■NO 190号 2018年2月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
母たちのヒストリー その9
『Voice from Mongolia, 2018 vol.40』
牛乳パック顛末記
事務局からお知らせ
母たちのヒストリー その9
中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査(2002年)より「母たちのライフヒストリー」その 9
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事
アビルミドさんは寅年生まれ。一九三八年の春、エジネー旗のサイハントーライ・ソムの ザーンツァガーンと言うところで、トルゴードのゴンゴルジャブさんの唯一の娘として生ま れた。
――さあ、幼いころの草地、水や草について話してくださいますか?
わたしの幼いころ、わたしの家はダンウィン湖岸で暮らしていました。四十年代の初め に、カザフ族から逃れて、サイハントーライの東南のフフジグドと言うところにやって来て 暮らしていました。一九五八年に人民公社が成立して、ボル山の人たちを下流へ移動させ、 サイハントーライに送り、サイハントーライの人たちをサイハンノールへ移動させるときに、 わが家はほかの人びとと一緒にサイハンノールにやって来て、そこで人民公社に組織され、 サイハンノール生産隊の牧民になりました。
わたしの父はホボクサイルのトルゴード人で、名前はゴンゴルジャブで、母の名前はチ ャルマーと言います。わたしは幼いころ、百余頭のヤギ、ヒツジ、二十頭くらいのラクダ、 十頭ぐらいのウシ、三~五頭のウマ、少ないけれども五種類の家畜のそろった、自給自足の できる家だったのです。
わたしは幼いころ、入学して勉強したいと強く希望していましたけれども、そんな機会 はなく、独学しました。草原の中の水たまりの乾いたところにアルファベットを書いて、人 に教えてもらって記憶しているうちに、モンゴル文字の読み書きができるようになりました。 そして、手に入った本を読んでいました。この一生でいろいろな本や物語を読みました。わ たし自身は正式の学校に入って教育を受けることができませんでした。それは一生の後悔と なりました。同じ後悔を子どもたちにさせないために、努めて子どもたちすべてを学校に通 わせました。
わたしには六人の子どもがいます。一人を幼いころに親戚に養子として出して、一人が 石炭からのガス中毒で死にました。残りの四人が教育を受けて、自分の家族をもち、仕事に 頑張っています。長女と次女は双子で、名前はナラントヤーとナランチメグです。朝、日が のぼるときに生まれたので、二人には太陽と関係のある名前(ナランはモンゴル語で太陽の 意)をつけました。幼いころ二人はよく似ていたので、他人は区別がつかないと言っていま した。二人は同級生で、大学を卒業して帰って来ました。
彼女らの妹にアルタンツェツェグがいます。幼いころ、親戚に養子に出しました。アル タンツェツェグも二人の姉と一緒に通学し、大学を卒業して旗の仕事をして、さきごろ副旗長になりました。アルタンツェツェグの下にバトボヤン、バトムンケ、バトチェンケルと三 人の子どもがいました。バトムンケは石炭のガス中毒で亡くなりました。子ども六人のうち 三人が大学を卒業して、一人が専門学校を卒業して、もう二人が中学校と高校を卒業しまし た。アルタンツェツェグは幼いころ養子に出したので、養父母が彼女に教育を受けさせまし た。わたしのおかげとは言えません。
わたしの夫はトゥブドゥンと言います。巳年で、一九二九年に生まれました。生産隊で わたしたちには子どもが多かったので、貧しい生活をしていましたけれども、どうしても子 どもたちを学校に通わせるために頑張ってきました。文化大革命のときには、本当に辛い生 活をしていました。一九六八年に文化大革命が厳しくなるとき、わたしの両親は「富牧」と されて、夫はトルゴード党とされて批判され、ゲル、家畜などをすべて奪われて、「黒幇の家 族」とされて、どんな権利、自由もなくなりました。生産隊の決定に従って、痩せていた家 畜を選んで、何年間放牧しました。わたしたちは「黒幇の家族」ですから、隊から痩せてい た家畜を放牧しろと言われても、文句を言わずに放牧していました。それで、数年間、痩せ た家畜を放牧して、素っ裸の子どもたちと一緒に厳しい生活を経験しました。夫は文化大革 命のとき、迫害されて、労苦を味わい、病気にかかってしまいました。そのせいで一九九三 年に突然、脳の神経が切れて、六十五歳でそれほど年老いていないのに亡くなりました。
一九八二年の生産請負制のときに、ソブノール・ソムのバヤンボラグ・ガツァーに移動 してきて、隊から十頭のラクダ、八十頭のヤギ、ヒツジを配分され放牧しました。二○○○ 年から、エジネー旗中心地に来て、孫のザンダンの世話をし、学校に通わせています。
――あなたは助産婦だとうかがいました。いつどのように学んだのですか?
一九五五年から一九五六年まで一年間、エジネー旗の病院で助産について勉強しました。
わたしは何にせよ勉強するのが好きです。モンゴル語も独学で勉強しました。識字者でした ので、みながわたしを信じて、この技術をわたしに勉強させたのでしょう。その技術を勉強 してから今まで五十~六十人の子どもを取り上げました。事故などありませんでした。それ で、優秀な助産婦にもなりました。若いころ希望をもって努力していました。人びともわた しを信じて、旗やバグの代表に選びました。エジネー旗の青年団の大会に三回参加し、バグ (隊に相当する行政単位)を代表としてソブノール人民代表大会に出席していました。
両親の教え、党と人びとのおかげで、近隣と仲良く、老人を尊敬し、子どもを愛し、誰 にでも正直で、真心でつきあうという習慣でした。仕事に真面目で、勤勉で、温和であるこ とを重んじ、子どもたちにもそのように教育してきました。それで、人びとから信頼される のです。故郷ではわたしを「穏やかな母」と敬して呼んでいました。それはわたしの穏和な 性格と関係すると思います。
助産婦というのは母と赤ん坊の命と健康に関わる重大な仕事でしょう。それに、出産時 には苦しむ人を安んじて、できるだけすばやく安産させるのは、身も心も疲れ、経験も技術 も求められる重い仕事です。出産するとき、悩んでいる人をみたら、すごく苦しんでいるだ ろうと思い、早く休ませてあげようと汗だくでさすって取り上げました。ある人は子どもを 産んだ後に、胎盤が出ない(後産のこと)のか、あるいは疲れ過ぎのせいか、失神すること もあります。そんなときは、手で治すほかに、薬や汁などの一般的知識も必要です。
いろんなことをわたしは病院で助産について勉強していたときに身に付けました。助産 する仕事中に学んだことがらもあります。赤ん坊のへその緒を切ると言うのも重要なことで すよ。赤ん坊のへその緒を切るとき、長短が適切でなければいけません。長いと治りにくく なり、凸になって出臍になります。短かく切りすぎると縛りにくくなります。すると、子ど ものおしっこが多くなります。大きくなっても、おねしょをする子どもになります。母体の 子宮のことも気をつけなければなりません。子どもを産むときと月経のときにかかった病気 は治りにくいものです。ですから非常に気をつけなければなりません。助産が多いと目が悪 くなると年寄りがよく言いますが、本当かもしれません。現在、わたしの視力は少々悪くな っています。それが、助産者になったことと関係があるかなと思っています。
――あなたは歌がお上手だとお聞きしました。オルティンドー(ゆったりした民謡)を歌う のですか?誰から教わったのですか?
ええ、わたしは幼いころ母から学びました。わたしの母も数多くの民謡を歌うことがで きる人でした。それに、結婚式などの宴会で人びとについて歌っているうちに学んだものも たくさんあります。オルティンドーを歌うと、わたしの声がよく出ます。それで、知り合い の人びとがわたしを誘って、結婚式などで歌わせていました。「あなたは歌がうまい」と褒め てくれ、わたしは喜んで歌っていました。それで、二○○五年五月にアラシャー盟民謡協会 が歌を収集していたとき、わたしは百首近くのトルゴード民謡と三十首以上のハルハ民謡を 歌い、録音されました。この録音はアラシャー盟中心にあるでしょう。
モンゴル民謡を歌うのがわたしは大好きです。少しばかり才能があるかなと思っていま す。歌を歌えば歌うほど、声はよくなる感じですし、気持ちも広がります。結婚式などでモ ンゴル民謡を歌っていると、お酒をいくら飲んでも酔っぱらいません。気持ちがよくなるか らでしょう。歌を歌うことによって、アルコールが発散すると老人は本当に話しますよ。わ たしの好きな歌は「ウレメイ・ボヤン」「フレン・ヘール・モリ」「ハサク・ザンダン・ハル」 「オナガン・ハル」「アーリン・ハルガイ・モド」などいろいろな歌があります。普通に話し ていても、歌の名前ははっきり思い出しません。歌えば多くの歌がつぎつぎと出てきます。 ときには、忘れていた歌も思い出されます。
二○○二年に初めてソブノールで聞き取りをおこない、二○○五年にエジネー旗ダライフブ鎮にあるアビ ルミドさん宅で二回目の聞き取りをおこなった。アビルミドさんは二○○五年五月九日に病気で亡くなった。 二○○六年の九月十八日から二○日までエジネー旗で現地調査をおこなうときに再訪しようと予定していた けれども、間に合わなかった。合掌
『Voice from Mongolia, 2018 vol.40』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「ひとりで生活するなんて、できないから」
-B.ナツァグドルジ 児童文学作家 十数年ぶりに訪れたウランバートルの国営ラジオ・テレ
ビ放送局は、赤と青の外装にイメージチェンジしていた。 長年にわたり同局で番組編成や編集に携わり、児童文学の 作家としても知られるナツァグドルジさんとの待ち合わ せ。数年前、自宅に訪ねた折は、大病と手術を経て、恰幅 の良かった以前から一回りも二回りも小さく見え、心なし か元気もなかった。それがこの日は、ジーンズをすっきり はきこなし、若返って見える!
「どこのお兄さんかと思っちゃった」と私。「体調もいい し、身体が軽い。若者に戻ったように感じているよ」とは 本人の弁。翌日からは西部のウブス県に講演に出かけるという。
2001年頃、恰幅の良かったナツァグドルジさんの自宅は、私のホームステイ先から近 い集合住宅にあった。学齢期の子どもたちがにぎやかに行き交う居間の奥には、8人の子ど もたちを残して亡くなった奥様の遺影が飾られていた。息子さんたちは皆、明るく活発で、 スポーツやカメラなどそれぞれに熱意を傾ける趣味に忙しそうにしていた。父という大きな 太陽から燦々と愛情が降り注ぐ、温かで居心地の良い家庭がそこにあった。
昨年 7 月、国家文化功労者として大統領から叙勲、おめでとうございます。以前頂いた、 子どもと親のための絵本を読み返している。タイトルは『きみもいい、ぼくもいい』(原題: Чи ч сайн би ч сайн、2010 年出版)。「自分はすごい、きみはてんでダメ」 と争ってばかりの動物たち。その一方で、その動物たちの幼い子どもたちが、互いに認め合い、力を合わせることを親たちに教えるストーリー。ユキヒョウやオオカミ、シカなどモン ゴルの山地に生息する野生動物のやりとりとして、韻文で綴られる。
相手をこき下ろし、打ち負かすのではなく、お互いを認めて、次世代のために何ができる かが大事――と気づいた動物たちは「永遠にさようなら」と会議の場を閉鎖して後にする。 政治を語ることはないが、古くは政党や党組織の重圧の下、近年は政権争いとそれに続く混 乱を生き抜いて来た(であろう)著者の思いが伝わって来るようだ。成長した娘たちも編集 作業に携わった。
ナツァグドルジさんは現在オーストラリアで暮らす。子どもたちの多くが、日本、韓国な ど国外へ移住、最後まで自宅にいた末娘のオユーさんの留学がきっかけだった。「再婚した女 性も一緒だよ。古くからよく知っている女性だ」。冒頭のひとことは、真っ直ぐなこの方らし い。いつも家族の笑顔の中心にいたナツァグドルジさんに一人暮らしは似合わない。次はど こで会えるか、その時も愛情あふれる力強いハグをもらうのを楽しみにしている。
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「今月の気になる記事」
昨冬に続き、今シーズンも、ウランバートルの寒空の下、「煙とたたかう父母の会」が大気 汚染への対策を求めるデモを展開中という。一朝一夕に解決する問題ではないとはいえ、 市民の声を受けて、政府は事態をどう受け止め、どんな対策を講じているのか―ーー。日 本に住むモンゴル人の友は「マスクに空気清浄機にどんな実効性が?ゲル地区をすべて電 化しない限り、解決しない」「空気清浄機を調達する著名人の金儲け」と冷ややか。それに しても、「煙は敵」とは…。昭和の戦争末期に国民総動員を呼び掛けた標語「ぜいたくは敵 だ」を思わず想起してしまった。
JICAは昨年12月、モンゴル国政府の財政再建のため、320億円(上限額)の円 借款貸付契約を結んだ。同国政府の公的債務は2016年に対GDP比88%に達し、I MF、世銀、日本政府などが3年間で56.5億米ドルの国際支援を行うという(JIC Aモンゴル事務所ニュースレターより)。対外依存という「煙」はますます色濃く、巻かれ るしかない同国である。
U.フレルスフ首相:煙突からの、貧困からの、無責任と心なさからの煙が集積している (筆者:D.ガンサロール)
U.フレルスフ首相率いる政府関係者の一行が昨日、首都の最も煙のひどい4か所で業務にあ たった。まずデンジンミャンガにある第39学校を訪れた。校舎一階に大気汚染度を確認で きる測定機器が設置された。教員や生徒はここを見ることで、煙の程度や危険な水準に達し ているかどうかについて情報を得ることができ、煙がひどい場合は口を覆うなどの有毒な大 気汚染から自衛手段を講じることができるようになる。またこの学校の一部の教室には、空 気清浄器が据え付けられた。以前は、校内の暖房に2400-2500万トゥグリクの経費 がかかったが、現在は集中管理システムに接続したことから300-400万トゥグリクで 済むようになった。国会議員で陳情に関する常任委員会の長も務める M.オユンチメグさんは、 「この学校では1700人の子どもたちが学んでいる。以前は暖房をどうするかが大きな課 題だったが、今年改善できた。あとは浄水供給が課題」と話した。現状では、当校の5教室 に空気清浄機を設置されており、首都全体では保育園や学校、病院など1300室に同様の 機器が設置済みという。 ウランバートル市長のC.バトボルドは「小学生の学ぶ教室への整備がすすみ、今後は中学生 の教室への整備を始めた」と話した。オユンチメグ常任委員会委員長によると、これは前委 員長で現在大臣のD.サランゲレルの時期に出された大気汚染被害を減らすための提言を政 府に提出、2017年1月3日の国会決議に基づき、空気清浄機の設置と大気汚染対策エリ アの設定などの対策に取り組んでいるという。
フレルスフ首相は「子どもたちに大気汚染からの自衛策を教える講座を企画するのが重要 だ。常々思っているのだが、この大気汚染は、煙突の煙、うずまく貧困、無責任、無自覚が集積してできているのだ。 時には気持ちをひとつにしなければならない。それぞれ自分の健康に留意しなければならな いし、子どもの健康にも目配りが必要だ。国の財政が厳しさを増すこのタイミングではある が、いずれも見過ごすことはできない。煙との闘いは社会全体の問題であり、待ったなしの 闘いだ。私個人にとっても問題だ。うちにも子どもたちがいて、煙のひどい環境で暮らして いる。チンギスホテル近くのひどい煙の中で、10年以上暮らしている。立ち並ぶアパート の間にも煙がふきだまる。朝夕は特にひどい。だから煙の辛さは身に染みて知っている。こ れは私たちの生活を左右する苦しみだ。この問題を乗り越えるには、政府の対応は必要だし、 適切な政策立案や調整、資金も必要だ。それだけでなく、国民ひとりひとりの力や取り組み、 自覚が欠かせないのだ。
火を焚く家庭は、わが身を考えて欲しい。ゴムを燃やすか、有害なものを燃やすか、使用済 みのエンジンオイルを燃やすのか。それは、国民に背いて、毒をまき散らす行為であるし、 もっと言えば国民を中毒にする首謀者であることを、立ち止まって考えてみるべきだ。そう 考えれば、煙の対策には財政の課題であるとともに、人々の気持ちの問題でもある。考え方 を変える必要がある。みんながそれぞれ煙を何とかするために立ち止まって考えてほしい。 「自分は子どもや自国民のことを考えなければ。国民の遺伝子のことを考えなければ。幼い 子どもたちを取り巻く空気を汚してはいけない」とひとりひとりが考えることができれば、 何でもかんでも火に投げ込んで平気ではいられないはずだ。このような自覚が国民ひとりひ とりの中になければと思う。このことをみなが周囲に理解を広げ、普及し、みんなが自分の ものにする。それが実現して初めてこの問題が解決に向かう、そうでなくてモンゴル国政府 が資金を出してこの問題に取り組むとしたら、現状では見込みがない。とはいえ、われわれ は可能な限りの対策を講じている」。このことを生徒や保護者によく説明し、理解を広げるよ う教頭らに求めた。
首相によると「ウランバートルの煙の80%はゲル地区とボイラー暖房の煙だ。火を焚い て煙突から吐き出される煙が大半を占める。10%程度が車の排ガス、6%が火力発電所、 残りはその他の煙である。そのため、最も力を入れているのは、ゲル地区とボイラーだ。3 00万のボイラー暖房、22万世帯のゲルがある。合わせて年に120万トンの石炭を燃や す。目標はこのボイラーを無くし、集中管理システムに接続する、ゲル地区の電化、地区か ら地区へと集中管理暖房を広げていくことで、できる限り火を焚かず、石炭を燃やさないで 済むような環境を整えることで問題解決を実現したい。このプロセスには、国民や企業も自 発的に関わるべきだ。過去10年間に、わが国の国家予算から1470億トゥグリクが対策 に支出された。一定の効果が上がったものもあって然るべきだが、一部は効果がなく資金が 出費されたこ。とは否定しない。だから今後は、ひとつの目標を共有すべきだ。煙の対策に のみ、エネルギーを傾け、ゲル地区の建設物を増やし、インフラの改善をすすめることだ。 この事業に集中し、実現する。とにかく国民の意識を高めることだ」 せめてもの対策として、建物をしっかり断熱する習慣が重要、とも話し、昔両親とともにリ ンゴ箱など段ボール紙を用いて断熱したエピソードを披露した。
「うちの学校に設置された空気清浄機は、非常に細かい塵芥もカットするそうだ。空気中の 二酸化硫黄を適正に保つ機能もあると聞いた。設置してひと月になるが、以前は教室の空気 が酸化したような感じだったが、現在はそのような場合この機器が浄化しているようだ」。第 39学校のトゥメンジャルガル教頭は話した。 学校を出て、バヤンゴル区11地区を北に進み、革命家通りへ。断熱工事を行った住民のア ディヤスレンさん宅を訪れると、熱を外に逃がすことがなくなったという。以前は。一冬に 車3台分の石炭が必要だったが、断熱後は、寒くなり始めて現在までに車 1 台分をまだ使い 切っていないという。建物に専用の断熱材を用いることで大きな効果があると世帯主は話し ていた。「うちのように、30%の自己負担、残りを政府補助による断熱工事を希望する人は 多いですが、残念ながら断熱材にかかる資金の30%を実際捻出できる家庭はあまりない。
給料天引き、銀行支払いなど多くの借金を既にしているため、新たに融資を受けることがで きないという人は多いようです。30%の自己負担について支援があれば多くの家庭が断熱 を実現できる。その点ご配慮をお願いします」と首相に訴えた。 科学技術大学の教員の調べではアディヤスレンさん宅では建物の四隅、外壁、天井からの熱 が失われている度合を計測するとともに、断熱工事をする前後の状態を写真で比較した。家 から出ると、周囲の家庭を訪れた。断熱工事を施していないため、日に何度も石炭を燃やし ているとのことだった。 次にバヤンホショーの第38保育園を訪れた。自然環境省の予算により、電気による暖房が 整備されたほか、「ウランバートルきれいな空気」事業から空気清浄機も設置された。首相は、 このように学校、幼稚園、保育園に速やかに空気清浄機を整備すべきと話した。保護者に向 けて、自身も子どもたちにもマスクの使用を呼び掛けた。この後、同地区のズーンサラー周 辺の最も大気汚染がひどい地域を担当する測候所の取り組みを視察した。
(中略) 首相は「このように22万世帯の煙を減らすことができたら、ウランバートルの煙は半減す る。113のボイラーを撤去し、煙突をなくし、集中管理システムにつなぐ。そのために政 府から230億トゥグリクを支出する。さらに2万3千世帯を電化する。こうして毎年、煙 を減らす取り組みをしているものの、煙から解放されるには至っていない。国民、子どもた ちの健康を守るためにマスクを常用すべき状態になっている。これは専門家が推奨するマス クで、大気汚染を70-90%程度シャットアウトする(マスクを見せながら)。だからこの マスクをご自身と子どもたち、家族全員に購入して使用してほしい。通りや野外に行くとき は必ず着用すべきである。(中略)ウランバートル市内のすべての学校や保育園の教室に合計 何台の空気清浄機が必要か、必要な予算額を算出し、可能性を検討する。整備できたら、教 室の中では子どもたちを守れるので実現したい。煙はわが国の国民全体の安全と生命に関わ る問題だから、国民みなが煙との闘いに参加するよう、呼びかけたい。煙はわれわれの敵だ。 まずは、皆でマスクを着用しましょう」と呼び掛けた。
(ウドリーンソニン ウェブサイト http://dnn.mn/ 2017年12月1日)
(原文・モンゴル語)
(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください
牛乳パック顛末記
(梅村 浄)
「今年は雪が多くて寒いよ」
メールと一緒にウランバートルの雪景色の写真が、度々送られてきます。-20 度以下になって、 1 日中石炭ストーブを焚くので、大気汚染もハンパない季節を迎えたようです。
<牛乳パックを集めよう>
9 月に草の根チームがモンゴルに渡航した時、中古の車椅子と一緒に牛乳パックで作った椅 子とテーブルを持って行きました。
どうしてかと言うと。。
数年前、モンゴル東北部のヘンティ県に招かれて、障害があるため学校に行けない子ども のディケアをしている日本人女性の家を訪問しました。ヘンティ県はチンギス・ハーンが生 まれた土地で、広い平原の中にヘルレン川が流れるチンギス・ハーン市があります。
小さなその家に、10 歳を過ぎるまで寝たきりで過ごして来た脳性麻痺の子が古い車椅子を 受け取りに来ました。私たちは立ったり、座ったり、手を伸ばして物をつかんだり、無意識 の内に 1 日中、体の関節を動かしています。麻痺がある男の子は、体を伸ばす機会がなかっ たので、関節が固くなりすんなりと車椅子に座ることができません。腰と胸に紐をかけてな んとか座れるようにしました。
麻痺のある子でも、赤ちゃんの時から、座位保持椅子に座って過ごせば、大人になっても、 座って暮らすことができます。その子の体に合わせて作る椅子は高価ですが、日本では障害 者手帳と医療保険で作ってもらえます。私たちが一緒に活動しているモンゴルの脳性麻痺の 子どもたち全員に、日本から座位保持椅子を贈る費用はないので、牛乳パック椅子とテーブ ルに活躍してもらおうと考えました。
紙で椅子ができるのかしら?いつまでも壊れずじょうぶなのかしら?と半信半疑の親たち でした。寝転がって見える世界と、おすわりして見える世界はちょっと違います。手を前に 出すことができたら、テーブルにのせたおもちゃで遊べます。首がグラグラしていても支え てあげれば、お椀によそったドロドロ食を食べさせるのもラクです。可愛い柄の布で包んで みましょう。耐久性が増します。
我が子が座って遊べる姿を見て、自分たちでも作ろうという気運が出てきました。あるお 父さんが、ダンボール箱いっぱいに集めて来て、写真を NINJIN kusanone の Facebook ページ (草の根事業のメンバーがお互いに連絡を取るために、写真+モンゴル語と日本語でやり取 りしています)にアップしてくれました。
モンゴルではパック入り牛乳は高価です。遊牧地でとれた産地直送の 牛乳を道端で量り売りしています。容器を持って買いに行けば、パック 代はかかりません。スーパーにはビニール袋入り牛乳も売っています。 そっちの方が安く手に入ります。ウランバートルの周辺にあるゲル地区 では、水道設備がないため、水をポリタンクで汲んで、ゲルまで運んで 来る毎日です。牛乳パックを洗うためにたくさんの水と手間がかかります。
そんなこんなで、日本でもお手伝いできればと、集めて送ることにし ました。数カ所の保育園、幼稚園とレストランを経営している友人に頼 んだら、たくさん集まったんです、これが。我が家に次々に持ち込まれ る牛乳パックの端っこを娘や、孫たちと用紙カッターで切って、2個を 組み合わせました。子どもたちがカッターで指を切らないか、大人の見 張りが必要で大騒ぎでした。出来上がった大きな積み木を、たくさん積 み上げて崩したり、プラスチックの赤いソリに乗せて引っ張ったり。左 手が不自由な娘は自分が働いている保育園から牛乳パックを持ち帰った り、パック 2 個を組み合わせて大活躍でした。
結果、500 組、1000 パックが集まりました。
<さて、どうやって運ぼうか>
11 月末から2週間、モンゴルで親たちが立ち上げた障害児センターの親や、国立障害児幼 稚園の専門家スタッフを招いて、障害児保育の研修をしました。通訳を含めて6人のモンゴ ル人女性です。練馬区の NPO 法人が運営している障害幼児教室と学童保育での実習、杉並区 の障害児発達センターの見学など盛りだくさんのプログラムをこなして、帰国前の報告会と パーティーを持ちました。
私達は帰国時に中古の車椅子と一緒に、この牛乳パックを飛行機の貨物室に入れてタダで 運んでもらうつもりでした。が、しかし、航空会社は車椅子を前から無償で運んでくれてい ましたが、モンゴルにもあるタダの牛乳パックを運ぶ訳にはいかないと、断られてしまった のです。 あららら。
ダンボール箱詰めで貨物室に入れて運ぼうとしたら、1箱 9000 円ですと言われてしまいま した。60 組しか入りません。他に安価に運ぶ方法はと、船と鉄道便を当たって見ましたが、 やはり 5000 円かかります。最後の手段で、100 円ショップで買った大きな袋に詰めて、機内 持ち込みの手荷物で持って行ってもらおうと、お別れパーティーの会場に持ち込みました。
しかし「日本でしか手に入らないお土産を持って行きたい」「牛乳パックはかさばるから無 理」とのムード。宴もたけなわになった頃、モンゴル人女性がマイクの前に立ち、挨拶しま した。
「牛乳パックを集めてもらってとても有難く思っています。でも、自分たちはモンゴルで集 めるから持って帰らない」との発言。
娘が後を引き取って
「保育園の先生が一生懸命集めてくれたんです」 「パックを切って組み合わせて、頑張りました」
「モンゴルに持って帰ってください」 泣きの一手で、とうとう3袋だけはモンゴルに行くことになりました。 よかったー。でも、これっておせっかい?
残りはまだ、我が家に大量に残っています。モンゴルで JICA プロジェクトをやっている知 人にメールで説明して、渡航時に運んでもらったり、自分たちが年 3 回ウランバートルに行 くときに、運ぼうと気長な計画を立てております。 (2017.12.22)
事務局からお知らせ
今年6月に予定されているモンゴルの旅の内容です。日程、内容は決定ではありません。 旅行の方向に関しては、チンギスハーンのふるさとの草原へ、という感じで東方向の案を考 えています。予定なので変わる可能性もありますが、草原と星を見るのをメインに考えてい ます。
小林志歩さんから…おかげさまで連載40回を迎えることができました。 編集の労をお取りくださる生々さんに、心より御礼申し上げます。
(2014年5月(148号)が第一回の寄稿でした。長年にわたりモンゴルの情報を届けていただいています 事、お礼申し上げます)
(事務局 斉藤 生々)
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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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