■NO 197号 モピ通信

■NO 197号 2018年10月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

『Voice from Mongolia, 2018 vol.46 』 

  ノロヴバンザトの思い出 その89

  バッタとウツボグサの草原を行く

  モンゴル草原の旅報告 その2 

  石井さんからの便りです

  モンゴル国立子ども宮殿少年少女演奏会ご案内

  事務局から報告

 

 

『Voice from Mongolia, 2018 vol.46 』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「モンゴルの草原には多種類の植物があり、例えばタンポポひとつをとっても数多くの亜種が存在する。その中で、海峡を越えられたものだけが、日本で見られるのです」

――生態学者、吉良竜夫さん(1919-2011)

「昨日から大雨が降り、洪水が発生しています」。7月中旬、モンゴルの首都郊外の畑作農家、アタラーさんか ら連絡が入った。西日本豪雨のニュースに、フェイスブック経由で現地の友人たちから「何てこと」「地元(筆者 は京都市出身)は大丈夫?」と連絡をもらったのはつい1週間ほど前だったのに。昨夏はひどい旱魃で、かんが い用水の争奪戦だったのに、今年は畑の中を濁流が流れ、村の入り口の橋も壊れてしまった。被害は同県のみな らず、モンゴル国の西端、カザフスタンと国境を接するバヤンウルギー県では3日にわたる豪雨による浸水で、 ウルギー市内の2千人以上が避難。東端のスフバートル県でもゲル7棟、車2台が流されたという。7月下旬に はアルハンガイ県内でも大雨で洪水となり、30家族のゲルが流されたという。 

中国・モンゴル国境の南、内モンゴル自治区の研究者包(バオ)さんは、この夏、フフホトから東へ、トナカ イを飼うエベンキ族が暮らす大興安嶺の麓近くまで、車で数千キロを調査で横断して来た。「内モンゴルでも雨 が多かった。乾燥地帯ではひとたび雨が降るとすぐに洪水になるのです。」

西日本豪雨のニュースを見て、被害エリアの広がりに前代未聞と感じたが、大陸でも広域に雨が降り注いでい た。何千キロ離れ、海があっても、同じ惑星の上にいる私たち。豪雨、台風、地震…自然災害の猛威、頻度が増 している気がするのは、日本だけだろうか? 

8月下旬、雨の後の草原は緑の絨毯となっていた。牛や馬たちは気のせいか、いつもの年より幸せそうに見え、 何種類もの花々が、うつろう季節を惜しむように咲き競っていた。出張で来ていることをすっかり忘れ、どの花 を撮影しようかと目移りしながら、歩いた。 

今は亡き吉良さんに、たった一度、お目にかかったときの言葉がよみがえって来る。そのひとことで、大陸か ら東へ、彼方に飛び石状に続く日本列島が見えた気がした。長い氷河期の終わり、今から2万年前のウルム氷期 には、氷河が発達し、海水面は130-140メートルも下がったという。ベーリング海峡、アリューシャン列 島、千島列島、間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡、朝鮮海峡など、海が干上がって出来た「陸橋」を、種たちがこ ちらを目指して渡って来る――。世界の植生を研究した吉良さんが最後のフィールドに選んだのは、モンゴル国 北部のフブスグル湖畔。理由のひとつは、人の暮らしによる影響が少なく、自然環境が保たれていることだった。 

あ、もう朝食の時間だ。朝露に濡れたスニーカーには、子どもの頃に「ひっつき虫」と呼んでいた棘のある種 子がびっしり。オナモミさん、私と一緒に、飛行機で海峡をわたってしまおうと?少々申し訳なく思いながら、 小さな種たちをひとつひとつ引き剥がした。 

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「今月の気になる記事」 

砂漠化や土壌浸食につながる過放牧を理由に、遊牧民による放牧地利用を制限する? 法案の内容は不明だが、放牧地利用をめぐる法制度は遊牧の伝統、生活様式に直接影響する問題であるだけに、 気にかかる。以下の記事で、NGO代表は鉱物資源開発による環境破壊を指摘しているが、「地方自治体の長た ちが環境NGOと手を組み、鉱山企業にタカる」と、NGOを非難する記事(2018年9月13日付、Polit.mn に掲載)もあった。反対運動により、モンゴルから外国投資が遠のくことへの懸念が述べられていたが、目の前 のカネを優先し、資源を掘り尽くした後にはどのような景色が広がっているだろうか。

L.ボル「放牧地についての法案で、遊牧文明が根絶やしにされようとしている」
(筆者:Ч.オルドフ)

 秋の国会で土地法、なかでも放牧地の法案が議論されようとしている。このことについて、NGOバヤンシャル ガの L.ボル代表に話を聞いた。 

-土地と放牧地をめぐる法案の論議がこの秋から始まるとのことですが、環境NGOはどのような立場を取って いますか。 「国会ではこの問題について2016年以降、動きがありませんでした。2017年にG.テムーレン議員が法 案を手に駆け回るようになり、議論が始まりました。放牧地や土地問題について何も知らない若い議員が突然こ のような動きを見せたのは、何か裏があると見られます。市民団体もこの件に注目して、調査を行っています」 

—土地法案に関連して注意すべき、国土や空気に関する、どのような情報をお持ちでしょうか。 「近年の世界的な温暖化による気候の変動で、わが国の平均気温は2.14度、上昇しました。国土の72%で 砂漠化が進み、放牧地の劣化、生物種の絶滅が進んでいます。ウムヌゴビでは特に状況がひどい状況であるこ とが、水・気象・環境の調査機関、自然生態学研究所の調査により、明らかになりました。国連の調査も、モ ンゴルの国土の80%が砂漠化し、水不足が深刻であるとの結果でした。これにより、放牧地が許容できる家 畜の頭数を守るという方針がありますが、牧民側には意識が十分でなく、砂漠化により生態系が崩壊に瀕して 

いる現状に警鐘を鳴らしています。 モンゴル国の国土の82%が、牧畜の放牧地として活用されています。国全体で2800万頭が放牧地の許容 する頭数ですが、実際の頭数は6千万頭に及んでいます。自然環境に悪影響を及ぼし、放牧地が再生できない、 砂が移動し、草食動物、野生動物が数を減らしていると、外国の専門家や世界銀行、スイス支援機構等の資金 提供で放牧地に関するプロジェクトに取り組む国内の研究者も、各県やソムで試験を行い、この問題を盛んに 伝えています」 

—地球温暖化や砂漠化、水不足はただモンゴルの問題でなく、世界全体、人類にとっての差し迫った危機では? 「それはそうとして、先に述べた調査で砂漠化の原因をすべて、放牧地の家畜の増加と結論づけていることは、 あまりに一面的で実状にそぐわないと考えます。偏った調査結果に基づいて、何百、何千年と厳しい気候によ 

る幾多の試練を乗り越えて受け継がれ、繁栄した牧畜の営みをなきものにする政治判断をし、放牧地法案が通 過しようとしていることは、モンゴルの、かけがえのない遊牧文明を滅ぼそうとする犯罪的な行為です」 

—モンゴルの砂漠化、放牧地の劣化、生物種の絶滅、野生動物の減少を引き起こしている原因をどのように考えていますか。

「過去20数年にわたり、鉱物開発が無秩序に展開されたことの影響です。なのに、上記の調査に、環境破壊 のこの大きな原因に全く触れずに、結論が出されているのです。誰の発注による、どのような目的で調査を行 い、どのような政策を実施するのに使われようとしているのか、疑惑を抱いています。自然環境省、専門監査 庁が共同で行った調査によると、鉱山企業が旧式の技術を用いて、4つの県10あまりのソムにある120か 所で53.3ヘクタールの豊かな土地、河川がシアン化ナトリウム、水銀等の化学物質によって汚染したこと も確認されています。国内の生態系に悪影響を与え、1 万4565ヘクタールを鉱物資源採掘により破壊し、 そのうち4千ヘクタールの再生に何億トゥグルグもの税金が投入されたとの調査もあります。鉱物採掘に使用 される重機や輸送車両が、鉱物を積んで未舗装の土地を行き交い、何本もの分かれ道が刻まれ、肥沃な土壌を 浸食させるとともに、まき起こる埃が放牧地に降り、砂漠化が進行し、牧民の生活基盤が失われています。異 邦人と政治家がカネのために結託し、先行きの見通しなく、政策を実施し、古来人々が敬意を払い、大事に守 って来たふるさとの自然や、受け継がれたモンゴルの伝統がなきものにされようとしているのです」 

(2018年8月21日)

ポータルサイト Polit.mn 

http://zms.mn/l-bor-belcheeriin-tuhai-huuliar-nuudliin-soyol-irgenshliig-ustgah-gezh-baina/ 

(原文モンゴル語・日本語訳/小林 志歩)

※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください

 

 

  ノロヴバンザトの思い出 その89

(梶浦 靖子) 

大学院を去る 

ノロヴバンザド から話が聞けたおかげもあり、修士論文はどうにか形をつけることがで きた。そして 2002 年には順調に博士課理に進んだのだが、そこからまた体調が悪化した。 頻繁に動悸がして、それが気になり夜 眠ることができなくなった。寝床に入り目を閉じても何時間も眠りに入ることができず、そのまま朝を迎える。 起き上がるとげっそりと疲れ 切っている。やがて、今夜も眠れないのでは、と眠ること自体に恐怖を覚えるよ うになってしまった。 

まったく眠れない日が続いたかと思うと、前ぷれなく眠ってしまう日もあった。そんな 時は、まるでそれま で不眠だった分を取り返すように際限なく眠ってしまうのだった。そういう状態では大学生活もおかしくなって くる。午前中にゼミがある日に、昼過ぎまで目 が覚めないことが何度かあった。当然、前もって欠席の連絡を することもできない。それをまるで「不良化の兆候」のように扱われた。十代の子供ではないのだが。ゼミでの 発表の時など、動悸でうまく声が出せない。そうすると容赦ない懸声が飛んできて、さらに動悸がひどくなるの だった。 

体力が持たないので準備に時間のかかるゼミ形式の授業を減らし、講義の授業に替えてもらえないかと相談 したが認められなかった。体調がおかしいことを訴えても取り合ってもらえず、大学院を目指した当初の気持ち を思い出せ等、焦点のずれた言葉が返ってくるばかりだった。 

人間関係でもあれこれ問題が生じた。会議が成り立たなくなる人もいた。私が何か話すと、話の半分も聞かず に、それはああでしょうこうでしようと言い放って話を終わらせようとする。こちらの話の結論はまったく違う ので、いえそうではなくて、と話を続けようとすると、じゃあ何なんですかといきり立つ。あなたの話を聞くの はまった忍耐力が持たない、吐き捨てるように言う 。とても 会話にならなかった。狂犬を相手にしている様だ った。神経がすり切れ、軋んでいく気がした。やがて呼吸まで苦しくなり、いたたまれなくなって行った。退学 届を出すほかなかった。 

訃報を聞く 

博士課程に進んで不眠や動悸その他の最中にあったとき、ノロヴバンザドらはまた来日していた。しかも 私 が大学へ通う通り道にある音楽ホールで公演していたと後になってから知った。ノロヴ本人や関係者からも来日 について連絡はなかったし、ふらふらと前後不覚のように歩いていたので、音楽ホールの案内板なども目にはい らなかったのだ。ノロヴパンザドが亡くなったのはその公演の数ヵ月後、2002 年 12 月で死因は肺炎ということ だった。しかし 私が彼女の死を知ったのはそのさらに数ヵ月後、年が明けてしばらくたってからだった。しか もモンゴル関係者ではなく、その知り合いの知り合いくらいの人を通して知らされた。いろいろ聞いて回ると、 どうやら亡くなる少し前、かなり重体になったところでノロヴバンザドは家族に連れられ来日していたらしい。 一緀の望みをかけ日本の病院にやって来ていたが、治療の甲斐なく帰国し、程なくこの世を去ったという。 

重体のノロヴ達を案内した日本側の人間は知らない顔ではなかったので、なぜひと言知らせてくれなかったの かと尋ねた。急だったから、すぐに帰ってしまったから、とのことだった。当時私は携帯電話を持っていなかっ たが、留守番電話はあったので、メッセージ を残そうと思えばできたはずだったが。 

なぜ最後にひと目会うことも、連絡をもらうこともできなかったのか、今もってわからない。どうしてノロヴ バンザド の日本での仕事にはほとんど関わることができなくなったのか、また知り合いのモンゴル語通訳の日 本人の面々とも連絡がつかなくなったのか、私にわかることはほとんどない。 

生前、ノロヴバンザ本人からの連絡も減っていた。私自身の音楽活動などのために、彼女の信頼を損ねていた ことはあったかもしれない。その他、日本でノロヴバンザドはまだ十分に知られていないから、もっと知られる ような活動をするべき、といったことを彼女への手紙に書いたことがあった。それがあるいは彼女を軽んじる発 言のように思われただろうか等、考えられることはいくつかある。しかし修論提出の前などは会って話をしてく れたのだから、信頼を損ねることがあったとしても、全面的にではなかったと信じたい。 

思い返せば、モンゴル関係で知り合った日本人の何人かと袂を分かったこともあった。 私自身、立派な人間 ではないから周りに迷惑をかけてしまったこともあるかと思う。だが 私にもいくらか言い分はある。一方の話 だけですべてを決めつけずにもらえたらという気はする。 

ノロヴバンザドに聞きたいこと、教えてはしいことはまだいくつもあった。彼女の歌声でモンゴル民謡の埋も れた山をもっとレコーデイングしてほしかった。彼女に舞台でやってみてほしいアイディアもあった。彼女に舞 台でもっと売れてほしかった。日本の人々にもっと知られてほしかった。私が参画したとしても成果が上がった どうかわからない。しかし 自分も彼女ももっと若いうちに、自分の力をそうした仕事に注ぎ込みたかった。彼 女の死 によりその可能性はすべて断たれた。なぜ、なぜもっと、という思いは溢れて止むことが なかった。

(つづく) 

 

 

  バッタとウツボグサの草原を行く

(梅村 浄) 

―2018 年 7 月 27 日〜8月1日 NPO ニンジン車椅子を届ける旅に参加してー

<ウツボグサ> 

日本から運んだ 20 台以上の車椅子の大半をウランバートルの障害児親の会に届けた翌日、チャーターした観 光会社のバスに残りの 3 台を載せて、ロシア国境に近いセレンゲ県に向かいました。 

ウランバートルからダルハンへの道は平坦で舗装されていました。並行してモスクワとウランバートルを結ぶ 列車が走っています。ロシアから輸入した木材を運ぶ貨物列車を見かけました。モンゴル北部に広がる森林・草 原地帯で、比較的降水量がある地域です。小麦、ジャガイモの畑が広がっていました。この他にもニンジン、玉 ねぎは国内生産で需要を賄っています。 

2011 年の夏にモンゴル東部を訪問した時、朝から気温が 40°C近いメネン平原をランドクルーザーで走ったこ とがあります。枯れた草が広がる平原に走るガゼルの群れと、飢えと渇きで亡くなった仔ガゼルの姿を、諸処で 見かけました。 

今年は雨が多かったせいでしょう。バスの窓からは、行けども行けども 両側に広がる緑が地平線の向こうまで広がっていました。紫色の霞のよう に見えるのは何? 

バスを止めて降りてみることにしました。
30 歳から 70 歳代まで 13 人のご一行様です。2車線の道路を行き交う車が 多いので、ガイドさんは気配りを忘れません。おっとりした日本語で 「あの車が通り過ぎたら渡りましょう」と伝えてくれます。 

紫の霞に見えたのはウツボグサの大群でした。手に持った日本語のモンゴ ル植物図鑑のページを見せてくれました。日本でもあちこちで見かける花 ですが、こんな大群を見たことは後にも先にもなかった。三々五々、やや 上り坂になっている右側の丘に登りました。写真を撮る者、遠くへ歩いて 行って、青空の下で用をたす者。 

セレンゲ県の県庁所在地ダルハン市は、モンゴル第2の都市です。道をしばらく走るとスーパーマーケットや ガソリンスタンド、食堂があってトイレには不自由しません。大方は地面に深い穴を掘って板を渡し、周りに小 屋を建て、しゃがんで用を足すタイプ。床は張ってあっても落っこちそうでおっかない。腰掛け式の水洗トイレ は稀です。青空トイレの気持ちよさに目覚める機会となりました。 

<ホルホック> 

正午過ぎに目的地の村に着きました。
NPO ニンジンでは、昨年 11 月にモンゴル障害児親の会から5人の女性を招い て、東京で障害児保育研修を行いました。その中の一人、A さんが、青いハ ダックにアーロールの入った皿をのせて迎えてくれました。ハダックは祝い 事や歓迎の意を表す時に必ず使う領布(ヒレ)です。ヨーグルト状に発酵し た乳を乾燥させて作ったアーロールはモンゴル人の夏の常備食。お客はそれ ぞれ1つを取っていただきました。硬くて酸っぱい味がします。 

早速、ダルハンの障害児親の会のお母さん宅に招かれました。屋根のつい た木造の家に、靴のままあがります。ホルホックが用意されていました。モ ンゴルでは客人をもてなす時には1頭の羊を屠って、この料理を作ります。 アルミ缶に少量の水を入れてから、羊肉とジャガイモ、熱く焼いた石を加え、 蒸気がもれないようにきっちり蓋をしめ、直火にかけてつくります。塩味だけで他の調味料は入れません。大皿 から直にとって食べる肉はホロリと口の中でとけて。会のメンバーの青年が作ったキュウリ、トマト、レタスは 新鮮でパリッ。お茶に牛乳を混ぜたスーティーツァィは塩味でした。 

テーブルには大皿に載せたアーロールが出ています。白い食べ物(乳製品)は家畜が出産哺育中に出す乳を人 間がいただいて作る、遊牧民の夏の食物です。1 日に数回、絞れば絞るほど乳を出してくれる牛、羊、山羊、馬、 ラクダの母達に感謝です。

部屋が広くはなかったので、会の皆さんと食卓を囲めなかったのが残念でした。3 人の子どもの医療相談にの ってから外に出てみると、車輪を手で回して自力で動かす車椅子をもらった脳性麻痺の青年は、暑い日差しの道 で早速乗り回し始めていました。目がよく見えないので、溝にはまりそうになってあわや!という所をお父さん に抑えられていました。満面の笑顔で嬉しそう。 

その後、セレンゲ県の建物の一角で活動している障害児親の会ダルハン支部の親子に会いました。看護師であ る A さんは定年退職後、悠々自適の生活を送ろうと思っていましたが、昨年日本の障害児保育の現状を見て考え を変え、ダルハン市で活動を始められました。30 年間にわたって仕事をされてきた実績と人柄が認められ、各地 にグループが広がっています。

<バッタの草原に泊まる>

ツーリストキャンプに泊まり、翌日は、アマルバヤスガラント寺 院を訪問しました。古いチベット仏教の寺院です。1920 年代モン ゴルは社会主義国となり、宗教は禁止され寺院の多くは破壊されま した。殺害されたラマ(チベット仏教の僧侶)は数万人にも上りま した。1990 年代に市場経済に移行後、国内の他の寺院と同じく、 アマルバヤスガラント寺院も再興され、この日、大きな伽藍であげ られているお経を聴くことができました。20 歳のラマが案内役で した。ラマになるための寄宿舎付きの学院があり、6 歳から修行で きるとのこと。 

寺院の周りに広がっている草原には、数百頭の山羊と羊が草を食 べていました。先頭の一群れの山羊が動く方向に、川の水が流れる ように動いていく姿が壮観でした。牧民はバイクで後を追います。馬ではなくバイクで。 

ぼーっと風景を見ていると、あれっ!茶色の小さい動物が、フサフサとした尻尾を揺らせながら走って行って、 あっという間に見えなくなりました。あっちにもこっちにも。。リスのようです。草原にあいた5cm 程度の穴に、 長い枯れ草の茎を突っ込んで見ました。1m 以上は追跡できず。大地の下に通路と棲家があるのでしょう。 

耳をすますと、ジジジジジー、ジー、昼間の草原はバッタの声で賑やかです。うす茶色のもの、茶色に黒い模 様の羽のもの、いずれも草に紛れ土の色に紛れて、敵の目を欺き、近づくと後ろ足でピョーンと飛んで逃げて行きます。 

浅い川で数 10 頭の馬が水を飲んでいました。早速、皆で下りて記念写真をパチリ。遊牧民のゲルを訪問した 後、その家で飼っている馬に乗せてもらうことができました。私は 2008 年に、それまで 5 年間通っていた乗馬 クラブで落馬し、右鎖骨を複雑骨折しました。仕事を休むこともなく自然治癒したのですが、家族から「乗馬だ けはしないで」と言い渡されていました。10 年間は我慢していました。家族に迷惑をかけるのもあり、自分でも 怖くなったのもあります。 

そろそろ、解禁してもいいかな?今回は同行した娘の禁止の声を振り切って乗りました。まず3人のグループ です。モンゴルの馬は背が低く、脇から手伝ってもらうとすんなり乗れました。鐙を合わせて、背をすっと伸ば します。 

 

「うん、思い出したぞ」 

熱くてしなやかな背中の感触。手綱を右手で持ち、左手で鞍の前の突起を握ります。牧民の男性がそれぞれの 馬に綱をつけて伴走してくれるので、心配はいりません。2人の男子小学生が流れるような手綱さばきで同行し ました。遠くには低い山が見えます。流れている白い雲。ゆっくり並足で馬達は歩きます。ガイドさんは2キロ あまりの行程を徒歩で、皆に注意をしながら付き添って歩いてきました。2グループに付き合うのですから、結 構な距離です。 

「一人でもお客さんに事故がないように務めるのが、私の仕事ですから」 

ここまで体を動かすガイドさんに会ったのは初めてでした。舗装した道から離れて、ツーリストキャンプまで のアップダウンの激しい山道を、注意深く運転してくれた運転手さんとのコンビに支えられた、今年のモンゴル の旅でした。 

他のあれやこれやは、またの機会に。(2018.8.15)

 

 

  モンゴル草原の旅 報告 その2

(モンゴルの旅参加者・小山 節子)

還暦を迎える前から夢の一つで有った「モンゴルの大パノラマの高原で乗馬」早くも実現する時が来まし た。四年程前のある日、MOPI の村上さんとお話する機会が有り、モンゴルと聞いて、つい半分冗談で、「私、 モンゴルで馬に乗るのが夢なんです」 などと口走ったのだが、この一言がキッカケとなり、本当にモンゴ ルに旅立つこととなりました。 

私の調べに依ると、モンゴル馬は、日本のサラブレッドなどと比べ、小柄で 脚が短いとのこと。 ならばさぞや乗り易かろうという、私の期待を現地のお 馬さんは裏切らない。 

右も左も分からない一人(と一頭)で出掛けられない私は、当然調教のオジさ ん(と言っても私より多分年下)と二人(と二頭)で出発。が、ここで新たな問題。 このオジさん、モンゴル語しか話さないから会話は勿論、たぶん馬の調教もモ ンゴル語だよね。さあどーする!?

仕方なく黙って前後で常歩していたら程なくオジさんの口笛。お気に入りの 歌か何かなのかなーなどと思いながら聞いている間に、そこはお耳の良い私、 少し覚えたよ。真似して何十年ぶりかの口笛に挑戦! 

それまで無表情だったオジさん、白い歯を見せてニヤリッ。 気を許したのか、気分が良かったのか、煙草を吸い始めました。イヤイヤ、コ レってどーなの?一応私、お客さん、それにお馬も煙草嫌いでしょ!何よりも 私が煙草の煙りが駄目なんです。風向きで丁度私に煙りが来る~。 

でもまあ此処はモンゴル。気を取り直して私、お馬に合図してオジさんを追 い越してやったわ!!(行き先も分からないのに) オジさん慌ててうしろから追いかけて来た. モンゴル乗馬。マイブームになりました!! 

焼け木杭に火が付いた? 

(モンゴルの旅参加者・岡村 眞)

1、 きっかけ 

はじめてのモンゴル訪問。きっかけは、私の出身高校の同窓会行事の 場でたまたま耳にした、二人の先輩の会話であった。モンゴルに行くと いう。詳細は未定のところもあり、いささか不安であったが、その場で 同道の意思表示をした。本年 1 月中頃のことである。 

実のところ、私は半世紀前に学生時代に 4 年間モンゴル語を学んで いる。当時は日本とモンゴルの間に国交はなく、専攻語を活かす卒業後 の道は限られていた。中央アジアから北アジアの歴史・民俗・文化に関 心対象を広げ、進路を探ったが自身の能力が及ばなかった。以後、モン ゴルとの関わりは封印し、全く別の道を歩んだ。 

このような過去の葛藤があって今回の旅に少し躊躇するところもあ ったが、自身の年齢を考え、また一般ツアーにはない目的意識の高さに惹かれ、パンドラの箱を開けることにし 

た。旅を終えた今、箱から昇り立つ香気に目まいを覚えている。少年のなんと老い易きことか。 

2、人 口

私がモンゴル語を学んだ 1960 年代の終わり、モンゴル(当時は、モンゴル人民共和国)の人口は 120 万人、 神戸市の人口に相当する、と教えられていた。それが今は 312 万人。約 2.5 倍である。そして、都市化の勢い がとまらない。ウランバートル市の人口は50年間で 5 倍の増加。現在の人口は 138 万人である。全国の都市人 口の比率は 71%。民主化後の伸びが著しい。この種のデータもモンゴルの国の統計局にアクセスすれば簡単に入 手できる。秘密のベールに包まれていた時代とは隔世の感がある。

3、 モンゴルとベトナム 

モンゴルと同じく近年、市場経済を推し進めている国の一つにベ トナムがある。私はそのベトナムで数年間都市計画の仕事をしていた ことがある。今回の見聞をふまえ、両国を比べてみよう。 

モンゴルはベトナムと同様に若者の国である。人口ピラミッドを みると、25~29 歳とその子ども世代の 0~4 歳の占める割合がもっと も大きい。都市化の急激な進展と都市インフラの後追い、モータリゼ ーションと郊外大型店舗の展開、起業機会の増大と貧富格差など両国 は軌を一にしている面がある。その一方で、モンゴルは気候の厳しさ と低人口密度、反宗教政策の反動によるラマ教等の活気、内政の安定 度といった点では、ベトナムと大きく異なる。 

ベトナムといえば、バイクの横溢が知られているが、モンゴルで はバイクをあまり見かけない。それはモンゴルの国土の広さに加え、冬季は道路凍結でバイクがほとんど役に立 たないためであろう。 

4、交 通

今回現地スタッフに教えられて興味深かったのは、日本から中古車として大量に輸入販売されているプリウ スの存在である。地方からウランバートルに移り住んだ人たちは住居の充実よりも都市での移動手段の確保が 優先するという。大きさが手ごろで、燃費もよいので中古プリウスは至る所で走っている。ところが、彼らは プリウスを馬のように駆るので、運転が粗い。強引な割り込みに肝を冷やすことがたびたびあった。モンゴル の「プリウス」はやがて無謀運転の代名詞に成り下がってしまうのではないかと危惧するほどである。

交通事情についてもう一つ。ウランバートル市内の歩行者信号は青信号の点灯時間が日本に比べてかなり短 い。老人にはやさしくない信号である。車の流れを優先させているのか、それとも若者の街ということか。

5、水

ウランバートル市は水不足が懸念されている。現在は地下水に頼っているが、賦存量の減少と地盤沈下が起 きているという。市内を流れ、河岸にゲルが散在するトール川の水は上流部の鉱毒が流れ込んでおり飲料には 適さないそうである。

私たちはウランバートルの西 90km ほどの所にあるホスタイ国立公園の観光キャンプに 3 泊した。広い丘陵地 帯のなだらかな谷底に位置しているが川はなく、時おり地下水を汲み上げるポンプの音がしていた。その滞在 3日目に半日近く雨が降ったが、なんと今年 3 回目の降雨だという。草原の動植物にとって待望の雨も小川を生 ずるほどの水量はなく大地にたちまち浸み込んでいく。観光キャンプはゲルの家並みに隣接しており、ゲル住 民の雇用の場ともなっている。キャンプの立地は遊牧経験で得られた確かな水源情報をもとにこの場所に決定 されたのであろう。

6、 旧文字

モンゴルの街角ではモンゴル語旧文字をたびたび目 にした。私がモンゴル語を学んでいた当時、旧文字を 教えることができるのは戦前世代の先生方であった。 その授業は週に一コマしかなかったが、内モンゴルを のぞき旧文字はすでに社会的使命を終えていたのに もかかわらず、現行文字の授業よりも熱の入ったもの であった。

モンゴルでは今、小学校から旧文字を教えていると いう。書店にはその学習書、読本がいくつも積み上げ られていた。商品のラベルには旧文字がデザインの一 部であるかのようにおどっている。旧文字の見直しや チンギスハーンの復権など、旧ソ連の影響からの脱却 志向は、現地スタッフとの会話の中でしばしば感じら れるところであった。自国の来し方を直視し、喪失したものを取り戻しながら、これからの飛躍の道を模索しているモンゴル。この姿は半世紀前には予想 すらできないものであった。

最後に、今回参加の機会を与えていただき、旅行中は何から何までお世話になったモピスタッフの村上氏、 そして運転とガイドにとどまらず硬軟とりまぜ一行の会話レベルを高めていただいた現地スタッフの皆さまの ご協力にこの場を借りてあらためて感謝いたします。

(ひとこと)

(永瀬 隆一)

モピ村上さん、福島さん、お仲間の堀江さん、岡村さん、岩下さん、小山さん現地でお世話いただいたムーギ ーさん、美代子さん、オチさんありがとうございました。お陰様で大変愉快なモンゴルの旅を楽しませていただ きました。来年の6月20日(木)正午スフバートル広場のチンギスハーン像の前にて全員現地集合してくださ い??? 翁婆ツァーNO2結団式です??? 各自懐かしい顔をご参集下さい!!!

ダビンオールズヤー!!!

 

 

  石井さんからの便りです。

(石井 菜倫)

9/1 日から 9/9 日までにインディアナポリスでモンゴル·チベット仏教文化センターの設立 40 周年記念 式典があり参加しています。世界中からリンポチェの弟子達が集まり、とても盛大なイベントになって います。

 

 

 

  モンゴル国立子ども宮殿少年少女演奏会ご案内

(村上 雅彦)


PREX(太平洋人材センター&JICA)による、モンゴル交流会に参加しました。 会場で、配布されていました掲題講演の 11 月 06 日、滋賀県大津市及び 11 月 10 日(土) 大阪靭公園でのイベントのチラシを添付しますので時間あれば参加ください。

ご存知のように 2 年前にモピがこの子供宮殿の児童を招待し、奈良学園にてクラッシック 音楽交流会を開催しましたこと記憶に新しい。

 

 

  事務局から報告です。

定款の変更

改正前

第38条 この法人の公告は、 この法人の掲示場に掲示するとともに、官報に掲載して行う。

改正後

第38条 この法人の公告は、この法人の掲示板に掲示するとともに、官報に掲載して行う。 ただし、法第28条の2に基づく 公告については、内閣府NPO法人ポータルサイト (法人入力情報欄)に掲示して行う。

2018年9月8日(土)午前11時 臨時総会に於いて、上記定款38条が改定されました。 モピ会員のみなさまにご報告いたします。

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

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