■NO 154号 2014年12月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
『Voice from Mongolia,2014 vol.6』
車椅子空を飛ぶ
チョイル その3
事務局便り
『Voice from Mongolia,2014 vol.6』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
(社会主義から市場経済への)移行期には食べ物が店から消え、配給制にさえなった。 それでも私たちは野菜を栽培していたから大丈夫だった」
――― アタルトンガラグ・農業技師(53)
トゥブ県ボルノール郡在住 寒冷地である北海道の農業貯蔵庫を普及して、モンゴル農業を応援することを目指す JICA 草の根技術協力事業に関わっている。この夏、日本人の技術者と、こちらで研修をしたモン ゴル人(以前当欄で紹介したエルカさんたち)が首都から 100 キロのボルノール郡にモデル 施設の農産物貯蔵庫を建設、秋の豊作がもたらした新ジャガイモ 2 トンが入れられた。さて、 日本一寒い北海道・十勝よりさらに 10 度も気温が低いモンゴルの冬を、乗り切れるか―。現 地で貯蔵庫の試験運用、活用を担うのがアタラーさん。モンゴルの農業普及センターで種苗改良などを担当する傍ら、農家として野菜を栽培・販売している。 農業大学卒業後に農業技師として同ソムに赴任して以来、ソムに暮らして 30 年になる。「今ではすっかり地元民ね。赴任した当時は、国営農場で大規模に農業が展開されていて、ドイ ツの技術を導入して機械化された大型の酪農場、温室などが整備されていたの」。92 年、国営 農場は民営化され、企業となったが、経営が立ち行かず、大規模な温室などの農業施設も差 し押さえられ、放置された。
モンゴル農業が衰退をたどったこの時期は、アタラーさんの子育ての時期と重なる。夫と ともにジャガイモやキャベツを栽培し、首都の食品ザハや街角で売ることで生計を立てた。
「長男以外の 3 人はボルノールで学校に通ったけれど、全員が大学 へ進学した。地方でも熱心な先生に恵まれたの」。次男は中国政府の 奨学金で内モンゴル自治区のフフホトへ留学。「私は中国へ子どもを 行かせるのには抵抗があった。でも当時 20 歳代前半だった長男に『こ れからは、北と南の強大な隣国のことを深く知り、関係を築くことが 重要になる』と説得されて」。子どもたちは医師や通訳として活躍、 すでに孫もいる。
今年 7 月、初めてボルノールを訪れた際、ソム役場が用意して下さ った昼食には、新鮮なレタスやキュウリ、トマトなどサラダの大皿が あった。「すべて、ここで育てた野菜ですよ」と言われ、驚いた。近 年、政府は農業を盛んに奨励、外国の支援を受けて「モンゴルの地方 を刷新するファームの会」という農業者組織が立ち上げられた。ボル ノールにも支部ができ、100 人以上が加盟しているとか。ジャガイモ以外にも、玉ねぎやキャベツなどの野菜を貯蔵する技術が求められているそうだ。
10 月、アタラーさんらは十勝に視察、屋外で作った氷を使ったジャガイモの氷室貯蔵のノ ウハウや、野菜の選別など付加価値を高める取り組み、近年盛んになった農家による加工・ 販売(いわゆる6次産業化)などの実践を見て回った。「ずっと畑で仕事をしてきたから、畑 がきちんと整備されているのを見て嬉しい。見飽きないです」。視察で訪れた直売所では、ボ ルノールの農業者が共同して、ウランバートルに野菜直売所を出す、とのアイデアが生まれ たそう。これまで重ねられた実践に新たな発想を加えて、モンゴル農業の発展につながることを期待しています。
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「今月の気になる記事」
遊牧民は大地を耕さない、野菜を食べない、は過去の話?ボルノール郡(ソム)のお隣、同じく農業が盛んなトゥブ県ジャルガラント郡の郡長が、近郊農業の発展ぶり、課題につい て率直に語っています。モンゴルの「明るい農村」の今が伝わるインタビューをどうぞ。
畑作と放牧をセットで発展させるために、政府による法やルールの整備が必要
(筆者:ムンフゾル)
トゥブ県ジャルガラント郡の郡長 D.ガンボルドに最近何が問題となっているかを聞いた。同郡は 2013 年の実践で国の最優秀郡に選ばれている。
―どのような取り組みが評価されて、国の最優秀郡に選ばれたのですか? 「トゥブ県には郡が多数あるため、地方発展基金からの交付金はかなり少ないです。わが郡 には昨年度 2 億 4500 万トゥグリクを割り当てられ、修正後の配分額は 2 億 500 万トゥグリク。 条例に従って、住民の希望を聞き、ナーダム広場と郡中心地の橋の建設のほか、校舎や道路 の補修に使いました。今年は、歩道を整備し、小規模の工場兼店舗を整備する計画で、一部 は既に入札に入っています。2013 年の最優秀郡に選ばれ、昨年 5 月には賞金として 1 億トゥ グリクが届きました。住民が議論して多数決で決めた用途に使っています。わが郡にはナラ ントルゴイという金の鉱床があります。最近、中国企業が 100 パーセント出資した「テンフ ン」社が買いました。同社の 200 人のスタッフのうち、100 人あまりが地元住民の雇用です。 私たちはこの企業に対して「高度な専門家はここで見つからなければ他から雇入れてもいい が、それ以外は必ず郡の住民を雇うこと」との注文を付けました。また郡の開発を支援する ことも契約に盛り込み、昨年1億 5 千万トゥグリクを受け取り、建設等に充てることができ ました。実際にはいろいろと大変なこともあります。例えば、私自身、賄賂撲滅機関に何度 も呼び出され、『多額の金をどうして手に入れた』など尋問に答えなければならなかった。書 類が揃っていたため問題にはならなかったですが」
―ジャルガラント郡はウランバートルから 135 キロに位置しています。他の郡に比べて首都 から近いこともあって、人口も比較的多く、発展しているのでしょうか? 「うちの郡は、畑として開拓された最初の郡と思っています。畑作に使われているのは 3 万 8900 ヘクタールです。このうち 80%あまりが活用されています。市場経済へ移行期には畑作 が衰退し、かなりの部分を活用できていなかったのですが、今年は1万8千ヘクタールの畑 で、小麦やジャガイモ、野菜を栽培しています。1 万 4 千―5 千ヘクタールは休耕中です。こ のように約 3 万 3 千ヘクタールが農地として活用されていることになります。人口は 7 千人 ほどで、そのうち 4 千人が郡中心で生活しています。90 社ほどの企業があり、そのうち 60 社が安定的に稼働しています。住民の生活水準も高く、人々は勤勉です。
―郡人口の何パーセントが畑作に従事していますか。 「90%近くが畑作をしています。全戸が敷地内で野菜を育てています。そうした人を含めず、 畑作に従事している人が約 90%という意味です。うちの郡では地下 2.7 メートルまで凍結し ます。それより低いところ、3.5―4 メートルの深さに貯蔵用の穴を掘り、野菜を貯蔵します。
貯蔵庫は 10 トンほど入る大きさです。それ以上の広さにすると、野菜が悪くなります。ここ で貯蔵している野菜は、冬にウランバートルに持ち込んで売る。郡の世帯の多くがこうして 生計を立てています。ジャガイモの収穫量では、トゥブ県は国内第1位です。郡レベルでは わがジャルガラントがトップです。ここ 3,4 年は 2 千ヘクタールあまりでジャガイモを栽培 しています。2012 年は 2 千、13 年には 2 千 500 ヘクタールでした。2012 年には国内全体で収 穫されるジャガイモの 4 分の1が郡産でした。秋には郡の人口は 1 万人にもなります。ドン ドゴビ、フブスグル、ウブルハンガイ県の各郡から収穫作業、大袋に詰めるなどの仕事をし にやって来るのです。今年は大袋1つ分を収穫して大袋に入れると、千トゥグルグが支払わ れました。他の地域からわが郡へ来る人たちは、ここへ来てジャガイモを収穫することを『韓 国に(出稼ぎに)行く』と言っているそうです。4、5 年前から毎年来ている人もいます。
秋の収穫期には、県知事、関係機関から許可をもらい、学校を 1 週間休みにして、作業に 参加させます。郡中心の学校は 12 年制、1200 人の子どもたちがいます。郡中心から遠い 2 つのバグには小学校があります。1 校は 200 人、もうひとつは 50 人規模です」
―畑作地帯では、放牧地にとって適正な頭数を越えて増える家畜との兼ね合いが大きな問題 になっています。あなた方の郡での状況はいかがですか。
「2013 年時点の数字で 14 万 6 千頭、今年1万あまりの仔が生まれたので約 16 万頭になった。 放牧地の適正規模の 2.9―3 倍にあたる数字です。郡の面積 18 万 6600 ヘクタールのうち、3 万 8900 ヘクタールが畑作地域、3 万 6 千ヘクタールが森林、9 万 6 千-10 万ヘクタールが放 牧地です。牧民の冬営地は農業者の畑の付近にあります。かつては、穂を取ったあとの残り は家畜に食べさせて冬を越させた。今は技術が進化して、土壌を守るために藁を粉砕して畑 に撒くようになっています。畑には家畜は入れるべきではないのですが、日常的に家畜が入 ってしまいます」
―家畜を殖やすかどうかは、個人の選択なので、対策が難しいまま、このような状況になっ てしまったのですか。
「社会主義の頃は、3 万 8900 ヘクタールの耕作地を 100 パーセント活用し、家畜の数は 4 万 5 千-6 千頭でした。大半が国営農場で、個人の所有は 10%程度だったので、調整はたやすか ったことでしょう。今はすべて住民の個人所有で、郡長に指図する権利はありません。放牧 地との調整が急務ですが、県庁や郡役場の権限を超えている。春、畑を耕して以降、収穫が 終わるまでは畑に家畜を入れてはいけない、と県と郡の役所から指示は出されるが、収穫が 終わらないうちから牧民は冬営地にやって来る。そうなる理由もたくさんあります。土地が 足りないので、小さい土地しか与えられないから、放牧地の草が食べ尽くされれば、家畜に 食べさせるものがなくなります。また 9 月以降は、学校や文化施設の近くにとどまりたい。 そうして、牧民は家畜を放牧し、きちんと見ないので、家畜が畑の野菜や種を食べてしまい、 揉め事になる。毎年この繰り返しです。われわれもこれといった対策が講じられずにいます。
-収量がなくなるほどなのですか? 「セレンゲ県は畑作地帯として知られているけれど、トゥブ県の 27 郡のうち、11 郡が畑作の さかんで地域です。この両県の畑作地帯のすべての郡で、土地の限度を超えて放牧されてい る。1990 年代初頭に、西の各県から多くの牧民世帯が入って来た。もちろん、皆家畜を連れ てやって来たので、それがもとで現在の困難な状況となったのです。畑作と放牧をセットで 発展させるなら、政府が法律やルールを決めることが必要です。私の意見ですが、畑作地域 を細かく規定して、そこの牧民は必ず集約型の牧畜を発展させるという措置が求められてい る。集約型というのは、改良された品種を定住型で飼うのです。定住は無理でも半定住型に 転換するのです。
-郡として品種改良に力を入れていますか。 「昨年以降、家畜を飼っている人は郡に転入させないようにしています。法律違反とも言え るが、転入を認めれば必ず、やっかいな問題が起こる。受け入れられる状況にないのです。
トゥブ県のバヤンツァガーン郡から羊を入れる話があったが、『今年は無理。来年から』とし た」
―今後、早期に対処すべき事業はなんですか。
「1960 年代に水資源の管理を担う省の大臣だったバルスボルドという人が、わが郡に大規模 な灌漑設備を整備しました。活用はされていないが、今もある。国有財産の民営化の際に、 この施設は政府の管理下に置かず、個人に払い下げてしまった。当時の県や郡役所の失政で す。払い下げられた個人は活用できず、長年放置された結果、故障した。できるだけ早い時 期に、この設備を政府が買い戻し、修理して活用することです。300 ヘクタールの畑に水を供 給する能力がある設備ですよ。この場所に、水を供給することが必要な野菜を栽培すれば、 政府が目標として掲げる野菜の自給率 100%に一歩近づく。設備の所有者は自力で修理して活 用はできないが、政府に売ることには異論はないのでは。当時は、お金を出すことなく、民 営化の青、ピンクの証券で手に入れたのでしょう。今売るとなれば、法外な額を提示するで しょう。郡役所はもとより、政府でも手が出ないかも知れません。―2014 年 11 月 6 日「モン ゴルニュース」
原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)
車椅子空を飛ぶ
(梅村 浄)
車椅子の在り処
今年の 7 月に大学医学部の同窓会があり、福岡に帰省しまし た。このところは 5 年毎に会を開いており、毎回、数人のクラ スメートが記念講演をしています。私も『モンゴルの障害児た ち− NPO ニンジンの活動— 』のタイトルで皆に話をしました。 NPO ニンジンは 10 年前からモンゴルの脳性麻痺の子どもたちに 車椅子を贈る活動を続けています。この春には、整形外科医が 中心となって、保健師、看護師
終了後、ホテルのレストランで夕食。フルコースの料理が終わり、皆がグラスを持って、 席を移動し始めた時、同じ小児科で研修し、現在は福岡市立こども病院長をしている F さん が、話しかけてきました。 「うちの病院が建て替えで、子ども用車椅子とベッドを新調するったい」 「このまま捨てるのはもったいないけん、モンゴルに送ったらどうやろうかね」
終了後、ホテルのレストランで夕食。フルコースの料理が終わり、皆がグラスを持って、 席を移動し始めた時、同じ小児科で研修し、現在は福岡市立こども病院長をしている F さん が、話しかけてきました。 「うちの病院が建て替えで、子ども用車椅子とベッドを新調するったい」 「このまま捨てるのはもったいないけん、モンゴルに送ったらどうやろうかね」ビールの泡がグラスの中で、何コか上がって消えました。私たちは学生時代のように遠い 眼をして、数千キロの旅をする車椅子の運命を、ちょっとだけ話しあいました。
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ニニンジンの顧問である整形外科医が、使われなくなった車椅子を療育センターの一画に集めておいてくれます。それを整備して毎年モンゴルに送って来ました。歩けない人にとって 車椅子は、またとない移動手段です。しかし、大きすぎれば身体が椅子の上で揺られ安定し ませんし、下腿の長さにあわない車椅子では足を固定できず姿勢 が定まりません。それに子どもの成長は早くてどんどん合わなく なります。という訳で、ここ数年は、車椅子が必要な子どもの身 体の寸法を測り、集まった中古車椅子を補整して渡すようにしま した。ニンジンメンバーである車椅子技術者のマジックのような 仕事です。依頼しても届くのは 1 年後になりますが、噂を聞きつけて 300 キロ先から車で子どもを連れて来る親もいますニンジンの顧問である整形外科医が、使われなくなった車椅子を療育センターの一画に集めておいてくれます。それを整備して毎年モンゴルに送って来ました。歩けない人にとって 車椅子は、またとない移動手段です。しかし、大きすぎれば身体が椅子の上で揺られ安定し ませんし、下腿の長さにあわない車椅子では足を固定できず姿勢 が定まりません。それに子どもの成長は早くてどんどん合わなく なります。という訳で、ここ数年は、車椅子が必要な子どもの身 体の寸法を測り、集まった中古車椅子を補整して渡すようにしま した。ニンジンメンバーである車椅子技術者のマジックのような 仕事です。依頼しても届くのは 1 年後になりますが、噂を聞きつけて 300 キロ先から車で子どもを連れて来る親もいますニンジンの顧問である整形外科医が、使われなくなった車椅子を療育センターの一画に集めておいてくれます。それを整備して毎年モンゴルに送って来ました。歩けない人にとって 車椅子は、またとない移動手段です。しかし、大きすぎれば身体が椅子の上で揺られ安定し ませんし、下腿の長さにあわない車椅子では足を固定できず姿勢 が定まりません。それに子どもの成長は早くてどんどん合わなく なります。という訳で、ここ数年は、車椅子が必要な子どもの身 体の寸法を測り、集まった中古車椅子を補整して渡すようにしま した。ニンジンメンバーである車椅子技術者のマジックのような 仕事です。依頼しても届くのは 1 年後になりますが、噂を聞きつけて 300 キロ先から車で子どもを連れて来る親もいます。
車椅子の引受け先
福岡こども病院の車椅子の行き先を探してみました。ひとつは 今まで続いて来たニンジンの車椅子プール。もうひとつは昨年訪れたバヤン・ウルギー県の障害児センターを候補にあげました。昨年まで、JICA の青年協力隊員だった T さんが、任期 が終了した後も、この障害児センターでボランティアをする予定だったからです。
早速、ニンジンの事務局にモンゴルまでの車椅子移送について相談しました。毎年、ニン ジンが活用してきた JICA の「世界の笑顔のために」プログラムに応募することになりました。 これは毎年、JICA が「開発途上国で必要とされている、スポーツ、文化、教育、福祉などの 関連物品のご提供者を、日本国内で募集し、JICA が派遣中のボランティアを通じ、世界各地 へ届けるプログラム」で、「国際協力への参加を身近に感じてもらうこと、および途上国への 貢献を目的に」実施しているもので、車椅子もその品目に含まれます。
私は 8 月末からモンゴルに滞在し、ウランバートルを拠点にモンゴル国内の障害児と関係 者に会いに行く旅をしました。最初に、バヤン・ウルギー県のウルギー市に行きました。モ ンゴルの北西部にあり、カザフ人が多く住んでいます。昨年の夏と同じく、T さんが、障害児 センターでの障害児の診察と指導をコーディネートしてくれました。センター長からは 「車椅子をぜひ欲しい」 「ウランバートルからウルギーに送るのは自分の方でできるから、日本側でウランバートル まで送ってほしい。」 と頼まれていました。送る目途がたっていると朗報を届けることができました。
初日は 7 人の子どもを診察しました。2年前に落馬して、脊髄損傷のため歩けなくなった 15 歳の男の子が相談に来ました。カザフスタン人でしばらく親戚の家に滞在しているときい た時は驚きましたが、バヤンウルギーに占めるカザフ人の割合は9割を越え、カザフスタン との行き来は頻繁に行われているのを知って、納得しました。同行したニンジンメンバーの Y さんは、PT(理学療法士)です。下肢のリハビリを本人とお母さんに教えました。
お尻が褥瘡になっていました。車椅子のクッションが薄く、長時間坐っていると坐骨のあ たりの筋肉が圧迫され、血液循環がさえぎられるせいです。坐りやすい姿勢をキープするよ うに成形したクッションがあれば、ずいぶんと楽になる筈です。 「なんとか、クッションを作ってくれませんか」と、お母さん。
T さんは JICA 隊員時代にウランバートルの外傷病院で働いていました。今後、この障害児センターで働くつもりですが、今、手元には材料がないこと、カザフスタンへの帰国時期が 迫っており、男の子の身体にあわせてクッションを作るには時間がないことを理由に、断ら ざるを得ませんでした。昨年、ウランバートルに車椅子整備店ができましたが、今年は閉店 していました。圧のかからないウレタン材も今は、外国から手に入れるしか方法がないよう です。
帰国後、10 月下旬になって、福岡こども病院から JICA の指定倉庫に 5 台の車椅子をおくっ たとのメールが届きました。これで、ウランバートルまでの輸送には目途がたちました。
ウルギーへの輸送方法
私と Y さんはウルギーからウランバートルに戻って、ニンジンに依頼された任務を果たす べく、通訳さんと一緒に、障害児親の会や健康医科大学に出かける毎日を続けていました。 ボランティアビザを申請するためにウランバートルに出て来た T さんとしばらくホテルで起 居を共にしました。私が留学用にとった学生用ビザは、モンゴル大学から日本のモンゴル大 使館まで留学証明が送られて来て、簡単に日本で取れました。ボランティアビザは用意する 書類が 10 種類くらいあり、一つずつを揃えるのに時間がかかっていました。
T さんは書類が揃うのを待つ間、ウルギーで使う衣類その他を入れたスーツケースを送りに 行きました。郵便局から送るのではありません。9 月末に降った雪の中をナラントール・ザハ まで、バスで行きました。ここはウランバートル最大の市場です。建築資材から衣類、靴、 鍋釜、茶碗まで何でも手に入れることができます。
ザハ前でバスを降り、ずんずん奥の方まで入って行きました。スニーカーで踏みつけると 溶けるくらいの初雪です。転ぶと骨折しかねないので、T さんが気づかってくれますが、彼女 も重たいスーツケースを引きずることができず、持ち上げてそろそろと歩きます。日曜日の午前中、雪のせいかお客はいつもより少ないようです。 ようやく車が並んでいる地区まで来ました。トラックのナンバープレートを見ながら進みます。まだ、ウルギーナンバーは見つかりません。一番奥に進むとようやく、何台かのウル ギー行きトラックが居ました。その中の 1 台を選んで、T さんは交渉を始めました。確実に運 んでくれる運転手かどうか確かめ、値段をかけあいます。水を含 んだ雪が斜めに降って、荷台を覆ったシートに積もっています。 日本からのボランティアとして、障害児センターで働くことを話すと、運転手が 「ああ、知っているよ。センター長なら顔見知りだよ。運んで行 って届けてやるよ」 「運賃?いらない、いらない」と言ってくれました。
念のために、トラックのナンバーを携帯に撮り、携帯電話の番号 を交換しました。
この運転手なら、今度日本から届いた車椅子を託せば、必ずウ ルギーまで届けてくれるだろうと思いながら、私たちはぬかるん だ道を歩いて、バス停を目指しました。
(2014.10.28)
チョイル(その3)
―草原の叔父さんのゲルとチョイルの聖地・チョイリンボグド山―
(瀬戸岡文子)
草原の叔父さんのゲルで
お父さんの弟さんが草原のゲルで遊牧生活をして、お父さんたちの家畜の世話をしてくれ ているとのことでチョイル郊外の叔父さんのゲルで牧民さんの暮らしぶりを見せていただく ことができました。
ゲルに入ると奥にはやはり数々の馬のメダルが飾られていました。現在お父さんの甥っ子の 若者がお父さんの指導の下オヤーチを継いでいるそうです。ゲルの正面には馬乳酒をなみな みと入れた大きく立派な陶器の器が置かれていました。叔母さんは私たちを歓迎して新鮮な 内臓料理をごちそうしてくれました。おいしくいただいてお腹いっぱいになり、あとでメイ ンのホルホグ料理が出されたときはすでにギブアップ状態になってしまっていました。
外では馬の乳しぼりがもう始まっていました。馬の乳しぼりの手伝いの若者は6年間も歯科 大学で勉強したけれど、遊牧が大好きで歯医者さんにはならずに草原に戻ってきたとか。もったいない?―でもそんな若者もいるのですね。
お父さんはいつの間にか立派なデールに着替え、重厚な銀の飾りの あるベルトを身につけて、馬つなぎにつないだ今年入賞をはたしたご 自慢の白馬を紹介してくれました。ちょんまげのようにむすんだたて がみとしっぽはアズラカ(種馬)にするためだそうです。そこで駿馬 と“オヤーチ”お父さんの威厳のある立ち姿の記念写真をパチリ。
子どもたちは、この見わたす限り360度の広い叔父さんのゲルの草 原を自分たちのものにして思いきり走りまわり、しぼりたてのバケツ に泡立つ馬のミルクに指をつっこんでは、そのほんのり甘い味を時お り楽しんでいました。家畜とともにこんな草原で夏休みをすごせるモ ンゴルの子どもたちをとてもうらやましいと思いました。
午後6時。夕やみのせまる中、牛の乳しぼりも始まりました。お手 伝いの女性と叔父さんの娘さんが牛の担当でした。娘さんが囲いから仔牛を出すと母牛めが けて一目散に突進する仔牛の姿には驚くばかりですが、その牛たちを扱う女性たちの何とい うたくましさ。デーギーのお姉さんも高校卒業まで夏休みにはよく手伝いをしていたので、 今でも乳しぼりがとても上手。勢いよくシュッ、シュッとやって見せてくれました。私がや
らせてもらったら・・一滴も出ないのに。 暗くなってゲルの中に入るとこんどは馬乳酒つくり。入り口近くに置かれた馬乳酒用の容器の棒をみなが交代でかき混ぜます。これも棒をできる だけ高くもちあげないといけないとか。その上何千回もかきまぜまるのは 重労働です。
つぎにかまどに火をおこし、牛乳を沸かし小麦粉を少し加えて、ひしゃ くですくいとっては高い所から帯のように何ども注いでは泡立てます。こ の作業もお姉さんはとても上手。公務員のお姉さんですがいつでも遊牧民 になれますね。鍋いっぱいに泡立たせた後ひと晩そのままおくと、翌朝に はおいしいウルムができあがるというわけです。
すっかり夜になってゲルの外に出てみると、12,3キロも離れたチョ イルの町の明かりがひんやりとすみきった空気の中、 はるか遠くにキラキラと光って見えました。その晩、私たちは着替えもそこそこにデーギー たち母子、お姉さんの家族、ご両親たちと同じゲルの中で一緒に休みました。 一つのゲルにつつまれて大家族で休んだその晩は、モンゴルに来てはじめて不思議なほどぐ っすりとよく眠れた夜でした。
チョイリン・ボグド山のツァガーン・ダリ・イへ・ボルハン(仏)
翌朝6時前だったでしょうか。お父さんに続いてゲルから外に出ると東の空が朝焼けで美 しくそまっていました。もうすぐ日の出です。いっぽうの西の空はぼーっとうすねずみ色と ピンク色にそまり、手前にゲルと家畜の群れがうかびあがってこれもまたきれいです。見と れていると次の瞬間には輝く太陽の光がパッと広がって世界が一変しました。川崎さんも両 手を高く上げてうれしそう。広―い草原でみる日の出は、ほんとうにぜいたくで豊かーしあ わせな気持ちに満たされた至福のひとときでした。
ほとんど見わたす限りの平地にみえたチョイルの大草原ですが、市の南西約40キロにチ ョイリンボグド山という山があります。お父さんの指さす方、はるか遠くにうっすらとその 山の姿が確認できました。ヘンティ山脈の“一番南のしっぽ”だそうです。 “ヘンティ、ハンガイ、サヤニイ、ウンドゥル・サイハン、ノローノード・・・・”お父さ んと一緒にモンゴルの有名な詩人ナツァグドルジの“わが故郷”という詩の一節を口ずさみ ました。美しい祖国をたたえる詩の冒頭に出てくるのが、そのヘンティ山脈です。 私たち一行はおいしいできたてのウルムと甘い干しブドウ入りのハイルマグを朝ごはんにい ただいた後、 叔父さんのゲルに別れをつげ、チョイリンボグド山のふもとにあるチョイルの聖地へとむか いました。道中、チョイルの広い草原は野生動物の宝庫とききました。ゼール(野生鹿ガゼ ル),グルース、オオカミ、キツネ、ウサギ、タルバガ。山には希少動物のアルガル(野生の 羊)、ヤンギル(野生のヤギ)も生息しているとのことです。
チョイルでゼールの大群を見たという人の記事を読みましたが、そんな野生動物の大群をひ とめ見てみたかったなあ。2台の車は少しづつ山道に入って行き、お姉さんの運転するセダ ンタイプの後続車もがんばってついてきていました。
その場所に着くと、青いハタグの向こうの岩にはチ ョイルの人々の守り神である“ツァガーン・ダリ・イ へ・ボルハン(仏)”という名の女神が描かれ、手前に はアーロールなどたくさんのツァガーン・イデー(乳 製品)がお供えしてありました。お父さんがお香をた いた後、みなでお母さん持参のお供えをおいて乳をさ さげ、オボーを回ってお参りしました。 チベット文字が書かれた岩の穴に頭を入れて、願い事 をするとかなうということでした。 ニンジェーは何をお願いしたのかな?・・・それはヒ・ミ・ツだそうです。 反対側のはるか向こうには白いお堂のような建物が一つだけ見えます。昔からこの地は仏教の聖地であり、たくさんのお寺が連なるようにあって千人もの修業をするお坊さんたちがい たそうです。が、1930年代の仏教弾圧の時代にここにあったすべての寺院が経典ととも に全て焼かれ、多くの僧たちが殺され犠牲になったという悲しい歴史を聞きました。僧にな り親戚の尊敬を集めていたお母さんの伯父さんもその犠牲者の一人だったということでした。 そして私たちは新しく再建された向こうの側のお堂にも行ってお参りをしました。静寂の中、 真っ青な空がどこまでも広がっていました。
そのあと、お父さんの案内で、近くの鉱泉(飲むと胃腸によいという湧水)、23年前に日 本の技術協力で開発されたというチョイルの大規模な露天掘りの石炭鉱山(埋蔵量は今後3 00年分もあるとか)、またその地下水をくみ出してできた人造湖(深さが250メートルも あるそうです)などをまわると、いつの間にか美しいモンゴリアンブルーの真っ青な広い空 にはぽっかりと浮かぶ白い雲がいくつもいくつも連なっていました。そんな絵にかいたよう なモンゴルの空と白い雲の連なりを、車の窓ごしに心ゆくまで 満喫しながら、私たちはモンゴル・チョイルの大地からのあふ れるほどのエネルギー・パワーをもらってウランバートルへと戻りました。
帰国してもうだいぶたつのに、チョイリンボグドの岩山に描かれたボルハンの風にはためく青いハタグの前で、押し花にし て持ち帰ったアギ(ヨモギの仲間)は、人造湖の湖畔でお父さ んに摘んでいただいたフムール(野生のニラ)ととともに、ま たチョイルでのたくさんのなつかしい思い出とともに、今もま だ驚くほどに強く香っています。
事務局便り
(予告)
モピ通信155号から、チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣 ホルツ氏インタビューの連載開始にあたって 小長谷有紀 連載が始まります。ご期待下さい。
(お知らせ)
MoPI新年会ご案内
日 時 2015年2月14日(土) 午前11時30分
ところ 肥後橋 ”除園” (詳細は、モピ通信次号でご案内いたします。)
会員親睦の場に、ぜひご参集下さいますようお願い申し上げます。
みなさま、どうぞよい年をお迎えくださいませ。
(事務局 斉藤生々)
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