人類学者は草原に育つ
『Voice from Mongolia, 2020 vol.69』
民族文化の危機/テーブルトーク
事務局から”新刊えほん”のご紹介
人類学者は草原に育つ
小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ
(臨川書店フィールドワーク選書)9
変貌するモンゴルとともに
小長谷 有紀著
牧畜三大儀礼の研究へ
はじめてのフィールドワークでは、屠畜のようすを見ることができ なかった。何しろ繁忙期でなので、家畜はすでに屠ってあって、それ を少しずつ食べていたからである。
内モンゴルからの留学を終えて秋にいったん帰国してから、翌年、 ふたたび春を観察し、夏を観察し、と調査をつづけるうちに、ヒツジ を屠る場面もたびたび見かけた。現場を見るとついつい分析してみた くなる。口承文芸資料とも呼応させて、論文「モンゴルの家畜屠殺を めぐる儀礼」(畑中幸子他編『東北アジアの歴史と社会』名古屋大学出 版会、一九九一年)を書いた。刊行年は、搾乳儀礼および去勢儀礼に 関する論文よりも早いが、ほぼ同時期にこれら三つの儀礼についてそ れぞれ論文を書いていた。
屠殺儀礼の大きな特徴は、実際には多くの去勢オスのヒツジをふんだんに食べるにもかか わらず、老いたメスのウシで儀礼をおこなうという点である。いわば実態と理念との齟齬を 来している。しかしだからこそ興味深い。実用的な経済とは異なる文化があることを示して いるからである。
さらに興味深いことに、殺しているにもかかわらず、死んだと言い張る地域があり、シベ リア狩猟民の心性との連続性を見るような気にさせられる。人為的な殺害を自然死に置き換 えることのメリットは何だろうか。死と再生のサイクルが了解されていなければ、置換する 意味は生まれないだろうと思う。のどに草が詰まって死んだと言い張ることによって、ウシ は生まれ変わることができるらしいのだ。屠畜儀礼は、死を契機とする再生儀礼である。
以上のように、搾乳、去勢さらには屠畜という三つの儀礼を総合して、私は「牧畜三大儀 礼」と呼んでいる。モンゴルの場合、これらの三つはそれぞれ、増殖サイクルの開始を契機 とする通過儀礼、増殖サイクルからの離脱を契機とする通過儀礼、増殖サイクルの終了を契 機とする通過儀礼であると言える。
家畜は人が管理している動物であるが、種付けは家畜の自由な性的活動にゆだねられてき た。産む家畜になったときに祝い、増殖するよう期待するが、それはあくまで期待にとどま る。生まれた子畜が少し大きくなったとき、オスの大半は増殖サイクルから切り離される。 これにより、人が自由に利用しうる世界すなわち去勢畜文化が確立する。言い換えれば、そ れ以外の利用は自然界からの借用にとどまる。乳の利用はあくまでもメス畜からの拝借なの である。そして、さんざん拝借していた相手が死ぬと、再生を祈願する。増殖するよう期待 するが、あくまでも期待にとどまる。そのような世界観のもとに統合されているのではない かと私は考えている。
はじめてのフィールドワークが契機となって、彼らとの生活こそが、いかにもりだくさん な学術的恵みをもたらしてくれたことか。どんなに感謝しても感謝したりることはない。
彼らの四半世紀後
しばらくのあいだ、ときおり彼らを訪れていたが、一九九二年に北のモンゴル国が市場経 済へ移行し、誰でも自由に往来できる地域になると、中国内モンゴルへの訪問はしばらく間 遠になってしまった。私たち研究者はチームを組んで、モンゴル全土を縦横にサーベイする ようになり、そちらにエネルギーを注いでいたからである。
それでも、ときおり会ってその後の様子を聞いたりしていた。そしてとうとう四半世紀を 経た。四半世紀と言えば、およそ一世代であるから、彼らの暮らしはすっかりさまがわりした。
父ダンゼンの三人の息子のうち、長兄リンチェンドルジは離婚して漢人の妻をむかえた。 娘三人は離婚した妻のもとにいたが、百パーセント養育の責任はリンチェンドルジが負って いた。娘の一人はウランバートルの音楽学校に留学した。自分の引き取った息子はシリンホ ト市内で働いており、漢人の妻の連れ子のほうが草原で放牧している。
次兄は二人の娘の下に、罰金を払っても三人目の子をもうけて、ようやく男子を得た。彼 らはふだんシリンホト市に住んでいて、放牧は雇い人に任せている。子どもたちはみなそろ そろ結婚するだろう。
末子のウネルバヤン一家もシリンホト市内に住んでいる。以前、一度だけ彼らのアパート を市内中心部に訪ねたことがあるが、今度はさらに立派な高層アパートに暮らしていた。彼 らは毎年、春の出産期になると草原にもどり、家畜を順調に増やすことを心がける。夏は搾 乳があるのでそのまま滞在し、一年分の乳製品をつくってから町に戻る。秋には、その年増 えた頭数分だけ家畜を売却する。だから家畜頭数は増えない。草原の維持を考えて増やさな い。都市近郊に住み、市場がそばにあることを利用して、持続可能な経営をめざしている。
ウネルバヤン一家は現在、ウマ百頭あまり、ウシ百頭あまり、ヤギよりもヒツジを中心に 千頭ほど、家畜を所有していると言う。一九八八年当時は、それぞれ一五頭、三○頭、一七 ○頭であったことを思うと、隔世の感がある。当時はラクダも二頭がいたが、いまはもうい ない。単純に合計すると当時は二百十五頭であるのに対して、現在は千二百頭であるから、 およそ五・五倍の増加である。毎年、子ヒツジが七百頭くらい生まれるので、その分だけ大 きくなったヒツジを売却する。もっぱらオスを売ることによって、群れの大半はメスとなる。 一頭六百元(中国元の為替レートは二○一四年二月現在で約一六円)くらいで売れるという から、おおよその収入が把握できよう。
一方、牧畜にともなう支出としては、牧地の借用、牧夫の雇用、乾草の購入があげられる。 牧地は一畝(ムー)(六・六七アール、約二百坪)あたり三元であり、一万五千ムーを十年ある いは五年といった期限で借りている。牧夫への支払いは月極めで、ウシの放牧は毎月四千元、 ヒツジとウマについては家から遠いところで放牧しているので毎月五千元である。乾草は、 一斤十三毛(モー)(モーは角のこと。〇、一元)で、その年彼らは三万斤を用意したという。 そのほか彼ら自身がハドランとよばれる草刈り場でデルス(カヤの一種、学名は Achnatherum splendens)を千斤刈ったという。
直裁にいくら儲かっているのかとは聞いたことがない。どんなに親しくてもそのように聞 いたことはない。友人だったら聞いてもよいと考えることもできるが、私は友人だからこそ 聞かない。上述のような聞き方をして、おおよそを推測する。もし友人関係がなく、単なる 家計調査だと割り切ったら、私もついつい聞きたくて、聞いてしまうかもしれない。
彼らは二○一二年に、ウランバートルを訪問し、さらにバイカル湖まで旅行した。母はも ともとモンゴル国内にあるダリガンガ地方から一九三○年代に移住してきた人である。そのダリガンガも彼らは訪問し、ビデオを撮って母に見せたという。草原で放牧をいとなみなが ら、世界とつながる暮らしを展開している。
末息子ウネルバヤンの妻セルゲレンが私に、一昨年、母の九十歳の祝いをしたときの映像 記録を DVD にダビングしてくれた。市内のホテルのレストランで、来客はおよそ三百人。い ただいた DVD を見ると、客はみなこの老いた母にしきたりどおりの挨拶をして、そのとき金 品を渡している。いずれもお札である。中国の最高紙幣が百円札で、たいてい一枚あるいは 数枚だから、それほど高額な祝い金ではなさそうに見える。その多寡にかかわらず、客はみ な一様におみやげをもらって帰っている。ケース入りの品物で少々高そうに見える。
現在、中国ではこうした祝宴は一種のビジネスになっているようだ。会場にとってのビジ ネスはもちろんのこと、主催者が祝宴を開くことで儲かるしくみになっている。大勢に招待 状をばらまく一方、あまりおいしくない料理を少なめに用意する。ほとんどの客がしかたな くお祝いを渡してすぐに立ち去るので、主催者に利がある、というメカニズムになっている。
しかし、この DVD を見るかぎり、母の年祝いの場合は、そうした祝宴ビジネスのメカニズ ムとはまったく逆で、きっと出超であるにちがいない。そうした出費にも耐えられるほど、 彼らは牧畜経営に成功しているのだろう。
ウネルバヤンの息子はシリンホト市文化会館で専属の馬頭琴奏者をしている。内モンゴル 自治区の首府フフホトで学んだので、普通はそこに残るものだが、彼はここに戻って来てし まった。フフホトの暮らしはなじめないのだそうだ。ここなら、草原にいつでも戻ることが できる。家畜の世話をしたいという。母はそんなに甘いものじゃないと息子に厳しい。しか し、家畜の世話のしかたも、どんどん変化するはずだ。むかしのような世話はできなくても、 若い人の新しいやりかたがあっていいんじゃないかと父は考えている。
娘のほうは当時、生まれたばかりの乳飲み子で、現在は数えで二十七歳。二○一三年九月 に結婚して、いまは正藍旗に住んでいるという。シリンホト市内の鉱業会社に勤めていたが、 正藍旗の人と結婚したので、そちらに移り住み、そこで地方公務員をしているそうである。 新郎新婦と一緒に撮った一家の写真を見せてもらった。驚いたことに、新しいカップルばか りでなく弟も赤いデール(民族衣装)を着ている!
むかし、そんな色のデールを着るモンゴル人など一人も見かけなかった。モンゴル人と言 えば、青や水色、あるいは紺色などがふつうで、お年寄りなら茶色や黒といった色が相場だ った。女性用の派手な色でもピンクであり、赤はなかった。赤といえば、中国で縁起のよい 色である。若い人たちだけが赤い色を選んだのなら、ああ、もはや無意識のうちに漢化され ているのだ!などと批判的な目で見たかもしれない。しかし、彼らが上手に青色の帯や緑ど りと合わせ、ウネルバヤン夫妻もまたその色を着ているのを見たとき、私は彼らの覚悟のほ どを感じた。
彼らは牧畜にたずさわる以上、この土地から逃れるわけにはいかない。放牧地を見限って 移動すれば、そこはたちまちモンゴル人の使える土地ではなくなってしまうだろう。なんと してもここでふんばらなければならない。中国のなかで生き抜こう。そんな決意を私は、赤 い民族衣装につつまれた彼らのなかに見出した。
彼は近隣の牧民たち向けにモンゴル語で雑誌も発行している。自分たちのための媒体が必 要だと考えて、企画、編集、出版をおこなう。もっぱらそれが冬の、町での仕事となる。春 は草原に出て夫婦総出で幼畜を迎え、夏は妻が乳をしぼり、乳製品をつくり、秋には町に戻 り、夫が家畜を売却し、冬には雑誌を編集する。雑誌の名前は「モンフ・ボラン」というそ うだ。モンフは永遠を意味し、ボランは片隅を意味する。「永遠の片隅」という意味になる。
かつてソ連では、家の片隅にイコンを置くかわりに、レーニンの写真などを置いて社会主 義を象徴するコーナーを設けることになっていた。英語ではレッド・コーナーという。モン ゴルではその翻訳語は「オラン・ボラン(赤い隅)」といい、文化会館やそこでパフォーマン スをおこなう芸術団のことを指した。たとえば、ウネルバヤンの息子がまさにシリンホトの オラン・ボランにいる。このオラン(赤)をモンフ(永遠)に置き換えて雑誌の名前として いる。町と草原とを往復しながら、牧畜民の未来を見出そうとしている。
未来のつながり
時代が変われば、彼らも変わるから、研究テーマに困ることはなさそうである。いろいろ な調査研究が可能であろう。ただし、実は古いこともまだすべて聞き終わったわけではなさ そうである。たとえば、梅棹忠夫のフィールドノートに出てくるアンギルト・スムという寺 の位置が分からなかったので、ついでに聞いてみると、いかにも知っていそうである。そこ で問い直すと、行ったことがある、と言う。一九七七年の大雪害のあと、しばらく屠るべき 家畜がなかったので、一九七九年の十一月、近隣の男たちと十人ほどで狩りをしに行ったら しい。野生動物なんているのかしらと聞きただすと、放牧群からはぐれて野生化したウシた ちが群れをなしており、それを狩りに行った、とのことであった。旗の境界の付近の茂みに、 そういう群れがいたのだそうな。四十頭を殺したそうな。不味くて結局食べる気がしなかっ たそうな。そんな話は初耳だ。
一九八八年三月当時は、ヤギを増やす傾向がみられたのに対して、二○一三年十月現在、 ヤギは二十頭ほどに押さえられている。どうしてほとんどヒツジばかりにしているのだろう か。まず、ヤギの毛カシミアの値は変動が大きいため経営が安定しないという理由があげら れる。さらに、禁牧の経験が影響しているようだ。草原の植生を快復させるために、このあ たり一帯での放牧が一時禁止された。二○○○年から、四月、五月の二カ月間、畜舎飼いが 強制された。自分自身が利用権を得ている放牧地であるにもかかわらず、畜舎から外へ出し てはいけないという禁牧である。二カ月のあいだ、家畜は畜舎を出ようと暴れてたいへんだ ったという。とくにそんなときヤギは暴れるらしく、そのころ極端にヤギを減らすことにし たようだ。人びとの大反対で、強制的な畜舎飼いは三年で終わった。さいわいなことに植生 は快復した。もっとつっこんで話を聞けば、いろいろなことを教えてもらえるにちがいない。
ウネルバヤンは車を運転しながら、景観の変化の話から派生して、いつ、どこにどんな草 が生い茂り、次の年はおどろくほどどこで何が茂り、というようなことを説明し出す。まる で、植生のモニタリングではないか。モンゴル国に比べて中国内蒙古のほうは、自然環境も 社会環境も厳しい。だから、概して観察が鋭くなっていると言える。いずれまた、ゆっくり 話を聞いてみたい、そんなふうに思いながら、別れを告げた。
今度、いつ会えるか、いまのところ予定がないけれども、意外に早く、意外なところで、 会えるかもしれない。二○一四年二月、この地方出身の馬頭琴奏者が大阪で演奏会を開いた。 彼女の奏でるこのふるさとの民謡を聞きながら、いつの日か、ウネルバヤンの息子が来日し て馬頭琴を日本で弾くことを想像した。(第2章 終わり)
『Voice from Mongolia, 2020 vol.69』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「昔、チンギス・ハーンは、支配した他の民族の言語や宗教を変えようとはしなかった。そ ういう部分に立ち入らなかった」 ―――技能実習生(40 歳)、ウランバートル出身
北京の秋の素晴らしさは、「北京酔い」と称されるという。蒼天とさわやかな風、整然とし た街並み。この時期に北京の街角を訪れた旅人たちはこの街に酔い、終生忘れることができ なかった、とか。歴史学者の杉山正明によると、それはモンゴル高原から南下する秋の大気 のせいだという。
13 世紀、全くの更地に、30 年がかりでこの都を造営したのが、フビライ・ハンである。世 界の中心として設計、建設されたその街の名は、「大都」。文字どおり、その後の世界を変え る出発点となった。世界はつながり、後の中国が巨大な国家となる道を開いた(杉山正明『遊 牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』日本経済新聞社、1997年)。今どきの表現で言え ば、まさに「ゲーム・チェンジャー」である。
少し時計を巻き戻して、フビライの祖父であるチンギス・ハンはユーラシア大陸の北の片隅から、いかに世界を席巻したか。千人編成の騎馬軍団の機動力が強調されるが、大きな役 割を担ったのは、キッタイやウイグルなど異なる人々を取り込んで再編を繰り返し、その能 力をいかんなく発揮させた「仲間づくり」だったという。つまり、異民族を含めた「モンゴ ル」を更新し続けた。当時の「モンゴル」は、民族の呼称というより、連合体の旗印だった のだ。
チンギス・ハンと言えば、つい先日、フランス・ナントの博物館で予定されていたモンゴ ル帝国に関する展覧会が、チンギス・ハンやモンゴルの名称を使わないように、との中国側 の求めにより、延期になった(英・ガーディアン紙、10 月 14 日付)。モンゴル人が、チンギ スの名を称えることが許されない――この不条理は初めてのことではない。しかし、民族主 義が否定されていた社会主義下においてさえ、研究者は、抑制されたトーンで、書いた。異 なる文化のせめぎあいの中で、優れたものを自分のものとし、モンゴルの文化が育まれたこ とを。
モンゴル人民の運命は大きく、かつ歴史的に複雑である。モンゴルの全歴史をつうじて、経 済的、政治的、文化的、そして軍事的な他民族との接触が起こり、それはモンゴル人民の物 質的、精神的文化の発展に反映し、モンゴルの民族を豊かにしてきた。モンゴル人もまた、 自己の精神的な文化価値によって、他民族の文化に貢献してきた。
D. マイダル著、加藤九祚訳『草原の国モンゴル』新潮選書、1988 年
多様性は豊かさ、の現代にあっても、異なるものがぶつかり、そこから議論が、学びが生 まれることを認めない社会があるとしたら、その将来の見通しは暗い。地方の牧場で働くモ ンゴル人技能実習生が、「街灯ひとつない、夜の田舎道を自転車で走るのは怖い」と話してい たが、まさにお先真っ暗である。
政権と異なる立場を過去に表明した学者 6 人を、日本学術会議から排除するという政府。 その理由のひとつに挙げたのが、「国の予算を使って運営されている」。税金の無駄遣い、と 言えば大衆がついてくる、との「貧しい」国民向けの筋立てはひどいが、そもそも税金は、 現在の政権の所有物ではない。一方で、過去の首相の大規模な葬儀に税金を投入、役所を動 かすことには、何の抵抗もない。
自粛期間中、営業していた飲食店への妨害行為や、野外でバーベキューをしている家族に 「我慢している人もいるのだから」と非難する声が上がっていた。特に自粛要請が出た春以 来、この風潮にいつしか慣れ始めていないだろうか?
いいじゃない、それぞれの考えでやっているんだから! 横並びを求める圧力が、勢いを増 している。息苦しいのは、マスクをしているせいではない。
今月の気になる記事
9月下旬、モンゴル国の国営放送のテレビニュースに、縦書きのモンゴル文字のテロップ が流れるようになった。モンゴル文化の「本家」の面子もかけた、スピード感のある、前向 きな変化も進行している。
キリル文字でモンゴル語を表記するようになったのは、1940年、キリル文字に移行す るモンゴル人民共和国人民政府令が発布されたことを根拠とする。移行は第二次大戦による 遅れはあったが1950年以降、すべての刊行物、官公庁の事務、教育が、現代の生きた言 語に近い新文字、つまりキリル文字表記に直された(D.マイダル『草原の国モンゴル』)。
当然ながらモスクワ、つまり当時のソ連の意向を踏まえた措置であり、民主化するとモン ゴル文字公用化が目指された。当時の小学生、現在の30歳代後半の人たちは、小学校 1 年 生からモンゴル文字を習ったが、ほどなくキリルのアルファベットと同時に修得する負担を 踏まえ、近年は6年生で学習するらしい。90年代と状況は異なり、人口の7割を占める3 0歳代以下は、学校で学習した経験がある(これから習う人を含む)。モンゴル文字は、モン ゴル国で復活できるか。今回の文字改革の行方に注目である。
公務員を対象に、来月からモンゴル文字の能力を調査
(筆者/B.ジャルガルマー)
2025年から政府の公文書をキリル文字とモンゴル文字で記録する「モンゴル文字国民
プログラム(III)」が、2020年から2024年にかけて実施される。事業開始に合わせ、 国語に関する協議会、国家統計委員会が共同で、モンゴル国内で働く16万人あまりの公務 員のモンゴル文字に関する知識水準を見極める調査が、来る10月から開始されることにな った。
今回のプログラムは、国家大会議で2015年に法制化された。その目的は、2025年 から公文書をモンゴル文字とキリル文字の両方で編纂し、将来的にはすべてモンゴル文字へ 移行することを目指し、その前段階として講座やクラス、使用環境整備など準備を十全に進 めることにある。
モンゴル文字使用の環境整備として、政府広報雑誌を2021年からモンゴル文字併記で 発行、23年からはモンゴル文字のみでの発行が予定されているほか、公務員に関して以下 の事業を実施するとした。
公務員を対象とした履歴書(様式I)に、モンゴル文字の読み書きの能力を問う項目を追 加、新たに公務員となる国民のモンゴル語・筆記試験のうち、モンゴル文字についての内容 を全体の20%以上とする、公務員の任命状に、モンゴル文字の能力向上について特記する。
政府機関は、戦略や実施計画、職員の研修プログラムにおいてモンゴル文字の知識能力向 上のための研修を毎年計画し、特別プラグラムを実施し、報告することが求められる。民間 企業も含め、すべての組織でモンゴル語、モンゴル文字で監査、文書作成を担う人材の雇用 について明記する。政府機関は2022年から、キリル文字とモンゴル文字の併記で文書を 作成する取り組みを試験的に始める。
プログラムの関連行事は、すべてのレベルの役所の事業内容に記載され、モンゴル文字の 使用を増やす提案とともに、成果を挙げた官民の組織、独立機関の職員、国民に奨励する措 置が取られるという。
ウェブニュースサイト ICON(2020年9月23日)
https://ikon.mn/n/1zrf
展覧会「私はモンゴル文字の教師」 モンゴルの演劇博物館で、功労賞を受けた教師のШ.チョローンボルの展覧会「わたしはモ
ンゴル文字の教師」が始まった。モンゴル文字をテーマとした展示は珍しい。チョローンボ ル先生は1986年から20年以上モンゴル文字の授業に携わり、モンゴル文字について知 ってもらおうと、「フムーン・ビチグ」新聞で、モンゴル文字で名言や童話を掲載して来た。 モンゴル文字を教え始めた当初から今日まで、教え子たちがどのように学び、どんな課題が あるかについて、展示を通じて見てもらおうと企画した。
展示は6つのパートから構成され、各パートの説明がモンゴル文字とキリル文字の併記であ るのが目を引く。チョローンボル先生は「モンゴル文字を読める人々はこの展示の説明をモ ンゴル文字で読んでほしい、と願って作成した。近年、モンゴル語やモンゴル文字について の問題がクローズアップされていることから、長年この分野で働き、モンゴル文字を子ども たちに教えて来た者として、母なる言語・文字はこのような広がりを持つものだと、多くの 人に知ってもらいたかった」と語った。
芸術的な書の作品10点あまりの展示もある。モンゴル文字の辞書やモンゴル文字で発行 された多種類の本が展示され、来場者の関心を集めていた。
また、展示のなかでひときわ目を引くものとして、「アルタン・オボー」と名付けられた先 生の詩を、エスギー(フェルト)の上にモンゴル文字で描き上げた作品があった。モンゴル 文字の古い書籍や、最も早い時期に発行された教科書も展示された。
モンゴル文字の起源から今日までについての研究成果に関する展示も、めったに見られな いものと言える。チョローンボル先生は、教壇に立ち、また後年は管理職で、生涯を通じて教職に従事して来た。 「モンゴル文字を子どもたちに教えることに、いつも幸せを感じたものです」。モンゴル文字は、モンゴルの習慣や教訓をそのまま背負った、国民にとって最も大切な伝統文化である。 ゾーニーメデー紙より転載
ニュースポータルサイト http://www.polit.mn/a/84963(2020年10月9日) (ともに原文モンゴル語)
(記事セレクト・翻訳=小林 志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。
民族文化の危機
(現代のことば 令和2年10月20日京都新聞夕刊掲載記事)
(小長谷 有紀)
日本学術振興会監事・文化人類学
中国政府が公開している最新の統計年鑑によれば、2018年の総人口はおよそ14憶人 であり、55の少数民族の人口は合計で9775万人である。全部あわせても7%にすぎず、 まさしく少数である。このうち37の少数民族の人口はすでに100万人を切っており、そ の言語は、100年以内に維持できなくなる可能性のある言語、すなわち「危険言語」に相 当する。なお、諸民族の人口は、2019年の統計年鑑をみても2010年の数字しか出さ れていないので、以下は2010年の数字である。
人口の多い方は、チワン族1693万人、回族1059万人、満州族1039万人と続く。 チワン語は原則として学校教育では採用されていないので、話者は急速に減少すると指摘さ れている。回族はイスラム教徒としてアイデンティティーに依拠しており、その多くが漢語 を話す。また、満州族も漢語で生活しており、すでに満州語は危機に瀕している。
中国国内のモンゴル族は少数民族の中で9番目に多く、598万人を数える。うち460 万人が内モンゴル自治区にすんでいる。自治区といっても多数は漢族で、モンゴル族は自治 区内で17%に過ぎない。さらに付言するなら、すでに3分の2がモンゴル語の運用能力を 失っている。つまり、放っておいても危機言語になってしまいそうな状態なのである。
にもかかわらず、民族言語の消減を加速させる方向をもつ教育政策が実施された。今秋か ら内モンゴル自治区で導入された新カリキュラムは、これま で小学校3年生から始まっていた漢語教育を1年生から開始 するものである。さらに、2022年までに国語、道徳、歴 史の順に漢語すなわち中国の国語で教えるという。文化に直 結するこれらの科目からモンゴル語による教科書が消えとになる。
民族文化の危機を強く感じた人びとは、子弟を授業に行かせないなど抗議活動を展開した。中国の SNS(会員制交流サイ ト)である微信(ウィーチャット)には、例えば次のような呼び かけが見受けられた。
「黒いカラス、まだらのカササギが食べ物を求めて子羊の 囲いを取り巻いている。子羊・子山羊を囲いから出さないよ うにしよう。価格はまだ定まっていないので、商売人の言葉 を信じてはいけない。今年の価格を高くしようと思えば、数 日間売却しなくても構わない。どうしてもだめなら来年にし よう。わが牧民たちは、市場が混乱しているあいだ、子羊、
子山羊をしっかり囲って肥えさせる必要がある。」
モンゴル文字を使ったモンゴル語で、子どもたちを子羊・子山羊に喩えて、授業ボイコッ ト・自宅待機のメッセージが託されている。こうした抵抗を発信した人はもう当局に拘束さ れたかもしれない。
取り締まりの強化を憂えて、世界中のモンゴル研究者がさまざまな形で意見を表明してい る。日本モンゴル学会からは、現地政府に宛てた要望書を日本語、中国語、モンゴル語にし て公開で発出した。政策変更は期待できないが、静かなエールを人びとに送ることはできた かもしれない。
テーブルトーク 朝日新聞10月1日 掲載記事
(梅棹忠夫生誕100年記念企画展をてがけた国立民族学博物館客員教授)
(小長谷 有紀)
文明論から情報論まで幅広い業績を残した知の巨人、梅棹忠夫に出会ったのは大学で文化 人類学を勉強していたとき。モンゴル調査のデーターを申し出たら、にべもなかった。とこ ろが梅棹の失明後、著作集でモンゴルの関係を任され、今回も多くの資料を整理することに。 縁とは不思議なものである。
その過程で、気づいた。著作集での自分の担当部分は梅棹の原点だったのだ、と。フィー ルドノートの膨大なデーターを、どう整理するのか。「コンピューターの仕事を彼は手動でや った。資料との格闘から身につけた自分なりの方法論です。それを本でシェアしたのです」。 今なお読み継がれる名著『知的生産の技術』(岩波新書)である。
自分を特に弟子とは思っていない。けれども、もし彼から受け継いだものがあるとすれば 「自らテーマを見つけ、自分でやる。その流儀が梅棹流でしょうね」。
国立民族学博物館(大阪府吹田市)の企画展「知的生産のフロンティア」は12月1日まで。
事務局から”新刊えほん”を紹介します。
(斎藤 生々)
2010年から3年間、ゆうちょ国際ボランティア基金を得て、モンゴルセレンゲ県ズー ンブレン学校との交流事業を行いました。この事業に参加していただいた中のお一人が、西 川先生です。交流事業終了後、勤務先の奈良学園小学校から支援学習事業の要請をうけまし た。それから毎年・1月の最後の土曜日がモンゴルの体験授業でした。
ゆうちょ事業を3年間受けていただいたモンゴルのズーンブレン学校校長オンドルマー先 生を日本に招待したとき、モンゴルこども宮殿の子どもたちとの音楽交流事業も、西川先生 の仲介があり奈良学園小学校が対応していただき、大成功、大感激でした。
今回、西川先生が編集された絵本とであいました。忘れていた澄んだ世界に、子どもの描 く夢の世界に、ほっこりできます。コロナの今に・
新刊のご紹介
Mopiの皆様、ご無沙汰しております。 奈良学園小学校を退職して3年になります西川栄子です。
この度、三恵社から創作えほんを出版する運びとなり ました。
“教室から生まれた絵本”「タマコちゃんのじごくたんけ ん」です。奈良学園小学校1期生の池元綾音さんが、小学 3年のときに書いたお話です。休み時間にお話作りがは やって、たくさんの子どもがお話を作りました。A4の白 い紙を貼り合わせて作ったこのお話を、いつか絵本にし たいなと思い、温めていました。
10年の時を経て、絵を描いてくださる早稲田大学の 山﨑麗さんとの出会いがあり、ここに、「タマコちゃんの じごくたんけん」が出版されました。
こわいもの知らずで、おもしろがり屋のタマコちゃん が、じごくでこわ~いおばけと遭遇! ハラハラ、ドキドキ。タマコちゃん、だいじょうぶかな?
小学生の目線から生まれたお話を、迫力ある挿絵とと もに楽しんでもらえれば幸いです。(小学校低・中学年向 き)英語版も同時発売中です。
☆アマゾンで発売中
日本語版「タマコちゃん」
英語版 「Tamakochan」で入力 (1200円+税)
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編集責任者 斉藤生
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