■NO 151号 2014年9月1日 編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
『Voice from Mongolia,2014 vol.4』
モンゴルの旅
ノロヴバンザトの思い出 その51
現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用
荒木伊太郎の京都案内
編集後記& 事務報告
『Voice from Mongolia,2014 vol.4』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「兄弟が多いのはいい。あなたが 7 人兄弟とすれば、あなたがピンチのときは、あとの 6 人 が助けに来てくれる」
– エルデネバト(愛称エルカ)/溶接・配管技術者(42)、ウランバートル在住
「今月の気になるニュース」
モンゴルは早くも実りの秋を迎えているようです。今回は農業事情を紹介する記事をどうぞ。
「豊作でも貯蔵する倉庫が足りない」
(筆者:D.オユンチメグ)
(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)
モンゴルの旅
(福島 規子)
(2014年8月23日)
(福島悠人)
ノロヴバンザトの思い出 その51
(梶浦 靖子)
東京での再会
レコーディングの手伝い
(つづく)
現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用
一研究翻訳が文学作品へ転換されるときー (3)
小長谷有紀(国立民族学博物館教授)
4.主人公チンギス・ハーンに関する<出生の秘密>の発見
井上靖の『蒼き狼』は、そのタイトルに主題が明瞭に現われている。上述したように大岡
昇平が史料を曲解していると非難するのに対して、井上靖は以下のように応答している(井 上 1961:175‐176)。
「・・・・(前略)・・・・私が成吉思汗について一番書きたいと思ったことは、成吉思汗 のあの底知れぬ程大きい征服欲が一体どこから来たかという秘密である。・・・・(中略)・・・・ 一人の人間が性格として持って生れて来た支配欲といったようなものでは片づきそうもない
問題である。こうしたことは、もちろん、私にも判らない。判らないから、その判らないと ころを書いて行くことで埋められるかも知れないと思ったのである」。
作家井上靖にとって創作動機となる「秘密」は、「征服欲」の理由、その源泉なのであった ことが了解される。そして井上自身が見出した回答が、<蒼き狼の血の原理>という理解で あった。
井上は、チンギス・ハーンの祖先には蒼き狼の血が流れているとし、この血を受け継ぐべ きところを、自分自身が父の実子ではないらしいという疑いを持っているために、その疑惑 を晴らすために刻苦勉励するというストーリーになっているのである。
このチンギス・ハーンの出自疑惑について、大岡昇平は「井上氏の第二の発明」(大岡 1961: 221)と称している。それに先立つ第一の発明とは、成吉思汗をして即位式にて「蒼き狼は敵 を持たねばならぬ。敵を持たぬ狼は狼でなくなる」といった演説をせしめている点である。 つまり、小説全体を貫いて「蒼き狼の原理の発明」(井上 1961:176)がなされているという わけである。
ところで、『元朝秘史』の冒頭部分は、神話的な記載があり、祖先の系譜が示されている。 それによれば、蒼き狼の系譜とチンギス・ハーンの祖先であるキヤト一族の系譜は「接木」 された関係にあり、そもそも血統として繋がっているわけではない。蒼き狼の血統の家に嫁 にやってきた女性アランゴアが、夫ドブンメルゲンを亡くしてから、光によって身ごもった 子どもの一人がボドンチャルであり、その子孫がチンギス・ハーンの父の系譜キヤト氏一族 であるから、蒼き狼の系譜はもともとチンギス・ハーンの系譜と「接木」の関係にある。遊 牧民集団がビッグバーンを経て膨張するにあたっては、このように異なる系譜がいわば「接 木」されていったものと推測される。
『元朝秘史』の冒頭に述べられている「蒼き狼」という表現に魅せられたに違いない井上 靖は、この血をそもそも受け継がない一族の物語であるにもかかわらず、この血が流れてい ると誤って想定しておき、そしてそれが無いことを自ら疑い、その疑惑を晴らすために奮迅 するという、<蒼き狼の血の原理の発明>をしたことになる。
井上、大岡の論争に分けて入った、山本健吉は、「歴史と小説」という記事を寄せて、井上 作品を擁護してみせた(山本 1961)9)。
「史料によれば、成吉思汗の子供のジュチは、その身にモンゴルの血が流れているかどう かを疑わせるような、出生の秘密を持っている。その秘密を、成吉思汗自身にも負わせるこ とによって、彼の行動を強い意志による悲劇として裏づけることができる」(下線は筆者小長 谷による)。
こうして初めて、井上作品の文学的主題は<出生の秘密>であることを山本は明示したの である。それではいったい井上靖はいかにして『元朝秘史』から<出生の秘密>を創作した のであろうか。
そもそも<出生の秘密>という文学的テーマ自体は、『源氏物語』にも話の始まりとして見 受けられるものである。そして、とりわけ近代になると日本文学における中心的な主題とな ったことを斎藤美奈子が『妊娠小説』という近代文学評論で分析している(斎藤 1997)。
斎藤美奈子によれば、森鴎外の『舞姫』(1890)や島崎藤村の『新生』(1918)に始まって 近代日本文学には共通のモチーフがある、という。すなわち、男性主人公が恋愛をして相手 の女性を妊娠させてしまい、そのことに苦悶するというモチーフである。近代化の過程で、「自 由恋愛」と「立身出世」が人生の課題として同時に提供されると、「自由恋愛と立身出世のは ざま」でこうした妊娠(させる)問題が、形而上的にあるいは人によっては現実的に生じて いたのである。
日本の近代文学に発見されるこうした「妊娠」現象は、近代になって、家族こそが次世代 を作る場として固定されてしまったことと、そこから排除された性があることをはからずも 反映している。そして、もっぱら血縁で固定化されていく家族と、そこから排除された性の 営みが混在すると、男女にとっては倫理的責任問題が発生し、生まれた子にとっては誰の子 かという悩みが発生して「出生の秘密」が鮮明化するのである。
ただし、三浦雅士が『出生の秘密』で明らかにしたところによれば(三浦 2005)、自分自身
の出生を自分で目撃することはできないという点で、人間にとってそもそもそれは根源的な 秘密ではある。それを探求する欲望が小説家をして小説を書かしめる、と言う。さしずめ、 自ら養子に出されて養父母になじめずにいた夏目漱石などはその典型的な例であり、アイデ ンティティの模索の過程をそのまま小説として結実させていったことが知れる。
こうした近代小説の成り立ちは、近代家族の誕生と同様に、決して日本に限ったことでは ない。精神分析の分野において、フロイトは『夢判断』のなかで、両親との関係を想像上変 更するという幻想が患者に見られることを指摘し、これを「家族小説(Familienroman)」と 呼んだ。一般的に子どもたちは弟や妹が生まれたときに疎外感を感じるなどして、自らの出 自を疑ってみたりするものだが、強くこの観念に囚われたままであると出自を妄想してしま う。また、母を奪いあう構造的対立関係から父を憎むというエディプス・コンプレックスも 密接に関係することもある。こうした理解がひとたび発見されると、さらに理解は次のよう に進化を遂げていく。
フロイトの弟子であったマルト・ロベールは、この「家族小説」というフロイトの思いつ きを援用して物語へ転化するという小説論に展開してみせた。すなわち『起源の小説と小説 の起源』(原著は 1972 年)で、自分自身の起源を探求するという空想物語が、孤児の物語、 捨子の物語、私生児の物語に展開し、近代小説にまで発展するとした、とする。そう言えば、 吉本ばななの『キッチン』(1988 年)にもまた「出自の虚構」を容易に発見することができよ う。
概して小説家という職業人は、自分が何者であるかとか、いかに生きるかという問いに答 えようとして虚構を組み立てる際に、あらかじめ主人公の出自を不分明にしておき、そこか ら「家族」を創出していくという創作技法を援用するものであるらしい。フロイト風に言うなら、いわば出自妄想者の語りの形を多くの小説が模倣する。
以上のように、<出生の秘密>は、人間にとって根源的であり、したがって古今東西、文 学的創作上の秘訣である。この秘訣を応用しながら、広義の<出生の秘密>のうち、<妊娠 問題>(女性を妊娠させる問題)にこだわった文学作品が、日本近代文学には数多く生まれ たのであった。
そして、本稿で問題にする井上靖の創作したチンギス・ハーンの物語もこの<妊娠問題> という主題と深く関わっている。『蒼き狼』では、<妊娠問題>あるいは<出生の秘密>に関 連して以下のような挿話が冒頭から並べられていく。
1.テムジン(チンギス・ハーンの幼名)の母ホエルンは略奪されて、父のもとに来た。
2.だから、父エスゲイの実子ではないと異母兄ベルクトに陰口をたたかれた。
3.テムジンはその陰口の主である異母兄ベルクトを射殺した。
4.テムジンの第一夫人ボルテは略奪された。
5.略奪された夫人は、十数回にわたって敵将に犯された。
6.したがって、夫人の産んだ長子ジュチは実子ではない。 これらの要素のうち『元朝秘史』に記されているのは1と3と4である。また、6につい
ては明記されていないが、ジュチという名前が「客人」を意味しており、弟のチャガタイに 難癖をつけられて言い争うシーンが『元朝秘史』巻 11 にあることから一般に事実であろうと 了解されている。すると、2と5だけが井上氏による創作的エピソードだということになる。 6 つの要素のうちたった 2 つを追加したにすぎないのだが、こうしたエピソードの追加によっ て、まったく異なる理解が提示されたことは注目されよう。
オリジナルの『元朝秘史』では、テムジンの父エスゲイは、オンギラート族の 1 つのオル クヌート氏の女性ホエルンをメルキト族から略奪し、テムジンが生まれた。テムジンは、別 の氏族の女性から生まれた兄を殺し、けれどもその弟を活かして生涯の部下とする。許嫁を 得るために、母の里であるオンギラート族オルクヌート氏への旅の途中で、同じくオンギラ ート族のボスクル氏と出会い、その女性ボルテをもらうことに決める。ところが、彼女はメ ルキト族に復讐として奪われたので、父の盟友や自身の盟友の協力を得て取り戻したものの、 生まれた子ジュチはメルキト族の血が流れており、ただし、そのことにチンギス・ハーン自 身が悩むことはない。
ところが、井上靖の『蒼き狼』では、テムジンは、自分自身に敵の血が流れていると陰口 をたたかれ、その悪口を言った異母兄を殺害し、ずっと自らの出自に悩み、がんばって自己 証明するしかないと思った矢先に、妻を奪われ、妻はさんざんに犯されており、彼女を奪還 してみたもののすでに敵の子を身ごもっていたので、生まれた長子に対しては自分と同じよ うに出自の欠陥を克服するように期待する、という物語となるのである。
研究翻訳が文学作品に転換されるときに、明らかに創作が生じている。この創作は以下の ように分解しておくことができるだろう。
第一に、『元朝秘史』では歴史的な事実として印象づけられるように記されていた「正妻の 略奪」という政治的ゲームに関して、井上は女性への強姦という挿話を明示的に付け加えた。 これによって、読者にとっては<妊娠問題>が明らかとなった。
第二に、略奪後、奪還前の妊娠を明らかにすることによって、読者をして<出生の秘密> に着目させた。
第三に、妻のボルテと息子ジュチについて『元朝秘史』に記されていた一連の事件<略奪・ 妊娠・出生>と同じパターンの挿話を、母のホエルンと息子テムジン(チンギス・ハーン自 身)にも発生しているかのように仕向けた。言い換えれば、井上は二世代にわたって<出生 の秘密>を繰り返した。これによって、いやがうえにも主題として<出生の秘密>が強調さ れた。
第四に、そうした<出生の秘密>を克服するために努力するという筋を井上は設定した。 「出自に悩む男が成功する」物語を父チンギス・ハーンと息子ジュチの二世代にわたって強 化して完成させた。
以上のように、文学の秘訣とりわけ日本近代文学の秘訣を念入りに取り込んで、『蒼き狼』 は世に生まれ出たのである。
荒木伊太郎の京都案内
編集後記&事務報告
8月15日モンゴルからもどりました。京都盆地の蒸し暑 さを我慢する日々です。
あちこちの大きな災害の報道に心が痛みます。
今年、セレンゲ県ズーンブレン学校が今年設立90周 年記念で盛大な祝賀行事があったそうです。約300名の来 賓を前に、モピとの交流事業、日本に招聘されたこと、 などなど発表されたそうです。
オンドルマー校長先生はパワー全開でした。その際、 日本滞在時にお世話になったこと、モピの方々に改めて お礼を述べられていました。
(オンドルマー先生は、モンゴルの文化勲章を受賞されたとのことです。)
郵貯事業で参加してくださった先生方へ変貌している運動場です。
立派な体育館が建ち、毎年少しづつですが設備もよくなっています。