■NO 231号 モピ通信

 人類学者は草原に育つ

『Voice from Mongolia, 2021 vol.80』

  鈴木裕子さんのエッセイ

  タマコちゃんのじごく体験の感想

  事務局から 

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小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ

(臨川書店フィールドワーク選書)9

変貌するモンゴルとともに

日本学術振興会監事・文化人類学 (小長谷 有紀)

第四章 博物館の収集活動 ―中国とモンゴル国 一筆を欠く、粋な計らい

一九九八年の特別展「大モンゴル展— 草原の遊牧文明」で、オルホン突厥碑文とともにもう一つ重要な役割を担っているのが絵画であった。 一階展示場の中央にはガラスケースに入れた四枚の絵画を並べておいた。 それらはいずれも民族誌的情報に満ちた絵画である。ただし、四枚のう ち二つはオリジナルがモンゴル国ザナバザル記念博物館に所蔵されてい るものの模写であり、あとの二枚はこの展示のために新たに描かれたも のである。オリジナルはそれぞれ「馬乳酒のまつり」「モンゴルの一日― − 秋」と呼ばれている。いずれもモンゴルのブリューゲルと称されてい るシャラブが二十世紀初頭に描いたものとされている。

模写を依頼したのは一九九七年である。当時はまだ市場経済へ移行してまもないため、絵の 具を自由に調達するのは難しかった。少なくとも、資金を手渡さずに模写を描いてもらうこ とは現実的にできなかった。一方、「前途資金」と称される公的資金を手付け金として利用す ることは不可能であった。支払ったからにはそれに見合う対価を持ち帰らなければならない。 つまり、みんぱくの収集品として模写を依頼することはできないのである。

そこで、当時の石毛館長や熊倉功夫先生の仲介により林原財団を紹介していただき、協力 をあおぐこととなった。民間財団に模写を発注してもらい、発注の段階で画家に前金を手渡 しし、完成後に支払いを完了し、すべての決済が終わったのちに、みんぱくに寄贈する、と いう流れで協力してくださることになった。まことにありがたいことである。モンゴル文部 省や所蔵する美術館から模写の許可も得て、模写は半年のあいだに順調に仕上がった、オリ ジナルそっくりによくできている。あまりに似ていることへの自負であろうか。オルホン氏 は引き渡し時に、「意図的に描いていないものがある」と告げた。模写であることを区別する ためにわざわざ「欠筆」したと言うのである。

馬乳酒を飲むと腹がゆるくなる。ついつい用を足してしまう。絵画の画面中央付近でも子 どもが用を足す姿が見える。けれども、その「成果」が模写には見あたらない。とぐろを巻 いたものがオリジナルにはあるが、模写にはない。模写の上手さよりも、この「一筆を欠く」という粋な計らいゆえに、わたしはこれをみんぱくの逸品としてその後も好んで紹介している。

時代の到来を生かす

二一世紀になってから、二○世紀を見直すという仕事を開始した。モンゴルはそもそも、 一九二一年、ソ連につづいて世界で二番目に早くも社会主義を採用し、そしてソ連につづい て一九九二年に社会主義を放棄した国である。だから、二○世紀はそのうちの大部分を社会 主義の実験場として使ったことになる。社会主義が放棄され、市場経済へ移行した現代史か ら見れば、まるで無駄だったかのように見なされかねない。しかし、そんなときだからこそ、 彼らにとってどんな時代だったのかをしっかりと検証しておく必要があるだろう。社会主義 時代の「正史」はあくまでも公的な言説である。正しい歴史のもとで、多くの真実が封じら れて隠されているにちがいない。私自身が今なら言えると思ったように、多くの人が今なら 言えることを心に溜め込んでいるだろう。

これほどの見通しを持っていたかどうか、いまとなっては自分でもわからない。ともかく、 二○○○年に映像取材の企画を申請し、二○○一年にみんぱくの映像スタッフとともにウラ ンバートルに赴いた。モンゴルの工業化を一九六○年から率いた元産業大臣ダムディンさん、 モンゴル草原でいとなまれていた遊牧を社会主義のもとで現代的に改革したことで知られる 労働英雄ミンジュールさん、モンゴル草原になかった農業を推進した元首相ゴンガードルジ さんなど、社会主義的近代化を果たすべく奮闘した政治的リーダーたちに話をうかがって映 像におさめた。これが終始笑い転げるほど面白かった!

政治家へのインタビューは往々にして政治学の分野でおこなわれるので、特定の事件をめ ぐって政治的な判断がどのようになされたかといったことを聞き出そうするものである。し かし、私たち文化人類学の領域では、特定の政治的判断よりもむしろ社会全体の変化に対す る関心が強い。さらに私自身は同じことを何と言うかという表現も含めて文学的な関心が強 い。そのため、彼らインタビュイー(インタビューされる人)に対して、生まれたときから 今までの人生の歩み全体をトータルに語っていただくようお願いした。いわゆるライフヒス トリー(人生史)である。ミンジュールさんは一九一四年生まれで、ダムディンさんは一九 二九年生まれであるから、彼らは劇的な変化を体験している。はじめてのパン、はじめての ジャガイモ、はじめてのトマト、はじめての鉄道、はじめてのシャワーなどなど。人生がは じめて尽くしなのだ。そのときの出会いの気持ちをことばにして伝えてくれるから、聞くほ うは楽しくてしかたなかった。

こうした「はじめて尽くし」の経験談は、実は相手が「他者」であるときにしか語られな い。同じ経験を持つ人のあいだではすでに共有されている内容だから語る必要もない。同じ モンゴル人でも世代が違えば、知らないだろう、教えてやろう、というわけで語られる。ま してや、異邦人であれば、「まったく知らないだろう、きみは」を前提にして、懇切丁寧に語 ってくださったのである。また、政治家だからことばが続く。モンゴルには口承文芸の伝統 があり、とりわけ政治家たちは、演説の経験を通して、スピーチ能力が高い。ちょっと笑わ されにとどまらず、ずっと笑わせながら、モンゴルの二○世紀をかいまみせてくださった。

このときの映像記録は研究資料になるとともに、ビデオテーク番組「モンゴルの二○世紀」 (工業、農業、牧畜)の三本として公開されている。また、テキストはすべてモンゴル語と 邦訳をそれぞれ刊行した。ネットでダウンロードすることができるので、興味のある方はみ んぱくの機関リポジトリを検索していただきたい。さらに一般書として刊行しているので、 巧みな話術による笑いをきっと共有できるだろう(『モンゴルの二十世紀— 社会主義を生きた 人びとの証言』中央公論新社、二○○四年)。

これら三人のライフヒストリーは、社会主義の建設に取り組んだ人びとの、明るい側面に 光をあてたものとなっている。一方、政治闘争に敗れた政治家たちもいる。たとえば、モン ゴルで農業を推進した第一世代のローホーズさんは、一九六四年に首相批判の演説をしてか ら追放され、それは二十年間つづいた。このときのインタビューは二○○五年に実施し、他 の方のライフヒストリーとともに刊行し、同様にみんぱくの機関リポジトリでも公開されて いる。追放という苦難の道にも笑いがあった。ローホーズさんは追放先で、フェルトや鞍など工芸品を作っているうちに金持ちになってしまったので、刑務所に入れられた。私的な経 済活動が禁じられていた時代だったのだ。ところが、刑務所でもまた、スプーンで指輪を作 って儲けてしまった!それらを笑いにして話せる時代がようやく来たのだった。

一つの時代が去り、新しい時代の到来を生かして、ライフヒストリーを集めることができ たのは幸いであった。二○一四年現在ではもう間に合わない。その後、ほかにもたくさんの ライフヒストリーを収集したが、一番はじめに映像取材として実施した経験が生かされたと 思う。幸先の良いスタートだった。

ゲルまるごと買い上げ

現在では、モンゴル全土にすっかり市場経済が浸透しているので、もっと直接的に買いた いものを自由に買えるようになっている。おそらく、中国でも、以前よりはずっと自由に買 い付けができるようになっているだろうと思われる。

特別展「大モンゴル展」は三カ月のあいだに十万人の来場者をむかえた。おかげさまで一 日平均千人という好成績をおさめた。展示場のゲルには入って見ることができたので、たく さんの人が入ったと思われる。思いもよらぬ盗難にもあった。仏具は小さいし、複数同じも のが並べてあったので、ふとした心の迷いを生みやすかったかもしれない。しかし、大鍋の ふたはどうして盗られたのだろう?直径一メートルほどもあるような大きなふたをよく盗め たものだと感心する。それにしても、あんなものを持ち帰って何に使うのだろうか。どさく さにまぎれて盗めるものかどうかを試していただけだったとしたら、ぜひともご返却くださ い。そっと返していただけさえすれば、盗難者の詮索はしないことを約束します。

それはともかく、特別展から引き上げて一般展示場に移設すると問題が生じたことは先に 後日談として述べたとおりである。そうこうするうちに、みんぱくに付設されている総合研 究大学院大学、通称「総研大」に堀田あゆみさんが入学してきた。二○○八年四月のことで ある。モンゴルに留学した経験をもつ彼女はしかし、草原で暮らしたことはなかった。二○ ○九年一月にウランバートル周辺の遊牧民宅を数軒一緒に訪問し、田舎暮しにもどうやら向 いていそうなことを確認してから、アルハンガイ県に送り出した。モンゴル国の地方部のな かではもっとも家畜密度と人口密度が高い県である。清朝時代なら、おまけに寺院密度も高 い地域でもあった。社会主義時代にはいわゆる文科省族を輩出していた。私自身も、もっと も頻繁に訪れ、もっとも長く滞在した地域である。堀田さんは、あの碑文の設営地よりは県 庁所在地に近くて便利なお宅にホームステイをして調査を開始した。

堀田さんの研究は当初、いわゆる物質文化を対象としていたから、ホームステイをしたゲ ルの一部始終をくまなく調査した。家の中にあるモノを一点一点登録し、それに関する思い 出などを聞いてまわることによって、モノと人の関係をさぐろうとした。現在はさらにそこ から進化して、博士号を取得すべく論文を執筆中である。彼女が登録したモノはおよそ千五 百点にのぼった。こんなにしっかり調べられた家こそ、みんぱくの展示に向いているのでは ないだろうか。彼らは家を私たちに売ってくれるだろうか。もし売るとしていくらだろうか。 そして何よりも、大金を手に入れてから一気に牧畜生活をやめてしまったりしないだろうか。

彼らの意向を聞いてもらうように堀田さんに依頼した。彼女によれば、ホームステイをさ せてもらった家のご夫婦、とりわけ妻のほうが都会暮しを嫌っていて、高原での生活誇りにしている、という。二○○九年の雪害で家畜の大半を失ったので、現金収入は喜ばしい。ゲル を売って現金が手に入れば、夫婦はまた新しいゲルを購入して、同じところで牧畜を続ける とのことであった。そんなわけで、二○一一年八月、モンゴルで住居用として使われている ゲルを、周辺に置いてあるバイクや太陽光発電パネルなどとともにそのままトラックに積み 込んだ。草原から引き離すところからはじめて、コンテナにつみこみ、書類をそろえて、ウ ランバートルから送り出した。

奇妙なことに、十五年前と同じ会社に依頼したにもかかわらず、事態はまったく改善され ていなかった。税関の手続きなどすべて自分たちで必要書類を集めなければならないのは同 じである。それどころか、以前にも増して手間が増えたように思われた。保険は多くの会社 が乱立しているので知り合いに頼むことで簡単にすんだが、たとえば、以前にはなかった燻蒸の手続きがあり、今回はバイクがあったので、バイクの廃車手続きもしなければならなか った。燻蒸は理屈の通ることだ。廃車手続きも理屈の通ることだが、本来、現地で事前にや っておかなければならないことだから、もはやウランバートルにもどってからするのはかな りの困難を要した。本来処理できないところで処理するための書類で、経費もかかる。とに かく言われるままにたくさんの書類を集めに集めた。こうした書類群もまた一種の収集品で あるかもしれない。

以前は、社会主義からの移行まもないことでもあり、特別展「大モンゴル展」用として事 前にモンゴル文部省からの許可証を得て輸出したけれども、今回は市場経済が浸透している とみなして、あくまでも私の個人的な収集品として輸出した。そのほうが手っ取り早かった からである。それは可能な時代になった。しかし、それによる問題も新たに発生した。日本 側で受け取る際に、個人的に輸入してはいけないものがはじかれたのである。

ミッキーマウスの絵のついた子ども用のリュックサックなどである。ブランドの偽物であ ると判定された。この件について抗っていると、全体の税関手続きが滞るだけであると思い、 断念した。こうしたリュックサックは町中いたるところに売っているから、後日、単品で購 入して、埋めることにしよう。というわけで、輸出リストにあったモノのうちいくつかは、 日本の事情により放棄されてから、みんぱくに移送されてきた。

あれほど、たくさんの書類をモンゴルで集めたものの、肝腎のパッキングリストについて は、こちらが提出した詳細なものを拒否された。「こんな詳しいものは要らない!」と言われ て、「ゲル一式」と改めて書類をつくらされた。こんなラフなものはとても日本では通関でき ないだろう。案の定、日本では改めて詳細なリストをつくらなければならなかった。ゲル一 つでこの調子だから、モンゴルと日本とのあいだでビジネスをしている人はさらにもっとさ まざまな行き違いを経験し、苦労されていることだろう。

収集活動を通じて知るモンゴルもまた、一つのフィールドである。

『Voice from Mongolia, 2021 vol.80』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

『仕事がお前を拒むことはあっても、お前が仕事を拒むことはない。建設技術者だった父 が教えてくれました』

30代女性、技能実習生

頑張り屋さんで、職場の信頼も厚い技能実習生のBさんは、来日して2度目の秋を迎えた。社長との面談で通訳したとき、彼女のひとことが心に残った。その時はとっさに、彼女が言 ゴロフったголох(嫌だと拒絶する)という動詞を、「えり好みする」と訳したが、やはり「拒 む」とすべきだった。

ホーローゴロフ 例えば、出された食事を「こんなの食べられない」と言うのは хоолоо голох。「密な」群れで暮らす家畜たちは、母羊が自分の産んだ子羊をそれと認識できず、わが仔に 乳をあげないということがしばしば起こるというが、そんなときもやはりこの動詞голо хが使われる。

小長谷有紀先生が1980年代に内モンゴル自治区で調査された遊牧文化のフィールドワ ークによると、母畜が子羊や子ヤギを拒むことを「ゴロンコイ」と呼び、傍らで「トイグ、 トイグ…」「チャイグ」などと歌いかけるなど、人が介入することで、母が仔を受け入れるの だという。家畜により言葉やふしが異なり、映画にもなったように、ラクダの場合は馬頭琴 を奏でることもあると言われる。こうした「子とらせ歌」や音楽が、動物たちにどのように 作用するのかはわからないが、声や音に含まれる「何か」が動物に伝わり、気持ちを穏やか にするのだろうか。

先生の多くのご著書の中でも、『モンゴルの春―人類学スケッチブック』(河出書房新社、1991 年)は、おすすめの一冊。遊牧民の家畜との関わりを至近距離で観察し、記録したフィ ールドワークの教科書。国境を隔てたモンゴル国の草原が社会主義の壁に閉ざされていた時 期に、待望のフィールドワークの機会を得た研究者の1か月に滞在記としても楽しめる。

本が出版されて30年。家畜と人の密接な関わりは、21世紀の今も受け継がれているの だろうか?モンゴル国の各地から来ている実習生に聞いてみた。「今でも、じゅうぶん見られ るよ」と話したのは、ゴビアルタイ県出身の男性。羊の場合はこう、ヤギの場合は確かこう、 と自分のふるさとでの声かけを教えてくれた。草原出身の数人に聞いただけでも、地方によ って、色々な「子とらせ歌」が今も息づいていると思われた。

ドンドゴビ出身の21歳の女の子は「春の草原はいいよ。すごくおもしろい」。寒さに凍え ながら、そんな関わりのバリエーションを、目撃し、記録してみたいものだと思う。

「モンゴルの女の子たちは、子牛を可愛がり、とても上手に世話をしてくれる」。ある大規 模経営の牧場の経営者が、嬉しそうに話していた。もちろん、北海道の牧場では「人工哺乳」 つまり、子牛用の粉ミルクを調製して与える。子牛が死ぬと、悲しみにくれる彼女たちの牛 への親愛の情は、きっとその手から、牛たちに伝わっているだろう。

今月の気になる記事

10月5日は先生の日―――。私が「先生」と呼ばれたのは、これまでの人生において、 ウランバートル市内の義務教育学校で日本語を教えた1年間のみである。新入学の1年生か ら中学生まで、「バクシャー!」と駆け寄って来る子どもたちの可愛い姿は、瞼に焼き付いて いる。月日のたつのは早いもので、当時幼かった子どもたちも、既に子どもを持つ親になっ ているだろう。

社会主義からの自由経済に移行して10年足らずのあの頃も、同僚の先生方はほとんど女 性だった。どうして女性が多いのかと問うと、薄給で家族を養うのが困難だから、男性教諭 は教職を辞め、個人でビジネスをする人が多いと聞かされた。韓国へ出稼ぎに行くの、と学 校を去る先生も少なくなかった。

2本目は、Facebook に投稿された、草原で出会った少年の現在である。オトルとは、良い 草を求めて近距離を移動して歩くこと。遊牧民は、家畜とともに広大な草原に放り出され、 そこで自ら育つ。ザブハン県出身の20歳代の男性によると、「ぼくらの子どもの頃はみんな そうだった」。まさに実践あるのみ、の草原の「学校」である。

国際的には教師ひとりあたり生徒13人、モンゴルでは生徒20人を教える (筆者:C.オヤンガ)毎年10月5日は「教師の日」、国際的な教師の記念日とともに祭日とされて来た。今年は、 昨日、国際的には27回目、モンゴルで55回目の記念日を迎えた。パンデミックにより、 ユネスコは、今年の記念日に際し「教師たち:苦境から立ち上がり新しい未来をつくる」と のスローガンを発表。わが国でも、緊急事態が続く中での祝日となった。

国家統計局によると、国内で5万2千人の教員が勤務しており、義務教育学校の教員の 81.4%を女性が占め、0.3%が大学院修士・博士課程を修了している。平均して教員 ひとりが20人の生徒を担当している。

しかしながら OECD 加盟国を対象とした調査によると、小学校で教員ひとりあたり15人の 生徒となり、1学級あたりの生徒数は21人となる。加盟国の平均は、担任ひとりあたり1 3人の生徒となる。とはいえ、パンデミックにより、人と人の間の間隔を取る必要があるた め、フランスや英国では学級定員を15人とすべきとしている。

米国では、1970年代に、教員ひとりあたり22人だったのが、2008年には 15 人と なった。ニュージャージー州では公立学校で教員ひとりあたり12人、私立学校では11人、

7人というところもあった。教員側からは10.1人程度が適当との声が出ている。

ナミンチメド・バーサン のFacebook投稿より

ゾーニーメデー紙より転載
2021年10月6日 https://www.polit.mn/a/92078
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11歳のベヒ少年はひとりきりで、7百頭あまりの家畜とともに、オトル(短期放牧)に 出かける。家から25キロメートル離れたところへ。

昨日深夜のこと、オオカミが宿営地に入り込んで、子羊がやられ、かかしを立てようと しているところだった。

「こわくないの?」 「こわいって、何が」

「食事は自分で作れるの」
「フフフ、自分でしなきゃ、だれもしてくれないよ」
「ほんとうに?」
「できるよ」
「きみのところに泊まりに来たよ。ご飯作ってくれる?」
「もちろん」
「どんなご飯?」
「ボダータイ・ホーラガ(焼きめし)でも…」
「ほんとうにいいの」
「見てれば」
「じゃ、お願いするよ。見てるから」
「いいよ」
「作っているところ、撮影させてもらうよ。いいかい」 「じゃ、早速とりかかってくれる?」 「その人が今撮影しているのに、とりかかっていいの」 こんな、ひとりの男らしい、かわいい男の子と出会った。外に、3匹の犬たちと、2頭の馬。テントのなかで、食事を作る。寝そべって、なぞなぞを出し合って楽しむ。ベヒが正解 したなぞなぞを、私は解けず、間違った答えを言う度に、声をあげて笑い合った。

「いつもなかなか眠れないんだ。

こうして目を閉じているうちに、朝になっちゃうことも ある」。
「またオオカミが戻って来たらどうするの」 「だいじょうぶだよ。かかしも立てたし。うちの犬のうち、一匹以上はわたさない」

そうして、焼き飯をごちそうになった。朝になると、彼は10リットルの缶を2つぶら下 げて水汲みに行き、お茶をわかした。虫のついたヤギを捕まえて来て、毛抜きのようなも ので虫をつまんで、消毒液で洗った。 6年生だという。

「成績はどう?」
「まあまあ、よくもわるくもないよ…」 2冊の童話の本を手渡すと、目を輝かせて、大喜びし、「ほかにもある?」と催促した。

大きくなったら、力士になる。強い力士になれなかったら、馬の調教師になる、と。 いくつもの村を通り抜けて、バヤンオールまで馬で出かけたこともある。 「都会に行ってみたいとか、思うことある?」
「なんで」「ひとりで、退屈しないの」 「退屈?そんなの、ぜんぜん」 こんなかわいい男の子と、ザホインゴビで出会った。朝もまたわれわれのためにお茶をわかし、ヤギの虫を取り、馬に乗り、もう一頭を引いて、羊を追って出て行った。広大なゴビ の陽炎のむこうに小さな影が吸い込まれて見えなくなるまで、われわれはそこに佇んでいた。

同行したドンドブ兄さんは心を打たれて、まだ新しい懐中電灯を箱に入ったまま、プレ ゼントした。近く、ベヒ少年についての短いドキュメンタリーを制作してお目にかけたい。 偉大なゴビをゆく探検隊一行の、今回の発見はこんなところであった。

(記事セレクト・訳(記事セレクト・訳=小林 志歩) 

※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。

鈴木裕子さんのエッセイ集

鈴木裕子さんからのお便りを掲載します。 鈴木裕子さんは、公邸料理人としてウランバートルにある日本大使館に勤務されていました。 それまで縁のなかったモンゴルと出会い、モンゴルの不思議な面白さを SNS でエッセイを発 信。それらの中からいくつかのエッセイを再構成してお届けします。いずれまた、ご本人に よる自己紹介もお願いしますので、まずはモンゴルの多様な側面に出会っていく彼女の声を お楽しみください。

(小長谷 有紀)

食材◇松の実は舌で

これができなければモンゴル人じゃないと言うようなことが いくつかある。その一つは殻付き松の実を上手に食べることだ ろう。わたしは見るたびに、その器用な舌さばきに感心した。 モンゴル人は松の実を舌で剥く。昔、舌先でさくらんぼの軸を 結べる人はキスが上手いなんてことを耳にしたが、それが事実 ならモンゴルのみんなさまは相当なものだ。 モンゴルの人たちは老いも若きも殻付き松の実が大好きだ。 デパート前の信号待ちをする辺りに行けば、何種類もの殻付き 松の実を並べた露天商が出ている。ガラスのカップ一杯幾らで 売っており、皆一粒二粒と味を見てから買い上げる。日本で皮 剥きが売られる中国産よりひとまわり小粒だが味が濃い。赤っ ぽいのや茶色いの、火入れしたのやしていないものがある。

松の実の殻はちょっと硬くて、粒の真ん中辺りをカリッと噛む。わたしなんかがすると中 の実まで真っ二つにしてしまうが、彼らは上手に殻だけを割る。そして、その殻の半欠けを 口先で外し、実を舌先でぐるっと半回転させ残る殻を吐き出す。そしてともすると口の中で 茶色い薄皮まで上手い具合に剥いでしまう。

美味しいモンゴルの松の実。残念ながらわたしはそのおいしさを殻を剥いて売っているも のでしか知ることが出来なかった。モンゴル流の殻剥きは何度教わっても出来ない。その上、 粒が小さいので殻なし一粒がまだ口の中にある内に次の殻を剥き食べるような速度がないと 味わいにまで辿り着けない。わたしが殻付きを食べようとしても、モタモタと時間がかかり、 剥くという動作に気がとられて、いつも肝心のお味がわからなかった。残念でならない。

剥きたてのフレッシュな松の実を味わうには相当の熟練の技が必要だと思うが、モンゴル では小さな子供でもすごく早くて上手。そう安いものではないから、大人と肩を並べて食べ ることを子供たちはある種誇りに成長するのかもしれない。わたしからすると至難の技だが モンゴル人で出来ない人には会ったことがない。

みんな大好きな松の実。ねっとりとした種実類の深い味わい。甘みがあり、松の実としか 言えない独特の好ましい風味。わたしは、モンゴル人の殻付きヘビーローテションな食の楽 しみを横目に、殻無しを口に放り込むしかなかった。美味しいには違いない。けれどその度に何だかすごく損した気分がしたものだった。

松の実は陸の牡蠣と言われる程亜鉛が豊富で、鉄分もたっぷりなので、サプリメント代わ りに常食も良さそうだ。食欲抑制ホルモンにも関わり、また血行促進するし、豊富な食物繊 維はで便通にも良い。1日3回食べれば仙人になれると中国の故事にある通り若返りの食材 だ。もちろん食べ過ぎてはいけないだろうが、体を温める食材の松の実は長い冬と付き合っ てきたモンゴルの人たちの愛してきた食材だ。そんな彼ら自慢のモンゴル産松の実は皮剥き ならすこし大きなスーパーやデパートなら必ずある。日本へのお土産品にもオススメだ。

写真は殻付き松の実と、歌舞伎座の地下で買った秋を楽しむネックレス。銀杏の葉形を型 取ったものだが、モンゴルではよく魚の尾なのかと尋ねられた。銀杏は日本ではごくありふ れた火事になると水が噴き出すといわれる防火力もある木だが、乾燥や寒さに向かないのか モンゴルにはなかった。千年を生きる木も所によりけりだ。

種実類が大好きなモンゴルの人たちは、殻付きの銀杏を見ると決まって強い関心を示した が、生で食べられないと伝えると彼らはガッカリし、火を入れ殻を剥いたのを勧めると、更 に本当に困ったような顔をした。彼らの想う美味しい木の実とはあまりに違うのだそうだ。 彼らの愛する松の実は、モンゴル人の味覚の黄金のスタンダードの一つでもあるだろうと思う。

猛禽類◇道路はカイロ

ゴビ砂漠の手前ドントゴビ県に二百数十キロの遠出 をした。見えるのはいつものどこまでも続く広い空と草 原と家畜。大地はもう夏のような緑ではなく、枯れ草と 乾いた土の淡い黄土色。そんな何も無い景色に珍しく何 やらぽこっとしたものが立っている。道路脇のそれは車 が近づくと飛び立った。正体は鷲、鷹、鳶などの猛禽類 だった。

びっくりしてー何故ここに?と野鳥の写真を撮るの
が趣味のドライバー氏に聞いた。 寒くなってきたから、陽であたたまるコンクリートに寄って来るのだと言う。ーへぇ~。じ ゃあ他の季節は?と聞くと、やっぱり草原の中に立ってますつ。ーん?モンゴルの草原には ほとんど木がありませんから。という訳で私たちはたくさんの猛禽類に挨拶をしながら走る ことになった。それにしてもアスファルトの道路が鳥たちにとって巨大なカイロとなってい ようとは思いもしなかった。

沢山の猛禽類の極めつけは、道を横断中に轢かれたらしい牛を見た時だ。周りに三十羽以 上の犬鷲が食後の羽を休めているのに遭遇した。羽を広げれば全長二メートル以上の迫力あ る姿がすごい数。通り過ぎて振り返ると小高くなった土地の向こう側にもまだたくさん。三 十羽どころではなかった。もう一生分の鷲は見た。そんな気分だ。ーあんなのに襲われたら ひとたまりもなさそうだけれど、遊牧民の人たちはどうしているの?と聞くと、犬鷲の爪は 鋭くなく生きた家畜サイズは襲わないから大丈夫だとのこと。

夏の観光地には鷲や鷹を手に写真を撮るなんていう出店がある。鷲は 10kg 以上はざらだ。 腕力に生きる猛禽類は骨の密度が高く重たいのだ。やっとの思いで腕に鷲を乗せて持ち上げ たら、今度は鳥が羽を広げた姿が写真に撮れるように振れと言われる。重いから鳥を掲げる 腕をもう一方の手で支える。これはなかなかに大変だ。ちなみにアルタイ山脈を住まいとす るほカザフ系のモンゴルの人たちは、猛禽類を使って兎などの小動物を狩ることで有名だ。

草原を車で走り、100頭以上のすごい速さで移動する蒙古ガゼルの群れも見た。目の前 を美しい二頭が白く私たちの目を惹いて走り抜けた。あまりのスピードと、撮るより目に焼 き付けたい!という訳で写真はない。ガゼルはモンゴルでは女性に例えられてきた。可憐な 美しさもだが、よい草があれば、どこでも生きていける生きものだからだという。

ガゼルは家畜に何故しなかったのだろう?ならなかったのかな?ー食べないの?と聞くと、 美味しくないという。でも昔は軍隊や刑務所の食事として利用しましたよ。ガゼルは時に千 頭もの群れを作ることもあり、夜近寄って一斉にライトを浴びせ動けなくなったところを撃 ちまくる。そんな獲り方ができるのです。

車を降りれば足元に無数の小さなねずみ達の穴。秋は彼らにとっても巣ごもり前の収穫の 季節なので、それぞれの穴の周りには放射状に、はっきりと道ができている。きっと必死に それこそ道ができるほど毎日働いているのだろう。果たしてこの地のわずかな実りで長い冬 越しに足りるのだろうか?田舎の道でアスファルトはなくなれば車は前の轍跡を追うことに なる。穴の主の小さな灰色とも薄茶ともつかない鼠たちがたくさん轢かれているに違いない。 しかしそれも誰かの餌になる。

草と空しかない地面の上を、私たちが記録しない昔から、いのちは循環してきた。秋の草 原を走ると、これからほぼ半年間生の植物が姿を消す、その大地の上で絶えることのなく繋 がれてきた命の力強さが胸に迫る。

写真は牛を食べ終わり寛ぐたくさんの鷲たち。翌日、同じ道を通ったが、もう彼らの姿は なく、頭と肋骨剥き出しの体だけが横たわっていた。鳥たちは更に寒くなると山に住まいを 移す。

酒◇お家には帰らない

迂闊にもモンゴルの若者が家では飲まないと知ったのは、住んでニ年を過ぎてのことだっ た。モンゴル人は幼少期から馬乳酒に親しんでいるじゃない?お客として伺ってお酒を勧め られないことがあったかしら?モンゴル=酒豪だと思い、私は勝手に当然家飲みをしている ものだと思っていた。

家では飲まないというので、嫌いなの?と聞くとそうではないという。何故に?と聞いて はじめて知った。特別な場合を除き、目上の人の前でお酒飲むのは失礼に当たる。親の前で 酒を飲むものはではないし、酔うなんてとんでもない。これを聞いて本当にびっくりした。 しかし何人に聞いても同じ答えだった。もちろん馬乳酒はそのお酒には該当しない。韓国の 酒席では、目上の人と同席したら、目下や年下は隠すように飲むということが礼儀に適うと いうが、モンゴルはその上を行く。成人した子供とお酒を酌み交わすのが夢なんていう日本 とは価値観が随分と違う。

違うといえば、飲んだら家に帰らないというのもだ。これはモンゴルでは常識だ。家で飲 まなければ当然外で飲む。日本では家庭があれば、どんなに飲んでも這ってでも帰るのが常 識?だと思うが、モンゴルではその反対だ。酔って帰るなんて失礼な事はしない。飲んだら 帰らず、他所に泊めてもらうくらいなものだ。

この違いが不思議すぎて、親御さん達にも聞いてみた。そうなの?そりゃあそうさ。帰っ てきて欲しくない。第一危ないじゃないか。— 確かに、普通に眠れば凍死する寒さ、夜は人 通りが絶える人口密度の国で、飲んでの帰途は危ない、 危ない。なるほどだった。ひどく納得した。

とは言っても寒く娯楽の少ないモンゴルの長い冬、アルコールは魅 惑的だ。その魅惑に負けて中毒の道に嵌る人も多くこれはモンゴルの 大きな社会問題になっている。だから!?毎月1日は国を挙げて禁酒 の日。どの飲食店でもお酒の提供はないし、スーパーなどの小売店に 至るまで販売は禁止されている。そのせいかどんな呑み専科ともいえ る業態でもソフトドリンクの充実ぶりは日本の比ではない。これがな かなか良かった。禁酒の日で空いているお洒落な普段は敷居高く感じ るお店に集まりのんびりと話に花を咲かせるのも楽しいものだった。

写真は氷造りのアイスバーでの一杯。中身はロシアのウオッカベル ーガ。

星◇地平線にはじまる天の川

草原の夜空は恐ろしいほどの存在 感だ。星降るような夜、草原に広が るあの景色は一度見たら忘れられな い。地平線から天の川だもの。それ は星々の持つ光を隠す人の営みが大 地にないからこそ味わえる景色だ。 街を離れればモンゴルの大地を占め るのは人ではない。動物たちは、光 を作らず自然の則のままに暮らす。 人気の少ない夜のまっ暗な大地の上 にのみ夜空は本当の姿を現す。

興味深い話がある。モンゴルでは
流れ星に願いをかけない。むしろ流 れ星は悲しいものだ。彼らは人には空に生れながらに自分の星があり、流れ星はその星と運 命を共にする誰かの命が終わりだと言う。日本よりずっと人は少なく夜空にあれほどの数の 星があるから、そんな風に思うのだろうか。

わたしは狭い東京の空の下で育った。夏休みの理科の宿題で星座を探すなんていうのがあ ったが、それは簡単なことではなかった。星座表はただの紙切れで、いくら頭では分かって いても、それが本当に頭上に広がっているという実感はわかなかった。東京の地面は人の生 む光を発し、それに反比例して夜空は無口で暗かった。

しかしモンゴルの郊外に出ると、空の向こうに広がる宇宙が近い。星の数と大きさに圧倒 される。燦然と輝く星の粒の大きさはまさに天然プラネタリウム、手が届きそうな、落ちて きそうなものだ。天の川は現実のもので、しかも見上げる必要すらない。何せ地平線から始 まっているのだから。ミルクのような白が目では識別できない遠くの星々の光の集合体によ ると思うと気が遠くなる。月の細い夜はもう絶佳。空はあるだけでなんて凄いのだろう。

スーパームーンも肉眼で月の模様があんな風にはっきりと見えるなんてと驚いた。あれこ そ想定外。街中ですらそうだったから、空気が乾燥していることも月や星が近い一因かもし れない。そんな夜空の圧倒的な存在感を前にすると、人は何て小さいものなのだろうと感じ る。この同じ空の下に暮らしながら、本当の空を感じることもなく目の前しか見ることがで きずに暮らすことは果たしてしあわせな事なのだろうか?モンゴルの空の下に立つと、日本 では空といえば天気にしか興味を持たなかったわたしにしてそんな思いが浮かぶ。今、いつ も見ていたわけでもないのに草原の夜空がひどく懐かしい。誰もいないような大地には家畜 がいて、人よりずっと近くに星がある。はじめて見たはずなのに心に残るだけでなく懐かし い。それが不思議でならない。

星や月、広い空。その下にいると、人がいかに小さいかがわかる。そして気球に乗れば、 人との暮らしに命を繋ぐ家畜の数に、人の偉大さがわかる。地上の小さな虫たちや草木の営 みを知れば、生きることの儚さとたくましさに胸を打たれる。そんな風にミクロとマクロを 感じれば、世界との一体感が知らず知らずの内に湧いてくる。大地と空を無心に味わうのは モンゴルの至極の楽しみ方だ。

世界には千差万別の個性を持った、土地や地域がある。その一つモンゴルを知ったわたし の中に風が吹く。もう敷居も囲いもない。星と空と大地は、コスモポリタンになることを誘 う。訪れ、土地につながればその地の尺度に感化される。わたしは素直すぎるのだろうか? 言葉より感じること、知るより感じること、知るはただ手段であり、生きる目的ではないの だよとモンゴル夜空はわたしに囁きかけるようだ。

新刊のご紹介「タマコちゃんのじごくたんけん」シリーズ NO2

絵本をみた感想をよせていただきました。

お話は自由な発想で、伸び伸びして想像力.創造力に富んでいます ね。面白いです。

そして、サロールさんの絵が素晴らしいです。子供向けに単純な 線で分かりやすく描がかれていますが、たまこちゃんや鬼の仕草や 表情、また背景などもストーリーととてもマッチしています。色彩 感覚よく淡い水彩で濃淡を付け、ファンタジックな雰囲気がよく出 ています。初めの草原やライオンはモンゴル風ですね。絵がうまく ても、なかなかこんな風には描けないと思います。やはり、大きな 鬼が圧巻です。これをきっかけに、他からもオファーが来るかもし れませんね。

ストーリーの中で、大鬼のお腹に笑うポイントがあり、そこを押して笑い疲れさせてしま うくだりがありますが、同じ発想は落語の「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわ むれ)」という演目にも出てきます。発想力がすごいですね。

表紙も含めて装丁もいいですね。元気で怖いものなしの女の子が仁王立ち。 本当に良い絵本をありがとうございました。(金田 悦二)

サロールのいつもの水彩画がこんな形になるなんて!となぜか私まで自分ごとのように嬉 しいです。

緑のおにがかっこいいです。「悪」の顔をしてないんです。精悍な青年、もはや「正義」の 顔をしているのが本当にかっこいい。そしてその存在感がお話にあっているし、我々が考え る「鬼」とは違う新たなキャラクターが生まれましたね。 サロールにしかできないことだと思います。

お話もとてもおもしろくて、次どう展開するのかわからない、本当 にドキドキしながらページをめくりました。 そして次々現れるサロールの絵に安心感のようなものを感じました。 水彩画、いいですね。

3 年生とは思えない超大作を書き上げた池元さんにも驚きましたが、 大きくなってからこうやって本ができること、周りの方の愛情も伝わ ってくるようでした。

関わった先生方にも拍手です。

個人的にはたまこちゃんのそろり歩きがとってもかわいくてキー ホルダーにしたいくらいです、笑(徳山 理沙)

事務局から

(斎藤 生々)

秋という季節が消えて夏から冬へ、経験したことのないことが自然の中に起こっていま す。コロナで一変した世の中、何か変ですね。

現在のモピ活動は、関西地域の小学校教育現場で異文化の紹介という授業を手助けしてい ます。コロナが治まれば地域の交流などの行事ができるようになるでしょう。この2年間、 みなさまのご協力をいただきましたので、何とか乗り越えられそうです。今年も残り2ヶ月 です。みなさま健康に気を付けてお過ごしください。

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

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編集責任者 斉藤生

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