人類学者は草原に育つ
『Voice from Mongolia, 2020 vol.74』
第20回・モピ総会のご案内
21年度年会費納入のお願い
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小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ
(臨川書店フィールドワーク選書)9
変貌するモンゴルとともに
日本学術振興会監事・文化人類学 (小長谷 有紀)
第三章 爆走モンゴル— — 一九九五年から九七年、モンゴル、ロシアを踏査
南シベリアからモンゴルへ
一年目の一九九五年は、当初に予定していた国境越えはできなか ったけれども、踏査行としては、複雑な民族事情をかかえる地域に 関する知見を得ることができ、さらに考古学的遺跡を多数訪問し、 きわめて充実していた。走行距離はおよそ四千五百キロメートル。 地上を走ってオラーンゴムまで迎えに来てくれていた、スレンさん とナワーン先生たちモンゴル人の一行は、さらに千五百キロメート ルを加えて六千キロメートルとなる。この現地調査は八月二日から 三十一日までの一カ月足らずでおこなわれた。実際に走行したのは 八月五日から二七日までのあいだで、さらに国境沿いでの待機や休 息日をのぞいた移動日はほぼ二十日である。平均移動距離を算出す ると一日あたり二百キロメートルあまりとなる。日本で言えば、大 阪からなら名古屋のさきの浜松あたりまで、東京からでもやはり浜松あたりまでくらいであ ろう。つまり、大阪と東京を二日で移動するペースである。それを一カ月近く繰り返すのだ から、「爆走」とついつい言いたくなるなってしまう。
一日おそらく八時間くらい走っていただろうと思う。すると時速三十キロメートルくらい でたいしたことではないように思われる。しかし、いわゆるオフロードなので、スピードが 出ていなくてもたいへんだった。
毎夜、持参のテントを張る。朝食はパンと紅茶と缶詰などで簡単に済ませる。できるだけ 夜露でぬれたテントを朝日で乾かしてから、テントをたたむ。周辺にある遺跡をなるべく多 くめぐりながら走る。ルート上に比較的こぎれいな遊牧民宅があれば、ときおり訪問する。 私たちが乳製品などをさんざんつまみ食いしたとしてもさして困らないだろうという期待か ら、裕福そうな家庭を訪問した。どこにもだれにも予約できないので、つねにアポなし、突 撃訪問となる。また、道中、出会った遊牧民たちとも話をする。この当時、遠隔地から続々 と首都をめざして比較的裕福な遊牧民たちが大挙して移動していた。昼食も簡単に済ませる。
車につんであるポリタンクの水でお茶をわかし、朝とほぼ同じ。そして、午後も同じ調子で 走るが、肝腎なことは日が暮れるまでにテントを立てること。
夏のモンゴル高原の日没は遅い。それでも、二十一時までにはテントを張っておきたい。 もちろんできれば夕食の片付けも日没ごろには終わりたい。地図と時計をみながら、今夜の 宿営地を決める。スレンさんと楊さんと私の三人がトランシーバーで交信しながら決めてい た。最終的な場所を決定する権利は私がもっていた。というのも、私にはヨモギのアレルギ ーがあり、モンゴル語でシャリルジ(学名は Artemisia macrocephala,ちなみに中国名では 大花蒿)と呼ばれる草が生えていると、数百メートル先から鼻水と涙が止まらなくなる。ま してやそんななかでテントを張ろうものなら、鼻血が出るほど反応してしまう。だから、風 がよけられて、川から水を汲みやすい場所でも、生えている草で宿営地を変えるのであった。 このヨモギは耕作放棄地にとくに多かった。というよりも、旧国営農場に近づくと鼻水がち ろちろと出てくるので、私の鼻は耕作放棄地の検出器のようなものだった。モンゴル高原に おける遊牧の持続可能性を証明するうえで、植物生態学のような理科系の学問の場合は、実 験場を用意してバイオマスを計測するといった直接有効そうな方法論をもっているのに対し て、歴史学や人類学のような人文系の場合は、むかしからずっとそうでしたと言えば言うほ ど、開発推進派からノスタルジーに過ぎないと批判されがちである。いっそのこと逆に、農 耕だとそんなに長続きしませんとか、牧畜を定着化させると長続きしませんとか、逆証明を したほうがいいのではないか。ずいぶんのちに私は「モンゴルにおける農業開発史」(国立民 族学博物館研究報告三五巻一号、九〜一三八頁、二○一○年)という論文を書いてまさに逆 証明を試みた。また、モンゴルから客員教授としてみんぱくに滞在されていたチョローンさ んと協力して農業に関する資料集をモンゴル語と日本語で作成した(『モンゴル国営農場資料 集』2013年)。こちらはモンゴル農牧省でも掌握されていないリファレンスで、研究者に 限らず、モンゴル人にとって役立つことは疑いない。これらみんぱくの出版物は何度もいう ようにすべて機関リポジトリとしてウェブ上で公開されている。
こうした農業とりわけその近現代史に関する研究をしようという着想の源は、この爆走時 代に走りながら鼻水をたらしていた経験にある。本一冊分くらいあるほどの長大な論文にな ってしまったのは、気になり出してからずっと資料をためて、ためて、そうこうするうちに、 いくつもの資料箱がそろそろ書棚の一段からあふれそうになったとき、いよいよだ!と書き たくなったからだ。分けて書くという知恵がまわらないほどディスチャージ(放出)したい 気持ちが爆発した。論文の書き方は一様ではない。人によっても違うだろうし、私自身のな かでもすべてが同じではない。この農業に関する論文の場合は、からだで着想してから脱稿 するまでおよそ五年ということになる。
耕作放棄地を避けなければならないという課題は、実のところ、それほど難しくはない。 ちょっと走れば、雄大な風景が広がる。眺望が身も心もあらってくれるようなところに宿営 することができる。たとえば、オブス県にあるウーレク湖のそば、アルハンガイ県にあるハ ノイ川のそばなど、いつも素晴らしい野外レストランだった。逆に、レストランに風景画を 掛ける意味もようやく理解できた。本来なら、人類はこういうふうにお気に入りの自然を眺 めながら食事をしていたんだなあと。
調査隊員の男性諸氏つまり私以外のすべての人がテントを張っているあいだに、私は運転 手さんたちと一緒に食事の準備にとりかかる。一番若いバトエルデネさんがつねに水の工面 をする。一番若いから力の必要な仕事を担当していたとも言えるし、あまり料理が上手では なかったとも言えるのかもしれない。一般に運転手は料理が上手な人が多いように思われる。 三年間の爆走をともにした運転手は六人いて、そのうち三年間を通してともにしたのはバト エルデネさん一人であった。彼はアルハンガイ県で生まれ、社会主義時代にポーランドに留 学し、建築工学を学んだものの、社会主義が崩壊してからはとりあえず運転手をして生計を 立てていた。一年目の調査のときのユーラさんもダワーさんも料理上手だった。二年目の調 査のときのガンスフさんはとても料理が上手なばかりでなく、狩人としての腕前もあった。 車に積んである鉄砲で、タルバガン(草原マーモット)つまり巨大なネズミの一種だが、そ れを狩ってうまく料理してくれた。二年目は魚釣りもした。彼はのちに市内でレストランを経営したという。そんな料理名人の運転手さんたちの助けを得て、私は、味はともかく、毎 日十二人分の夕食を草原で作っていた。ちょっと希有な経験かもしれないなあ。けだし、娘 や息子が高校生になったとき、昼食と夕食の二食を二人で合計四食分の弁当を毎朝、自宅に いるかぎりは作って送り出した。一つの鍋から数品のおかずにしたり、一つの鍋から数日間 味を変えていったり、できるだけ少ない手間で展開する、私なりの技を編み出していた。「働 く女性のための簡単レシピ」が私のなかでいつしかできあがっていた。そのはじまりは、モ ンゴル草原のアウトドア食にあるのかもしれない。
話を爆走時代にもどそう。夕食はたいていヒツジ肉のスープである。たまにケチャップ味 やカレー味と変えることはあっても、基本的にヒツジ肉のスープであり、そこに干しうどん (小麦粉製乾麺)を入れる。野菜としてはタマネギ、ニンジン、ジャガイモなどが入ってい る。うどんではなくて米にすると、なぜかたいへんな便秘になる。モンゴルでは米は便秘の 原因とみなされており、実際になってみて了解した。日本ではふんだんにおかずと共に食す るから問題がないが、野菜の少ない食事では小麦よりも米のほうが便秘になりやすい。とい うわけで、私たちとしては葉物野菜が恋しくなるので、いつも登山やアウトドアのための商 品として販売されている乾草野菜を持参した。そしてヒツジ肉スープに青物が浮かぶことで、 わずかな慰みとしたものだった。
ところで、ソ連製ジープ三台くらいはそれほど珍しくはないが、テントが九張りも草原に 並ぶとかなり目立つ。近隣の遊牧民たちとりわけ若い子たちが偵察にやってきた。ちょうど 食事どきに来た人びとには、こちらのものを振る舞うことになる。肉がそろそろ無くなって いれば、近隣の遊牧民から調達する。価格を交渉して屠ってもらわなければならない。ステ イ型と違って、サーベイ型にとっては些細な彼らの訪問も貴重な人びととの出会いの場であ る。自分たちと同じ器に同じように盛って手渡すと、要らないと言う。モンゴル人から 「草が浮いている」 と言われてしまった。草は家畜の食べものであって人の食べるものではないという。私たち の乾草野菜は人にとっての食品に分類されていなかったのだ。二○一四年現在、人びとはさ まざまな食品を食べるようになり、嗜好も大いに多様化し、さまがわりしているけれど、い まをさかのぼること、およそ二十年まえ、民主化へ移行した当初は、まだまだ社会主義時代 の名残があり、また伝統的な食事体系が健在していた。
爆走二年目の一九九六年は、トゥバへ第三国人である私たちが国境を超えるのは難しいの でむしろ先にトゥバへ行き、そこから南下するというルートに変更した。ロシア連邦に属す るトゥバ共和国へのビザを得るには時間と手間がかかるけれども、日本で準備を終えて臨む ことができた。同様に、爆走三年目の一九九七年も、先にブリヤート共和国へ行き、そこか ら南下してモンゴル国へ入った。二年目は八月七日から三十一日、三年目は八月六日から三 十日と、三年間ほぼ同時期にほぼ同期間、ほぼ同距離を、ほぼ同ペースで走った。二年目に モンゴル国内ではオブス県の北部、ザブハン県の北部、フブズグル県の南部、アルハンガイ 県の北部など昨年に通過しなかった地域を踏査することができた。三年目にはセレンゲ県、 ヘンティ県、ドルノド県、スフバートル県など東部を走った。
最後に回ったスフバートル県は中国と国境を接している。そして、まさに国境沿いにダリ ガンガと呼ばれる地方がある。現在では、スフバートル県のダリガンガ郡となっている。清 朝時代にはダリガンガ旗という集団名の付いた行政単位があり、名馬の産地、銀細工、アル タン・オボー(金のオボー)と呼ばれる低い山のふもとでのナーダム(祭り)などで有名な 地方であった。また、シリーンボグドとよばれる山のあたりは、モンゴル版鼠小僧ともいう べきウマ泥棒が活躍した伝説的な地方である。そして、あの、はじめてのホームステイ先の 母ツェベルマーのふるさとである。一九三一年にダリガンガという名称の旗が廃止された。 集団アイデンティティーの危機が訪れたに違いない。そして、翌年の旧暦二月二日、ツェベ ルマの一家はほとんどの家畜を捨てて南下したのだった。私はやたらとたくさん写真を撮っ た。いつか彼女に見せに行こうと思って。
見つめない愛
ダリガンガ地方は、一口で言うと、ゴビのなかのハンガイである。ゴビとはモンゴル語で砂の多い草原を指す一般名詞である。この一般名詞のついた県名が、ドルノゴビ(東ゴビ)、 ドンドゴビ(中ゴビ)、オムノゴビ(南ゴビ)と三つあり、いずれも、いわゆる固有名詞とし てのゴビ地域に属している。一方、ハンガイとはモンゴル語で森林のある草原を示す一般名 詞である。この一般名詞のついた県名は、アルハンガイ(北ハンガイ)、オムノハンガイ(南 ハンガイ)と二つあり、いずれも、固有名詞としてのハンガイ山脈のふもとに属している。 ゴビのなかのハンガイとは、砂漠性ステップに突如あらわれた森林ステップのような場所で ある。ゴビ地域で雨量が少ないにもかかわらず、地下水が豊富なために植生に恵まれている というところだ。つまるところ、ダリガンガ地方は砂漠のなかのオアシスなのだ。
そんな特徴をもつ自然環境が独特の地域史を育んできたのであろう。アルタンオボーの周 辺にあるガンガノール(ガンガはインダス川という意味でノールは湖)は、モンゴル国の東 側にいる渡り鳥たちが、南へ渡りを開始する前に集結する場所であるという。おそらく、か つては中国側のフルン湖やボイル湖にも集結していたにちがいない。しかし、そのあたり一 帯の開発は激しいから、野生の鳥たちは自然にここガンガ湖へ集結するようになったのでは ないかと推測する。一方、モンゴル国の西側にいる渡り鳥たちもどこかに集結して南のヒマ ラヤをめざすに違いない。
私たちはあちこちでツルの群れを見かけていた。いつもと違う風景はオプス湖で見かけた。 一九九六年の八月十八日。もうそろそろ夜間なら十分に寒さも感じるころである。アネハヅ ルが大集結して一晩中鳴いていた、その鳴き声のために寝られないほどだった。
アネハヅルは、ツルのなかでも最も小さく、最も軽い。ここからおよそ五千キロメートル 飛んで、八千メートル級のヒマラヤを越えて、インドやパキスタンの越冬地とのあいだを渡 っている。この飛行に耐えるため、軽量装備をしているツルである。おおよそ五月までにや ってきて、恋をして、子育てをして、九月までに帰る。
ヒナたちは短期間のうちに飛行訓練をおこなう。彼らをまぢかに見ながら、彼らと同様に 草原に分散して暮らす遊牧民たちは、彼らの練習方法を熟知しているようだった。運転手の バトエルデネが教えてくれたところによれば、まず、両親が子らをはさんで飛ぶ、という。 やがて、数家族が合同演習をはじめる。親たちが子たちをはさみ、V の字を描いて飛ぶ、とい う。さらに、合同演習は徐々にその規模を拡大し、まさしく V の字型を編成して飛ぶように なる。いよいよ最終段階で集結地点から一斉に南に向けて飛び立っていく、という。
アネハヅルの鳴き声がうるさくて眠れないほどだった夜の翌朝、彼らは巨大な V の字をつ くって飛んで行った。ああ、行っちゃうんだね。あの声はさよならの挨拶だったんだ。誰しもがカメラを構え、シャッターを切りたくなる、その瞬間、バトエルデネさんは言っ た。「見ちゃいけない。去ってゆく彼らを見つめてはいけないよ」
春になれば、彼らはまたやってくる。そのときには、手を振り回しておおいに手招きする ことになっている。だから、その逆のシーンは見つめてはいけない。福が去ってしまうから。 見つめないという見守り方もありなんだなあ。知らんぷりするという愛し方もアリなんだろうなあ。 そんなわけで、残念ながら写真はない。そのかわり、しあわせは手元にとどまっていると 思う。この爆走が終わった翌一九九八年から、こんどは私自身がリーダーとなって「モンゴ ル高原における遊牧の変遷に関する歴史民族学的研究」というタイトルのもと松原先生のプ ログラムをひきついだ。中国領内の内モンゴル東部、内モンゴル北部、青海省および内モン ゴル西部と年度ごとに進路を変えて順調にすすみ、そのうちとくに二○○○年に赴いたアラ シャン盟エチナ旗は、やがて二○○一年に総合地球環境学研究所が創設されたときの初代プ ログラムの一つの対象地に選ばれることとなった。このプログラム「水資源変動負荷に対す るオアシス地域の適応力評価とその歴史的変遷」(通称オアシス・プロジェクト、二○○二年 〜二○○七年)」にはたくさんの若手研究者が参加して、優秀な人材がよく育ったうえに、私 自身もエチナに暮らす女性たちのオーラルヒストリーをまとめることができた。中国中央民 族大学のサランゲレル先生との共同作業である。聞き取りをしたあとで、私があれはどうい う意味だったのと聞きなおすと、彼女はフィールドノートを見るまでもなく、すらすらと人 びとが語った表現をそのまま復元してくれた。生きたテープレコーダーのような人だ。その後も彼女とはなんどもフィールドをともにすることになった。 エチナで集めた口述史は、中国で使われているウイグル式縦文字によるモンゴル語、日本語、中国語、英語、そしてモンゴル国で使われているキリル文字(いわゆるロシア文字)に よるモンゴル語で刊行されていった。二○一○年、カスピ海の向こうにあるロシア連邦カル ムイク共和国を訪問したとき、かの地のカルムイ ク人たちから、キリル文字で書かれたその資料集 について「こんな仕事をしている日本人がいる。 知っているか?」と聞かれて嬉しかった。
「それ は私です!」と即答した次第。カルムイク人とい うのは、十七世紀に西方へ移住したモンゴル系オ イラート人たちである。一方、エチナに住む多く の人びとは、カルムイクから十八世紀に帰還した 集団の子孫である。祖先を一つにする集団は、ユ ーラシアの東西に分かれてしまっているから、互 いに気になってしかたがないのだろう。第三国の 研究者だからこそ、政治抜きに架け橋になる可能性を秘めている。(第3章おわり)
『Voice from Mongolia, 2020 vol.74』
会員 小林志歩=フリーランスライター)
「元気?こっちはコロナ、ないよ。マスクもしてない。国内旅行ももう出かけられる」
―モンゴル人、ハイラル在住
「本当に?」思わず聞き返してしまった。先月の当欄で、ロシア国境に近い内モンゴル自治 区・フルンボイルのお正月について書いたが、現地に住むBさんから電話がかかって来たの は3月初めのこと。遅ればせながら、の新年のご挨拶のあと、彼はそう言ったのだ。
ツアーガイドだから、商売あがったりで大変じゃないの、と聞くと、「大丈夫。トウモロコ シも栽培しているし、羊もいるから。こっち来たら、ご飯食べさせてあげられるよ。羊の放 牧に出てくれるならね」「いいね!行きたい!頑張る」。笑いながら、そんな話をした。
同自治区の感染状況について検索したら、「フフホトで50万人にワクチン接種」(1月4 日、ニュースサイト http://www.xinhuanet.com/english/)との記事があった。自治区の中心 都市フフホトの人口314万人の大半は漢民族。コロナ感染は抑えられていても、同自治区 で暮らすモンゴル人にとっては、もっと深刻な問題がある。
現地の人権活動家が語ったところによると、「保育園や学校で、週の3日は中国語で授業を 受け、子どもたちの間でも中国語で話せと求められている。モンゴル人教員も中国式で養成 され、中国語を学ぶことを強制される。多くのモンゴル学校で、校長がモンゴル人から漢民 族にとって代わられている。中国政府の高官が自治区の幹部と会い、2つの言語を修得させ ることで一致した。モンゴル人の自由と権利が奪われようとしている」(3月15日、ニュー スサイト http://www.polit.mn/a/88150) 。21世紀の、現在進行形の話?本当に?
一方で、ウランバートルでは学校の授業は未だ再開されていない。友人曰く、「子どもたち は家にいるのに飽きて、早く正常化して、授業を始めてほしい、と言っている人もいるわ。 でも健康でさえあれば、学ぶ方法はあるものでしょう?多くの親は、子どもたちを学校に送 りたがっていないし、私たちもそう。元気でさえいれば、他はどうにでもなるから」。
現地報道によれば、3月中旬現在、日に120-150人の新規感染者が出ている。「1日 の感染確認が200人を超えたら、警戒レベルを上げて、再び厳しい外出制限を出すほかない」と当局の担当者が語った(3月18日)。
モンゴル全体の感染状況は、「過去 24 時間で 81 人が回復して退院。新たな陽性者 158 人のうち、149人がウランバートル、9 人が地方(フブスグル県 7 人、トゥブ県 2 人)で、 地方における感染数は累計で358人。最近は感染数が増え、重症者数も増加傾向。一旦回 復していた89歳の男性が集中治療を受けていたが、昨日死亡。重症化し、深刻な呼吸困難 により亡くなった」。(モンツァメ通信、3月18日)
首都のバヤンズルフ地区の、ある街区(ホロ-)では17日から21日まで外出制限が出 た。当局からの指示はこのようなものだ。
-食品店と薬局などに外出の際は、感染防止対策を確実に守り、人との間の距離を保つ -救急搬送の必要な場合は、かかりつけ医に連絡して書類をもらい、規制地域から出る旨の登 録をする
-特別な必要がない限り、家から出ない -厳しい外出制限の期間中は酒類の販売をしない、飲酒をしない -専門機関の指示に従い、住民の義務を理解して行動する -外出規制の期間が終わり、警察による警備が引き上げたら通常の対応に戻る
日本では、早くも東京で桜が咲き始めた18日、1 月から続いていた首都圏の緊急事態宣言 を21日に解除すると発表。この日の北海道(人口約500万人)の新規感染者は、96人。 重症者7人、死者は10日ぶりにゼロだった(北海道新聞3月19日付)。私の住む地方都市 でも、老人ホームなどでの感染は止まっていないが、ともあれ、年度は終わろうとしている。 子どもたちは1年間、毎朝の検温と記録、マスク着用で学校に通い、放課後にはマスクなし で友達と走り回って遊び、図書館や空手の稽古にも普段どおりに通った。
対応が結果的に適切だったのか、足りなかったのか、過剰だったのか、いずれ明らかにな るだろう。来年の夏は、どちらのモンゴルに出かけようか、そろそろ考えてもいいだろうか。
今月の気になる記事
「遊牧民家族の一員になる旅」。そんなキャッチコピーで、MoPIがスタディーツアー「モ ンゴル大草原エコロジースクール」を開催したのは、2002年の夏のこと。黄色いオンボ ロのバスに揺られて向かった目的地は、首都から西へ600キロのアルハンガイ県チョロー トソム、ハイルハン。ひとりずつゲルに寝泊まりさせてもらい、地域のひとびとの日常生活 を体験し、そこでの気づきや学びを共有する「密着型」のツアーでした。
合計5回実施されたツアーの参加者や、現地で出会ったひとびとの何人かとは、20年近 くたった今も交流がある。「つないだ手の温かさ」を知った、と話してくれた高校生は、子育 て中のキャリアウーマンに。滞在先の若夫婦は、既に孫に恵まれた。そんな皆さんにお声か けしてそろそろ再訪ツアーを、と思った矢先の新型コロナ禍。まだしばらくは難しいにせよ、 ぼちぼち作戦会議から――。今回は、観光業界についての記事をお届けします。
C.バトエルデネ「新型コロナの後に最もはやく回復するのは観光業界」
(筆者/С.オヤンガ)
政府観光振興センター の C.バトエルデネ所長に話を聞いた。
-パンデミックで最も大きく損害を被った業界のひとつが、旅行・観光業界でした。国内旅 行を除けば、業界そのものが休業状態になりました。現状はどのようなものでしょうか。 「2020年において、世界の旅行業全体の60-80%、輸入は9100億ドル、所得は1. 2兆ドルまで下落し、この業界で所得を得る1億人の収入源がなくなってしまいました。観 光業界関連で、建設、農業、運輸などいくつもの業界に、直接的また間接的に影響が及び、 大きなリスクとなっています。国連によると、2020年の1月から9月の間にモンゴルに 来た観光客の数は、前年比で84%減、収入は94%減との統計があります。
そんな状況にあっても、世界に目を向ければ、この状況はチャンスだと見ている人たちも います。観光業界をこれまでより安定して、新たな方向性で発展させること、つまり、観光 客と地方の住民、環境、地方経済にとって等しく利益があるものに変化させるチャンスとし て生かすことが求められているのです。コロナは、過去にない形で社会そのものの変革をも たらしていますね。業界にとってももちろんそうで、世界の国々で、コロナ後の観光業界を 早期に回復させるために、必要なスキルアップ、雇用を維持し、守ること、国境を安全に開 くこと、観光客の信頼を回復すること、技術革新に基づいたサービス、政府と民間の協力を 今まで以上に強化することなど、多方面の取り組みが行われています。
市場経済に移行してから30年の節目を迎え、業界として何をして来たかを振り返り、成 果をチェックする時期に来ています。次の30年を見越して、どのような未来図が描こうと するのかを見極めなければなりません。
苦境のさなかでも、観光業界振興のための政策の良くなかった点を総括する時に来ていま す。21世紀のIT技術を活用し、観光の新たなモデルを生み出す条件は整いつつあります。 わがセンターは2017年1月に、政府決議に基づいて、自然環境観光省の管轄下に設立さ れました。国際観光ではツアーエージェンシーとしても業務を行っています。観光振興を重 要な政策として掲げるわが国の政府の方針に基づいて、事業を実施しています。
研修や調査、国外でモンゴル国をPRする、人々の意識を高めるなどの9つの取り組みが あります。わがセンターでは韓国からの500万米ドルの無償援助を受けて、観光研修セン ターを設立することが決まっています。来年5月から建設が始まり、23年の開業を目標に、 人材育成事業を行う拠点となります。
外国からプライベートジェットでモンゴルに来る観光客への対応について、空港当局とも 議論しています。観光客は検査を受け、ワクチンを接種したうえで、プライベートジェット で地方に直接降り立ち、旅を楽しんで、そのまま帰国できるようになります」
-観光業界をいかに復活させるかについて盛んに議論されていますが、各企業に対する実際 的な支援はどうですか? 「観光業界は丸1年、まったく動きがなかったわけではありません。そもそも、国外から来 る人たちだけが観光客と考えるのは間違いですよね。昨年1年間、外国からの観光客は来て いませんが、国内観光振興に集中して取り組みを展開し、地方の中小企業や販売業者の収益 は比較的上向きでした。これまでは、320万人と言われる国内観光客の経済効果について はほとんど議論がなされて来なかったのです。多くの国では、国内と国外からの観光客の統 計があります。観光業者にとって、外国からの流れは止まっても国内観光は動いていました。 言い換えれば、国内観光を本当の意味でどのように振興するかがパンデミック時期の重要な テーマとなりました。企業の支援としては、(環境にやさしい事業に対する)グリーン融資、 サービス向上のための研修などが行われました。
外国からの観光を受け入れる旅行会社は、感染防止のためのルールやガイドラインを提供 することが第一に求められています。ホテルで言えば、フロントに立ち寄らず、オンライン でチェックインを済ませて部屋に入るしくみづくりなどです。団体ツアーを受け入れないこ ともそうですが。
コロナ後、最もはやく回復するのが観光業界だと考えています。理由は、わが国は人口が 少なく、人口密度も小さい。外国からの観光客は必ずしもウランバートルに入らず、地方に 行くことで、感染のリスクは下がります。県において旅行を楽しみ、検査をして帰国すれば よいのです。
このようにコロナ後において、観光を恐れるのではなく、オープンに正しい対応でおこな うことができるとすれば、チャンスは大いにあります。この件で、外国からのプライベート ジェット受け入れの議論を進めていますが、観光客は検査、ワクチン接種をしたうえで地方 空港に乗り入れ、そこから直接帰国できるようになります。旅行業は早期に回復すると思います」
-「21県は21の国」事業は、地方観光振興ですよね。ただ、観光振興の可能性は県によ って差があるかと思いますが。 「観光業界は一枚岩から成っているわけではありません。サービスを受ける客も、サービス 業そのものも人であり、人と人との交流に基づいたビジネスです。モンゴル観光の『資源』 は、人です。その意味では、320万人の人材を育成するということになり、わが国の資源 はウランバートルだけでなく、21の県にあります。この価値を正しく理解することなく、 外国人観光客に安く提供していてはいけない。われわれの30年の失敗は、観光資源の開発 をウランバートル中心に行って来たことです。その反省から、国内観光振興政策である「2 1県は21の国」事業では3つのことを強調しています。
この事業では、世界各国の観光業界が取り組む優れた事例やノウハウを地方に普及し、観 光客の流れを地方に呼び込み、定着させる、業界の活性化を地方と協力して段階的に行って ゆきます。当センターは、21県の自然環境観光部局と協力する覚書を交わし、地方の観光 業界の人材育成のための研修やホテルの設備やサービス改善、よりよい基準の設置などに取 り組みます。
また、観光の発展に取り組んだ成果を測る指標も検討の必要があります。国際的に、国民 1 人当たりのGDPが 1 万ドル(訳注/モンゴルは2019年に約4245ドル)あれば、観 光業界は安定すると言われます。そうであれば、わが国においては、まだまだ「子ども」の 状態と言えます。重要なのは、目標を明確にすることです。人口10万人の県で観光客を何 人受け入れられるか、理論と現実の両方で、具体的に考えることが必要です。
それぞれの県が特色あるブランド、価値を発信することが大切です。例えば、ヘンティー 県を訪れた観光客に、西の県へも足を伸ばしてもらいたいなら、同じような内容で関心を持 ってもらえるか。朝ホルホグを食べたら、夜にもう一度ホルホグを食べようと思う人はいま せん。そうした観点で、21県には21の特色、見どころを用意します。
観光客の数を競うのではなく、ブランドとして認知されることを目指します。ボルガン県 の馬乳酒、アルハンガイ県なら温泉、セレンゲなら農業とそれぞれにイメージされることが 異なります。セレンゲのリゾートでは、近くに野菜のハウスがあり、国内外問わず、観光客 には野生のベリーや野菜でもてなすなど、地方色を生かした調整を適切に行えば、農業観光 にも大きな可能性があります。ウムヌゴビでは、砂漠や鉱山も見てもらうほかにどんな観光 が可能かなど、多彩な提案が考えられます」
-夏の3か月を通じて国境は閉鎖されていましたが、国内の観光は動いていました。こうし た現実を目にして、国内観光をどのように発展させるかについてもお考えがあることと思い ます。 「国内において人々は旅行をし、経済に良い影響がありました。ただ、モンゴル人の中には まだ旅行のマナーを知らない人も多いです。ゴミをまき散らさない、国民全体の意識を変え る環境教育、サービスのあり方など多くのコンテンツを制作しています。見るべきものは多 く、人々の旅行への関心が高まっているなか、こうした教育をなおざりにしてはいけません。 モンゴル人がお金をかけて旅行をするようになることは、発展の大きな基盤です。この基盤 の上に投資がなされれば、観光は発展します。観光発展のためのアジア開発銀行の大型プロ ジェクトがヘンティーとフブスグルで実施されます。ホブド、ウブス、ウムヌゴビでの取り 組みも継続されます」
「ゾーニーメデー」紙より転載
2021年3月2日
ニュースサイト https://www.sonin.mn/news/enews/118956 (原文モンゴル語) (記事セレクト・訳=小林 志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。
第20回・モピ総会のご案内
モンゴルパートナーシップ研究所
理事長 小長谷 有紀
早春の候、みなさまご清栄の事とお慶び申しあげます。平素モピ活動にご支援をいただき ありがとうございます。新しい年度を迎えるに当たりみなさまにご報告とご承認を賜り たく 思います。今年もまだコロナウイルスが治まらず、今は開催日のみ決めていますが開催場所 は未定です。4月始めに判断しモピ通信4月号でお知らせいたします。 何卒ご理解ご協力をお願い申し上げます。総会成立の要件として必要な委任状のご提出を合 わせてお願い申し上げます。
記
と き : 2020年4月10日(土)11時00分 ~
ところ : モピ事務局
コロナ感染予防のため、モピスタッフのみ参加開催といたします。 「ワクチン接種が終わるまでは」三密を避けましょう!との判断から、みなさまには、委任状でのご協力をお願い申し上げます。
I 【議案】
1 2020年度事業報告
2 2020年度決算報告
3 2021年度事業報告(案)
4 2021年度事業予算(案) 5 その他
2021年度モピ会費納入のお願い
(事務局 斉藤 生々)
20年度は、コロナウイルスで明け暮れた一年でした。昨年10月モピの窮状をお知らせ し、お心を寄せていただきました。会費と寄付金合わせて110万円があつまり、お陰様で 今年度をくぐることができました。御礼申し上げます。
モピ会員の総数が90名を割っている現在、今後の維持が思いやられます。 新しい年度に は、モピ活動ができますよう願っています。どうぞみなさ まも応援してください。お願い申し上げます。
サロール画
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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430
e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp
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編集責任者 斉藤生
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