■NO 170号 2016年5月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
国際研究フォーラム
『Voice from Mongolia, 2016 vol.22』
ノロヴバンザトの思い出 その67
青山讃頌舎(あおやまうたのいえ)美術館の御紹介
意味深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からお知らせ
国際研究フォーラム
「ロシアと中国の国境:諸民族の混住する社会における
『戦略的パートナーシップ』とは何か?
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事)
シネヘン・ブリヤート人の口述史から
私たち、つまり中国民族大学のサランゲレル教授と、中国フルンブイル学院のソヨルマー 教授と私の 3 人は、フルンブイル地方で 2009 年から 2013 年の 4 回にわたり、100 人以上の人々 に会い、約 50 人の老人にインタビューを行った。そして、ブリヤート人(バルガを含む)を 中心に、ブリヤート人との関係に言及しているウールド人、ダウール人、エヴェンキ人を加 えて 24 人のテキストを整備した(印刷中)。本論文では、ブリヤート人に対して他の集団が どのように言及しているかに注目する。また、ブリヤート人の移動および越境活動がどのよ うなものであるかに注目して、テキストから抜粋する。
口述テキストを用いるまえに、シネヘン・ブリヤートについて以下に、簡単に触れておこ う。シネヘン・ブリヤート人の 20 世紀の苦難の歴史はすでにブリヤート人によって刊行され ており(ジャムス 2010)(ドルマ 2012)、論じられてもいるので(Baldano2012)、ここではシ ネヘン・ブリヤートの成立と放浪を簡単に述べるにとどめる。
シネヘン・ブリヤート地区の成立
シネヘン・ブリヤートは 20 世紀初にロシアから移動してきた。第 1 次世界大戦後、ロシア 「十月革命」が興り、やがてロシア帝政が倒れ、ソ連の新政権が成立した。それに伴ってロ シア国内には内戦が勃発し、非常に混乱した社会秩序が続いた。とくにバイカル湖周辺では、 ロシア革命に負けたロシア帝政の残留勢力が新政権への武力抵抗をおこない、ブリヤート人 は戦争に巻き込まれた。一部のブリヤートは混乱する不安な場所から逃げ出し、故郷から遷 移する道を選んだ。トゥンケンのブリヤート、セレンゲのブリヤートの一部はモンゴルへ避 難し、モンゴルのセレンゲ県、フブスグル県に移動してきた。アガ草原に暮らしていたアガ・ ブリヤートの一部は国境を越え、フルンブイルのシネヘンに避難してきた。モンゴルへ移動 したブリヤートは 4,600 戸に上り、1.6 万人に達し、スレンゲ旗、マラガイ・ウーラ旗、ハル ハ・ゴル旗、オノン・ゴル旗、オルジーン・ゴル旗 ユルォ・ゴル旗という 6 つの旗を構成 した。アガ・ドマに管轄されていたブリヤート人の一部は、エルグナ河、ダライ湖、メネン 草原、ハイラル河のあいだで遊牧していたため、その一部はフルンボイルの領域内で数年間 居住していた。1918 年、アガの官吏であるバザリーン・ナムダグをはじめとする数人が移住について相談するためにフルンブイルにやって来て、当時のメーリン・ザンギ庁の許可を得 て、シネヘン河、イミン河などを調査した。移住してきてまもなく、1921 年 8 月末、フルン ボイルのメーリン・ザンギ庁から公文書が出され、シネヘン草原をブリヤートに分け与え、 ブリヤート旗を成立させ、正式にフルンボイルに所属させた。当初、当該旗は約 170 戸、700 人をふくんだ 4 ソムによって構成された 1 つの行政単位であった。そして、ブリヤート人た ちはフルンブイルのメーリン・ザンギの管轄下に入り、中国に属するようになった。当該地 域はかつてペストが流行し、先住していたウールド人が去った場所であるため、高僧に読経 してもらい、はらい清めて民心を安堵した。その後、ブリヤート人たちは逐次に増え、数年 間、シネヘン草原のブリヤートは約 800 戸、3,000 人まで増加した。さらに、1929 年、シネ ヘンのブリヤート旗は東、西の 2 旗、8 ソムに分けられた。当時、ブリヤート人は次第に増え、 約 900 戸、4,000 人となった。現在、シネヘンのブリヤート人は 6,000 人に達したと言われている。
シネヘン・ブリヤート人の国内放浪
1920 年代初め、アガ地方出身のフブドグード姓のザイサン・ノヨンであるセレンジャヴが 一部のブリヤート民衆を連れてモンゴルに移住した。そのとき息子のリンチンドルジは妻子 がいたため、父についてこなかったが、1926 年に妻子を連れてアガ地方から直接シネヘン地 方に移住した。1929 年 1 月に鉄道事件が発生し、ロシアと中国の軍隊がハイラルから満州里 まで衝突した際、同年 11 月、リンチンドルジは 70 世帯を連れてシリンゴルへ逃げ出し、1931 年春にシリンゴル盟のホーチド王旗のモドンガギン・シルにたどり着き、1947 年までの 18 年間そこで暮らした。「ボトンガギン・ブリヤート」と呼ばれ、また「リンチンドルジのブリ ヤート」とも呼ばれた。1931 年春にシリンゴルに到着し、その秋に活仏パンチェン・ラマが フルンブイルからの帰途、そこに立ち寄った際、リンチンドルジはパンチェン・ラマを頼り、 シャビ旗すなわち領民となることを願いでて認められ、現地から放牧地を割譲してもらうこ とに成功した。しかし、1947 年に、国共内戦に遭遇し、ドロンノールの戦闘でリンチンドル ジはつかまり、残った約 300 人は西へ逃げて、バヤンノールのウラド、アラシャン、甘粛、 青海にたどり着いた。1950 年代から 60 年代に多くの人々はフルンブイルに帰還したが、こう した過去は、文化大革命(1966-77)のときの災いとなった。
『Voice from Mongolia, 2016 vol.22』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「生活って、そういうものでしょ」
-モンゴル人留学生、ウランバートル出身
モンゴル人と付き合っていると、不思議に思うことがある。彼らの日常にはどうしてこう、 予期せぬハプニングやトラブルが次から次へと降りかかってくるのか?頼りがいがある人ほ ど、そうなのかも知れない。携帯電話が鳴り、深刻な調子で話し込み、考え込む姿を何度見たことか。 「友人が出かけた先で車が故障して、助けを求めている」「家族そろって体調を崩した」「深 酒をした友人が地下鉄で財布をなくした」「生活費が足りなくなってクレジットカードでキ ャッシングしたいが、どうすればいいのか」…。同時に起こったわけではないが、このよう な連絡が飛び込んで来る。そうすれば、とりあえず今していることに何とか区切りを付け、 その後の予定を調整せざるをえない。思いがけない出費が生じることもある。
留学生の多くが、家族で滞在している。学業に追われる身ではアルバイトもままならない。 ひとりが生活するには十分な額の奨学金がある場合も、家族を養うには不足しがち。加えて、 自身や家族が何らかの持病を抱える人も少なくない。幼い子どもがいれば通院の機会も増え る。それでも来客があれば買い物や観光にも付き合うし、学生の引越しとなれば手伝いに出 る。「たいへんだねえ」と言うしかない私との会話の締めくくりが、冒頭のひとこと。
20年ほど前、アメリカ西部の牧場にホームステイしていたときのこと。そこで出会った カウボーイは、思うようにコトが運ばず落ち込む私に「ザッツ・ライフ(それが人生)」と言 ったものだ。時には「シット・ハプンズ(クソみたいなことはいつも起こる)」と付け加える こともあった。
モンゴル人の生きる、広い草原も然り。牛や羊のふんはいたるところにある。時にはまだ 新しくて、ベチャベチャのそれを踏んづけることもある(食事中の方がいたら失礼!)。忙し くても、頼まれれば人助けに走る姿を目の当たりにし「なかなかできないことだよ」とねぎ らうと、「そうしなければ、陰口をたたかれるから」と自嘲的なことばが返って来た。
日本では、多くの人は、もう少し平穏な日常を送っているように見える。日本人同士の関 わりにおいては、予定は余裕をもって事前に調整され、緊急の用事が飛び込むのはまれだ。 「人に迷惑をかけない」という社会的規範が行き渡っているからか、それとも何かが起これ ばこうすべし、という社会のしくみが出来上がっているからか、相当のことでない限り、他 人に突然助けを求めることはないし、求められることもない。
人に迷惑をかけないが深く関わることもなく、ほぼ予定どおり進む毎日って、人生と言え るのかい?冒頭の言葉は、そんな風にも響く。でも、と今は思う。もしかしたら、それは太 古の昔から天変地異が絶えぬ小さな島国に生きるゆえに、この国の人々が求め、築き上げて 来た社会のあり方だったのかも知れない、と。
今月の気になる記事 「ヘンティー、ハンガイ、ソヨンの高く麗しき山々…」で始まる、モンゴル人なら知ら ぬ人のない詩『わが故郷』(D.ナツァグドルジ作)。冒頭に登場する東の大地から、地方 行政や牧民の暮らしの現状を伝える記事を。
Ж.オユンバータル「チンギス市はモンゴル東部の発展を牽引することを目指す」
(筆者:Ч.ウルオルドフ)
ヘンティー県知事、チンギス市長を兼務するオユンバータルさんに話を聞きました。
-ヘンティー県ではこの冬、春の気候、牧民の生活はどのような状況でしょうか。
「わがふるさとでは、長い冬からようやく春を迎えています。正月前は南部では雪が少なか ったが、北部の各ソムは雪が多く降りました。その後雪は降らず、冬はさほど厳しくなりま せんでした。今は家畜の出産やヤギの毛を梳きカシミヤを出荷する作業など牧民は仕事に追 われています。 ヘンティー県では昨年の家畜頭数は350万頭でした。家畜セクターに合計1万2千500 人が従事しています。今年は160万頭の母畜が出産し、気候にも恵まれ、99.6パーセ ントが無事育っています。ヘンティーでは、年間約400トンのカシミヤを生産しています。 キロ平均5万5千トゥグルグで取引されています。5万7千まで上がって、その後下がりま した。昨年は若干高値で推移し、7万に届いたこともありました。県レベルではここ3年で 家畜総数が100万頭ほど増えました。90年代と比較して、数年来の家畜生産は順調にす すんでいます。家畜生産に伴い、地域に新たな雇用が生まれ、家畜セクターの収益も年々増 えています。昨年、県内の牧民による牧畜関連の収入は、337億トゥグルグとなりました。 県の経済に大きな部分を占めています。新たに牧民となった人は1000人あまりいて、年 に100人以上の新規雇用があります。昨年だけで120人が新たに牧民になった。県内に は1000頭~4000頭を所有する牧民が多数います。最高は7200頭で、ヘルレンバ ヤンウラーンバグの牧民、ムンフバヤスガランさんです。県庁としても牧民たちが家畜頭数 を増やすよう奨励策を講じて来ました。過去4年に、勲章を受けた県内の牧民は2人、国の 優秀牧民11人、『金の仔』表彰6人、県の優秀牧民73人を数えています。同時に、最多頭 数賞、5千頭所有や5種の家畜を生産する牧民らの表彰で奨励し、広報にも務めています。 牧民の労働と努力を評価する取り組みです。
-先ごろ、県内のすべてのソムを訪れて、現状を見て来られたそうですね。牧民が直面して いる問題は何でしょうか?政治に対するどんな意見がありましたか?
「牧民が抱える2つの課題があります。一つは、不況のあおりで家畜から生産する原料の価 格が下がっていることで、多くの牧民が懸念していた。もうひとつは放牧地の問題が深刻化 していることです。すべてのソム、バグで牧民に会って来たが、同じ声が聞かれました。ア イマグや隣り合うソム、バグの間で、土地や放牧地の使用をめぐって多くの問題が起こって います。放牧地の許容能力を超えた利用となっているのが原因です。政治が放牧地について の法律を制定する必要があることが見て取れました。それだけでなく、地方行政としてもこ の問題を正しく調整し、どのように放牧地を適正に活用するのかの方針を示す時期に来てい る」
-現在、畑作の問題も多く議論されています。ヘンティーでは畑作は重視されていますか。
「わが県の畑作の歴史は56年に及びます。国内における主たる畑作地帯のひとつです。畑 として耕して来た農地の総面積は9万ヘクタールです。このうち80%、7万2千ヘクター ルが畑として活用されています。この7万2千ヘクタールのうち3万ヘクタールは、ここ3 年に企業などが就農のため入手し、生産を始めたものです。近年、県の畑作の生産を2.5 倍にすることを目指す施策を実施しています。この春の播種では、3万ヘクタールで小麦の 栽培を行うことを目指しています。ジャガイモや野菜は700ヘクタール栽培される計画で す。この春に植え付ける小麦の種については、約30%を県から、70%を国から入手すべ く発注しました。県内には畑作に従事する企業・団体が36あります。この3年で、非常に 発展しています。投資もかなり増えています。新たに、大手企業が農業生産を始めています。 総計で、このセクターへの投資額は200億トゥグルグほどに及びます。最新の農業機械や トラクター、コンバインが入っています。種小麦のための大型の貯蔵施設も整備されました。 今年は新たに、製粉工場を建設しており、秋には稼働します。一日に100トンの小麦粉、 50トンの家畜の飼料を生産する最新鋭の技術を備えた工場になります。自ら生産した小麦 を、加工し、地元民に供給するのが目標です。かつて、わが県には『ボーダイン・ツァツァ ル』という大規模な製粉工場がありましたが、90年代の民営化で人手にわたり、倒産して しまった。新たな工場で生産の取り組みを再生するのです。まもなく農業者による会議を開 き、今季の生産に際しての協議が行われます」
-ヘンティーでは近年、社会問題に取り組む、多くの事業が実施されていますね。効果が上 がっているとのことですが、成果についてお聞かせください。
「県レベルで、知事提案の事業として社会経済の発展を目指す多くの事業を実施しています。 『健やかな県民』『県民教育充実』『雇用と収入ある県民』『安全で環境豊かな暮らし』『飲酒 なしの県民』『県サイバー化』などの各事業に取り組んでいます。このうち、過去3年、事業 期間の折り返し時点にあたりますが、5千人の新規雇用が実現し、多くの人が仕事と収入を 得ました。労働支援基金を通じて、合計25億トゥグルグの資金を調達し、雇用促進に取り 組みました。県民による中小企業の生産や起業を支援し、発展させることに力を入れていま す。ソム発展基金としても住民に3%という低金利の融資を行っています。中小企業支援融 資制度では年利7%で最大5年間の融資を受けられます。家族らによる小規模の起業や生産 を支援しています。『健やか県民』『県民教育充実』事業では、教育や保健医療分野の取り組 みを充実させました。成果としては、専門的機関による診断や診療センター設立に取り組み ました。県民にとっては、診断のために首都に行くという大きな出費や手間が減りました。 もうひとつの成果として、毎年、専門医のチームが各ソムを巡回し、診察や検診を実施する ようになり、がんなどの早期発見につながり、県民の健康を守る施策となっています。教育 分野の事業も数多く、『正しいモンゴル児童』『本』『才能』『教員の能力向上支援プログラ ム』などがあります。学ぶ環境を整備する方向で、機構改革も進めました。7つのソムに新 しい学校や保育園、4ソムに寄宿舎と文化センターを建設し、既に使われています。県の中 心部の住宅整備も力を入れ、千世帯が入れる集合住宅も整備しました。数え上げれば、まだ まだ出て来ます。住宅整備に際しては、県内に建設資材工場や集積地も作りました。今後の建設事業に役立つ基礎が築かれました。
-『飲酒のない県民』事業は国レベルでも成功事例として報じられ、注目されました。詳し く教えてください。
「個人に光をあて、人を豊かにする事業として実施しました。飲酒によりダメになった多く の人を治療し、立ち直らせ、社会に役立つ労働に従事させる。県やソム行政や発展に、この 人々を参加させて、彼らの力を生かしてもらう。支援を受けて、過去3年半の間に千人以上 が飲酒を断ち、『すこやかな暮らしクラブ』の一員となり、真面目に暮らしています。この人々 が将来的に社会復帰し、仕事や収入が得られるように、県とソムの政策で支援しています。 6億トゥグルグ以上の資金をかけて、彼らを支援したのです。成果のひとつとして、こうし た人が酒から抜け出せたことで、地域がより安全で穏やかな雰囲気となりました。県内どの ソムに行っても、アルコール依存性の人を見かけることはなくなりました。犯罪や違反の件 数も減りました。家庭内の犯罪や違反については50-60%の減少です。それだけでなく、 家畜泥棒も40-60%減りました。飲酒がいかに多くの社会問題を引き起こしていたかが よくわかります。酒の害を減らすべく、国や各県が真剣に取り組めばどれだけ大きな可能性 や成果につながるか、身をもって知ったのです」
-チンギスのまち、という地位を得てから、県として観光事業を発展させるべく、道路整備 に取り組まれましたね。よいきっかけが生まれていますか?
「チンギス市という名を得るにあたり、当初から地元は心をひとつにして取り組んできまし た。父祖から絶やさず受け継いだ伝統の担い手としての自覚が生まれました。意見の対立も ありました。この名を得たのはやはり正しかった、と示す事実がいくつかあります。ヘンテ ィー県の中心がチンギス市となって以降、2ー3年の間に様々な変化が起こりました。対外 的、国内のどちらからも、受ける扱いがまったく違うものになりました。国境を接する国々、 友好な関係を有する国々から観光の発展に向けて、特に、大ハーンの歴史をたどる観光旅行 をともに企画しようとの提案が多数来ました。ロシア、中国、韓国、トルコの関係者と協働 しています。ヘンティー県への観光は2012年以前の数字を見ると、外国人とモンゴル人 を合わせて、年間1万5千人ほどでした。それが15年の報告によると、5万人あまりの観 光客入り込みということです。こうなると、観光に力を入れない手はありません。また、観 光関連で、県に750億トゥグルグもの投資を行う事業も計画されています。建設や組立は 既に始まっています。政府と民間が協力して取り組む事業の数も増えています。チンギスの 名により、投資をひきつけ、観光客をひきつけることができた。将来につづく大きな恩恵を、 県や地方行政関係者はさまざまな形で感じています」(後略)『ゾーニー・メデー』紙より
-2016年4月7日、政治ポータルサイト POLIT.MN
http://www.polit.mn/content/78338.htm
(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その 67
(梶浦 靖子)
歌う活動を模索
1992 年に留学を終え帰国してから長く経たないうちに、自分が人前でモンゴル民謡を歌 う活動を模索し始めた。自分の趣味、楽しみのためである。大学時代、授業やクラブ活動 で、日本の雅楽やジャワのガムラン音楽の演奏を習い、大学内や学外での演奏会に参加し たことがあり、そうした活動の延長である。そして、モンゴルの音楽文化、楽器や楽曲の 解説をしながらのレクチャー・コンサートなどをして、微力ながらモンゴル音楽の紹介や 宣伝もできればと思った。そうした実益と自分の趣味とを兼ねて何とかできればと考えて いた。
ノロヴバンザドの日本公演の手伝いができるとしても、彼女らが来日するのはせいぜい 年に一、二度だけだ。 90 年代には、大手のレコード会社がモンゴル音楽のCDを制作する機 会に数回立ち会えたが、それもそう頻繁に実施されることでもない。モンゴル音楽が紹介さ れる機会はきわめて少ないので、それをわずかなりとも増やそうという気持ちだった。
モリン・ホール奏者をさがす
モンゴル民謡、特にオルティン・ドーを歌うとなると伴奏のモリン・ホールが必要にな る。歌い手一人にモリン・ホール奏者一人がオルティン・ドー演奏の基本形式であるが、
90 年代はじめの日本で、モリン・ホールが弾ける人間を見つけるのは至難の業たった。伴奏 者が見つからないことを相談すると、「一人でアカペラで歌ったら?」と言ってくれた人もい たが、それではあまりに絵づらが貧しいし、間がもたない。モリン・ホールたった一本があ るのと無いのでは、まったく雰囲気が違うのだ。
蛇足ながら、伴奏の楽器が何台、何種類あっても歌う人間が一人であれば、[ソロ]と いう。器楽による伴奏が無く、人の声だけで歌うのをア・カペラという。無伴奏でたった 一人歌うなら、ア・カペラ・ソロとなる。念のため。大学関係の知人でいろいろな楽器の演 奏に長けた人に、モリン・ホールの演奏を覚えてもらおうと試みたこともあった。私かどう にか学んできた楽器の構え方、弦の押さえ方、弓の持ち方を伝えれば、センスのよい人であ れば弾けるようになるのではと期待した。しかし、楽器の不得手な私か教えても、モリン・ ホールの良さ面白さを伝え、興味を持ってもらうなど、とても叶わなかった。そうして、演 奏会などできもしないまま一年以上が過ぎ去った。
内モンゴルの音楽家
その頃、日本在住のモンゴル人はまだ少なく、モリン・ホールが弾ける人などさらに見 つからなかったが、ある時、内モンゴルのモリン・ホール奏者が日本で暮らしていること を知り、居場所を聞いて会いに行った。中年の男性で、親切そうで人柄も良く、楽器の腕 も確かだった。オルティン・ドーの伴奏をお願いしたところ承諾してくれて、何度か曲を 合わせ、一緒に練習をしてくれた。しかし、いざどこかで演奏会をとなると、様々な理由 を挙げて断られてしまった。
もう一人、内モンゴルのモリン・ホール奏者と知り合うことができた。先の人より少し 若く、モリン・ホールの経験はやや浅いようだったが、気さくな人柄で、何度か一緒に練 習をした。だが何度か会ったのち突然、日本国内の遠方に引っ越してしまった。それでも う一緒に演奏はできなくなった。
さらにもう一人、内モンゴル出身のモリン・ホール奏者に出会い、この人とは東京都江 東区の区民センター主催の小さな演奏会と、私の大学時代の友人たちの協力で開催したコ ンサートで演奏することができた。しかし、諸般の理由から私のほうから距離を置き、そ の後、会ってはいない。
(つづく)
青山讃頌舎(あおやまうたのいえ)美術館の御紹介
(靑山讃頌舎 学芸員 穐月大介)
靑山讃頌舎(あおやまうたのいえ)美術館は私の父が設立した私設美術館です。大学時代の 友人でこの NPO メンバーの金田氏が靑山讃頌舎に家族で来館の折り、この原稿の投稿を勧め られました。
私の父・穐月明は水墨画家で大学(京美)では油絵と日本画を学びましたが卒業後はひたす ら水墨画を独習し今日に至っています。師に付かず、派閥に属さず、賞も断っていたので一 般の方には馴染みはないかもしれません。しかし、本当に好きな方からは絶大な支持をいた だいていました。
美術館の設立は父の長年の夢だったようです。 場所は三重県伊賀市・近鉄青山町駅からほど近い 大村神社と隣接しています。ここに 35 年前京都 から 移って来ました。街から遠く、木々に囲ま れ余り人の来ない此処に居を構えたのは、正に人 が来ないからだったようです。
父は絵を描くことが好きでしたが、それだけで はなく何か使命感を持って描いていたようです。 派閥に属したり師に付いたりすれば自分の絵は 描けなかったでしょう、しかし売らんがために客 に 媚びても志は遂げられません。
それも有ってでしょうかできるだけ人を 避けていました。 ただ此処にしたのは辺鄙 だからだけではありません、畿内の東の外れ で古墳も多く大村神社は 1000 年以上前の書 物延喜式にも載る古社でもあります。其処に 父は自分の思い描く庭園を作り茶室を建て 最後に美術館を作りました。庭の木々は剪定 せず自由に枝を伸ばし、美術館は木と土の日 本建築で、全て父の美意識を反映しています。
来館した多くのお客さまも此処の木の香りや、庭の苔や石仏を気に入って下さいます。 父の絵は石仏が知られていますが、画題は花や静物、動物、寺院、風景、説話をテーマにし た物など様々です。しかし全ての絵には仏教思想が根底にあります。
父は高野山で生まれ、実報寺という郷里愛媛県のお寺で育ちました。大学(京美)の時、母 と結婚し京都醍醐寺境内に居候しながら絵を独習していましたからずっとお寺に縁がありま した。それも有ってか仏教に興味を持ち、そこから宗教、教派にかかわらず万巻の書を読み 思索を重ねて至ったのが、雑事を払えば仏の世界が見えてき、世界の全ては仏の姿な のだと いう世界観だったようです。ですから父が絵にすると何気ない風景や花もとても美しく見え ます。父にとっては全て仏画なのかもしれません。
私にとって父は怖い存在でした。自分の美意識にはわがままですし、頑固で人の意見は聞 き入れません。ずいぶん理不尽な怒られ方もしましたので、私は父が嫌いでした。しかし、 絵はとても分かりやすく美しいと思います。
父はいつも真っ直ぐで、自分で言ったことは必ず守りましたし、何事にもとても真摯で真 剣でした。ひたむきに絵を描き美しいものを求め 続けた姿を私は誇らしくも思っていまし た。そんな父が美しいと思い一 生をかけて残した物ですから庭も、美術品も、作品も正しく 評価され、地域や来館者の方のお役に立てればと願います。外国の方には日本の美に触れる 機会になるのではないでしょうか。
今後この館をより公共性の高い施設にしようと思っています。もし何かの折が有りました ら御立ち寄りください。
穐月明東洋文化資料館 靑山讃頌舎・美術館 日月舎、茶室 聴樹庵
所在地:518-0221 伊賀市別府 718 番地5(近鉄青山町駅徒歩 10 分大村神社隣)
公式HP:http://aoyamautanoie.net/
Eメール:mail@aoyamautanoie.net
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
☆ 京都六角堂 (中京区六角通り東洞院西入る)頂法寺は本堂の形が六角形であることか ら、六角堂、六角さんと呼ばれています。山号は紫雲山、本尊は聖徳太子の護持仏で ある如意輪観音菩薩。飛鳥時代(587年)聖徳太子が開基したとも云われています。 華道上達(池坊発祥の地)・「地摺りの柳」は縁結びの信仰」がある。
1 山門
2 本堂 六角形の屋根、内陣に如意輪観音像を安置している
3 太子堂 聖徳太子2歳像を安置している。
事務局からお知らせ
(斎藤 生々)
“来日するモンゴルの子どもたちの滞在費を集めたい!”とサイトで公募した金額に関して。
今回みなさまのご支援をいただきおかげで目標額が達成できました。ありがとうございま した。第一目標では、5 人分の子どもたちの滞在費を賄うことができます。残りの 5 人分の滞 在費がまだ不足している現状です。できる限りモンゴルの子どもたちの負担を減らすために、 引き続き支援を募っています。
音楽交流の日程
6 月 23 日(木)17:05 着→奈良に移動(奈良での協力担当:西川栄子)
6 月 26 日(日)午後 1 時 本公演(奈良登美が丘中学校講堂にて)終了後大阪へ移動。
6 月 27 日(月)大阪市内、海遊館など見学、観光。(大阪での協力担当:徳山理沙)
6 月 28 日(火)午前 8 時関空発で帰国。
奈良学園古川謙二校長先生から、当日は、モピのみなさまも是非おいでいただきたいと。 マスコミにも声をかけるとのことです。
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お願い
平成28年度モピ年会費を納めていただきたく、重々よろしくお願い申し上げます。
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