■NO 204号 モピ通信

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『Voice from Mongolia, 2019 vol.53』

 ノロヴバンザトの思い出 その93

 モンゴル学習支援事業&あすか野小学校

 事務局からお知らせ 

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『Voice from Mongolia, 2019 vol.53』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「社会主義の頃、ガンダン寺がにぎわうのは夜中。お偉方の車が列をなしたそうです」

―― 僧侶 ウランバートル在住

4月初め、奈良・東大寺を訪れた。小学3年生の息子が歴史に興味を持ち始めたこともあ り、ちょうど京都に滞在中のモンゴルの友人一家を誘って出掛けた。私にとっては、小学校 の遠足で訪れて以来、30年以上ぶり。若草山を転がり落ちて、新しいよそゆきが泥だらけ になったのをよく憶えている。

京都駅から近鉄電車で奈良へ。西大寺で乗り換えると、奈良駅に向かう列車内は外国人の 比率がさらに高くなった。友人の息子(2歳)がむずかり、「日本の小さい子って本当におと なしいから、この子がうるさいのが気になって」と表情をくもらせた。近くに立っていたメ ガネの中年男性が笑いかけると、おちびちゃんが急に笑顔に。「知り合いのおじさんに似てい るから、その人だと思っている」と友人。私が男性にその旨を伝えようとすると「Sorr y!日本語わかりません」という流ちょうな英語の返答、中国の人だった。この子はモンゴ ル人なのです、と説明すると、男性は意外そうに眼を輝かせた。もちろん彼も日本人だと思 っていただろう。仏教のふるさとのあるユーラシア大陸の、あちこちからやって来た人々と ともに、8世紀に建てられた大仏さまのところへ向かう。それにしても、歴史や文化は違え、 同じアジア人、容貌からはまったく見分けがつかない。私たちのルーツ、その共通部分の多 さを改めて思う。

南大門から大仏殿へ。記憶にかすかに残る、褐色の盧舎那仏(国宝)は威圧的に大きかっ たはずが、意外にコンパクトに感じられ、そのことに驚いた。高さ14.98メートル。こ こ十年ほどは、お参りした大仏と言えば、ウランバートルのガンダン寺で見るジャナライサ ク(観世音菩薩立像、約26メートル)だったせいだろうか。

モンゴル高原における仏教の歴史は古く、東アジア、内陸アジアのホータン、ソグディア ナを経由して伝わったという。第一チュルク・カガン国、ウイグル・ハン国の時代に仏教が 勢いを得ていたことが、カラ・バルガスン(ハル・バルガス)遺跡で発掘された壁画からう かがえるそうだ。日本で仏教が本格的に広められ、大仏が建立されたのと時期が重なる。背 景には大国・唐の圧倒的な影響力があっただろう。

13世紀のモンゴル帝国でウイグル仏教、ついでチベット仏教が浸透し、16世紀には国 家的な宗教に。その後、満州族による清の支配下でも、懐柔策として寺院は優遇された。

(写真:奈良東大寺の桜)

仏教指導者の眼病快癒を願い、ガ ンダン寺に観世音立像が建立され た20世紀初頭において、モンゴル には700以上の僧院、4千以上の 寺があった(D.マイダル、197 1年)。社会主義革命後の1938 年、スターリンによる宗教弾圧で寺 院のほとんどは破壊され尽くした。 ガンダン寺は残ったが、観音立像は 行方知れずになった(ロシアに持ち 去られたとの説もあった)。宗教が 否定された、「表向きにはね」。友人 の夫である僧侶は、確信を持って振 り返った。暮らしのなかの信仰の伝 統は生き続けた、地下水脈のように。

宗教家の言だし、民族のアイデンティティーを強調したい現在の歴史観もある。とにかく、 現在はそうだったことになっている。現在の観世音立像は、民主化後の96年に再興された ものだ。

観光客の喧騒のなかで静かに座している、メッキが剥がれて久しい大仏さまに手を合わせ た。両手は桃山時代、頭部は江戸時代の作。戦国時代に灰塵に帰した後、120年間は雨ざ らしの状態だったという。令和の世、「再び金箔を」などという富豪が現れなくていいから、 このままのお姿で、平穏に座っておられますように。

【参考】小長谷有紀編『暮らしがわかるアジア読本 モンゴル』河出書房新社 1997

D.マイダル(加藤九祚訳)『草原の国モンゴル』新潮選書 1988

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今月の気になる記事

京都の高台寺で今年2月、大阪大学の石黒浩教授らによる世界初のアンドロイド観音が公 開されたことを報じたモンゴル国のウェブニュースの見出しは「日本人はロボットの仏像を 拝む」( https://updown.mn/76265.html )。同月、現地では首都近郊(トゥブ県庁所在地ゾー ンモドの南)に巨大な仏像をランドマークとした新都市を開発する一大プロジェクトが発表 された。21世紀の私たちは、仏像を通じて、何を実現しようとするのだろう。

「マイダル・エコシティ 2030年には人口10万人規模の都市目指す」

モンゴル国大会議(国会)のC.ビャムバツォグト議員率いるワーキンググループがトゥブ 県セルゲレンソムに建設中のイフマイダル(マイダル大仏)プロジェクトの進捗状況を明ら かにした。年内に大仏の建設を終える計画という。昨年8月に政府会議で同ソム1万2千ヘ クタールを特別に国が使用することが決定していた。

2012年に、同ソム内のズルフ山周辺に、新しい街の中心としてマイダル・エコシティを 建設することが決まり、準備が進められていた。モンゴル、ドイツの専門技術者が共同でマ イダル市プロジェクトを実施するもので、初のエコシティーとなる。ボグドハン山の麓に、 イフマイダル大仏が見下ろすエコシティーを4期に分けて建設する計画だ。

第1期工事では、2030年までに10万人規模の都市を目指すと、プロジェクトリーダ ー、内閣定数外顧問のL.バヤルトールらが紹介した。

マイダル大仏はニューヨークにある自由の女神より9メートル、ツォンジンボルドグにあ るチンギスハン像より14メートル高い。当初は54メートルの大仏立像と、高さ108メートルの仏塔を建設することになっている。(中略) 釈迦の将来の姿であるマイダル仏は、名高いゲゲーン・ザナバザルの傑作をもとに制作する。またボグドハン山の麓に建設された国際空港と首都ウランバートルを結ぶ高速道路もマ イダル市の前を通る計画となっている。さらにモンゴルを貫くロシア・中国の鉄道も計画中 の市の近くに位置するため、市街に駅を建設するのにも最適と、国家大会議広報課は伝えて いる。

(ニュースサイト 2019年2月27日) https://gereg.mn/news/15567

(記事セレクト・抄訳=小林 志歩)

※ 転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください

ノロヴバンザトの思い出 その93

(梶浦 靖子)

美と表現の多様性

いまさら言うまでもないことだが、芸術における「美しさJは 多種多様である。何をどう 表現するかは、人により様々で、同じ一人の人間でも時と場合によって表現のしかたも変わ りうる。同じ人類でもそれぞれの環境、時代が異なれば異なる表現方法を取りうる。

それぞれにより異なる美しさが生み出される。芸術というのはそういうものだろう。ある 表現や美しさが他よりも絶対的に優れていて価値がある、などと決められるものではない。

使用する要素が多いほうが少ないよりも芸術として高度で優れているというわけではな い。豊かな色彩を使った絵画のほうが水墨画よりも芸術として上などということはない。 ど ちらもそれぞれ独自の価値があり美しさがある。

1オクターブ中の使用する音が多い音楽のほうが、少ない音楽よりも高度で進んでいると は言い切れない。単旋律中心の音楽よりも和音を付けているほうが優れているとは眼らない のだ。にもかかわらず、たとえばモンゴル民議が半音なしの五音音階であることをむやみに 否定する言説が当のモンゴルの音楽関係者 (研究者など)から発せられている。 J. パドラー は「オルティン・ ドーには半音が数多くある。モンゴルの歌を五音音階原理であると (中略)断言することには大いに疑間がある」という風に述べているが、半音があることの根拠が「 1オクタープをグリサンドで歌う曲もある!と言うのだ。

グリサンドとは弦楽器の演奏法について使われる言葉で、ある音から次の音への移行を きわめてなめらかに、満ちるようにおこなう奏法のことで、歌の技法としては同じ意味でポ ルタメントという言葉が使われる。どちらにしてもその音高変化のしかたは経過的で、移行 する過程の音高変化はいちいち音符のように意識されるわけではない。グリサンドあるいは ポルタメントを用いているからその曲は半音階に基づいているなどということにはならない のである。バドテーの発言は、 モンゴルの伝統音楽の音階音が西洋音楽に比べて少ないこと をいたずらに恥じるもののように思えてならない。

五音音階でなければ表現できない趣きや美しさ、一つの世界観がある。オクタープ中に目 を一つ増やしたならその独自の美しい世界は壊れてしまうと言っていい。何か別の美しさが 生まれるかもしれないが、」五音音階による美しさとは別物である。どちらも存在して良いで はないか。美しいものがたった一つより二つあるほうが、豊かとは言えないか。一つの美し いものを肯定するために、他の美しいものを否定したり世界から消し去る必要などないのだ。

吉川英史は日本や西洋の音楽芸術の歴史を取り挙げ、新たな音楽が旧来の音楽にとって替 わる形で歴史が進むさまを革命的発展と呼び、新たな音楽が前時代の音楽を駆逐することな くどちらも 群存して行くやり方を並列的発展あるいは細胞分裂的発展と呼んで分析、考察し ている。「これらの諭は、モンゴルの人々が自分たちの音楽がこれからどのうになっていくべ きかを考えるうえでも示唆に富んでいると思われる。

J.Badraa. Mongol Ardatl Khogjin. T&U Printing Co_.Ltd_.Ulaanbaatar, 1998,p.l05.吉川英史、『 日本音楽の歴史』(第16刷)、 創元社、 (昭和61)、 序3頁。
吉川英史、『 日本音楽の性格』(第 4刷)、 音楽之友社、 (昭和56)、 19面。

音楽文化と伝承法

もう一ついぶかしく思うことがある。西洋音楽の理論、形式に基づいて作られ、モンゴル の伝統楽器で演奏する音楽をも、モンゴルの新たな「伝統音楽」であるとし、モンゴルの伝 統楽器とその演奏者らは二つの伝統を持つようになった、かのように言う論調が、近年、散 見されるのである。

つまり、西洋音楽を学んだモンゴル人作曲家により西洋音楽の語法で作られ、モンゴル伝 統楽器によるアンサンプルで奏でられる民族的テーマのオペラや交響曲、協奏山、室内楽な どの楽曲からなる音楽を新たな「伝統音楽」だと言うのである。

本稿でもたびたび用いてきた「伝統音楽」という語であるが、実はどの国の文化にも適す るような絶対的に明確な定義はなしえない。各地域や社会ごとに音楽の歴史や背景も異なる からだ。しかし最大公約数的に、大まかに共通する基準としては、それぞれの地域や社会に 西洋音楽が入り込んでくる以前に成立していた、その文化に特有の音楽ジャンル、という意 味合いで「伝統音楽」という語が使われることが多い。それを考えると、上記の ような「新 たな伝続音楽」という言説には大きな疑間を抱かざるを得ない。

何を「伝統」とするかはその社会や文化が決めることかもしれない。だとしたら、外部 の 者がとやかく言うべきではないのかもしれないが、それをあえて取り挙げるのは、そのよう なやり方で行くなら、モンゴル独自の本来のモンゴル伝続音楽は、早晩消滅し、形骸化して しまうのではないかと危惧するからである。

上に述べた、西洋音楽に基づき作られモンゴルの伝統楽器で奏でられる音楽を、仮に「新 モンゴル音楽」と呼ぶことにしよう。それらは、二十世紀半ば頃より生まれた、モンゴ ルの 新たな音楽ジャンルと言えるかもしれないが、同時にモンゴル国における西洋音楽と見なす こともできる。西洋音楽の世界的な広がりの一例、モンゴル国における西洋音楽の 展開例と して位置づけうるのである。

その音楽が何であるかを決める最大の要素は、演奏者の国籍や民族的背景や演奏に用いら れている楽器の出自よりも、その音楽がどのような音組織を用い、どのような理論や語法に基づき作られているかということであろう。そう考えるなら「新モンゴル音楽」は、ほぼ間 違いなく西洋音楽の系譜に属する音楽である。モンゴル人が奏でるからモンゴル音楽とは限 らない。モンゴルの伝統楽器で奏でるからモンゴル音楽とは限 らないのである。

とりあえず、モンゴル人の作曲家が作ったのだからモンゴルの音楽ではあるだろう。しかし 本来の伝統的なモンゴル音楽、すなわちオルティン ・ ドーやボギン・ドーなどの民謡とそ の楽器伴泰、モリン‐ホールなどによる民議の独奏、楽器独自の独奏曲、讃歌、英雄叙事詩 等々といったものとは文脈の異なる音楽、別個のジャンルの音楽と見なすべきだと私は思う。 同じ「伝統」という語を冠するのは、かなり無理があると思うのだ。

音楽を聴く耳を持つ人が聴けば「新モンゴル音楽」の楽曲はどれも、これは西洋音楽だな と感じるのではないだろうか。諸外国の人にとっては珍しいモンゴルの伝続楽器で演奏して おり、時にモンゴル風の半音なし五音音階のメロディーも聞こえるが、鳴り響く音の音程や 共鳴の具合、和声の流れやリズム感、楽曲の形式感や表現の仕方から、これは画洋音楽だな と受け取るのではないかと思う。少なくとも西洋音楽的な楽曲、あるいはモンゴ ル風味の西 洋音楽のように聞こえると思うのだ。

見るからに、というか聴くからに西洋音楽的である音楽をモンゴルの伝続音楽であると主 張することは、果たしていかがなものか。西洋音楽の本拠地、ヨーロッパの人々はどう思う のだろう。「あのう、それ私たちの音楽ですよねJと 言いたくなるのではないか。

国際化の進んだ現代においては、何を自分たちの伝統文化とするかについても、自分たち の考えだけでなく、外部の目線も取り入れ、世界の音楽状況を鑑みたうえで判断することが 必要なのかもしれない。先に述べた、「新たな伝統J「こつの伝統を持つに至った」 といった 言説は、そうした知恵を欠いているように思える。

異文化発祥の音楽がその国の伝統音楽となった例はないわけではない。日本の雅楽などは まさにそれだ。日本の雅楽は、古代中国の宴楽やアジア講地域の音楽が、大和時代から 奈良、 平安時代にかけて日本に伝えられ成立していった。しかしのちに当の中国その他の地域でそ れらの音楽が一部あるいは完全に消滅したり、楽器が改変され古代とは異なる響きを持つな どした。それに対し日本の雅楽は、伝来した当時から千数百年の間、ほぼ形を変えずに今回 まで受け継がれてきたことで、ある意味、日本独自の音楽となっている。

モンゴルに西洋音楽が導入されてからようやく百年たつかどうかといったところだが、も ちろん、単純に何百年以上の歴史があれば伝統音楽、というものではない。しかし 当のモン ゴル人にとって西洋音楽は、ずいぶんと聴き慣れて、演奏も慣れてきたかもしれないが、ま だどこか、異文化に学ばねばならない異文化の音楽という箇所はありはしないか。

それがないとしても、西洋音楽はヨーロッパだけでなく世界各地にあふれている。同じ理 論と音組織に基づき、似通った語法や表現の音楽が世界の他の地域や社会に存在する中で、 モンゴルの楽器で奏でているからといってモンゴルの伝続音楽だと主張するのは、あまりに 早計すぎないか。少なくとも数百年規模で時期尚早なのではないか。数百年も時代がずれて いたならそれは誤謬や間違いというものではないだろうか。

「新モンゴル音楽Jを、「伝続」ではなく二十世紀のモンゴルに新たに生まれた音楽だと紹 介するなら、おそらく何の問題もなく世界中の人が納得するだろう。なぜ殊更に「伝統」と 称さねばならないのか、そうすることで何かよほどメリットでもあるのだろうか。 どのよう な理由があろうとも、伝統音楽だと言い張るのは、世界の音楽の状況から見てどうも噴飯も のというか、奇天烈に過ぎる。キツネにつままれた気持ちになるか、失笑をもらす人が多い ように思うのだが。この問題もやはり、民主化以降あらたに出てきたものと思われる。私が 留学していた頃には見聞きしたことがない。おそらく2000年前後、もしく は二十一世紀に入 ってから言われ出したことではないかと思う。どんな人間のどのような 思感が働いているの かあえて触れないておくが、 モンゴルの人々は自分たちの音楽をどのように定義するかを、 いま一度考え直したほうが良いのではないかと思うのだ。

(つづく)

モンゴル学習支援事業&あすか野小学校

~先生、子どもたちからお手紙が届きました~

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( 京都鴨川の桜 ) 撮影:梅村百合子

事務局からお知らせ

平成30年度事業報告などの議案は、4月13日(土)第18回モピ総会で承認されました。

みなさま、委任状ありがとうございました。

2019年度が始まりました。毎年モピの仲間が少なくなっています。が粛々と歩むモピ をこれからもご支援下さいますようよろしくお願い申し上げます。

(事務局 斉藤生々)

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事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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