人類学者は草原に育つ
『Voice from Mongolia, 2021 vol.78』
鈴木裕子さんのエッセイ
事務局から・
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人類学者は草原に育つ
(臨川書店フィールドワーク選書)9
変貌するモンゴルとともに
日本学術振興会監事・文化人類学 (小長谷 有紀)
第四章 博物館の収集活動 ―— 中国とモンゴル国
テント一式の購入
一九九三年の夏、松原先生の科研「アルタイ・天山における遊牧 の歴史の歴史民族学的研究」の最終年に私も少し参加させていただ き、モンゴル国の草原部をアルハンガイまで走った。このとき、オ ルホン突厥碑文あたりに宿営し、満点の星をみながら「バー松原」 こと、松原先生との酒宴において、この碑文を中心に据えて「大モ ンゴル展」をしようと話がまとまった。この碑文については後述す ることにして、「大モンゴル展」に焦点をあてた収集の話を進めよう。
私がモンゴル国ではじめて収集したのは一九九五年九月のことで ある。そもそも収集の予算を確保するために、その前年度に申請し ているはずである。さらにそれ以前にどのようなものがいくらかと いう見通しがなければ申請書を書くことができない。このように逆 算すると、どうやら一九九三年の夏にオルホン突厥碑文を中心に据えて展示をしようと決め た時点で、さっそく、購入する標本資料の収集についてモンゴル側に依頼したものと思われ る。それはあまりむずかしいことではなかったろう。何しろ重要な決定がなされた夜空バー には、下戸のスレンさんも同席していたのだから。
ただし、難しかったと記憶していることが一つある。それは、いまの話ではなく、来年の 話でもなく、再来年の話であることを納得してもらうことだった。いますぐ収入を欲してい るモンゴルの人たちにとっては、今日が重要であり、明日のことさえもどかしいのに、明後 日のことなどもどかしすぎる。二年後の収集やさらにその先の特別展のことなど宇宙人との 会話のようだという雰囲気を当時はモンゴル人の誰もがもっていたように思う。急激な社会 変化の最中に、進行形ならいざ知らず、未来形は用をなさなかったのだ。それでも、日本の システムを説明し、一九九八年に展示をする、その前に二年間にかけて収集するという流れ を理解してもらった。
二年に分けて収集するということもモンゴル人には無駄だとみなされていたかもしれない。 それでも分けたかった。市場経済への移行まもない当時は、まだまだ社会的に、とくに経済面で、混乱していた。路頭に迷う人がいる目の前で、札束で顔をたたくような買い物はした くなかった。一度に多額の外資を持参して大量に文物を買い付けることは、現地の経済活動 とりわけ文化をめぐる経済に対して致命的な破壊力をもたらすのではないかと危惧された。 そこで、一九九五年にテント一式、翌九六年に民族衣装一式というように収集をわざわざ二 度に分けるべく企画した。さらに映像取材を一九九七年に設定して、みんぱく展示場で放映 される番組を作成しようと企画した。
一九九五年九月、六日から十三日までという比較的短い期間で収集を終えている。それと いうのも、事前に資料を収集してもらってあるからだ。モンゴル国立民族博物館元館長、ス レンさんにお願いしてあった。モンゴルの天幕はゲルと呼ばれる。ゲルの外装からインテリ アまで家具一式は、モンゴル・キノとよばれる映画会社の一角に集められ、並べられていた。 モンゴル・キノはウランバートル市内の東郊にある。京都太秦の映画村のように町のセット というようなものはなかった。集められた品々を置くために広場を映画会社から借りている のかと思っていたら、そもそも映画のセットに使われていた品物を収集していることがわか った。それらの資料に加えて、スレンさんや運転手のバトエルデネさんの実家から集めたも のも含められていた。収集品については一点ずつ、みんぱく特製のカードに記録してゆく。 そのとき彼らが「ああ、それ、おれんちにあったやつ、もういまどき買おうと思っても見あ たらないよなあ」などと言うのを聞くと、家族の大切な思い出が詰まっているモノを譲り渡 していただいていることがわかる。
そうこうするうちに雪が降り出した。手がかじかんでペンが持てない。革製のジャンバー を借り、毛糸のマフラーと手袋を借り、全身に防寒対策をほどこして作業を続けた。翌日、 まだ足りないと思われるものをザハとよばれる市場に出かけて購入した。そして、このとき、 スリに遭った!
私は収集のために自分のお金ではない大金を所持していたので、用心深く、みすぼらしい 格好をしておいた。いかにもお金を持っていそうな日本人ではなく、いかにもお金を持って いなさそうな日本人をつくろった。財布はもたず、札束はチャックのついたビニール袋に入 れている。一見して現金だとわからないように。しかも、それは小さなカバンに入れてあり、 カバンは身体の前に持つ。だから、私から現金を奪うのはかなり難しいだろうと思う。スリ に遭ったのは私ではなく、スレンさんである。身長は一八○センチメートル、体重は百キロ 近くという巨漢であっても、スリにはかなわない。まったく気づかないうちに、肩に掛けて あったカバンのマチの部分がナイフで切り裂かれていた。感心するほど鮮やかな手口で財布 だけが抜き取られていた。スリが横行していた時代だった。
スリにもめげずに、資料収集を終えると、あとは搬出手続きである。一般に運送会社に手 配を任せれば、輸出業務を代行してくれるものであろう。パッキングリストを作ったり、通 関の手続きをしたり、荷主はせいぜい保険や運賃を支払えばよいだけだろうと思う。しかし、 市場経済への移行から三年も経っているわりには、民間の貿易会社の経験はまだまだ浅く、 あらゆる業務を荷主みずから果たさなければならなかった。まず、税関へ出向く。すると、 ゲルを海外に持ち出すには木工協同組合のような団体からの許可がいるという。新品ではな いけれども、中古の場合の規則がまだなかった。古い品物なので、本来なら現代の業界とは なんら関係がないにもかかわらず、証明書がなければ通関の許可がおりない。なんとも理不 尽に思われたが、理詰めで戦っても解決しそうにない。そんなとき、尽力してくださったの は、モンゴルの国民作家 S.エルデネ氏である。
エルデネ氏はもともと精神科医だった。スターリンの時代にモンゴルでも粛清の嵐が吹き 荒れたとき、父を失い、家を失い、その結果、学ぶ道だけが残されて、医師になった人であ る。彼の生涯については、『アジア読本 モンゴル』をぜひご覧いただきたい。彼の息子バト オールは民主化運動の旗手の一人であり、現在はウランバートル市長を務めている。エルデ ネさんのこのときのことは、月刊みんぱくに「甘くて苦い、収集の思い出」として書いた(二 ○○五年八月号)。以下のように。
彼は、普段身につけない勲章を胸にこれみよがしにつけて木工業界のオフィス前に現れた。 部屋の扉はなかなか開かない。ようやく開くと、彼はまず背広の内ポケットから白い封筒を取り出し、「これが私の名刺だ」と言って事務員らしき人に手渡した。それから彼だけが招き 入れられ、戻って来たときには書類にサインがしてあった。
おそらく、彼の名刺とはモンゴル語で言うところの「緑色のもの」であったろう。何ドル 札であったかを説明する代わりに、彼は言った。「馬乳酒を飲んで、タルバガンを食べていや がる」と。そう、オフィスではちょうど、行く夏を惜しんで馬乳酒を飲み、来る秋に先んじ て越冬前の小太りした草原マーモットの肉に舌鼓を打っていたのである。
一件落着してから、お世話になった人びとへのお礼を兼ねて、私もささやかな宴を催した。 ただし、タルバガンを入手する見込みはない。私たちはただ酔いさましに子ども公園のなか を、タルバガンの像に向かってぶらぶら散歩した。
「こんな動物の像を立てるなんて世界でモンゴルだけだろう?!」とエルデネ氏はけらけ ら笑ってから、「ユキ、これからも困ったことがあったら言いなさい。助けてあげよう。だけ ど、あと五年の間にだよ」。そして、その宣言どおり、彼は二○○○年五月に他界した。ご冥 福を祈る。
モンゴル人たちに助けられながら、書類仕事をし終えたときには、「私たちで貿易会社をは じめよう」と冗談を言いあうほどに輸出業務に精通した気になったものだ。やがて、一カ月 後に、天津経由でコンテナが大阪港についた。日本側はモンゴルで輸出したときの会社と提 携している会社が滞りなく手続きを進めてくれたので何も問題はなかった。
あったとすれば一つだけ。みんぱくで荷解きをしたとき、牛車の一部になる棒が見あたら なかった。問い合わせると、荷揚げされた場所に残っているという。ただの丸太なので、転 がされていたらしい。貴重な標本資料の一部であることを告げて、みんぱくに持ってきてい ただいた。
さて、このゲルには後日談がある。このとき収集したゲルは、とても古いタイプのものだ った。特別展「大モンゴル展―草原の遊牧文明」(一九九八年)を見に来た旭鷲山は「おばあ ちゃんのゲルにいるみたいだ」とうまくコメントしていた。一般にゲルは現在ほとんどカラ マツで制作されているが、それはボルガスと呼ばれるヤナギの一種で制作されたものである。 ボルガスはモンゴル全国どこでも河畔によく茂っていた。軽い素材なのでゲルに向いている。 けれども、やがてボルガスは減少し、一方人びとの暮らしは定着化して軽さを嗜好しなくな る。カラマツの少ないゴビ地域でも、いまではボルガス製のゲルを見かけることは少ない。 みんぱくにはモンゴル国と内モンゴルの双方からゲルがいくつか収集されていたが、ボルガ ス製はそれまでなかったので博物館の収集品としてはたいへん重要である。
この古いタイプのゲルを、特別展「大モンゴル展―草原の遊牧文明」では、未来のゲルと セットで展示していた。未来のゲルというのは、日本の建築家たちが自主的に研究し、新素 材の軽いテント生地、熱効率の良い炉、太陽光発電のパネルなどを組み合わせたものである。 未来のゲルを展示することによって、遊牧を古いものとしてみなさず、その生活の未来を提 案した。近代の文明においてインフラは集積的な施設であるけれども、現代の技術力はすで に太陽光発電や風力発電などに代表されるように分散型のインフラを可能にしている。遊牧 はそうした技術を取り込むことによって、分散型の文明を実現することができることを示し たかったのである。
特別展が終了してからは、例の社会主義時代に収集された生活臭のないゲルに代えて、こ の古いタイプのゲルにした。二○一四年現在、展示されているゲルがそれである。ところが こんどは生活臭がありすぎる!モンゴル来歴の標本資料は概して家畜の獣毛や皮革を使うか ら、動物臭がする。そういう意味もあるけれども、いまはもう誰も使わなくなったボルガス 製だから、全体として古すぎるのである。みんぱくを訪問するモンゴル人たちは口をそろえ て、「こんなのにもう住んでいないわ!」と不満げに言う。特別展のときは、未来と対になっ て、やや過去としてもちょうどよかったけれど、単独での展示には耐えられないようだ。や がて、このゲルは貴重なタイプとして保存に徹し、「いま」らしいものに代える必要があるだろう。
衣服一式の収集
翌年も同じ体制で臨んだ。衣服は撮影所を借りるほど場所を必要としない。事務所の一室 を借りて、すでにモンゴル全国から収集してある地方色豊かなさまざまな民族衣装を確認し ながら、みんぱく特製カードに記入していった。ウランバートル市周辺の遊牧民のお宅も訪 問し、そのタンスを開けていただき、どこにどんなふうにしまわれているか、一般にどんな ものを持っているか、といった実態調査もおこなった。
前回と同じ運送会社を利用した。一年のあいだにスタッフも熟練してきたようだった。と くに今回はコンテナではなく、航空便とした。使用されていた衣服は必ずしもクリーニグさ れていたわけではない。いまならクリーニングしてから搬出することになっているが、当時 はまだそうした規則が実行されていなかった。コンテナのなかで一カ月もかけて海をわたっ ているあいだに、カビが生えるかもしれない。だから、航空便にした。
かつて、留学していたときに着ていたデール(モンゴル衣装)を身につけて北京から飛行 機で帰国したとき、スチュワーデスさんは一言も口をきいてくれなかった。日本語が通じな いと思ったのかもしれない。それよりも、臭いがひどかったのではないかと思う。ヒツジの 肉を常食していてもモンゴルでは臭くはない。乾燥している地域から湿潤な地域にはいった とたん、いきなり臭いは発生する。そんなわけで、衣服は短期間で運ぶべきだと判断した。
航空便なので、前回とはちがって空港で通関した。そのとき、なんだか賄賂を要求されて いるようだったが、まったくわからないふりをした。ここでいったん賄賂に応じれば、いつ でも何度でも要求される恐れがある。心には徹底抗戦を構え、顔にはニコニコ笑いをたたえ、 そして無視して、難なきを得た。
みんぱくでは標本資料として登録されるにあたって、きっちり燻蒸処理がおこなわれる。 専門的なスタッフが一つ一つ丁寧にケアしてくれるので、あの民族衣装たちはモンゴルにあ ったときよりも日本に来てからずっときれいになった。そして、特別展「大モンゴル展」で は大活躍した。衣装の大半は、来場者が自由に着て、さらに展示場内を歩けるようにしてあ った。だから、展示場には各種モンゴル衣装を身につけた「にわかモンゴル人」が大勢、闊 歩していた。来場者がニコニコしながら観ているのを見るのはとても嬉しいことだった。収 集の苦労はそのときふっとんでしまったらしく、もはや思い出せない。
特別展「大モンゴル展―草原の遊牧文明」に展示するのは、ゲル一式と貸し衣装だけでは ない。たとえば民間医療器具やシャーマンの衣装など、いろいろな逸品をぜひモンゴルから お借りしたいと願った。しかし、難しいのはモンゴルが広大な国であること。ウランバート ルから借りるのは比較的容易だろうが、遠隔地から借りるのは難しい。そして、遠隔地の博 物館ほど逸品が残されていることも多い。そこで、一計を案じた。
こうした収集を実施していたころ、並行して、スレンさんはみんぱくの森田恒之先生によ る博物館セミナーを毎年、ウランバートルで開催していた。国際交流基金から資金を得てい た。このセミナーのために上京してくる博物館員たちに、地元の逸品を持参してきてもらお う!
そういうわけで、一九九八年のセミナーは、大モンゴル展の開催直前にウランバートルで 実施してもらった。森田先生の講義を聞くために集まった人たちが持参してきた逸品をてい ねいに梱包するのも、授業の一貫となる。何しろ、彼らのお宝が海外遠征するのははじめて のことだから、気合いが入る。こうして、首都ウランバートルに集結した逸品を展示場に展 開し、三カ月後に展示終了とともに直ちにウランバートルに戻すという方法をとった。森田 先生をはじめ、モンゴル全国の博物館の方々の協力なしにはできなかった方法である。改めて感謝したい。
『Voice from Mongolia, 2021 vol.78』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「なぜ彼がモンゴルを選んだかって?モンゴルは、自由な国だから」
ウランバートル出身、30代女性
東京オリンピックの柔道男子81キロ級決勝にモンゴル代表として出場したS.モラエイ 選手は、同国に今大会唯一の銀メダルをもたらした。報道が伝えるところでは、2019年 にイラン代表として出場した国際大会で、祖国とイスラエルとの政治的対立を背景に、途中 棄権するよう政府から圧力がかかったが、これに従わなかったため、帰国できなくなった。 その後モンゴル国籍を取得し、東京五輪を目指す。どんな思いと覚悟でたどりついた日本武 道館の畳だっただろう、得意の変則的な肩車などの技で決勝まで勝ち上がった。セコンドを つとめたコーチと喜びを分かち合おうと抱きついたところ、勢い余って転んだ姿が中継カメ ラに捉えられていた。
モンゴル人と言っても、生まれながらの、ではないから、人々はどの程度このメダルを喜 ぶのだろう――そんなことを確かに思ったのだ、私は。まさに、島国根性。この快挙をモン ゴルのひとびとが心から喜び、賛辞を贈る姿に、そう気づかされた。 「モラエイ選手は『このメダルをイランにいる家族と、自分を受け入れてくれたモンゴルの ひとびとに捧げる』と話したのよ」。日本で暮らすモンゴルの友人は、歓喜に声をはずませて 教えてくれた。
その翌日の7月28日、SNSに投稿された、彼を称えるこんな投稿が目に留まった。
初の快挙と来れば ボルガン県人のごとく 戦いの激しさは アルハンガイ県人のごとく 力強く勇ましいこと フブスグル県人のごとく 素早いこと スフバータル県人のごとく
くせのある話し方は ホブド県人のごとく 立ち上がるのは ヘンティー県人のごとく 多彩な技は ウブス県人のごとく
中肉中背であるのは ウブルハンガイ県人のごとく 容貌を見れば ウルギーの人のごとく 時折気まぐれに転んで見せるのは ゴビの人のごとく 生まれ故郷に戻りたくてもかなわないのは トゥブ県人のごとく わが祖国に 栄えある勝利をもたらした
われらが モラエイはモンゴルの男 モロム(訳注/モンゴルの名前) 間違いなく そうである
(Монгол бөхийн хийморь FB/作者 B.ウルジ-ドゥーレン)
誰しも生まれ落ちる国を、自由に選ぶことはできない(今の流行り言葉では、国ガチャ、 とか言うらしい)。だが、彼は自らの意思で、モンゴルを選んだ。そのことは、ただ単に国土 に生まれたモンゴル人に何ら劣らず、いやそれ以上に、モンゴル人と認めるに値する。モラ エイ選手は勲章を受け、瞬く間にスターのようになったという。
モンゴルでは、ゾリジ・イレフ(зориж ирэх)、つまり、自らの意思でやって来る人を歓迎 する。モンゴルに行きたい、あなたに会いたい――その思いだけで足を運ぶ外国人の私も、いつだって温かく、受け入れてもらって来た。「そのひとは、もうモンゴル人だよ」といとも 簡単に言ってのけ、懐広く、人を仲間に引き入れるのだ。
日本で働きたい、学びたいとはるばるやって来た外国人にとって、日本はどんな国だろう。 自由だろうか、ひとびとは温かいだろうか。日本人の働き手が見つからないから、人口が減 るから、外国人でも「仕方がない」とか、文化が違う、言葉が伝わらない、などと日本人よ り劣る存在だととらえていないか。個人的にはそんなふうに思っていなくても、慣行や制度 がそうなっていないか。
モラエイ選手は試合後のインタビューを、「バイラルラー、モンゴル」とモンゴル語で締め くくった(7月27日、ニュースサイト Zugii.com)。五輪の閉会式で灯された「ARIG ATO(ありがとう)」の文字は、コロナ禍の東京で、自らの到達点を見せてくれた世界のア スリートへのメッセージ。厳格な感染対策には辟易しただろうが、至れり尽くせりの待遇だ った出場選手やIOC役員の中には、自分の思いを重ね合わせた人もいたかも知れない。五 輪関係者よりもっと大勢の、この国に長く滞在し、学び働く普通の外国人が、帰り際に「あ りがとう、日本」と感謝の念を抱く、そんな社会に少しずつでも近づけていきたいものだ。
今月の気になる記事
日本では東京五輪開催と同時進行で、大都市を中心に新型コロナ、デルタ株の陽性者が増 え続けている。政府は「オリンピックはテレビで楽しんでください」と外出自粛を呼び掛け たが、医療従事者にとっては記録更新の勢いで増える陽性者数、それに伴って一定割合で確 実に増える重症者数、空き病床数を横目に、到底楽しむことなどできなかっただろう。今回 は、現地報道やSNSから伝わって来た、モンゴルの医療従事者の声を紹介する。
すべての医師、医療従事者の給与を2倍に増額することを要求
モンゴル医療従事者労働組合連合会が、医師らの給与と奨励金の額が仕事の負担と見合っ ていないとの問題で、記者会見を行った。
医師、医療従事者らは「基本給を2倍にする。看護師の私たちも仕事に忙殺され、限界に 来ている。政府が動いて、実現することを求める」という請願書を政府に提出した。(中略)
同連合によると、「医師、医療従事者は座り込みを行う。国内の5万6千人あまりの医師、 医療従事者の代表が今日集い、昇給を求めている。この2年というもの、私たちは休みなく 働いた。コロナに感染した従事者は2千人に上る。回復して復職しても、疲労は限界に達し ている」。 同連合のH.アリウナー代表は、「医療業界は、人材不足に陥っている。これは国民の生命、 健康に直結する問題。医療従事者が病に倒れている。6月21日に経営陣と協議し、危機的 な現状について話をした。医療者のみに200万トゥグルグ(約7万7千円)を支給するこ とを提案された。全体の50パーセントのみの昇給で納得させようという考え方には同意で きない。医療従事者全体の9割以上が何らかの借金をかかえている。医療従事者は職場で感 染して、家族に広げてしまうこともあります。すべての医師、医療従事者の給与を2倍に増 やすことが必要です」
「2021年(訳注/20年の誤りか)11月以降、すべての医師と職員が、極めて負担の大 きい状況下で勤務しています。2年にわたって負担に耐え続けて来ました。しかしながら、 法律やルールも何ら整備されません。パンデミック、緊急事態の状況下で業務にあたる職員 に、賞与を 3 倍に増やすべし、などという規則のことです。コロナについての法整備に、業 務にあたる中で感染した医師や職員の給与を補填するとの規定があるにもかかわらず、それ さえ実施されていません。私たちは法の実施を求めます。国内の平均給与は130万トゥグ ルグで、医師の給与は60万トゥグルグあまりです。こんな状態ですから、医療業界を去る 医師たちも大勢います」と話した。
(後略)2021年6月30日 http://eagle.mn/r/89241
「どうか、広めて欲しい。これが現状です。 わたしたちはすべき仕事をしているだけなのに、何かの罰を受けているのか?
医療従事者平均 649,000 トゥグルグ(約2万5千円) 国の平均 1,300,000 トゥグルグ(約5万円) 判事 5,000,000 トゥグルグ(約19万円)」 (医療従事者による FB 投稿、7月1日)
医療に従事する私たちは、給与を国の平均まで上げて欲しいとの要求を出した。 これはそんなに難しい願いだろうか?
現在までに、誰からも反応がない。2日間、冷たいセメントの上で座り込みを続けている。 政府の偉い人たち、良い眺めですか?
明日、2021年7月6日、8時30分から17時までに、どなたかから何らかの答えを もらえるのを、私たちはここで、待つ。5万6千人の同業者のために。 なぜなら、わたしたちには他の日はない。明日でなければ、いつになってもその日は来ない。 (医療者による FB 投稿、7月5日)
国立障害研究病院、医師、医療職員の給与を20パーセント増額へ (筆者/D.テム-レン)
S.エンフボルド保健大臣が昨日、各病院の経営陣と協議した。病院の財政執行において、 給与や賞与を増額する見込みがあることを示し、病院の経営者たちに昇給の義務を果たすよ う指示を与えた。
国立障害研究病院のE.ガルバドラフ総長はすべての職員の給与を20パーセント増額す ることを発表した。
「2021年上半期、当病院の財政状況はいかなる債務もなかった。今後6か月の経営に おいて、給与予算を計算し、職員それぞれの基本給20パーセント昇給することは十分可能 と判明し、実施することとした。
病院に来る患者が多いので財政は回っている。パンデミックが流行し、今年年明けからの 4か月間で28億トゥグルグの赤字だったが、5、6月で取り戻した。何とかして今後も赤 字に陥ることなく財政収支を維持し、職員の昇給は可能」とのこと。 同様に、他病院についても昇給は可能であると大臣は強調した。
2021年7月6日 IKON.MN
(原文モンゴル語) (記事セレクト・訳=小林 志歩) ※転載はおことわりいたします。
引用の際は、必ず原典をご確認ください。
鈴木裕子さんのエッセイ集
(小長谷 有紀)
鈴木裕子さんからのお便りを掲載します。 鈴木裕子さんは、公邸料理人としてウランバートルにある日本大使館に勤務されていました。 それまで縁のなかったモンゴルと出会い、モンゴルの不思議な面白さを SNS でエッセイを発 信。それらの中からいくつかのエッセイを再構成してお届けします。いずれまた、ご本人に よる自己紹介もお願いしますので、まずはモンゴルの多様な側面に出会っていく彼女の声を お楽しみください。
気球◇1300m のミクロとマクロ
モンゴルのスポーツの祭典ナーダムは、首都地方共に競馬 や相撲や弓矢などの競技が目白押し。この時期は人が田舎へ 田舎へと移動する夏休み。わたしも、ウランバートルからお よそ 200km のモンゴル語で歩き渡るが名前の、流れのないト ール川のほとりで憧れの空の散歩へ。
気球は朝5時半に宿のゲルの前から出発。風が強いと飛ば せないので、まずは黒い風船を飛ばし風力と風向きを確認す る。OK となれば、6人のスタッフが気球を膨らませ空に送り だしてくれる。
草原や木々が目覚める時間帯をゆっくりと気球は上昇する。 ビルの上から地上を覗き見るような高度。けれどここはモン ゴルの草原の只中。生きものたちの目覚めの音しか聞こえな い。高度がどんどん上がる。川の上を列をなして飛ぶ鳥たち の姿が眼下にみえる。意外に動くものを目は捕らえることが できる。見渡す草原には数えるほどのゲル、その周りには、餌や水を食べに出る羊や山羊の 白い塊。驚くような広さに、その粒は本当にちょこっとでしかない。大地は圧倒的な広さを 持ち、空は更に広い。
地表にいた時、草原には野ネズミの巣穴が沢山あったけれど、空からは見渡す限り、肉眼 で見えるサイズの野生の四つ足動物は見当たらない。草原は広く、人は少ないが、 大きな野生の生き物が命をつなぐのは容易なことではないのだろう。いや人の力が絶大なの だ。人は動物たちができないことを補っている。その取り決めの内の家畜だけが生き延びる、 その事実を景色が証明していた。
地上で見た遊牧は家畜の世話をあまりしない自然任せな方法で、家畜はお乳やお肉を搾取 されるだけに見えた。人は悪役に思えた。けれどそれは誤りだった。人が何千何万何十万い や何百万という動物たちを生かし、共存している。世話の多くを自然に任せ、その分沢山の 命を支え抱えるのが遊牧というものなんだな、それが腑に落ちた瞬間だった。
白いゲルの近くの地面に丸くて黒い跡がある。それは数年前にゲルを建てた場所。家畜は 周りを食べ尽くし糞をする。わたしは移動した跡の土地は栄養豊富で草が生い茂るものだと 想像していたが、さにあらんや。想像と現実はこんなにも違った。知ったつもりは、現実の 前では愚かでしかない。
気球は昇る。ゆるやかな流れのトール川の軌跡が三日月湖どころか、地表に複雑な模様を 描く。平原の川がどこまでも自由に移動した軌跡だ。高度の低い朝の陽光が、凹凸から影を あぶり出し、まるで高度地図のような景色を実現する。それにしても、川の周りは緑だが、 僅かに外れるともう乾いた茶色が顔を見せる。そうなのだ、モンゴルの土は水捌けが良すぎ る。
大地は広く、空も広く、その間に挟まれるような空中散歩。高度は 1300 メートルにもなっ た。高いビルからのようだと見た景色は、飛行機からに変わる。このまま昇れば宇宙からの 景色になるのだろう。ダイナミックだ。こんなマクロな視点を体験すると、 日々の些事などどうでもよく思える。そして眼下の自身を含む地上の小さな生活や命を思う 時、世界が一つの愛おしいものになる。広い世界からすれば、私たちの暮らしはそれがどん な喜怒哀楽に満ちていようとも、小さい世界を懸命に生きている小さな粒に過ぎない。仕事 や学校が辛くて、死にたいなんて考えた事のある人必見だ。ミクロを知って、マクロを散歩 する。これはわたしにとって得難い体験だった。
軍事から転用されたアメリカ製の GPS と風速測定器に助けられ、私たちは地上に戻る。距 離にして 16km 時間にして1時間強。あまりに刺戟的でクラクラ。 いや酸欠だったのだろうか。ただそこにある自然の偉大さとともに、人間の営みの生む素晴 らしい仕事を堪能した。
ゲル◇夏冬泊
モンゴルを旅するなら、地球上でとても珍しい住まいゲルのユニークな知性を体験しよう。 この家は持ち運びもできれば着替えもする。ゲルは家畜と共に、その餌と水のある地に住ま いを移しながら暮らす遊牧生活を前提に生み出された組み立て式の住まいだが、その個性は 変幻自在さにある。少しの平面さえあれば建てる場所も自由なら、機密性も自在だ。
この根底には材料となる資源の少なさと、大地に対する畏敬の念がある。壊れないでいつ までも使えることと、移動の際は大地にその痕跡を残さず元の自然に返すことはモンゴルの 価値観だ。シンプルライフを絵に描いたような暮らしだが、そこに身を置くと意外なほどの 快適さに驚くことになる。
雨が少ないと人が嘆くある夏、私と娘はロシア国境近くに宿営するミハチというブランド を展開する友人養蜂家を訪ねた。いつもならもう少しウランバートルの近くに巣箱を置ける のにと彼女が漏らしていた通り、ジープで走る道中には延々と花はなく心配になった。それ がもうロシアも近いという頃になっていきなり黄色い運河が現れた。それは油の原料となる 菜種の花だった。もちろん辺りに家も道もない。どうして何の目印も無い草原で運転手氏が 目当ての場所を見つけ出せたのかは知らない。けれど私たちは無事に彼女のゲルに到着した。
木がなく、よって木陰もないモンゴルの夏、ゲルの中は何の冷房器具もないのに涼やかさ に満ちていた。夏のゲルは骨組みを覆うのは家畜の毛で作ったらフェルトと白い布地だが、 暑い日はそれが巻き上げられ、草原を渡る心地よい風がそのままゲルの中を通り抜ける。冷 房のひんやり感を想像されても良いが、ゲルの快適さはその上を行く。砂漠に立つ一本の木 のような木陰を提供してくれる。それはもう昼寝するな、というのがムリな快適さだ。こん な住まいに住んだなら、わたしは働き者にはなれそうもない。寝転がれば格子に編まれた木 の隙間から草原が見える。
観光用ではなく生活空間としてのゲルの中の見える収納がま た面白い。ナイフ、歯ブラシと何から何までもが天井や骨組み の間に差し込まれていて、どこに何があるか一目瞭然。ものを しまった場所を忘れてはあたふたするわたしには羨ましい限り だ。
春夏の草原は時にとても強い風が吹く。不思議なのはゲルが その風にびくともしない事だ。ゲルは二本の地面に乗せられた だけの柱と、折りたたみ式の格子状の壁それに柱と壁の格子と 傘のような骨を一本ずつ渡すことで天井ができている。移動と なれば二人で数時間で組み立てるものだから、地面に打ちつけ られるのは入り口となるドアくらいなのに、突風のでも、その 揺れの少なさに感心する。おそろしく安定している。とはいえ 本当に飛ばされる程の風にさらされる時には、屋根に重石をし、 天井からは綱を垂らしてそれを家の中で人が引っ張って支える のだという。
冬のゲルにも泊まってみたかった。モンゴルの厳しい冬を知ってから簡素なゲルになぜ冬 も住めるのか?が謎でならなかった。ウランバートルの住まい近くの工事現場では資材置場 もプレハブ小屋ではなく、ゲルであれにはびっくりしたが、あまりに簡単だからこそ、わた しはゲルを甘く見ていた。しかし、氷点下数十度の真冬のゲルは暑かった!さすがモンゴル 人を寒さから守ってきた住まいだ。動物の毛素材の不思議。熱を逃さず、空気を通す。泊め ていただいたのは、日本に留学経験のあるモンゴル人夫婦が営むウランバートルからほど近 いノマドホースキャンプ。竃兼ストーブには石炭がくべられていた。
普通私たちは冷暖機具や、人の着るもので快適さを生み出し、住まいを変えることはない。 だから、家はその土地の一番厳しい季節に合わせた形にする。雪の厳しいところなら、屋根 の角度や傾斜をつけ、壁には断熱材を入れる。暑さの厳しいところなら、開放性と風の通り道の確保に気を配る。
けれど、ゲルは家自体が夏冬で衣替え。寒い時期は、 厚地の二枚のフェルト重ねに覆い布。夏はそれが一枚 の仕立てとなり、昼暑ければ地面に近いところは捲り 上られ骨組みが露出する。こんな家は世界広しと言え どなかなかない。家を違う場所に二軒持つのはあると しても。
ゲルの自在な機能性と安定性は、わたしの建物の概 念を大きく変えた。地に根ざした独創がゲルには詰ま っている。夏冬と全く生活を変えるモンゴルの草原の 暮らしをオールインワンに満たすゲルはこれ以上がな い人の知恵の結晶ではなかろうか。遊牧生活の簡素な、けれど自在な魂が宿るゲルはただの 移動式住居ではない。しかしそこに住まう人たちはその特別に気づいてない。日本人が日本 の特別を知らないのと同じように、それがあまりに当たり前だから。定住というモノに溢れ る生活の対極が面白い。
馬◇白馬の王
馬たちが草原を駆けていく。草原を自由に暮らす馬達だが、彼らは人に管理されている。 群れには雄を一頭だけ残す。それ以外の雌と子供、それに去勢された雄たち合わせて数十頭。 リーダーとなる種馬は人に選ばれた小さな王国の主。しかし彼の権威は絶対だ。
夏のトール川の浅瀬に大きな馬の群れがすっぽり入り、尾っぽを揺らし気持ちよさそうに 涼んでいた。乗馬する私たちは川を渡ろうとしていたから、彼らのいる場所なら安心とばか りに近づいた。するとひと塊りに見えた馬たちが線でも引いたように真っ二つに分かれ半分 だけが川を引き上げた。一つに見えた馬たちだが、実は二つの群れだったのだ。片方の群れ のリーダーは川を上ることを選択し、もう片方のリーダーは危険なしと残る判断を下したの だ。川に残った馬たちは私たちが近付いても微動だにしなかった。馬たちはまるで軍隊のように規律を守り、規律の主である種馬を信じ切って暮らしている。
ある時、白馬の王に出会った。遠目にも彼がリーダーであることはすぐにわかった。群れ が彼の意のままに動き、止まる。言葉や鳴き声なんかいらない。ただ気配を感じあって指揮 のままに行動を共にしている。馬たちは何よりリーダーの動きを見ていた。この様子に馬の ように同種の中で言葉を使わないでコミュニケーションを取り合う動物は違う種類の生きも のとの会話もできるものなのだなと感じた。
わたしはこの馬の群れをもっと知りたくなり、彼らが川を目指して近付いてくるのを良い ことに歩みを寄せた。こちらから真っ直ぐ向かって行っては警戒される。わたしは身体を川 に向け、群れを斜めに見ながら歩いた。そして群れを無視するような態度で川の前に腰を下 ろした。立っていない人間には何もできないよ、あなたたちに用はないよを態度で示しなが ら距離を縮める。馬が無闇に人を襲わないことを信じて。
向かってきた馬たちはある一定の距離でわた しという障害物に足を止めた。その馬たちが道 を空ける。その間を一際目立つ白い馬がすっと 先頭にやってきた。彼がわたしを凝視する。わ たしはガン見したくて堪らないのを我慢して、 川に顔を向けながらその種馬を目の端に捉え る。
一刻の後、彼が首を下ろし草を食べた。する と他の馬たちが一斉に散った。それは号令だっ た。彼がわたしから目を離す。他の馬たちが緊 張を解く。しばらくすると数頭の馬たちは背中 を地面に擦り付け砂浴びさえする。
けれど一頭だけがわたしを監視し続ける。それは先のリーダーの白馬だ。草を食み、水を 飲みながら、定期的に頭を上げてわたしのことをじっと見る。つぶさに観察すると、そんな 時の彼の体全体がしっかりわたしに向けられていた。片手間の警戒じゃない。逃げの姿勢は 微塵のない。わたしが何かすれば向かってくる、それは威嚇の姿勢だった。すごいな、正直 なところ惚れちゃうような格好良さだった。リーダーって奴は。
しばらくの時を経て、群れは去っていった。なかなか遊びをやめない馬に向かいリーダー が近づくと、その馬は遊びをやめて、頭を低くごめんなさいと言うように彼に従った。凄い 統率力だった。馬とはそういう生きものだった。
なぜ世界中で馬が素晴らしい生きものだと言われるのか?もちろん四つ足で速く走り人に 有用であるだけでなくとても美しい。けれどそれだけでなく彼らは種類の垣根を越えて私た ちの言葉を解す。行動を解し、判断する。その力が明らかに他の家畜と大きく違う。
同族同士で以心伝心のある馬。その以心伝心が人に適用されるかは、その人物の有用性、 あるいはリーダーとしての資質にかかっている。馬は人を見る。広い草原を彼らは群れで生 活する。同じ種類の感性とルール。彼らは仲間を必要としている。私たち人間と同じように。
モンゴルでは馬が人の半身となって暮らしてきた。主を亡くした馬には、青いハダクを掛 けもう誰の馬にもならなくていいようにと草原に返すという。人と馬の特別な関係を生きて きたモンゴルは教えてくれる。人は馬を理解したし、人の言葉を教え込んだが、馬もまた人 をよく理解してくれる生きものなのだと。その間に情もまた生まれないわけがない。
事務局から・
7月の猛暑に続き8月に入ってからの豪雨、コロナ感染の拡大など穏やかな日々の暮らし がどこかにいってしまって久しくなります。ご多分にもれずモピ活動も静かなものです。
・訂正とお詫びがあります。毎号に掲載しています小林志歩さんの
『Voice from Mongolia, 2021 』のナンバーが間違っていました。227号分がNO 76、228号は NO77でした。お詫びいたします。
⇧サロール画
モピ年会費、未納のみなさまにお願いです。 忘れないで納めてください。お願いいたします。 昨年は、モピ財政ひっ迫の SOS でみなさまに助けて いただきました。
ありがとうございました。 今年も実は状況は同じです。
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