■NO 164号 2015年11月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
ホルツ氏のインタビューの連載
『Voice from Mongolia, 2015 vol.16』
ノロヴバンザトの思い出 その62
深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からお知らせとお願い
チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣
ホルツ氏インタビューの連載
小長谷有紀 (人間文化研究機構・理事)
8.民営化以降の諸問題:オユー・トルゴイに焦点をあてて
K:現在、モンゴルや世界のメディアで投資者たちのあいだで起きている論争が大きな話題に なっています。投資者たちのあいだの論争が広がる原因はありますか?
H:論争が起きるたくさんの理由があります。まずは、「オユー・トルゴイ鉱山」を利用する ために必要な最初の投資額と総投資額は、最初に投資者側のあいだで話し合った額よりも何 十億ドルにも公文書史料ったことです。最初「投資条約」を結んでいたときは地上鉱山精錬 工場を設立するために必要な最初の投資額を 51 億ドルとしていました。しかし、今リオ・テ ィント・グループの発表では最初の投資額は 71 億ドルにまで増えています。最初の投資は精 錬工場が開始されてから終わるはずです。地下鉱山が開始されたことで総投資額は 146 億ド ルになると合意していました。しかし、今の状態では総投資額は 244 億ドルになることが明 らかになっています。このように投資額は最初の合意した額をはるかに上回ったことが、投 資者のあいだの論争が起きる主な原因となりました。この論争はモンゴルや世界のメディア で「大事件」となっています。
K:そうなのですね。ホルツさんのさきほどの話によれば、すべての作業が無事に進んでいて、 地上鉱山や先端技術のある精錬工場が設立されています。このような地上鉱山や精錬工場が 設立されると、さらに金額が上回る可能性はありますか?そもそも、最初の投資額と総投資 額が合意した金額より上がったことによって、どうして投資者のあいだで論争が起きるので すか?
H:論争が起きるとても大きな理由があります。投資者側のあいだで起きている論争の理由に ついての説明するために、少し歴史を遡りたいと思います。1992 年にモンゴルで第 4 番目の 「憲法」が新たに作られました。当時、私は国会議員でした。新しい憲法を制定する作業に 参加していました。この憲法には「地上や地下資源はすべての国民の財産である」という、 とても詳しい条項があります。このような条項はその前の憲法に挙げられています。これは モンゴルの国土の地上や地下にある資源は私有財産ではあってはならないと言う意味を詳細 に表しています。
新しい「憲法」が作られ、この憲法に従い、それ以前のたくさんの法律に改正を行う作業が始まりました。そして、1994 年に「資源法」を決定しました。私はこの法律を改正するメ ンバーの一員でした。私と一緒にモンゴルの有名な法学者 B.チメドがいました。この法律に は資源のある鉱山を貸地にする意見を初めて導入しました。しかし 1997 年にこの法律を完全 に無効にし、新しい「資源法」を作成しました。2006 年に改正しました。
この法律では、資源のある鉱山を「戦略的な効果がある鉱山」と「戦略的な効果がない鉱 山」という 2 種類に分けました。「戦略的な効果がある鉱山」には国家予算で地質調査を行っ て埋蔵量を確定した鉱山を含みました。このような鉱山の埋蔵量の 51%を国が保有するとの 条項があります。「戦略的な効果がない鉱山」には地質調査や埋蔵量を確定する作業を民間企 業の資金で行った鉱山を含みました。このような鉱山の埋蔵量の 34%を国が利用する条項を いれました。
この法律を国内外の投資者に対して作られた、彼らの依頼で作成した、間違いだらけの良 くない法律と文句言う人がたくさんいます。「オユー・トルゴイ鉱山」の利用許可や「投資条 約」は、この法律に従って作成されました。
オユー・トルゴイで地質調査を行い、鉱山の埋蔵量を確定する作業をアイヴァンホウ・マ インズ・インク・モンゴル会社が自分の予算で行いました。ですから、新しい「資源法」に よれば、この鉱山は「戦略的な効果のない鉱山」になります。この理由でモンゴル側は埋蔵 量の 34%、アイヴァンホウ・マインズ・インク・モンゴル会社側は 66%を保有することにな ります。
「投資条約」の締結時には 34%を保有するための投資をモンゴル側が負担するという問題 が起きました。つまり、総投資額の 34%をモンゴル側が負担しなければならいないというこ とです。モンゴル側にはこの投資額を出す予算はないです。そこで、リオ・ティント・グル ープからこの投資額を借りることになりました。このようにモンゴル側が負担すべき 34%の 投資額をリオ・ティント・グループに借りて投資しました。モンゴル側はリオ・ティント・ グループから 20 億ドル[訳注:世界銀行の報告書によれば 8 億 7 千万ドル]の借金をしまし た。リオ・ティント・グループはこの 20 億ドルは毎月 8%の利子を付けました。このように モンゴル国は大きな借金を背負うようになりました。2012 年 12 月の時点で利子は 7 億 500 万ドルになっています。
モンゴル側が鉱山を利用する総投資額の 34%を投資しているので(リオ・ティント・グル ープから借りた)、それに見合う利益を得るはずです。しかし、今はモンゴル側に配当される 利益額は相当の割合で下がっています。なぜなら、オユー・トルゴイ鉱山を利用する時に必 要な初期投資額や総投資額は当初の予定から大幅上がったことをさっき話しましたよね。し かし、モンゴル側の投資額は上がっていません。ですから、総投資額から得るはずのモンゴ ルの投資額は 34%ではなく、大幅に下がっています。そして、モンゴル側に配当される利益 も相当に下がることが明らかとなっています。この問題が投資者たちのあいだで論争が起き る主な理由となっています。
モンゴル側が得られる利益がこのように下がることは多くの悪影響をもたらします。まず、 リオ・ティント・グループからの借金を返す期間が長期化することは明らかです。モンゴル 側がリオ・ティント・グループに借金を返すまで、モンゴル側には利益がありません。当初、 リオ・ティント・グループからの借金を利子ととともに払い終わって、2019 年には最初の利 益を得ると想定されていました。しかし、現在、リオ・ティント・グループの計算によれば、 モンゴル側に利益がもたらされるのは 2033 年に伸びています。もしかすると、もっと先に伸 びるかもしれません。私たちはリオ・ティント・グループからの借金を返すこともできず、 そして利益も得られず、長期化する計算になっています。しかも、その間、リオ・ティント が埋蔵量の一番有利な場所を選んで利用し、一番利益の薄い場所だけが残る可能性がありま す。そのとき私たちはこの鉱山から何も利益を得ることができなくなるかもしれません。そ してモンゴル側はリオ・ティントに借金も返せない計算になっています。
そこで、モンゴル政府は、投資額や総投資額は最初に合意した額より多くなったことを説 明するよう、リオ・ティント・グループに要求しました。しかし、この問題をリオ・ティン ト・グループは無視し続けました。つまり何も説明しませんでした。そして、地下鉱山や地上鉱山を利用するためのマネジメント費用がかさんだことと、必要な機械の国際市場の値段 が上がった、と大まかな説明だけをしています。まったく責任感がありません。そしてモン ゴル側からは投資者間で会議を開催するよう求め意見ました。現時点では投資者間で 2 回会 議が開催されましたが、成功には至りませんでした。このような状況では、リオ・ティント・ グループはモンゴル側の出した問題をこれからも受け入れないでしょう。
これらの会議ではモンゴル国民に知らされてない、たくさんの違法行為が明らかになりま した。まずはアイヴァンホウ・マインズ会社がリオ・ティント・グループに株を売って、す べての投資権を彼らに譲渡する時にオユー・トルゴイの全面積の 70-80%を渡して、20-30% を「Entrée Gold」という会社に渡しています。そして、モンゴル側には全面積の 70-80%の 34%が当てはまります。全面積の 20-30%を Entrée Gold 会社に渡す許可をアイヴァンホウ・ マインズの依頼でモンゴルの資源電力大臣が決めています。これは明らかに違法です。
もう 1 つの違法行為は、リオ・ティント・グループの設立したオユー・トルゴイ株式会社 のすべての金融活動は、モンゴルの銀行を通さないということを、リオ・ティント・グルー プが決定していたことです。つまり、銅精鉱が輸出され、いくらで、どの国に販売され、ど のぐらいの利益を得たかについての情報はモンゴル側に一切入らないのです。先頃、マスメ ディアで得た情報によれば、リオ・ティント・グループの設立したオユー・トルゴイ株式会 社はモンゴルから産出した銅精鉱を輸出する契約を結んだそうです。しかし、どこの国のど んな機関と結んだのか、いくらで、どれくらいの量の銅精鉱を輸出するのかについての情報 をモンゴル側に一切出しません。これも違法です。それ以外には、モンゴルから輸出する銅 精鉱を調査する検閲所が、今もって設立されていません。検閲所が設立されないとモンゴル 側は、どのぐらいの容量のある銅精鉱が輸出されているかについてまったく知りようがあり ません。これはあってはならないことです。モンゴル政府は国の予算でこの検閲所を設立す ることになっています。(つづく)
『Voice from Mongolia, 2015 vol.16』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「通訳は、ただ言葉を訳すだけでなく、お互いの距離が近づくように、すべての面で手伝う のが仕事だと思う。モンゴル人が活躍できる場を札幌につくりたい」
― G.ウスフバヤル(30)、北海道大学博士課程在学中
札幌駅近くに新しく出来た商業ビル、赤レンガテラスで 待ち合わせをした。「モンベル(アウトドア用品店)の前 にいます」と携帯メールを送ろうとしたら、むこうから、 まさにその文面のショートメールが入った。もちろん日本 語で、である。携帯画面から目を上げると、ストレートの ロングヘアーに白いストールがよく似合うウスフさんの 姿があった。学生であり、2児の母でもある彼女と知り合 ったのはちょうど1年前、ビジネス会合でのこと。以来、 メールや電話でやりとりが続いているが、会って話すのは 初めてだ。
来日して6年、北大では食料市場学を専攻。学業のかたわら、最近は北海道内企業とモン ゴルのビジネス交流に通訳として関わる。つい先ごろは、Facebook 経由で、7歳児の脳腫瘍 手術を日本で受けさせたいという親から連絡が入り、札幌医大病院で手術に臨んだ親子を通 訳として支えた。博士課程の最終年というから、論文執筆等でさぞかし忙しいのでは、と聞 くと「博士を取るというのは積み重ねだからね」。出来る人は違う、と思わず唸ってしまった。
日本語能力は「流暢」という言葉以上、情熱あふれる言葉がよどみなく流れ出る。
留学前の2004年~08年にかけてはモンゴル国農牧業省で JICA の技術協力プロジェクトに関わ った。「日本の農水省から派遣されたアドバイザーとモンゴル側の意思疎通が本当に難しか った。そこで鍛えられたのが今につながっている」。「いちばん、丁寧に訳されている本だと 思うから」と聖書の日本語版、英語版、モンゴル語版を書き写し、語句を辞書で引いて学習 したというから、努力の人でもある。
サッポロ、と言えば、ウランバートルに古くからある店舗名から、今ではその界隈を表す 「地名」として通用しているが、「モンゴルではまだ日本と言えば東京で、北海道の知名度は 高くない。北海道とモンゴルの交流を、その交差点のところで、担いたい。モンゴルをもっ と知ってもらって、好きになってもらいたい」。
一足先に帰国、ウランバートルで暮らす夫とは当分離れての生活が続くが、『目標を高く設 定したほうがいい』と常に励まし、支えてくれる存在だそうだ。北海道のみならず、両国の 交流の交差点の、そのど真ん中で活躍してほしい。
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「今月の気になる記事」
民主化運動のリーダーであった故サンジャースレン.ゾリグ氏(1962-1998)が殺 害されたのは、私がモンゴルに通い始めた90年代終わりのこと。当時は「彼がもし殺され ずに首相になっていたら…」とその早すぎる死を悼む声を耳にし、街角の書店には彼の笑顔 が表紙となった書籍が並んでいました。選挙の度に政権交代が繰り返され、社会主義はもと より、移行期の混乱も、過去へと追いやられつつある今、ゾリグ氏殺害事件の風化を憂う政 治研究家へのインタビュー記事をお送りします。
(筆者:Ч.ゾトル)
-民主化運動のリーダーだった故 C.ゾリグ氏が命を奪われ、犯人が検挙されないまま 17 回目の秋が巡って来た。彼を忍び、話題にする人の数もほとんどいなくなった。しかし、国 際社会は彼のことを忘れず、列国議会同盟からこのほど声明が出された。生前の C.ゾリグ氏 と親交があり、彼について話題にする数少ないひとりとして、思いを述べてください。
「まず列国議会同盟という団体について説明の必要があるでしょう。国際的な団体で、各国 の国会と国会議員を対象に、多様な取り組みを行っています。そのひとつが、国会議員の人 権擁護、人権が損なわれるような状況が生じた場合に、損害を補い、守る手立てを講じるな ど幅広い活動があります。人権を担当する委員会を持っていて、そこが先ほど話したような 人権擁護の取り組みを担当しています。特に、国会議員が命を奪われるようなケースには、 特別な対応がなされます。ここでは時効は考慮されないようです。国会議員が殺されたケー スでは、犯罪について明らかにし、犯人を突き止め、法的責任を負わせるところまでを監視 対象とします。国会議員の命に係わる犯罪は政治的な動機がある、政治犯罪と考えます。故 ゾリグ氏の暗殺後、同盟に報告がなされ、わが国の国会内に T.エルデネビレグ議員を長とす る対策班が組織されていました。同盟から2001年に人が派遣され、業務にあたりました。 故ゾリグ氏暗殺の犯人検挙に向けた捜査の進捗状況、どのような支援が可能かなどについて 関係者と意見交換が行われました。その後、国会レベルでは書簡でやりとりし、公文書で報 告がなされていたようです。それから 14 年たち、同盟から再度人が来ました。今回の報告、 来られた方々の立場で見ると、この恐ろしい暗殺事件に長期にわたるなか、なぜ犯人が検挙 されないままなのかと驚き、捜査の進展が曖昧なので、現地確認を目的に来たものと理解し ています。報告書の総括では、真相が解明されないまま時が流れ、不明な状況を懸念する、 事件を明らかにするプロセスを市民に情報開示すべきとの見方が示されています。
―情報開示とはどのようなことを指しているのでしょうか。
「捜査のプロセスを公開するということではなく、取り組みの状況について説明し、報告し、 担当部署が責任を持って業務にあたることを指しています。今日において、事件の解明がど の段階にあり、警察や諜報機関にかつて組織されていた対策班はまだあるのかどうか。多くが不明瞭なのです。こうした問題点を明らかにすべきであり、そうしてはじめて事件を忘れ ず、監査を行うことができる。わが国においてこのような状況なので、列国議会同盟は『疑 惑が生じた』との声明を出しました。本当にそのとおりです。同盟という機関が 14 年たって、 『捜査をしてくださいよ。ゾリグ暗殺の真相究明はどうなったんですか』」と気にかけている 一方で、わが国ではこの 17 年という期間、今日に至るまで、政府、国会、権力者、司法関係 者は関心を示さず、年に一度、10 月2日の命日にゾリグ氏の銅像に花を手向けるだけでやり 過ごす。このような悔やむべき、残念な事態になっているのです。外部の人々、外国機関か ら懸念が表明されている一方で、国内の政界、かつての同僚や司法業界にも声を上げる人は、 見当たりません。毎年 10 月2日に C.オユン議員(訳注:ゾリグ氏の妹)が新聞のインタビュ ーに応じるほかは何もない。(中略)政界のこの状況は、国際議員連盟の報告書にも記述があ る。政治が本気で求めて初めて、犯罪の真相解明に進展が生まれる、と総括されているが、 私も100%同意見。現在、政権にいる人々の大部分は民主党員。以前は人民党も参加して の政権だった。どちらからも、政界から熱意は伝わって来ない。本当に残念で、情けないと しか言いようがない」
-98 年の事件直後に組織された対策班はどのような構成でしたか?
「犯罪なので当然、刑事が中心でした。国政の功労者の命が失われたので、政治的な陰謀の 可能性があるとして諜報機関にも対策班が組織され、連携して動いていました。業務が適正 に行われているか監査するために国会内にも委員会ができました。当時、国会議員だったト ゥムルオチル・エルデネビレグが代表を務めていました。今時の若者は知らないでしょうが、 60 年代に D.トゥムルオチルというモンゴルの政治・社会に尽くした人がいたのです。Ts.ロ -ホーズたちとともに政治的に追放され、ダルハンの定められた場所に暮らしていた 85 年 10 月2日に、何者かによって殺害されました。これも惨殺でした。故人の孫である人民党員 T. エルデネビレグが当時、故ゾリグ殺害の真相解明の中心となっていたのです。現在は政界か ら遠ざかっていますが。いずれにせよ、当時はそのような組織で動いていたのですが、20 00年にモンゴル人民革命党が圧勝し、H.エンフバヤル首相が就任して以降、対策班を統合 し、一つの大きい組織として対応すべしとの提案が出された。その方向で一体化された対策 班が4年間活動したが、04 年に与野党連立政権が発足した頃には対策班がどうなったかが不 明になった。その後、09 年に Ts.エルベグドルジが大統領になってからは、対策班を解体す る方向に進んだ。私の知る限り、諜報機関、警察の合同対策班が分化され、12 年の選挙以降 は何の動きもなく、D.ドルリルジャブが検察庁長官に就任してからは、ゾリグ事件を幕引き とすべき、との有り得ない話まで聞こえ始めた。現在、対策班がどのようになって、どこが 中心になっているのか不明です。その裏には、答えが見つからないままになっている疑問が いくつもあります」
-例えば?
「17 年という歳月は長過ぎました。この間に、事件当時に現場に駆けつけた人々、例えば通 報を受けて赴いた医師らの救護班、司法解剖にあたった医師、検視官、記録にあたった人な ど、多くの知人が既に亡くなりました。当然、真相解明は困難を増しています。それだけで なく、事件当時、現場で採取された証拠品や情報も適切に保管されているのかどうかも疑わ しい。透明性が必要と列国議会同盟が言っているのはこうした事情あってのことです。例え ば、事件現場から採取された毛髪や指紋、血痕等が出されても、それが本当に 98 年に採取さ れたものであるのかどうか証明することができない状況です。ゾリグ氏殺害の犯人を突き止 めるどころか、事件の手がかりも消えてしまったのではないか。何らかの理由で 17 年にわた って権力者が事件を曖昧にし、捜査を妨害し、真相は藪の中、という状態に持っていったの ではないか。事件にまつわる証拠品の管理についても多くの疑問があります。事件の重要証 拠が処分されたという情報も人伝てに聞いたことがあります。政権の方々に、この疑問に答 えてもらいたい」
-ありふれた事件のひとつでなく、モンゴルの大臣であり、首相就任間近と言われていた人が殺害されたのですよね。
「このような人物が命を奪われたのですから、政権が何代変わろうと、事件の真相解明の行 方に特段の注意が払われるべきです。人々の間に疑惑が生じないように、捜査が行われるこ とが重要です」
-冒頭で述べましたが、事件について話す人も少なくなりました。ゾリグ氏の仲間だった人々 が政界にいるのになぜでしょうか?
「そのことが残念でならないのです。かつて仲間だった人が何ひとつ声を発することもなく、 国際組織がモンゴルにわざわざやって来て情報収集をしているのです。事件について声を上 げている者として、この状況が恥ずかしい。毎日そのことだけ考えているわけではないにせ よ、私は 36 歳という若さで命を失った C.ゾリグが、17 年たっても事件の解決に至らないと いうことを考え続けています。この件で会いたいという人、新たな疑いが持ち上がるたびに 追い続けている。組織はなく、個人としてではありますが。最近も新たな事実が判明しまし た。事件の夜、警察・救急への通報がなされる前に、ソンギノハイルハン地区内のとある事 務所に匿名で『C.ゾリグが殺されてしまった』との電話が入った、というのです。この事実 を聞き込み、確認にあたった人々はその後、警察から免職になった。つまり、捜査の過程で、 捜査員の顔ぶれが変わってしまった。事件についての関連情報はすべて出尽くした感じを受 けています。諜報機関や警察にかつて勤務していたという多くの人にあって話しました。集 まったすべての情報をすり合わせ精査する中心となる組織がない。中心が定まっても、集ま った情報がどのように利用されるかも不明確です。 (中略)C.ゾリグという善意の愛国者が命を奪われた。この期間にモンゴルの政治に何がも たらされたかを考えてみましょう。殺された人がいるのに、周囲が何事もなかったようにや り過ごすという状態なのです。今日に至るまで目の前で続く粛清、と言い換えてもいい。つ まり、これは 98 年 10 月2日、民主化後のモンゴルに開いた扉です。次期首相と言われる誰 かの家を襲って、10 数回もナイフで刺しても良いのだ。大統領だった人でも家に押し入られ、 足をバタバタさせながら刑務所にかつぎ込まれることも有り得るのだ。ゲル地区に住んでい る困窮者にいくらか安い値段で石炭を届けたという理由でも刑務所送りになってしまうのだ。 こうした酷いことが、有り得ることとしてまかり通っている。これは民主化とは無関係で、 このことを皆で考えなければならない。
ゾリグ氏の名前を聞いたこともない、その功績も理解できない若い世代が増えています。 若い子たちは知らないでしょう。しかし、祖国については良い事も悪い事も知る必要がある。 そこから教訓を得るためです。この観点から、事件の真相が解明されるまで、どれだけ政権 が変わっても、安心はできない。社会を蝕む影響をもたらすことを考えてほしい。バレなけ れば誰かを殺してしまってよいのだ、秘密裏に粛清してもよいのだ、刑務所送りにしてもよ いのだ、何らかの理由で国民としての生活を奪われることもありうるのだ、そんなことがま かり通っている。それは 98 年 10 月 2 日の夜の、忌まわしい殺人から確かに始まった、この ことをしっかり理解すべきなのです」(後略)
(『ゾーニーメデー』紙より)
-2015年 10 月2日、政治ポータルサイト POLIT.MN
http://www.polit.mn/content/70598.htm
(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その 62
(梶浦 靖子)
小泉氏の残したもの
オルティン・ドーと日本の追分や馬子唄との類似を明確に指摘したのは、小泉文夫氏が 最初だろう。生前の氏は講演会でアジアやシルクロードの音楽といったテーマのおりモンゴル民謡も何度か取り挙げ、オルティン・ドーと追分などに共通する自由なリズムのこと を指摘した。そして、古代~中世の日本に大陸から馬と馬飼いの人々が渡来した逸話に言 及し、彼らの持ち込んだ歌がのちの追分や馬子唄のルーツとなった可能性を語った。さら に、世界の他の地域、朝鮮半島や中東のイランやトルコの伝統音楽にも、規則的なリズム と自由リズムの二種類の歌があることを取り挙げ、歌やリズム体系の伝播の可能性も示唆 した。そうした問題を考察する意味もあり、小泉氏の強い意向もあって、1979 年の ATP Aではアジア数力国に加え、日本の江差追分からも歌手と楽器奏者とが招かれ出演してい る。
こうした背景により、その後、モンゴル音楽とくにオルティン・ドーが日本で紹介され る際には必ず、「日本の追分に似た」という文言が使われるばかりか、オルティン・ドー と追分とが同じ一つの舞台で演奏されることもしばしばあった。モンゴルの歌手に日本の 追分の曲を覚えて歌ってもらうといった企画や、江差追分の全国大会にモンゴルの音楽家 がゲストとして招かれ、オルティン・ドーを披露する、といった具合である。「追分に似 た」はオルティン・ドーを紹介する際に必要不可欠な決まり文句になっていた。まるでオ ルティン・ドーと追分・馬子唄とは揃いで考えるのが正しい「お作法」であるかのようだっ た。
小泉氏はモンゴル音楽に関しては、音源資料として数枚のレコード(LP、シングル含 む)を参照し、モンゴル人民共和国にて数週間の調査をもとにしている。いかに天才だと しても、少ない資料や期間で多くを知ることは難しい。追分等との類似はいわば「初対面 の第一印象」のようなものだ。人でも物でも、初対面の印象や、他の何か誰かとの類似点 にばかり固執するのは、正しい理解のしかたとは言えないだろう。
追分とオルティン・ドーとを聞き比べる機会を得たならば、おそらく大抵の人が類似に 気づく。しかし、どうもそれが究極の定義であるかのように受け取られていたふしがある。 小泉文夫という高名な大学教授の発言であるということで絶対視するような向きが人々の 中にあったかもしれない。生前の小泉氏は、むしろそうした権威主義的な見方に批判的で あったと聞き及ぶのだが。
小泉氏はおそらく、日本民謡との類似については、モンゴル音楽の本格的な研究の方針 や可能性を指摘しただけで、けっして究極の定義というつもりはなかったのではないかと 思う。氏がもっと長く活動されていたら、モンゴル音楽についてもっと多くのことを語っ てくれたに違いない。
「追分に似ている」ということばかり強調されることは、オルティン・ドーにとっても、 当の追分や日本民謡にとっても良いことではないと思う。一番問題なのは、イメージが限 定され、理解が深められないことだ。私自身、オルティン・ドーを好きになった理由の一 つには、初めて聴くのになぜか懐かしい曲調が確かにあった。しかしそれ以上に、それま で聴いたことのない響きに強く惹きつけられた。「日本民謡と似ている」という解説では 後者のことが伝わらない。
また、日本民謡の側かモンゴルのオルティン・ドーとの交流、接近をはかるのは、古い ものと見なされている日本民謡に、世界的な広がりを持つもの、という新たなイメージを 持たせ再生させる意味があるように思う。しかし、当のオルティン・ドーが「日本民謡に 似たもの」と説明されていたのでは本末転倒だ。意味の堂々めぐりである。
日本民謡と過度に関連付ける演奏会を見て、主催者と接触する機会がある時には、上記 のように話をしたが、理解されることはほとんどなかった。私自身の力不足か、あるいは 私の考えが間違っているのかと思い悩むたび、「追分に似ている」という発言は、まるで 小泉氏の残した「負の遺産」のように思われたものである。
もちろん、そういうことではない。「追分との類似」は、むしろ調査研究の深化や新た な発見を促すものだと考えるべきだろう。日本民謡と似ていることはすでに指摘した、そ れ以外に何かあるか見極めるように、とのメッセージとして受け止めるなら、小泉氏の後 に続く我々の指針として大きな意味を持つに違いない。
小泉氏が思いを巡らせた、歌の伝播の問題については、具体的な証拠が得られる可能性は低く、古代のロマンにとどまらざるを得ないかもしれない。しかしそれ以外のこと、オ ルティン・ドーそれ自体についての知識、情報はまだ大いに発掘の余地かおる。ノロヴバ ンザドたちから見えてくるのは、モンゴル国のおもに首都の伝統音楽の状況と、モンゴル 国の対外的、代表的な音楽である。首都以外の地方の状況はどうか、まだレコーディング されたことのない楽曲はないか、見るべきことは山のようにある。私も、すでに見たこと を整理し終えたら、もう少し先を見てみたい気がする。
(つづく)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
世界文化遺産 醍醐寺 (京都市伏見区醍醐東大路町)
真言宗醍醐派の総本山 貞観16(874)年に弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝(りげん
だいし・しようほう)が創建した。醍醐・朱雀・村上の三代にわたる天皇の帰依により栄えた。
以後も、皇室をはじめ貴族や武士の支援を得て真言密教の中心的寺院として多くの信仰を集め ている。しかし長い歴史の中で何度も火災にあい、応仁・文明の乱では五重塔を残して消失荒廃 した。その後豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に秀吉と秀頼によって金堂や三宝院など再 建された。
現在は山への信仰が高まり修験道も活気を取り戻している。桜の時期には訪れる人は多い。
1 仁王門 2 金堂 3 金堂内の仏像 4五重塔
国宝・重要文化財の仏像・絵画・工芸品は霊宝館に納められています。
(霊宝館の中は撮影出来 ません)
事務局からお知らせとお願い
1 まだ提案の段階ですが、
モンゴルの子ども宮殿のバイオリンの先生からの提案です。
モンゴルでは、音楽は音楽学校に通う少数の特別な子どもたちがすると考える人が多いようで す。でも、それ以外にも子ども宮殿では一般の学校に通う子どもたちが音楽や踊りなどを習って います。
この先生は、バイオリン教育で、ロシアでマスターを取った人で、現在モンゴルの交響楽団で 弾いている人です。去年から子ども宮殿で教えておられます。
新しい先生ということで、今までの子ども宮殿の活動よりももっといろんなことを子どもたち にさせてあげたいと一生懸命です。いろいろな考えの中で、海外の子どもとの交流というのがあ ると相談を受けました。子ども宮殿の馬頭琴や踊りを習うこどもたちは、よく海外に行っていま すがそれ以外、特にピアノやバイオリンなどはそういう機会がありません。
そういう機会があると、今よりももっと励みになるということです。バイオリンを習っている 子の中にはゲル地区の子もいます。
むずかしい事かもしれませんが、片方の演奏を片方が聞くだけではなく、一緒に弾くことがで きるといいなあと思うのです。先生曰く、たくさんで弾くというのはとても楽しいし、とても勉 強になる、ということです。もしも日本の子どもたちがモンゴルで一緒に公演をやってくれるな らば、と。
モピ会員のみなさまを通して、そういう交流に興味を持つ団体があるかどうか、調べていただ きたいと思います。去年モンゴルの子どもたち行った発表会の子どもたちの映像がありますので、 見てください。高学年の子どもたちのものです。おそらくこれをもっと大きくしていきたいと考 えておられるようです。
(低学年の子どもたち)
どうぞよろしくお願い致します。(斎藤 美代子)
2 「モピ会員になって下さい」と呼びかけました・
10 月 8 日から 22 日まで、京都駅地下道ウインドーギャラリーでモピ活動報告と会員募集を目的 に写真展を開催しました。モピ活動の評価は沢山いただきましたが、会員の入会はありませんで した。どうかみなさま、モピ会員の勧誘にお力を貸して下さい。お願いいたします。