■NO 221号 モピ通信

人類学者は草原に育つ

『Voice from Mongolia, 2020 vol.70』

無意識の偏見

事務局からお知らせ

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小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ

(臨川書店フィールドワーク選書)9

変貌するモンゴルとともに

小長谷 有紀著

日本学術振興会監事・文化人類学

第三章 爆走モンゴル— — 一九九五年から九七年、モンゴル、ロシアを踏査

民主化の波

一九八九年十一月、ベルリンの壁が崩壊すると、旧ソ連におけるペ レストロイカ(刷新)の波はモンゴル人民共和国にもはっきりと見え るかたちで到来した。モンゴルの民主化にとって、十二月十日はもっ とも重要な記念すべき日であると人びとは理解している。それ以前に も、ホブドやエルデネトなどの地方都市でデモがおこなわれたことは あったが、全国規模にはならなかった。この日はじめて、首都ウラン バートルにある青年文化会館前の広場で、ゾリグという若者を党首と する「民主同盟」が社会改革を目的に旗揚げし、全国規模の民主化運 動を展開しはじめたのである。ゾリグすなわち勇気という意味の名前 をもつ青年は、まさしく名が体をあらわしていた(一九九八年十月二 日暗殺)。その日以来、日曜日ごとに中央のスフバートル広場などで 人びとが集まるようになった。

私はそんな様子をハバロフスクのホテルで見た。というのも、テレビでニュースとして報 道されたからである。故黒田信一郎先生のひきいる調査に参加してハバロフスクにいたとき だった。ハバロフスクでは、ルーブルの価値が暴落していて人びとは生活に難渋しているよ うだったから、いよいよソ連もさすがにもう持つまいと感じられはした。そう感じられはし たものの、まだソ連は崩壊してはいなかった。だから、この時点で、私はまだモンゴルの社 会主義体制が早晩終わると確信していなかった。「ウランバートル再訪の日は近い!」とはっ きり期待していたわけではなかった。ただ、人びとの熱気だけはテレビ画面を通じても十分 に伝わった。外気は日中でもせいぜい零下十度くらいまでしか上がらないにもかかわらず、 広場は人であふれていた。社会主義対資本主義という二○世紀の冷戦構造にはばまれて調査 はできないのだ、と悟ってからちょうど十年が経とうとしていた。

翌九○年になると、さまざまな政治団体が組織され、さらにそれらが連携して集会は大規 模化していく。三月七日、最も先導的なモンゴル民主同盟のメンバーたちが即時改革を要求 してついにハンガーストライキを敢行した。当時のバトムンフ首相は「ストライキをしてい るのは私たちの子どもたちである」と表現して、世代が違っても同じ国民たちが戦ってはな らないと国民に呼びかけ、みずから辞職し、政治局員全員を解任した。やがて、モンゴル人 民革命党による一党独裁に正式に終止符が打たれ、夏には自由選挙がおこなわれた。新憲法 の策定がはじまり、一九九二年二月、新憲法の発布とともに、モンゴル人民共和国はモンゴ ル国へと新生した。

国営会社の解体にともなって、失業した人びとは地方へ移動し、遊牧民になるという現象 がしばらく顕著に認められた。一種の U ターン現象である。しかし、地方でも国営農場や牧 畜協同組合が解体すると、それまでに国家的な経済計画のもとで運営されていた公的な流通 路が失われた。自分たちの生産物を買い付けに来る人たちをどんなに待っても、首都ウラン バートルから三百キロメートル圏内ならいざしらず、数千キロまで離れた地域にまでヒツジ を買い付けに来る人はいない。そこで、みずから市場経済と接合することを求めた遊牧民た ちが、首都へむかって移動しはじめた。首都への大移動という逆 I ターンである。いずれに せよ、社会主義時代には許されなかった移動の自由が実現した。

私たち外国人とりわけ資本主義国の人間もまた、その恩恵に預かることのできる時代が到 来した。

なつかしのウランバートル再訪

一九九二年三月、私は今回もかつてのように北京経由で、しかし今回は空路で、ひさしぶ りにウランバートルに到着した。飛行機でたまたま知り合った方も私と同じ姓の小長谷なの でおどろいた。静岡県から製紙業の技術援助を目的にモンゴルへ来た人であるらしく、もし も私を迎える人が来ていなければ、市内まで送ってくださると親切に申し出てくださった。 早くも日本によるモンゴルの民主化支援は始まっており、ODA 関係者なら必ず迎えがある。一 方、私のほうは、当時、迎えの人が来てくれるかどうかわからない。みんぱくに大学院が付 設されており、総合研究大学院大学という。そこの大学院生だった藤井真湖さん(現在、愛 知淑徳大学教授)が迎えを頼んでくれていた。

私を迎えに来てくれたのが、モンゴル民族博物館(現在はモンゴル国立博物館と改称され ている)の館長のルハグワスレンさんという人だった。ご本人には申し訳ないが、見た目は いかにもスパイのような風貌であった。色付きの眼鏡が人相を悪くしている。眼鏡をとって も眉間に縦じわがよっている。しかし、考えてみれば、いかにもスパイのような風貌だから こそ、とてもスパイにはなれまい。スパイに見えないような人しかスパイにはなれないだろ うから。その後、彼と多くの仕事を共同でおこなうことになるとは、この時点でまったく思 ってもみなかった。

ウランバートルはなつかしいはずだったが、まったく様変わりしていた。というのも、何 しろ何もモノがないのである。かつて一列縦隊に並んでいた練乳やグリンピースの缶詰、ピ クルスの瓶詰などがまったくない。商品を並べるための棚さえない。市内でとっておきのお しゃれなスーパーマーケットさえもが、まるでスケートリンクのように空っぽだった。

ホテルでも食べるのに苦労するだろうとルハグワスレン氏が自宅に招いてくださった。彼 は、食卓にあるパンやお茶などあらゆる食品を指して、これは日本からの援助です、これも そうです、などと日本語で説明してくれる。日常生活が国際支援でなりたっていることを少 し自虐的に語っていた。社会主義から市場経済への移行にはいろいろな方法がありうるなか、 モンゴルはショックセラピーと呼ばれる方法を採用し、公的支援を急遽とりやめたため、さ まざまな苦難に直面することとなったのである。いたるところでその苦難を目にした。

もっともよく知られているのが、マンホールチルドレンであろう。帰るべき地方をもたな い都会出身の失業者がいて、彼らがアルコール中毒になったりすると、しっかりした子ども たちは親元を抜け出し、マンホールに住んで自活し始めた。寒冷なウランバートルにはもと もと発電所から温水パイプによって暖房するというセントラルヒーティングが整備されていたから、ストリートであってもマンホールのなかだけは暖かい。温水パイプの通り道で暖か いから、地下にストリートチルドレンが住みつくようになったのだった。

また通りの各地で、乳飲み子を抱いた女性たちがタバコを一本一本バラ売りしていた。

駅へ行ってみると、大きな荷物を引きずるようにして人びとが列車から溢れ出て来る。人 びとが引きずるようにして運ぶ、重そうなカバンは、色や形に関係なく一様に「ガハイ」と 呼ばれていた。ブタという意味である。中国へ行くのにビザは要らないので、多くのモンゴ ル人が列車で南下し、中国製の衣類や雑貨を仕入れて市内で売りさばいて担ぎ屋をして生計 を立てていた。絹のブラウスや革製ジャンバーなどを大量に仕入れて、ウランバートルから さらに先へ行き、シベリア鉄道の駅、駅で、売りさばいていく、という人たちも多かった。 多くのモンゴル人が中国製商品でふくらんだ「ブタ」の「ブタ飼い」になったのである。こ うしたインフォーマルセクター(非公式部門)によって何とか経済が動いているといった状況 であった。

そう言えば、あちこちの公共施設から書籍も放出されていた。マルクスやレーニンの全集 が放り出されてゴミの山と化していた。これらの書籍は量り売りされていた。書籍としてで はなく、紙として。とくに田舎ではトイレットペーパーに不足していたので、かつてひとた び敬したはずの偉人のことばで、人びとは尻をぬぐうことになった。

いま、あの狂騒の時代を思い出すのはとても難しい。ごく一時期のことだったからだろう か。思い出のなかで辛かったときのことは短くなるものなのだろうか。あのときにインタビ ューをした記録がある。のちに言及する特別展「大モンゴル展」に合わせて刊行した『アジ ア読本 モンゴル』(河出書房新社、一九九八年)に掲載された証言は、同時代の記録として たいへん貴重なものになっている。

この再訪ではじめて会ったルハグワスレンさんは、私にとってはモンゴル国で最初の研究 協力者カである。LKHAGVASUREN という名前は日本人にとって発音がとてもむずかしい。そこ で、彼はみずから「スレンです」と省略して自己紹介する。本書でも以後、スレンさんとし て登場していただこう。

はじめて会ったスレンさんは、しばらくしてから私に「あなたの日本語はとてもよくわか る」と言った。滑舌のことを指しているわけではない。単純明快な話しぶりのことである。 私は留学時に「産んでいけ」と言われて以降、モンゴル人と話すときは単刀直入を心がけて いた。しかし、せっかくコツを学んだものの、さっさと帰国してしまったし、その後日本で はあまりモンゴル語を使う機会もないから、こころがけているはずの「単刀直入」を実践す るチャンスがまるでなかった。ようやく実践を開始するときがきた!

スレンさんがそれまで知り合った日本人たちの話し方というのは、おそらく日本人として ごく標準的かつ常識的だっただろうと思われる。それに比べて、是非をまず明確にするとい う私の話し方はむしろ日本人としては稀な話し方だろうと思う。スレンさんには日本との交 流に関するいろいろなアイデアがあった。それらのアイデアに対して「考えておきます」と いった可能性を含みもたせつつ拒否するという日本的な対応は、モンゴル人にとってイエス なのか、ノーなのかがわかりにくい。「考えておく」という表現が実は拒否を意味するという ことは、字義を大幅に越えているのでまず伝わらないだろう。可能性がないなら、別のこと を考えなければならないから、可能性がないままに宙づりにされるのは時間の無駄というも のである。一つ一つのアイデアに、あくまでも私見ながら、明確に是非を回答するという方 式が、「よくわかる日本語」という印象を与えたらしかった。

資金調達

モンゴルを自在に移動できるようになったとき、まず必要になるのは走り回るための資金 である。一般に、研究者たちは「科研費」を申請して研究資金を得る。「科研費」とは正確に は「科学研究費補助金」といい、私たちは通常、科研と略称している。大切な税金を使わせ ていただくための制度である。いくつかのカテゴリーに分かれていて、現在ではいずれかの カテゴリーでも海外調査は可能である。しかし、このカテゴリーは時代とともに変遷した結 果であり、当時は「国際学術研究」という名のもとに、「学術調査」、「共同研究」、「大学間協力研究」、「がん特別調査」の四つに分かれていた。最後者はおそらく、がん研究を日本でも 推進するために、海外でどのような研究が進んでいるかを調べるという意味ではないかと推 察される。そのような枠が別に設けられているほど、がん治療は当時、花形の研究テーマだ ったのである。私たちがモンゴルを調査したいと思ったとき、当時ならこの科研費「国際学 術研究」の「学術調査」で応募するというのが王道であった。

文部科学省のホームページで現在の「科研費」の項目を見ると、以下のように書かれている。

科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金/科学研究費補助金)は、人文・社会科学 から自然科学まで全ての分野にわたり、基礎から応用までのあらゆる「学術研究」(研究者の 自由な発想に基づく研究)を格段に発展させることを目的とする「競争的研究資金」であり、 ピア・レビューによる審査を経て、独創的・先駆的な研究に対する助成を行うものです。

ピア・レビューのピアとは専門家仲間という意味である。専門性の近い人たちが互いに審 査して、優れていると判断される申請を採択する。採択率は変動するが、おおよそ二○パー セント代である。つまり、四〜五人に一人という割合だから、けっこう厳しい競争であると 言えよう。他人と競争して得る資金だから、「競争的研究資金」という。

ちなみにみんぱくの場合、研究者一人一人にあらかじめ与えられている研究費は十万円だ けである。たとえば、東京で開かれる研究会に二度出席したら無くなってしまう程度なので、 とてもモンゴルに行く調査などできやしない。研究資金は自分で探して来るというのが原則 である。

「研究経営」ということばはいまでこそふつうに使われているが、それほど古いことばで はない。おそらく梅棹忠夫の『研究経営論』(岩波書店、一九八九年)以降に普及したと思わ れる。研究者にとって、資金の獲得や計画の実施、報告書の作成などひととおりのマネジメ ント感覚は必要であるし、また経営者にとっても、経営に関する研究は必要である。かつて は別世界の用語で結合しがたいと思われていたこれら二つの用語、すなわち研究と経営は、 結びつくようになった。このような組み合わせ概念を全国向けに提唱する梅棹忠夫のもとで、 みんぱくでは早くから研究者の経営能力がもとめられ、その伝統はいまも受け継がれている。

さあ、そこで科研の申請をしなければ。科研のしくみは根本的にあまり変わっていないと 思われるけれども、応募方法や書式はしばしば改変されてきた。近年のもっとも大きな変化 と言えば、デジタル申請になったことである。かつては B4サイズの様式があり、その用紙に 書き込まなければならなかった。ごくまれに、様式をワープロに読み込ませて全体をデジタ ルで作成するという、書類作成の強者もいた。私は大学院生時代にデザイン事務所でアルバ イトをしていた経験を生かして、プリントアウトした紙片を様式に張りつけて版下にすると いう方式で対応した。

申請書類はもちろん内容で勝負するものであり、書類がきれいであるかどうかは二の次で ある。あくまでも応募された研究案のオリジナリティこそが主たる審査対象となる。ただし、 どんなに独創的な研究であっても、あまりに読みづらいような書類では審査にとって不利で あることはまちがいない。だから、きれいに書類を作成することは意外に大切なことである。 いまでは、デジタル申請になったので、さらに競争水準は上昇していると言えよう。一九九 ○年代はまだデジタル申請ではなかったので、手作業の範囲内で、きれいに手書きする、タ イプライターをもちいる、ワープロで印刷したものを貼付けるなど、それぞれに工夫を凝ら したものだった。そして最後に、指定された色を色鉛筆で塗って提出していた。

私の手元に残っている書類をみると、一九九○年度から一九九二年度にかけて三年間の研 究「アルタイ・天山における遊牧の歴史の歴史民族学的研究」がおこなわれていたことがわ かる。研究代表者は松原正毅氏である。研究計画の目的は松原先生みずから執筆された。以 下のごとし。

アルタイ・天山地域は、遊牧民族史のなかで重要な位置をしめている。アルタイ山脈は古代トルコ族(突厥)が勢力をつちかい、天山山脈はトルコ系のウイグル族が王国をきづいた 地域である。アルタイ山脈、天山山脈には、古代からここを舞台に活動してきた遊牧民のの こした遺物、遺跡が無数にのこされている。これらの大部分はほとんど未調査のままの状態 といえる。古代以来のこされてきた遊牧民族の足跡を歴史民族学的な視点からとりあつかう のは、はじめてのこころみといえる。この点で、学会に寄与するところ大なるものがあるだ ろう。現在でも、アルタイ・天山地域は、カザフ族をはじめとする遊牧民族の重要な生活の 場となっている。本研究においては、遊牧生活の現状を民族学的に把握することも主要な目 的のひとつとなる。この地域の遊牧研究は、ほとんど空白にちかい。本研究によってこの空 白部の埋められることが期待される。

たしかに、このときの調査が出発点となっ て研究はみごとに展開し、松原先生の高著 『カザフ遊牧民の移動―アルタイ山脈から トルコへ』(二○一一、平凡社)が上梓され た。そもそも本学術調査は、ベルリンの壁が 崩される前からすでに改革開放路線をとっ ていた中国を対象にして、その西北部、新疆 ウイグル自治区の山岳地帯を対象とした計 画であった。ところが、研究期間中にモンゴ ルが社会主義国ではなくなったので、最終年 度にはモンゴル国側のアルタイ山脈地帯も加えられた。

ただし、私は残念ながらこの研究計画のとき、ほぼ留守役にとどまった。この三年のあい だに二度出産していたからである。

『Voice from Mongolia, 2020 vol.70』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「こちらは、ちょっとつらい状況。外出できない状況がもう7日続いている。日々のテレビ 授業の報告書、保護者の番号に資料や情報等の送付、送らないとならないものがたくさんあ る。今も5時までに出さないといけない書類作ってて、同僚とスマホのチャットで打ち合わ せをしていたの。朝起きて、コンピューター、スマホに向って作業し、夜にやっと解放され る。ここ2日は眠れないの、色々考えていたら目がさえて…」

教員、ウランバートル在住

モンゴル国では11月中旬、帰国者以外の新型コロナウイルス感染が国内で確認されたこ とを受け、首都ウランバートル、ダルハン、エルデネトなどがロックダウンとなった。 首都から地方への交通を遮断し、外出を規制。当初3日間とされた措置は、月末まで延長さ れた。
現地報道によると、11月19日までの同国内の感染確認は、ウランバートル14人、ダ ルハンオール県11人、セレンゲ41人など、累計で518人(うち治癒した人は335人)。 北海道(人口530万人)では同日の新規感染者数266人(7割にあたる188人が札幌 市)、累計で6356人、亡くなった人は141人(北海道新聞11月20日付)であり、比 較すると「あ、その程度」という数字である。
モンゴルの友人に言わせれば「2020、つまりホリ・ホリの年だから、仕方ない」。ホリ はモンゴル語で「20」、そして「とじ込める」「禁じる」(хорих)の命令形でもあるのだっ た。

アムネスティ・インターナショナル日本が、「内モンゴルの中国語教育強化 抗議して逮捕 された人たちを釈放して! 」とのオンライン署名を展開している。ウェブ上の要請文による と、通遼市ホルチン区で、少なくとも23人のモンゴル人が逮捕され、政府への抗議行動に 参加したり、情報を入手したりしたことが「騒乱挑発罪」にあたるとされ、警察は容疑者と して129人の名前や顔写真を公表した(9月2日時点)。

自らの言語を使う権利を求めて、集会や表現の自由を行使しただけで捕まるなんて、許さ れていいわけがない。中国のモンゴル人と長年つながっている人たちの話では、拘束者はす でに1万人とも言われている。

なお、アムネスティ・インターナショナル日本のウェブサイトには、「世界人権宣言」の全 30条が、谷川俊太郎さんの日本語訳、美しいイラスト付きで公開されている。ぜひご覧い ただきたい。 https://www.amnesty.or.jp/lp/udhr/

「放っておいても10年もたてば、モンゴル文字は使われなくなっていたんじゃないか。(中 国の)モンゴル人は漢民族と結婚したり、『将来有利だから』とわが子に中国語を学ばせたり していたんだから。だけど、今回のことで、人々の胸の奥底に残っていた、モンゴルへの愛 に火が付いた」。

旅先で出会った、モンゴル人のМさんは言った。モンゴル人が、今まで何もしなかったか らこうなったんだ、これからはモンゴル文字や文化を守る取り組みを、自分たちが確実に進 めて行くだけだ――。暗さを微塵も感じさせない、その表情から、モンゴルの空、手が届き そうに近い、あの空が見える気がした。そんな彼も、この問題が持ち上がった当初は、毎朝 われ知らず涙があふれ出たという。「父親を亡くした時以上だったね」。

かくいう私も、この問題を通じてはからずも、これまで意識することのなかった、モンゴ ルへの愛着を思い知らされた気がしている。異なる者を惹きつけ、巻き込んでいく、この力 の正体は何だろう。「外国人だから」「文化が違うから」と、差異を乗り越えられない「壁」 として扱うことと、対極にあるもの。

山間地の広大な野菜畑では、日本人とともにモンゴル、ベトナムなどアジア諸国からやっ て来た若い技能実習生たちが、泥にまみれて働いていた。屋外での収穫作業は、雨でも、雪 が降っても休むことなく、12月まで続くという。

こうして生産された産直野菜は、大手スーパーに出荷され、日本人の食卓を彩る。家族の 生活を良くしたいと海の向こうからはるばるやって来る彼ら、彼女らが、安価な労働力とし て生産現場を担うことで、陳列棚には季節を問わず、新鮮な野菜が手頃な価格で並ぶ。

地方の街角でも、外国人を見かけることが増えた。スーパーで段ボール箱にあふれんばか りの食品を抱えていたら、技能実習生かも知れない。法務省の在留外国人統計によると、2 019年12月において、全国でその数は約40万人、モンゴル人も2千人を超えている。

とじこもるしかなかった2020年が、暮れていく。自分の家にこもり、スマートフォン の画面に見入っている間に、風景は変わりつつある。10年後の日本には、どんな風景が広 がっているだろうか?

今月の気になる記事

モンゴル高原における畑作の歴史は、古い。現在のモンゴル国バヤンホンゴル県にある「バ ヤンの岩絵」は紀元前2-3世紀のものとみられるが、男が牛に鋤を引かせて耕作する様子が 描かれている。当時の人々は、家畜・耕作・狩猟の3つを生業に従事し、日々の糧を得てい たという。ドルノド県マタド、ダリガンガやトーラ川流域やウムヌゴビ県など各地で新石器 時代の遺跡から脱穀に用いられた石の道具が出土している(Ш.Сүхбат『Монгол тариалан ―газар тариалангийн уламжлалт соёл』2016年)

同国において歴史上類を見ないほど家畜が増えた現在、20世紀に旧ソ連の指導の下トラクターで開墾された畑作地帯では、畑に家畜が入るトラブルが頻発し、農業者を悩ませてい る。食糧供給が重要だが、草原と遊牧の風景はモンゴルの文化遺産、との視点も忘れないで 欲しい。

「農家と牧民の争いを政府が調整」

モンゴル国有数の畑作地帯・セレンゲ県開墾の祖である旧ゼルター国営農場では、生産の 礎が築かれてから 61 回目の秋を迎えた。実りを享受する黄金の秋を迎えた今、朝から晩まで、 時計や日没をよそに収穫作業が続けられている。先頃、ようやく一息ついた農業者の収穫の 模様を伝えるべく、取材班は同国営農場の礎となった同県トゥシグソムに向った。セレンゲ 件では収穫作業は終盤に入っているが、圃場の中には今もトラクターが唸るような音を響か せて行き交い、収穫作業が続いていた。同県における作業の進捗は90%。国内全域では8 6%で、合計48万トンのうち36万トンが収穫済みであった。

同県内17ソムのうち、16ソム42バグで畑作が盛んに行われ、国内生産の5-6割を 同県が担っている。同県農業局のB.ムンフトゥル局長によると、「わが県下では、11月1 日現在において、17万4千トンの穀物を収穫し、農業者たちは国民の健康、食の安全保障 への責務をしっかり果たした。30万5千ヘクタールのほ場を有するわが県は、60年にわ たり国内生産の50-60%を供給している。今後もアタル(開墾)4キャンペーン、スマ ート農業の振興などに取り組む計画だ」と話した。

牧民と農家の相互理解が重要

ゼルター国営農場跡の石碑を見学した後、生産に功績があった農業者に会うために、同県 のツァガーンノールソムに向った。同ソムにあるアタル・トレード有限会社のチメドドルジ 社長は、圃場でわれわれを出迎えた。同社では秋の収穫作業を既に終え、冬支度が進行中だ った。

「昨年より10日も早く収穫作業を終えたのです」。満足気な、満面の笑みで今期の収穫状 況が語られた。「今年の小麦栽培は3千ヘクタール余りで、雨の降る良い夏だったから豊作に 恵まれました。1ヘクタール当たりの収量は1,730キロ、全体では4千トンあまりを収穫 し、早々に作業を終了しました。農業者は既に冬の準備に入っています。とにかく特徴的だ ったのは10日以上早く作業を終えられたことに尽きます」ということだ。

また、現在に至るまで解決を見ていない、牧民と農家の間のトラブルについても意見を表 明した。「年々、この地方の家畜頭数は増加の一途をたどり、放牧地の許容頭数を上回ってい るため、牧民は圃場に家畜を放牧するしかなくなっている。冬の間、家畜が草を食み、踏ま れて土壌が荒廃し、栄養も失われてしまう。牧民たちも、農家が過酷な労働に耐えているこ とを知っている。だからこそ、この争いを相互理解に基づいて解決することが、非常に重要 だ。地方行政だけでなく、政府からの支援が求められている。農牧業省のかけ声で、201 8年にツァガーンノールソムで150キロメートルに及ぶ柵を設けたのは、われわれが求め る条件を満たすものだった。こうした柵でも建設しない限り、収穫に困難を来すことになる。 柵を設置していない農業法人は、収穫の1-2割を家畜による被害で失っている」と話した。

320万人を養う小麦粉を供給

長年にわたる牧民と農業者の争いの解決に、地方行政はどのように対処しているのだろう か。同県農業局のムンフトゥル局長は「両者のトラブルが深刻化する中で、収穫が行われた。 セレンゲは集約的な畜産と畑作農業の両方を振興すべき、との方向性について牧民、農業者 が協議を続けている。

牧民は、圃場に家畜を入れてはならないとわかっているのだが、放牧地の許容を上回る頭 数になっているため、そうせざるを得ない状況がある。将来的には安定的に家畜を生産する 4千500世帯が日々の所得を得ることができるような支援が必要。さらに、家畜1頭から 得る収入を増やすための努力も必要。両者の間のトラブルが解決すれば、国民の健康、安全 保障の基盤を強化することにつながる」と話した。

何千人もの牧民、農業者のみならず、祖国の土が育んだ野菜や小麦を食べる国民にとって も、非常に重要な問題である。解決に向けた政府の取り組みについて、農牧業省政策計画課 のボロルチョローン課長からも情報を得た。 「畑作地帯において、放牧に従事することは、農産物の安定的生産、食糧供給の目標に合致 しないと見ている。畑作地帯と、集約的畜産を行う地域の境界を明確化するとの決定が出さ れたのは2018年のことだったが、地方の現場では実施が進んでいない。そのため、決定 に基づいて実施することが課題である。今年は6県が干ばつに見舞われ、放牧地での草刈り が十分に行えない状況も生じた。そのため、実入りのよくない小麦を飼料に回すことになり、 小麦の生産量が低下した。このことから、来年春の播種を調整し、放牧による畜産のニーズ も考慮し、必要なときは牧民を別の場所に移動させることを計画している」ということだ。

フレルスフ首相は9月に同県を視察した際、「セレンゲでは牧民が放牧する余地はないと聞 いて残念に思われたが、そのように調整するほかない。なぜなら、320万国民を養う小麦 粉の供給は何より重要だから」と語っていた。長きにわたる農業者と牧民の争いは来春に向 けて、双方の利害を損なうことのない解決の在り方の模索が続く。

ゾーニーメデー紙より転載 (2020年11月3日)

 http://www.zms.mn/a/81388 (原文モンゴル語)

(記事セレクト・翻訳=小林 志歩)

※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。

無意識の偏見

(2019年12月23日・京都新聞夕刊)

(小長谷 有紀)


日本学術振興会監事・文化人類学

利益を追求する企業でも、社会に奉仕する役所でも、真理を追究し、人を育てる教育機関 でも、いろいろな背景や経験をもっている人たちが集まっているほうが全体として活力は大 きいにちがいない、と考えられる。そこで、ダイバーシティ(多様性)とインクルーシブ(包摂 性)が求められている。しかし、ゴールはまだまだ遠いようだ。 よく知られているように、世界経済フォーラムが毎年、政治、経済、教育、健康という4分 野における各国の男女格差を計測して示す、ジェンダーギャップ指数によれば、日本は14 9カ国中110位という低さである。女性の社会的活動はまだ限られており、その背後には、 「男のくせに」とか「女だてらに」とか知らずしらず、 私たちの心のうちに偏見が潜んでいるからだと思われ る。そのような心理は一般に、アンコンシャス・バイ アス(無意識の偏見)と呼ばれる。気づかないうちに、 型にはまったものの見方に支配されている状態を指す。

具体的な事例を探してみよう。すると例えば、「男性 は上昇志向が強いけれども、女性はリーダーになりた がらない」「女性は細やかな気遣いができるけれども、 数字に弱い」「育児中の女性に重要な仕事は任せられな い」など挙げられる。

ただし、こうした事例そのものが実はいかにも紋切 り型ではある。だから克服も容易ではないかと期待さ れる。こんなことを考えているようだとダメだと簡単 に意識して十分に対応することができそうだ。しかし、 無意識の差別というものは、人の心のもっと奥深くに すみ続けている。だから、わかりにくくて退治しにくい。 オランダに住む日本人女性が臨時で通訳を依頼された。その仕事のあいだ、8才の子供を

夫に預けていたところ、日本から来て通訳してもらっていた男性は「お子さんがかわいそう」 と一言。当のお子さんはパパと濃密な時間を過ごして楽しんでいるから、決してかわいそう ではないにもかかわらず。この発言には、母親こそが育児をすべきだという偏見が潜んでい る。

アメリカの大学で実験助手を務めている日本女性は、まだ会っていない上司の話になった とき he(彼)」と言うと、まわりの研究者たちから「どうしてボスが男だと思うのか」と問わ れて初めて、日本では男性上司しかいなかったため、偏った見方に染まっている自分に気づ いたという。このように、無意識の偏見は女性をも浸食する。

テレビ番組にも無意識の偏見が潜んでいるかもしれない。優秀なスキルを持った女性プロ フェッショナルは、明らかに非常識な人として描かれている。常識の方に問題があるとして も、常識と引き換えにようやく能力が得られるとでもいうのだろうか。女性を褒めているよ うでいて、実は貶めていることもあるのが、無意識の偏見だ。

現場での実例を集めて発信すれば、無意識を意識化できるようになり、意識的に社会全体 で変わることができるかもしれない。

事務局からお知らせ

(斎藤 生々)

2020年最後の号になりました。コロナが蔓延し、振り回された一年でした。新しい年 にはコロナが終息に向かいますよう願っています。

モピ通信218号で、あつかましくモピの窮状を伝え、皆さまに助けていただきました。

18名の方から、328,000円を寄せていただきました。ありがとうございました。感 謝申し上げます。

1)来年の予定、モンゴル学習支援事業、あすか野小学校、南住吉小学校の2校からの申込を 受けています。

2)例年通り、新年会を実施する予定ですが、どうするかは、そのころの様子を見ながら決め てお知らせいたします。

みなさま、よいお正月をお迎えください。

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35

tel&fax 075-201-6430
e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

URL http://mongolpartnership.com/  

編集責任者 斉藤生

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