■NO 175号 2016年10月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
国際研究フォーラム
『Voice from Mongolia, 2016 vol.26』
ノロヴバンザトの思い出 その 71
子どもたちのその後
事務局からお知らせ
国際研究フォーラム
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事)
まえがき
二○○二年夏、私たちは中国内蒙古自治区の最西端にあるアラシャー盟のエジネー旗において、 自然資源や水利用に関する現地調査をおこなった。その結果、社会・歴史・文化および民間の風 俗習慣などに関して予想以上の成果を得ることができた。それらはさまざまな書籍等にまとめら れてきたが、ここにさらに一冊を付け加えたい。
エジネー旗は、東をアラシャー右旗、西を甘粛省粛北蒙古族自治県、南を甘粛省金塔県、北を モンゴル国に接する国境地区である。その境界線はおよそ五百十四、六九キロメートル、総面積 は十一万四千六百五平方キロメートル、人口はおよそ一万六千人である。当該地区での気候は概 して降水量が少なく乾燥しており、冬は寒くて夏は暑く、寒暖の差が大きい。近年ではとくに砂 漠化が著しい地域として知られている。このような地域での水資源や植生などについて、老人か らうかがった話をまとめたのが本書である。
老人たちからお話をうかがうために相前後して五回、現地を訪問した。動物や植物などの自然 環境の変化についての情報を得ることができたばかりでなく、自然環境と密接に関係する生活、 社会の歴史的変容についても理解することができた。とりわけ、「文化大革命」という歴史的事件 については否応なく聞き及ぶこととなり、当該「運動」が人びとの生活や人間関係、そして人生 に対してどのように深刻な影響を与えてきたかを具体的に知ることとなった。老人たちの多くは 自然環境や社会環境の変化すなわち歴史について語るにあたって、「文化大革命」を避けて通るこ とはできなかったのである。
私たちはかつて、内蒙古自治区の他の地域や新疆ウイグル自治区あるいは青海省にいるモンゴ ル族のあいだでも現地調査をおこない、老人の話を聞くことはあったが、これほどまでに「文化 大革命」の話題が出たことはなかった。言い換えれば、それらの諸地域に比べてここエジネー旗 ほど「文化大革命」が深刻な地域はなかったのである。そしてそれは当該地域の地理的位置と無 関係ではない。
当該地域は、歴代王朝の統治者たちによって注目されてきた、きわめて重要な場所である。そ の地理的位置は、東西を結ぶシルクロードと南北を結ぶ草原の道との交差点にあり、軍事上の要 塞として重視されてきた。モンゴル族にとっては、内蒙古とモンゴル国、新疆のオイラートモン ゴルと青海、甘粛のホシュートモンゴルなどを結ぶ要であった。さらに、インド・チベット方面 から仏教が普及するうえでの文化的交通の要地にあたり、独特の文化が花開いた場所でもある。 エジネーは通例、エジネー・トルゴード旗などと呼ばれているが、実際にはモンゴル国の主とし てハルハや、トルゴード、ホシュート、トメト、モンゴルジンなどさまざまな出自をもつ人びとが混在し、文化的多様性を帯びた国境地帯なのである。 私たちが話をうかがった老人たちのなかにも、モンゴル国、新疆、フフホト市周辺、遼寧省、青海、粛北など各地から来た人びとがいた。なかでも多かったのはモンゴル国から来た人たちで ある。おそらく私たちは合計八十人くらいの人びとを訪問しただろう。そのうち六十歳以上の老 人たち二十三名についてはライフヒストリーを語ってもらった。本書では、そのうち十七名のエ ージたちについて、モンゴル語のテキストを整理し、日本語に翻訳した。エージとは母を意味す るモンゴル語である。子どもを自ら産むことのなかった女性も含めて、ここではみな母として生 きてきたことを重視して、「母たち」と呼びたい。
出版に先立って、私たちはそれぞれの母から、ライフヒストリーを出版してよいかどうかと意 向を尋ね、原稿を読み上げて確認した。善良な「母たち」は、これまで心中に隠していたことに ついてその価値を云々することなく私たちに語ってくれた。にもかかわらず、すべての内容を記 すことができないのはひとえに私たちの能力不足によるものである。残念なことに、本書の刊行 を見る前にすでに何人もの老人が亡くなっている。
ここで、私たちは二つのことを伝えておきたい。
第一に、草原のように広い心と豊かな生活経験をもち、慈母のように私たちに貴重な知識を教 え、何度も訪問を受け入れて、その人生を詳しく話してくださった母たちに、厚く感謝を申し述 べる。また、本書の完成を見ることなく亡くなった、エー・ボル、カンダ、ドルマンツォー、ド ルガルツォー、マリヤ、アビルミドさんら母たちに哀悼の意をささげ、その魂の安らかなること を祈り、本書を彼らによる永遠の名作として献上したい。
第二に、本書に記録されたライフヒストリーは、単に個人の歴史ではなく、当該地域の社会の 歴史を反映している。例えば、当該地域において裕福な五あるいは六戸の遊牧民がいたこと、多 くの貧しい人びとが彼らのもとで使用人として暮らすことによって糊口をしのいできたこと、け れどもそうした経済格差を超えて人びとのあいだで大いに養子縁組の慣行がおこなわれ、福祉制 度や医療制度に依存することなく、セイフティネットをもっていたことなど、社会の実態を「人 間のネットワークの総体」として立体的に描くことのできる事実が含まれている。こうした歴史 的事実は、必ずしも史料に記されていないけれども、重要であることは疑いない。将来にわたっ て、本書の内容が歴史資料として大切に扱われることを希求する。
最後になったが、現地の人びとへの案内役をして、惜しみない支援をしてくださった、エジネ ー旗の元副旗長にして、若き郷土史家でもあるアルタンツェツェグさん、旅行会社社長のナスン デルゲルさん、退職後も依然としてモンゴル文化の発展のために努めるナラントヤー、ナランチ メグ、ツェベグジャブさんらの厚き友情に心からお礼を申し上げる。
二○○六年十二月
『Voice from Mongolia, 2016 vol.26』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「わが校の先生たちは大したものです。負担が大きい状況でも不平不満を言う人はいない。築6 8年の校舎ですが、ここは地震がないから(笑)」
―― Д.ナランツァツァラルト、ウランバートル第12学校校長――
新学期前夜、ウランバートル郊外の学校で教頭を務める友人の携帯が鳴った。聞けば、まもな く新学期というのに、机が足りない、教卓もない、という先生が困り果ててかけてきたのだとい う。近年調達された机やイスは品質がよくないため、壊れやすく、修理して何とか使っているが、 生徒数が増えてどうしても足りないというのだ。
彼女の勤務先は首都中心部から12キロ離れたタブンシャルにある。2年前の春、この連載の 初回で、老朽化した体育館が使えない窮状を紹介した、あの学校。「自分の目で現状を見てみたら」 と誘われ、同校を訪れた。
マンション群の住宅街とゲル地区がともに学校区に含まれる同校の全校生徒は2千360人。 全校生徒のうち、両親ともいない孤児が40人、ひとり親家庭の子は160人いるそうだ。旧ソ 連の援助で建設されたという年代物の校舎に入った。明るく、清掃が行き届き、古さを感じさせ ない。「数年前に設置された吊り天井のむこうは、ひび割れ、剥がれているの」と友人がささやく。 建て替えの予定だったが、2012年に歴史的建造物として取り壊しが中止になり、現在に至る。 壁や廊下は生徒たちの作品で飾られ、階段の踊り場には都会の子にも伝統文化に触れる機会を、 と小さなゲルが置かれていた。
2010年に使用が禁止された問題の体育館も同じ校舎内にあった。聞けば、今年の春、柱や 天井、床を全面補修し、あとは専門機関の使用許可を待つばかりとなっているという。「過去2年 間、備品の予算はゼロだった」(校長)という厳しい財政状況で、どのように工事費を工面したの だろう?その立役者だという体育教師のエンヘバータルさんに話を聞いた。同校の卒業生でもあ る。
「既に校舎が取り壊された学校のいくつかは、予算がなくて校舎が建設されないまま放置され ている。このままだとあと5-6年以上放置されかねない、これは何とかしないと、と思った」。 地域の社会人バスケットボールチームのメンバーらを中心に、卒業生の間で寄付を募った。そし て、125人の教職員が 1 日分の給与を、生徒の父母2千人以上が1万トゥグリクずつを寄付し、 総額3千500万トゥグリク(約175万円)の資金が集まったという。春の1か月間、男性教 師らが自ら作業し、女性の教職員は食事を作って応援。「みなの協力があって成し遂げられた」と ナランツァツァラルト校長は胸を張った。もちろん政府による整備がないわけではない。申請し て5年、先ごろ学校敷地内にネット張りのサッカーコートが整備された。ボールやネットなどス ポーツ用品購入が今後の課題という。
築70年近い、ともなれば、修理を要するのは体育館だけではない。ショートヘアーにゴール ドのジャケットがよく似合う女性の先生に聞くと、「英語の特別教室は、窓のサッシが壊れ、閉ま らなくなってしまったの。このままでは冬授業できないため、父母に状況を伝え、寄付を募って 修理費を集めた」。30年以上使われているのでは、という年代ものの黒板は「つるつるで全然書 けなくて…つばで濡らしてなんとか書いている」。
先の見えない経済不況の只中にあるモンゴル。公務員である教員の月給は経験年数により53 万~61万トゥグリク(2万6千円~3万円あまり)と低水準にある。小中学生と赤ちゃんの3 児の母である友人もそうだが、先生方の9割は女性で、子育て世代も多い。授業の準備をし、生 徒を教えるだけでなく、教室の営繕資金集めも仕事の範疇。それでも休憩時間に、校長も交えて、 和やかに語らう表情に暗さはない。アクセサリーやネイルなどおしゃれにも余念がない。こんな ごく普通の人々が、この国を、愛情深く、たくましく支え、動かしているのだ。
もし日本において、勤務先がこんな状況に陥ったら、人々はどう反応するだろう。こんなの自 分の仕事じゃない、と職場をあとにする?自分だったら、頑張れるだろうか?
古い校舎の隣に日本のODA(政府開発援助)で2012年に建設された4階建ての新校舎が あった。2010年以降、学区の再編もあって生徒数が約600人増加した同校にとって、教室 数は8とお世辞にも大きいとは言えないが、「この新校舎がなかったら、全学年3交替で授業をし なければならなかった。日本の人々に感謝している」と校長。
ここでは、小学校低学年の授業が3交替制で行われている。つまり1学年分の収容能力ということ。同じ教室を、午前8時から 1 年生、12時から2年生、15時から3年生という具合に使 うのだ。入学してまもない新 1 年生の教室をのぞくと、2人がけの机に、3人かけているところ もちらほら。新入生325人で7学級というから、35人定員の教室に平均46人。低学年には 無償で与えられる教科書も数が足りず、やむをえずコピーを配布して間に合わせたという。
JICA ウェブサイトによると、2009年の第4次初等教育施 設改善計画に基づく無償資金協力による。 およそ4年 をかけて、第12学校を含む首都の既存校・新設校12校に校 舎を建設(増設された教室の数は合計155教室)、備品等も贈 られた。総事業費は32.62億円という。
旧校舎の英語特別教室にて。寄せ集めのいすと机で何とか数を確保している
日本のODAで建った校舎で学ぶ新1年生
教員と父 母が協力して 補修した体育館
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「今月の気になる記事」
「外国の援助は地方を重視することが多いようだが、首都郊外の状況は本当に深刻」と前述の 友人は言った。例えば市街地から30キロあまりのエメールト周辺では地方からの移住で人口が 増えているが、学校がないという。少子化で小学校の統廃合がすすむ日本の地方から、学校をそ っくりそのまま持って行ければいいのだが…。
「学校区制度を再び調査した」
(筆者:Б.エンヘトール)
新年度がスタートして数日、子どもたちの多くは喜びいさんで通学している。一方で、遠くか ら通学する子どもは眠い目をこすってバス停へ、込み合うバスに揺られる。双子の赤ちゃんを抱 いた若い母親が、人並みをかきわけながら保育所へ急ぐ。大きなカバンを背負った低学年児童は バスの中で座席はおろか、つかまるつり革さえ見つけられず人々に、押し潰されそうになりなが ら登校している。今回は、学区制度が首都の子どもたちにとって適切なものとなっているのか、 取材してみた。
子どもひとりひとりの能力を引き出すためには、教え方が肝心
国中場所を問わず、新入学の6歳児が絵をかいたり、色を塗ったりする「作業」が大好き、と 先生方は言う。また、教員の教え方が年々良くなっている、と父母らは評価している。首都では、 市街地・郊外を問わず、すべての学校に 1 年生の学級数は多い。多くの学校が一学級30人あま りで授業を行っている。バヤンズルフ区のいくつかの学校を訪ねたが、教室の快適さや生徒の出 席率は平均してよかった。教育制度刷新事業の成果あって、教員が子どもの年齢に応じて興味を 引く内容に準備した教室内の掲示が見られた。特に1-2年生の学級の壁には児童の図画作品や 「数えてみよう」(数字)やキリル文字アルファベットのカラフルな図表などが目を引いた。同区 のアムガラン複合学校の2年担任のアルダルマ―先生に思いを聞いてみた。 「わがクラスは38人で新年度をスタートしました。子どもたちは同程度の発達を示し、遅れて いる子はほとんどいない。夏休みに復習をしたかどうか、教科書を読んだかなどを調べるのに、 文字を書かせたり、書き取りをしたりしています。私たちの仕事は、紙の試験用紙でなく、子ど もたちひとりひとりが個性を伸ばせているかどうかで評価されるようになった。そのためには授 業でいかに教えるかが問われます。」
学校がなくなった生徒たちはちりぢりのまま
学校区の区割りについては市街中心部では問題は少ないが、郊外や遠くから通学する子どもた ちの負担が大きいことが父母の悩みの種となっている。一例を挙げると、バヤンズルフ区の13 地区にある第14学校は、校舎が危険であるとして授業を行わなくなって数年が経過した。
この2、3年、子どもたちを他の学校へ送り続ける父母らは、新しい校舎の建設が近く決定し、 生徒たちの負担が解消されることを心待ちにしていた。先般やっと校舎の建設費の予算措置が決まり、2017年に供用開始される計画となったが、現状では同校の児童生徒はシャビ複合学校、 第44学校、第92学校と3-4か所に分かれて授業を受けている。
(中略)
住所不定の子どもたちはどの学校で学ぶ?
取材中、ドルノド県から来たひとりの母親と出会った。「私はひとりで子どもを育てています。 就学年齢のふたりの子どもがいます。仕事をするために街に来たが、どこの学校に入れられるの かがわからない。首都の全域がいずれかの学校の校区になっていて、その地域に住む子を受け入 れると聞きますが、仕事も所得もない人はどこに問い合わせればいいのでしょうか?」というの だ。通学区の問題にも、やはり格差が生じている。
地方から出てきて、子どもをどの学校に入れていいかわからない父母がこの人だけでないこと を関係者は百も承知だろう。この問題をわたしたちはどのように解決すべきなのだろう。
さらに、地方選挙が10月にあるため、住所変更手続きが新学期より60日前からストップし ている。この変更手続きができないことは、首都に転入した人たちにとって大きな重荷になって いるようだ。とりわけ、首都で学ぶ大学生の兄、姉について行く形で学ばせるために子どもを送 った地方の牧民の不安はいかばかりか。バヤンズルフ、ソンギノハイルハンなど郊外から都市に 入って来る、大部分が「別の」住所に居住する人々は「近隣の知人家族の名前で、子どもを学校 や保育所に入れて何とかしのいだ」と話していた。学区制という厳格なルールの下で、地方の人々 にとって、また郊外のゲル地区、学校や保育所が需要を満たしていない地区において、このよう に一筋縄ではいかない問題が起こっているのだ。
『ゾーニー・メデー』紙より
―2016年9月7日 政治ニュースサイト POLIT.MN より
http://www.polit.mn/content/83689.htm (原文・モンゴル語)
(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その 71
(梶浦 靖子)
UDの声と話し声
人前でオルティンードーを歌う経験を自らしてみて、普通の話し声とオルティン・ドーを歌う 声とは全く別ものであること、身をもって実感した。喉にかかる負荷が桁違いなのだ。長めのU Dを一曲歌った直後は、しばらく(少なくとも2~3分)沈黙して休まなければ、声がうまく出 せずほとんどしゃべれない。音量の乏しいカサカサの声がかろうじて出せるかどうかだ。例える なら、全速力で数十秒も走ると体がほとんど動かせなくなるのと似ている。
短めの曲ならば休憩なしで2曲続けて歌うことは何とかできるが、曲と曲の間に何かしゃべる というのは本当にむずかしく、悩みの種だった。しゃべってしまうと全く喉の休憩にならず、そ の次の曲が歌えなくなる。声の張りがなくなり、高音部も低音部も途切れてしまう。
多くの人になじみ深い歌、ポップスでも演歌や歌謡曲でも、ライブでは歌い手が曲の合間に何 かしゃべる事が多いので、そのようにやってくれないかと演奏会の主催者などに求められる。な じみのないモンゴル音楽をやるのだから、モンゴルの様子、自然や人々の印象や食べ物のことで もしゃべれば喜ばれるだろう、と言われるのだが、断るしかない。
上のような理由を説明するのだが、あまり理解されなかった。こうしたことは、実際に体験し なければなかなかピンと来ないのかもしれない。特に悩ましかったのは、そのように断ることを、 何か偉ぶっているとかプライドが高いからのように誤解されがちなことだった。私も、できるこ となら曲の合間にしゃべって、会場を和やかにしたい。そのための練習もしてみたがどうにも無 理だった。もともと私がスポーツもあまりしないインドアな人間で、体力が足らなかったせいも ある。しかし、日本人と比べると筋力と逞しさのかたまりのように見えるモンゴル人の歌い手で も、同じ理由で曲の合間にしゃべることはない。 だから、オルティン・ドーを習い始めてせいぜい数年の日本人には余計にむずかしいことになる のだが、なかなか理解されなかった。
そうしたわけで、オルティンードーをはじめモンゴル音楽の演奏会には司会が必要だと痛感さ れた。曲や演奏者、音楽のジャンルを解説し、モンゴルの自然や歴史、風物についてのエピソードを語る役割の人間が必要だ。そして場合にもよるが、司会者がワンマンショーのように前に出 すぎず、しかもあまり専門的で説明調になりすぎず、エンタテインメントの一部になるような司 会のあり方を考えなければならないと思う。
頭とのどが奪い合い
また、UDの曲の合間には沈黙するだけでなく、座って目も閉じて、本当に何もせずじっと休 憩しなければならない。少し何か考えたり、文章でも読んだりすると、直後の曲で声の出が悪く なる。自分の感覚では、少しでも頭を使うと脳への血流が増えて、喉の疲労回復にまわされるべ き血液が脳に奪われてしまうように思う。演奏会をすると、歌うだけでなく自分であれこれ動き 回り対処しなければならない事も多い。なので本当に困る。
一度共演した内モンゴルのモリン・ホール奏者は、MXを西洋音楽風に彈くのが好きで、ピア ノ伴奏付きのMX独奏曲を演奏することになっていた。自分で伴奏のピアニスト(日本人)も連 れてきていたが、演奏会の当日になって突然(例によって?)曲目を別のピアノ伴奏付きの曲に 変えると言い出した。ピアニストはほぼ初見の曲でも楽譜を見ながらなんとか弾けるが、譜めぐ りの人間が必要だという。その曲の演奏中の私は休憩なので、やってくれないか、ピアニストが 私に言って来た。
しかし、観客の視線を受けながら楽譜に神経を集中するのでは、まったく休憩にならない。そ の後まだ数曲歌うことになっていたので、申し訳ないが断るしかなかったが、やはり納得しては もらえなかったようだ。何もせず休んでいるのだから手伝ってくれてもいいじゃないか、何を大 物ぶっているのか、という声が聞こえてきそうだった。私の場合は特に体力が足らなかったかも しれないが、本場のモンゴルの歌手もまた、曲の合間の休憩は不可欠だ。このことを、モンゴル 音楽のコンサートを企画する人にはくれぐれも良く知ってもらいたいと心から思う。
モンゴル民謡の日本語詞
自分でモンゴル音楽のコンサートを何度か行い、中で、モンゴル民謡を日本語の歌詞で 歌う試みもした。「暖かく優しい風 Ur’ khan khongor salkhi 」と「遥かなる蜃気楼 Als yn gazryu zereglee」の2曲で、次のようなものである。
「暖かく優しい風」
愛しい君と 連れ添い 共に暮らし行くほどに 仲睦まじく
「遥かなる蜃気楼」 ゴビの果てに 立ちのぼる 蜃気楼の彼方に 出ずる人よ
愛しき人の 甘いしぐさ 思い返すごとに 胸はふるえる
どちらの曲も、出だしの1番は普通にモンゴル語の歌詞で歌い、「暖かく」は2番を、「遥かな る」は3番と4番を上記の歌詞で歌うようにした。これら日本語詞は、原曲の歌詞の意味内容に 基づいてはいるが、メロディーに合うように単語や言い回しを工夫している。また特に「遥かな る」のほうの原曲の歌詞は、親子の情愛を歌った内容と思われるが、日本語詞はやや恋愛感情的 になった。こうした試みも、日本の聴衆にモンゴルの歌を身近に感じてもらう一助になればと思 いやってみた。
ところでこの「遥かなる蜃気楼」のほうを日本語詞で歌った際、やや不思議なことがあった。 メロディーの末尾のフレーズ(譜例 34)を歌う時、日本語詞だとなぜか譜例 35 のように歌ってし まうのだった。メロディーの記憶違いではない。この曲は何度も歌い頭に入っている。なのに、 日本語詞で歌うとどうしても譜例のように歌いたくなる、と言うかそう歌わなければいけない気 になってしまうのだった。もしかすると日本語の母音や子音、アクセント、音調がそのように要 求するのではないかと思うが、よくわからない。日本語詞ではどうも譜例のメロディーは合わな いのだ。それでライブでは何度か譜例のように歌った。
共演したモンゴル人はどちらかと言えば批判的だった。確かに、原曲通り本来のメロディーで 歌うのがまっとうなことだろう。しかし、音楽や芸事を伝えるには、原曲を正しく紹介するとと もに、こうした些細な工夫や遊びがあっても良いかもしれないと思うのだが、正直、いまだ結論 づけられずにいる。
(つづく)
その後の子どもたち
(斉藤 美代子)
モンゴルは秋から冬を迎えようとしています。9月15日からは暖房も入り、そろそろ朝晩の 気温は0度に近づいています。
9月17日、モンゴル子供宮殿も新年度を迎えました。日本ツアーに参加した子供たちの両親 に出会うと、いい体験をさせてくれてありがとう、子供たちが今も家で日本の話をしている、な どの声を聞きます。先日、モンゴル交響楽団のコンサートを聞きにいったところ、最初の音合わ せが聞こえたときに「あ、奈良でやったことを思い出す!」と言っていた子がいました。それぞ れの心の中に大きな形で残っているのだなと思います。参加した子供たちはバイオリンに対する 姿勢が変わったと先生もおっしゃっていました。今年1年、また大きく成長してくれるでしょう。 春が楽しみです。
子供宮殿オープニング(さまざまな教室の子供たちが演技を披露します。バイオリンからはクァルテットが 参加しました。)
事務局からお知らせ
(斉藤 生々)
モピ通信をメールで配信している方々には、youtubeで演奏された楽曲の紹介をいたしましたが、 モピ通信を郵送しているみなさまに聞いていただくことが出来ずにいます。モピホームページに 載せていますので開いていただければ下記の5曲聴くことが出来ます。
*交響曲第11番”時計”より第3楽章/ハイドン
*国歌(モンゴル国歌)
*セトゲリーン・エクシク(心の旋律)
*メサイヤ(ヘンデル)
*バセリーン・オヤンガ(お祝いの音楽)
https://youtu.be/krzILE3Gqls ここからでも聞くことが出来ます。
演奏を聞いての、感想を披露させていただきます。
合同演奏会の YouTube 拝見しました。日本とモンゴルの子ども達が、力を合わせて、見事な演 奏ですね。演奏を合わせる時間も十分ないなかで、よくまとまっていて、感心しました。 言葉は違っても、楽譜は共通です。一緒に演奏すれば互いの心の内まで通じあったことでしょう。 そして、その温もりは音色を耳にしたみんなに共有されたことでしょう。本当に音楽の力は素晴 らしく偉大ですね。
この困難な企画を具体化して、大成功へと導かれた皆さんのご努力に対し、改めてお疲れ様で した、そしてありがとうございますと申し上げます。一般からの寄付金も集めて、という新しい 試みがある程度成功したということも大きな成果でした。
撮影、編集が素晴らしいです。長い楽曲を飽きさせない映像で、音もきれいです。
学校で撮影 編集したものかと思っていました。ムーギーさん美代子さんの労力も大変なものですね。(金田悦 二)
●音楽交流についての事後報告は、今回で終わります。
沢山のみなさま、ご支援ありがとうございました。
●「意味深い京都の佇まいを訪ねて」はお休みです。
●例年 11 月に民博で開催されていたモンゴル秋祭りについて、
モピとしての参加は未定です。
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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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