■NO 195号 2018年7月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
「平成」は穏やかな時代だったか
『Voice from Mongolia, 2018 vol.45』
ノロヴバンザトの思い出 その87
国立第10幼稚園とゲゲーレンセンター
事務局からお知らせ
「平成」は穏やかな時代だったか
(小長谷 有紀)
(国立民族学博物館・超域フィールド科学研究部教授)
外国力士に「ありがとう」と言えない日本社会
騒動の渦中、すなわち報道合戦のさなかに、いくつか興味深いことが私の 身の回りで起こっていたのでまず、それらについて紹介しておこう。
モンゴルについて研究してきた私には、『世界の食文化(3) モンゴル』 という著書がある。それに基いて、モンゴルの「飲酒」文化についてコメン トして欲しいとテレビ局から電話取材の申し出があった。なんでも、クルー がモンゴルに飛び、現地取材するから、その間に電話するので(わざわざモ ンゴルから?それを受けて電話して欲しいという。ちょうど電話を受けられ ないタイミングであったため、都合がつかないことを理由に断った。たしか に食文化についてかいてはいたが、もっぱら飲酒文化についてはまだ書いていないことを、 電話の依頼を聞きながら、私は心から安堵した。もし、書いていたら、他社からも執拗に求 められていたかもしれない。モンゴルにも、他の国や地域がそうであるように、どんな宴会 をもよおすかという文化的特徴はある。が宴会の場の飲酒でなら暴行してもよいなどという 慣習は、もちろんない。また、社会主義崩壊後、経済的に混乱していた 90 年代のモンゴル国 では、反飲酒キャンペーンがされもした。しかし、だからと言って、おだやかに飲酒を楽し める人たちも、もちろんいる。この電話取材のエピソードは、モンゴル文化の側から暴力を 説明できるという偏見を内包しているのではないだろうか。
同様の例として、宮脇淳子著『朝青龍はなぜつよいのか?』(ワック株式会社)という書籍が 『モンゴル力士はなぜ嫌われるのか』(同上)と改題して緊急出版されたこともあげておきた い。モンゴル人の独立心を賞賛する著書に、悪意も偏見もなかったであろうが、帯には、「白 鵬が我がもの顔で振る舞う理由」とあり、産経新聞の、編集者のおすすめコースには「異文 化の”衝突”が根底に」と紹介されている。したがって、同書もまたモンゴル文化の側に、 暴行事件ひいては騒動全体の発端を求めているという意味では通底しているだろう。一方、 私がここで問いたいのは日本社会のほうである。モンゴル人力士に対して発せられる日本人 からの嫌悪感は、日本社会における課題を示しているのだと言いたくて、この原稿をかいている。
2017年はちょうど日本とモンゴルの外交樹立45周年にあたり、12月初旬、記念シンポジュゥムがモンゴル外務省で行われた。基調講演のために首都ウランバートルへ出向い てみると、角界の話題はモンゴル人のあいだではさほど取り沙汰されてはいなかつた。けれども、日本の複数のテレビ局はネツト上でのモンゴル人の声を拾うために、モンゴル語のできる人をアルバイトに雇っていた。そして、雇われた人はすっかりマスコミ嫌いになってい た。モンゴル人の声を届けられると思って引受けたら大間違いだった、という。雇われた三 つのテレビテレビ局ではいずれも、モンゴル人の反発を拾うようにあらかじめ指示されたそ うである。「日馬富士が引退してとても残念だ」というような、ごく普通の人のごとく普通の 感想に対してはダメ出しされ、もっと反発感に満ちたインパクトのある内容を選び出せと言 われたそうである。このエピソードが何を明示しているかは言うまでもなかろう。ヘイトは 煽られるものなのである。最後のエピソードは、多くの人からいただいていたメールである。たとえば、「前々から思 っていたのですが、スポーツに国境はないし、一応各部屋にひとりという制約つきですが外 国人力士をいれている以上、ᐸ日本人の横綱、日本人の横綱をᐳと繰り返し NHK で北の富士 が解説するのはおかしいのでは?」というメールは、事件発生以前から、外国人に対する差別 があったことを指摘している。またたとえば、外国人と結婚し、外国で子育てをしている人 は「自分が移民なので、自分の問題として感じられるからだと思う。とても不愉快だ」と書 いてよこした。一連の騒動であらわになったヘイト現象をこんなふうに不愉快に感じていた 市民は少なくないと思われる。
(つづく)
『Voice from Mongolia, 2018 vol.45』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「ここにはレプリカはありませんよ。すべて県内で発掘された本物です」
―ウムヌゴビ県博物館 学芸員 ダランザドガド市在住
5月末、モンゴル屈指の観光地である南ゴビに出かけて来ました。
日常から抜け出した 2泊3日の小旅行を、写真でレポートします。
首都のチンギスハーン国際空港からウムヌゴ ビへは、フンヌエアーのプロペラ機で。搭乗後、 すぐに滑走路を走りだし、あっという間に空 へ。蛇行して流れる川や大地の広がりを眼下に 楽しむ、1 時間半の空中散歩。着陸したら、シ ートベルトを外して外へ出られるのも爽快で、 気に入りました。ちなみに、フンヌ Хүнүү は、 紀元前のモンゴル高原を支配した騎馬遊牧民 国家「匈奴」のことです。
ゴビ砂漠に行くんだから「これぞ!」の景色 が見たい―――との一行のご要望で、ダラン ザドガドから西へ約240キロメートルのホ ンゴル砂丘を目指す。
真新しい舗装道路は80キロメートル先の ソムまで。そこで給油、飲料水を多めに買い 込むと、未舗装の『そろばん道』(同行のおじ さまがそう呼んだ)をひたすら走る。瞬時に 道路状況に対応する、この道 30 年の運転手バ ヤナーさんの運転技術に感謝。
ホンゴル砂丘からダランザドガドへ戻る途 中、1923年に米国の自然博物館のアンドリ ューズ隊が、世界で初めて、恐竜の卵の化石を 発掘したバヤンザグに向かう。白いお尻のガゼ ルが数頭、猛スピードで走り去る。グランドキ ャニオンを思わせる乾ききった大地にも、幾多 の生命が息づく。
ダランザドガド市内のウムヌゴビ県博物館 では、県内で発掘された恐竜の骨の化石が見 られる。太古の時代はここが海であったとい うから不思議だ。市内で、何だかコンパクト なバスだなあと思ったら、電気自動車!最近 導入された市バスだそう。
「恐竜の町」にも 新しい技術が普及している。
ダランザドガド近郊のツーリストキャンプ 「Gobi Oasis(ゴビ・バヤンブルド)」で、豪 華なVIPゲルに宿泊。ゲルと言っても実際 には円形のゲルを模した木造建築。気になる お値段は、1泊3食付で130ドル(約1万 5千円)。中高年の観光客が増えるなか、快 適な選択肢は歓迎すべきことでしょう。 ただ、シャワーの水圧は弱く、水流はチョロ チョロ…。ゴビだから、よしとしよう。
ゴルバンサイハン山脈の山並みや夕日などお見せしたい景色はまだまだたくさん! …ですが、あとは、ご自身の目でぜひお確かめください。 ご参考に、旅の情報を少し。今回友人に手配してもらった国内線のウランバートル-南ゴビは時期にもよりますが、週4日運行で往復60万トゥグルグ(約2万8千円)でした。首 都から長距離バスも運行、こちらは所要時間約10時間、片道2万8千トゥグルグ(130 0円)とか。ホンゴル砂丘の近郊では1時間1万トゥグルグ(500円弱)でラクダに乗る 体験も。ただし「月の砂漠」よろしく砂漠をラクダで歩くのは「無理。砂に足が埋まって進 めない」とのことでした。
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「今月の気になる記事」
成田発のMIATモンゴル航空直行便に搭乗すると、モンゴル人乗客の比率が高く、既 にモンゴルにいるような気になる。機内誌をめくると、長年会いたかった人の顔がそこにあった!ウランバートルで日本語を教えていた頃の恩人、ビジネスマンのガンウルジーさん。日本との懸け橋として、祖国とビジネスの発展目指した挑戦に拍手を送りたい。しかし、今回訪問したゴビでも、多くの牧民がカシミヤ原毛を買い取り価格の高い中国へ出荷 すると聞いた。その比率は、国内生産原料の85%にも上がるという。
Ts.ガンウルジー「モンゴルのカシミヤ加工大手は島精機の編機で生産している」
モンゴル国の尽きることのない資源である羊毛やカシミヤ産業で、世界市場でその品質を 知らしめる「スノウ・フィールズ」社のガンウルジー社長に話を聞いた。日本の先進技術を モンゴルに導入、“白い金”で高品質の商品を製造する経営者の言葉からは、ともに業界を切 り拓いた同世代の仲間への誇りが伝わって来た。
(インタビュアー:B.セレンゲ)
-はじめに、社名の由来について教えて頂けますか。
「スノウ・フィールズはモンゴル語に訳せば、ツァサン・タル(雪原)。わが社のパートナー だった日本企業の社長のアイデアでした。モンゴル国内では『ナラン(太陽の)カシミヤ』 の名で展開しています。日本の専門家と協力してビジネス展開するに至った経緯をよく聞か れます。私は1993年~94年に東京大学で修士課程を取得しました。当初は留学中の余 暇を利用し、日本企業で2004年まで仕事をしました。帰国後に会社を設立し、その年の 7月から輸出を始めました。その後今日まで途切れなく生産しています」
-何事も新しいことを始めるのは大変です。初めの一歩をどう刻んだかで、その後が決まる。 特に、リスクのあるビジネスの道を志したあなたにとっては、様々な面で事前準備が重要だ ったことでしょうね?
「当初は、日本の『島精機』の中古の編機4台を使い、7人体制で生産を始めました。初め の数年は、カシミヤ原毛を日本に送って、糸に加工していました。糸をモンゴルに持ち込ん で製品化して出荷していたのです。理由は、日本では、輸出する商品を生産するにはクリア すべき多くのステップがあります。商品のデザインの見本を作り、使用する糸をラボで検査 する。デザインを決定後、製造の間に、最終製品を日本に送って検査します。最終の検査に 出す1週間前に、会社によってはひとつのデザインから3-5点を抜き取り検査することも ある。このように3段階のチェックを経て輸出後、再度の検査を行っている。店舗に届いて から店長がチェックし、検査に出すこともある。度重なるチェックを経た商品だけが輸出さ れるので、糸の段階でのリスクを回避したのです。その頃は自社で紡績、糸の染色を行う工 場を持っておらず、2008年まではそんな状況でした」
-その後、国内ですべての加工を行う可能性を模索し、今日のスノウ・フィールズ社設立に 至ったのですね。
「当初から製造業を志向していました。原料から最終製品まですべての段階を国内で行うこ とを目標に掲げ、2008年に紡績工場を買いました。その年の秋には工場の稼働が安定し、 糸の生産ができるようになりました。これで品質の高い糸を供給する環境が整ったのです。 機材を購入した工場と交渉し、日本人専門スタッフにこちらで業務にあたってもらったのは、 目からウロコというか、非常に大きかった。2010年までは羊本来の色、ナチュラルカラ ーの4色の糸のみを生産しました。けれどもわれわれは一所に留まっていたくなかった。カ ラフルな商品を求める消費者のニーズに応えるため、2010年に染色工房をオープンしま した。以来、生産も安定し、順調に生産し続けています。工場も刷新し、2015年からは 新工場で展開しています」
-工場の生産規模について教えてください。年間何トンの糸を生産できますか。
「年間90トンの糸を製造し、40トンの糸の染色が可能です。紡績工場は、日本のエンジ ニアが顧問を務めています。彼らの尽力により、2015年以降、カシミヤ糸の日本への輸 出も始まりました。弊社の糸で商品をつくりたいという企業が出て来ました。日本で要求さ れる品質基準を満たす糸を供給するのは簡単なことではないですが、毎年かなりの量を輸出 し、得意先を得ています。編み・織りの工場は、8万点の商品を生産することが可能です。生産した商品の70%近くが日本、10%が韓国向けです。17%程度をロシアと欧州の市 場に出しています」
-原料はどのようにして牧民から買い取っていますか。
「弊社には原料を供給する協力地域があります。工場が稼働してから5年間、国内のカシミ ヤについてかなり研究しました。当初2年はカシミヤを扱う仲買人から買い付けました。1 年目は良かったのですが、翌年には毛の混じったカシミヤをつかまされて、ひどい目に合い ました。毛の混じったカシミヤで製造し、1 年半にもわたり、商品ひとつひとつから毛を除去 する作業に追われましたよ。原料の品質の重要性が身に染みました。2006年から200 9年にかけて、国内各地の県やソムを訪れ、原料を調べました。東部の県、特にスフバート ル県の原料が有望だとわかりました。ここ10年はドルノド、スフバートル、ヘンティーの 各県から仕入れています」(中略)
-協力関係にある牧民は御社との取引を重視しているでしょうね。年間通じて、どのような 関係を保っていますか。
「先ほど名前を挙げた県の5つのソムの牧民と関係を築いています。多くがブリヤート民族 で、自社の出先が駐在し、原料を買い入れます。春はカシミヤ原毛、夏は羊毛の出荷を手助 けし、秋には肉の販売に協力する。年間通じて牧民と緊密に連携しています」
-直接買い取りは、牧民にとっては利益が大きいでしょうね。
「もちろんです。協力牧民にお金が必要なときは、前金を融通することも可能です。そのた めの基金も設立しました。牧民にとっては銀行から高い利子で借金するより、弊社に頼るこ とができ、柔軟な対応で協力します。政府は牧民にすべてを委ね、自立して自己責任でやっ てゆくことを求めているように思えるのですが、政治が介入すべきこともあるのでは。牧民 を組織し、製造業と牧民の連携を充実させていたとしたら、今頃はもっと発展していたので は。牧民は、春のカシミヤ原毛、秋に家畜を売る以外に収入の道がない状態でしょう」(中略)
-島精機の編機の代理店となったのはいつですか。
「島精機との付き合いは1995年から始まりました。2006年にモンゴルの協力企業か ら日本の編機の中古を入手したいと頼まれて取り次いだことから、2009年までに中古機 を修理して合計62台をモンゴルの企業に販売しました。嬉しいことに、それらは現在も問 題なく使われ続けています。2008年に島精機から私に、モンゴルでの機械修理サービス を担当してほしいとの要望があったのを受け、ニット・フィールド社を設立しました。現在 はモンゴル国内に、新品と中古合わせて480台が入っています(中略)」
-企業の社会的責任や、環境への配慮等が求められています。そうした取り組みはあります か。
「わが社の使命については、牧民との協同がわかりやすいでしょう。現在2県2ソムの2千 あまりの牧民世帯と提携しています。その地域で井戸を8基掘りました。東部には草原が広 がっていますが、水は十分とは言えません。また複数のソムで病院の屋根の更新や、学校の 子ども達の発表会の衣装を新調するなどの支援を行いました。環境については、国内では砂 漠化が深刻になっていることから、羊やヤギの頭数が放牧地の許容量を越えないよう、常に 注意を払っています。現地に家畜を洗う設備も整備しました(中略)」
-事業展開する上での障壁となっていることはありますか。市場が拡大するなかで必要な規 制等はありますか。
「この業界に入って23年になります。(中略)何事も小さいことを積み重ね、時間をかけて 大きな成果につなげることが重要と考えます。来年には新たな製造ラインを稼働させ、さら に多くの国内企業にプラスとなり、業務で協力します。世界でこの業界の最大のプレーヤー は中国です。中国はすぐそばにあり、中国からカシミヤを買う人たちが、モンゴルに立ち寄ろうと思えば、1時間50分で来ることができる。ビジネスの世界では大した時間ではあり ません。高品質の商品を作り続ければ、中国人も興味を示すはずです。モンゴルのカシミヤ の名をさらに広めるチャンスとなり得ます。とはいえ、政治の後押しも必要ですし、明確な 目標に向かって加工業者や生産者が一丸となって取り組むことが重要です。そうすれば、モ ンゴル国が世界市場でナンバーワンとなれる日が来ると思います」
―ありがとうございました。今後のご活躍に期待しています。
「MIATモンゴル航空 機内誌 2018/No1」より
(原文はモンゴル語・英語併記。日本語訳/小林志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください
ノロヴバンザトの思い出 その87
(梶浦 靖子)
大学院に進む
子供の頃は友遠の家に泊まるなど親も学校も許さなかった。大学に入って一人暮らしをし てからも友人宅に外泊することはあまり無かった。それがモンゴルのアリオンボルト家には なぜあゝも気軽に、数ヵ月も滞在することができたのかと思う。調べたいことがあるなど。 必要にせまられたからではあるが、それにしてもだ。やはりモンゴルの人々には、相手を気 軽に受け入れてくれる大らかさがあると思う。それがまたこちらを気軽に行動させるような 気がする。アリオンボルトとはその後も、モンゴル音楽に関する質問と答えなど手紙のやり 取りが続いた。
当初の目的は果たせなかったが、数力月滯在したおかげでまたいくばくかの知識は仕入れ ることができた。しかしそれを分類し系統立てて文章にまとめることがなかなかできなかっ た。 大学からずいぷんと離れてしまったせいか、視点や論点、テーマ、切り口といったものを思 いつきにくくなっていた。そうして、大学に戻ってもっと勉強したいという思いが強くなっ ていった。自分で何かを学ぼうにも、何の本を読めばいいか、といった所から暗中検索で、 何かヒントが欲しかったし、他の人々と接し、議論や意見交換などもするなかで刺激を受け てものを考えたくなった。
そして、モンゴルの人々と接するなかで、「君は大学院に入っているのか?」と尋ねられる ことが多々あった。それに対して「いいえ」と答えるたび、相手は「そうか」と残念そうな 顔をしたものだった。何かを研究する人間は少なくとも大学院生以上であるのが当然、とい った意識がモンゴルでは日本以上に強い。モンゴルでお世話になった人たちのためにも上に 進まなければ、という思いもあった。
それに、モンゴル音楽のことをある程度まとめ、形にしなければ自分の人生に区切りがつ けられない気がしていた。ノロヴバンザドらの日本公演の手伝い等にはほぽ関わることがで きなくなっていたので、自分にできることは、モンゴル音楽の知識、情報をまとめ、発信す ることくらいだろうとも思った。いろんな意味で無茶ではあったが、大学院進学をめざすこ とにしたのだった。
大学院の入試では語学の試験を二ヵ国語受けねばならず、はじめは英語とドイツ語を考え たが、ドイツ語は西洋音稾研究の人たちが絶対的に強いという噂を聞き、迷った末、口シア 語をやることにした。それまで全く触れたこともなかったが、モンゴル音楽の参考文献とし て読まなければならない本がいくつかあったので、覚悟を決め、一から勉強し始めた。ロシ ア語の名詞や動詞の変化の激しさに目を白黒させ、ここまで綴りが違ったら別の単語じゃな いか! と嘆きながら独習L、その後ツテをたどって、ロシアに留学経験のある人に個人教授 をしていただくなどして、なんとか入試にこぎ着けた。合格し。修士課程に入学した時には 西暦 2000 年を迎えていた。
論文の完成
大学院で授業を受け、ゼミに参加し、取り上げられた論文を読み込み、発表を準備し、他 の人の発表を聞き、意見を交わしたりするなかで確かに、考える力が大いに刺激された。 1つの問題に関する様々な視点、論点、いろいろな切り口を教えられ、願った通りに数多く のヒントが得られた。
音楽民族学では、音楽そめものの研究のほかに、音楽を取り巻く社会や人々についての研 究が多いが、その中でも音楽にまつわる倫理的な問題がテーマとして挙げられることが思い のほか多いと知らされた。対象となる音楽をどう扱うべきか、音楽文化とその担い手である 人々にどのように向き合うべきかを考える論考がしばしば見られ、そのたびに、モンゴル音 楽についてはとうかと考えさせられた。ひとり手探りで勉強していては、そうしたことに気 づかなかったかもしれない。本文で先に述べたモンゴル民謡や楽器の実技習得と自分の音楽 活動についての考察も、倫理的なテーマでの議論に接したからこそ思い至ったことだった。 そうした経験がなければ、心に引っかかるものを持ちながらも、あれこれ言い訳を考え、自 分を正当化してやり過ごしていたかもしれない。その意味では大学院に進めて良かったと思 う。
そうしながら、ぱらぱらだった知識、情報を修士論文という形でどうにかまとめることが できた。そこでは文化人類学の初期の理論を引用し論じたので、なんでまたそんな古いもの をと批判されもしたが、たまたまそれが当時の(現在もだが)私の発想を説明するのに一番 ぴったりしていたのだ。それに、文化をとらえ、解釈するやり方は、流行に乗れば良いとい うものでもないと思う。大掴みに全体をとらえようとする方法、顕微鏡を覗くように細部に 分け入る方法いずれも、時と場合に応じて必要ではないだろうか。
ともかく、論文としてまとめることができたという点は良かった。しかし、それと並行し て様々な問題が起き始めていたのだった。
(つづく)
国立第10幼稚園とゲゲーレンセンター
(梅村 浄)
(3 枚の写真撮影)
<国立第 10 幼稚園>
この 3 月にウランバートルに行った時、国立第 10 幼稚園に行きました。正式の名前は国立 第 10 幼稚園・治療保育園と言いますが、長いので、私たちは第 10 幼稚園と呼んでいます。 モンゴル国で唯一の国立障害児療育センターです。古い建物に、毎日、通園バスで 1 歳から 7歳までの未就学児 123 人が通って来ます。ほとんどはウランバートル市内からで、遠方から 来る子は 10 人もおりません。このうち 100 人以上が脳性麻痺にてんかん等の合併症を伴った 子どもたちです。身の回りの世話をして、保育指導する先生、理学療法士、作業療法士、言 語聴覚士、調理師、バスの運転士、守衛を加えると 60 人あまりのスタッフが、朝から夕方ま で、子どもの保育をしています。
外気は-10°Cだというのに、顔見知りのマネジャーMu さんは大柄な体に黄緑色の半袖カッタ ーシャツ姿で迎えてくれました。園長室で園長も一緒に話しました。建物は古いけれど、暖 房もあり、便座が壊れた水洗トイレでも、ちゃんと水が流せます。若者からベテランまで、 多くのスタッフに恵まれて、育っている子ども達を、ちょっと、羨ましく感じました。
運動障害がある子どもたちの7割は普通食を食べています。麻痺が重い 3 割の子ども達は、 うまく噛んで飲み込めません。メニューを工夫し、食べやすい ように流動食、きざみ食を用意して、一口づつ、スプーンで食 べさせます。毎月の体重測定結果を見せてもらいました。子ど も達は通園を始めて3ヶ月後に皆、1kg から 2kg 太っていました。
(朝ごはんのカーシとフルーツと紅茶) 018.3.1 第 10 幼稚園にて)
私達も朝のお茶と昼食を園長室でご馳走になりました。朝は カーシ(セモリナ粉を煮て、牛乳、油と砂糖を加えた流動食と果物と紅茶、昼は肉入り野菜スープに、ボーズ()小麦粉の皮に羊肉ミンチを包んだ蒸し饅頭) とパンを食べました。うーむ、これでは体重は増える一方でしょう。私達も危ない、危ない。
ニンジンチームの理学療法士 Mo さんと第 10 幼稚園で 2 日間の診察、運動指導と、食事指 導をしました。首が座っていない子に上を向いたまま、食べ物を流し込むと、むせて、気道 に食べ物が入りこみ、肺炎になりやすいのです。座った姿勢を保って、唇を閉じて、ごっく んと飲み込ませる練習が必要です。お茶でも、食べ物でも、とろみをつけてあげると飲み込 み易くなります。
<赤ちゃんのうちからリハビリ開始>
脳性麻痺の赤ちゃんの診察を頼まれました。生後7ヶ月の男の子は、まだ小さいので通園 はしていません。お母さんとおばあちゃんが付き添って来ました。帽子を被り、大きなおく るみにしっかり包まれて、おばあちゃんの腕に抱きかかえられています。
広いリハビリ室は、理学療法士の Mo さんが指導している親子と見学者があふれて、ゆっく り話ができません。個室に移動、通訳を介して診察を始めると、泣き出しました。担当して いる理学療法士が立ち会いました。
このお子さん以外にも、2 人の子を診察して分かったことがありました。
お父さんが日本で働いているので、1 歳を過ぎた脳性麻痺児の診察を NPO ニンジンの整形外 科医にお願いしていたが、叶わず、この機会に、診察を受けたいという電話があり、忙しい 日程を割いて会いました。この子は毎週、ウランバートルにある健康医科大学のリハビリ外 来に通って指導を受け、毎日、お母さんとお祖母さんが家で、指導されたメニューを実践し ているとのことでした。
モンゴルに行く前に、こども診療所で診察したウランバートル在住のお子さんは、日本で 1歳過ぎに大学病院を受診して、脳性麻痺の診断を受け、定期的なリハビリを家庭で実践して いました。
2015 年秋までは、モンゴルの理学療法士は数が少なく、ほとんど大人を指導している状態で したが、その後、対象を乳幼児期の子どもに広げ始めていることが、今回の診察から実感で きました。
モンゴル政府は障害児の早期発見、早期療育を政策に取り上げて、積極的に進めています。JICA の特別支援教育事業(START)は試験的にウランバートル市内の一つの区で、生後1ヶ月 からの乳幼児健康診断を行なって来ました。健康診断で見つけた障害の疑いがある子どもを 集めて、月1回の親子教室を開いているのも、その政策を実現するための援助の一環でしょ う。
<牛乳パック集めの旅>
子ども達の診察と指導が終わって帰る前に、マネジャーから ぜひみせたいものがあるからと引き止められました。昨年 11 月、NPO ニンジンは草の根事業 がリハビリ、教育指導を行なっている 2 つのセンター(ゲゲーレンとサインナイズ)からサ ブリーダー候補を1人づつ、第 10 幼稚園のマネジャーである Mu さん、障害児親の会本部の マネジャー、地方の親の会のリーダー、合計 5 人のモンゴル人を招いて、日本の障害児療育 センターの見学、実習を行いました。
Mu さんは東京にあるいくつかの障害児センターで、牛乳パッ クを使ったたくさんの障害児用の椅子を見かけました。帰国後、彼女が音頭を取って、第 10幼稚園では大々的な牛乳パックつめが始まりました。通園児の両親、守衛さん、大きなレス トラン、他の幼稚園、外国(ニンジンの私達が集めて持って行ってもらったもの)から運ん だ牛乳パックを、第 10 幼稚園に集めました。まず、作る作品毎にチームを作り、1ヶ月間で 必要な牛乳パックを集めて、作成しました。お互いに競争するあまり、完成を目指して夜遅 くまで残業していたため、家族からのブーイングがあったと聞きました。色とりどりの椅子 やベンチ、おまる、机、昇り降りの訓練をする階段を順番に見せてくれました。素晴らしい!
昨年、12 月に 5 人のモンゴル人招聘団が帰る時に、日本で集めた牛乳パック入りバッグを お土産にしようとした時は、荷物が増えるからと嫌がられました。ちゃんと自分たちで集め て、作製し活用できているんですね。Mu さんが私達に見せようとウズウズしていたことが分かりました。日本で集めて、まだ手元にある 250 組の牛乳パックは、これからコンテナーに積んで船に載せ、列車で送ることが決まっています。モンゴル人の運送会社を紹介され、無料で送ってもらいます。ゲゲーレン、サインナイズ、2 つのセンターでも新しい姿勢保持椅子ができ上がるのをまちましよう。
(牛乳パックの旅を説明する M さん 2018.3.1第 10 幼稚園に)
<ゲゲーレンとサインナイズに理学療法士の派遣を>
私たちが支援している障害児センターの一つ、ゲゲーレンセンターの入り口に 3 枚の看板が かかっています。2016 年 9 月にウランバートル市チンゲルティ区にある家庭病院の建物を借 りて、壁にペンキを塗り、玄関にスロープをつけ、自分たちで内装工事をしました。費用を 支弁したアメリカとヨーロッパの NGO 団体、それに日本の食品会社の名前が記されています。 訪問する度に、壁の青色と屋根の緑色に映えている3枚の看板をチラと見て、子ども達を支 える人々のことを考えます。
それ以来、1 年半、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんが力を合わせて、子ども たちを育てて来ました。当初、来ていた子どもの内、3人がグループから抜け、新しい子ど もがそこに加わりました。抜けた一番多い理由は「お母さんが仕事に出て、連れて来れなく なった」というものです。訪問保育を手伝ったことのある私たちの通訳である看護師からは、 重度障害の子どもであっても、鍵をかけたゲルに置いて、仕事に出かけなければならない現 実を聞かされました。家庭でお母さんが、リハビリや教育ができるのは、お父さんや、その 他の家族の経済力に支えられているからですね。
ゲゲーレンは全くのボランティアで活動しているリーダーの力に支えられるところが大で す。「お給料がもらえたら、かかりっきりで運営ができるんだ
けど」とのつぶやきを聞かされました。給食の費用は一時期、ワール ドビジョンから食材が寄付されていましたが、今は途絶えてい ます。また、私達が渡航して指導できるのは、年に3回ですか ら、その間、リハビリを指導する理学療法士がいません。第10 センターのように、朝から夕方まで預かって保育、療育し てくれる場所には、ほど遠い場所です。
それでも。。。 私達が訪問した時に迎えてくれたある女の子は、一回り背丈が伸びて、肉付きもよくなり、以前は動き回っているので おばあちゃんが後ろから抑えていたのですが、今度会ったら、すっかり落ち着いて、机の前 に座り、鉛筆を持ってなにやら紙に描いている姿を見て、本当に驚きました。 「ゲゲーレンがあるから、この子はこんなに成長したんですよ。本当に感謝しています」と いうおばあちゃんのことばに、うなずく私達です。多少の違いはあっても、もう一つのサインナイズセンターの状況も、これと大差ありません。
(ゲゲーレンの3枚看板 2018,2,28)
<労働社会保障省の事務次官との面談>
第 10 幼稚園には「せめて月に1回でもいいから、理学療法士を派遣して下さい」とお願 いしているのですが、ウンとは言ってもらえませんでした。草の根事業のもう一つのカウン ターパートである国立リハビリテーションセンターに申し入れをしましたが、「自分たちの 理学療法士は産休に入って、子どものリハビリ担当者がいない。誰か居ませんか?」と返っ て来ることばは同じでした。
やむにやまれぬ気持ちで、知り合いのモンゴル人にメールを送りまくりました。ようやく学 び続けたモンゴル語力を発揮する時が来たようです。あるルートをたぐって、4 月の渡航時に 労働社会保障省の事務次官との面談を実現することができました。大臣、副大臣の次に力を 持っている方です。
草の根メンバーと通訳、2 つのセンターのリーダーと全国親の会本部の代表と一緒に労働社会保障省に出かけて行きました。まだ 30 代の若い事務次官は、関係者の間では理論家で誠実 な人柄という評判でした。
私たちの話を聞き
「モンゴルの子ども達のために力を尽くしていただいて、本当に感謝して居ます。モンゴル 政府としてできるところから手をつけて行きましょう。来週中には関係する部署のスタッフ を集めて、3 人のモンゴル人リーダーと話をしたいと思います」との返事をもらいました。しかし「来週」とは随分長い時間のようです。1ヶ月経った今日まで、まだ、物事は進展し て居りません。次はどんなアクションをすればいいのか、日本で策を練りつつ過ごしている 今日この頃です。
(2018.5.24)
事務局からお知らせ
7月、いよいよ夏本番ですね・どうぞみなさま、これからの暑さに負けないでお過ごし下さ い。次号のお届けは9月1日号になります。8月号はお休みです。
モンゴル学習支援事業の子どもたちからの手紙は、紙面の都合で掲載できませんでした。
会員 中西史子さんのヤトガ演奏会のチラシです。⇧
9月8日(土)臨時総会の予定です。
後日、委任状はハガキ、メールなどでご案内をいたします。
よろしくお願い申し上げます。
(事務局 斉藤生々)
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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI
事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430
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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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