■NO 189号 モピ通信

■NO 189号 2018年1月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

 

 新年のご挨拶

 モピ新年懇親会&例会のご案内

 2018年モピ事業計画のご案内

『Voice from Mongolia, 2018 vol.39』

 ノロヴバンザトの思い出 その82

 事務局からのお知らせ

 

新年のご挨拶

 

あけましておめでとうございます。

2018年の年頭にあたり、ご挨拶申し上げます。 90年代に冷戦が終わったかと思いみなしてから四半世紀。世界はしかし、さらなる新たな 対立を潜在させているようです。

ユーラシアの東端でも西端でも。私たちには、大きなこと はできませんが、顔の見える付き合いを通じて、知り合いをふやし、平和の礎といたしましょう。

そんなわけで、今年はモンゴルと往来する企画を立てたい考えです。ぜひご参加ください。

モンゴルパートナーシップ研究

理事長 小長谷 有紀

(人間文化研究機構理事)

************************************************************************************

謹しんで新年のお喜びを申し上げます。

2017年もモンゴルは面白かったです。

まず、夏に大統領選挙が実施され、激戦がくりひろげられたすえ、決選投票に持ち込まれ ました。私は選挙を観察しようと単身ウランバートルに入りましたが、うっかりカメラを持 ったまま投票所に入ったため、そのまま警察へ連行されました。調書を書かれて解放されま したが、手続きは民主主義的でしたけれども、どことなく旧ソ連の権威主義的な色彩も残っ ているところが、興味深かったです。

その後、九月にはまた二度、モンゴルに渡りました。一回目は「社会時代の政治粛清者に 関する国際シンポジウム」で、新しい大統領が直々に式典に参加し、ソ連の影響下で粛正さ れた人々を弔い、歴史を忘れまいと挨拶。粛正された者は数万人にのぼりますが、名前はす べて確認できる事実を見て、感動しました。というのも、南の内モンゴル自治区でも196 0年代に数万人ものモンゴル人が虐殺されましたが、記念碑一つ立っていませんし、凄惨な

歴史について語ることも、研究することも許されていません。自由と不自由の差は歴然とし ています。

モピの前理事長、松原正毅先生について、九月末に23年ぶりにウランバートル郊外の突 厥碑文を訪れました。トルコ共和国の投資でキレイに整備された遺跡に立ち、ユーラシア史 の稀有壮大さにあらためて感動しました。モンゴル高原からはるか西の地中海のほとりまで 遊牧民を追って調査研究されてきた松原先生ですが、「来年も来よう」と話しておられました。

会員の皆様におかれましては、2018年もよい年でありますようお祈り申し上げます。

モンゴルパートナーシップ研究所

理事 大野 旭

(静岡大学人文社会学部教授)

************************************************************************************

明けましておめでとうございます。

新しい年を迎えて会員の皆様方のますますのご活躍をお祈りいたします。 モピは、私の退職後しばらくして誕生しました。私は、それ以来モピにかかわってきました。 振り返ってみると、この 20 年の歳月を、モピは豊かなものに、また彩りのあるものにしてく れたようにおもわれます。人の輪の広がりもありがたいものでした。

今年、私は、83 歳、肉体的な衰えは素直に受け入れるつもりでありますが、モピの会には、 出来うる限り出ていくつもりです。

会員の方々にお目にかかることを楽しみにしております。

モンゴルパートナーシップ研究所

理事 松本 勝博

************************************************************************************

あけましておめでとうございます。

今年も、一人でも多くの人にモンゴルとモピの事を知って頂けるように、活動の一員にな れたらと思っています。

私事ですが、昨年の9月で退職をして、94歳になる叔母の介護 をしています。少しずつ認知症が進み、直近の物忘れがひどく、今まで培った職場での経験を活かしながら、一緒に過ごしています。 時に息詰まることもありますが、モンゴルの友人と過ごした草原で の写真を眺めて、また訪れる日を楽しみにしています。

モピ会員の皆様のご活躍、ご健康をお祈りいたします。

モンゴルパートナーシップ研究

監事 福島規子

 

 

2018年新年懇親会・例会ご案内

2018年1月28日(日) 午前11時30分~

場所:大阪肥後橋 北京料理 ”徐園”にて開催致します。 大阪市西区江戸堀1-15-39

(電話06-6448-5263)

地下鉄四つ橋線 肥後橋下車 2 番出口徒歩1分

地下鉄御堂筋線 淀屋橋下車西方向へ徒歩7分

費 用 : お一人4,000円

皆様お誘い合わせの上、ご参加下さい。お待ちしております。

尚、テーブル 準備のため1月20日(土)までに連絡をお願いいたします。

モピ事務局電話(075-201-6430)

090-6751-9570(村上)まで。

又は、メール(mopi@leto.eonet.ne.jp)にて、お願いします。

(幹事 村上 雅彦)

 

2018年度モピ事業計画のご案内

モンゴル草原でのゲル宿泊体験旅行計画中 (第一報)

久しぶりに、次のような内容(概略)にてモンゴル草原でのゲルに滞在して、野生植物 鑑賞・乗馬(少し経験ある人)を楽しめる旅行を計画しております。

時期 : 2018年6月頃
期間 : 往復含めmax 1周間
経路 : KAL便にてインチョン経由・現地担当は、

ダシダワー、ムンフバットに依頼。 費用 : 経済的な内容のある旅行を考えております。

概算費用は来年3月までにはご提示出来るよういたします。

第一報としての概要は、上記の通りです。みな様からのアイデアも募集して より豊かな経験ができ、楽しめる内容にしたいと考えています。 将来、希望者が継続しモピ事業に発展できるようにと願っています。

(担当 村上 雅彦)

 

 

 

『Voice from Mongolia, 2018 vol.39』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「飛行機、いや怖かった。海も怖くてドキドキした。波音が耳に残っている」

 

-モーギー(55)農業、トゥブ県在住

北海道の農業実践に学ぶ、モンゴルの農家の道内視察に同行した。野菜栽培が盛んなトゥ ブ県内で、ジャガイモ、キャベツ、マンジン(かぶ)など十種類の野菜を5ヘクタールで栽 培するモーギーさんにとって、初めての日本。ふるさとで長年農業をしているのか、と漠然 と思っていたが、聞けば、ウランバートル出身だという。

飛行機に乗ったのは今回が初めてだが、外国旅行は初めてではない。首都ウランバートル からモノが消えた90年代初め、モスクワ、チェコ、ポーランドなどから物資を仕入れて売 りさばく「担ぎ屋」を経験。大きなトランクに食品や衣料品など物資を詰め込んで鉄道で運 び、首都のワクザル(ロシア語で駅)に着くやいなや、「アワーレー(買ってください)」と 売り歩いた。「モスクワまで当時5日、チェコまではさらに2日。チェコで驚いたのは、朝い ちばんにビールを飲ませる店が開き、皆出勤前に一杯やっていたこと」。本当だろうか?海ら しきものを見たのは、車窓からのバイカル湖だけだという。

80年代には、カザフスタンで溶接技術を学ぶ学校に通った。英語は全く話せないが、時々 ロシア語が飛び出す。「当時、カザフスタンが発展しているのに驚いた。社会主義の国々の中 で最も発展していないのがモンゴルだった」。祖国に戻り兵役を経て、警察官として銀行の警 備を担当したことも。2000年頃、兄の家族を頼り、トゥブ県に移り住んで農業を始めた。 韓国の技術支援を受けてハウス栽培する友人を手伝ううちに、多種類の野菜を栽培する技術 を身に付けた。

農業の傍ら、20頭の牛も飼っている。「働き者で優しい」と褒めたたえる、年上の奥さん が朝夕搾った牛乳を、乳業会社に販売する。十勝の農場やチーズ工房を訪れた際、「モンゴル ではどうなの?」と質問され、伝統的な乳加工について語り始めたときの眼の輝き。搾った 牛乳からウルムを取り、タラグを作り、シミーンアルヒを醸す。アルコール度数の高いもの を蒸留する方法は…と話が止まらなくなる。現在もゲルに住むが、近い将来、木造の家を建 てたいという。「牛には先に小屋を建てたけど、自分たちのはこれから。生活の糧をくれる牛 は大事にしなきゃ」。

写真説明
直売所で農家によるマーケティングの実践を学ぶモーギーさん

帰国の前夜、貯蔵したキャベツなどの野菜を売り払って作った軍資金を手に、お土産を買い 求めに街へ出た。百円均一の店を見つけると、小さめのスーツケースに収まるのか心配に なるほどの豪快な買い物ぶり。モンゴル国内 では、百均の商品が3800トゥグリク(約 180円)で販売され、人気を博しているか らお得感があるようだ。「これは日本製 か?」と念入りに確認しつつ、勝ったのは、 お椀やお皿、スプーンやフォーク、その他い ろいろ。「ツァガーンサルにお客がたくさん 来るから、妻が喜ぶよ」。翌朝の新千歳空港 は雨、「12月に雨!」と目を丸くした。お 土産話がひとつ増えた。

それぞれの人生という旅の途中で、私たちはすれ違う。束の間、ともに過ごし、語らい、 また別々の場所へと旅立つ。それぞれの過去や旅について語らい、分かち合う。旅先の出会 いから、新たな旅が生まれることもある。

今回も視察先で出会い、話をした人々は「モンゴルに行ってみたい」と興味を示した。「い つでもうちの扉を開けて、待っているから」とモーギーさん。かつて草原では、自分が留守 にするとき、ゲルに立ち寄る誰かのために食卓にお茶や食べ物が置かれた、という。もちろ ん扉にカギなどなかった。モーギーさんとともにやって来た30代の若者に言わせると「見 知らぬ旅人を受け入れる伝統が残っているのは、ゴビだけ」とのことだった。

新たな年も、たくさん旅をしたい、そして旅の話を聞きたいーー。旅の途上、思いがけな い場所で、今これを読んで下さっているあなたにお会いできれば嬉しい。

********

「今月の気になる記事」 日馬富士関のいない初場所―-引退が残念でならない。まだ安馬だった頃、関取に昇進し た直後だと思うが、羽織袴姿での初々しいインタビューを見て、「何て魅力的なお相撲さ んが出て来たのだろう」と思った。訥々とした、率直な受け答えや、はにかんだ笑顔か ら、誠実な人柄がにじみ出ていた。まさに『気は優しくて力持ち』との印象。相手に真 っ直ぐぶつかる闘志あふれる土俵は残念ながらもう見られないが、相撲ファンは、あの 気迫の立会いを忘れることはない。 加熱したメディアの報道からは、私たちの社会の有り様が透けて見えた。辟易した人も 多かろうが、あえて現地の記事をお送りする。


「日馬富士について、私たちが知らない15の真実」

筆者:C.バヤル

大相撲の第70代横綱日馬富士が、自らの意志による引退を発表した。島国日本で、祖国 の名をとどろかせ、応援する人々を楽しませて来た力士がこのような幕切れを迎えたこと は、残念でならない。17年にわたり、相撲の世界で努力を続け、モンゴル人の期待に応 えて横綱の地位に上り詰めた横綱日馬富士、D.ビャンバドルジの人物像と相撲人生につ いて紹介しよう。

1, “仔象”ビャンバドルジ

1984年4月14日ウランバートル生まれ、33歳。手足の大きい、力士の素質を持っ た子どもだったという。 「幼い頃、父についてモンゴル相撲を見に行くうちに、力士になるんだと心に決めて、稽古 に励むようになった。ナーダム前のトレーニングで一緒だった力士たちは『仔象が来たぞ(象 =ザーンはモンゴル相撲の称号)』と可愛がってくれた。先輩のツェレンポンツァグさんは『タ ブントム(大きい5つ)』と呼んでいた。頭と手足が大きい子どもだったんだ」と過去のイン タビューで語っている。

2, 力士の血筋

末っ子のビャンバドルジは、生まれながらの力士と言っていい。父はゴビアルタイ県チャ ンドマニ郡出身で、モンゴル相撲の国家のザーン(象)だった故R.ダワーニャム、長兄バ ーサンドルジは県のナチン(隼)、下の兄ハグワドルジは国家のナチン(隼)、伯父はモンゴ ル相撲協会会長のニャムドルジ、従兄弟に国家のガリド(ガルーダ)、ガンバータルという、 相撲の家系に生まれた、生まれながらの力士と言える。

3, 母への思い

モンゴル相撲力士ダワーニャムの妻、日馬富士にとっては最愛の母を、「命の守護者たる、 天のような存在」と表現している。人生において何かを達成する度、母と結び付けて話すのは、母親を心から敬愛し、人の道を学んで来たことの証でもある。現在も母親とともに暮らしているそうだ。

4 ,「本の虫」

日馬富士は、幼い頃からモンゴル相撲に親しむ傍ら、読書家でもある。「うちには図書館 のように書籍があり、モンテ・クリスト伯、モンゴル秘史など多くの文学や古典を読んで 育った。ハグワ兄さんは、読んだ本の話をよくしてくれた。話を聞いていると読みたくて たまらなくなり、『もういいよ、自分で読むから』と言うことが多かった。ロビンソン・ク ルーソーを読んだときは、初めて感動して涙し、自分でも驚いた」。読書好きであることを 示すエピソードだ。

5, 警察大学の第一期卒業生

学業にも熱心な日馬富士は警察大学の卒業生のひとりだ。相撲を専門学校でトレーニング しながら、かっての警察アカデミー、現在の警察大学校を2015年に修了。父親は首都の 警察機関で幹部を長年務めた。

6,日馬富士の妻

横綱の家族は東京都内(地名略)にある。妻のM.バトトールさんは岩手大学に留学して 国際関係を学んだ。2010年から共に生活し、3人の子どもに恵まれている。

7, 16歳で日本へ

相撲の世界に足を踏み入れたのは17年前。2000年に日本の相撲の安治川部屋の親 方がモンゴルに来てスカウトした3人のうちのひとり。

8,初めのしこ名は安馬

安馬のしこ名で2001年1月に初土俵。2004年11月に幕内に、2006年5月に小 結に昇進するも、成績が振るわず、再び前頭に。

9,父の死

2007年の初場所初日、勝利して次の力士に力水を付けた瞬間に、両の眼に涙があふれた。 23歳で父親を亡くした、末息子の男泣き。父にさらなる活躍を見せたかったとの思いもあ っただろう。多くの人に尊敬されたモンゴル相撲の名手ダワーニャムさんは、2007年1 月に交通事故により亡くなった。試練の場所で、安馬は10勝5敗の好成績を上げ、小結に 返り咲いた。

10,大関昇進

2008年1月、白鵬に土を付けた唯一の力士は安馬だったが、その後振るわず、大関には 届かなかった。同年7月には全勝優勝、続く場所でも優秀な成績を上げ、2008年の建国 記念日に大関昇進が決まった。

11,日馬富士に改名

師匠で 63 代横綱の伊勢ケ浜親方から、大関昇進に際して、安馬から日馬富士という新たなし こ名をもらった。「はる」は輝く、守るの意、「うま」は馬、「ふじ」は日本の霊峰。

12,モンゴル人として3人目の第70代横綱に昇進。

2012 年923日はモンゴル人にとって歴史的な日となった。白鵬を倒し、連続優勝を果たし た日馬富士は、28歳で第70代横綱に昇進した。外国人として5人目、モンゴル人として は3人目の横綱の誕生である。

13,相撲は人生

相撲は、日馬富士にとって生活そのもの。「相撲は私の人生であり、生きる上で必要なことを 教えてくれる師匠であり、闘いであると同時に、他者への思いやりでもある。こうしたすべ てが相撲には詰まっている。小さな、丸い土俵には勝ち負けだけでなく、忍耐や試練、友情 など人生のすべてがある。この土俵の上で、習慣や自律の心に始まり、人生の知恵を学んで いる」と語っている。

14,相撲生活にピリオド

2017年11月29日、日馬富士は土俵に別れを告げることを発表した。「自らの意志で引 退を決めた。日本の人々やファンの皆様にご迷惑をかけたことをお詫びしたい。親方と話し 合った結果です。横綱の地位と名誉、責任の重さを認識し、一年の締めくくりの場所が終了 した後に発表することにした」と話した。

15,責任を自覚

第70代横綱・日馬富士が、同じモンゴル出身の後輩力士・貴ノ岩を殴って負傷させたのが、 引退の理由だ。この件については「先輩として、横綱として、後輩力士に教え、鍛え、相撲 で成功するには何が必要かを指導すべき、と常々考えていた。貴ノ岩をこのような事態に追 い込んだことを謝罪したい」と話した。記者会見では、横綱の責任という言葉を何度も口に し、これまでの支援に対して感謝を伝えた。

引退に至る経緯は以下のとおりである。

10/29 貴ノ岩・バーサンドルジの師匠である貴乃花親方が鳥取警察署に被害届

11/2 鳥取警察署から大相撲協会に連絡。協会幹部は日馬富士と伊勢ケ濱親方に確認。この時点では公表しなかった。

11/12 九州場所が始まり、貴ノ岩が健康上の理由で休場。

11/13 場所2日目、貴ノ岩の休場理由が、頭がい骨が割れたとの診断であると判明

11/14 横綱日馬富士が、同じモンゴル出身の力士を殴ったことを日本国内メディアが報

じる。日馬富士は貴ノ岩に謝罪、九州場所を休場。相撲協会危機管理委員会が調査中であることが明らかに

11/27 九州場所終了後、横綱審議委員会が開かれ、横綱に厳しい処分を下すべきとの意見が出た。具体的な処分内容について、協会に伝えることはなかった。

11/29 横綱日馬富士、自らの意志による引退を発表

News Zindaa より 2017年11月30日

http://news.zindaa.mn/27n7

(原文・モンゴル語)
(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)

 ※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください

 

 

ノロヴバンザトの思い出 その82

(梶浦 靖子)

別の分野もしくはオリジナルな活動

異文化の音楽を学び、その成果を何かの形で活かすにあたっても、ハリスンの例は大いに 参考になるだろう。モンゴル民謡やモンゴルの楽器を習ったからといって。そのままモンゴ ル民謡歌手、モリンーホール奏者を名乗り世間に認められようとするのではなく、何か別の分野に自身の居場所、ホームグラウンドを見つけるということだ。別の職業に就いて休日に 演奏活動をすることも一つの手であるが、他に、全く別のジャンルの音楽、もしくは自分の オリジナルな音楽をやって、習ったことをその中に活かすというやり方もある。 ハリスンはすでにビートルズのメンバーという類いまれなホームグラウンドを持っていた。 「ノルウェイの森」のシタールのように、オリジナルな楽曲を作り、そのなかにモリン・ホ ールの音色やオルティン・ドーの発声による歌声を効果音のように使うことも考えられる。

オルティン・ドーをまがりなりにも歌えるのだとしたら、発声の基礎はかなり出来ている だろうし、装飾的発声などの技術も身に付いているはずである。それらを駆使した歌声でオ リジナルの楽曲を歌う等もありうる。ジャンルとしてはJホップということになるだろうか。 あるいは既存のよく知られた曲、スタンダードナンバーを、オルティン・ドーで培った声を 活かして歌ったり、演奏の場で一曲だけオルティン・ドーを披露するということもあり得る。 演歌については、モンゴル民謡とは似ているようで実はかなり異なるジャンルなので、誤解 を避けるためにもあまり一緒に扱わないほうが良いと個人的には思っている。

また、モリン・ホールの演奏技術をそのまま活かせるような独自の新しい楽器を作り出す のはどうだろう。モンゴル民族を代表するわけではないので、その象徴である馬の頭部の彫 刻はあえて取り除き、特定の民族性を消す。そして、モンゴル、ハルハ部のモリン・ホール だけでなく西モンゴルのエヒルや、モンゴル高原のチュルク系諸民族の二弦擦弦楽器の特長 や演奏法、楽曲も取り入れ、それらに着想を得た新たな楽器を創り出してはどう だろうか。モンゴルだけでなく、隣接する諸々の遊牧民の要素を取り込んだ楽器ということ で、名称は「ノマド・フィドル nomad fiddle 」等としてはどうだろう。

それでモリン・ホールの楽曲やオリジナルな楽曲を演奏し、一曲だけ本来のモリン・ホー ルを演奏して見せるなどするならば、伝統社会との利害の対立も無く、音楽的に意味のある 活動となるのではないだろうか。手本とされたモンゴルその他の民族の人々がどのように感 ずるかについては予想できない部分もあるが、何か議論が起こったならそのつど誠意をもっ て対応していくことで異文化間の交流や理解が進む気がする。モリンーホール奏者を名乗っ てモリン・ホールをそのまま演奏していくよりは、適切で公正なやり方ではないかと思うのだ。

グループによる活動

私は大学時代にインドネシア、ジャワのガムラン音楽にも親しみ、ガムランのクラブ活動 やガムランの授業履修者による演奏に何度か参加した。学祭など大学内部の演奏会のほか、 学外での演奏も何度かあった。しかしモンゴル音楽の演奏で感じた「不当さ、後ろめたさ」 等は、不思議とガムランの場合は感じることがなかった。私自身、ガムラン音楽にはさほど 深く入り込んでいなかったせいもあるが、それ以上に大きな理由が二つほど考えられる。

一つはガムラン音楽がつねに数人から数十人により演奏されるアンサンブルであることだ。 個々人の顔や存在はあまり前面に出ない。対してモンゴル音楽は独唱・独奏が基本である。 歌はもちろん、楽器も多かれ少なかれソリスト的性格が強く、個々人が強く押し出される。 モンゴル音楽を学習しただけの人間でも、同じ形式で演奏すると、本来の伝統の継承者であ るモンゴルのプロの音楽家と、見た目では区別しにくい。伝統の継承者を騙っているような 誤解を与えかねないのだ。

またガムランの楽器には、高度な即興的演奏をするゴングや経験を要するドラムや弦楽器 などから、きわめて簡単に演奏できる鉄琴類まであり、熟練の演奏者とほぼ初心者に近い人 間が一緒に演奏できる面がある。さほどの技がなくとも人前での演奏に参加しうる音楽であ るので、人前で演奏していてもその道のブロや熟練者とは限らない。ゆえにそこに参加して いても自らを伝統の継承者のように見せていることにはなりにくい。

そして私の参加した演奏会では「OO大学ガムランクラブ」等のように、アマチュアの学 習者たち、同好の士の集いであることを明記していたことも大きい。本来の伝統の継承者とは区別しやすくなっていた。 そこから考えると、モンゴル音楽の学習者においても、同好の士の集まり、団体を作って演奏活動をするのがいいのではないかと思う。アンサンブルのグループを結成する手もある が、モンゴル民謡を学んだ人間、モリンーホールなど楽器を学んだ人間が何人でも加入して、 モンゴル音楽の愛好家、学習者の集まりとわかるような名称の団体を組織するのである。

その団体のメンバーであることを明記して演奏活動をするならば、本場モンゴルの音楽家 とはわかりやすく区別されて、彼らとの利害の対立も回避できると思うのだ。

(つづく)

 

 

事務局からお知らせ

昨年 11 月はじめ、新しい話題がありました。その時のやり取りを取り上げてみました。

西川様
奈良学園の中 1 年生の一クラスと、モンゴル1番学校中2(日本では中 1)のクラスと交流できないかと。インターネットとかで、(どういうことをしたいのかは、これから聞くとして、) そのような申し出を受けていただくことはできないか、尋ねていただけないでしょうか。と音楽交流の時のような経済的に、負担をかけることはないようです。よろしくお願い申し上げます。

生々さん、
😃メール拝見しました。
中 1 生との交流、具体的にどういう交流を考えておられるのか聞いてもらえますか? インターネットを使っての文化的な交流なのか、英語を使っての言語の交流なのか、またそ の他の交流なのかで話を持って行くところが変わってきます。 中学なら古川校長なので話はスムーズに進むと思いますが、交流の中身が問題になって来る と思います。単発で、一回きりの交流でいいのか、先の交流もあるのか、詳しく話を詰めて からでないとと、思います。

情報インターネットの先生も文化国語の先生も英語の先生も開校前から仕事を共にした先 生がいるので、大枠が決まれば私から話はできます😃相談にも乘ってもらえますので、希望 される内容を聞いてもらえますか? またまた、楽しい交流ができそうですね

追伸です☺
内部進学の子どもたちは、6 年のハワイ宿泊学習では現地の学校の子どもたちと事前にスカイプを 使って英語での交流を経験しています😃参考まで。

栄子先生

いろいろと提案していただき、ありがとうございます。

あのあと、土曜日に1番学校の先生に会いました。数学の先生で30歳になっておられないかも しれないくらいの若い女性です。何が具体的にしたいのか、というと、やはり自分の専門が数学 なので、まずはそれに関することを話されていました。

例えば、理科系の授業は日本では専門の教室がありますが、数学はどうなのか。もしあるなら ば、どんな教室なのか。授業内容などで、子供達の知育を発展させるためにどんな方法がとられ ているのかなどを知りたいと。

交流に関しては前にいた学校が地方(ハラホリン)で、そこが日本のある女子校と交流をして いたそうです。年に1回日本から何人かが来られて、草原体験をされていたようです。で、折り紙とか手芸品の交換などをしていたとか。 私が思うに、1番学校は都会にありますし、ネットを使ってスカイプでまず交流をしていくのが面白いかと思います。文化的になるかもしれないですね。同じ年の子供たちがどんなことを考 えているのか。

この学校の生徒だったらおそらく親達がお金を出して日本にいくことは可能なので、何人かの 生徒に自費で行ってもらうということもできます。英語でできれば一番直接的だし、いいとは思 います。事前に学習したり、例えばテーマを考えておいて、話し合っておいて英語でまとめてお く、などかなり手がかかりますね。それもこちらの先生には伝えておきます。 漠然としていてすみません。今のところはそんな感じです。先生も若いのでいろんなことをやり たいという気持ちであふれてるみたいでした。

形になるかどうか、わかりませんが、またよろしくお願いいたします。

その後の進展はありませんが、急がずとも時代に即した交流が実現できることを願っています。 このようなことに関われることがモピとしての本懐だと思います。

新年おめでとうございます。今年もよろしくおお願い申し上げます。

(事務局 斉藤生々)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カテゴリー: モピ通信 パーマリンク