■NO 153号 2014年11月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
『Voice from Mongolia,2014 vol.5』
ノロヴバンザトの思い出 その53
チョイル(その2)
朝日新聞東京版に「やまんば」紙芝居の記事が載りました
モンゴル歌舞団公演の感想
意味深い京都の佇まいを訪ねて
『Voice from Mongolia,2014 vol.5』
(小林志歩=フリーランスライター)
「子どもの頃は2、3 軒しかなかった店が、今はあちらにもこちらにも何軒も増えた。
帰省すると、うちのソムも発展したものだと誇らしく思う」
――― ジャヴザンスレン・造園技術者(21)、アルハンガイ県チョロート郡出身
JICA 草の根技術協力事業で植林技術を学びに北海道にやって来たジャヴザーは、チョ ロート郡出身。遊牧民からシンプルライフを学ぶ MoPI スタディーツアーのスタッフとし て、私が同郡ハイルハンバグを初めて訪れたのは 2002 年のこと(2006 年まで 5 回開催)。 ちょうど干支が一回りした午年の秋が運んでくれた、思いがけない出会いである。
ウランバートル市公共サービス機構の職員として、道路際の植栽などを担当している。 モンゴルでは、970 ヘクタールという広大な国立庭園公園の整備が始まり、苗木の生産が 急がれている。北海道から派遣された専門家による現地研修の後、受講者の中の優秀者 6 人が将来の指導者を目指して8月末から 10 月にかけて道内各地で研修した。6 人中 4 人 までをアルハンガイ県出身者が占めていることに驚いた。
(休日に訪れた帯広競馬場にて)
帯広市で指導にあたった苗木生産会社の方が「元々は酪農家で、牛 100 頭くらい搾っ ていたんだよ」と話されたときのこと。すかさずジャヴザーが「わたし、牛の乳搾りで きますよ!」。1頭の牛から 1 日に何リットル搾るのか、搾乳は機械 でするのか、などと次々に質問が飛び出した。作業着にゴム長靴姿 でも今どきの化粧とピアスを欠かさず、街の若者にしか見えない彼 女が、良質なミルクで知られる、のどかな風景の中に佇む姿が見えた気がした。
研修の合間に現地事情を聞いた。郡制 90 周年に沸くチョロート郡中心部では、様々な規模の乳製品工場や建設資材工場が稼働。建設 中のショッピングセンターは地元住民の雇用の場として期待され、 2階には保育園も入る予定。彼女が語るふるさとの今は明るかった。 特に誇らしげに話してくれたのは、昨冬首都のスカイショッピング センターで開かれた、チョロート産乳製品の展示即売会について。
「テレビや新聞で取り上げられて、すごく賑わった。多種多様なツァガーンイデー(乳 製品)を積み込んだトラックの隊列が着いたのよ」。ツァガーンサル(旧正月)前の極寒 の中、ふるさとからの一行を首都で出迎えた彼女の興奮が伝わって来た。 「同級生の多くは卒業後、進学や仕事で首都やアイマグ(ツェツェルレグ)に出た。親 が年老いているなど家庭の事情でソムにとどまり、家畜を見ている人も何人かいる。帰 省するのは年1、2 回かな」。首都からチョロートへは、長距離バスターミナルから週2 回ミクロ(マイクロバス)が出ており、片道 4 万5千トゥグルグ。アイマグまでは首都 から舗装道路がつながった(チョロート行きはアイマグを経由しない)。
ハイルハンバグツアーの写真を見せると、「私は小学2年生くらいだったはず。知って いる顔がたくさんあるわ」。差し出されたスマホ画面には、ツアー当時ハイルハンバグ長 だったボルドさんの写真。変わらず、お元気そうだ。フェイスブック上の同郡のページ では、90 周年記念ナーダムの様子も見られるそうだ。
かつての旅仲間と、経済的に恵まれないハイルハンバグの子どもたちへの教育支援活 動を続けているものの、私自身はもう何年も訪問できていない。ハイルハンが急に身近 に感じられ、当時出会った人々の消息を訪ねて草原を巡ってみたい思いに駆られる。キ ミのこと覚えている、変わっていない、と言ってもらえるだろうか…。ひそかに来夏の 再訪を夢見ている。
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「今月の気になる記事」
アルハンガイ県と言えば、そうです!大相撲秋場所で横綱がかすむほどの存在感を見 せたモンゴル出身の若き平幕力士・逸ノ城関(湊部屋)。力士を輩出した地として有名な バッツェンゲル郡へ彼のルーツを訪ねた記事からは、ワイルドな少年時代のエピソード とともに、変わらぬ牧民の暮らしが見えてきます。さあ、イチコ伝説序章のはじまり、 はじまり~。
名横綱ロー・グニーワンダンから6世代目の力士、逸ノ城・イチンノロヴの生家にて
(筆者:Э.フレルバータル)
「巨漢」A.イチンノロヴの幼なじみに会うために、バッツェンゲル郡ホタグティーンア ムに向かった。旋風が吹き、雨がぱらついていた。木々に縁どられた山には霧が垂れこ め、彼方に畏敬の念を呼び起こすハンガイ地方の山並みが見えた。 「ハダ-横綱はバダルチという小柄な人といつも一緒にいたといいますが、イチコとぼ くもまさにそんな感じで、ひとりは恐竜みたいに大きく、もうひとりはチビ。ソムの同 級生たちに『ラクダとヤギが一緒に歩いている』とからかわれていた。物心ついた頃か ら一緒でした」と話すのは、B.ゴンボスレンという若者。バッツェンゲル郡第 2 バグの 牧民だ。「日本語をどうやって覚えたのか、驚いています。ぼくらふたりは外国語の授業 で、落第点しかとったことなかったのに」。ゴンボスレンは最近結婚式を挙げ、新しいゲ ルを建てたばかり。出産後まもない新妻は郡中心の温暖なところで数日間過ごすため不 在で、ゴンボスレンひとりが実家とともに秋営地にとどまっていた。秋の最終月には冬 営地に移動するという。(中略)
―イチンノロヴの幼なじみと聞き、会いにやって来ました。子ども時代について話し て下さい。「イチコとは先日電話で話したばかり。日本へ行ってからは連絡を取っていな かったけれど、心にいつもいる、変わらぬ友達だから。ただ、大相撲で活躍しているの で、電話はつながらないだろう、と思いながらも、結婚したことを伝えたくてかけてみ た。しばらくして電話がつながり、『いつもテレビでお前の取り組みを見ているよ。こっ ちは変わらず、田舎で家畜の世話をしているよ』と話した。確か秋場所の 4 日目くらい でした。イチコは、昔のままで『こっちは毎日稽古して、場所に出場して、の繰り返し だよ。結婚おめでとう。そのうちにゆっくり会いに行くよ』と。イチコに『日本語などのように勉強したのか』と聞いたんです、だって、本当にふたりとも外国語の成績が悪 かったから。ロシア語や英語の単語を発音できず、間違えてばかりだったのが、どのよ うにして日本語があんなにペラペラになったのかと、驚いてね。そしたら『頑張ったら すぐできるようになるもんだ。日本語勉強したいなら、教えてやるよ』って、からかう ように言っていた。それから一緒にヤギの毛を梳き取った昔の話をして、笑い合った」
―どんな子どもでしたか。
「イチコは小さい頃から、穏やかで、性格のいいヤツだった。太っているけど足が速く て、鬼ごっこをして追いかけたら全員つかまえてしまうくらい。クラスのみんなにあだ 名を付けてからかったり、いたずらしたりして、先生を困らせていた。D.ダシドルジと ぼくら 3 人はいつも一緒だった。朝学校に行き、授業が終わって帰り、夜も誰かのうち に泊まる。春休みは、一緒にヤギの毛を梳き取った。(逸ノ城の父)アルタンホヤグさん の春営地はうちから近かったから。小さいゲルにヤギを入れて、仕事をしているふりを して出て行くんだ。イチコは、クラスに好きな女の子がいて、郡中心に行くと、好きな 女の子のゲルへ行って、彼女を呼ぶ。でも呼び出しておいて、何も言えず、つっ立って いるだけ。夜遅くに、お父さん、お母さんに追い払われるように帰ったものです
―いつも一緒に遊んでいた友達の相撲をテレビで見るのは嬉しいでしょう? 「本当に不思議な感覚。街に出かけていたとき、街の友人たちに『おれの幼なじみ』と いうと、人々がぼくに『おめでとう』と言ってくれて。一緒に遊んで育った友達が相撲 を取るのをテレビの前で見るのは本当に嬉しいことです。来年の夏に帰ってきたら、牝 馬をつないで、友を歓迎するつもりです。電話で『会いたいなあっていつも思っている よ』って話していましたから」
逸ノ城の幼なじみと話しながら歩くうちに、アルタンホヤグさんのゲル近くに到着した。 (中略)イチンノロヴの同級生、D.ダシドルジにも話を聞いた。卒業後、牧民になってい る。
―友達の取り組みは見ていますか?
「もちろん。欠かさず見ます。本当にいい相撲を見せてくれる。来場所が今から待ち遠し い。イチコとはずっとクラスも同じで、長年同じ場所で冬と春を過ごした。一緒に羊を放 牧してね。学校に上がる前から、子羊のいる母羊を追い、子ヤギを母ヤギのところに連れ て行き、仔牛を呼びに行った。いつも一緒にいました」
―ほかの子どもが乱暴なことをしたりすると、守ってくれたそうですね?
「イチコは、自分から相手ともめることはなかったけど、クラスの友達をほかの子どもか ら庇うことは多かった。上級生から庇おうとして、殴られていたことも何度もあった。入 学してから 9 年生で卒業するまで、イチコと相撲を取って、勝ったためしがなかったなあ。 普通、校内で体の大きい相手にだって、どうにかこうにかして一度くらいは勝てるものだ けど、イチコにだけはかなわなかった。イチコは 5 年生のときに、9 年生の先輩に勝って いたからね。本当に力が強かった」
2年生の冬休み。1歳の牛を馬捕り竿で捕まえて遊んでいたら、イチコは雪の中で引き ずられて竿を離してしまい、1 日中、竿を引っ掛けた仔牛を追っかけて回った…。そんな 話を聞いているうちに家主が戻り、客人のために羊を屠り始めた。(逸ノ城の母)ボロル トヤさんは内臓をきれいにしながら、「あなたたち街の若い子はろくなもの食べてないで しょうが。おいしいシュル(スープ)を飲んだら疲れが取れるよ。まさか脂身を食べられ ないなんて言わないだろうね。うちの羊は今年よく太っているからね」。地方の牧民とい うのはこんな風に客人を温かく迎えてくれるものなのだと実感した。
家畜の恵みをあますところなく受けた牧民、アルタンホヤグさんのゲルにおじゃまし、 地元の人々や遠方から来た客人それぞれに、泡立つ濃厚な馬乳酒を大きな椀になみなみと 注がれ、クリームがほとばしる、指ほどの厚さのウルムの皿を差し出されてのもてなしを受けた。さらに、息子が持ち帰ったという酒の封まで切られた。大相撲の世界で過去の記 録を打ち破り、新しいページをめくるような活躍ぶりのイチンノロヴのご両親は、ごく普 通の、穏やかで心優しい人々だった。翌朝早く、ごあいさつをして郡中心へと出発した。 ミルクを捧げ、いつまでもそこに立って車を見送るアルタンホヤグさんの姿が小さくなっ た。(後略)
―2014 年 10 月 9 日「ウドリーンソニン」 (原文・モンゴル語)(記事セレクト& 日本語抄訳:小林志歩
ノロヴバンザトの思い出 その 53
(梶浦 靖子)
ライナーノーツを書く
打ち上げの席でノロヴバンザドが歌った のが譜例 28 のオルティン・ドー「暖かく優 しい風 Ur’ khan khongor salkhi 」である。 最低音から最高音まで軽く2オクターブを 超える 曲を乾杯の音頭がわりに歌い上げてしまう のは、やはり並々ならぬことだと思う。
しかもこの曲の最高音(4段目、上のB ♭音)は、ショランハイ(裏声)ではなく 地声で歌われる。
オルティン・ドーの曲では、これくらい の高音はショランハイになることが多いの でこの歌い方はやや珍しい。このことは、 オルティン・ドーのショランハイが、高音 をうまく出せないがゆえの力を抜いた発声、 などではないことを示している。地声でも 十分に歌える音を、ひとつの表現としてあ えて裏声で歌っているのである。おそらく ショラッハイは、愛しさや切なさ、懐かしさ等々の感情の、感極まる様子を表現するものではないかと思う。ノロヴバンザドのショランハ イは地声の時と同じか、時にそれ以上の音量で響き渡ったものだ。
ノロヴバンザド一行が帰ってから何力月かして、CDの解説文、ライナーノーツを実際に書く ことになった。 92 年の夏にレコーディングした曲と、モンゴル音楽のジャンルや楽器の解説、歌 詞の翻訳、ノロヴバンザドら演奏者のプロフィールなどを私は喜々として書いた。モンゴル音楽 のことを人に話したい、伝えたいと思っていたがなかなかその機会が得られずにいた。それがふ いに得られたので、あれも書きたいこれも伝えたいと思いながら書くと、ずいぶんな字数を取っ てしまった。レコード会社の人には、「なんともたくさん書いていただいて」と言われてしまった。 字数が多いと原稿料も増える仕組みだったのだ。自分の書いた文章がいろんな人に読んでもらえ ると思うと本当にうれしかった。
この機会に、モンゴル音楽関連用語の特にカナ表記のしかたについて、自分なりの考えを反映 させることにした。たとえば、それまでは「オルティンドー」と表記されることが多かったのだ が、私はどうもこの表記に納得がいかなかった。字面が何か一つ足りない気がする上に、どこか 地味で野暮ったい印象に思えていた。そこで試しに「オルティン・ドー」のように単語の切れ目 にナカグロを入れてみた。するとたったそれだけで、字面がずいぶん華やいできらびやかになっ た気がした。このほうがオルティン・ドーの歌声の、壮麗な響きにふさわしい表記に思えたので こちらを採用した。「ボギン・ドー」「モリン・ホール」などもそれに合わせた。学術的に厳正な 根拠からというより、どちらが美しく見えるかで選んだわけである。外国語の翻訳にあたっては、 そうした基準も重要ではないかと思う。
また、それまでは「ボグンドー」のように表記されることが多かったのを、現地での発音とキ リル表記との整合性など考えて「ボギン・ドー」とした。下線部は、古語の影響もあるのか、確 かに「グン」のようにも聞こえるあいまいな発音だが、会話の中で「短いほうの民謡」というニ ュアンスで「ボギニン・ドー」のように言われることもある。その際はより明確に「ギ」と聞こ える。「ボグン」というカナ表記を日本人が読むと、本来の発音からかなり遠くなるので、こちら のほうが適切であると思った。
なお、キリル表記をローマ字転写すると bogino で、そのまま読むと「ボギノ」となるが、モン ゴル語では語末の短母音はほとんど発音されないので、やはり「ボギン」とするべきだと思う。
(つづく)
チョイル(その2) ―“オヤーチ”のお父さんとラクダのミルクー
(瀬戸岡文子)
《ウランバートルから鉄道でチョイルへ》
9月7日、川崎さんと私はウランバートル駅から朝9時15分発の列車にのりこみチョイ ルまで5時間あまりの鉄道の旅を楽しみました。川崎さんは夜行列車でゴビに行ったことが あるそうですが、私にとってモンゴル鉄道は初めての体験でした。駅までは私たちの若い友 人ドーギーと甥っ子のバッツラーが見送ってくれました。知りあって10年目になるドーギ ーはもう3児の母。この6月には3人目の女の子を出産したばかりです。彼女にあらかじめ “クォペ”というコンパ-トメントタイプの座席を予約してもらいました。車の2倍ほども 時間がかかる列車の旅ですが、体を横にできるゆったりとした列車の旅は車窓も楽しめてと ても快適でした。ほんとうは車内のレストランも体験してみたかったのですが、あいにく昼 の列車ではやっていなくて、お茶のサービスだけがありました。車両ごとの車掌さんが回っ てきてサービスをしてくれました。同じ車両には1人旅の日本人女性ものりあわせ、その列 車の終点、サインシャンドにある有名な仏教の聖地“シャンバリン・オロン”を訪ねるとの ことでした。(帰国後に見た『世界の車窓から―モンゴル鉄道』というBSの番組で紹介され たその場所は、横たわると大地のエネルギーで体の痛みをとる効果があるといわれているそ うです)
また今回の列車の旅ではもう一つのちょっとした楽しみが?ありました。 それは知りあいの留学生チメデー(ツェレンチメド、一橋大3年・前モンゴル人留学生会会 長)の実家のゲルが車窓から見えるというのです。ほんとうに見えるのかなあ?と思いまし た。チメデーの実家のゲルはトゥブ県バヤンソムにあり、アゴイト駅(ウランバートルから 122キロ)を過ぎて、ナランエルゲン駅(同じく148キロ)の4キロ手前、進行方向左 手だと聞いていました。3つのゲルがあり手前には馬の群れがいるそうです。「アゴイト駅に 着いたら教えてください」と車掌さんに頼むと、ちゃんと教えてくれました。「知りあいのゲ ルがみえるらしいので」と事情を話すと、列車備えつけの旅のノートに書くように言われま した。ぱらぱらとページをめくると、あっ、日本語を見つけました。8月14日にYさんと いう日本人女性が感想を書いています。・・・サインシャンドまでの車窓の景色を満喫し充分 にストレスフリーになりました。モンゴルの大自然に感謝し日本に帰っても仕事をがんばり ます・・・と記してありました。そのうちにチメデーのゲル地点が近づき、私たちは目をこ らして見つけようとしたところ、それらしきゲルが計3か所くらいありました。列車で十数 分走ってゲルがたった3か所!ほんとうにモンゴルは広い。そして人が少ないと思いました。 そのうち写真にとれたのは2か所でした。後日、本人に見てもらったところ、1つは実家の 北にあるゲルだということでした。もう1つは?「うちの南のゲルかなあ」とのこと。うー ん、ちょっと残念。 予定どおりの時刻14:40にチョイル到着。ゴビスンベル県の県都であり、ダルハン、エ ルデネトについでかなり大きな町と聞いていたのですが、線路から見るとそれほど大きい町 には見えませんでした。県全体での人口は1万5千人ほどだそうです。
《オヤーチのお父さん》
チョイル駅までデーギーに迎えに来ていただきホテルに荷物をおいて、いよいよご両親の 待つ実家へと向かいました。実家は町の中の木の塀に囲まれた通り沿いにあって、赤い屋根 の丸太組みのかわいらしい家でした。広い庭があり、家の隣にはゲルが2つ。そのゲルは草 原に住む親戚の子が町の学校に通うためにあるそうです。お姉さん夫婦一家もウランバート ルからやってきて、一家総出で私たちを心づくしのお料理でもてなしてくれました。
お父さんのツェグミドさんは62才。94才になるおばあさんも通りをはさんだ向かい側、 スープのさめない距離のゲルに一人暮らしをされているということで、とてもお元気そうな お顔を見せてくださいました。 “イヤリングとデールの組み合わせがとてもおしゃれなおばあさん”とお聞きしていたので、 手づくりのウッドビーズのネックレスをプレゼントしました。デーギーのお父さんは馬が大 好きで、毎日のように馬の見回りをするために草原までバイクで通っているのだそうです。 オヤーチ(馬の調教をする人)だとお聞きしていました。
この7月のゴビスンベル県のナーダム祭では、今年 もお父さんの調教した馬が5位に入賞した(かなり名 誉なことだそうです)と聞いていたので「ぜひそのお 話を聞かせてください。またその馬を見せてください」 とお願いしていました。お父さんは赤いリボンのつい たかっこいい帽子(県から認められたオヤーチの証明) をかぶって、たくさんの賞状やメダルを次からつぎへ と見せてくださいました。『歴史に永久に残る速い馬』 と題されたぶ厚い馬の本にはお父さんの若かりし頃の 写真とともにお父さんが調教して入賞した馬と騎乗し た親戚の子の写真がありました。
それは1990年に開催されたチンギスハーン75 0周年記念全国ナーダム、8才馬・25キロレースで、576頭中の2位と3位入賞!とい う輝かしい記録だったそうです。 立派な本の表紙にはナーダムに出る若い馬の絵がいくつも描かれていて、「これがダーガ(2 才馬)、シュドレン(3才馬)ヒャザーラン(4才馬)、ソヨーロン(5才馬)・・」・と指さ すのはお母さんのオトゴンスレンさん、もと獣医さんだったそうです。 まさに夫唱婦随です。1才の差を描き分ける画家もすごいですが、それを見分けるお母さん もすごーいですねえ。さすが馬文化の国ととても感心してしまいました。私たちはお父さん の馬話を陽が傾き影が長なるまでたくさんお聞きして、オレンジ色の夕焼けの中をホテルに 戻りました。
《ラクダの乳しぼり、ラクダのミルク》
翌日の学校訪問の後、お父さんの案内でラクダ飼い の牧民さんを訪ねました。 チョイル(ウランバートルから南西225キロ)のあるゴビスンベル県の西隣はドンドゴビ 県、鉄道でもう少し南下するとドルノゴビ県、ドルノゴビのさらに南西にはウムヌゴビ県、 もっとずうっと西にはゴビアルタイ県があります。この夏も親族で訪れたという美しいゴビ アルタイはお父さんのふるさとだそうです。チョイルは県の名にゴビという名前がついてい るだけにまさに“ゴビ”という感じの砂礫の大地でした。「草丈はそれほど高くはないけれど、 栄養にとんだよい草が多い・・・」とお父さんの説明を聞きながら、舗装の道をはずれて土 の道に入り、いくつもの分かれ道をお姉さんのご主人の運転する車で行くのですが、お父さ んは標識も何もない分かれ道に来ると、左とか右とか黙ったまま指さしてつぎつぎと行く方 向を示すので驚きました。すいぶんと行ったころ、ラクダを飼っている牧民さんのゲルに着 きました。このあたりではラクダを飼っている牧民さんは珍しいとのことでした。ラクダの ミルクは治療にも使われてかなり高い値段で売れるそうです。まずゲルに入ってあいさつし ラクダのミルクをいただきました。見るからにこってりと濃厚な白い色をしたそのミルクをはじめて飲みましたが、思いのほか飲みやすかったです。 その後乳しぼりを見せていただきました。柔和な表情の 母ラクダ(インゲ)が7、8頭ほど子ラクダ(ボドゴ)と 一緒にいました。やはりほかの家畜のように子ラクダに乳 を吸わせてから、人が乳しぼりをするのですが、ラクダは 背が高いので人は立ったままの姿勢で疲れないように片足をもう片方の足で休ませながら乳をしぼっていました。 母ラクダの1頭は今年生まれた子ラクダを亡くしてし まったということで、奥さんは母ラクダに歌を歌ったりし て気遣っている様子でした。人とラクダの距離がとても近 いものに感じられました。『ラクダの涙』という映画を見たことを思い出しました。
ゲルに戻ると、奥さんがアーロールをクリームのしぼりだしの口金を使って上手に作ってみ せてくれました。アーロ‐ルの形は家によってさまざまです。デーギーの実家では子どもた ちがやはりしぼりだしで、おしゃれなうずまきがたのアーロールを作ってガラスの器にきれ いに盛っていました。ラクダの家でおみやげにいただいたラクダのアーロールはいつまでも かたくならずに、とてもやさしい味がしました。
(※前の号で、紙芝居の達人を加藤政文さんと書きましたが、加藤正文さんの誤りでした。訂正します)
朝日新聞東京版に「やまんば」紙芝居の記事が載りました。
(梅村 浄)
日本の紙芝居をモンゴル語に 「両国の架け橋」
西東京市で子どもの言葉と心の相談室を開く医師の梅村浄(きよら)さん(69)が、日 本の昔話「やまんば」をモンゴル語に訳した紙芝居を作った。梅村さんは「両国の架け橋に なってほしい」と願う。
モンゴルとの縁は4年前。西東京市で開業していた小児科診療所を閉め、モンゴル大学に 1年間留学した。あらゆる子どもの病気を診療しながら、ライフワークとして子どもの言語 障害の相談に乗ってきた。きっかけは、長女が生後まもなく病気で半身まひになり、言語な どに障害が残ったことだった。「子どもの言葉は生活の中で育まれる」と考え、長女は普通学 級に通わせた。長女は高校を6年かけて卒業した。
「ハンディキャップのある子どもたちを教えてきたのだから、自分も年 齢のハンディに挑戦しよう」と始めたのがモンゴル語だった。なかなか単 語を覚えられず、発音も難しかった。帰国後も東京外語大モンゴル語科で 勉強を続けた。診療所は相談室として再開した。年1、2回、モンゴルを 訪れ、障害がある子どもと交流する。
「やまんば」は、祖母が自分たち兄弟に話して聞かせてくれた。画家に 描いてもらい、日本語の隣にモンゴル語の訳をつけ、今年4月、100部 を自主制作した。東京外大で教わったモンゴル人の客員教授が監修してく れた。
梅村さんは5月、日本国内のモンゴル人留学生の催しで紙芝居を上演し た。9月には、梅村さんとともにモンゴルの子どもと交流する女性が現地 で披露し、数部を学校などに寄付した。梅村さんは「両国がお互いを知る きっかけになれば」と話す。
残りは10部ほどになり、増版を考えている。1部2千円と郵送料。希望者は氏名と住所、 電話番号を書いて梅村こども診療所相談室(ファクス042・465・2481)へ。
モンゴル歌舞団公演の感想
(福島 規子)
ビルグーン・オンダラガ歌舞団の演奏会に行ってきました。泉佐野市役所に整理券を取りに行き、慌ただしく会場に着きました。泉佐野市とトゥブ県の交流1周年記念の式典の後始 まった演奏会は本当に素晴らしかったです。
第一声のホーミーから始まって、次々と大迫力のステージが続き、団長ソソルバラムさん が登場した時は重厚な歌声に感動しました。他にも沢山感動して演奏会は終わりました。 何だか今すぐモンゴルの友人たちに会いたくなって、帰って来ました。 悠人もウランバートルで見逃したモンゴルの演奏会に圧倒されたようでした。 10月13日の収録も見ることが出来たら嬉しいですね。
(10 月 13 日 民博で開催されるはずだったモンゴル歌舞団の公演は、台風 19 号の襲来のため中止になりま した。急遽お知らせした次の日の公演に行って下さった感想です。)
(事務局)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
京都・西陣にある「石像寺(しゃくぞうじ)」は、弘法大師が唐から持ち帰った石に地蔵菩 薩を自ら彫り、人々の「諸悪・諸苦・諸病を救い助けんと」祈願され弘仁10年(819) に創建されました。種々の苦しみを抜き取るお地蔵さんということから「苦抜(くぬき)地 蔵}と呼ばれていましたが、なまって「釘抜き地蔵」となりました。今も多くの人々が信仰 し参っています。
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