■NO 185号 モピ通信

■NO 185号 2017年8月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

母たちのライフヒストリー その7

『Voice from Mongolia, 2017 vol.35』

 子どもたちからの手紙2

 ノロヴバンザトの思い出 その78

 事務局からお知らせ

 

 

 

中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査(2002年) より「母たちのライフヒストリー」その 7

(小長谷 有紀)

(人間文化研究機構理事

マリヤさんは戌年生まれ、一九三四年にボル山のボグディーンシリのツァガーンタンゴと言うところで生まれた。

――さあ、あなたの幼いころのことを話してくださいますか? 幼いころのふるさとは、牧地がすばらしかったですよ。わたしの父母はハルハから来た

人たちだったそうです。バヤンホンゴル・アイマグのジョノンワン旗の人だったそうですよ。 ハルハの革命から逃げて来た人びとでした。何の意味があったでしょうねえ、ここへ来ても また「文化大革命」に見舞われて、ひどい目にあったのですから。

わたしの父は「モンゴル国に寝返ろうとしている」だの、「黒幇と関係がある」だのと、 いろいろな罪名を与えられ、捕まえられて連れて行かれました。そして父は亡くなりました。 わたしはおよそ十歳だったでしょう、父が捕らえられたときは。父の名前はゴチョイスレン で、母の名前はホムボンです。わたしたちは四人きょうだいです。二人の娘が亡くなり、今 はわたしがいます。弟のナムジルも健在です。

わたしは子どものころ、ドゥンドゥブ・バヤンの家で雇われていました。幼いとき、子 ヤギや子ヒツジを放牧していました。子ウシも放牧していました。少し大きくなってからは、 ヒツジを放牧して遠いところへ行くようにもなりました。朝出て、晩戻ります。当時、ドゥ ンドゥブ・バヤン家は概してボル山からこちら側の、ガビンソハイやフルジグドの北などの 場所を移動していました。たいていフルジグドの湖畔で夏営します。とてもすばらしいとこ ろでしたよ。冬になると、北側の、胡楊林に入って冬営します。とても暖かいところです。 胡楊林は密集しているので、風を通さないのでした。

夏になると搾乳し、春と冬は子畜の誕生を迎えるという具合に、一年じゅう忙しく過ご しました。幼いころ、いろいろな作業をして苦労し、いろいろな仕事を手伝ってきたので、 つらかったけれども、働くことを学びました。

ドゥンドゥブには三人の子どもがいました。息子一人と娘二人でした。裕福でしたから、 三つのゲルをもっていました。大きなゲルに自分たちが住んでいました。外側も美しく、広 い部屋でした。もう一つは来客用で、同じく美しく広いゲルでした。労働をしている人たち のゲルとして、もう一つ空っぽのゲルがありました。わたしたちはそこで食事をし、住んで いました。

二十歳まではこのように人の家で仕事をしていました。今考えると、当時は人の家で放 牧していたものの、すてきでした。ふるさとが美しかったのです。草も水も豊富でした。そ もそも旱魃になるなどということは子どものころには経験しませんでした。風が強くても、 今のように黄砂はありませんでしたよ。ただ木々が音を立てるだけの、青い風でした。

わたしは二十歳のときに結婚して、自分の家をもちました。夫の名前はマンジュと言い ます。わたしはトルゴード人と結婚したのですよ。一九五五年に結婚証をもらって結婚式を しました。わたしはマンジュの家に嫁に行ったのです。当時、マンジュの家には、五~六頭 のラクダ、十頭ほどのロバがいました。二百頭あまりのヒツジ、ヤギがいて、中級の家庭で した。舅の名前はジャムバで、姑の名前はバラマでした。夫のマンジュはこの家の一人息子 でしたが、そもそも養子でした。マンジュにはウルジンと言う名前の妹がいました。もとも と舅は旗の書記官だったそうです。中華人民共和国が成立する前に、エルデニゲレルやルハ ワンジャブなどの貴族のもとで働き、書記をしていたと言うので、文化大革命のときにひど い目にあいました。舅姑の老いた二人を殴って、レッテルを貼って犯罪者にしました。富裕 な牧主であるとか、黒幇などと糾弾されました。夫のマンジュもまた牧主の子であるとか、 黒幇であるとか、糾弾されました。文革大革命のときにひどく糾弾されたために舅と姑は文 革大革命の終わるころに相次いで亡くなりました。夫マンジュも糾弾されたために病気にな り、六年前に突然、脳溢血で亡くなりました。今わたしは、持病のある息子と一緒に生活し ています。文化大革命のときはつらかったけれども、今は幸せな生活を送っています。

――この村(移民村)にいつ来たのですか?

去年の十月に引越して来ました。ずっと田舎で暮らしてきた人間にとっては慣れなくて

たいへんでした。今は大丈夫です。むかし、わたしたちはバルジョール・オボー、バヤンボ グドにいました。冬夏四季つねに囲いをもっていました。どの家庭もみなそれぞれ囲いのあ る宿営地で冬をすごしました。

井戸を掘って、水を利用していました。当時は井戸を掘るのも簡単でした。それほど深 く掘らなくても水が出ていました。井戸に木製の梯子を置くこともありました。各家庭でそ れぞれ自分の井戸を掘っていました。近所で一つの井戸を使っていたこともありましたが、 四季の囲いはすべて世帯ごとに別々でした。

ドゴイランを組織することになったとき、わたしたちはボル山にいました。それからバ グに組織され、一九五八年にバヤンボグドからソブノールにやって来ました。その際には、 軍隊が囲いを作ってくれました。冬と夏の囲いは別々で、しかも夏用の囲いとして二つセッ トの囲いを作ってくれました。さらにフブグ(子ヒツジを入れる囲い)を作ってくれました。 フブグは、地面を掘って地下に作る方法と、屋根を覆って作る方法と二種類ありました。一 九五八年に人民会社が組織され、人民会社に二百頭余りのヒツジ、ヤギを供出しました。そ のために、文化大革命のときに牧主として迫害されたのですよ。

バヤンボグドにいたとき、夏はすばらしかったですねえ。夏になると、白い場所(オー プンスペースの意)に出て宿営します。河川水を飲んでいました。バヤンボグドの北側に一 つの河川がありました。名前はバルジョール・オボーの川と言います。

河畔の茂みのなかに家畜が入ると見えなくなりました。すばらしく草も密集していたの です。バヤンボグドにいたときは、バルジョール・オボーを毎年祭っていました。オボー祭 りは女人禁制でした。女たちは遠いところから乳をふりまいて、願いをつぶやいて祈るので す。そうすれば、子畜がよく生まれ、乳が豊富になるのです。ラクダの乳に恵まれるのです。 春になって、ヒツジやヤギの子に、ラクダの乳を与えていました。

ソブノールに来てから、ブリガード(人民公社の生産隊)ごとに大いに耕作しました。 作物の種類も増えました。小麦、ウリ、ハクサイ、ダイコン、ジャガイモ、ナス、トマトな どいろいろありました。漢族の人たちもやって来て耕しました。軍隊も来て耕しました。人 民会社のときに「自給自足」と言う話があったそうです。当時は生活用品すべてを自分たち でまかなうようになっていたでしょう。それ以前は、ロバに乗った漢族商人が来ていました。 この人たちに家畜一頭を与えて、米、茶、小麦粉などと交換していました。それから、皮や毛などの畜産物で、少々の野菜、ネギ、ダイコンなどを交換していました。家によっては、 ときに漢族商人と知り合いになり、ヒツジを与えて布や絹をはじめとして必需品を買って来 てもらっていました。また、ある家々では金塔などへ数ヶ月交易に行きました。わたしたち の毛や皮をまとめて持って行って、白い小麦粉、白米、茶、砂糖などと交換して戻って来る のです。わたしの舅の家はそうしていたと聞いています。わたしは嫁として嫁いだ人間です から、そうしたことに詳しくはありません。家事だけをしていました。皮を加工したり、縫 い物をしたりしていました。かつて、嫁はゲルの天窓にある仕切りの位置から奥へ行くのは 禁じられていました。入り口近くで食事を作り、家事をしていました。それに搾乳をしたり、 舅たちを敬います。かなりおとなしくしなければなりませんでした。けれども、わたしの義 父母たち年寄りはとても良い人たちでした。義父は教育を受けた人でした。中華人民共和国 が成立する以前はハルハから来た人たちを少々軽蔑していたのですよ。「ツァガーチン(漂泊 者の意)」と見下していました。けれども、今では共産党のおかげで、人びとがみな平等で、 幸せです。

――あなたが子どものころの食事について話していただけますか?

肉と脂肪ばかりでした。小さいころには、発酵乳や乳を飲むだけで育っていました。

一般に、朝はお茶、昼はオンド、夜は肉と穀類と言っていました。他人の家で放牧していたこ ろ、朝はお茶にホロート(チーズ類)、ウルム(クリーム類)、シャルトス(バターオイル) などを入れて飲むだけで、放牧に出かけました。昼食はありませんでした。冬になれば日が 短いのでお腹がすかず、一日じゅう放牧して、夜遅く帰って来てご飯を食べます。小麦粉で 料理を作って食べます。肉を煮た汁に穀類や麺、バンタンを入れて食べます。肉はほとんど 食べません。ドゥンドゥブ・バヤンの家で働いていたときには、わたしたち使用人にときど き肉を煮てくれました。内臓も冬に食べていました。普通の食事としては、小麦粉を揚げた ものや、裸麦のザンバーなどを食べていました。野生のフムール(ネギの一種)やターナ(ニ ラの一種)を摘んで食べます。ジグドの実を採って食べます。ゴヨウを掘って食べます。ゴ ヨウと言うのは赤い鎖陽です。甘草もありました。

幼いころ、シャラブと言う人がある夜やって来てちょっと立派なフムールを持って来た ことがありました。そのフムールをきれいに洗って、伸ばして平らにして糸でつるして乾か しておき、冬になってボーズ(肉饅頭)やバンシ(水餃子)の調味料として使っていました。 このシャラブと言う人は大いにうわさ話をする人でした。馬鬃郷から来たそうです。シャラ ブの家には、ロシア人がしょっちゅうラクダに乗ってやって来て、一緒に狩猟をしていたそ うです。野外で突然出会ったら人をびっくりさせるほどの高い鼻で、緑の目で、毛むくじゃ らの顔の人だ、と話していたことが今でも忘れられません。当時は、毛むくじゃらの緑の目 の人と言ったらどんなものなのだろうかと驚かずにはいられなかったものです。今から思え ば、外国人というわけです。フムールもまた乾燥させて粉末にして調味料の代わりに使える のだそうです。

二○○三年九月三日午後三時、マリヤさんの移民村にあるお宅で聞き取りをおこなった。 二○○五年に再訪したときにはすでに亡くなっていた。二○○四年十一月三十日永眠。

合掌。

 

 

『Voice from Mongolia, 2017 vol.35』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「日本人ってヘンだよな~。何台もトラクターや機械を持っているのに、自分で修理しないなんて」――オーギー(36 歳)トゥブ県内在住、農業者

一番牧草が刈り取られ、じゃがいもの白い花が満開になった7月の北海道・十勝です。防 風林に縁どられた畑では、黒々とした土が緑に覆われて行きます。農業者の収入アップを目指す JICA 草の根技術協力事業の一環で、農家による農産物直売所の運営などを学ぶために滞 在しているモンゴル人ふたりを載せ、連日、農家さんのところへ車を走らせています。日々 の労働とお日さまの共同作業で生み出される田園風景は、農家さんの知り合いが増えるにつ れ、さらに光り輝いて見えます。

彼らのふるさとは、ウランバートルから北へ百キロのボルノールソム。社会主義時代から 野菜栽培が盛んな地域です。先週訪れましたが、6 月 22 日に少し降った後、7 月中旬までは 雨が降らず、ナーダム時期だというのに、草原は茶色がかっていて、人々は畑への水まきに 追われていました。「こんなに厳しい干ばつは、何年もなかったこと」。かつての国営農場に 勤務し、民主化後は農家となったベテラン農家さんたちもため息をつくばかり。「ゴビで人に 生まれるより、ハンガイで牛に生まれたほうがいい」という諺を聞いたことがありますが、 「モンゴルで農家に生まれる」のもかなり過酷のようです。

一方の十勝では、雨が例年より多く、今月に入り 10 日連続の猛暑日を記録。オーギーは「う らやましい限り。気候も、機械も」。農家の敷地には、大小4-5台のトラクターが無造作に 置かれています。地元では、8軒で一台のトラクターを使い回しているのだそうです。90 年代に食糧増産のため、日本のODAで海を渡ったKUBOTA100馬力。知人の持ち物 ながら「分解して組み立てられるほど、この機械のことならわかる」と胸を張るオーギーさ ん、今回滞在中にギヤの中古部品を購入して帰りたい、と言います。機種型式ラベルの写真 には「MADE IN JAPAN」、誇らしい気分になりますが、クルマも、自転車でさえも壊れたら自 力で対処できない、日本人の私です。

故障したら修理を頼む、日本のあり方は不思議に映るのでしょう。農家さんに質問をぶつ けると、「昔の機械と違って、今の機械はコンピューター制御だったりするから、機械屋さん は『調子悪くなっても、自分で対処しないで』って言うんだよね…」。「商売上手だから、す ぐモデルチェンジしちゃう」。「自分でいじって壊れたら保証してもらえないし」。

日本には、「餅は餅屋」(専門家が一番良く知っている)と考える。精密な技術への「信仰」 がある、そんなことを伝えました。

日本の雨を、モンゴルに持って行けたらいいのに。モンゴルから見れば、私たちの国は恵 みの雨が降り注ぎ、青々と輝いて見えるのでしょうか。学びに、働きに、皆喜んで来てくれ ます。でも、自分の手で、汗で、モノを生み出すことを忘れつつあるこの国の「雨」、そう長 くは続かないかも…。

「今月の気になる記事」

決選投票にもつれ込んだモンゴル国大統領選挙で、野党民主党のバトトルガ氏が選ばれま した。厳しい干ばつ・乾燥が続く中、モンゴル各地で火災が相次いで発生、7 月中旬現在、消 防士のみならず、ボランティア、住民も駆り出されての懸命の消火が続いています。「干ばつ、 火災、不作となれば、農家は種や肥料などの出費を回収できず、破滅だ。冬の干し草が十分 に確保されなければ、牧民は冬を越せない。モンゴルは悲惨なことになる」。祭りのあと、不 安が広がっています。

先月の統計から (筆者:Ц.バヤル)

2017年上半期のモンゴル国の社会・経済状況についての統計が、国家統計局から本 日発表された。社会経済・マクロ経済指標について、同局調査課のЮ.バトゾリグが紹介した。

出産は前年より減少

今年上半期の統計を、2015、2016年の同時期と比較すると、11の指標で前向 きな結果が得られた。2015、2016年においては、それぞれ15の指標すべてが悪 化をたどっていたが、今年は回復し(悪化したのは)4指標のみとなった。

よくない変化が見られた指標から見ていくと、出産した母親、新生児数が前年との比較

で8.6-8.7%減少した。また、トゥグリクの対米ドルレートが2367.93トゥ グリクとなり、前年同期より403トゥグリク(20.5%)安値に。建設工事、大補修 の実施数は前年、その前の年は上昇していたが、今回は2139億トゥグリク(21.1%) 減少した。交通輸送の利用者数も20.7%減少した。

前向きな結果が出た指標を挙げれば、死亡が6.6%減少、貨物輸送が51.2%増加。 国全体の失業登録者のうち58.7%を15-34歳の若い世代が占めた。失業登録者数 は2万9100人で、前年同期に比べ11.3%減少。このうち3割近くが首都、21% が中央地域、20%がハンガイ地域、18.5%が西部、10.7%が南部に居住している。

社会保険基金の収入は19.6%、1兆トゥグリクに

社会保険基金の収入は1兆トゥグリク(19.6%)と増加した。2017年上半期に おいて、前年より1673億トゥグリク、年金保険基金は1150億トゥグリク、健康保 険基金の収入230億トゥグリク、それぞれ増加したことが主な理由。一方、社会保険基 金の支出額は9111億トゥグリクだった。今年上半期において、18歳までの62万2 100人の子どもたちに、総額759億トゥグリクの子ども手当が支給された。

乳児死亡が減少

今年上半期において、国全体で生まれた52万人のうち、新生児・5歳以下の死亡は6 20人減った。前年比では、乳児が282人、5歳以下が328人の減少。千人の乳児に 対する死亡数は15人で、前年同期より6人減に。出産で亡くなった母親の数も25人減 少、その前の年との比較では35人の減少となった。

感染症は減ったが、梅毒患者数は変わらず

感染症患者数は、前年比25%減少した。はしかと結核患者が減ったことによる。ウラ ンバートルにおいて、エイズ感染が一件発生、現在の患者数は238人。梅毒の感染数は 減っていない。

犯罪被害者の多くが18歳以下の女性

上半期に、1万3千件の犯罪の届け出があった。前年比2千件(13.3%)減少した。 窃盗関連犯罪が1435件、人の命に関わる犯罪が473件減少したことによる。犯罪 による被害額は、2301億トゥグリクで、うち626億トゥグリクが弁済された。国 全体では4万5700人が泥酔者として収容され、7 千人が逮捕された。前年同期と比べ、 2.4倍に増加した。犯罪被害者は3.8%減少したが、その多くを女性が占めた。

不良債権は970億トゥグリク増加

返済期限の超過した債務の額は、前年に比べて347億トゥグルグ減少したが、不良債 権の総額は970億トゥグリク増加した。資金調達は2017年6月末時点で、12兆 8千億トゥグリクとなり、2か月で2976億トゥグリク増加し、前年同期より2兆6 千万億増えた。この増加には、トゥグリク立ての貯蓄が68.8兆トゥグリク増えたこ とが影響したと見られる。金融機関から市民への貸付残額は、12兆9千万トゥグリク となり、前月から1916億トゥグリク、前年同期より8722億トゥグリクの増加と なった。期限超過の債務総額は、7970億トゥグリクに達し、前年同時期から約35 0億トゥグリク減った。不良債権は1兆1323億トゥグリクに膨らんだ。

―2017年7月18日 政治ニュースサイト POLIT.MN

http://www.polit.mn/content/read/145076.htm (原文・モンゴル語)

                    (記事セレクト&日本語訳:小林志歩)

 

 

モンゴル学習支援事業@立命館小学校

~子どもたちからお手紙が届きました 2~

 

 

ノロヴバンザトの思い出 その78

(梶浦 靖子)

民族を超えてきた音楽

西洋音楽を学びその演奏家を目指すことには何の問題も後ろめたさもないのはどうしてだ

ろうか。それは西洋音楽が始まりの頃から民族という枠組みを超えて実践され受け継がれて きたことに起因すると思われる。

そもそも、西洋芸術音楽、いわゆるクラシック音楽は、神に捧げる、神のための音楽とし て始まった。キリスト教における讃美歌など典礼音楽がその始まりである。きわめて大まか に言えば、ヨーロッパにおいてはおおよそ中世の頃まで、1音楽家は教会のために作曲し演 奏をしてきたが、2やがて各地の領主、王侯貴族に雇われ、彼らのために音楽をするように なった。3そののち、商業や産業が発展し市民社会の台頭にともない、音楽家も雇われの身を 離れ自立していった。演奏会や自作曲の楽譜の販売による収益、あるいは楽器演奏や音楽理 論の教授などで生計を立てるようになった。

J. s.バッハや F. J.ハイドンは、12の時代のはざまにいた。W. A.モーツァルトは2の時 代を生き、3のはしりであった。R.V.ベートーヴェンは3の時代を大いに切り開いた人 と言えるかもしれない。

そのように一見、教会から離れはしたが、西洋音楽および西洋社会は、キリスト教を信仰 する人々によって受け継がれ発展してきたのである。

キリスト教は、先行するユダヤ教と同じく排他的な唯一の神を奉ずるが、ユダヤ教の形式 主義やユダヤ民族のための宗教という側面を批判し、乗り越えようとするものであった。

イェスーキリストは、神の前には人は平等であり、身分や階級にかかわらず信仰によって 敘われると教えた。また、無信仰なユダヤ人より信仰の厚い異邦人のほうが神の御心にかう、 とも説いた。つまりキリスト教はその始まりから、民族的な枠組みなども超えてゆく普遍主 義的性格を持っていたのである。

イエスの死後もその教えは弟子たちによって広められていった。なかでも、異邦人出身の 弟子はユダヤ以外の諸民族に教えを広める上で一つの役割を果たした。

ローマ帝国は当初、キリスト教の布教伝道を黙認しており、一時排斥、迫害もしたがやが てキリスト教を国教と定めた。そのローマ帝国とは、広大な地域に暮らす様々な民族を征服 し、統治して成立したものであった。もともと普遍主義的な性質を持つキリスト教は実際に 民族や文化を超えて広まり信仰されるようになったわけである。それが現代にまでつながる。

ヨーロッパの諸国(諸民族)は、共通性は見られるものの異なる言語を話し、伝統的な 習俗も異なり、民族的なアイデンティティーも異なる、異民族同士である。しかしキリスト 教という普遍主義的性質を持つ宗教によって、ヨーロッパ世界は一つの文化圏としてのまと まりを持ち、歴史を歩んできたのである。 そうした中で受け継がれてきた西洋音楽もまた、民族を超えた(超えようとする)普遍 主義的な音楽になっていったと見なせるだろう。

西洋音楽はヨーロッパ世界の中で、民族的アイデンティーの異なる人々によって、音楽理 論や記譜体系などを共有し、音楽の様式を共有し、創作し演奏されてきた。モーツァルトは 幼少の頃よりヨーロッパじゅうの何十箇所にわたって演奏活動をした。一つの音楽が民族的 に異なる様々な人たちに聴かれ共有されてきたわけである。

大航海時代ののち、キリスト教はヨーロッパ世界の外へと踏み出した。西洋音楽も、讃美 歌やミサ曲という形で世界各地(植民地)にもからされた。いわば西洋音楽は、民族を超え 世界各地の人々が学び実践(演奏、歌唱)するよう西洋自体が奨励していったのだと言える 西洋文明が世界各地に広まり定着していったことで、西洋音楽は良く認知され、ヨーロッパ 世界(アメリカも含む)はその音楽の総本山として地位が揺らぐことがない。

そうした背景ゆえに、世界の誰もが西洋音楽を実践し、「自分の目指す音楽」と決め、修練しプロとなる道もありうるのである。そうしたことが行われても、西洋および西洋音楽には 何ら差し障ることがない。むしろ賛同者(ファン、愛好家)が増えて、西洋音楽にとって得 なこととも言える。これは西洋音楽に特有のことだろう。それ以外の、世界の諸民族の音楽 は必ずしもそのような状況下にはないのだ。

(つづく)

参考文献:「世界の宗教」、岸本英夫編、大明堂、1965 年。

(写真 荒木伊太郎)

 

 

事務局からお知らせ

暑中お見舞い申し上げます。 今年も厳しく暑いという予報です。もはや猛暑日の連続ですが、これから始まる夏、 みなさまどうぞ気を付けて乗り切ってください。お互いに無事でありますように!

モピ通信9月号は休刊いたします。次号186号は、10月にお届けいたします。

了解くださいませ。

(事務局 斉藤生々)

 

 

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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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