■NO 172号 2016年7月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
国際研究フォーラム
『Voice from Mongolia, 2016 vol.23』
ノロヴバンザトの思い出 その69
意味深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からお知らせ
国際研究フォーラム
「ロシアと中国の国境:諸民族の混住する社会における
『戦略的パートナーシップ』とは何か?」
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事)
モンゴル・ロシア隣国関係の技術
N さん(ブリヤート人、1922 年生まれ)
1933 年シネヘンに小学校が設立され、日本語を学ぶ。1945 年、ウランバートルへ国費留学。シネヘンからは 3〜4 人、全体で約 200 人。1952 年に 帰国後、キリル文字の教師などをつとめさせられたが、都会を嫌って、旗の牧畜局で働く。子ど もは 7 人、嫁、孫あわせていま 33 人。末の息子はモンゴルに行き、その2人の娘もモンゴル国籍 をとり、モンゴル人として上海へ国費留学。中国国籍のままでは果たし得ないことをモンゴル国 籍の取得によって果たす。
NM さん(ブリヤート人、1934 年生まれ)
父は第一次世界大戦に参加し、アガに戻ってきて から、1918 年にハルハに移住し、そこでブリヤート人と結婚し、義理の兄とともに 1921 年にシネ ヘンに到着。父は無一文で来て、エヴェンキ人(日本語がわかる)の家畜群の放牧人となる。ウ シの放牧を担当し、1000 頭まで増やして、家畜を分けてもらうようになる。父の弟はハルハに残 り、革命に参加し、しばしば来訪しており、スパイ容疑で 1944 年に日本軍により処刑。母の弟(母 方のおじさん)が祖母を連れてエジネに移動した。父は自分も南下しようとしたが、弟が日本軍 に処刑されたため、同行を拒否された。父の弟(父方のおじさん)の娘はモンゴル国ドルノド県 にいるので、1986 年に息子が訪問した。
SR(ブリヤート人、1945 年)祖母をのこして、祖父が父とロシアから移住。母は 1918 年、16 歳のときウマに乗って父方の叔父とともに移動し、帰還できなくなった。母の養子先の弟たちは 移住しなかった。1945 年、父は捕まってモンゴルへ連れていかれ、包頭で釈放されないまま死亡。 父の弟も捕まり、ロシアへ連れていかれて、監禁され、のちにラマになり、1989 年に死亡。父の 2人の弟の1人の次男はモスクワで医師をしている。1990 年、兄たちが母を連れて血のつながっ ていない弟たちに会いにいったが、死んでいたので子孫と会った。父方のいとこが、兄の子に財 産を譲ろうとしたが、中国で勤めているので拒否。6 人の子どもがいて、長男が 2008 年にロシア に行き、ウランウデでレストランを開業。次女がウランウデに移住。三女が満洲里で旅館経営。 牧民は2人。
D(ブリヤート人、1940 年)
母は満鉄病院で看護師、父は満蒙軍。離婚後、母は 1940 年、モ ンゴル国からの移住者と再婚。母方の父が 1919 年に満州里に移住。商売、通訳。母は満州里で高 校を卒業し、1930 年にウランウデの医学専門学校に入学。すぐに帰還して満州里でパンチェン・ ラマに会う。父はノモンハン戦争に参加。母は病院勤務。ロシア人の保母にあずけられて育ったので 5 歳までロシア語しか話せなかった。1944 年、母が病院で伝染して死亡。継父は再婚して 1945 年に南下開始。実父は再婚してシネヘンで支援。しかし、1945 年ソ連軍侵攻。満蒙軍だった父は 捕まえられ、1946 年、モンゴル国で獄死。父の弟は脱獄。モンゴルからの逃亡者は捕まるという 噂で、青海の海西まで逃走。そちらで捕まり、強制労働、1965 年にハイラルに帰還。青海にこの おじさんの養子が住んでいる。1988 年におじさんはロシア訪問。妹に会って感激。現在、おじの 妻がウランウデにいる。継父は 1992 年死亡。養子の養女はアガにいるなど。妹の子はバリャーチ でモスクワにいて、その妹はブリヤート料理の食堂を経営。1990 年4月ロシアへ旅行。1991 年モ ンゴル国へ旅行。1992 年にばらばらにならないため一家でロシア国籍を取得。1993 年に「同郷会」 をウランウデで結成。2000 年ハイラル病院に入院。夫の国籍も 2001 年に取得。2013 年南屯で夫、 死亡。娘は日本在住。
以上のように、日本関東軍との関係が密接であったブリヤート人は、戦後、捕われて獄死する などの損害を被った。1912 年生まれのバルガ人によれば、雪が多い年にはウジムチンまで移動し、 モンゴル国とのあいだも同様に越冬のために適した場所へ自由に移動していた。しかし、日本に よる植民地化が進むと、越境はスパイ活動とみなされ、越境放牧はできなくなった。こうした経 験は多くのブリヤート人およびバルガ人に貧富の差を超えて共有されている。そのため、政治的 変動に距離を置く態度が涵養されている。
とりあえず、戦術と名付けておくと、戦術には併用しうる 2 つの種類がある。公的制度に依存 するタイプと、公的制度に依存しないタイプ。前者として、国籍の取得という技術があげられる。 公的制度に依存する代わりに、継父、継母、養子など血縁を越えた親族関係により、国際的なセ イフティ・ネットを各自ができるだけ展開し、維持している技術も認められる。1940 年代の不本 意な移動に際してはほぼすべて帰還したのに対して、機会にアクセスするための移動は、モンゴ ル国に対しては民主化以前からおこなわれており、ロシアに対しては民主化直後におこなわれは じめた。そして、2 種類のタイプの技術が駆使された。現在では、国家間の戦略的パートナーシッ プの傘のもと、試行錯誤により今後もさまざまな戦術(技術)が蓄積されていくにちがいない。
結論
モンゴル人のあいだで現在、友人を意味するアンダということばは、元朝秘史に描かれている限 り、13 世紀には、背後に敵対関係があるとき、はっきりと物を交換することによって、共同で戦 うこと、あるいは相互に戦わないことを誓約し、同盟するという平和構築の1手段であった。こ れは「モースの贈与論」で明らかにされた、力のバランスを示す儀礼的交換である。今日的な「戦 略的パートナーシップ」に相当する。国際政治の世界では、現在、この用語が頻発インフレ状態 になっており、意味が不明瞭になりつつあるが、その元祖である中国とロシアのあいだのそれは、 まさに原義はモンゴル史におけるアンダの意味に一致している。
モンゴル史では、政治的な諸集団が統合する過程でアンダの語が登場し、これは満州語 にも引き継がれ、清朝初期までこの意味で用いられた。しかし、この語はシロコゴロフが明らか にしていたように、20 世紀には交易のために異なる集団が結ぶ関係に変化していた。日本の歴史 学の研究成果によれば、この変化はすでに明代から生じており、清代には公的制度にもなってい た。公的制度が崩壊すると、アンダは一般化し、毛皮ブローカーを意味することとなった。単な るビジネスでありながら、アンダという伝統的な用語が用いられることによって、ビジネスが平 和構築の一手段であるかのように演出されてきたと見ることもできる。言い換えれば、アンダと いう「戦略的パートナーシップ」は、ビジネス活動を促進するための社会的技術であった。
21 世紀の今日では、国家的に戦略的パートナーシップ(大文字)が標語として掲げられ ることで、現地の国境社会における伝統的な戦略的パートナーシップ(小文字)はどのように変 化するであろうか。本論文では材料がシネヘン・ブリヤートの口述史のみであり、考察範囲は限 られている。まず、諸集団のあいだでは通婚が進み、戦略的パートナーシップが親族関係のなか に埋め込まれてしまっている。だから、外形的な戦略的パートナーシップ関係は要らない。また、 トランスボーダー社会の特徴として、その親族関係をさらに国際的に展開して、トランスボーダ ーな活動力を高めている。伝統的な養子制度を利用して子孫を増量し、ディアスポラであるとい う歴史も資源として利用して、越境技術を豊かにしている。
議論すべきは、第 1 に、こうした越境技術とディアスポラの関係である。ディアスポラ を資源にしているという点ではカザフスタンの韓国人がよく知られており、そうした他事例との 比較研究によって、東北アジアの文脈が明らかになる可能性はある。また、ディアスポラの資源化によって、ディアスポラがどのように変化するかという問題も興味深い。そもそも、一般に、 成功は語られるが、失敗は語られない。ディアスポラであることを利用して、ロシアへ帰還した ものの、必ずしも幸福ではないという人の場合は、アガもシネヘンも故地ではなくなり、「二重デ ィアスポラ」になるだろう。一方、ウランウデに移住した人びとにとっては、シネヘンが新たな 「故地」になる。ディアスポラの重層化が進行していると考えられる。口述史とは異なるアプロ ーチによる研究が望ましい。
第 2 に、越境技術と戦略的パートナーシップの関係である。人びとの越境活動は戦略的 パートナーシップの締結以前に遡る。その意味で、国家の枠組みが無くても人々は活動しうる。 しかし、本当に国家間の緊張関係がある場合は、日本統治時代がそうであったように、越境活動 は危険になることは疑いない。今のところ、国家間の戦略的パートナーシップのもとで民間によ る戦術が展開しているとみておくのがよいだろう。
主な参考文献
磯野富士子 1985「アンダ考」『東洋学報』67− 1・2:57-80
増井寛也 2005「満州<アンダ>anda 小考」『立命館東洋史学』28:1-33
宇野伸浩 2005「モンゴル帝国時代の贈与と再分配」『ユーラシア草原からのメッセージ』平凡社、 139-162 頁所収。
承志 2001「清朝治下のオロンチョン・ニル編制とブトハ社会の側面」『東洋史研究』60-3:1-38
承志 2008「ダイチン・グルン時期のアンダ— 帝国の編成から交易における活用まで」
畑中幸子 1991「中国東北部における民族誌的複合」畑中幸子ほか編『東北アジアの歴史と社会』 名古屋大学出版会、217-276 頁所収。
池尻登 1943『達斡爾族』満州事情案内所 岡本俊雄1979『一人の「ブリヤートモンゴル人」と日本青年との出合い』(私家本) 岡本俊雄1988『一人の「ブリヤートモンゴル人」と日本青年との出合い 続編』(私家本) 島村一平2011『増殖するシャーマン』春風社 扎木苏2010『锡尼河布利亚特』内蒙古文化出版社(モンゴル語文)
Baldano, Maria2012
国際研究フォーラム
「ロシアと中国の国境:諸民族の混住する社会における 『戦略的パートナーシップ』とは何か?」での報告原稿の邦訳をこれまで分割連載してきました。
今回が最後です。
次回からは、新たな分割連載が始まります。お楽しみに。
『Voice from Mongolia, 2016 vol.23』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「モンゴルの星空は、見上げるのではなく、地平線まで続いているから寝転んで見るの」 ―N. アリマンサル(39)、通訳、ウランバートル在住
アリマンサル。直訳すればリンゴの月、つまり満月のこと。おそらく、初めて覚えたモンゴル 語はあなたの名前でした。鳥取県で新聞記者をしていた頃、偶然知り合った留学生のあなたに「モ ンゴル語を教えて」と学生寮に押しかけた私に、彼女が言ったのが冒頭の言葉。このひとことが、 私をモンゴルの草原に誘ってくれました。
彼女が渡米して以降、連絡が途絶えてから10数年。この春、久しぶりに鳥取を訪れた際、同 県モンゴル中央県親善交流協会の高塚由美子さんから、電話番号とメールアドレスをもらった。 すぐにでも連絡したいのをぐっとこらえ、次回ウランバートルに行ったら電話する、と決めた。 そして、6月のモンゴル出張の際、仕事が終わった午後10時半、滞在先のホテルから電話した。 「すぐに夫を行かせる。部屋、散らかっているけど来て」。
ほどなく、素敵な笑顔のご主人バダルチさんが迎えに来てくれました。聞けば、国立文化芸術 大学でヨーチンを指導する先生であり、演奏家。先生方で結成した伝統音楽ユニット「テンゲル・ アヤルゴー(Sky Melody))は、知る人ぞ知る実力派だそうで、日本各地で公演を行ったこともあ るそう。
10年以上ぶりに見る彼女は、その名のごとくの丸顔がさらにまん丸くなったが、印象はかつ てのまま。1歳になる長男ウイルスちゃんの子育ての傍ら、日本からの渡航者に車両や通訳を手 配する会社を経営している。文化交流・教育分野など通訳歴は長いが、「大勢の前での通訳は今も 苦手」と控えめだ。
とは言え、ごく最近、技能実習生の送り出し許可を取得し、これから仕事を本格化するという。
久々に会ってもいきなり、「車って1日いくらで手配で きる?地方の場合は?」などと、ビジネストークを始め る私たち。その横で、静かに赤ちゃんをあやしているご 主人は、車両の運転など仕事面でも彼女をサポートして いる。子ども2人を夫に委ねて出張中の私、周囲に自分 がいつも言われている言葉をかけずにはいられない。
「良いだんなさん見つけたね」。 日付が変わるころ、バダルチさんが宿泊先に送り届けてくれた。縁あって出会い、親しくなったものの、今は 会うことがなくなった、多くの友人たち。今は思い出で しか会えなくても、きっといつか、また会える。そんな 確かな予感に、心が満たされた夜でした。
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今月の気になる記事
約 1 年ぶりで、ウランバートルを訪れました。日本とのEPA(経済連携協定)発効、ASEM (アジア欧州会合)開催がニュースを賑わし、行くたびに信号機や街路樹の緑が増える一方で、 資金難から工事が止まって放置されたビルの建設現場がやたらと目につきました。楽天的な政治 家の公式発言よりリアルな、モンゴル経済の窮状を伝えています。ちなみに、ドル建て国債の償 還額は来年からの2年間に11億ドル(日本の外務省筋)だそうです。 「(社会の)上層部は外国で借金、中間層は銀行で借金、庶民は店で借金」
(筆者:M.ガン) 経済ジャーナリストクラブを創設したモンゴル国営テレビのMMエージェンシーの前会長で、ジ ャーナリストのM.オユンチメグのインタビューです。
-TV番組“ウネ・ツェネ(価値)”の司会として、多くのチャンネルで視聴者に親しまれて来ま したね。あなたの番組では、国内の製造業を後押しすべく、ビジネス関係者の取り組みを広くP Rされて来ました。生産者、民間企業の関係者と会って番組制作をされたご経験から、現在の差 し迫った課題は何でしょうか? 「国が置かれた状況は、年初めの3か月の統計や指標に明確に表れると考えます。当初3か月の 指標から見えるのは、今日の経済が依然停滞しているということ。期待した外国投資が入って来 ない。流通するお金がなく、資金調達ができないことから廃業に追い込まれた企業は、最新の数 字で 6 万 2 千社増加しました。ビジネスが動くシーズンが来るや否や、経済をけん引する企業が 動き始め、主要な業界は一斉に動いて、実りをもたらす種まきをする時期だというのに、大部分 の企業の業務が停滞してしまっています。なぜなら、資金調達ができない、お金が手元にないの です。私は、番組で、製品をつくり、実際に手を動かしてモノを生産している企業関係者を主に 取り上げてきました。取材で多くの企業関係者に会いますが、『企業の資金調達についても政府や 行政によって決まると言われるが、明確な理由なく、資金調達が止まってしまっている。最近2 か月は、総選挙があることでさらに深刻化し、今や、どのような仕事でもとにかくひとつ手掛け る、それ以上のことは考えられないという状態に陥っている。苦労して集めた少しの資金で何と か動かそうとしてもどうにもならず、まずはスタッフのリストラ、でなければ廃業で失業者の列に加わるほかない』と話しています。批判したいのでなく、事態はそこまで来ているのです」
-国内の製造業者が、苦労してかき集めた資金で何とか工場を稼働させても、製品を買うお金の ある市民が少ない。これにはどのような梃入れが必要でしょうか? 「非常に重要な質問です。企業関係者は流通する資金がないことに最も苛立っています。製造し た商品を購入する市民や企業がないのです。作った商品が売れないので、銀行も企業に融資でき ない。資金を借りた企業も市場がなく、お金の行き場がなくなってしまいます。このため、いく ら銀行に資金があっても、必要な企業経営者の手に渡っていないのです。また銀行が倒産するよ うな事態に戻るのでは、と、先日番組に出演したモンゴル銀行組合のウネンバト総裁が話してい ました。 このことは、すべての悪影響が、互いに結びついて起こっているのです。どうしてわが国の権力 者はそこに目を向けようとせず、この状態を脱却するために動かないのか不思議でなりません。 なぜなら、今年の 1 月初めの時点で、わが国に長年協力して来た国際金融機関はいずれも注意を 喚起していたのですよ。『こんな状況になっていますよ。モンゴル経済は外部、国内の資金の流れ にもっと注意を払い、予算をひとつにして、社会政策に急いで取り組まなければ、さらに状況が 悪化しますよ』と注意を喚起してくれたのです。それなのに、何の措置も取られなかった。国際 通貨基金から出されたモンゴル経済の成長率は0.2パーセント、アジア開発銀行は0.4%、 世界銀行は0.8%となっています。それなのに、政府は『そんなことはない、4.3%の成長 率です』と言い、それに基づいて予算を決めた。この数字の差異は何と大きいことか。数字は嘘 をつきません。国際金融機関が言っていたことが正しいことを、当初4、5か月の社会状況、経 済指標が示しています。経済の沈滞は深刻で、1パーセントの成長にも届いていない、国際機関 の予測が現実となりました。わが国の主要な輸出品も、外国の市場の落ち込みで売れなくなり、 外貨が流れ込んで来なくなってしまった。深刻な事態のひとつひとつに、早急に対策を講じる必 要があります。 ではどう動くか、と言えば、まず手始めにすべきは政治と経済を切り離すことです。経済をおも ちゃにしてはいけません。近年、権力者が『国際機関からの支援プログラムでお金が入って来る。 それを給付金として国民に分け与えよう』とでもいうような、ポピュリズムの口約がまかり通っ ているのです。古くからある、このやり方で、せっかくの貴重な資金がばらまかれて終わりにな る、でなければ、政策と関係なく浪費される、そんなことが繰り返されています。そのため、世 界銀行もこの4、5月に『安定的発展』を目指す重要なプログラムの資金措置を一時、延期しま した。理由は、総選挙が行われることと、政治家が人気取りの口約のために資金を浪費してしま うのでは、との懸念があるためです。そんな措置も無理はない、という状況になり始めています。 これによって不利益を被るのは国内の製造業やそこで働く庶民なのです。一例ですが、最新の報 道では、世帯あたりの所得は9期連続で減少し、現在ではマイナスに落ち込んでしまっています。 この状態がいつまで続くのか、国民はいつまで我慢しなければいけないのか、誰にもわからない のです」
-サイハンビレグ首相は「オヨトルゴイの2期開発が動き出した、5 月になればお金が入って来る」 と春になってから言い出しました。しかしながら、今になっても入金されていない、国民の負担 は少しも軽減されることなく、国の経済は何ら改善の兆しが見えないままです。選挙を控え、実 現の見込みの低い口約が果たされるか、国民が監視するシステムをどう構築するか、経済ジャー ナリストの立場からどうお考えでしょうか? 「ジャーナリストとしては報道の現場で人々の生の声を聞いているので、現実に起こっている事 態には非常に心を痛めています。まもなく選挙で、今までと同じように投票日を迎え、その後は 暑い太陽のもと、ナーダムの宴。そうこうしているうちに秋が来て、収穫期を迎え、冬の準備と いう大仕事が待っています。われわれ皆、準備できるのでしょうか?政府が将来を見据え、入っ て来る少ない資金を素早く動かし、製造業を稼働させ、その先の業界にお金を還流させる必要が あります。農業生産や中小企業に資金を提供すべきところを、時間がかかるからといって、それ 以外のところに回そうとし、実際に回されている。先ほど話の出たオヨトルゴイの2期開発です が、資金がいつ入って来るのか不明です。それどころか、本当に入って来るかどうかさえ、わか らないのです。タバントルゴイや鉄道に至っては、作り話だったかのように、耳にしなくなりま した。こんな状況で迎える今回の選挙においては、報道機関は第 4 の権力としての義務をしっかりと果たし、国家や地方の予算、事業について選挙に勝つための詐欺まがいのやり方を糾弾し、 具体的な政策を出させなければならない。また、業界団体や商工、企業組合も、質問状やチェッ クを行い、今の政治を改めさせる手立てを講じるべきです。もし、こうした権力のチェックがな ければ、今後私たちの生活は一層厳しくなり、悲惨な状態に向かうでしょう」
-世界銀行による100万ドルの資金提供の延期について先ほど述べられましたが、無理からぬ ことに思えます。モンゴルでは選挙の度に大げさに騒いで、選挙が終わった翌日には口約を忘れ るのが常ですから。今回もまた同じ展開でしょうね。 「国際金融機関がわが国に出す貸付金や援助事業の事業費は、厳しい監査のもとに適正に使われ るべきだということを再度言いたいです。国民の私たち自身もチェックできるようでなければ。 わが国の政府は、外国に出かけては外貨で借金をしています。最近の例では、サイハンビレグ首 相の発行した国債5億ドルは、民間の非常に金回りのいい企業にのみ対応できるものです。期間 は5年、10~15%の利回りです。多国籍の大手企業にはよくても、モンゴルのように経済が 疲弊した国の政府に管理できるものではない。せめて10~12年の期間で、5~7%の利子で 資金を調達し、そのお金で業界に資金を回すならいいのですが、選挙区で票を得るために使うな どあり得ないことです。こんな事態をだれが監視するのでしょうか?思うに、報道機関がなすべ きことはたくさんあります。わが経済ジャーナリストクラブも、しっかり監視してゆきます」
-わが国は、チンギス債、サムライ債、そしてアジア開発銀行からの債務を、来年1月から償還 する時期に入ります。選挙期間に入り、政府関係者も政治家もこの問題を知りつつ、知らぬ素振 りをしているように見えます。使えるお金が減ったことで、使途のチェックもなおざりになって いるようですが。 「本来の意味が失われてしまいました。国会が早く休会し、さらに収集がつかなくなってしまい ました。国会議員の先生方は政府のしていることを監視し、監視できていないお金の使途を質問 し、適正なところに予算を分配するためにあるのに、選挙区にお金をばらまき、ばらまきしてい るのですから。4年間何もせず、選挙の月になって初めて仕事をし、それをアピールする始末で す。 高い利子の、短期で返済せねばならない融資をこんなふうに使っては、一般の国民には全く届き ません。事態は深刻です。政治家自身がチェックできないなら、国民が目となり、耳となるしか ない。騙されてばかりはいられません。賢明な国民はもう気づいています。ジャーナリストも現 実に起こっていることを伝えるべく努力します」
-今回のような不況は2008年にもありました。選挙による政権交代後、新たな政策が実施さ れ、経済政策も変わって、11年には高い経済成長を記録しました。当時、政府の経済政策立案 チームに参加されたひとりとして、現状を打破し、立て直すチャンスをどうご覧になりますか? 「経済ジャーナリストとしては、現実的に事態を見ています。そこから抜け出すには、今起こっ ていることを総括し、事態を正しく見極めることが最も重要です。それができなければ、さらに ひどいことになります。国民も企業も、文無しになります。銀行の抱える、期限がとうに過ぎた 不良債権がかさみ、モンゴル国民の持ち金や企業の業績を示す指標はマイナスになりました。最 新の統計では、国内の不良債権額は2兆トゥグルグに達しています。人々の懐にも、企業にも流 通するお金がないことの証左です。
国会議員は、首都のゲル地区に足を運んで頂きたい。取材で何度も訪れました。いつからわが 国の家庭では、一本のニンジンや1個のタマネギの半分や3分の一ずつを、料理に使うようにな ったのでしょうか。これが現実なのです。上層部は外国で借金、中間層は銀行で、庶民は店で、 それぞれ借金をしているのが実情です。とはいえ、悪い面ばかりを見て、批判するばかりではい けません。現状をどうすれば変えられるかを考えなければなりません。(中略)
どんな失敗や足りない点があっても、それを改め、新しいことを始めることは可能です。重要 なのは、専門家たちが、祖国のため、国民のため、という気持ちを持って仕事をすること。選挙 の日が過ぎ、専門家による政府が立ち上がり、経済を救済できなければ、私たちが『大変だねえ』 と見ていたギリシャより、ひどい状況になりかねません。GDP(国内総生産)に対する対外債 務額の割合は既にギリシャを超えました。早急に策を講じなければなりません」
-とりあえず今日の食事にありつければ、という状況では、選挙が早く終わることを祈るのみで すね。 「まさにそのとおり。最近、年金が2万1千トゥグルグ、増額されました。インフレ率40%に おいて、2万1千トゥグルグは何の意味もありません。現在の2万1千トゥグルグは、2年前の 2千トゥグルグと等しい。これでは国民の生活向上には程遠いです。一部の人だけでなく、国民 全体に届く、すべての世帯の収入が増えるような経済政策が必要なのです」
『ゾーニーメデー』紙より
-2016 年 6 月 6 日、政治ポータルサイト POLIT.MN http://www.polit.mn/content/81216.htm
(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その 69
(梶浦 靖子)
アリオンボルト来日
90 年代に知り合った内モンゴルのモリン・ホール奏者数人は、何度かともに音合わせをしたも のの、どこかで一緒に演奏をしようともちかけると、ある人には多忙だからということで断られ、 またある人は急に遠方に引っ越したからもうできないということだった。彼らにはそれぞれ世話 をしてくれる日本人がいて、彼らの活動も世話人の意向で決められるようだった。そうしたわけ で、演奏活動はなかなか実現しなかった。正直を言えば、やはりオルティン・ドーの伴奏はモン ゴル国のモリン・ホール奏者が良いに違いなかった。
そのモンゴル国のモリン・ホール奏者、M.アリオンボルトとは、日本に帰ってからも手紙の やり取りをしていた。モンゴル音楽に関する質問を書いて送れば、的確な答えを几帳面な文字で 返してくれるし、歌詞集に載っていない曲の歌詞を尋ねれば、3、4連の歌詞をタイプライター で打ったものを送ってくれるなど、本当に助かった。ちょうどその頃、外国人を日本に招聘する 方法をいくつか、人から聞いていたところだったので、日本に来る気はあるかどうか、手紙で聞 いてみた。すると、そういう機会があればぜひ行ってみたいということだったので、詳しい人に 聞きながら条件の合いそうな制度を探し、書類を取り寄せてアリオンボルトに送った。そうして 申し込んだ国際交流基金のフェローシップ制度に採用され、アリオンボルトは日本に来ることと なった。 1994 年のことである。
演奏活動と生活の補助
1994 年連休明けの5月、成田空港でアリオンボルトを迎えた。ひとまず都内のホテルに宿泊し てもらい、その後2日間ほどで、私の住む路線の隣の駅近くにアパートを見つけ、私が保証人と なって彼に入居してもらった。それから、台所用品その他生活に最低限必要な物を買いそろえ、 スーパーやコンビニでの買い物の方法など、日本での生活のしかたを教えた。そして、話し相手 になってもらうべく、モンゴル留学経験者何人かを彼と引き合わせ、友達になってもらうように した。アリオンボルトはほとんど料理ができなかったので、私があちらの家に上がり、料理をし ていくこともたびたびあった。その後は、私の家の近くにある音楽スタジオを借りて、曲を合わ せ練習するようになった。やはり本場の音楽家だけあって、あの曲をこの調でと言えば即座に伴 奏してくれる。こちらから何を教えることもなく曲についての話ができるのは実にいいものだと 思った。そうしてアリオンボルトの来日から2ヵ月ほどして、近所にあるライブハウスで演奏で きることになった。日本に戻って実に2年以上かかって、ようやく留学の成果と言うか、おさら い会を開くことができた。観に来てくれた大学時代の友人たちからもねぎらいの言葉をもらい、 本当に報われた思いがしたものだった。
注文とダメ出し
アリオンボルトとの活動はまずまず順調に進んでいたが、その裏でまったく思わぬことが起こ っていた。アリオンボルトとの関係は留学時代は実に良好だったのが、彼が来日して毎日のよう に身近に接していくと、事あるごとに衝突するようになったのだ。お互いに相手の何気ない言動 がいちいち勘にさわり、感情的になって強く言い返すことが度重なっていった。本当にささいなことで言い争いになった。連絡事項を伝えると、なぜもっと早く言わなかったんだ!と先方が怒 れば、こちらも先頃知ったばかりなんだからしかたないじゃないか!と言い返す、という具合で ある。後で思えば、そうなった理由の一つには、アリオンボルトが言葉の通じない、知り合い もほとんどいない外国に一人で来ていたことがあった。モンゴルの家庭はたいてい大家族で、ア リオンボルトもずっと家族と一緒に住んでいて、一人暮らしの経験はなかった。それが外国で一 人では、精神も不安定になるだろう。私は私で、アリオンボルトが生活の面で私に頼り過ぎ、当 てにしすぎなことを負担に感じていた。フェローシップに申し込む際、日本に来られたら基本一 人で暮らして、自分のことは自分でやってもらうことになるから、できれば日本語も少しは使え るよう勉強しておいてほしい、と伝えていた。それが結局ほとんど勉強しないまま来たことに、 何なんだ!という思いがあった。
さらに輪をかけたのが、スタジオを借りて練習の時、私の歌い方や発声にたびたび囗をはさん できたことだ。オルティン・ドーの曲を1、2曲合わせたところで、やおら、君は今度はオルテ ィン・ドーの喉の使い方を学ばなければいけない。喉の打撃、ツォヒルトという技法があるんだ。 知っているか?」と言うではないか。
まさにそのツォヒルトをなんとかやりながら歌っているつもりのこちらとしては、そのように 言われると実に打ちのめされた気になる。全然できていないことを当てこすられたような気にさ えなる。それで私が言葉を無くしていると、
「知らないのか?喉の奧を打つような技法があるんだよ」と実に悪気のない様子で追い打ちをか ける。 ¶私がモンゴルでノロヴバンザドのクラスに参加して学んでいたことを知っているの になぜそういう事を言う?ノロヴバンザドがそういうことを教えないはずがないじゃないか。彼 女たちオルティン・ドー歌手の歌を聴いていたら喉の技法に気がつかないわけがあるものか。知 らないはずがないだろう!というわけで、私の返答のしかたも荒くなるというわけだった。
そういう技法について知っていることと、実際にできるかどうかは別の話だ。頭で知識として 知っていても、それで直ちにできるとは限らない。何度か書いたがオルティン・ドーの喉の技法 は、おそらく日本人にはあまり簡単にできるテクニックではない。私も留学期間中は、その技法 を十分に修得はできなかった。帰国して一人じっくり発声練習をして、少し近い声を出せるよう になった気がしたが、忙しさで何日か練習を休むとまたできなくなる、といった状態の繰り返し だった。要するにその技法が身に付いているとはいえなかったが、その存在をも知らないわけで はない。そしてこちらも、自分の歌声がどんな状態がわからず歌っているわけではない。そうい う技法ができているか否かは自覚している。それに対して、ほらまたできていなかったぞ、また だ、といちいち言われてもすぐに改善できるものではない。そういう指摘は邪魔なだけだ、必要 ない、と話したつもりだったが、すぐには伝わらなかった。
また逆に、私が言い過ぎてアリオンボルトが激怒する場面もあった。オルティッードーの伴奏 の際、モリン・ホール奏者によっては、まるで西洋音楽の対位法に基づく曲であるかのように、 歌っているメロディーに対抗するように、まるで異なるメロディーをぶっけてくる人もいると先 に書いた。アリオンボルトも若干そうした傾向があったので、そういうやり方は歌い手にとって は歌いにくいから、装飾音は控え目にしてくれないかと頼んだ。すると、 「自分はこうするように教わってきた!’君はいつからモリン・ホールの先牛になったんだ? そんな小うるさい注文を付けてくる歌い手は見たことがない。」と激高するのだった。
そんなに怒るとは思わず唖然としていると、 君は今まで見た歌い手の中で一番不愉快だ!」とまで言われてしまい、言葉を無くしたものだ。 そうは言っても、それだと歌いにくいのは本当なので、と話を続けると、「だったらモリン・ホー ルの音を聞かなければいいだろう!こっちの音は聞かずに、自分の思う通り歌えばいいじゃない か!」と言うのだった。
後で思えばこの発言は、あながちやけくその暴論とばかりは言えず、ある意味、オルティン・ ドーの歌と伴奏との関係を的確に言い表したものでもあった。伴奏の弾き方に若干疑問を感じて も、それを話し合いで調整するのではなく、歌っているその場で、歌い手が決然と意志をもって 自分の歌声に集中し、思い描く通りに歌って見せれば、伴奏者も自然とそれに合わせて弾いてく れるようになるのだ。先に書いたように、まさに馬とその乗り手の関係である。歌い手は決然と して伴奏者を引っ張るべきなのだ。そうしなければ歌も伴奏も崩れてしまう。モンゴルのオルテ ィン・ドーはそのようにできている。
西洋音楽の場合は、歌い手も伴奏者も互いに相手の音を良く聞き、息を合わせなければならない。楽器を置いて、演奏のしかたをディスカッションすることも必要だ。オルティン・ドーはそ うではない。私は不適切にもアリオンボルトに西洋風のやり方をしていた。彼が怒るのは無理の ないことだったわけだ。
そして私に「ダメ出し」を続けるアリオンボルトにある日私はこういった。
「それでは貴方が歌って見本を見せてください。正しい発声をして見せてください。貴方が歌う のをお手本にして学ぶことにしましょう。さあ歌って」それでようやく話が通じたようだった。
楽器の人はたいてい、発声練習などしないし、あまり歌うことはない。そしてモンゴル人であ ることや伝統音楽の担い手としてのキャリアがあることも、声が出せるかどうかとは別の話であ る。そういうこともいくらか伝わったと思う。上記のことはとりあえず解決した。しかし彼の日 本滞在中の半年間、相手にカチンと来る事柄は尽きることがなかった。
「相方」との関係
お笑いコンビの人たちは、キャリアを重ねていく中での一時期、互いに相手のことがたまらな く嫌いになることがある、という話を聞いた。相手の何もかもがいやで、しまいには相手の食事 のしかたや、頭の形まで嫌いになる、というのだ。私とアリオンボルトとも同じようなことだっ たかと思う。相手の歩き方やカバンの持ち方までが神経に触るようで、どうしたらいいのかと思 ったこともあった。
しかし、曲を合わせていく中で、曲中のメロディーの特徴や歌詞の内容、音楽の味わいや感動 など、人間の感覚の深い部分に触れるようなことを語り合うこともあった。普段はお互いのプラ イベートにはあまり立ち入らないような、距離を置いた関わり方をしていた。 もし音楽がなかったら、果たして友人関係になったかどうか。せいぜい、笑顔で挨拶を交わすだ けの関係だったかもしれない。それが、いわば家族や親しい友人ともあまりしないような深い会 話をする間柄になったというのは、ある意味、不思議なことではあった。ただの友人とは違う[相 方]と言えるような人間が、遠い異国の人であったというのは、まさに人生の不思議というか、 縁は異なものと言うべきかと、つくづく思わされる。
(つづく)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
日本三大祭りの一つ、7月 17 日は、祇園祭りです。今回は、八坂神社の紹介です。
○八坂神社は京都市東山区祇園町にある神社です。 (四条通東つきあたり) 祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命・その子など多くの 神が祀られています。 社伝によると斉明天皇2年(656年)高句麗か ら来た調進副使・入利之使主(いりしおみ)の創 建とされる。通称として祇園さんと呼ばれ、1 月 1日の おけら参り 7月の祇園祭の山鉾巡行は あまりにも有名です。
事務局からお知らせ
(斎藤 生々)
6 月 23 日(木)午後 5 時 5 分、音楽交流のためモンゴル一行が、韓国での公演を終えて関空に到 着します。クラウドファウデングで支援金を集めることから始まり、6 月 22 日までに約 55 万円の 支援を寄せていただきました。滞在が一日伸びて、6 泊 7 日の滞在です。 お心を寄せていただきましたみなさま、ありがとうございました。
梅雨のこの季節大雨が降らないようにとか、沢山の拍手で迎えられ、盛会でありますようとか、 心配しながら、子どもたちが最後にどんな言葉を残してくれるかを楽しみにしています。
クラウど・の事後報告に、子どもたちの言葉が必要なのです。思いがけず一日伸びたので長岡 京市が加わりました。最後の夜はモピ事務所で17名の大家族になります。
次号 173 号は、音楽交流特集号を発行する予定です。
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