■NO 162号 モピ通信

■NO 162号 2015年9月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

 

 モンゴル大統領来日BSフジTV生出演

 ホルツ氏インタビューの連載(7)

『Voice from Mongolia, 2015 vol.14 夏休み編』

 ノロヴバンザトの思い出 その60

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

 雑感

 

 

 モンゴル大統領来日BSフジTV生出演

(スタッフ 村上雅彦)

ツァヒャー・エルベグドルジ、モンゴル大統領来日 BS フジ TV 生出演

「日本との連携でアジアの未来は」をテーマに5月22日 BS フジ TV に出演されたモンゴル 大統領の発言記録(要旨)をご参考までに2ヶ月に亘りレポートします。 政治・経済・歴史を踏まえた現在の大統領のお考えがよく理解できると思います。

【レポート No.1】

1.エルベグドルジ大統領の主なスケジュール

20日(水) 首脳会談 夕食会

21日(木) アジアの未来に関する国際交流会議での演説、晩餐会

22日(金) 日・モンゴル経済委員会、経団連榊原会長と会談

23日(土) 東京競馬場「モンゴル大統領賞」授与式

24日(日) 大相撲,観戦

25日(月) 帰国

2.キャスター

反町 理 / 松村未央

3.インタビュー内容

松村:安倍政権になって4回目の来日ですが、もともと日本にはどのようなイメージを持っていたのか。

大統領:日の出ずる国と昔から見ている。1990年の難しい決断をした時に最初に助けてくれたのが日本だ。苦しい時に友達の真の力がわかるという言葉があるが、電 気が止まった時に発電所の修理をしてくれたり、バスが動かなくなった時に、日 本から援助としてバスが来たり、都会の方に人々が流入してきて学校が足りなく なった時に、学校を作ってくれたり、救急車がなくなった時に、救急車を支援し てくれたりとか、モンゴルへの援助は的を射た援助だった。日本政府、日本の国 民に対して感謝の気持ちを忘れていません。今や。一方的に助ける時代から、お 互いが助け合う関係に移行しつつあります。

反町:1989年の12月というと、ソ連邦の崩壊よりも前、当局からの監視とか弾圧はなかったのか。

大統領:有りました。非常に抑圧があった。困難な時期だった。やるなら恐れるな、恐れ るならやるな、という言葉がある。目標は対話のもとに解決する事ができるとい うことだ。力を使ったり武器を使ったりせず、集会をして、紙の上に私達の要求 は何か、これについてみんなで話そう。複数政党が必要なんじゃないか、競争が 必要。複数政党があればもっと良い政治家が出てくる。国民の選択のもとに指導 者を選ぼう。遊牧の国だが、家畜は国の所有だったが、私有にしようと。宗教の 自由がなかったが、宗教の自由を求めていこう。いくつかの要求を挙げて集会を した。最初は少なかったが一週間毎に増えていって、3月には10万人の集会と なった。一つとして窓ガラスを割ること無く,一人として流血すること無く改革 を成し遂げた。政治の改革と経済の改革を同時にした。1990年の7月に初め て複数政党制の民主的な選挙をした。 今年が25周年。自由選挙の後に、民主的な内閣が組閣され、新憲法の策定にな った。その時私は27歳。最初の国会議員に選ばれた。

反町:日本からモンゴルへの投資・貿易が活発化すると思うが、期待するものはなにか。 大統領:私達にとっては、高い技術を期待している。2010年国会で演説する機会を与え られた。その時に言ったことは、モンゴルに天然資源が有る、日本には高い技術が 有る、その2つを組み合わせれば大変大きな成功が出来る。日本の企業の皆さんに いったことは、日本は調査に時間をかける。他の国は早く参入してくるが、日本の 企業の皆さんは早く来て下さい、モンゴルは用意ができていると。その後大きな経 済交流が進んできた。共同事業について具体的な事業がどんどん進んでいる。今日 経団連の会長とお目にかかった。昨年経団連のフォーラムに参加した。新しい民間 企業の交流が進んでいる。石炭の公団、インフラ、鉄道建設、発電、日本の企業と 協力が進んでいる。安部総理のスピーチでは、アジアにおいて近い将来経済交流を 政策的に進めていく、モンゴルの大地に眠るたくさんの褐炭がガス化技術によって宝の山になるとおっしゃつた。この分野での協力が大きなものとなる。 反町:モンゴルの地下資源を輸出するルートはどういうルートを念頭に置いているのか。

大統領:ロシアと中国を必ず経由しなければならない。通貨輸送協定を結ぶ事が第一だ。そ れは料金がかかる、その軽減を求めている。昨年9月に習主席が来られた際に、中 国とモンゴルの間で通過輸送協定が締結された。詳細な手続き的な詰めに入ってい る。ロシアでも同じような交渉が行われている。 昨年、モンゴルと中国とロシアの三カ国の首脳会談が行われた。その間でどうやっ てインフラを解決するのか、三カ国の枠組みで話し合った。具体的な交渉を詰めて いる。新しいインフルを作る必要性も有る

反町:鉄道路線、何処からどこまで結ぶのか。 大統領:モンゴルの炭鉱から中国に260キロの鉄道を引き、同じ炭鉱からロシアに1300キロの鉄道を引く。2つの出口が有ることが重要だ。 反町:ロシアを通ってきた場合、ウラジオストックが凍って輸出できない場合北朝鮮の羅津から輸出するということも考えられるのか。 大統領:現実的だ。使う話はできている。

松村:AIIB への参加はモンゴルにとってどういう意義があるのか。
大統領:モンゴルは AIIB に当初から参加している。モンゴルはシルクロードが通っていた。 アジアとヨーロッパを結ぶインフラだった。ロシアと中国という大きな国の間にある。アジアから荷物をヨーロッパに行くのは14日で出来る、今は40日かかる。 近道になる。地域にインフラの開発にモンゴルは積極的に関わるべき、できるだけ 参加していく。モンゴルと中国ロシアの3つの国の経済回廊を作るという計画も有 る。

反町:アジアに対するインフラ投資は、安倍首相は AIIB とは別の枠で増やしていくと話し ている。モンゴルからすれば良い傾向ではないか。

大統領:モンゴルは柔軟に対応していきたい。両方共協力すべき対象だ、国境を接する2つ の国との関係は避けて通れない。隣国との関係は友好的関係だし、モンゴルロシア 日本、モンゴル中国日本、そういった三カ国の枠組みの交渉も有る。どの国とも開 かれて交渉していきたい。

反町:AIIB は、中国が派遣力を見せつけるための組織、アメリカと張り合う舞台、という 見方が慎重論の中には強い。

大統領:中国は国際的舞台の中で責任ある国として出てきている。中国の主席がモンゴルを 訪問した時に、はっきりいったことは、国境を接する国とは善隣関係を行う、互恵 的である、国益を尊重すると。中国はモンゴルの独立と、領土の全体性とモンゴル の選んだ道を尊重するとはっきり言った。それはモンゴルからすると信頼だ。それ を尊重する。

反町:中国の人たちは、こういうことを言う。30年後40年後の中国は必ずアメリカを 超える経済規模を持つ。世界で最強の国になる。将来見越した時に日本はアメリカ 一辺倒で良いのかと。日本が、アメリカ側に立って中国と対峙しているのは、将来 を見越した時にどう感じるのか。

大統領:モンゴルも一時期世界の超大国だった。陸地の最大の国を作った。大きいというこ とは責任が伴う。他の国や、田の民の権益を尊重しなければいけない。イニシアテ ィブを取っていかなければいけない。この責任を隣国が担っていくことを信じてい る。2つの隣国との関係はモンゴルの外交の最優先策だ。その一方で第三隣国、他 の国々の関係も重視している。日本、アメリカ、EU,その関係も更に拡大していく。 モンゴルのこの政策を2つの国は理解してくれている。

反町:南シナ海で中国は係争中の島に埋め立てをして滑走路を造り、アメリカの偵察機に 対して威嚇をしている。フイリッピンや、ベトナムにそういう態度をとっている。 日本はそこを警戒している。信頼の根拠は何処にあるのか。

大統領:対話において解決してほしいというのが私の立場だ。アジアの未来で、私達は新た な構想を提示した。アジアは国連加盟国48カ国ある。アジアには、国際機関が東 アジア、北東アジア、中央アジア,地域によって分かれている。経済インフラも分 野ごとの統合だ、48カ国の参加するプラットフォームがない。そういう機関を作 ってはどうか。その原則は、大きな国は小さな国の意見を聞くような機構であって 欲しい、それぞれが自らの独立と領土の保全と国際法の尊重と言った原則の下に協 議するプラットフォームを提唱した。モンゴルは領土の紛争を抱かえていない。そ ういった問題に寄与することが出来る。

 

 チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣

ホルツ氏インタビューの連載(7)

小長谷有紀 (人間文化研究機構・理事)

7.国営化の流れ

K:1921 年の人民革命後に設立された人民政府は、鉱業分野に含まれていたすべての工場を「国 営工場」にするという政策を取り始めたのですか?

H:そうです。そして、当時モンゴルで、鉱業分野で営業していた工場を「国営工場」にする か、あるいはそのまま「個人会社」にするかというのは大きな問題でした。これはどの国で も、その国の政治、経済、社会によって決められる問題です。モンゴルでも同じです。1921 年に人民革命に勝利した後、モンゴルの政治、経済、社会関係はすべて変更されまし た。モンゴルはソ連に次いで世界で 2 番目に社会主義国への道に進みました。社会主義制度 は私有財産を認めません。私有財産をなくし、その変わりに新しい社会資産、つまり、国有 財産を作り、それに基づいて存在する社会です。そして、人民革命勝利後モンゴルの鉱業分野に含まれて営業していた個人会社を「国営企業」にする政策を実施し始めました。人民政 府では鉱業発展の問題を当初は財務省が担当していました。財務省の中に「自然の発展」と いう名前の支部を新たに設立し、そこにこの問題を担当させました。財務省はまず「モンゴ ロル」協会の財産を没収し、その協会を「国営工場」にしました。この問題に対して人民政 府から「檄文」という名前の指示が出されていました。

1922 年に人民政府は「経済政策」を作成しました。そこには、モンゴル国政府がこれから も鉱業分野を徹底的に発展させる政策について挙げられていました。1923 年 8 月 30 日に人民 政府は「鉱山規則」を決定しました。この規則では、鉱業分野には国営工場だけが営業でき ることが詳細に示されています。この規則では、個人や個人会社が資源を調査、採掘するこ とを固く禁止しています。この規則は4条 52 節から成り立っており、この規則が制定されて 以降、鉱業発展に関するすべての問題はこの規則に従うようになりました。そして、この規 則が制定される前に個人や個人会社に出されていた、資源採掘に対する借地や契約のすべて は、この規則によって無効となりました。

1924 年、モンゴル地質調査事業は科学アカデミーが担当するようになりました。1923 年に 科学アカデミーの依頼でソ連科学アカデミーの地質調査隊がモンゴルで作業を行いました。 この調査隊は学者の I.P.ラチコフスキーが指導していました。I.P.ラチコフスキーが指導し たこの調査隊は 1923-25 年にモンゴルの中央地方たとえばハンガイ地方や、モンゴル西方の アルタイ山脈地方で調査を行いました。この調査隊と同じ時期にソ連科学アカデミーの地質 学者 M.F.ネイブルグ(1923 年)、V.I.キリジャノフスキー(1923-24 年)、E.E.コスティロフ、 N.M.プロコペンコ(1925 年)らの率いた調査隊がモンゴルの中央地方や東方で、Z.A.レベデ フ(1925 年)の率いた調査隊が西方のオブス湖周辺で地質調査を実施しています。1925 年、 ロシア科学アカデミーの代表 V.L.コマロフの指導のもと、「モンゴル委員会」という機関が設 立さました。この機関はモンゴルに来ているすべての調査隊の活動を組織していました。1929 年、モンゴル科学アカデミーとソ連科学アカデミーのあいだで、地質分野で協力する長年の 条約が決定されました。この条約でソ連側はモンゴルの土地で水文地質学の調査を開始し、 町や郡、そして、牧草の水に関する問題を解決する目的で事業を開始していました。そして、 モンゴルの地質図を作成する事業も始めています。1928-29 年にソ連科学アカデミーの地質調 査隊がモンゴルの東部で作業していました。この調査隊を地質学者 N.G.スミルノフが率いて いました。この調査隊はモンゴルの商工省大臣 S.ダンガーの依頼でドルノド県のバヤントゥ メン郡、ジャルガラント郡の地域で石炭の調査を行いました。1938 年にモンゴル科学アカデ ミーの地質部門を部局にして拡大させました。部長にモンゴルの初めての地質学者 J.ドゥゲ ルスレンが任命されました。彼は 1920 年の後半ごろに初めてフランスに留学したモンゴル人 です。その後、ソ連で地質学を専門にして留学していました。1939 年に「工場学校」が設立 され、1942 年に初めての生徒たちが卒業しました。この学校を卒業したほとんどの学生は鉱 業分野で働いていました。1940 年にモンゴルとソ連の合資による「ソブモンゴルメタル」協 会が設立されました。

1937 年からソ連科学アカデミーのドルノド地質調査隊が活動を始めました。この調査隊は 1957 年までモンゴルで活動していました。この調査隊の主な目的は軍事に関係するウォルフ ラム、錫、鉄、粘結炭などの鉱山を調査することでした。I.V.スターリンはこの調査隊の指 導者に「ウォルフラムの鉱山を発見すれば、その鉱山の大小に関係なくすぐに採掘しなさ い!」と指示を出していました。「ドルノド地質調査隊」はウォルフラムの鉱山をチョロー ン・ホロート、シャル・ハダ、トゥメンツォグト、チョノ・ゴル、モドト、不レンツォグト、 イヘ・ハイルハンなどの場所で発見し、採掘、選鉱する工場を設立しました。また、蛍石の 鉱山をベルフという場所で発見し、採掘、選鉱する工場を作りました。その後も、ナライハ、 ズーン・ボラグの炭鉱、ズーン・バヤンの石油鉱山を発見し、採掘していました。1957 年に ソビエト政府は「ドルノド地質調査隊」の活動を閉鎖し、調査隊の収集した地質調査資料や 研究所で使用していたすべての機械をモンゴル側に無料で提供しました。

1930 年の終わりごろからモンゴルは地質専門家を準備することに深く注目してきました。 1960 年ごろには地質学で留学して帰国した専門家の数はモンゴルでもかなり増えていました。

ときにはモンゴル国立大学の地理学や化学、物理学専門で卒業した学生をさらに地質学の専 門コースに入れて学ばせ、地質分野で働かせていました。そして、1950 年の終わりごろにな ると、中学校を優秀な成績で卒業した生徒をソ連、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリ ーに留学させ、地質学を学ばせていました。最初は 270 人の生徒がこれらの国に留学しに行 きました。私はその 1 人です。

1960 年から 1990 年までにモンゴルの地質分野に働いていた人びとを「黄金時代」と呼んで います。この時代にモンゴル地質学者たちはモンゴルの地質調査分野でたくさんの成功を残 しました。たとえば、14 種類の地質図、その中にはすべての種類の資源の鉱山、そして場所 を確定した地図などがあります。当時のモンゴルの地質学者たちの残したこレホド多くの活 動の成果が私たちに現在、良い影響を及ぼしているのです。

1990 年にはモンゴルでは 90 種類ぐらいの資源の 1,800 ぐらいの鉱山と鉱山がある可能性の 高い場所と、鉱山があるかもしれない 4,000 ぐらいの資源があるのは地質学者たちの調査で 明らかになっています。

白亜紀だけに 10 億、もしくはそれ以上の埋蔵量がある石炭の鉱山が 20 か所あることを確 定しました。これらの鉱山を利用するのは可能です。ウムヌゴビ県に「タワン・トルゴイ」 という場所に 6.4 億トン粘結炭の鉱山があるのを発見しました。タワン・トルゴイ鉱山から オボートの鉱山は 200 キロ離れています。この間には、埋蔵量の確定された4つの鉱山と、 未確定の 8 つの鉱山があります。

(次号の予告)

8.民営化以降の諸問題:オユー・トルゴイに焦点をあてて

 

 

『Voice from Mongolia, 2015 vol.14 夏休み編』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

今回は、夏休み編として、2002年から5年間、MoPI が主催していたスタディーツアーの開催地、アルハンガイ県チョロートソム・ハイルハンバグへの旅の話にお付き合い下さい。

つながる旅 ~ハイルハン再訪・2015夏~

8年ぶりに訪れたハイルハンの草原。小山をなす羊毛が積まれた大型トラックの周囲には 牧民と思しき数人の男性たちの姿があった。見慣れぬジープに気づき、その中のひとりがこ ちらに歩み寄る。真っ黒に日焼けした顔に浮かぶ「あんたら何の用だ?」と言わんばかりの 怪訝な表情が、一秒後、笑顔に変わった。それぞれに重ねた10年以上の歳月が消し飛んだ この瞬間。そうだ、このために私たちは、首都から600キロを走って来たのだ。「いつ来た? うちはすぐそこだから寄って行かないか」。名前を思い出すまで、しばらくかかった。丸刈り になり印象は少々変わったが、底抜けに明るいこの笑い方は…ハルザイさん!青空、草原の 薄緑と木々の深緑のコントラスト、人々の飾らぬ表情。記憶のなかのハイルハンは、そのま まの美しさで私たちを迎えてくれた。

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ここは、ウランバートルから西へ600キロの アルハンガイ県チョロートソム・ハイルハンバグ。 遊牧民のゲルに 1 週間滞在し、伝統的な暮らしの わざを学び、現地が抱える課題についても考える というスタディーツアーに、スタッフのひとりと して関わらせてもらった。受け入れる牧民家族に とっては、身振り手振りでのコミュニケーション、 食事は3度出して、日本人と暮らして気づいたこ とを「発見カード」に記録しろ、お土産の民族衣裳も用意して、などなど、「注文の多い」ツアーだったに違いない。良質のミルクが自慢の土 地柄、乳製品づくりに忙しい夏に、みなよく付き合って下さった。日本人を我が家によこせ、 と揉め事が勃発したのも今は懐かしい思い出だ。草原の「家族」に会いたいと、リピーター 参加も多かった。

ハイルハンに行きませんか、との呼びかけに応じて下さったのは、第1回参加者の城田貴 子さん、田中美恵子さん、第3回参加者の吉﨑清子さん、斉藤直子さん。そして、今回が初 海外、初モンゴルとなるチビッ子3人。城田さんと吉崎さんとは、ツアー参加者の発案で2 008年から始まった、経済的に苦しい子どもに就学に必要な制服や学用品を届ける「ハイ ルハンバグ子ども応援奨学金の会」の活動に共に取り組んで来た。ツアー当時のスナップ写 真を握り締め、バギーさんの運転する大きなジープに乗り込んだ。(吉﨑さんは体調がすぐれ ず、今回はハイルハン行きを見送り、首都近郊に滞在。出発前より元気になって帰国されま した)

ツアー当時はハイルハンまでは道中一泊、2日がかりだった。道路事情が改善した現在は アルハンガイの中心ツェツェルレグまで舗装道路の快適ドライブだ。そこからは草原の轍を たよりに車に揺られること数時間、チョロートソムに到着した午後6時、日はまだ高かった。 ハイルハンは予想外に近くなっていた。

まずは教育支援活動についての打ち合わせを兼ねて、チョロートソム学校へ行き、迎えて 下さったアンフバヤル校長先生らから情報収集開始。聞けば、アンフバヤル校長は当時ハイ ルハンで毎年ホームステイを受け入れて下さったトグトフバヤルさんの親戚にあたるという。 一家は現在ツェツェルレグ在住だという。校長はスマホで各所に問い合わせてくれた。

夏休みで人のいないソム学校の寄宿舎に泊めてもらい、翌朝、チョロート名産の濃厚なヤ ク乳のウルムとパンで腹ごしらえしていると、見たことのある顔が…!当時新婚まもない若 者だったバザルスレンさんご夫妻とお義父さん、11 年前に斉藤さんがステイしたご家族が、 隣のバグから駆けつけて下さったのだ。以前の印象そのままのお義父さんは脳出血の病後で 話すのに支障をきたすとのことだった。一方、ちょうど帰省中だったが首都在住という、奥 さんの妹は、垢抜けていて別人のよう。ハイルハンを離れても夏を過ごしに帰省し、故郷と のつながりは密であることが伺えた。

この家族から多くの情報を得た。トグトフバヤルさると同じく、当時ホームステイを受け 入れた牧民家族のうち何軒かはツェツェルレグやホト(首都)などに移住してバグにはいな いこと。息子たちの育児の傍ら乳搾りに追われていたチョーモさん家族が「千頭牧民」とし て表彰されたこと。元猟師で誇り高いマンダーさんや、私と同世代の牧民バトムンフさんら の訃報。前回選挙でバグ長が変わった後、バグセンターが寂れてしまったこと…。

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再会の喜びと期待を胸に、ハイルハンの草原を行く。途 中のゲルで尋ね、田中さんの次男で、中学生のときに第2 回ツアーに参加した雄馬くんのステイ先、オトゴンバータ ルさん宅へ向かう。ゲルから出て来られたのは、奥さんの プージェーさん。少し貫禄がついた(失礼!)が、歯に衣 着せぬ物言い、物静かで優しいご主人とのおしどり夫婦ぶ りも相変わらずだ。「8年も連絡なしでどうしていたの! 私は孫ができておばあちゃんになったよ」。

当時、小中学生だった男の子2人はすぐそばでそれぞれ 所帯を持っている。田中さんがスマホで髭面の雄馬くんの 写真を見せると「あー、面影あるね。1 年目に来たアヤコ、それからアボさんも元気だろうか」。 10 年以上たつというのに次々名前が出て来る。「暮らしは良くならないよ。家畜の値段は安い し、最近は行商も来なくなった…。物価は、誰が買えるのっていうほど高いしね。政治家は でたらめばかり」。愚痴が口をつくが、息子たちが結婚する際には数百頭の家畜を分け与えて 送り出したという。ふと目をやると、ゲルの屋根を支えるバガナの上方に、コードレスの赤 電話が置かれていた。その位置しか電波が届かないそうだが、ゲルに固定電話とは!声を聞きたければ、日本からかければ、この電話が鳴るのだ。

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↑トグトフバヤルさんのゲルで

ツェツェルレグでは、ツアー開始当時バ グの医師だったアンフバヤルさんらに再会。 「体調がすぐれず休んでいたのよ。そこへ 電話をもらって、飛んで来た。こうして会 えて本当に嬉しくて、今は元気いっぱいに なった」というアンフバヤルさんの手には 当時の写真があった。「第一回にステイし たヒトミは、そして何度も来てくださった 松本さんはお元気か」。仁美さんが最近出産 したことを伝えると、お祝いの品と手紙を 託された。「私の娘、ヒトミへ」とある。ツアーで出会って数年後に夫が急死、生活のため不本意ながらバグを離れた後は、アイマグ(県) 総合病院に看護師として勤務する。「9年になるけれど、今も、ハイルハンの人々との付き合 いが途切れることはないわ。バグセンターに賑わいがあったあの頃が本当に懐かしい」。当時 幼児だった娘たちは大人の女性に成長し、母の傍らに寄り添っていた。

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 ↑バグの医師だったアンフバヤルさん

首都近郊のトゥブ県バヤンツォグトにあるバギーさん経営のツーリストキャンプ『ハーデ ィン・ザム』(ツアーでも宿泊。年々グレードアップし、ますます快適に)に戻ると、首都に 移住したハイルハンの人々との再会が待っていた。田中さんの13年前のステイ先、ツォゴ ーさんと奥さん、そして子どもたち。ツォゴーさんは電気料金徴収人として、また奥さんは ミルク工場で、共働きで頑張って、近くゲル地区から念願のマンションに引っ越す予定なの だ、と誇らしげに話してくれた。

滞在中、多くの人から、メールや facebook のアドレスをもらった。 草原のゲルに直接電話をかけ、話せることもわかった。とはいえ、 例え物理的な連絡手段がなくても、いや、ないからこそ、ハイルハ ンであの夏を共に過ごした人たちの今を思い浮かべ、また会いたい と願うことによって、今日までつながっていたような気がする。

出会いを、『使い捨て』にしない」。ツアーを通じてハイルハンの 人々に教わったこと。電話もメールも悪くない。でも、やはり会っ て話すのがいちばん。とは言いながら、「これから行くよ~」の連絡 ができるようになったのはいい。ヤクが草を食むハイルハンでの、 次の再会が今から楽しみだ。

 

 

 ノロヴバンザトの思い出 その 60

(梶浦 靖子)

拷問のような演出

ノロヴバンザドの日本公演には通訳あるいはその補助のような形で何度か参加したが、舞 台の見せ方、演出などにまで関わることはできなかった。私のあずかり知らないところで、 知らないうちに決められているのが常だった。それでも、曲目や曲の紹介、音楽からのケア などについて若干、意見を出せることはあった。しかし、まったく関われなかった公演につ いてそれは望むべくもない。私の思いもよらないやり方で行われたコンサートもいくつかあ った。

その一つはこうである。私は観客として客席で見ていた。幕が上がると、モンゴル語の話 せる人物が司会となって、マイクを片手に演者を呼び込み、ノロヴバンザドの歌が始まった。 司会者は演奏者らを紹介し、曲や楽器の説明を口頭で話し、さらには演者との質疑応答も行った。 「いくつか質問してみましょう」と言って演者への質問をまず日本語で話しかけ、ついでモンゴル語で言い直し、演者の返答を日本語でしゃべる。その間、ノロヴバンザドと伴奏者は いすに腰かけて舞台に出ずっぱりだった。司会者は興が乗った様子で、モンゴル音楽やモン ゴルのあれこれについて、知っていることを饒舌にしゃべる。その間ノロヴバンザドらは置 物のように舞台でいすに腰かけている。気づけばその日の公演時間の半分以上が司会者のし ゃべりに費やされていた。まるで司会者の講演会のようで、ノロヴバンザドらはその舞台の 背景セットとして使われたかのようだった。

ノロヴバンザドらは何事もなく舞台をこなした。しかし終演後、私が教えられた楽屋に行 き待っていると、ノロヴバンザドは忿懣やるかたない様子で入ってきた。

「ああまったく、まったく!とんでもないことだ」
と、ぶちまけるように言った。 「オルティン・ドー(を歌う)にはしゃべるのが一番、喉に悪いのに!何だってあんなことをさせるの」 「きつくてしんどくて死ぬかと思った」らしい。さらに、声がだめになってしまうのでは、という不安と、なぜこんなことをさせるのかと、理不尽さに対する怒りでどうにかなりそう だったようだ。

前にもふれたように、オルティン・ドーは体力を消耗する歌である。一曲歌うごとに数 分ほどの休憩を取らなければならない。それも、人目を気にせずリラックスできることが 必要だ。そうしなければすぐに声が出なくなる。

それが、舞台に出たまま観客の目にさらされ、司会の言葉も注意して聞かなければなら ないのでは、休憩になるはずがない。その上、司会の質問に答えてしゃべらなければなら ないのである。喉の休憩どころではない。

声帯はデリケートな器官である。声が出しにくい状態で無理に出そうとしていると、ポ リープができるなど、発声に障害をきたしかねない。ゆえに、耳鼻咽喉科の医師やボイス トレーナーは歌の練習のし過ぎをいましめる。声の鍛練には「根性」や頑張り過ぎは禁物 とも言えるのだ。

歌ったことによる疲労と必要な休憩の度合いは、個人差もある。あまり休憩を必要とし ない歌い手もいるかもしれない。しかしノロヴバンザドは高い音域で歌うせいか疲労が大 きく、休憩も多めに必要であったし、何より当時すでに高齢だった。それを考えるならば その演出は実にありえないことだった。

これはまさに、オルティン・ドーという歌やその歌い手について、まったくわかってい ないからこそ成し得た演出と言えるかもしれない。まるで、疲労させて歌えなくさせよう としているかのようである。拷問を加えているにも等しい。

この演出を申し出られてノロヴバンザドはいったん断ったようだが、是非にと強く求め られたようだ。本国モンゴルではオルティン・ドーの曲の合間に歌手にしゃべらせるよう なことはありえない。経験がなかったからこそ、そんなひどい目に合うとは思いもせず、 つい引き受けてしまったらしい。

主催者としては、日本の観客にモンゴルの歌やモンゴルの音楽家をより身近に感じても らおう、より良く知ってもらおうという意図だったようだが、それならばホールでのコン サートではなく、例えばお座敷のような場所で、懇親の会でも開いてはどうだろう。舞台 で歌い手に質問してしゃべらせるにしても最小限にとどめて、舞台袖に引っ込んで休める よう時間を取るべきだった。

合間にしゃべりをはさみ、休憩も取らずにオルティン・ドーを何曲も歌うことがどれほど 苦しいことか、それを強いることがどれほど非人道的なことか、実際に歌う習練を積むでも しなければ、なかなか理解できないのかもしれない。だとしても、音楽家自身の意向や抱え る状況をもっと理解し尊重すべきではないだろうか。当時すでに高齢だった彼女の寿命を縮 めかねないやり方であった。

異国の文化を紹介するならば、その文化についてとことん知っていなければならない。

音楽家ができる限り良い状態でパフォーマンスができるよう、気を配るのが当然である。 そして、その音楽ジャンルに合わない演出はすべきではないのだ。私がコンサートの企画制 作に参加できたならこんなふうにはさせないのに、と思ったことだった。

(つづく)

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

今回は、五山の送り火「妙法」のすその京都・左京区松ヶ崎 東町にある松ヶ崎大黑天(妙円寺)です。江戸時代初期に開創 された日蓮宗のお寺です。

大国主命がまってあるので、五穀豊穣・子孫愛育・出世開運・ 商売繁盛、多くの人が信仰しています。

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1 松ヶ崎大黑天

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 雑感

お盆を過ぎてまだ暑さも厳しい中、原稿を寄せていただきましたみなさまに、まずお礼申 し上げます。ありがとうございました。

ビルが増えつづけているウランバートル市内写真、変わらない広大な草原、どちらもモン ゴルです。

黒板配布は、9月学校が始まれば届けられますが黒板の購入、プレートの作成、黒板にプレ ートを貼る、届けるまでのいろいろな準備は本当に大変です。累計1552枚。

モピのために、いろいろな形での陰の協力に感謝しています。

会費がまだの方のご協力も、合わせてお願い申し上げます。

モンゴル・2015夏

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市内を望む

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セレンゲ県

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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