■NO 212号 モピ通信

 人類学者は草原に育つ

『Voice from Mongolia, 2020 vol.61』 

 草原で育った牛の脂がちがう

 新年会報告 

小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ

(臨川書店フィールドワーク選書)9

変貌するモンゴルとともに

民間財団の留学試験

ある民間財団の留学生試験を受けようと上京した。審査委員 のなかに政治学者の衛藤瀋吉先生がいらっしゃった。名前にあ る「瀋」の字は、瀋陽(かっての奉天)生まれであることを示し ている。彼のお父上が奉天にあった満鉄図書館の館長であり、ご自身の生活史の広がりのなかで、 戦前、戦中における日本人のモンゴルでの活動を熟知していた 方だと言えるかもしれない。試験場で、私がモンゴルへ留学し たいという希望を述べると、彼は、かつてモンゴル草原に赴き、 女子教育に尽力した河原操子の名を持ち出して、がんばりなさ いととても応援してくださった。

コードネームをもつスパイでもあったとされる女性に例え られて、少々傍ら痛くはあったけれども、時代のちがいは、わ ざわざ抗弁せずともおのずと明らかなはずである。

ともかく、審査委員のなかに大きな味方を得たようなものであり、私は無事に民間の奨学 金留学を得ることができたのだった。そこで、こんどは、東京にあるモンゴル大使館に連絡 した。

「奨学金を得たのでモンゴルへ留学させていただきたいのですが、どうすればよいでしょ うか」と素朴な質問をしたわけだ。

ところが、にべもなく断られた。モンゴルへの留学は交換留学制度しか許されていないと いう。とりつく島もなかった。こんなふうに目的地へ留学できないとなれば、奨学金もみす みす放棄しなければならないのだろうか。

またもや赤信号に阻まれることになったとき、私はやっぱり青信号を探した。せっかくも らえることになったものを努力せずに手放すことはない。別の国へ留学してでも、目的のモ ンゴルへ近づこう。

アメリカじゅうの大学から、当時、自分の所属していた地理学科があり、モンゴル語を学 ぶことのできる大学はどこかを探したところ、インディアナ大学とカリホォルニア大学バー クレー校が浮上した。インディアナ大学は、現在でもアメリカにおけるモンゴル研究の中心 地である。ここがいい! いろいろな手続きを得て、ようやく準備を整えつつあったころには、 もう一年近く経っていた。翌年のモンゴル留学試験の季節がめぐってきていた。

いよいよモンゴルへ

ある日、文部省から電話がかかってきた。今年はモンゴル留学試験を受けないのか。とい う。女子だからという理由で行かせなかったのに、今さらどういうつもりだろうか。受けま せんよ。そんなもの、とでも啖呵を切ってみせればよかったのか。とりあえず、おとなしく 電話口で相手の話を聞いていると、今年はあなたのような女の子がもう一人いて、二人なら よいのではないか、という話になっている、という。

それは聞き捨てならない話だった。私としては一人だろうが、二人だろうが、はたまた三 人だろうが、念願がかなうのだから、何の問題もない。

あらためて、留学試験の日程を聞き、受験のため上京した。モンゴル語科から受験した人 たちは、当然、私をはるかにしのぐ語学力を有していたにちがいない。けれども、一年前か ら待機していた私にチャンスが与えられた。

こうして、日本人の女性として初めてモンゴルへ留学することになった。もう一人の女の 子というのは一ノ瀬恵さんであった。現在、富山大学で言語学の教授をつとめる呉人恵(くれ びとめぐみ)さんである。彼女は、いまではモンゴル語からやや離れて、コリャーク語を専門 に研究している。

こうしてモンゴルにいくことになった結果、例の民間奨学金は当初の目的どおりに使える こととなった。というのも、ユネスコ局が管轄していたモンゴルとの交換留学制度は、生活 資金となる奨学金を毎月現地で支給するものであり、渡航費を支給しないからである。民間 奨学金をありがたく旅費にあてさせていただいて、私は渡航した。

北京経由の旅

1979年の夏の終わり、9月1日から始まる大学に間に合うように、私たちは北京に到 着した。日本のどこから飛び立ったかという記憶はあまりない。関西国際空港ができるはる か以前のことだから、多分、成田国際空港からだっただろう。出発地点の記憶が曖昧である のに比べて、途中、北京で宿泊したホテルのことははっきり覚えている。その壮大な構えに 圧倒され、部屋の広さや天井の高さにあきれた。

けだし、それは、私にとって初めての社会主義空間だったのである。1966年から始ま った文化革命はすでに1976年に終わっていたし、1978年からは改革開放政策も始ま っていたが、まだまだ人びとは新しい動きを疑いながら観察しているという感じだったよう に思いだされる。少なくとも、タクシーの運転手さんは、日本人女性二人を乗せることにな ってどぎまぎしている様子だった。広場に私たちが忘れ物をしても、誰も取っていく人はな く、しばらくして戻るとそのまま置いてあった。相互に監視し合う猜疑心がそうさせている ようだった。

余裕綽々あるいは威風堂々。そんな空間しは対比的に、おそるおそるうごめく人びと。こ うして改めて思い起こしてみたとき、意外にも印象深い存在となっている北京飯店は、その 後、私が社会主義圏の実態を研究することになる最初の契機だったのかもしれない。

私たちは、団魂の世代と団魂ジュニアの世代のあいだにある。大量と大量のはざまにあっ ては少量の世代なので、市場からターゲットとみなされたことがない。商品開発上、無視さ れてきた世代である。競争が激しく他人を蹴落とすのに忙しい世代が上にいて、自由奔放な 親に好きにしなさいと言われて育った世代が下にいた。そのあいだで、苦労は買ってでもし ろと育てられてきた世代である。

社会主義との関係でいうと、かぶれるのには遅すぎて、しらけるには早すぎた時代である。 そして、ありがたいことに、留学のチャンスが与えられるようになった時代でもある。その おかげで、社会主義を思想としてではなく、リアルに体験することができたのだった。マル クスを語らずに社会主義を研究するなんて、私より上の世代では考えられないことができる。 そんな出発点が、この北京飯店での一泊だったように思い出される。

実は、モンゴル人民共和国への日本からの留学は、その前年まで、新潟から船でナホトカ 経由もしくは新潟から飛行機で直接ウラジオストックまで出て、そこから列車でハバロフス クへ向かい、そこからイルクーツクまで飛行機で飛び、イルクーツクからモンゴルのウランバートルへ飛ぶという北回りルートしかなかった。私たちは日本から初めての女子留学生で あるというばかりではなく、日本から初めての南回り、すなわち中国経由で入国する留学生 でもあったのである。中国における改革開放経済の恩恵を受けていたのだった。

(つづく)

『Voice from Mongolia, 2020 vol.61』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「牛の放牧に牧人は常時付き添わない。6月から9月頃までの本格的な乳しぼり期間中は 朝の乳しぼりから夕方の乳しぼりまでの間、母牛と仔牛は別々の草地に放牧される。(中略) ところが、10月以降乳量が少なくなると母子牛は一緒に放牧され、夕刻休息場に帰らない こともある。現に一昨日、牛群の約半数15頭が牧地で夜を過ごしたのである」 ―三秋尚「モンゴル 遊牧の四季 ゴビ地方遊牧民の生活誌」(鉱脈社、1992年)より

凍てついた道路を車で走り、出田牧場に着くと、雪をかぶった放牧地でホルスタインの群 れがくつろいでいた。その数、およそ百頭。冒頭の引用の舞台は30年近く前のモンゴルだ が、私がいるのは2020年年明けの北海道・十勝。酪農家のほとんどは牛舎で牛を飼って いるから、放牧風景を目にすることはそう多くない。ましてや今は真冬である。

帯広市から西へ約40キロの清水町、剣山の麓で放牧酪農を営む出田義國・基子さん夫妻 の牧場には、自ら準備したサイレージ(牧草を栄養価の高い時期に刈り、発酵させた牧草) を好きなだけ食べさせる、屋根だけの給餌舎と、仔牛用の小屋はあるが、牛舎はない。一年 を通じて放牧地で暮らすホルスタインたちの毛はモフモフとして、陽光に照らされ輝いて見 える。零下20度にも冷え込む厳冬期、牛は凍えることはないのだろうか。「牛は強いよ」。 義國さんは静かに、言った。

4輪バギーの使えない冬の朝、義國さんは区 画された放牧地を歩き、牛を搾乳舎へと誘 導する。毎日放牧地は変更される。この時期、 雪の下に草があるわけではないが、牛たちは日 がな雪の上に寝そべって過ごす。眼下には十勝 平野、明治時代以降に本州から移り住んだ人々 が切り拓いた田園風景が広がる。 「おもしろいものを見せてあげよう」との言葉 に、義國さんの方を見ると、牛の尻尾の毛が水 平方向に広がるように生えている。この毛で平 たくなった尻尾がはりつき、肌の露出したお尻 の穴の周囲を寒さから守っているのだという。 生命の持つ力、生きのびようとする強さに、胸 が熱くなった。

離農した農家の土地が売りに出ると聞いた出田夫妻が、雪道をものともせず、この地に車 を走らせたのは1977年の冬。着いてみると、岩だらけの傾斜地39.5ヘクタールのう ち、草地は14ヘクタール。立札には「熊出没注意」とあった。

当時は、酪農の機械化、合理化を進めるために、莫大な借金を背負って牛舎や機械を入れ て頭数を増やすか、さもなくば離農か、農家は苦しい選択を迫られていた。農業を諦め、ふ るさとから出て行かざるを得なかった家族たちの、後に残された農地は、できるだけ周辺の 農家が引き受ける形で整理される。「残り物のどうしようもない土地だったかと思うが、酪農 には適していた」。それから40年、熊笹のしげる雑木林は緑の放牧地に変わった。たゆまぬ 牛たちの営みとご夫妻の汗によって。以前は購入していた乾草も、現在は自ら収穫したものでまかなう。北海道と聞いて思い浮かべるイメージどおりの風景は、大手乳業会社の広告に も使用されている。

幼くして海軍士官の父を亡くした義國さんは、転居を繰り返し、中学を出ると佐世保の造 船所で技能工として働いた。「本当にしたいのは、人間のために食糧を作る仕事」と一念発起 し、農家を目指して岡山大学農学部に進学したのが二十歳のとき。東京オリンピックの開催 された年のことだ。

卒業後は大学で出会った基子さんと結婚、夫婦で岡山県内の公社牧場で働いた。牧場が火 事に見舞われ、転職を余儀なくされた時期に出会った搾乳牧場の経営者に「赤字続きの経営 を立て直してくれたら、牧場をまかせてもいい」と頼まれ、北海道へ。学生時代から思い描 いた放牧を実践したら、「牛が変わる、病気が減る、そして牛乳ががんがん増える。おもしろ くて、おもしろくて、寝る暇も惜しかった」。放牧に絶対の自信を持ったのはこの時だったそ うだ。

義國さんが大学で草地学を教わったのが三秋さん。「牧草は雑草より強い。家畜に食べられ、 踏まれても育つ草の中から、長い年月をかけて人間が選び抜いて育種したのが牧草だから。 先生の言葉を今でも憶えているよ」。

三秋尚・宮崎大学名誉教授は、1976年からモンゴルの草地生態と牧畜を調査し、60 歳代半ばを過ぎて、92年のゴビプロジェクトに参加した。バヤンホンゴル県ボグドソム・ ツェルゲル村での 1 年にわたるフィールドワークの成果である「モンゴル遊牧の四季」は、 遊牧生活をつぶさに観察した記録であり、女性や子どもたちへの視線から温かな人柄が伝わ る。三秋さんは、モンゴルの遊牧について、「人間が生きる極限に近い過酷な自然環境と、そ こに生きる人間のたくましいエネルギーが織り成す生活の舞台であって、魅惑的、牧歌的な 風景はただ通りすがりの異邦人の目に移るだけなのである」と書いた。

「酪農家なんて、夢のまた夢だと思っていた」と話す義國さんの夢は、現実になった。一方 の私は、その朝搾られた、そのままの牛乳の濃厚なおいしさと、牛たちのくつろぐ銀世界の 静けさに、夢の中にいるような気がした。

(会員・フリーランスライター 小林志歩)

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今月の気になる記事

MoPIが活動を開始してから20年目に入ったとのこと、おめでとうございます! 今回は20年をお祝いして「20」にちなんだ記事をいくつか、お届けします。

まずは、中国の内モンゴル発の記事のモンゴル語訳で、国境を越えたモンゴルの人々のパ ートナーシップのさらなる発展を願って選びました。2本目は、ニューヨーク・タイムスか らモンゴル観光をすすめる記事です。元の記事の小見出しは、「観光客が押し寄せる前に、モ ンゴルを一目見ておこう(Catch a glimpse of Mongolia before the rest of the tourists get there)」。何を今ごろ、と思われる方も多いことでしょうが、「良さが失われる前に」と いうニュアンスはうなずける気がします。ちなみにアジアからのランク入りはほかに、9位 の東京、23位のKAMPOT(カンボジア)、28位のSABAH(マレーシア)、33位 のタジキスタンなどでした。

「モンゴル語辞典」刊行から20年

(筆者:バイ・リンジ、編集者:Б.アリオハン)

内蒙古社会科学アカデミーは、12月10日に「モンゴル語辞典」刊行20周年と、学者 Ц.ノルジン氏の研究業績を顕彰する学術会議を開いた。

中国の国立中央大学のハスエルデネ教授、内蒙古大学のチョイジンジャヴ教授、モンゴル国立科学アカデミーの学者であるトゥムルトゴー氏、ボルド氏ら、中国の関係機関の研究者 ら100名あまりが参加し、「モンゴル語辞典」の内容、編さんの過程、著名なノルジン先生 の研究論文や業績について意見交換した。

「モンゴル語辞典」の編さん作業が開始されたのは1965年だったが、当時の政治情勢 から制作が頓挫した。72年に編さんが再開され、ノルジン氏が編集を担当し、M.ムルン氏 が参加したことで作業が迅速化した。こうした辞書を編纂し、刊行するまでに様々な形で妨 害や横やりが入ったが、両氏はそうした圧力を乗り越えて、1999年にこの辞典を内蒙古 人民印刷所から刊行した。今年は辞書の刊行から20年にあたる。

「モンゴル語辞典」は、内蒙古社会科学アカデミーと内蒙古師範大学の多くの教員らの共 同作業の成果である。辞典には合計7万語あまりの見出し語を収録、説明は細かく適切で、 正書法に準拠して、モンゴル文字とキリル文字を併記しており、国内外で活用可能な国際的 な辞典となっていることは、参加した研究者の一致した意見である。

会議では、ノルジン氏の後輩や教え子、友人、同僚らが同氏の業績を振り返り、モンゴル 語の辞典、発音、方言などを研究した論文について紹介、モンゴル研究の発展に大きく貢献 したことを高く評価した。

ノルジン氏(1936-2009)は、内蒙古自治区のホロンボイル市にある新バルガ左 旗の出身。1957年から59年に中国・教育省派遣でモンゴル国のチョイバルサン記念国 立大学モンゴル語・文学を専攻、59年から62年まで内蒙古大学でもモンゴル語・文学を 学んだ。62年から98年までの間、内蒙古科学アカデミーでモンゴル語、モンゴル文字研 究に従事した。「モンゴル文字規則」「音声配列と方言」「モンゴル語の語形成後置詞抄録」な どの専門的な論文を執筆。中国領内のモンゴル語・モンゴル文字研究協会の功労勲章、中国 におけるモンゴル語音声の規定に尽力した功労勲章などを受けている。

(出典/mongolian.news.cn )

ウェブニュース  http://www.solongonews.mn/content/read/36278.htm

(2019年12月12日、モンゴル語)

2020年に必ず旅したい場所に、モンゴルがランクイン

(筆者:N.アムガラントール)

ニューヨーク・タイムズ紙による「2020年に行ってみたい52の場所」ランキングの 47位にモンゴル国が入り、旅したい理由、特色や観光の発展ぶりが紹介された。

人口が少ないこの国を旅することは難しそうに思えるが、年々観光客が増加しており、イ ンフラも改善されて来た。昨年に同国を訪れた観光客数は53万人、2000年にはたった 15万人に過ぎなかった。

ウランバートル市には5月に新空港が供用開始になる計画だ。日本の資金で建設された空 港は現在の空港の3倍の大きさで、アジア諸国からの直行便就航も可能となる。

モンゴル国内には400あまりの旅行会社、300を超えるホテル、600か所のツーリ ストキャンプがある。政府は、ホテルを建設する企業に対して減税措置、観光業の認可免除 などの支援を行っている。

同国への旅は、遊牧体験、登山、バードウォッチング、乗馬、ヤクやラクダのトレッキン グなどの興味深い体験ができる。多くの旅行会社がもれなく提案するのがゴビへの旅。民族 の祭典であるナーダムは7月に開催され、民族のスポーツであるモンゴル相撲、弓射、競馬 が行われる。

(出典:ニューヨーク・タイムス記事/筆者:ジョン・ヘンダーソン、原文 英語) https://www.nytimes.com/interactive/2020/travel/places-to-visit.html

ウェブニュース https://news.mn/r/2248811/  (2020年1月14日、モンゴル語)

(記事セレクト・翻訳=小林 志歩)

※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください

牧草で育った牛は脂がちがう

(金田 悦二)

1月12日放送のNHKスペシャル 食の起源第3集「脂」からご紹介します。

脂には飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸がありますが、今回の主題は不飽和脂肪酸のオメガ3脂 肪酸とオメガ6脂肪酸です。このうち、オメガ3脂肪酸は主に魚介類に含まれる EPA・DHA な どで、血液をサラサラにするなど体に良いとしてよく耳にします。

(番組内容紹介開始)

6億年前頃の人類の祖先は自分たちが持つ遺伝子で必要なだけオメガ3を作りだしていた のですが、オメガ3を含む海藻などを食べ始めると「自分で作り出す必要はない」とオメガ 3を作る遺伝子が消失したと考えられます。このため、人が生きていくうえで欠かせないオ メガ3を常に食物から採り続けなければならなくなりました。しかし食物連鎖の上位にある 人類は他の生き物からオメガ3を一挙に大量に採ることになり、遺伝子を失ったことを進化 ととらえています。

もう一つのオメガ6は揚げ物によく使われるコーン油やリノール酸で、鶏肉・豚肉・牛肉 の脂にも多く含まれています。このオメガ6も血液中に病原体等が侵入すると白血球に「攻 撃指令」を出すという重要な働きがあります。ところが、オメガ6が多すぎると白血球への 攻撃指令が過剰になり自分の体を痛めつけることになります。そんなオメガ6の暴走を抑え る働きがオメガ3にはあります。

人の健康に重要なのはオメガ3とオメガ6のバランスを保つことなのです。オメガ3とオ メガ6の割合と心臓病の死亡リスクの関係を調査すると、オメガ3とオメガ6の割合が「1: 1」から「1:2」までの間では死亡リスクは低く、「1:2」を超えてオメガ6が多くなる と動脈硬化が進んで急速にリスクが高まっていきます。最近の調査では日本人の 10 代から 20 代のオメガ3とオメガ6の割合は「1:10」ぐらいになっています。

ところで、おいしそうな霜降り肉が 2 種類あります。食味は1つは脂っぽい感じ、もう一 つはサラサラした感じ。違いは「餌」にあります。脂っぽいのはトウモロコシなど穀物の多 い人工的な飼料で育った牛で、サラサラしているのは牛本来の食べ物である牧草だけを食べ で育った牛です。この二つの脂身に含まれているオメガ3とオメガ6の割合が全く違うので す。穀物の多い人工的な飼料で育った牛は「1:8」から「1:10」であるのに対して、 牛本来の食べ物である牧草で育った牛は「1:2」と理想的なバランスになっています。

最近の研究で、ほとんどの動物はその動物本来の自然な食べ物を食べていると、体内のオ メガ3とオメガ6の割合はおよそ「1:2」の理想的なバランスを保っていることが明らか になっています。そのメカニズムは解明されていなく、「自然の摂理」と考えられています。 (番組内容紹介終了)

*ご存じの方もおられるでしょうが、牧草だけで育てられた家畜はグラスフェッド (grass= 牧草、fed=飼育されたとか飼料とかの意味で使われています)と呼ばれ、健康に良いとして 日本でも知られています。グラスフェッドビーフ(牧草牛と呼ばれています)、グラスフェッ ドバター、グラスフェッドミルクなど。グラスフェッドバターをコーヒーに入れて飲むとダ イエット効果やアンチエイジング効果が期待できるなどと流布されています。オーストラリ アや日本で飼育され販売されています。 *モンゴルの家畜たちは草原で草を食み、ストレスフリーで育てられています。もちろんオ メガ3とオメガ6の割合も「1:1」から「1:2」のはずです。モンゴルの遊牧で育てら れた家畜は純粋なグラスフェッドとして市場でも高い価値があるのではないでしょうか。 *牧草で育った牛のオメガ 3 とオメガ6の割合が「1:1」から「1:2」となっていこと は研究者の間では以前から知られているようです。 *人にとって本来の自然な食べ物とはどの様なものでしょうか。 *番組ではイヌイットの人たちが大量のオメガ3脂肪酸を摂っているという話から導入し、 オメガ3が「命のあぶら」であるメカニズムを科学的に説明しています。更にオメガ3は人 類の知性の発達をも大きく促したと説いています。

この放送の詳しい内容は以下の WEB サイトに掲載されています

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191226/index.html

*素人が番組を見てのご紹介と感想ですので誤り・誤解などご指摘いただければ幸いです。 また、補足・提言などもお寄せいただければ嬉しく存じます。

モピ新年会&例会 報告

(村上 雅彦)

今年、モピNPO法人設立20年の記念すべき年になりました。要点のみ下記します。

初代民博館長、梅棹忠夫先生生誕 100 周年事業が 4 月 23 日~6 月 23 日まで民博開催されま す。5 月 23 日午後民博にてモピ例会開催予定。

(詳細は後日事務局より連絡されますので、皆さん予定に入れておいてください)

モピ通信210号に掲載された小長谷先生 の記事(ロコモ・サルコベニア・フレイルにつ いて)関連で高齢化社会工学研究会(ジェロン トロジー)寺島実郎理事長談披露。長生きの秘 訣、地域社会の活動に積極的に参加すること。 モピ活動に参加されるのも長生きの秘訣。

モピ20周年記念事業のアイデアを募集し ますので、事務局迄ご提案ください。

新年会の雰囲気を写真で紹介します。




(写真撮影:味方慎一)

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事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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