■NO 183号 2017年6月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
母たちのライフヒストリー
『Voice from Mongolia, 2016 vol.33』
意味深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からお知らせとお願い
料理講習会開催のご案内
中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査(2012年)より「母たちのライフヒストリー」その5
(小長谷 有紀
(人間文化研究機構理事
ツェレンナドメドさんは一九三八年、寅年生まれの六十五歳。ラクダを放牧して暮らしていた遊牧民の子は、国境を越えてモンゴル国で成長した。
―― 幼い頃のことを話してくださいますか? わたしはアラシャー盟のウネトゴルに生まれました。一人娘で、父の名前はドブチンと言い、アラブ系の人です。母の名前はセムジンと言います。二人とも牧民でした。ウネトゴルはラクダのふるさとです。両親は一生ラクダの放牧をしました。モンゴルに行く前は百三頭のラクダをもっていました。一九四〇年にモンゴルに移住しました。国境あたりにいたラクダをハルハ軍が追って行ってしまいました。それでわたしたちもモンゴル国に住むようになったのです。モンゴル国のツァイラン(現在のウムヌゴビ・アイマグ、ノヨン・グンの領地で、軍事基地)に一年間滞在して、そこからアルハンガイ・アイマグのホトント・ソムのホーラインホダグと言うところに送られ、わたしたちはそこで生活をしていました。七~八世帯が一緒でした。 わが家の家畜と言えば、ラクダが九頭、七~八頭のウシ、ヒツジとヤギが二十数頭でし た。一緒に暮らしていた家はかなり裕福で、たくさんの家畜を持っていました。モンゴルにいたとき、二十歳以上の人にはパスポートが与えられていました。わたしは 一九四八年、十歳のときにホトントで学校に入りました。わたしの兄といとこのプレブ(母 が姉妹同士の息子)はオラーンボラン(赤い部屋の意。社会主義下の芸術活動施設)の音楽 関係の仕事をしていました。それでわたしは兄の近くで学校に入りました。わたしのいた学校の校長先生の名前はダムディンスレンでした。学校が教科書や鉛筆な どを全部無料でくれます。授業料はただでした。今覚えている同級生にはバルガンスレン、 ツェレンジャブ、プルブフーと言う人たちがいます。わたしの小さいころの友だちにマロー シャと言う名前の髪の長い子がいました。だいたい一九五〇年か、一九五三年までの間にホ トント・ソムの学校で一緒でした。わたしは今でもぜひ会いたいと思っています。アルハンガイのホトントは人が多くて、国境から遠い内地なので、内モンゴルから来たわたしたちを逃さないようにそこに送ったのでしょう。アルハンガイはとてもすばらしいところです。草も水も豊富です。多くの世帯が一緒に遊牧していました。それほど遠くへ移動することもなく、旱魃になることもありませんでした。埃が立つこともなく、緑の濃いところです。アルハンガイはウマのふるさとだと言われています。実際、各家庭はいくつもの小さな群れからなる馬群を持っていました。ヤギの乳や牛乳も豊富でした。乳しぼりは一日に三回もします。そうしなければ母畜の乳が張ると言うのです。秋にはクリームからバターをグゼー(ヒツジやヤギの第一胃を大きく風船のように吹いて伸ばして乾かした袋)に入れて七~八個作ることができます。最初にわたしたちと一緒に来た世帯のうち、オラド地方のトソノー(ダリスレン)、ジン ジゲイ(独身)、グンジドマー(子どもが二人)、シャル(子どもが四人)などは南ゴビまで 来てそこに残りました。アルハンガイまで来ませんでした。南ゴビは牧草地が悪く、旱魃が あり、草がまばらです。わたしたちは一九五三年にアルハンガイから南ゴビにやって来て、ノヨン・ソムのハンホンゴル第二バグで三年間生活して、一九五六年に中国に戻って来ました。南ゴビのツァイランにいた三十世帯の一〇五人が、約六千頭の家畜、九百頭あまりのラクダを追って国境を渡ってやって来ました。なぜモンゴルから戻って来たのかと言えば、モンゴルと中国が相互に住民を返す条約を結んだため、一九五六年に両側の軍事会合によって返されたのです。それでわたしたちはモンゴルのアラグシャンドからこっちに出て来て、アラシャー盟のウネトゴル・ソムに来ました。ウネトゴル・ソムは付属ソムでした。現在のエジネーに属します。一九六〇年ごろにウネトゴル・ソムをエジネーに所属させました。わたしたちは一九五六年九月に戻って来て、その年の十一月にわたしは就職しました。 わたしは読み書きができたので、アラシャー左旗の婦女連合会の幹部になりました。わたしたちと一緒に戻って来た人のなかでシャルチンはアラシャー盟合作社の主任とし て勤めました。ヤランピルはウネトゴルのソム長を務めました。ヤランピルはわたしの母方 の叔父です。母の弟です。プレブはアラシャー盟のオラーンムチル芸術団の創設者です。プレブとわたしはいとこ同士で、同じ家庭で育ちました。きょうだいのように親しい間柄です。ボルドバートルは思想宣伝部に任命されました。その後、そこからオラーンムチル音楽隊に行きました。帰国後、わたしたちは教育を受けていたので仕事を与えてもらい、生活を整えてもらいました。 ――その後の家族の状況を話していただけますか? 一九六一年に夫と知り合って、結婚しました。「ハルハのスパイ」「内人党(内蒙古人民革命党員)」「実権派の富牧」「牧主」といった多くのレッテルを貼られて、わたしは一九六六 年九月から糾弾されはじめました。夫は教師をしていました。子ども(養子)が一人いました。娘のナランツェツェグはまだ三歳でした。夫は学校の施設のなかに閉じ込められていました。わたしは林業工場に行かされて、母はウネトゴルの放牧地にいました。このように一家四人が三ヶ所に別れて生活していました。わたしは一九六八年十月から五七幹部学校(思想改造所)で監視のもとで働きました。 月給は二十五元でした。子どもの手当ては月十元でした。一九七〇年に夫は仕事に復帰し、 一九七一年の十一月からやっと一家四人が一緒に生活できるようになりました。その後、二人の子どもを養子にもらいました。一九七三年には正式に名誉回復されました。わたしは全国婦女連合会から三十年勤務名誉証書をいただきました。ずっと子どもは生まれず、三人の子どもを養子にしました。
―― 文化大革命の渦中では主にどういう理由で批判されたのですか?罪名はなんでしたか? 主に「ハルハのスパイ」として糾弾されました。わたしは帰国後、キリル文字ができる ので多くの人たちにキリル文字で手紙を書いてあげました。ハルハに親戚や友人をもつお年 寄りたちがわたしに頼んで手紙を書かせていました。それに、先方から届いたキリル文字の手紙をわたしに読ませていました。そして、その返事を書かせていました。そんなことをし ていたので、文化大革命がはじまるとそうした親切がぜんぶ禍となって、「ハルハのスパイ」 をしていたと言うことになり、無実の罪を着せられました。ハルハへ手紙を書かせていた人たちも批判されてひどく問い詰められていたようです。そ れで誰かがわたしのことを「ハルハのスパイだ」と言ったようです。
―― 最近になって、モンゴルに行かれましたか? 一九八六年に、モンゴル国ウムヌゴビ・アイマグのノヨン・ソム中学校で美術の教師をしていた、いとこの弟ゾリグトが訪れて来ました。それで、わたしは二連市から出国してモ ンゴル国に行って来ました。そのあと、一九九五年、一九九八年、二〇〇二年にそれぞれ行 きました。親戚たちがいまモンゴル国にいます。その生活はわたしたちには及びません。し かし、モンゴル国の自然や牧草地はすばらしいです。
二〇〇三年九月三日ツェレンナドメドさん宅(エジネー旗の中心地市内)を訪問し、聞 き取りをおこなった。
『Voice from Mongolia, 2016 vol.33』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「(カザフの民芸品など)袋を販売しているが、買おうとする日本人から『何を入れれば いいですか?』とよく聞かれる。少ないモノで、使途を工夫するモンゴルでは、あり得 ない質問。何を入れてもいいのが、常識だから」
―――西村幹也 NPO法人北方アジア文化交流センターしゃがあ理事長、北海道在住
大型連休、モンゴル情報局「しゃがあ」編集長の西村幹也さんが、ニセコに近い名水 の里・京極町に開いた「北方アジア遊牧民博物館」を訪れた。期待していた桜はまだだ ったが、雪を頂く羊蹄山に抱かれるように、西村さん手作りの博物館があった。モンゴ ル北部のフブスグル・タイガでトナカイと暮らすツァータン(トゥバ族トナカイ遊牧民)、 西部バヤンウルギーのカザフ民族、モンゴルの草原の暮らし等の各セクションに展示さ れた生活用具の多くは、『お前に必要だから』と現地の人々から託されたもの、という。
館内に入ってすぐ、トナカイの乳搾りに使われるシラカバ樹皮の小さな容器が目に留 まる。その小ささが気になる。乳量が少なく、乳製品を作るのは夏の限られた時期のみ なのだとか。西村さんがタイガに通い始めた20数年前は現役だった、この手作りの道 具は、今ではプラスチック容器に取って代わられたという。
展示品に名称はついていない。傍らに、モノの主であった人物の、人となりが書かれ ている。「タイガにその人あり」と言われたツァータンのバヤラー兄さん。天空を舞う 精霊と話すことが出来たというシャーマンのおばあちゃん。刺繍の達人であるカザフ民 族のお母さん。「遊牧民は」という一般名詞でなく、すべて記名で、実際の言葉とエピ ソードともに伝えられる、モノたちの、いや人々の「物語」。
社会とともに変わり続ける遊牧の暮らしに、確かに息づく、親から子へと受け継がれ る知恵や技、手仕事。失われてしまったもの。その語り部たる、西村さんの言葉や写真 を通じて、遊牧文化を生きる実在の人々(残念ながら既に他界された方も少なくないが) に出会うことができる「窓」のような博物館だ。そのむこうの広がり、そして流れる時間を感じて、現在30家族ほど、というタイガの人々に会いに行きたくなった。おすす めは、木々が黄金色に輝く秋だそう。
「文化を知る、ということは、異なる『常識』を知ること。『こんなとき、こうする』 『こうもできる』と、自分の可能性を広げてくれる」と西村さん。ゲルやウルツ(ツァ ータンのテント)を建てて滞在する体験プログラムもそのうち始めたいそうだ。
新千歳空港から約90キロ。博物 館の入場料500円(16歳以上)、 不定期開館・予約制のため、事前に 確認して来館を。7月4日には、併 設のライブスペース「オーリンホー ル」で、モンゴルの馬頭琴やアイル ランド、中世ヨーロッパの楽器で独 自の音楽を奏でる「カルマン」と嵯 峨治彦さんのライブも開催される (チケット大人2800円、電話予 約可)。
北方アジア遊牧民博物館 北海道虻田郡京極町川西304-4 電話050-3553-0302
(写真説明)展示品のひとつ、ツァータンの鹿笛に挑戦。子ども向けのクイズもある。
「今月の気になる記事」
90年代後半、ノートパソコンを初めて購入すると、モンゴルの情報を求めて、「しゃ があ」のウェブサイトを訪れました。携帯電話も今ほど普及していなくて、DVDもな かった、あの頃。あれから20年、トヨタ・プリウスや、レクサスのジープが行き交う 現在のウランバートル、来月下旬には大統領選挙が行われますが、政治不信と賄賂の横 行は相変わらずのようです。モンゴル人経済学者による、過去を踏まえた提言です。
Д.ハグワスレン 「労働市場が発展すれば、格差はなくなる」
今回の「リーダーシップ・フォーラム」欄は、経済学者Д.ハグワスレン博士を招い てお送りする。(筆者:Д.オユンチメグ)
GDPのうち賃金は22パーセント
モンゴル国の発展レベルがどの程度か、大部分の 人は理解している。わが国にとって、賄賂は差し迫った、大きな問題である。予算、支 出の有効性を問う事は本当に重要。こうした課題が解決されて初めて、発展について議 論するのが正しい。今後、発展できるかどうか突き詰めるには、長期にわたる安定雇用 が実現して初めて、発展の道筋について議論が始められる。
社会の問題が解決され、生活水準が上がって初めて、発展を語ることができる。人々 の暮らしを豊かにしないで、鉱物開発や大型事業ばかりを議論していてもどうにもなら ないのは、過去20年の歴史が物語っている。この期間、カネ儲けの方法や米ドルのレ ート、政府の歳入歳出、銀行システムばかりが議論されて来た。残念ながら、お金を生 み出す基礎となる、労働力については全く、と言っていいほど、話題にならなかった。 米国、EU、韓国、日本などの各国では、労働の対価がGDPの60-70%を占める。 わかりやすく言うと、百円の製品を生産する際、そのうち70円が賃金として支払われ、
家計に入る。私の試算では、2014年時点でだが、モンゴルのGDPの22%が賃金 だった。家族経営の企業が生産・サービスから得る収入を無理やり含めると、この数字 は33%となる。この状況では、国の発展を考えても、偏った見方となる。多くの国は、 労働市場にも目配りして、発展してきたのだ。
国内の労働市場を豊かに 労働市場が、失業者のみに関わる領域と考えられているの は残念なことだ。確かに、仕事をしている、していない人々の諸問題が含まれる。失業 者をいかに仕事に就かせるか。仕事をしている人たちの生産性向上をどのように実現す るかなども当然議論する。現状を見ると、家計の所得を増やす、将来のための投資に回 す資金が十分か、という問題がある。言い換えると、子どもに投資するなら、0-5歳 の時期に投資するのが、最も経済効率が良いことを、経済学者のヘックマンが論じてい る。そこから考えると、若い父母、子育て世代の所得に、特段に注意が払われるべきだ。 国家にいくら富があっても、国民の多くが貧困状態にある国を豊かであるとは言わない。 少数が非常に裕福であっても、残りの大多数が貧しさにあえぐ国も然りだ。
国によっては、不労所得が多いところもあるが、大多数の世帯が同一の仕事をした場 合の所得はどうか。近年、世界中で若い世代の失業が問題となっている。わが国の失業 者の61%が15-34歳の若者が占め、45歳以下が82%を占める。人々の家庭生 活は、その国の豊かさを映す鏡のようなものだ。裕福な世帯の年収を100万トゥグル グ増やすか、平均的所得で暮らす10世帯の所得を10万トゥグルグずつ増やすかでは、 金額的には同じでも、経済学的に見れば大きな違いがある。裕福な世帯の所得が増えた 分は、外国製の贅沢品の流通に貢献するが、平均所得の10世帯の所得増が国内経済に もたらず波及効果はそれ以上に大きい。これこそが、国の発展を左右するのだ。
就業の改善
2013年に労働力について調査した際の試算では、モンゴル国の女性世 帯主の賃金は、子どもの数と相関関係があることが示唆された。例えて言うと、2人の 子どもをひとりで育てる女性は、一人っ子をひとりで育てる女性より、得ている賃金が 17%低かった。ここから見えるのは、わが国で多くの子どもを抱える世帯が本当に少 ない収入で暮らしているということだ。そうであれば、すべての子どもに同額を支給す るのではなく、子どもの数が多い世帯により多くの金額を与えた方が有効な投資となる。 同様に、就業を改善するのが正しい。労働生産性も向上する。
これは、労働者個人の努力や、ひとつの政権が何かして、解決される問題ではない。何 十年にもわたり、関連の政策を適切に実施した結果によって成し遂げられる。わが国で は、自然界の資源をカネに変え、暮らしを良くすると言われている。全くあり得ない話 とまでは言わないが、一般の人々にどこまで分配され、豊かさが実現できるかがカギだ。 資源から得た収益を人々に届けようと思うなら、その収益の使途を公開するのが筋だ。 一方で、わが国では労働市場の政策にはほとんど予算措置がない。多くの国で、労働市 場に向けた政策の重点は、失業手当の支出で、国内総生産の1-3%に相当する額が支 出されている。わが国では、0.08%以下にとどまる。経済政策の面でも、労働市場 で取り組むべきことは多い。ここを強化することで、国の発展につながるとともに、賄 賂や汚職も減る。
国外への流出、生産性
個人の狭い考え方で、利益を求めてモンゴル人が外国へ移動す ることに反対意見は多い。研究者の中にも、こうした考えに染まり、労働市場の影響力 を考慮せず、人々の外国への流出にネガティブな意見を言う人も見受けるが、間違いで ある。人の移動は、労働の生産性や就業を増やすための、古典的方法であることが、多 くの国の事例が証明している。
国家による大規模事業の数々による経済発展を議論しても全く意味がないことを、過 去20年ずっと見て来た。それなら、労働市場と関連づけて、人を豊かにすることを重視すれば国は発展する。具体的に言うと、わが国の労働人口の大部分が、中小の企業で 働いている。中小企業を対象にした政府の支援策にはどのようなものがあるか明確化す べきだ。中でも5-10人以下の零細企業が多い。こうした企業への支援としては、ま ずインフラを改善することが理に適っている。大企業や大規模事業について議論しても、 発展につながらないことを、今一度強調しておきたい。とはいえ、すべてを否定はしな い。もちろん、鉱物開発など大規模事業を動かすことは経済にとって必要だ。さらに効 果を伸ばすには、雇用を大幅に増やすべきだ。短期的に少数雇用を増やすことではなく、 長期にわたる安定雇用し、家庭の所得増につながるような雇用が必要だ。(中略)
賄賂をなくすのが先
一般に、労働市場が活性化すれば、経済が上向きになる。仕事を 紹介する人と働く人の間で、無用なお金のやりとりがなくなる。労働市場がよくなり、 国の情報公開も進める。そうすることで国の発展にも寄与する。労働市場が大きくな り、賄賂が減って家計収入が増えれば、経済も活性化する。国内総生産の70%が賃 金に使われるようになれば、賄賂はなくなるだろう。しかしながら、現状のまま80% が賃金以外に使われるようでは、汚職の指数で下位をさまようばかりだ。
国の発展レベルは、大多数の世帯の労働所得によって規定される。労働で得られる所 得が増えない限り、他の問題に取り組んでもチャンスはない。これはシンプルだが、 非常に重要な考え方だ。所得が増えることで、年金、家計が増えて、貧困が減る。若 い子育て世帯の所得が増えれば、子どもの教育に投資され、将来の生産性がアップす る。労働市場の問題を議論せずに、貧困、社会福祉、犯罪撲滅を議論するのはおかし い。国政の担い手、政府職員らの理解を深めることが重要である。
引き継ぎと、社会の格差
最近、貧富の格差について、よく議論されるようになった。 これは、国の発展のひとつのポイントだ。生活水準の格差をなくすチャンスは、現在 の労働市場にある。個人は、出自に関わらず、自分の労働で手にした収入で上昇する チャンスがある。しかし、25年間この労働市場への施策がなかったことで、社会に 大きな格差が生じている。かつての社会では、牧民の子が政府の要職につくことがあ った。専門人材を育成することも、後回しにして来てしまった。仕事のできる人材の、 持てる力を受け継ぐことも否定された。具体的に言うと、今30歳で、仕事の経験が ないという人にとって、就業のチャンスは非常に狭まっている。
この状況を打破するには、若い世代、次世代に仕事を学ばせ、育成することが必要 だ。先生方の時間についての評価を高めることなしに、教育セクターを引き上げるこ とはできないと考える。新たに採用する教員の資質が上がるように、教員の賃金を大 きく引き上げるべきだ。その他、わが国の税制も平均的所得層にとって過酷。この層 の負担がとりわけ重くなっている。(後略) (ゾーニー・メデー紙より)
―2017年5月8日 政治ニュースサイト POLIT.MN http://www.polit.mn/content/read/139962.htm (原文・モンゴル語)
(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
◎ 京都 熊野神社(通称 権現さん)は左京区聖護院山王町にあります。 811年(弘仁2)修験道の日円上人がこの地に紀州熊野大神を勧請したのが始まりです。 ご利益は縁結び・安産・病気平癒・鎮火。古くから節分には「火の用心のお札」を受ける 因習があり多くの参拝者で賑わいます。
モンゴルボーズ料理講習会開催のご案内
(村上 雅彦)
4月9日のモピ総会にて話が出ましたボーズ料理講習会を開催することになりました のでご案内致します。講師は会員の石井菜倫さんにお願いしております。
民博での講習会以来本当に久しぶりです。皆さんの参加をお待ちしております。
記
日 時 :平成29年6月18日 13:00~17:00
(12:45までに集合)
場 所 :尼崎市立中央地区会館 (TEL06-6413-8171) 阪神尼崎駅南出口より線路沿い西(神戸方向)に徒歩 1~2分
サンシビック尼崎ビル内。
申し込締切 :6月9日(金) TEL&FAX(075-201-6430)
e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp
材料の仕入れ・準備も有りますので、はやめに申し込んでください。
事務局からお知らせとお願い
3月5日、心筋梗塞で亡くなった吉﨑清子さんのご主人さまから、20万円の寄付をい ただきました。そしてご自身もモピに入会してくださいました。モピ維持が厳しい昨今、 ありがたく納めさせていただきました。
モンゴル学習支援事業で使う備品を求めたいと思っています。ありがとうございました。
*お願い モピ会員の仲間になっていただける方をご紹介ください。お願いいたします。
(事務局 斉藤生々)
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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI
事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430
e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp
MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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