■NO 179号 モピ通信

■NO 179号 2017年2月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

 

「母たちのライフヒストリー」その2

 『Voice from Mongolia, 2016 vol.29』

   意味深い京都の佇まいを訪ねて

   事務局からおしらせ

 

 

 

  中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き    取り調査(2002年)

より「母たちのライフヒストリー」その 2

(小長谷 有紀)

(人間文化研究機構理事)

ボルさんは、一九二七年卯年生まれ、七十八歳。もとは、新疆ウイグル自治区南部バヤン ゴル地方のトルゴード(カスピ海へ移動しなかった集団)だと言われている。本人はエジネ ー旗バヤンボグドのトーノトと言うところに生まれた。実母もそこで亡くなっている。

――幼いころの状況や生い立ちのことをお話いただけますか?

実母はチョローと言う名前でした。二十五歳の若さで喉が腫れる病気(甲状腺機能亢進 症)で亡くなったそうです。そのとき、わたしはまだ五歳だったと言われています。

母は嫁がぬままに実家でわたしを産みました。父の名前を知りません。父と母が結婚す る直前に母が亡くなったので父はその後、別の人と結婚したそうです。

母の父親(わたしの母方の祖父)はオチラルと言う人でしたが、早くに亡くなったそう です。母の母親(わたしの母方の祖母)はブーベイと言う人でした。母の弟(わたしの叔父) の名前はブントゥンと言いますが、母は、チョロー、ブントゥンと言うただ二人の姉弟でし た。

 

わたしは五歳で孤児となって、祖母のブーベイと叔父のブントゥンと一緒に暮らしてい ました。そこから祖母の弟の下級官吏の家に一年間いましたが、その後、叔父のブントゥン が結婚したので、そこにもしばらくいました。叔父の結婚相手はバルマーと言いますが、わ たしたちは親しみを込めてその叔母をバムバイと呼んでいました。母のない孤児でしたので このようにあちこちに送られていたのでしょう。

その後、祖母の意志で彼女の親戚のカンダと言う人の養子にされました。カンダとブー ベイはいとこ関係でした。カンダは金持ちドゥンドゥブの親戚でした。わたしは養母カンダ のところに七歳のときに来ました。カンダ自身も養子でした。つまり、裕福なユルールト・ バヤン(バヤンは富裕の意)の養子でした。

ユルールト・バヤンはもともとハルハ(モンゴル国中央部・多数派集団の名称)人です が、回族の戦争のときにお母さんがハルハから連行されて来ました。最初は金塔まで連行さ れたそうです。そのとき彼はお母さんのお腹にいて、金塔で生まれたそうです。わたしが養 子に行ったとき、ユルールトの家はたいへん裕福でした。ユルールトには子どもがいません でした。

奥さんもいなかったと思います。近所にいたハンドスレンと言う女性と、同居するまで はいたらなくても、往来し、寝泊りしていました。その女性はユルールト・バヤンの服を縫ったり、洗濯をしたり、食事を作ったりしていました。そこにはユルールト・バヤンの七人 の養子がいたそうです。

一番上がカンダで、二番目がシャル、三番目がチメド(別名ツェヘル)、四番目がボルで、 五番目がオーライですが、孤児だったオーライは八歳のときに養子にされて、九歳のときに 学校に行かせてもらいました。オーライは母方のおじのバトに連れ出されて養子にされまし た。オーライは十分勉強させてもらいました。そして、一九五六年にオーライはボルガンと 結婚して独立しましたが、そのとき、ユルールト・バヤンは自分の財産から分け与えて、ち ゃんとした家庭を作ってやりました。六番目がツェツェグと言う漢人の女の子でした。その 後、一九四九年に彼女は金塔に戻りました。ちょうどわたしが嫁いだ年のことです。七番目 がサラントヤーと言う人でした。

わたしが九歳になると、ユルールト・バヤンはわたしをウマに乗せて、自分でわたしを 連れて祖母のブーベイに会わせ、

「この子を養子にする」 と言って正式に挨拶をしていました。

わたしがユルールト・バヤンの家に来たときは、彼の家はヒツジとヤギが約四百頭、ラ クダが約八十頭、ウマが一群(十数頭から二十頭ほど)で、乗用のためのウマが三十~四十 頭、ウシが五十~六十頭、ロバが三十~四十頭と言うように、五種類の家畜が全部そろって いました。

養母カンダの夫はオイドブと言う名の僧侶でした。ハルハのダリガンガの人だそうです。 僧侶なので他人の家へ読経しに行っていました。わたしたちは彼のことをラマ・エムチ・ア ーブ(僧医お父さん)と呼んでいました。ユルールト・バヤンのことはボーラル・アーブ(白 髪おじいさん)と呼んでいました。

養母のカンダとラマ・エムチ・アーブの間に息子が一人生まれました。名前はドルジで した。ドルジは僧侶になりましたが、二十二歳のときに突然、はしかで亡くなりました。そ の病は身体に発疹して発熱して死ぬ病気です。ラマ・エムチ・アーブはそのときロボンチム ボ寺に行っていました。

一九五八年に合作社が設立されて、一九五九年に国営牧場が設立されたとき、わたした ちはみな家にもういませんでした。ユルールト・バヤン(養家の祖父)は一九五九年の春に、 現在のジャルガラント・ソムのハブチグと言うところで亡くなりました。国営牧場が設立さ れる前、オーライは一九五六年に結婚して独立し、チメド(別名ツェヘル)とわたしはそれ ぞれ一九五二年に結婚して独立したので、わたしたち三人はすでにユルールトの家を出てい たのでした。

国営牧場が設立されたとき、シャル(奥さんがドラム、息子がアムガラン)、カンダ(養 母)、サラントヤーらは家畜を供出してそのメンバーになりました。

ユルールト・バヤンの家では、養母カンダとわたしの二人がヒツジ放牧の担当でした。 ユルールト・バヤンの養子と言うのは実際ある意味で召使い同然でした。何の自由もありま せんでした。ラクダやウマに乗るにしても許可を得なければ乗ることができませんでした。 勝手に乗ると罵られます。

ユルールト・バヤンは性格がたいへん荒っぽくて、きつい人だったのでわたしたちはと ても怖がっていました。何かにつけて、「乱れた悪い血をもつものども」 と罵り、火ばしを持って立ち上がると、わたしたちは怖くて無言のまま震えるだけでした。

やがてシャルとドラムがある程度の権限をもつようになり、家と家畜の管理をしはじめ ました。最終的に彼らがユルールト・バヤン家のあとを継ぎました。今ではシャルとドラム の一人息子のアムガランがユルールト・バヤン家の後継者になっています。

わたしの養母のカンダは一九六六年に迫害されて「富牧」「牧主」のレッテルを貼られて いるうちに、一九六九年に亡くなりました。野外で放牧していて、突然亡くなったと言われ ています。悪名のレッテルを貼られていたことに苦しんで亡くなったのでしょうね。わたし たちも同じく自由を剥奪されていたので会いに行くことができませんでした。

――ご自身の家庭や子どもたちのことについてお話いただけますか?

わたしは一九五二年に二十五歳のとき、結婚しました。夫の名前はゴンチョグロドイと 言います。夫の方から酒とハダグ(儀礼用の絹布)を捧げる儀式が終わって、約一年間待た されてようやく結婚することができました。養母が許していたにもかかわらず、ユルールト・ バヤンが厳しい人でわたしにヒツジの放牧をさせるために嫁がせたくなかったのです。

ですから、上の二人の子どもは未婚のままユルールト・バヤンの家で産みました。一番 上の子どもの名前はエルヘムサインと言います。一九四八年の子年生まれです。文化大革命 のときはウイドゥン(衛東、毛沢東を守るという意味)と言う名前に変えました。今はバヤ ンノール盟の中心地に勤めています。次男のボルドバートルは一九四九年に生まれましたが、 今はオルドス市に勤めています。

ゴンチョグロドイのお父さんのダムディンと言う人がわたしのことをたいへん気に入っ て、どうしても自分の息子の嫁にしたいと三年間懇願して許可を得て酒とハダグを捧げたの だそうです。その儀式が済んでから一年あまり経ってようやく嫁がせたのです。

わたしが嫁いだとき、ユルールト・バヤンはわたしに十二頭のラクダと二十五頭のヒツ ジ、ヤギを財産として分け与えてくれました。ほかのものはくれませんでした。

わたしが夫の家に嫁いだとき、夫の家にはヒツジ、ヤギが六十頭あまり、ラクダが五頭、 ウマが二頭、ロバが二頭、それにぼろぼろのゲルが一軒ありました。

わたしたちが結婚したとき、四枚のハナ(格子状の折りたたみ式壁)からなる小さなゲ ルを建ててくれました。わたしが持って行った大きな長持ち二竿を置くだけでいっぱいにな っていました。

姑はわたしが嫁ぐ前にすでに亡くなっていました。一九四五年に双子の難産で亡くなっ たそうです。妻を亡くした舅のダムディンは、四人の子どもたちと生活していました。それ にもう一人、漢人の娘がいました。養女であり、召使でした。彼女は十七~八歳で嫁げない でいましたが、わたしたちが結婚したので嫁いで出て行くことができました。

わたしたちが結婚してゲルを使うようになってから、舅はルハーモーと言う独身女性と 結婚しました。ルハーモーはカンダの姉でした。

舅が婚出して行ったので、わたしたちが家を継ぐことになりました。三人の孤児(夫の 弟や妹たち)と家と家畜とがゴンチョグロドイとわたしに任されたのです。ガルサンゴンチ ョグ、バルジル、ドルジツォーと言う三人の孤児の弟妹たちをわたしたちが一人前に育てて、 結婚させ、独立させました。舅は彼らの面倒をみませんでした。

ガルサンゴンチョグは婿になって出て行きました。バルジルは郵便配達の仕事をしてい ましたが、そこで結婚しました。わたしたちはドルジツォーを一九五九年に結婚させました。 ゲルを二軒建てて、財産を分けて独立させました。ドルジツォーは最初ロソルと言う人と結 婚していましたが、ロソルが行方不明になってしまったために、ドルジツォーは離婚し、そ の後、別の人と結婚しました。

わたしには子どもが六人います。六人のうち四人を養子に出して、二人だけを自分で育 てました。

長男のエルヘムサインは三歳のときにエルデニゲレル・ノヨン(ノヨンは貴族の意)家 に養子にしました。養子にしたと言うか、連れて行かれました。

エルデニゲレルとボルが結婚してから子どもが生まれなかったので、エルデニゲレルの 母親のトソンツァガーンがユルールト・バヤンの家からその子を連れて行ってしまったので す。

ある日わたしが放牧から戻って来ると、養母のカンダが泣いていました。理由を聞いて みると 「お前の子どもは連れて行かれた」 と事情を話してくれました。もともと、エルデニゲレルの母親のトソンツァガーンとわたし の養母カンダとはいとこ同士だそうです。親戚だったので、

「子どもが欲しい」 と請われて与えたわけです。私の息子が養子に行ってから、(そのおかげで)エルデニゲレルとボルのあいだに息子が三人生まれたそうです。 次男のボルドバートルは、わたしが正式に結婚したあと(そもそも正式に結婚する前に生まれておりシャルたちと一緒に暮らして慣れ親しんでいたので)、わたしの養母の弟だった シャルとその妻ドラムの夫妻が連れ戻してしまいました。息子アムガランの遊び相手として、 その弟にするために養子にすると言われ、シャルの養子になりました。

三番目の子どものバルサンジャブと言う娘は一九五二年に生まれましたが、夫の家に来 て生まれた最初の子どもでした。家で育ちました。彼女の夫の名前はバンズラグチと言いま す。

四番目の子どもはビャムバジャブと言う娘です。一九五六年に生まれました。姉のチメ ド(ツェヘル)の養子にしました。ビャムバジャブの夫の名前はバタです。

五番目がフグジルトと言う息子で、一九五九年に生まれました。彼もわが家で育ちまし た。嫁の名前はジブザンと言います。

このように長女のバルサンジャブと三番目の息子のフグジルトの二人だけがわが家で育 ちました。

六番目のホスバヤルと言う末っ子は一九六三年の卯年生まれです。ホスバヤルは赤ん坊 のときにリンチンダワーとバルマーのところに養子に出しました。今はショワンシー(双喜) と言う名前を使っています。エジネー旗に勤めていますが、最近副旗長になったばかりです。 妻はソヨルツェツェグと言いますが、二人とも旗の中心地の住人です。たいへんなお人よし で、時どき、わたしのところへ見舞いに来てくれます。

ホスバヤルを連れて行ったことについてバルマーはいまだによく話します。 「ハダグを捧げることも、お礼を言うことばもなく、人さまの息子を連れて行くなんて

ひどかったわ。せめて実の母親に果物の缶詰を一個あげるべきでした」 とさかんに話すわけです。

夫のゴンチョグロドイは軍人でした。わたしと結婚する前は国民党の黄甫軍校西安分校 で三年間勉強しました。中国が解放されてから人民解放軍になりました。一九五七年に軍隊 から帰り、ジャルガラント・ソムのソム長になりました。その後、旗の水電局に勤めるよう になりました。そこにいたとき、文化大革命が始まって、わたしたちは糾弾されました。

わたしは一九五八年からガツァーの幹部の仕事をしていました。ウスルングイ生産隊長 を十年間勤めました。その後、生産隊の党支部の書記を二年間務めて、計十二年間生産隊の 幹部の仕事をしました。一九五八年に共産党員になりました。夫は公務についていたので、 留守がちでした。時には消息を絶ってしまうこともありました。わたしは家で子どもたちの 面倒をみながら生産隊の幹部の仕事をしていました。

それで一九六六年から迫害されはじめ、一九六九年に国境から遠ざけさせるために粛北 に行かされました。ノヨンのエルデニゲレルとその息子ドゥンドゥブの二人をはじめとする 七十人からなる約十数世帯が粛北の各地に行かされました。

わたしの家は粛北のベゲーに配属されました。わたちたちともにノルジマー、ロブサン ダシの姉のバトビリグがベゲーに行きました。バトビリグは(モンゴル国の)ハルハ人で、 読み書きがよくできる有能な人でした。粛北のホボラグの地にはエルデニゲレル・ノヨン(ノ ヨンは貴族の意)、ドゥンドゥブ・タイジ(タイジは台吉、清朝がモンゴル貴族に与えた爵位 の一つ)、ダランドルジ、イシガルザン、シャルフーなど五世帯でした。このうち、イシガル ザンはそこに住み着いて、一九八三年にエジネーに戻って来ました。また、シャルフーは独 身の年配の男性でしたが、そのまま粛北に残りました。

またシャルガルジンの地にはシャル、ソドノム、バルマーの母方のおじのノロブ、独身 のツォグジルなど五世帯でした。おしゃれなソドノムと言われていました。

シーボーチェン(石包城)の地にはバヤンジャルガル、ダンザン、ボルなどの家があり ました。ダンザンはアルタンツェツェグの養母の夫でしたが、離婚しました。ボルの奥さん の名前はアリマンと言いますが、健在です。

わたしの家族がどうして粛北に行かされたかと言えば、夫がハルハと関係があったと疑 われて「ハルハのスパイ」「内蒙古人民党党員」として批判されたのでした。

ハルハと関係があると疑われた理由は、一九六○年ごろ、夫とリンチンダワーの二人が 狩りに行って知らないうちにハルハの領内に入ってしまったために、ハルハの国境警備隊に 捕まって、二~三日拘束されてから送られて来たからです。それでハルハと何かの関係があ ったとか、ハルハのスパイだったとか疑われました。

わたしたちは粛北に十年間いました。粛北では六百~七百頭の家畜を放牧していました。 わたしたち二人は粛北に息子のフグジルトと三人で行きました。フグジルトは十歳で小学校 二年生でしたが、学校を中退させて連れて行きました。

姉のチメドに養子に出したボルドバートルも「牧主」として糾弾されていました。七年 間閉じ込められて解放されたあと粛北で結婚しました。名誉回復のとき、エジネーに戻って 就職しましたが、その後マンダフとの交換で粛北に勤めるようになりました。マンダフは職 場が粛北でしたが家がエジネーにあったので、二人で勤務地を交換したわけです。

息子のフグジルトは一九七九年に粛北から戻って来ました。そのとき、わたしたちは名 誉回復されて、夫は草原站に勤めるようになって、わたしたちはみな町の戸籍をもつように なりました。

粛北から戻って来てからのわたしは孫たち八人の食事を作るようになりました。孫たち が学校に通うようになったからです。一九八四年には旗の中心地のダライフブに住むように なりました。

一九九九年に夫が退職したとき、むかし黄甫軍校にいたために「離休」(退職後も百パー セントの給料がもらえる)にしてもらいました。リンチンダワーの場合も夫の交渉のおかげ で「離休」になりました。エジネー旗全旗で「離休」扱いをされたのはゴンチョグロドイと リンチンダワーの二人だけでした。

夫は退職してから二年経ったか経たないうちに二○○一年に亡くなりました。それ以後、 わたしは毎月三百四十元の生活援助をしてもらうようになりました。今ももらっています。 それを頼りに生活しています。

わたしにとっては満足できる金額だと思います。(つづく)

――私有の家畜をもっていらっしゃいませんか?

以前は家畜をもっていました。一九五八年に合作社ができたとき、ヒツジ、ヤギを二百 頭とラクダ約四十頭を共有のものに供出しました。名誉回復されてからだいぶ経ったあと、 生産請負制になって、それらの家畜の利息としての家畜を受け取りました。それでいくらか の家畜をもっていましたが、娘と婿に与えましたので、今わたしに私有の家畜はありません。

――あなたが幼かったころの放牧地はどんな感じでしたか?遠くまで移動していましたか?

そのころの放牧地はほんとうにすばらしかったです。水も草も豊富でした。わたしが幼 かったころ、わたしの家はボルチョンジーン・フル(フルはゴビ地域の川筋跡を示す一般的 な地形用語)と言うところにあったそうです。わたしの実母はそこで亡くなりました。

わたしは九歳のときにダライフブ鎮に来ました。夏は木陰が多くて水のよいところへ移 動します。主にウマやロバに乗ります。冬は風を避けることのできるナリン・フルなどへ短 い移動をします。それほど遠くまで移動しません。正月はラクダに乗って挨拶まわりをして いました。

養子先の祖父のユルールト・バヤンは毎年十月から十一月のあいだにキャラバンに行っ ていました。十五~二十頭のラクダを引いて、今考えてみれば金塔や酒泉などの町へ行って いたのでしょう。一度出かけると十五~二十日間くらい経ってから、いろいろな食べものや 着るものなどの生活用品を持って帰って来ました。それが最も遠くへ行ったことになります。 それ以外はそれほど遠くへ行くこともなければ、それほど遠くへ移動することもありません でした。

ユルールト・バヤンはキャラバンに行くときは必ず雇い人を一人連れて行きました。家 畜の毛皮以外に、毎年四~五頭のウシを売ります。それで裸麦や粟などを積んで戻って来ま す。

日常生活では、主に朝はお茶を飲みます。昼は飲み物を作って飲みます。夜は肉を煮て小麦粉で食事を作って食べます。ユルールトの家は、当時だいたい毎月ヒツジやヤギを二頭 屠って食べていました。そして毎年ウシ一頭を屠って食べます。自然の食物としてはトネリ コの実をよく食べました。オンツ川のジグドはよく成っていました。また、ソハイ(タマリ スク)の蕾を採って食べていました。ジャルガラントの数本の川沿いでは蕾がよく成りまし た。また、「穀類の糟」とも言われるハルマグ(野葡萄)を採って食べていました。当時は植 生が豊かで、このような植物がたくさんありました。

――ユルールト・バヤンさんが共有にした家畜の利息をもらいましたか?

そのお金をくれると言っていましたが、わたしたちはまだもらっていません。もらう理 由もありません。わたしたちは早く結婚して独立し、もらうべき財産をもらって独立してい るので、その金をわたしたちがもらう筋はありません。その家を継いだのはシャルで、今は アムガランなのでそのお金はアムガランがもらっています。ボルドバートルも分けてもらっ ているでしょう。

――祖父のユルールト・バヤンはエジネーの六大富豪の一人ですね。そのほかの五人が誰と誰だったのかご存知ですか

もちろん知っています。祖父のユルールト・バヤン、アビルミド・バヤン(ユム・エー ジの姑)、ヌデン・メーリン(メーリンは清朝の官職の一つ)(本名はヌデンデルゲル)、エル デニゲレル・ノヨン、ソノムダルマ、ドゥンドゥブ・タイジなどでしたね。ソノムダルマは 川下にいました。うちのユルールト・バヤンの家も川下にありました。これらの六世帯をま とめて川上に移動させ、その家畜を合わせて国営牧場が作られたのでした。そのとき、祖父 はすでに亡くなっていたので、養子の長男にあたるシャルがその家や家畜を継いで、牧場の メンバーになりました。

二○○三年九月二日午後四時ごろから、ボルさん宅(エジネー旗中心地市内)で聞き取りをおこなった。

2016年12月号(177号)に「国際研究フォーラム」と題して掲載しましたユムさんの話の題名は、中国内モン ゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査(2002年)より「母たちのライフヒストリー」そ の1でした。訂正してお詫び致します。

 

 

 『Voice from Mongolia, 2016 vol.29』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「ふるさとを発展させるために、俺たち若者ががんばらなければ」

――B.バトボルド(25)トゥブ県ボルノール在住 農業者

昨年 11 月末から 12 月の初めにかけて、モンゴルで野菜の栽培が盛んなボルノールソムの ソム長や農業者らが、私の住む北海道・十勝を視察に訪れた。地元中小企業の経営者でつく る北海道中小企業家同友会とかち支部が3年前から取り組む、現地農家の収入向上をめざす JICA 草の根技術協力事業の一環で、私は現地との連絡の際の翻訳を担当している。

自分たちが20年来取り組んだ土づくりの実践を伝えたいと事業に関わった十勝の農家の 尾藤光一さん(53)は、2年前初めてモンゴルへ。同ソムで地元の農家の方々と初対面し たとき、思わず涙した。祖父や父の時代の、艱難辛苦にあえぐ農業者の姿がそこにあったか らだ。昭和30年代、農耕馬はトラクターに取って代わられ、今では家一軒買えるほど高価 だという大型農業機械を駆使して、大規模経営が実践されている十勝では、畑作農家の多く が経済的に豊かだ。そこには不作や重労働に泣かされる、かつての暗いイメージはない。

ボルノールソムで父とともにジャガイモを栽培するバトボルドさん(25)は、出発の一週間前に日本行きを告げられた。10月末の地方選挙の結果、選ばれたソム長の就任後の人選 となったためだ。「日本に行けるなんて想像したこともなかった。親父がすごく喜んでくれ た」。もちろん初の海外。社会主義時代、同ソムには、首都を養う国内有数の国営農場があっ た。そこでトラクターを運転していた父の後継者として、国立農業大学卒業後、父が営む農 業法人でジャガイモを栽培している。

今回の視察の目的は、事業で今年から現地に建設する農産物直売所のにぎわいや、土づく りやマーケティングに取り組む十勝の農家の姿に触れ、事業へのモチベーションを高めても らうこと。一行は、道内各地で直売所を見学、土づくりに取り組む農家が情報交換する全道 大会に参加した。「すぐに取り入れたい実践が多くある」。片時も離さないスマホ、自撮り棒 で、写真や動画の撮影に余念がない。

冒頭の言葉は、滞在中に彼が自らのフェイスブックに書き込み、友人に呼びかけたひとこ と。「自分たちはここまでに来るのに40年かかったけれど、きみたちが本気でやればきっと 10年でできるよ」と語りかけた、海のむこうの先輩農家の「背中」は目に焼きついただろうか。

でも、彼の目が一番キラキラしていた場所 は…研修の合間に訪れた帯広競馬場。トラク ター・自動車が普及するまで、1トンの体躯 でかつて農業を、物流を、人の移動を支えた 輓馬(ばんば)との触れ合い。今では帯広競 馬場のみで開催されるばんえい競馬で2千勝 を挙げた名調教師、服部義幸さんのご厚意で、 映画「銀の匙」にも出演したキング号で馬場 を一周して大興奮。日本人の多くは跨って記 念撮影のみ、または引き馬だが、いきなり乗 りこなせるのは、さすが。幼いころはナーダ ムに騎手として参戦、今は調教を手掛けるバ トボルドさん、スマホに保存された愛馬の写 真や、ロデオにしか見えない新馬調教の動画 を服部さんに見せ、喜びを伝えている。「そのうちオレも行くよ」と服部さんから嬉しい言葉 がもれる。

年末には、以前同競馬場へ案内した元横綱朝青龍の母、プレブバダムさんから「来夏、ナ ーダムを見にいらっしゃい」との嬉しいお誘いも届いた。昨夏の国家ナーダムでは元横綱が 所有する馬が優勝したとスマホで動画を見せてもらったっけ。今夏は十勝発モンゴルツアー を企画するしかない?遅ればせながら、本年もよろしくお願いいたします。

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「今月の気になる記事」

「世界で最も空気が汚れた首都」と名指しされた、冬のウランバートル。昨年末、同市郊外 のバヤンホショー地区では、大気中のPM2.5(微小粒子状物質)濃度が、1立方メートルあ たり、1985 マイクログラム(24 時間平均で 1075 マイクログラム、WHO(世界保健機関) の指針では 1 日平均で 25 マイクログラム以下)を記録したと報じられた。この数字は、スモ ッグがひどいと言われる北京の、実に 5 倍の汚染度にあたる。今回は、この事態に対し、立 ち上がった父母らの呼びかけについて紹介する。今後の政府の対応についても注目したい。

煙からわが子を守ろう~父母らがデモを呼びかけ(2016 年 12 月)

人皆口にせずいられない、ウランバートルの大気汚染について、実効性のある対策を求め、 子どもを持つ父母らがスフバータル広場でデモを企画している。ソーシャルネットワークやその他のメディアで参加を呼び掛けている。

「煙と闘う父母の会」によるこのデモは 12 月 26 日 12 時にスタート。2 時間にわたり、呼 びかけに共鳴した父母らが自由に参加し、平和的にデモ行進を行う予定だ。デモの主催者は、 モンゴル国大統領、国家危機管理委員会、国会、政府、ウランバートル市議会、市長らに対 して、以下のとおり要求している。

「大気汚染の被害に対し、我慢が限界に達した父母がデモを行います。このままでは、汚染 を少しでも減らし、なくしてほしいと待ち続けている間に、私たち国民は煙の被害で死んで しまいます。子どもたちは病気になり、病院、薬局を往復し続け、日々の食事を買うためのお金が医療の出費でなくなってしまう。病に苦しむ子どもたちがあふれ、病院のベッドが間 に合わず、床に横たわっているのです。

こんな状態は、健康で安全な環境で生活する基本的人権の侵害にほかならない。子どもを 含め国民のために、政府当局が直ちに実効性のある対策を講じ、きれいな空気が取り戻され る日まで、一貫して闘う所存です」と呼び掛けている。大統領、政府、ウランバートル市役 所に対し、以下の請願文を届ける。

エルベグドルジ大統領 殿へ

大気汚染は災害レベルに達しており、大統領であるあなたは、 全権をもって、直ちに非常事態を宣言し、必要な対策を講じるべきと考える。

政府へ

1.大気汚染が災害レベルに達していることを認め、有効な対策を講じよ。災害対策法 に、必要な修正を加えよ。

2.政府は12月28日の定期国会を延長し、大統領、国会のすべて の常任委員会委員長、国家危機管理委員会、大気汚染緩和委員会と共同の作業部会をバヤンホシ ョー(訳注:汚染の著しいゲル地区が広がる)で開催せよ。

3.大気汚染対策と称して、過去 15 年間に支出された公的資金の使途報告、実施された事業の報告を 2017 年 1 月 15 日までに国民 に示せ。

4.大気汚染を2018年までに80%減少させるための総合計画を策定し、2017年1月 26日に国民に公表せよ。

5.子どもの疾病、入院、外来診療、死亡の統計を分類別に1週間ご とに、情報公開すること。

6.2017年1月10日までに、モンゴルの子どもがひとりも廊下の床や階段に横になり治療を受けることのないようにせよ。病院のベッドが不足しているという理由 で、患者を門前払いすることのないように、病院の数を増やせ。 7.大気汚染によって世帯が 被る被害額を算出する方法を緊急に策定し、来年度予算で配分を。8.大気汚染を測定する拠点 をダルハン、エルデネト、各県中心に新たに設置し情報を公表せよ。 9.煙から生じた大気汚染を 2017 年 1 月 15 日までに 25%減少させる措置を実施せよ。

ウランバートル市役所へ

1.大気汚染の被害を受けている世帯の妊婦、3 歳以下の子どものいる 父母を汚染の少ない地域へ転居させる措置を、速やかに講じよ。

2.ウランバートル市内のゲ ル地区にあるすべての保育所に、2016年12月31日までに空気清浄機を設置せよ。

3.妊婦、 高齢者や子どもを養育、介護する家族のために、大気汚染から子どもたちや自分の身を守るため に必要な情報を公共放送等で提供せよ。

4.ウランバートル市内に15か所の大気の汚染度を測 定する地点を新たに設けよ。

5.今年11月15日以降、大気汚染による健康被害で治療を受け た妊婦と幼児のいる父母に、医療費の50%を補助せよ。

6.この請願の回答を2017年の1月 10 日までに「煙と闘う父母の会」に文書で、また国民一般に対して公の広報手段で公開することを求める。もしわれわれの要求を受け入れない、現在の実効性のない対策に終始する場合は、私 たちは子どもたちと自らの健康被害を故意に放置するものと見なし、民主主義社会の市民として 政府・行政の責任を問い、辞職を求める措置も辞さない。

デモに参加する父母への注意事項

・万全の防寒着を着用してください。寒い時期であるので、時刻どおりに集合し、短時間でデモ を行い、解散しましょう。

・デモでは、ボランティアの個人がアールツや茶、マスクを配布す る予定ですが、自分でも準備を十分に。

・スローガンを書いたボードなどを用意するとよい。 特定の政党や政治家に矛先を向ける考えはないことに留意。 ・子どもや赤ちゃんを抱いてデモに参加する場合、子どもたちにはおもちゃや毛布を準備する。大気汚染の最大の被害者は子ども たちなので、それを訴えるという意図があります。

・皆で平和的にデモをしましょう。秩序を もって行動することが、デモの成否を左右します。

2015 年たった 1 年の間に、5歳以下の子どもたち435人が肺炎で死亡したという悲しい数字が あります。ニュースサイト

http://www.mglnews.mn/content/read/69702/Ard-irged-utaanii-esreg-jagsaj-baina.htm より(原文:モンゴル語/日本語訳:小林志歩)

 

 

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

◎ 天寧寺(てんねいじ)京都市北区寺町通り鞍馬口下がるにある曹洞宗の寺院で、 本尊は釈迦如来、山号は萬松山(ばんしょうざん)です。 寺町通りにあるこのお寺は比叡山の眺望が一幅の絵のように見える山門を「額縁門」 と称しています。境内は美しく清掃されていて心が和みます。 江戸時代の茶人金森宗和の墓があることで有名です。

 

 事務局から

2017年が始まりました。(新年1月号の編集は、12月に行うため)今日は、神戸震災のあ った日です。近年、東北、熊本の地震、水害、火災。恐ろしいことばかりつづきます。 どうぞ平穏な日々でありますよう願っています。

モピの活動は、お蔭様で粛々と執り行っています。小学校2年生を対象に行っている学習支 援事業は、1月、2月に集中しますが好評を得ています。

この事業のスタッフを紹介いたします。(登録)
伊藤知可子、品川耕一、鈴木 聡、金田悦仁、徳山理沙、畑中美智子、早野直子、斎藤生々。

一つの学校に、3名~4名が講師として参加しています。 (上記8名のみなさま、いつもポランティアでの奉仕、ありがとうございます。)

モピ通信原稿を毎月寄せていただいています小長谷先生、小林志歩さん、荒木伊太郎さん 梶浦靖子さんにもお礼申し上げます。 みなさま、モピ通信に発表してもよいものがあれば、提供をお願いいたします。

(事務局 斉藤生々)

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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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