『Voice from Mongolia, 2019 vol.57』
ノロヴバンザトの思い出 その98
事務局からお知らせ
『Voice from Mongolia, 2018 vol.57』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「むこうは北モンゴル、こちらは南モンゴル。南モンゴルは中国になった。モンゴル族の 牧畜民たちは、大雪が降れば、政府から無料で干し草がもらえる。税金も優遇されている。 だから共産党万歳、となりますよ」
ツアーガイド、内蒙古自治区ハイラル市在住
中国では「月餅を食べる日」という中秋の週末を、中国とロシアの国境付近で迎えた。国 境観光(ボーダーツーリズム)の可能性を探るNPO法人・国境地域研究センター企画によ る「中・露国境ツアー」に参加したのだ。ちょうど80年前、日本の関東軍・「満洲国」軍と モンゴル・ソビエト連邦軍が戦火を交えたノモンハンを中国側、つまり戦前の満州側から眺 め、国境の内モンゴルを歩き、さらに陸路でロシアへも足を伸ばす8日間の旅。
ともに旅したのは、同NPO理事長の木村崇・京都大学名誉教授、同理事で北海道大学ス ラブ・ユーラシア研究センターの岩下明裕教授らロシア関係の研究者、仕事でロシアと縁の あるビジネスマン、国境をテーマに取材するカメラマンや記者ら18人。北京から国内線で 2時間あまり、日本の国土の3分の2、と広大なフルンボイル草原のハイラル新空港に降り 立った。内モンゴル出身の友人も観光で出かけるという北の草原、日本で言えば自然豊かな 北海道のようなところ、という。
「ハイラルは野生のニラ、の意味ですよ。昔ここに送られて来た人々がそれしか食べもの がなかったらしい」。モンゴル国で言うハリアル(ギョウジャニンニク)が地名の元!思わぬ つながりに嬉しくなる。陳バルガ旗出身モンゴル族のガイド、バイブーリン(白布仁)さん はこの道25年、流ちょうな日本語でユーモアも交えつつ解説してくれる。車窓の景色はひ たすらに牧草ロールが点在する草原。「モンゴル民族は馬肉を食べない」「乳茶に蒸し粟を入 れる」など、国境を隔てたハルハ族を中心としたモンゴルとの相違も興味深い。ゲルのほか に、車輪の付いた移動式の家屋も見かける。
近郊の「世界反ファシスト戦争ハイラル紀念園」を訪れた。入口に、武器を手にしたロシ ア、中国、モンゴル3国の兵士の銅像があった。戦場の遺品や日本軍の非道ぶりを伝える展 示を見たあと、満州国樹立後、日本軍が建設した第2号要塞へ。石の階段を下がるに連れ、 気温がぐんぐん下がる。廊下の両側に指令室、厨房など生活空間が整備されている。工事に 動員された現地の人々は秘密保持のために殺されたと聞き、手を合わせた。
市内のハイラル神社跡は、石づくりの手水場だけが残っていた。終戦時にここで命を絶っ た日本人は多かったという。柱には「国の恥を忘れるな」との中国語の落書き。戦争の世紀は過去のこと、と思っているのはもしかしたら日本の私達だけか?昼時、並んで下校する子 ども達は、ジャージに赤いスカーフ姿。民主化後のモンゴル国ではセピア色のアルバムの中 にしか存在しない、社会主義下の暮らしが目の前に繰り広げられている。ボーダーを越えて、 20世紀に迷い込んだ気分になった。
新バルガ左旗アムグロでは、改修中のノモンハン戦跡陳列館の収蔵品展示を見学した。何 枚かのモノクロ写真に目が釘付けになる。普段着のデール(民族衣装)を着、目隠しをされ た遊牧民2人が縄で縛られ、銃を手にした日本兵たちに挟まれて立ちすくんでいる。説明に は「日本軍に捕えられた蒙古の牧民」。ゲルの中で陣頭指揮にあたるソ連の司令官ジューコフ らソ連の軍人たち、モンゴル人の姿は見あたらない。満洲国軍側で戦ったアガ・ブリヤート 族のウルジン・ガルマエフ将軍の肖像。ソ連が圧倒的な戦力を投入して勝利し、両手を挙げ 投降する日本兵。戦利品としてうず高く積まれた日本軍の軍靴…。
だだっ広い国土の、存在しなかった境界線をめぐり、人々が翻弄され、その日常や生命が いとも簡単に奪われた時代があった。ただ草原が広がるノモンハンでは、故郷を遠く離れた 草原で戦い、亡くなった日本とソ連の兵士たち、戦場でどうしようもなく対峙する羽目にな った「満洲国」側のバルガ・モンゴル族とモンゴル人民共和国軍の兵士たちにも思いを馳せた。
モンゴル国の東の国境へ約20キロの国 境のまち・アムグロの街角には、内モンゴル で使われているモンゴル語の縦文字、中国語 の漢字に加え、モンゴル語キリル文字表記も 併記した看板が並んでいた。通りには夕方と 朝、牛乳を街頭売りする人の姿があった。モ ンゴル語で話しかけると、通じたり、通じな かったりした。ポテトチップのような形状の アーロール(乳製品)を買う。ウランバート ルナンバーの車を見かけ、声をかけたら、1 7時間あまり車を走らせて来たとの話だっ た。経済という奔流につき動かされるごとく 「ボーダーレス」を生きる日常もある。モン ゴル国から内モンゴルへの出稼ぎもあると いう。
翌日、街全体がロシア「風」テーマパークさながらの、満洲里(ここで売られているマトリョーシカは9割以上が中国製という)から、国際乗合バスでロシアへ向かった。国境の待 合室には、90年代前半の社会主義からの移行期を思わせる、「豚」のようにふくらんだ荷物 を引っ張るロシア人らが列をなしていた。鉄条網のむこう、すぐそこにあるのに、何度もパ スポートや手荷物をチェックされ、入国に4時間かかった。
ロシア国境を越えたザバイカリスクで、地元の人々による温かな歓迎を受けた後、車で1 時間半ほど走り、ウラン開発のために1960年代に開かれた小さな町・クラスノカメンス クへ足を伸ばした。町図書館のガイドが、近郊に残るチンギスハン時代の土塁について教え てくれた。モンゴルから来る騎馬遊牧民を止めるために、満洲族が築いたものという。ボー ダーレスな遊牧民ゆえに作られた境界線――考えてみれば、万里の長城も、蒙古襲来に備え て築かれた博多湾の防塁もそうだ。ボーダーに刻まれた人々の物語を、もっと知りたくなった。
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今月の気になる記事
バルガ・モンゴル族は、オイラドの侵攻を避けてバイカル湖周辺からフルンボイルに南下 して来た人々で、17世紀に清朝の直接支配下に置かれた。「中ソの対立が激化する前は国境を越えてモンゴル国に移動することもあった」(ボルジギン・ブレンサイン編著『内モンゴル を知るための60章』明石書店、2015年)といい、1956年にはゾドに見舞われ、新 バルガ右旗の200世帯が20万頭の家畜を連れて、国境を越えてチョイバルサンに渡った という。モンゴル国の政治家でもある論客が、ハルハ川(ノモンハン)80周年に寄せたエ ッセイを2回に分けてお送りする。
ハルハ川の被害者は誰だ?
(筆者:バーバル)
ハルハ川の戦いの戦勝の80周年が近づいている。かつて、こんなに大がかりな祝賀が行 われたことはなかった。ロシアとモンゴルの研究者が共同で学術会議を開く。日本の軍国主 義者をどのように抑え、どんな戦略、戦術で追放したかについて、科学的な総括が出される。 祝賀に合わせて、両国軍による共同での演習も行われる。軍隊のパレードや、世界中の人々 を驚かせるロシアの新型戦闘機が色とりどりの煙を噴射しながらモンゴルの空を美しく飛び 回る。最高にきれい!冬のウランバートルの、石炭による大気汚染とは全く違い、人畜に害 は全くない煙。また、ロシア軍が誇るアンサンブル、アレクサンドル楽隊がやって来てコン サートを開く。名高い「ロシア人は戦争を望んでいるか」「勝利の日」など天才的な楽曲を歌 い、披露するだろう。素晴らしい!モイセエフ民族舞踊団という世界的に知られるアンサン ブルがある。最近設立80周年を迎えたというから、ハルハ川の戦いと同い年。軍の音楽隊 よろしく、戦時においてはバイカル湖のむこう、極東、モンゴルを公演に巡った。わが国で も古くからお馴染みの「カリンカ」の踊りや「カチューシャ」など軍隊をテーマとした旋律 に合わせて踊りを披露するだろう。このことをロシア大使館が話した。こうした数々のイベ ントの後、親愛なる同志ウラジーミル・ウラジミロヴィチ(※訳注/プーチン)がモンゴル を訪問する予定だ。もしかしたら戦闘機に乗って?
先般、わが国の首相はワシントンへ出かけ、米国と戦略的協定を締結すると宣言した際、 大統領府の事務局長は親愛なるウラジーミル・ウラジミロヴィチが来たときの対応について も明確に伝えた、それによると、ワシントンとの戦略同盟を結んだのはひとつの行事で、今 ロシアとはそれとは比べものにならない大型の契約―包括的な戦略的パートナーシップ協定 を締結するのだという。80周年の祝賀行事と抱き合わせの一大セレモニーとなるようだ。
ハルハ川の戦いの80周年式典に寄せて、親愛なる同志ウラジーミル・ウラジミロヴィチ は、戦場となった小さな村に 1 千万ドルを寄付した。面積ではモンゴル国内で2位とはいえ、 人口千人あまりのこの村にとって、国家予算から配分される予算とは比較にならない金額だ (村に配分される国家予算は年間1億トゥグルグ、約4万ドル程度となるから、250年分 ということになる)。戦場では、80年前に堀られた塹壕跡、現在は完全に元に戻っているも のを再度掘り返して、セメントで固めて保存する工事の現場を、寄付者自ら見学に訪れるだ ろう。これは言わば、平和な時代の建造物である。記念行事ではモンゴル国政府が後押しし、 アーティストらが力の限りの熱演を見せるだろう。また記念碑の数々も新たに制作され、式 典に花を添える。歴史家や研究者、政治家も参加してにぎわいが演出される。1千万ドルは わが国の贈収賄者たちには大した額でないにせよ、有難い収入には違いない。当時、ハルハ 川「紛争」「戦い」と軍の科学研究所が根拠を持って分類したものを、今回はあまりも過小評 価だ、として「戦争」と呼ぶようになった。人類史上、最も重大な戦いであったスターリン グラードの戦いをスターリングラード戦争と呼ばないのには正当な理由があるはずだ。一方 の日本人は「ノモンハン事件」「ノモンハン紛争」と呼んでいる。
ハルハ川の戦勝記念行事は、1969年までは祝われていなかった。ソ連が大祖国戦争の 戦勝を初めて盛大に祝ったのは65年、親愛なるレオニード・イリイチ(※訳注/ブレジネ フ)の呼びかけによるものだった。スターリンもフルシチョフも祝賀を行わなかった。ツェ デンバルに、同様の祝賀行事が突然必要になって、1969年に初めて、ハルハ川の30周 年祝賀行事を行った。当初はおとなしいものだったが、年々規模が大きくなり、45年記念 を盛大にやろうとしたら、「病いにより」モスクワの命令で中止させられた。その後、祝賀は次第に縮小され、90年以降は日本人までもが参加するようになった学術会議、記者会見く らいで、ほとんど忘れ去られそうだった。興味深いことに、イベントが研究・調査発表に取 って代わられたことで、史実がイデオロギーのカーテンのむこうから明らかにされて来た。 しかし今年からは再び、祝賀行事の色とりどりのカーテンがハルハ川の歴史の前に引かれよ うとしているようだ。現在のモンゴルには政府のメディアはなく、すべて民間、大衆のもの だ。であるならば、ハルハ川の1939年の出来事を一部テレビ局が連日、繰り返し放送し、 社会主義のイデオロギー、事実でない宣伝を垂れ流しているのは、どのような力学によるも のだろう?
ハルハ川戦争(紛争?衝突?戦い?戦闘?)に参加しない、自分たちの国土でそんなこと はさせないと首相のゲンデンやアマル、軍の総帥デミッドたちはスターリンに盾突いた咎を 命で贖った。この戦闘の前段で、最低でも3万人のモンゴル人が命を奪われた。戦場では2 37人が戦死したが、このうち3分の1はソ連赤軍による誤爆や、後ろからの機銃掃射、残 りの3分の1は日本のスパイだとの誹謗を受けて自殺に追い込まれたのである。
日本の全権荒木が率いる軍隊が中国東北部と満洲を占領下におき、1932年に満洲国と いう傀儡国家を建国した。ロシア人たちもモンゴル人民共和国という傀儡国家を持っていた。 両国は1907年に日露秘密協定を締結し、2つの国家を支配下に組み込んだ。日本は19 05年に日露戦争に勝利し、1920年にロシアの内戦に乗じて、極東ロシアを手中に収め た。政府の支配から脱した軍隊は南方へ進出し、オーストラリアまで進出し、北方はウラー ルに至るまで領土を広げ、南北に展開していた。日本がソ連に攻め入る恐れは現実のものと なっていた。
モンゴル人が社会規範に反して1932年に方針を出して内戦に突入した跡、スターリン はモンゴル人をコミンテルンに受け入れ、直接担当するようになった。1929年にはウラ ンバートルに足を運び、革命を計画したコミンテルンの代表団は現実主義的な利点を明確に 伝えている。「80万人の野蛮な人民よりも、国土が最も有用」との指摘は、スターリンのお 気に召した。モンゴル人民共和国の領土は、ソ連を日本と中国から遮る緩衝地帯、日中両国 の間で戦うための輸送拠点としても、両国との衝突や戦争を考えれば理想的な位置にあった。 この地域は、何よりも反日、反中国でいてもらわなければならない。ところが、日本の占領 下にある内モンゴルやバルガは日本側に信頼を寄せ、「われらが救世主」と期待し、敬意を抱 いている。日本側も彼等に特権を与えて大事にし、近代化や文化的な暮らしを広め、援助し ている。外モンゴルでこんな事態は何としても避けねばならない。
人々を先導して社会を動かす知識人や貴族たちが、1934年から残らず検挙され、37、 38年にかけて粛清された。全員日本のスパイである!チョイバルサンのメモによると5万 6千938人を逮捕したとある。裁判にかけ、銃殺したとされたのは2万7千人。裁判にか けるなどの手続きなしに殺害した人数は誰もわからない。刑罰は大方、銃殺か、十年監獄に 入るかの二択しかなかった。十年の刑なら、天の助けにも等しかった。とにかく3万人は十 年にしてもらえなかった、モンゴルにはそんな人数が収まる監獄がなかったのだ。無罪とし て放免された人は数えるほどだった。日本のスパイ、と言えば銃殺されるため、逮捕者のひ とりは「私は日本でなく、ドイツのスパイだ。先日、テレルジにヒトラーが自ら飛行機で来 て、任務を与えて去った」と粘り強く訴えて十年の刑となったとのケースがあった。このよ うな状況のなか、生き長らえたモンゴル人たちには、限りない恐怖心だけが残った。
バルガとハルハの間に、国境紛争など存在しなかった。同じモンゴル人であり、違いと言 えば1907年の秘密協定で一方は日本、もう一方はロシアの支配地域になったことだ。ス ターリンが突然、国境紛争を思いついた。満洲国、日本、モンゴル人民共和国の3者の話し 合いは満洲里で何度も行われ、合意していた。日本側はモンゴル人民共和国の独立を承認す ることを表明したが、他の両隣国はどうしても認めなかった。話し合いを仕切ったのは副首 相のサンボーだったが、戻ってくるとすぐにモスクワに呼び出され、銃殺された。国境紛争 を解決してはいけない、揉め事は続いていなければならなかったのだ。 スターリンはゲンデンに、モンゴルに赤軍を配備すると伝えた。狙いを知ったゲンデンや デミッドたちはこれを拒み、武器を供給してくれれば自国で対応する、と頼んだ。「ロシアと 日本がわが国土で戦争をしようとしている、好き勝手に戦おうとしている、モンゴルと満洲 国に何の関係がある!」とゲンデンは言ったとされる。デミッドは遠方に送られ殺害、ゲン デンは逮捕され、黒海に送られてまもなく、モンゴル人民共和国が樹立され、首相となった 日付の11月26日に銃殺された。それでも自国を独立国だと信じられただろうか?首相の
アマルもモンゴルのナーダムの日に殺害された。 1936、37年には、モンゴル政府に聞きもせずに、大規模な軍隊が送り込まれた。後 に司令官となったイワン・コニエフは、モスクワにこう報告した。「駐留する建物が見つから ないため、チョイルという大寺院にいる5千人の僧侶を追放して、そこに落ち着いた」。
このような証拠が1990年以降、明らかにされて来た。(続く)
2019年8月11日 ウェブサイト
http://www.baabar.mn/article/khalkh-gold-khen-khokhirow (原文モンゴル語)
(記事セレクト・翻訳=小林 志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください
ノロヴバンザトの思い出 その98 最終章
(梶浦 靖子)
伝統楽器奏者と複音楽性
活動の中心が「新モンゴル音楽」の演奏である演奏家にあっても、伝統的な楽曲を演奏す る機会がある。社会主義時代から、国立音楽舞踊中学校などの教育機関では、西洋音楽の理 論を教えつつ、伝統的な楽曲を教えて来た。たとえばモリン・ホールであれば、西洋音楽の 楽曲や、西洋音楽理論に基づくモンゴル人作曲家の新作などを演奏できるよう教育されてい た。伝統音楽部門の教師には、もともと牧民の家に生まれ、西洋音楽とほぼ関わりのない環 境でモリン・ホールの奏法を身に付け、長じて都市部に出てから西洋音楽の理論も学んだ、 という者もいたのである
人民革命以降のモンゴルの伝統楽器の演奏家、特に都市部の劇場や教育機関で学んだ者た ちは、結果的に、西洋とモンゴルという二つの音楽性、複音楽性すなわちバイミュージカリ ティー bi-musicalityを身に付ける道を歩んできたとみなすことができる。
バイミュージカリティーとは、音楽学者M.ブッドが、言語におけるバイリンガルの語と概 念にならい提唱した造語で、複数の音楽様式に通じて実践できる音楽能力を意味する。 私が身近に接したモリン・ホール奏者たちも、西洋曲や現代曲、民謡その他の曲を、音色や 表現の仕方を巧みに変えて演奏していた。どれほど西洋音楽に通暁しようとも、伝統曲の演 奏ではモンゴル独自の音色や鳴り響きや表現を忘れないようにしていた気がする。西洋的な 表現とモンゴルの伝統的なそれとの違いの一端を、私なりに大まかに言い表すとすれば、無 モンゴル式は総じて穏やかな印象がある。遊牧民イコール野性的というイメージを持つ向き もあるかもしれないが、髪振り乱さんばかりの情熱的な弾き方はむしろ西洋的なのではと私 は思っている。ほかにも、リズム感覚の面で、西洋は強拍と弱拍の交代と周期性、何かを振 りおろし叩くようなアクセント感が感じられるが、モンゴルはそうしたアクセントの感覚が 薄く、規則的なリズムであっても、ひたすら前後もしくは左右に揺らぎ続けるかのようなリ ズム感覚である、との印象がある。
そこで案じられるのは、左今のモンゴルの音楽家はその点どのようであるかだ。私は現在 のモンゴルの音楽家の状況については、日本にいながら入手できる情報があるのみで、つぶ さに知っているとはいえない。しかし、前述したように「新モンゴル音楽」側の音楽家が、昔ながらのスタイルの音楽家を見下すなどの様子を見聞きするにつけ、不安を禁じえなくなる。
人は見下した対象を真摯に学んだり、大事に守り後世に受け継ごうとは思わない。楽曲は 残っていくかもしれない。伝統曲をあえて五線譜化して保存したり、録音、録画によって局 の鳴り響きや演奏の見た目は保存しうるだろう。しかし、現実にその鳴り響きを音色や表現 に至るまで再現し演奏できる人間がいなくなったなら、その音楽は世界から消滅したも同じ なのだ。伝統曲のメロディーつまり音の並びを正しく演奏できたとしても、その音色や表現 が西洋音楽のそれともあまり変わらなくなったとしても同じことだ。言語の場合になぞらえ て言うなら、それは英語なまりの母国語(モンゴル語)しか話せなくなっているようなもので ある。きわめて残念な状況ということだ。
実際のところ、現状はどうなのかをできる立場にはないが、ウェブ上の・わりと最近の動 画野中に、モンゴル国のモリン・ホールなどは伝統楽器の楽団が「新モンゴル音楽」と思わ れる西洋的な曲を合奏し別の場面では伝統曲をモリン・ホールで独奏しているものがあった。 それらの曲を西洋、モンゴルそれぞれにふさわしい億色で奏でていたのでいくらか安心した、 という経験をした。もんごる伝統音楽全般がそのようであってくれれば良いのだが。
モンゴルの場合は特に、伝統楽器の演奏家は西洋音楽と自分たちの伝統音楽との音楽性の 違いに常に留意し区別して演奏していく姿勢が必要があると思うのだ。なぜなら、さかのぼ れば人民革命以降、現在モンゴルの伝統楽器の演奏家の多くは、一人の人間が一種類の楽器 で様式や文脈の異なる二つの音楽、二つのジャンルを実践することが求められるようになっ たからである。西洋的な新作の楽曲群と、モンゴルの伝統曲との二つである。実際に、適切 に二つの語法を区別して実践できているかを否かは別問題として、少なくとも理屈ではその ようになったと言えるからである。
複音楽性の概念の活用
現在伝わるモンゴル伝統音楽のジャンルの成立は、いかに新しくとも人民革命より以前で あろう。「新モンゴル音楽」は社会主義政策の一環として、西洋音楽にならって創作されてい った音楽であるから、成立の時期も文脈も、音楽のかたち作る音楽織や理論、語法、様式も 異なる。その意味で、両者は別個の音楽ジャンルだと言える。音楽家と楽器が重複しながら、 異なる二つのジャンルであるというのは、世界の音楽の中でも珍しいことかもしれない。か って共産圏であった中央アジア諸国などであれば似た状況がありうるだろうか。
ともかく、そうした中では伝統曲は弾かず「新モンゴル音楽」専門の演奏家になる、ある いはその逆となる例や可能性もあるかもしれない。伝統曲を、あるいは「新モ」の楽曲を学 ばず演奏せずにいれば、否が応でもそのようになるだろう。しかし、特に「新モ」の演奏家 はそうするわけに行かないのではないだろうか。モンゴルを訪れる観光客に向けての演奏や、 諸外国での公演に参加できるのは、「新モ」側の音楽家の場合が多い。その際、伝統曲の演奏 が必ず求められるだろう。
モンゴルの伝統楽器の演奏家である以上、伝統曲は弾かない、弾けないでは済まされない。 そうして、伝統曲を弾いているのに曲の雰囲気や鳴り響きが西洋音楽とあまり代わり映えし ないように受け取られたならじつに残念でならない。「新モ」を中心に活動するとしても、伝 統曲をモンゴル独自の響きで演奏する力を持たなければ、演奏家としての活動の幅はせばめ られていくだろう。異なる二つの音楽それぞれの特徴を明確に認識し、バイミュージカリテ ィーの能力を高めていくことが必要なのだと言える。そのことをモンゴルの音楽家たちには 良くかんがえてほしい。
日本の宮内庁楽部の楽師は、宮中の行事のため、伝統的な雅楽の楽器ひとつを専攻しつつ、 西洋の楽器も一種類演奏する。二つの異なる音楽を演奏するため、楽器を持ち替えるのだ。 対してモンゴルノばあいは、一人の音楽家が一種類の楽器で、二つの音楽ジャンルを明確に 弾き分けて、二つの音楽世界を自由に行き来する、ということになるやもしれないわけであ る。それが一定以上のレベルで実現するなら、音楽的に興味深く有意義な事例となるだろう。
昔ながらのスタイルの演奏家は、「新モ」のアンサンブル曲などへの参加がむずかしい分だけ活動の幅はせばまるかもしれない。しかし伝統曲の演奏においては、西洋音楽とは異なる 独自の鳴り響きをより自然に体現し、諸外国の聴衆により強烈印象を与える可能性がある。 彼らが活動の幅を広げるには、改めて西洋音楽を身に付けるよりも、ネット上に世界とアク セスできる自分のページわもち、外部の人間にもわかりやすい言葉で自身の紹介を目指すの が良いのかもしれない。
ちなみに民謡の歌い手等は、そうした問題とは無縁であろう。ボギン・ドーは、前述した リズム必要があるかもしれないけが、声の音色を失わずにさえいれば、バイミュ-カリティ -の問題に悩むことはない。オルティン・ド-は声の音色ばかりではなく、自由リズムであ る点など西洋音楽との違いを意識する必要にせまられているとも言える。
交通や通信の発達により、現在世界は異なる文化同士がより頻繁に接触し合うようになっ た。そうした状況下では、伝統文化が異なる文化、文明に飲み込まれて消滅するような可能 性も増大しかねない。それを防ぐにもバイミュ-ジカリティ-の概念と能力は大きな意味を もつと考えられる。西洋音楽とモンゴルの伝統音楽両方の素養と経験を十分に持ち合わせて いたほうが、両者の違いやそれぞれの特徴、持ち味についての理解が深まり、比較対象が容 易になりうる。その意味では、「新モ」側の音楽家も、伝統スタイルの音楽家と同じかそれ以 上に、モンゴル伝統音楽の保護、保存、次世代への継承のために大きな役割を果たすことが 可能だ。その際、西洋音楽とモンゴル伝統音楽とは、一方が他方の特徴を持ち味、それぞれ 独自の音楽性を浮かびあがらせるための「鏡」のように用いられることだろう。
ともかくも、モンゴル伝統音楽と「新モンゴル音楽」とは、別個の音楽ジャンルとして共 存共栄していくことが一番望ましいだろう。その際、音楽としての双方のつぶし合うような ことなく、お互いへの尊重と敬意を忘れないでほしいと思う。
M.Hood ‘The Challange of ‘Bi-Musicality’ Ethnomusicology.IV(1960)-55-59_ 拓殖元 「世界音楽への招待」(音楽之友社、1991年)、10頁。
終わりに
長々と書き続けてきた本稿だが、言うべきこともようやく尽きた。 「ノロヴバンザトの」と銘打ったが、それ以外のこともあれこれとのべており、「モンゴルの 思い出」と言うべき内容なった面もある。それはモンゴルについての豆知識や、モンゴルが 市場経済へと移行する時期の空気を伝えるものとなればと思う。自身の個人的な出来事にも いくつか言及したのは、はかどらないフィールドワークと進まない研究についての言い訳だ ったかも知れない。こうなってはならないと、という反面教師にしてもらえたらと思う。
終盤に触れた「新モンゴル音楽」の西洋音楽偏重の問題も、ノロヴバンザトとは直接関わ りの無かったことではあるが、モリン・ホールなど音楽奏者たちがあまりにも西洋音楽に染 まると、民謡とくにオルティン・ドーの歌い手は歌いにくくて仕方がないと思うのだ。自由 にのびのびと歌えなくなり、結果、ノロヴバンザトに匹敵するような歌い手は現れにくくな ってしまう。楽器奏者も自分たちの演奏技術をひろげたい要求もあるだろうが、モンゴル楽 の華ともいえる歌、民謡を損なうような方向に進まぬよう、くれぐれも注意してもらいたい。
モンゴル国としても、昔ながらのスタイルを保っている音楽家、演奏家をより尊重・優遇 し、モンゴルの伝統音楽の独自性を守るとともに、次世代への教育・継承により力を入れて くれることを願う。
ノロヴバンザトは私に、弟子として近しく接することを許してくれた。代わりに、モンゴ ル音楽、モンゴル民謡、オルティン・ドーのことを日本に、そして世界に伝えてくれるよう 私に願った。本稿がそれに応えるだけのものになっていることを願うばかりである。
最後に、私の遅筆に根気よくお付き合いくださった MoPI の斎藤生々さま、
そして小長谷有 紀先生に心から御礼申し上げます。(T)
連載終了によせて・
(小長谷 有紀)
ノロヴバンザトさんとの関わりを中心に、モンゴルの音楽のことを色々と綴っていただき、 ありがとうございました。私にも、わずかながら、ノロヴバンザトさんとの思い出がありま す。私がモンゴルへ留学したのは1979年で、1977年に初めてモンゴル語を勉強してぜひ使っ てみたいと思ったのでした。
それ以前に、ノロヴバンザトさんたちのコンサートが大阪であり、その歌声に魅了されま した。その時は、将来、直接お会いできるなどとは思ってもみませんでした。親しく話した のは 1998 年の国立民族学博物館で大モンゴル展の準備中です。展示に合わせて『アジア読本 モンゴル』を編集するにあたって、作家であるご主人に略伝を書いてもらい、掲載しました。 実は、さらに、みんぱくから撮影スタッフがウランバートルを訪問して人生を語っていただ く予定でしたが、NHK の撮影とバッティングしてしまい、私によるインタビュー記録が叶いま せんでした。私の方は NHK のように報酬は支払えませんが、それ以上に価値のあるものを残 せただろうと思うと、残念です。しかし、その代わりに、梶浦さんが書いてくださいました。 連載、ありがとうございました。お疲れ様でした。
事務局からお知らせ
(斉藤 生々)
「ノロヴバンザトの思い出」梶浦靖子さんの初稿は、2008年2月、モピ通信77号、 10数年に及ぶ投稿でした。原稿がデーターでなかったので、スキャンしても文字化けして、 モンゴル文字のホントがなくて困ったことなど思い出します。でも学ばせていただくことが 沢山ありました。本当にありがとうございました。
最後までお付き合いさせていただけたことが奇蹟かも知れません。
今月号にと、伊藤知可子さんからこの夏の旅行記をいただいているのですが、紙面の都合で209号に 掲載させていただきます。了解してください。
チンギスハーン市の入口 (撮影:伊藤知可子)
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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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