■NO 209号 モピ通信

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『Voice from Mongolia, 2019 vol.58』

  吹田市のイベントに参加して

  モンゴルの東への旅

  事務局からお願い 

『Voice from Mongolia, 2018 vol.58』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「そこまでやらなくても、と思うところもあるけど…。中国政府は教育にお金をかけて いる」

――内モンゴル出身(中国籍)モンゴル人、通訳

内蒙古自治区出身のモンゴル人である友人に、久しぶりに会った。留学生として来日し て長く日本で暮らす彼女は、地方都市においては貴重な中国語通訳として、自治体の国際 交流の現場で活躍して来た。日本育ちの長男が関東の国立大学進学のため家を出、子育て も一段落した現在は、人手不足の農業現場で働く大勢の中国人技能実習生のケアに奔走す る多忙な日々を送っている。

出身地ってどんなところ、と問う私に、自治区内の学校で撮影された中華人民共和国建国 70周年の祝賀行事のスナップを見せてくれた。人工芝のグラウンドで、おそろいの真っ赤 なデールを着た生徒たちがマスゲームに興じている。「これソムの学校だよ、派手でしょう」。 先生方もモンゴル民族、授業はモンゴル語で行われているという。

先日同自治区内を訪れた際、街で耳にするアナウンスは全て中国語だった。ホテルのテレ ビでもモンゴル語放送は1、2のチャンネルに限られていた。自治区とは言え、約2600 万人(2017年)の人口の約8割を漢民族が占め、行政のトップは常に漢民族が据えられ るとも聞いた。彼女の夫はモンゴル民族だが、モンゴル語を話すことはできないという。

帰宅後、パソコンに向かうと、ウランバートルから西へ600キロ離れたアルハンガイ県 チョロートソムの学校の写真が届いていた。MoPI主催の遊牧民の暮らしに学ぶスタディ ーツアーで同ソムのハイルハンバグを訪れたのが縁で、経済的に恵まれない同校の児童・生 徒に、日本からの寄付金で学用品を現物支給しているのだが、活動を現地で担って下さって いるバーギーさんからだった。

その中の1枚は、紺碧の空の下、遊具らしい遊具が見当たらない、ただただ広いグラウン ドで子どもたちがはねている写真であった。大人の事情など入り込む余地のない、ありあま る自由時間がそこに映っているように、見えた。

2年前、北海道十勝のロータリークラブからの寄付金10万円を同校に取り次いだことが あった。「何でも必要とすることに使ってもらえれば」と言われた先生方が協議して決めた使 いみちは「授業で使う教育用備品」。書類を綴じる機材、A4用裁断機、そしてプリンターのインクや大量のコピー用紙、ラミネート用紙などの消耗品、そして教員や事務職員ら全員に セロハンテープや糊、色紙、ボールペン、マーカーなど事務用品が分配されたと報告を受け た。私がウランバートルの小中学校で日本語を教えていた2000年、先生方が授業で使う 画用紙やマジックを自腹で買っていることに驚いた。それから20年近くたち、経済成長の 時期もあったはずだが、教育現場の事情はさほど変わっていないのだった。

モンゴル国へ行ったことがないという彼女は「次に行くとき、連れて行って」とも言った。 同国の、ハルハ族の人々の間では、内モンゴルの人々について、中国人と混血が進んでいる ことなどを理由に、あまり親近感をもって語られないように思う。歴史的な中国への拒否反 応、経済格差も絡み、複雑な感情があるのだろうが…。彼女の目に現在のモンゴル国や人々 がどう映るか、ともに旅して聞いてみたい気がする。

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今月の気になる記事

前回に続き、1939年のノモンハン事件についてのモンゴル人ジャーナリストによるエ ッセイをお送りする。残虐な、殺しの、虐殺――今回の翻訳では、使い古したモンゴル語辞 書で、日常生活であまり使うことのない単語を数多く調べることになった。悲しいことに、 過去の日本の行為を言い表すために。「勤勉」「礼儀正しい」「技術の」日本、「平和主義の」 日本では全くなかった20世紀前半のわが国が、大陸で何をしたか。現在を生きる多くの日 本人にとっては生まれる前か、幼い頃のことであり、責任はないことではあるが、なかった ことにはできないし、ならない。わが町に大挙して踏み込まれ、好き勝手に「開発」された 大陸の人々の目に映った帝国日本と、現在の国際情勢にも話は及ぶ。

現地報道によると、戦場となったモンゴル国の東国境・ハルハゴルソムでは、80周年に ちなみ、ロシアの石油大手ロスネフチ社が800万ユーロ(約9億6千万円)を提供し、ソ ム役場、公民館(250席)、病院(20床)、学校の校舎(650人規模)に寄宿舎(18 0人収容)、保育園(150人規模)、体育館などが建設され、オープンした(モンツァメ通 信、9月5日付 montsame.mn/mn/read/199641)。

(続)ハルハ川の被害者は誰だ? 
(筆者:バーバル)

日本、中国、ソ連、台湾、米国、モンゴルから多くの証拠が、ハルハ川の歴史的勝利を喜 びとともに祝賀し続けてきたモンゴル人の前に、ひとつ、またひとつと、次第に明らかにさ れ始めた。ハルハ川の戦いで何人の兵隊が戦死したか、ソ連軍の爆撃で兵隊6万人が死んだ だの、日本軍はモンゴル人民共和国を占領した後、シベリア横断鉄道をたどって、モンゴル を植民地にして、人民を奴隷にすることを目指していただの、というのが全て嘘だったこと が文書館で見つかった新たな資料で判明しつつあった。チタの軍文書館を発掘調査したГ.ク リボシエフ陸軍大将は、新たな資料に基づいて「ロシアとソ連の 20 世紀における戦争の損失」 にまとめ出版したが、そこにはソ連側の損失が日本側より何倍も大きかったことを資料で証 明した。勝ちさえすれば死者が出ることを顧みないジューコフのやり方は、ここで最初に実 行に移されたのだという。また、でっち上げの国境紛争、それに乗じて交戦するのは、当初 からスターリンの作為によるものだったとした。そこには、モンゴル人たちの被害は「19 21頭の馬、ラクダ」との記録があったという。事実は真実よりも重要、との言葉があると おりである。

モンゴルの軍文書館の記録では、モンゴル人戦死者は237人とされた。ソ連の爆撃機が ハマルダワー上の馬に乗り列をなしていたモンゴル人民軍をバルガの騎馬隊と勘違いして空 襲、逃げるのを上から機銃掃射し、約90人の兵隊をなきものにした。さらにこの誤爆をな かったことにするため、ハルハ川の戦いでモンゴル師団長ロブサンドノイ、将軍ツェレンら を日本軍の飛行機をわざと引き付けて空襲させたと中傷して銃殺にした。これにとどまらず、 ハルハ川で戦った多くの将兵が日本のスパイ扱いされ、その損失は実際に骨などが見つかっ ていない者も含めて、戦死者の3分の一にも及ぶという情報もある(ロブサンドノイについ ては、1957年、ソ連が急いで名誉回復し、誤りを認めるに至ったが、モンゴル側はこの事実を握り潰し、1969年の30周年祝賀の冊子においても彼を裏切り者として貶められ た)。実際に戦場で戦った何人がそこで亡くなったのかもはっきりしない、それはモンゴル側 からは第6-8騎馬隊が参戦し、彼等は近代的兵器を持つ日本兵と相対せず、待ち受けてい たのは「満洲国」側のバルガ・モンゴル人騎馬兵だった。バルガは日本人を支援するどころ か、日本人を妨害していた。理由は戦いに際して、彼等は兄弟であるハルハの人々と戦わな い、日本のために死んでたまるか、との掛け声、スローガンが騎馬兵団の間にかなり広がっ ていたのだという。

ハイラルに駐留していた関東軍の国境警備の兵力は、モンゴル人民共和国を占領し、それ を足掛かりに極東に展開することなど及びもつかない、乏しい武器で、大規模の国境紛争に も対応できない規模に過ぎなかった。東京からの命令によると、満洲国とモンゴル人民共和 国の境界をめぐる紛争を解決する義務は負っていたが、外モンゴルの国境を一歩たりとも侵 すことは固く禁じられていた。その上、この戦いで日本側のトップだった小松原大将は、ソ 連のスパイだったと判明した。このような多くの資料を歴史学者のラブダン・ボルドが米国、 台湾の文書館で調査し、数冊の冊子を出版した。物証は真実より重要なのである。

ハルハ川の戦いの結果、紛争とは何ら関係なかったヌムルグ川の左岸にあるマナ山を、モ ンゴル人は失うこととなった。ソ連と日本がモスクワで講和の協議に入った9月12日、日 本側は突然侵入し、「不規則的な」動きを見せたと言われている。このことにより、モンゴル 人民軍第22騎馬兵隊は現在に至るまで裏切り者として責められ、後退したと攻撃され続け、 同隊に所属した兵士はハルハで戦ったことを隠すに至った。戦いの歴史をたどると、マナ山 はバルガによって占領されたようだ。なぜなら、ハルハ川の戦いでは、誰もなぜ戦っている のか、どの地域で戦闘をするのか、守る境界はどこからどこなのか、モンゴル兵もバルガの 騎兵も全く知らなかったのである。そのことをソ連も日本も、誰も彼等に言ってくれなかっ た。モンゴル人民軍は日本軍相手でなく、バルガ兵との戦闘が割り当てられたため、マナ山 を占領されていたのを、日本人からでなくバルガから解放するのが任務であったのだ。モス クワでの講和会議で両者によって取り決められ、現在の持ち場から移動を禁じる命令が突然 下され、第22騎兵隊はどうすることもできなかった。

近年になって、モスクワの歴史文書館の大学教授であるA.クルシニリ二ツキーと歴史学者 のB.ボロノフ、E.トリフォノブらの研究により、ハルハ川の戦いについての新たな資料が 世に出された。論文は「ハルハ川の戦い:勝ったのは誰だ?」という書籍に編集され、ネプ コから出版された。そこには、これまで全く知られていなかった驚くべき事実が数多く記さ れている。戦いが起こるはるか前からソ連は戦いに備えてモンゴルの国土に3万2千人の兵 士と大量の機材を引っ張って来ていたという。日本・満洲国側の兵隊が境界を越えた事実は なく、彼等が動かないために、モンゴル兵の制服を着たソ連のスパイらが国境のむこうに侵 入し、警備隊を銃で撃ち、混乱の口火を切ったらしい。ボイル湖付近で、モンゴル側の警備 隊の前哨に日本兵が侵入したことで戦いが始まったと長年歴史に記されて来たのは嘘で、そ のような前哨そのものが存在しなかったというのだ。ソ連はハサン湖で日本の軍人を銃撃し、 騒ぎに乗じて戦いを始めたが、次の挑発についてはモンゴルの人気のない辺境地域で行うこ とを早くから計画していたようだ。国境の紛争地帯というのはソ連軍のスパイが地形から意 図的にでっち上げた、などなど。証拠は真実より重要、なのだ。

スターリンは人類の歴史において、稀代の戦略家のひとりである。ハルハ川の戦いで勢い を得て、第二次世界大戦において極東の安全保障を揺るぎないものにした。ハルハ川の戦い のおかげで、南の隣人モンゴル人民共和国を完全におとなしくさせ、対外的にも国内的にも 反逆しない忠実な僕になった。ハルハ川の戦いのおかげで、日本と戦っていた中国の共産主 義者、国民党側両者から信頼を勝ち得た。いくらモロトフ・リッベントロップ協定(訳注/1 939年8月に結ばれた独ソ不可侵条約)で面目を失ったにしても、ハルハ川の戦いのおか げで、後の連合国と協定を結ぶ道が開かれた。

世界大戦当時の日本は「平和の白い鳩」ではなかった。世界を破滅させようとした主犯格 (日本、ドイツ、ソ連、イタリア)の一角を占め、残虐な軍事政権に率いられた日本は中国 と8年戦い、オーストラリアを爆撃し、パールハーバーを不意打ちで攻撃、ビルマを焼きつ くし、台湾と韓国を植民地にした。南京で虐殺に手を染め、満洲では想像を絶する殺戮を行 う研究所を運営して、捕虜となった兵隊たちは収容所で地獄の苦しみを味わった。日本軍が 挑発した戦争で自国とそれ以外で何百万人という人々が命を落とした。戦後70~80年が 過ぎた今でも中国、韓国の人々の不満は途切れなく続いている。

とはいえ、日本はモンゴル人民共和国を侵略する方針は持っておらず、もっと言えば独立 を承認する構えも見せていた。中華人民共和国の国土で暮らすモンゴル人に対して、特別に 親しみをもって接していた。彼らに文化的な生活をさせ、中国人から保護し、援助する配慮 を見せたのだ。歴史上の勇猛な侵略者だったモンゴル人に対し、日本人は、平たく言えば、 尊敬の念を抱いていたようだ。当時、日本人は外モンゴルと国交もなかったが、モンゴル研 究が他国より進展していたことからも伺える。

こんにち、なぜ親愛なる同志ウラジーミル・ウラジミロビッチは突然、ハルハ川「戦争」 と言い始めたのだろう。われわれに何をさせようと、どこへ引っ張っていこうとしているの だろうか?韓国と日本の諍いは以前より激化し、大統領さえ巻き込んだ言い争いになった。 中国と日本の不和も何年も続いており、領土をめぐる争いに発展した。マラッカ海峡の通行 をめぐって多くの国が揉めている。ポツダム、ヤルタで規定されず、正当な手続きなく取り 上げられた四島をめぐり、話し合いで解決したいと言う日本の首相の毎回の努力は無碍にあ しらわれている。上海協力機構の名の下にした連携も次第に軍事連合の様相を見せ始め、気 付いたらNATOに対抗する新たなワルシャワ条約機構に姿を変える?中長距離ミサイルを 制限する、ロシアと米国の合意を反故にすることをトランプは表明した。

国際的な制裁と国内不況のさなかにあるロシアは、冷戦時代に整備され、時代遅れとなっ た核兵器を大量に保有する。軍隊という機構自体が明確に時代遅れなのだが、その遅れを大 急ぎで解消するために、何でも構わず「抵当」に入れて、歴史の一歩を刻む、あるいは緊急 事態を念頭に急いで軍隊を準備しているのかと推測する専門家もいる。国内の支持を日に日 に失っている同志ウラジーミルにとっては、何か「担保」にできるものを、とクリミアより 広範に、国際社会を巻き込んだ協議に持ち込む一手を計画することもありうる。いずれにせ よ、国内外からの圧力がかかる今、道徳的に歴史を刻んでいる場合ではないか?現在のロシ アと比べ、はるかに自由な民主国家となったモンゴルにおいて、ハルハ川の戦いの記念行事 にかこつけ、どんな手品を世界に見せようと考えているのか、「ダラゴイ・タバーリシ」(ロ シア語で『親愛なる同志』)ウラジーミル・ウラジミロビッチ?

2019年8月11日 ウェブサイト http:// http://www.baabar.mn/article/khalkh-gold-khen-khokhirow  (原文モンゴル語)

(記事セレクト・翻訳=小林 志歩)

※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください

志歩さんのレポートは興味深く拝読しました。

内モンゴル自治区がウィグル自治区やチベットのように中国化されてかつ迫害されている と思っていましたが、必ずしもそうではない面があると感じました。 そしてノモンハン事件のあとのソ連の動き、スターリンによる粛清等々凄惨な時代がモンゴ ルにもあったことは知りませんでした。

(吉崎 彰一)

堺市のイベント(世界のお茶 D\de アフタヌーン cha)参加して

(石井 菜倫)

9月23日、さかい利晶の杜の主催イベントにお招きい ただき、モンゴルの代表的な飲み物であるスーテーツァイ を紹介させていただきました。

モンゴルのお茶―「スーテーツァイ」はミルクティーで す。伝統的なスーティチェの茶葉はレンガ茶です。昔のモ ンゴル人にとってレンガ茶は贅沢品でした。お茶一個手に 入れる為に羊一匹を代金として交換するときすらありま した。今になっても祭典や結婚式など大事な行事の時、 人々はお茶を供えたり、プレゼントしたりする慣習があります。

モンゴル人の一日の食事は「二茶一食」と言います。モンゴル人は力強い民族というイメ ージで、お相撲さん達もこの「二茶一食」という食生活で育ったのかな?不思議に思われま すね。モンゴル人の「二茶一食」をもっと理解してもらう為に食べ物の話をしました。モン ゴル人の「二茶一食」をもっと理解してもらう為に食べ物の話をしました。

モンゴル人のお茶と食べ物は密接な関係があります。昔からお茶は乳製品と肉を食べるため にあると思う人もたくさんいます。

モンゴル人の食べ物は“赤い食べ物”と“白い食 べ物”と分けます。“赤い食べ物”は肉類を指し、 “白い食べ物”は乳製品を指します。お茶の食卓に 必ず「赤と白食べ物」が出されます。“赤い食べ物” と“白い食べ物”を食べる季節、作り方なども話を しました。野菜はあまり食べない、魚も食べない、 肉と乳製品ばかりの食生活、健康的に問題ない?

しかしモンゴル人の健康のレベルは非常に高いです。

寒い天気でも薄着で1日中馬に乗り続けていられるのです。

次にモンゴル人の健康の元になっているアイラグ(馬 乳酒)の話を、馬乳酒を造る「酸乳」とは乳を乳酸菌で 発酵させてできた発酵乳のことです。

日本のカルピス社の創業者である三島海雲は、青年時 代に内モンゴルの地で、胃病になり、現地の人に勧めら れるまま飲んだ酸乳(発酵乳)により体が回復した体験 から「酸乳」をヒントにカルピスを作った話をしました。 最後にスーテーツァイが出来上がり、参加者の皆様と乳製品やバター、揚げ菓子、塩茹羊肉、粟などをいれて いただきました。当日、天候が悪いにもかかわらず、たくさんの方が参 加してくださいまして楽しいお時間を過ごせました。ありがとうございました。

斉藤様、福島様、伊藤様にご協力いただき、心から感謝 いたします。

モンゴルの東への旅

(伊藤 知可子)

8月5日から8月14日までモンゴルへ行ってきました。今回は、まだ行ったことのない モンゴルの東ドルノド県への旅でした。全行程2600Km、車での移動が長く、最東端の 村ハルハゴル村は本当に遠かったです。 ハルハゴルは日本では1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争)の激戦地 でもあり、中国内蒙古自治区との国境の村でもあります。先頭の傷跡が残っている地でした。

8月6日(火)土砂降りの中を8時30分頃出発。今年の夏は雨が多く、幹線道路は通行 できても 地道の多い地方は、ぬかるみや水たまりが予想でき 通行できるかもわからず 雨の中の旅行になりそうでした。ヘンティ-県手前のバガノ-ルまでは道路工事のため迂回 しましたが、それでもでこぼこの泥んこ道を水しぶきをあげながら進みます。この日はヘン ティ-県のチンギスハ-ン市(ウンドウルハ-ン市)まで行きました。午後4時過ぎに到着 し、休館の博物館を開けてもらって見学しました。エルデネがどのように交渉したのか分か りませんが、すんなり開けてくれたのでびっくりしました。チンギスハ-ン市はチンギスハ -ンに関係した場所や記念碑が多くあり、その一つのダダルはチンギスハ-ン生誕の地と言 われ、今大規模な建物が建設中だとのことでした。泊ったところは、郊外のツ-リストキャ ンプにあるロッジでした。夜になると雨は上がったものの風が出てきて寒くなってきました。 同行の2人は半そでで平気でしたが、私はあまりの寒さに思わず着込んでしまいました。

翌日は、ドルノド県のチョイバルサン市まで。なだらかな丘陵地帯がどこまでも続き、雨 が多い分草原の緑は色濃くきれいでした。何時間も車に乗っていて景色はさほど変わりませ んが 飽きることはありません。緑がどこまでも続く景色は大好きです。午後3時半、小雨 の降る中 郷土史博物館へ行ってみました。地方に行った時は よく郷土史博物館を訪れま す。その土地の歴史や人々の暮らしのようすが分かるからです。この地の博物館の展示品は、 ハルハ川戦争の地であるため、戦争関係の物が多かったです。ドルノド県になったのは19 37年で、16のソム(村)があるそうです。チョイバルサン市は、ドルノド県の県都でか つてのチョイバルサン首相にちなんで名づけられた町で、モンゴル東部の最大の町だそうで すが、だだっ広い感じでした。市内にはバスも走っており、車も多く その大半はトヨタで プリウスが目立ちました。

の不安はありました。この辺りから景色が変わりました。丘陵がなくなり360度見渡す限 り平原なのです。草丈が高い草の海がどこまでも続きます。メネン平原です。轍が残る道を 走りました。悪路で水たまりがあちこちにあり、そこをバシャッバシャッと水しぶきをあげ て進みます。スピ-ドはそれほど落としていないのですが、なかなか距離が稼げませんでし た。16時半ごろ、あと160Kmの表示を見つけました。道には轍があちこちあり どこ を進んでいいのか私には分かりませんでしたし、エルデネにしても初めても道なのに、迷う ことなく道を選んで運転していました。この勘の良さはいつも感心します。と、道を遮るよ

外国人がハルハゴルへ行くには、手続きが必要です。 まず、ウランバ-トルで誰が、何の目的で行くのかを 申請し、その申請のコピ-を持参しなくてはいけませ ん。ここチョイバルサンの国境警備隊駐屯地で申請の コピ-とパスポ-ト、入国月日のスタンプを提示しま す。その許可を得て この先の旅ができるのです。し かし、問題は ここから先の道路事情です。悪路の上 雨の影響がどこまであるか 通行できるか等あちこ ちで情報を集めました。何とか行けそうだと分かり、 翌日小雨の降る中 お昼ごろ訳360Km先のハル ハゴルへ向けて出発しましたが、帰りは大丈夫なのかうに遮断機が下りている場所にさしかかりました。国境警備隊の駐屯地です。ここで入村許 可証や運転免許書、パスポ-トの提示を求められました。モンゴル人だけなら何の問題もあ りません。通過後ひたすらハルハゴルを目指しました。平原にはゲルも家畜も見当たりませ ん。この辺りは水がないので家畜を飼えないそうです。すると また駐屯地があり またパ スポ-トなどを提示しました。中国との国境が近いので警備が厳しいとのことでした。ぬか るみの中を時速60~80Kmで走るので車はどろどろ。ボイル湖が見えてくると、ゲルや 家畜の姿を目にするようになりました。今日の宿泊先は ボイル湖畔にあるツ-リストキャ ンプです。到着が暗くなってからだったので、ボイル湖の大きさは分かりませんでした。こ こには蚊はいませんでしたが、5mmほどの大きさの虫が多く、寝るときには耳栓をするよう に言われ 思わず「エッ!」でした。こんなことを言われたのは初めてでした。 翌朝、湖に行ってみました。モンゴルで 5 番目に大きい淡水湖で、対岸は中国です。国境が 水上を通るのはここボイル湖と西のウブス県のウブス湖の2つです。国境を身近に感じるこ とのない私は不思議な気がしました。ボイル湖畔にはツ-リストキャンプが 4 つほどあり、 チョイバルサンの人々が観光で訪れる場所だそうです。湖の水で車をきれいに洗った、午後 1時頃出発しました。

午後4時、ハルハゴルの村が見える丘に到着。 ソ連軍とモンゴル軍の戦勝記念塔が立っており、
その下に広がる村は ここが激戦の地だとは信 じられないのんびりした小さな村でした。また、 郷土博物館に行きました。ノモンハン事件の資 料、当時の両軍の武器や軍服、国境の石碑など が展示されてありました。日本軍の物もあるよ うでしたが、モンゴル語の表記なので分かりま せんでしたが、どういう訳か日本の物と思われ る展示物の中にキリンビ-ルの一番搾りの瓶 (ラベルはきれい)が展示されてありびっくり しました。一番搾りが当時あった訳はなく不思議でした。また、ノモンハンの遺骨収集の話 は聞いたことがあり、その時の写真も展示されていました。敷地内にはソ連軍の戦車や旧日 本軍の大砲なども置かれていました。その後、激戦地の跡に行ってみました。入り口にまた 国境警備隊の駐屯地があり許可をもらいました。中国との国境まで約6Kmほどだそうです。 入り口から3Kmほど行ったところがその地で、両軍の車や飛行機の残骸や薬莢、さびた弾 丸などがそっと置かれていました。それらをモンゴルの子供たちにも見てもらえるようにし てありました。砲弾が落ちた後のような窪みもあり、日本兵の慰霊の塔も立っていました。 土地に起伏があり 見通しが悪い場所もあり、今は草がぼうぼうに生えており、ただただ静 かな場所でした。ここが激戦の地かと思うと、戦争を知らない私でも怖さを感じ、胸が締め 付けられる思いでした。村に戻り、宿泊できるところを探しました。小さな村なので宿泊施 設がほとんどありません。博物館で宿泊できるのですが、何となく気持ちが悪いので 別の 場所を探しました。何とかベットだけがある小さなホテルを見つけることができました。東 の端の村でも走っている車はトヨタや三菱やホンダの車が多かったです。

翌日は戦争記念碑や戦死者の墓を回り、フフ・ ウンドリ-ン・オボ-を見に行きました。何もな い草原に突然巨大な菩薩のレリ-フが現れまし た。中国の清王朝期に作られた物だそうです。こ こにも駐屯地があり、見学の許可をもらう必要が ありました。ここからは帰り道。

まずチョイバルサンまで戻りましたが、平原で すれ違った車は10台ほどで、追い抜かれること もありませんでした。これは行きも同じです。道 は相変わらずの泥道で、時々横滑りしながら走るので、車はあっという間にまたドロドロになりました。この日はホテルで一息入れ、シャワ -を浴びてホッ。

8/11はウランバ-トル方面に向かいました。今日は良い天気で、久しぶりの太陽でした。 チョイバルサンから少し行ったところ(と言っても4時間ほど)にあるヘルレン・バルス・ ホト遺跡に立ち寄りました。10世紀頃に勃興したモンゴル系の部族 契丹が中国に建国し た「遼」の仏教遺跡だそうです。草原にポツンとこの塔だけが残されており、中はガランド ウで 鳥が巣を作っていました。モンゴルにはこういう遺跡が結構あって、どれも草原の中 にポツンと残されている物が多いです。

今日の宿泊は、ハル・ゾルフィニ-・フッフ湖の畔にあるツ-リストキャンプ。チンギスハ -ン市を過ぎ、2時間ほど過ぎたあたりで横道にそれ、暗くなりかけた道を進みます。

ガタガタ道を森の中へ入って行きました。こんなところに湖やキャンプ場があるのかと疑いたくなるようなところでしたが、突然明かりが見えてきました。

小雨が降っており、気温はどんどん下 がってきました。寒くてしかたなく、足が冷た くなり、寝るときには足にカイロを貼るほどでした。この近辺はチンギスハ-ンが統一国のハ -ンになったところだそうで、歴代のハ-ンの 彫像が柱に彫られていました。ウランバ-トルから車で3時間ほどの所なので、モンゴル人 がよく訪れる湖だそうで、観光客でにぎわっていました。翌日、ウランバ-トルに帰ってき ました。

今回の旅は、戦争の爪痕が残るハルハゴルへの旅でしたが、また違ったモンゴルを知った ように感じました。観光地ではないので、外国人とは全く会わず、国境に近いためパスポ- トを持参したり、入村許可書までいるなんて思ってもいませんでした。(以前 ロシアとの国 境の町アルタンボラグに行った時は、何の問題もありませんでした。)中国との国境の警備の 厳しさに驚きました。草原や平原を移動することが多かったですが、退屈することもなく、 楽しく旅をすることができました。

事務局からお願い

(斎藤 生々)

近頃は、モピが活動できるイベントがなく、会員の親睦を持つ場がなくなっている現状 が続いていますが、モンゴル学習支援事業は、好評を得て活動しています。

この事業を行うために大量の荷物を移動するための車(レンタカーを利用しています)、 運転してくださる方、おいでにならないでしょうか。お願いいたします。

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事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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