もあります」
先天的な異常が、近年増加傾向にあります。 アルハンガイ県での状況はいかがでしょう。
「最近、胎児の異常が 2 件診断されました。1件は外的には何ら症状のないものでした。全 体として、大半を占めるのは、口唇口蓋裂、心臓の左右を隔てる中隔に穴があるなどです。 近年、さまざまな先天的異常が増えている傾向はあります。このような現状を受けて、早期 発見のための研修を実施し、医師らに対応を促しています。胎児の異常の際は、母子保健セ ンターと共同の診察をメディアでつないで実施しました。わが県では、こうした異常の診断 を行う医師の研修を韓国で行っています」
今年、新たにどのような医療機器を整備する計画がありますか? 予算が厳しい状況であ ると、他県の保健部長たちが話していました。アルハンガイ県ではいかがでしょうか?
「今年度の予算において、設備のために支出できる額は十分とは言えないのが実情です。わ れわれの必要とする額と、予算額にはかなりの差があります。しかし、前の5年間と比較す れば、医療機器は的確に確保されて来たと思います。県の診断センターが設立され、首都へ 向かう流れが止まりました。脳の撮影といった首都でしか受けられなかった検査が、現在は 県中心にある病院で可能となっています」
2014年5月20日 政治ニュースサイト POLIT.MN より
(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その50
(梶浦 靖子)
フグ・ソリグドル(転調)のある曲
放出のオルティン・ドー「雲のたなびくハンガイの山 Budarch kharagdakh khangai 」の budarch(budrakh)は「大粒の雨か雪が降る」という意味で、そうした雨を降らせる 雲が山にかかっている情景を歌ったものだとモンゴル人から説明されたので、上のような 曲名にした。この曲が歌い出されて、2番目のフレーズに来たところでメロディーの動き を奇異に感ずる人もいるかもしれない。それはこの部分で音階が歌い出しとは変化してい るためだ。
最初は譜例 231のようにソの音を主音と する短調のメロディーのように聞こえる。譜 例のフレーズで、その音階には無いはずのラ 音(矢印)が出てくる(譜例 232~3)。こ こで音階がレを主音とする五音音階に移っ ているとみなせる。メロディーが少し不思議 に聞こえるのはそのためだ。このような事例 はフグ・ソリグドル khög soligdo1 と呼ば れている。訳すと「調の交換」だが「転調」 と呼んでも差し支えないと思う。この曲は後 半ではさらに、譜例 234の通りファが主音 の長調のような明るい響きに変わる。これは 譜例 244の通り、長調の第4、第7音の無 いいわゆる「ヨナ抜き音階」に聞こえる。そ れでいて曲の終盤は、ソを主音(終止音)と する律音階のような響きに落ち着くのだ。
フレーズ1のソが主音の調から2のレ主 音への転調は、西洋音楽の理論にあてはめる と 「属調」への転調と言える。これは西洋音楽 では転調のしかたとして一番オーソドック スで 珍しくはない。しかしモンゴルの民謡も伝統 音楽全般も、メロディーは半音なしの五音音 階が基本である。そうした音階の枠組みが頭 にある状態で聞くと、2のラ音はずいぶん 奇異に響く。そのせいか私はこのフレーズ がなかなか頭に入らず、口ずさんで再現す るのが難しかったものだ。複数の調の間を さまようように進むメロディーは、どこか 不安定で不思議な印象を与える。
また「水たまりに遊ぶ小鳥 Bor toiromyn byarzukhai 」という曲はより鋭い響きの転 調をする。譜例 25 の通り、ド主音のヨナ抜 き長調のようなメロディーで始まったかと 思うと、次の2フレーズではレ主音の短調 のようになり、出だしのヨナ抜き音階には 無いはずのファ音が出てきて驚かされる。 しかも直前のフレーズで歌われたミ音がま だ耳に残っているので、このファ音は実に 鋭い半音として響き、聞く者に違和感と驚 きを与える。ここのミとファのように曲中、 間を置いて現れる半音をスミルノフは「隠 れた半音」と呼んだ。
「老人と鳥 Övgön shuvu khoyor」という曲 ではさらに驚愕させられる。譜例 27 のよう に明るく伸びやかな曲調で5分以上も歌い続けたあげく、最後の最後で転調して終わる。 最終フレーズの冒頭で、それまで影も形もなかったラ 1♭が鳴り響くのは衝撃的ですらある。
この曲をシ♭主音のヨナ抜き長調と考えると、最後には属調の同主調で終わっていることに なる。西洋音楽の理論ではさほど「遠くない」調への移行だが、おおむね一つの調で何分間 も歌っての転調なので、驚きはひとしおである。私が初めてこの曲を聞いた時、この部分で ええっ!?と声をあげて驚いたものだ。
イスラムの影響の可能性
このようなメロディーの動きかたは日本の民謡には見受けられない。雅楽や近世邦楽の曲にも無いと思う。 このようなフグ・ソリグドルのある曲は、多くはないがいくつか見られる。モンゴル人の音楽家がこれらの曲に西洋風に和音をつけてピアノで弾いて見せてくれたことがあった。 そして、「不思議な転調をするだろう?これはモンゴル音楽の謎の一つだ。どうしてこんなメ ロディーになったのか、解明してくれないかね」と言って笑った。
曲が作られた場面に立ち会いでもしない限り真実は知りえないが、可能性として考えられ る要因はある。それはやはりモンゴル帝国の存在だ。人種のるつぼであったモンゴル帝国に は中東、イスラム圏の人々が数多く行き来していた。それらの人々の中には、「色目人」と呼 ばれ、商業に関するアドバイザーとして帝国の中枢に置かれた者もいた。またモンゴルに文 字をもたらし、さまざまな学術を伝えたウィグル人も、音楽など文化面で中東のそれと共通 する。
イスラム圏の音楽は半音より狭い1/4音や1/9音など、いわゆる「微分音程」を使う のが特徴である。その調べは、馴染みのない者の耳には、どこか調の定まらない不安定さ、 奇異で不思議な印象を与える。上記のようなフグ・ソリグドルのある曲は、そうしたイスラ ム圏の音楽の影響があるのではないだろうか。モンゴル帝国をおとずれたイスラム商人も、 宴席になれば歌も歌っただろう。中東から楽器がもたらされたならば、その演奏者や歌い手 もやってきたかもしれない。そうしてイスラム圏の歌を耳にしたモンゴルの人々が、その調 べの「不安定で、奇異で不思議な」印象をまねて曲を作ったこともあるかもしれない。
日本民謡とモンゴル民謡とは類似性がしばしば強調されるが、フグ・ソリグドルは日本民 謡には見られない、モンゴル独特のものと言えるだろう。四方を海に囲まれ異文化・異民族 との接触が限られていた日本とは、やはり違う面があるのだ。フグ・ソリグドルのある曲も またモンゴル帝国の面影を今に伝える例なのかもしれない。
帰国
そうこうしているうちに気温は緩み雪も解け、蒸発してなくなっていった。モンゴルの3月はまだ寒いが、真冬の氷点下30°Cに比べれば暖かいものだ。そして私は諸般の事情で予 定を早め、3月末に帰国することにした。
アリオンボルドを通じてモリン・ホールをはじめ伝統楽器をいくつか買って、機会があれ ばまた会おうと話した。エネビシ先生のお宅へ挨拶にうかがい、食事をごちそうになりなが らお礼を述べた。モリン・ホールのツオグバドラハ氏は、荷物になるだろうから自分がもら ってやろう、と言って、私のラジカセを引き取っていった。モンゴルの人は「もらってあげ よう」としばしば言う。日本人はあまり使わない表現だ。
帰国の間際になってもエンフチメグは貸したお金を返してこないので、どうするつもりな のかと間いてみた。大丈夫です、必ず返しますから、と彼女は笑顔で答えた。それよりも私 はあなたにデールを作ってあげましょう、と言う。デールは別にいいからお金を返してほし いと話すと、作ったデールと一緒にお金を返しますと言った。結局、デールを作ってもらう ことにした。ちょうど、誰かに作ってもらおうと生地だけ買ってあったのだ。すぐに作りま すから、と言ってエンフチメグは生地を持って帰っていった。帰国まであと2週間ほどとな っていた。
それから一週間くらいしても、彼女から音沙汰がない。電話をしても不在ということで彼 女のアパートに行ってみた。すると彼女はいて、あらどうぞと私を招き入れた。今デールを 作っていますからと言うので見ると、かなり高齢のおばあさんが、私の生地にチャコで線を 引いている最中だった。一週間も前にあずけたのにまだ手付かずだったのだろうか? おばあさんの手際はかなりゆっくりで、大丈夫なのか?と不安になる。しかしエンフチメグ は、大丈夫です、すぐできますからと言うばかりだった。
結局、帰国の日の朝、彼女ではなく友人だというよく知らない男性が持って来だのは、デ ールではなく、洋装のワンピースに似た形のもので、デールをかなり簡略化したようなもの だった。あちこち捜してやっと選んだきれいな生地が無残に思えた。そして、貸したお金は? と聞くと男性は「知らない」と言うのだった。なんとも、ため息しか出ないことだった。
ノロヴバンザドには帰国の前々日くらいにお宅にうかがい、食事をごちそうになりながら、 軽く話をするだけで挨拶をすませた。実はその年の8月にノロヴバンザドらが日本で公演す ることがすでに決まっていたのだ。帰国の挨拶はお別れではなく再会の約束となった。夏に 東京で会いましょう、と言い交わしてお宅を辞した。
ボヤント・オハー空港は初めてモンゴルに降り立った日と同じような上天気だった。搭乗 を待つロビーから滑走路を見ると、7、8頭のヤギが列をなしてトコトコ歩いていく。 職員が追い払いに来る様子もない。モンゴルののどかな風景だった。それを見納めに飛行 機に乗り込み、北京経由で日本へと戻って行った。
(つづく)
小長谷有紀著「人類学者は草原に育つ」:書評
(金田 悦二)
人類学者は草原に育つ: 変貌するモンゴルとともに (フィールドワーク選書 9) (単行本)
本書のキーワードは「タフネス」。
著者の本意ではないだろうが、著者個人あるいは一人の留学志望の学生が人類学者として 成長していく物語として、とても面白いばかりでなく、読者の役にもたつ。なぜなら人生で、 だれしもがぶつかる壁にどう立ち向かうか、そのヒントが満載されているからである(もち ろん、社会主義から市場経済へ変貌するモンゴルのフィールドワークの面白さも存分に伝え てくれている)。
彼女がぶちあたった壁は留学試験受験を拒否されたことから始まり、留学先で語学力不足 に直面した、その語学力が開花した瞬間とは、公安警察で尋問を受け、天安門事件にも遭遇 した。その度に、よくもこれだけタフに乗り越えてきたのものだと、うならされる。「前が 赤のときはその人生の四つ辻で、後ろを振り返るのは最悪。後ろも必ず赤だから。首を左右 に振ってみたら、右も青、左も青じゃないか」という信念によるのだろう。 それは・・自分のしたいことをしたいという本能的な欲求を満たすために・・状況を分析し て見極め、自分の目的としている事に少しでも近づくには、どう対処したらいいか。その方 向と方法を嗅ぎ分ける嗅覚とでもいうような能力を鍛えてきたのだと思う。研究者として、 競争的研究費や助成金の獲得にもそのタフネスは発揮される。ここから、読者は壁を乗り越 えるヒントが得られるだろう。ただ、念願の2年間のモンゴル留学を1年で切り上げざるを 得なかったセクハラについては、詳述はない。まさか、心の傷?
本書はモンゴルが社会主義から民主化を経て市場経済を導入し現在に至るまでの変貌とフ ィールドワークを通して通時的に提示している。 そのフィールドワークでの著者の身体的なタフネスも相当なものだ。あの松原正毅先生をリ ーダーとするモンゴル爆走フィールドワークの凄まじさ。そして、その成果の大きいことが 語られる。人類学のフィールドワークの意義、その実際のやり方が素人にもわかるように、 また退屈しないように書かれている。声には出さねど心の中で弱音を吐く著者を「知らない ものを見たい、聞きたい、触りたい、食べたい、嗅ぎたい」という素朴な思いが過酷なフィ ールドワークに耐えさせたのであろう。
著者のこんな言葉を聞いたことがある「こんなに面白いことを税金でやらせていただいて、 その上お給料までもらえるのだから、感謝感謝。
納税者にその成果を報告して活用していただくのは当たり前。」本心だろう。軽いフィー ルドワークの真似事でもできればどんなに楽しいだろうと思う。
文化(社会)人類学とは人の営みを丸ごと研究対象にするという他の学問にはない特徴が あるのではないだろうか。余談であるが私の妻はモンゴル人である。1995年の大モンゴ ル展のときに民族学博物館で展示されたゲルは後日、妻の実家だったと知った。妻は子ども の頃、この本に登場するスレンさんがゲルを買いに来たことを覚えていた。日本に運ばれた と聞いたとのこと。それから月日がたち、日本に住むようになった妻は2012年、母と一緒に 民博でゲルと対面した。特別の計らいで内部に入れてもらい、二人は日常使っていたさまざ まな道具類に手を触れ、母が編んだ敷きものを撫でて懐かしんだ。民博は生活用具一式を買 い取って来るので妻らにとってはタイムカプセルだった。そのまま住み続けていたら、失わ れたり、当然更新されていたはずの物たちが、ついさっきまでそこで暮らしていたかのよう に残されているのだ。ゲルの生活から、持続可能な経済、分散型エネルギー供給など未来へ の知恵も見えてくる。人類学は役に立つ学問なのだと感じた。
自ら立ち上げたNPO法人「モンゴルパートナーシップ研究所(モピ)」についても触れ ている。インターナショナルから個人によるトランスナショナルへ、を実践してきた成果が 謳われている。著者の学問を社会に活かしたいという思いを感じる。国家による援助は末端 にくるまでに多くが消えうせていたという追跡調査を聞いたことがある。小さくとも確実に つながるモピのトランスナショナルな活動が注目される。それにしても、日本を首謀者とし た「モンゴルを核廃棄物の処分場にしよう」と言う画策があるとはショックである。
梅棹忠夫が戦争末期に中国で調査にあたっていたと初めて知った。その膨大で貴重な資料 がいかにして無事日本に持ち帰られたかリアルに語られている。そして、数十年を経た現在、 その成果をまとめた(まとめ続けている)著者は「梅棹の玉手箱」と呼ぶ。
著者の事象に対するネーミングの巧さは、そこらのコピーライターの比ではない。「産ん でいけ」「見つめない愛」「知っただけ分かったわけではない」「イヌとシリあい」など、 面白くて興味深いエピソードが次々現れ途中で本を閉じるのが惜しくなる。飽きさせない。 それでいて読み終えると、モンゴルの魅力の深い部分に導かれた思いがする。その気になっ たところで、まずは、身近なところで家の周りでもフィールドワークして見るか?怪しまれ ない程度に。
自伝ではないと断っているので、書かれていないが、「二人の子育て」と「研究生活・フ ィールドワーク」を両立させてきたのも大変タフなことである。子育て中あるいは、子ども を持つかどうか迷っている女性たち、イクメンの男性たちにとって絶好の指針となるのでは ないか。機会があれば是非書いて欲しい。付録に普通は見ることのできない生のフィールド ノートが公開されている。さすがに学者のノートである、きれいに整理して書かれている。 羊の出産記録やウシの系譜、舞踏の採譜と歌詞、踊り方も。
人類学特にフィールドワークの実際と人生の壁に突き当たったときの対処、両方面白く読 めるお得な1冊である。 ついでに、本書で紹介されている著者の最初の著作「モンゴルの春」も古本で購入した。も ちろん専門的に有意義だろうが、モンゴル体験記としても面白く読める。ネーミングの巧さ はこの頃からのようだ。こちらもお勧め。民博のHPから無料でダウンロードできるそうで ある(私は物として本が欲しかったが)。
現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用
一研究翻訳が文学作品へ転換されるときー (2)
小長谷有紀(国立民族学博物館教授)
国際シンポジウム「文化資源として利用されるチンギス・ハーン」
@滋賀県立大学 080125
3.「モンゴルの秘密の歴史」の「秘密」とは何か?
『 秘史』の研究史において、そもそも本書のタイトルそのものが研究課題の 1 つであった。本書のモンゴル語タイトルは直訳すると「モンゴルの秘密の歴史」であるとされてい る。小林高四郎は『蒙古の秘史』の「解説」において「秘史」について以下のように記して いる(小林 1940:13)
「宮廷の秘録たる本書は「外人に伝えしむるべきものにあらず」とて史臣にすら修史の参 考とするを許されなかった程であった(元史巻 181、虞集伝)が、然からば如何なる秘事が記 してあるのか」と。
この質問に対する回答も用意されていた(小林 1940:14)。
「例之遠祖に関する狼鹿交配開国伝説はしばらくおいて、チンギスの母ウゲルンは父のイ ェスゲイがメルキット部のチレドから略奪したものであること、イェスゲイが敵人タタル部 に毒殺されたこと、チンギスが弟のハサルと共に異母弟(原文ママ)ベクテルを狩猟の獲物 分配のことから射殺したこと、チンギス自らが宿讐タイチグット部にとりこにせられ、その 妻ブゥルテがメルキット部にとらえられた、(長子のヂュチは敵人の子であろうと伝えられ ている)、十三翼の戦でヂャムカに敗れたことなど、なおその他秘すべき事柄を忌諱するとこ ろなく録しているのである。」
『元朝秘史』は続を含めると全部で 12 巻から成っている。そのうち、チンギス・ハーンの 母が略奪された経緯と父が毒殺されるシーンは巻 1 にあり、異母兄を殺したり、自ら宿敵に 捕らえられたり、妻を奪われたり、といったエピソードはいずれも巻 2 にあり、十三翼の戦 いは巻 4 にある。したがって、この小林高四郎の解説は総じて、本書の前半部に注目して、 チンギス・ハーンのもっぱら幼少期の苦労話をとりあげ、それらが秘密であると説明してい ることになる。極端に言えば、幼い頃の苦労話を他人に隠すべき「恥」として理解していた ことになる。ちなみに、これらの小林によって抽出された「秘密」群のうち、後年の作家た ちがとりわけこだわるのは、()の中に書き足されたこと、すなわち長子ジュチがチンギス・ ハーンの実子ではないという噂であることをここで喚起しておこう。
一般に、さまざまな技術伝承にかかわって「秘伝の書」なるものがありうることを想起す るならば、『元朝秘史』の「秘」とは何らかの重要な「秘訣」が記されているから隠さなけれ ばならないのだ、と解釈することもできよう。言い換えれば、必ずしも「恥」を想定する必 要がないであろう。
本書においてそうした「秘訣」が書かれているかどうかを敢えて探してみると、本書が全般 的に繰り返し述べているのは、チンギス・ハーンに対する忠誠心のあり方である。
たとえば、巻 5 の 149 節ではニチュグト・バーリン氏のナヤアが投降する場面がある。投 降するにあたって、主君を殺すにしのびず、逃がしてから投降していることに対して、チン ギス・ハーンは、旧来の主君への忠誠心を賞賛するのである。同様に、巻 6 の 185 節では主 君を見捨てることができずに主君を逃し、自ら防戦して戦ったカダクバートルを大いに誉め ている。さらに、巻 7 の 188 節では王汗の子セングンの僚友ココチュが主君を裏切るとき、 これを諌めた妻を対で登場させたうえで、主君への裏切りをなじった女を誉めたたえ、主君 を裏切った男(ココチュ)を斬り捨てさせている。さらに巻 8 の 200 節でも、ジャムカを捕 らえてきた彼の僚友たちを裏切り者として斬り捨てさせている。
このように、主君への忠誠心をもつ者に対して優遇する一方、逆に、主君を裏切った人間に対しては信頼できないとして直ちに斬り捨てさせている。このように対となる処遇と処分とが繰り返して表出されているのである。
印象的に反復表現されている忠誠心の具現は、同時に、チンギス・ハーンの人心掌握術で あると言ってもよいであろう。岡田英弘の言うところの「将に将たるの戦略」(岡田 1986:80) に相当する。いわゆるリーダーシップ論が表現されているのであり、これを仮に「秘訣」と 読み解くならば、幼少の頃に異母兄を射殺したという挿話も、新たな読み解きが可能となる だろう。すなわち、チンギス・ハーンの意思に従わない者は父系の血がつながっていようと も容赦はしないという意味を示すエピソードと化すだろう。
以上のように、本書の前半部分に偏ることなく、全体に目配りしてメッセージを抽出しよ うと試みると、本書の「秘密」の解釈として「人心掌握の秘訣」であるという理解も可能とな るのである。
一方、本書の前半部分ではなく、より狭く、冒頭部分にのみ注目すると、以下のように、 さらに別の「秘密」の解釈も可能となる。
祖先祭祀においては自らのメンバーシップを主張するために、その系譜を口上することが 義務付けられてきた(Horchabaatar1987:12)。そもそも、族外婚を維持するには系譜の理解 が必定である。たとえば、ブリヤート族のあいだでは 7~9 代を隔てていれば結婚してもよい とされていた(Badamkhatan1996:43)。言い換えれば、それだけ隔たっていなければ、婚姻対 象外とされていたわけである。こうした婚姻制度を有する社会において、祖先祭祀に参加す るメンバーに長大な系譜の暗記が求められていたとしても不思議ではあるまい。祖先祭祀を 実行する集団以外の者にとって、祭祀はそもそも参加しえない秘儀であり、そのメンバーシ ップを問うための系譜も秘密であってよいだろう。
すなわち、『元朝秘史』の冒頭部分に注目するならば、この冒頭部分に書かれている「系譜」 こそが、その記述内容の如何に関わらず、チンギス・ハーンを祖先として祭る集団にとって まさしく「秘密」であったのだ、と了解することもできよう7)。
このような幾つかの解釈が「秘密」について可能ななかで、小林高四郎はもっぱら幼少期 の苦労話を恥ずかしい「秘密」として、一般書で解説したのであった。
こうした「秘密」の解釈は、続く柳田泉の著書『成吉思汗平話 壮年のテムジン』に影響 を与えていたようである。明治文学研究の先駆者といわれる柳田は、その当該書の「序」に 相当する部分で、那珂通世の邦訳を旧訳、小林高四郎の邦訳を新訳と呼んで区別し、もっぱ ら旧訳を利用して、新訳は少し参照したにすぎないと述べたうえで、本論に入ると冒頭部で 次のように述べている(柳田 1942:7)。
「チンギス・ハーンがどうしてチンギス・ハーンとなったのか、そのチンギスがチンギス となるまでの、悲しい、辛い、苦しい、しかも猛く雄々しい、男性的な奮闘の若き日を、史 実によって、わたしに及ぶだけ詳しく語りたい」とある。小林と同様に、チンギス・ハーン の若き日々は苦難の時代として了解されている。
ただし、柳田の場合は話を具体的に進めるにあたって、テムジンの妻ボルテは妊娠してか ら略奪されたという説明をわざわざ 2 度もしている(柳田 1942:92,101)。したがって、息子 ジュチの出生についてチンギス・ハーンは悩むべくもない。またおおよそ『元朝秘史』の巻 10までの物語となっているので、続編巻11にある、弟チャガタイが兄ジュチの出生の秘密を とがめるというシーンは、そもそも割愛されている。こうした処理のしかたに、柳田のある 種の意図を見ることができるのではないだろうか。柳田は、テムジンは妻ボルテが略奪され るといった苦労を経験したけれども、略奪された妻の生んだ子ジュチは間違いなく実子であ るという自己流解釈を提示しているのである。これは明らかに、小林高四郎の一般書に書か れた解釈を拒絶してみせたことになる。新訳をあまり参照していないという宣言は、実はこ の点における意思表明になっている。参照していない、と言うよりも、参照して否定してい る、あるいは批判的に参照している、と言えよう。
モンゴル語の研究者である小林高四郎と、明治文学の研究者である柳田泉とのあいだで生 じている解釈の違いは、書かれた現象としてのみ分析すると、単純に「妻ボルテの妊娠が略 奪の前か後か」という時間的な問題として矮小化されうる。すなわち長子ジュチの出自をめ
ぐる疑惑にほかならない。 このように彼らが対比的な解釈を提示したことによって、『元朝秘史』の「秘密」を<出生
の秘密>へと還元する解釈がのちに日本文学において出現する準備が整うこととなったので あった。
(つづく)
モンゴル核問題研究会公開勉強会
(主催モンゴル核問題研究会・モンゴル研究会)
遊牧民とウラン開発 いまモンゴルで起こっていること わたしたちにできること
2014 年7月6日日曜日 午後3時半から午後6時半
会場サクラファミリア
2013 年10 月、日本企業は仏アレヴァ社と組み、モンゴルでの本格的ウラン採掘に着手し ました。その調印式の約1ヶ月前に逮捕されたモンゴル人環境保護活動家は長期刑判決を受 け、2014 年、ウラン鉱山近くでは家畜の異常出産が続いています。 「核燃料サイクル」構想は、モンゴルに核のフロントエンドとバックエンド双方の役割を担 わせようとしています。福井地裁が示した通り、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして 生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失」で す。草原の環境を護り続けてきた遊牧システムの根底からの破壊は、「生物の多様性に関す る条約(CBD)」への重大な違反行為です。
モンゴルこそ原発輸出の要であり、福島、もんじゅ、六ヶ所村の問題はすべてモンゴルと 直に繋がっています。
モンゴルの現状を知り、いま何ができるのかを、一緒に考えましょう
報告予定者
今岡良子大阪大学准教授・芝山豊清泉女学院大学教授・町田幸彦東洋英和女学院大学教授
参加ご希望の方は下記アドレスにお申し込みをお願いします。
モンゴル核問題研究会 mongolnuke@yahoo.co.jp
編集後記