みんぱくモンゴル展案内
人類学者は草原に育つ
『Voice from Mongolia, 2022 vol.83』
鈴木裕子さんのエッセイ
モンゴルの新型コロナ感染症の状況
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いよいよ始まります。みんぱくモンゴル展!
(小長谷 有紀)
かつて、みんぱくが「大モンゴル展」を開催したのは1998年。あの頃と比べると、馬 頭琴も力士たちもすっかりおなじみなので、新しい切り口の展示を企画しました。
「邂逅する写真たち」というタイトルで写真に的をしぼります。ルビを打たないと読めな い「かいこう」(出会うこと)は、島村一平准教授の好みのあらわれです。彼が新しい写真を 担当し、私はここ数年、各国のアーキビストと協力したプロジェクトの成果を生かして古い 写真を担当しました。探検家や宣教師、ビジネスマンなどが撮影した、およそ100年前の 姿が展示場によみがえります。
世界的に著名な写真家である森山大道は「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」 と語っている。そう、過去は必ずしも懐かしいわけではない。モンゴルの100年前は、モ ンゴル人にとってさえ懐かしいというよりむしろ新鮮だ。もちろん、モンゴルの今を見て、 昔は日本もそうだったな、なんてこともない。忘れていた過去、知らなかった世界と出会う ためにぜひご来館ください。
小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ
(臨川書店フィールドワーク選書)9
変貌するモンゴルとともに
日本学術振興会監事・文化人類学 (小長谷 有紀)
第五章 NPO活動のはじまり——二○○一年雪害以後
黒板がつなぐトランスナショナル
普遍性の高いもう一つのプログラムが黒板の寄付である。通称「黒 板プロジェクト」と私たちは呼んできた。先に述べたエコロジース クールの場合、遊牧民たちのくらしているところは首都から遠隔地 であり、経済効率という点からグローバルないしインターナショナ ルにつながりにくいところであるにもかかわらず、私たちが移動し てわざわざ会いに行くことによってトランスナショナルにつながる という点に特徴がある。黒板プロジェクトはこの「遠隔地とつなが る」という特徴をモノで実現しょうとする企画である。二○○一年 あたりから考えられていたが、実質的には、二○○二年二月十日(日) 付けの朝日新聞朝刊に「モンゴルへ『黒板大使』」という見出しの記事が掲載されたことに始 まる。
この企画はとにかく目的や意図が明確であった。黒板一枚につき、二万円。個人でもグル ープでも受け付ける。寄贈者の名前をプレートにして黒板に付す。希望しない場合はモピの 名前となる。送付された場所についてはあとで連絡が届くので、そこを訪問してもらえれば うれしい。目標は全国六百校、一校あたり二枚ずつで千二百枚。夏まで受け付けて夏に実施 し、秋に報告する。という内容をもっていた。
総合研究大学院大学の大学院生であった前川愛さんは、モンゴルで都市史の勉強をしてい た。彼女は国際援助機関の調査に同行した際、学校の黒板がとても古いことに気がついた。 学校創設以来、交換されていないという。黒板が還暦を迎えている!そんな黒板を使うのに コツがいった。まず、ぬれたタオルで全体を湿らせる。そして、チョークで書くと何とか読 むことができる。しかし、乾くともう見えなくなる。だから、急いで読み取らなければなら ない。なんとも緊張感のある黒板利用なのだという。そこで、黒板を寄付するというプロジ ェクトを開始した次第である。
寄付という形式は特段の専門的知識を必要としないので、一般の参加が広く開かれている。 また、物質が契機となって、直接訪問するといった未来の往来が開かれている。一方、モン ゴルの子どもたちにとっても、教育の道具に私たちの名前がついていることで世界への窓の 一つにはなりうる。モンゴルでは雪害のあと、地方から首都への大移動という現象が始まっ ていた。理由の大半は市場にみずから近づくことであったが、子弟のいる家族にとっては、 子どもの教育機会を求めていたことも大移動現象の大きな理由であった。地方での教育の水 準を首都と同様に保つことは難しい。このような国家的課題を民間支援で果たすのはかなり 難しい。私たちがせめてできることは、黒板を送ることで、きみたちを応援しているよとい う態度を見せることであると考えた。
プレゼントする黒板に個人の名前がついていることは顔を見せることにつながる。たとえ 見知らぬ人であっても、ODA とのちがいは、個人の名前がついていることによって、個人的な つながりが強調される点である。それが「応援」を感じることのできる具体的な契機になる と私たちは考えた。ODA はあくまでも国家の枠組みをもつインターナショナルであるのに対し て、NPO 団体による NGO 活動は国家の枠組みをそのものも超えるトランスナショナルなのであ る。
黒板プロジェクトはまだ終わってはいない。二○○七年三月で八百枚に達し、同年八月に は千枚に達した。そして、二○○八年には目標の千二百枚をほぼ達成し、二○一四年一月一 日現在では千五百三四枚に達している。すでに当初の目的を達成したため、もはやとりたてて宣伝はしていない。けれども、もしご希望があれば、ウランバートル市内で、障碍児を受 け入れている学校に黒板を届けるようにしている。千枚に達したところまでの記録を自分た ちでまとめた(『届け黒板、モンゴルへ!— NGO 奮闘記— 』モピ、二○○七年)。ISBN のつい ていない本なので広く普及はしていない。それでも形になっていることはちょっと嬉しい。 編集にあたったのは戸田佳子さんである。戸田さんはもともと別の NGO 活動の中心的存在で あり、モンゴルにいる友人のことを知るためにモピにも参加するようになった。彼女の編集 の才能を見込んでお願いした次第である。実費千円で売り切れるように希望者をあらかじめ 募っておいて印刷費にあてた。
『Voice from Mongolia, 2022 vol.83』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「あたかも零下三十度を越す蒙古の冬であつたから相当に頑強な者でも体力を消耗し、栄養 失調にかかって倒れて行った。作業の内容も多種多様で、運転手、大工、鍛冶工、機関士、 製図工等特殊技能者は優遇されたが、私たちのような技術を持ってない者は、道路工事とか 採石場、伐採地のような労働に追いやられた」
福地 勇さんの随想「抑留生活の中から~モンゴルの旅~」(『浚渫』2号、1969年)
2月6日の北海道新聞朝刊に、第二次世界大戦直後モンゴルに抑留され、そのまま現地で 亡くなったとされる北海道出身の男性の氏名を伝える小さな記事が掲載された。前日に厚生 労働省が公表した、旧ソ連などで抑留中死亡したと特定された9人のうちのひとり。亡くな った場所は、「オグタール・ジャルガラント」。これまでに幾度も車で通り過ぎたトゥブ県の、 ジャガイモ栽培が盛んな畑作地帯。家畜が入らないように、畑が完全に柵で囲まれていた風 景をよく覚えている。
厚生労働省のウェブサイトによると、モンゴル政府から1991(平成3)年に約千六百 人の抑留中死亡者名簿が引き渡され、これまでに1,454人が現在までに特定された。モ ンゴル赤十字社は、日本人兵士で死亡またはその他の理由でいなくなった1,615名のう ち、1,597名が同国内の16か所に埋葬されたとしている。残る143人については日 本側の資料との照合作業が続いている。
モンゴルで抑留中に亡くなったと特定された方々の出身地別で多いのは、東京88人、鹿 児島62人、兵庫57人。北海道から沖縄まですべての都道府県に及んでいることに驚いた。 そして、かつての埋葬地(遺骨は既に持ち帰られているそうだ)の多くは、私がこれまでに 訪れたことのある場所だった。全く知らなかったわけではなかった。国境近くのセレンゲ県 スフバートル市内の旧日本人墓地など、存在を知っていても、過ぎ去った昔のこととして、 知ろうとしなかったのだ。
過酷な抑留生活を生き抜いて帰国した日本人は、不幸にも帰国を待たずに亡くなった人よ り、はるかに多い。図書館で郷土資料を調べていたら偶然に、モンゴル抑留の体験記を見つ けた。海辺のまちの町民文芸誌、半世紀以上前に書かれた思い出の記録から、冒頭の文を引 いた。
筆者は福地 勇さん。「昭和生まれが出なければ、戦争に勝てない」と父親の反対を押し切 って少年兵になった、とあるから、終戦時には二十歳前後の若者だった。旧満州(現在の中 国・東北地方)で終戦を迎えたが、「ソ連軍侵入の報をいち早く知った私たちの師団司令部の 高官は8月15日夜全部隊を置き、秘かに軍用列車を仕立てて錦州に非難し、途中にある大 きな河の鉄橋を爆破してしまつた」。取り残された約1万5千人の兵隊と日本人一般居留民は 平泉市まで約百キロをひたすら歩くしかなかった。帰国できると聞かされたのに、冬の軍服 や防寒外套、下着まで山のような衣類が支給された。乗せられた無蓋列車は、なぜか北へ向かっていた。「完全にしてやられたのだった」。ラマ寺を改造した収容所に入り、栄養失調で の入院、虱や空腹に耐え、靴の工場や木の伐採現場で働いた2年間。亡くなった戦友を偲ぶ とともに、現地で出会ったひとびととの交流についても詳しく綴った。
伐採現場でともに働いたのは共産主義に反し刑期15年が確定した政治犯で、既に 10 年を 過ぎたモンゴル人たちだった。「私は朝食の配給を受けないうちに仕事に出るので、それを知 っている相棒の蒙古人が必ずパンと肉を持つて来てくれる。このモンゴル人は40才くらい の年輩の温厚な『オヤジ』で私の話す片言の蒙古語にもよく理解してくれた。しかし仕事に はきびしく或る時など牛車2台を途中で暴走させ、丸太は落とすし、車は壊してたいへん叱 られたことがあった」。時々「パオ」に招かれてごちそうになることもあり、「同じ天幕で生 活している同僚からうらやましがられ、そして私は蒙古人と全く裸になった人間同士として 語り合つたり笑い会えたのだ」。20年の年月による作用もあっただろう、そのトーンは明る い。文中には、ノモンハン事件の捕虜で残留を余儀なくされ、モンゴル政府の通訳を務めて いた日本人男性「タナカ」の存在も記されている。時代に翻弄され、国と国の狭間にこぼれ 落ちた、いくつもの人生があったことを教えてくれる。
モンゴル国の歴史研究者・ガリンデヴ・ミャグマルサムボー科学アカデミー歴史考古学研 究所首席研究員は、「ふたつの異なる体制下にあり、お互いを不信の目で見ていた、モンゴル・ 日本両国民に信頼が生まれ、協力関係が回復する、その主たる契機となったのが、まさにモ ンゴルに抑留された兵士の問題であった」と書いた。1966年最初の墓参団を受け入れた モンゴル人民共和国は、関係正常化を日本側に提起、墓参団がモンゴルに来るたびに、二国 間の関係が話し合われ、交流が前進して行った結果が1972年、ちょうど半世紀前の外交 関係樹立だったのだと。戦争の「置き土産」が、雪解けを促したことになる。
中国・モンゴルの近現代について研究する昭和大学のボルジギン・フスレ教授によると、 モンゴル国では戦争、民間人を含む日本人抑留者が捕虜と位置付けられ、かれらの強制労働 が日モ友好の基礎になったと強調されているという。
参考文献/ボルジギン・フスレ編『日本人のモンゴル抑留とその背景』三元社、2017年
今月の気になる記事
日本とモンゴルの国交が始まるきっかけとなった敗戦直後の抑留問題について、現在のモ ンゴル国ではどのように伝えられているのか。近年のインタビュー記事を紹介する。
終戦間際の1945年8月9日のソ連・モンゴル連合軍の対日参戦について、モンゴルで 「解放戦争」Чө лө ө лө х дайнと呼ばれる。中国人や旧満州のモンゴル人同胞を日 本の支配から解放するとの大義名分ゆえに。その名に反して、日本兵らとともに、多くの内 モンゴルの人びとも捕虜として労働させられた。
敵方の帝国日本も、「大東亜戦争」と呼んだこの戦争を、英国の植民地だったビルマ(ミャ ンマー)やインドを解放し、独立させる「植民地解放戦争」として、正当化していた。旧満 州のモンゴル人も民族独立を目指すなかで日本に協力し、利用された。北京五輪のスキージ ャンプ、スノーボード競技等の開催地・張家口は、当時モンゴル人による自治政府の首都が 置かれた街である。
「日本人捕虜の中には、モンゴルに残りたいと要望した人もいた」 (筆者/G.テムーレン)
第二次世界大戦の終わり、解放戦争のさなかにソ連側の捕虜となり、モンゴルで強制的に 労働させられた日本兵についてはよく知られている。1990年代にわが国が民主化した社 会に移行し、自由化の方向性が確保されて以降、モンゴル人研究者や博士らがこのことにつ いて様々な研究を行って来た。多くの研究の成果があるとはいえ、近年公開された資料を精 査した研究は少ない。今回は、1945年-47年の間にモンゴルの国家建設に参加した日本 人捕虜について、モンゴル国立大学の歴史研究を教える、科学功労受賞者の J.ウランゴアイ 教授に話を聞いた。
-捕虜となった日本兵に関わる歴史について話すにあたり、まずは戦時中のハルハ河戦争か ら話を始めてはいかがでしょう。 「1939年のハルハ河での戦い(訳注/日本ではノモンハン事件と呼ばれている)ではソ 連-モンゴル連合軍は、3千人あまりの日本兵を捕虜にしました。戦いが終った9月27日、 ソ連と日本が協議し、双方の捕虜交換について取り決めました。これについてはロシア人研 究者による詳細な研究があります」
-そうすると、社会主義体制下の建設にはハルハ河の戦いで捕虜になった日本人は参加して いないということですか。 「建設に参加したのは解放戦争の時に捕虜となった日本人です。1945年8月9日に解放 戦争が始まったのですが、当時、日本帝国陸軍の関東軍が満洲に拠点を置いていました。8 月16日に日本が降伏したことを知らされました。天皇が降伏を宣言した時、ロシアは日本 兵64万人と民間人を捕虜としました。その時点では、捕虜をロシアとモンゴルに連れて来 るとの話は出ていなかった。わが国で2年間働き、1947年に最後の日本兵が帰国しまし た」
-ソ連が、捕虜を自国に連れて行くこととした経緯はどのようなものだったのでしょうか。 「当時において、ソ連は極東において日本を抑えるだけでなく、地政学的な権益で動いてい ました。1904-05年の日露戦争で、ロシア人は領土を大きく失っており、その損失を取 り戻すことを期して、満州での軍事行動を展開しました。その先には、北海道に上陸して、 自らの領土とする計画を持っていましたから。スターリンは日本人捕虜を満州に留め置き、 各地で必要な仕事に従事させる考えでしたが、米国大統領のトルーマンがソ連軍の北海道上 陸を許しませんでした。それを受けて、8月23日のソ連指導者スターリンは、捕虜をソ連 に連れて行くとの命令を出しました。元々、連合国はポツダム会議で、捕虜たちは終戦後す ぐに帰国させることで合意していました。しかし、ソ連はドイツと日本に対して、合意を実 行しなかった」
―では、ソ連側の決定はどのようになされたのでしょうか。捕虜はどこに配置されましたか。 「ソ連の権力者たちは、モンゴル人民軍と戦った日本兵をモンゴルへ送り、中国人と戦った 日本兵を中国へ送ると決めたのです。ほかに一定数が、北朝鮮に送られて強制労働に従事し ました」
日本人はモンゴルの48か所の収容所に入れられ、労働させられた
-モンゴルには、およそどのくらいの数の日本人が来て、どこに送られたのですか。 「モンゴルには1万2千人の日本人捕虜が送られて来ました。ハバロフスク、ウランウデを 経由し、スフバートルの国境から入りました。わが国の士官の手で移送が行われました。史 料を見る限り、着いたのは10月末から11月でした。暖房の一切ない、寒さの中で、名簿 などもない状態で連れて来られたようです。日本は温暖な国なので、わが国の気候条件に適 応するのは大変だった。移送中に15人が亡くなっています。名簿がないため、亡くなった 人が誰なのか、今日まで特定できていません」
-モンゴルに連れて来られたばかりの日本人について、政府はどのような決定を下したのか、 詳しくお話し頂けますか。 「政府に日本人捕虜担当部局が置かれました。当時のモンゴルと言えば、産業がやっと動き 始めた時期です。建設に従事する労働力は不足していました。まず日本人捕虜の食事、暖房 のある宿舎、生活物資をどう確保し、供給することが課題となりました。何とか、彼らのニ ーズを一定程度満たすことができました。とはいえ、資料を見ると、昼食が提供されないケ ースもあり、そのため病気が頻発するなど困難な状況が生まれていました」
-担当部局は、日本人をどのように管理し、仕事を与えたのでしょうか。 「日本人は、国内の48か所の収容所に送られ、作業に従事しました。日本人の担当は、士 官や小隊長が担当することになっていました。士官は少額の給料を得ていたようです。当時 のあらゆる国家建設の現場に、日本人捕虜を動員しました。しかしながら、モンゴルの研究 者の一部による、誤った記述も見られます。例えば、当時建設された建造物についてですが、 建物全部を日本人が建てたわけではありません。建造物を部分的に任されて作業した例はあ り、例えばモンゴル国立大学の北西側は日本人が建てました。それを、大学の校舎全部を建 てたのだと誤った話をする人がいます」
-捕虜の中には民間人もかなりいたと言われています。そのことについてはどうですか。 「『満州国』(訳注/日本が満州事変によって中国の東北三省と東部内蒙古をもって作り上げた 傀儡国家)で仕事をしていて捕虜となった人がたくさんいました。人々は『国際条約に違反 してわれわれを捕虜とした』と何度も当局に訴えていました。中には女性も2人いました。 しかしながら、当時のわが国はいかなる国際条約にも加盟していなかったのです」
「ジュネーヴ条約に加盟したことで、わが国は国際連合に加盟する条件が整った」 -捕虜の問題についての国際条約に沿った対応がなされなかったのですか? 「まず、わが国はロシアの国際法に沿って対応した。わが国は1958年になって、ジュネ ーヴ条約に参加しました。それで国際連合に加盟する道が開かれたのです。同条約の中心は、 捕虜を人間的に扱うという規定です。ホジルホランで亡くなった日本人を、わが国ではその まま山積みして葬っていました。ジュネーヴ条約はそうしたことを禁じています。条約に加 盟してから、きちんと一人ずつ埋葬し直し、墓に名前の看板も置くようになりました」
―日本政府から、亡くなった捕虜に対して、どのような取り組みがありましたか。 「日本側からは、墓地として囲いを作り、庭園のように整備したいとの提案が出されていま した。1972年に両国の外交関係が樹立された後、着手されました。ホジルボランは、モ ンゴル軍の管轄区域であったため、そこにあった遺骨をダンバダルジャーに移し、70の段 を設けて埋葬していた2つの墓地を移し、セレンゲの埋葬地を墓地として整備するなどの多 くの取り組みがなされました。75年から80年代末にかけてのことでした。何度も何度も 協議が繰り返されました。2000年代にはすべての遺骨が日本に持ち帰られました。最後 に、日本政府により、ダンバダルジャーに総合公園のように整備されたのです。
モンゴル政府は、捕虜の食事に配慮していました。日本人の伝統である漁業を集中的に行 い、自分たちで野菜を栽培させるなど、色々な作業が実施されていました。とはいえ、人口 の少ないわが国にとっては、捕虜の食事を提供するのは容易ではなかった。一例を挙げれば、 モンゴル国立大学の建設現場で働いていたおじいさんの思い出話によると、日本人捕虜にス ープや、脂身を使った食事をよく提供したそうです。日本人は、小さい椀で汁物を飲むこと が多いですよね」
―ロシア、モンゴル両国に送られた日本人の死亡率に差がありましたか。 「概して言えば、ロシアには60万人の日本人が送られ、6万2千人亡くなっています。モ ンゴルでは、1万2千人がいた中で千6百人が亡くなりました。割合だけを見れば、モンゴ ルの方が死亡者は多かった」 -それは、モンゴルで働いた日本人の間で、病気が多かったということですか。どのような 病気で死に至ったのでしょうか。 「捕虜のほとんどは、平均18-35歳の働き盛りの若い男性でした。初めに捕虜の名簿を 作る際に、ワクチン接種や注射がなされました。それでも、連れて来られた日本人の10% 以上が亡くなりました。わが国の気候条件の影響が大きいと思われます。大半は、肺や胃腸 の病、凍傷などによって亡くなりました。不衛生から来るシラミによるチフスの感染も多く ありました。そのために5か所の風呂が日本人のために建設されました」
モンゴル人について、優しい、情け深い、怒りっぽい、良い人々、との記述がある
-罪を犯した等の理由で、捕虜が死刑に処されたこともあったのでしょうか。 「さまざまな形の抵抗活動が起こったのは事実です。抵抗のひとつとして、作業をきちんと しない人がいました。そうした規則違反により、法的措置として死刑となった人もたくさん います。また、逃走を試みて、見張りの兵士に撃ち殺された人もいます。しかし重大な犯罪 は比較的少なかった。ある日本人が亡くなる際に、一緒にいた日本人がその人の衣服や所持 品をすべて奪ったことがありました。亡くなった同僚の金歯を取って売った人もいたそうで す。食べ物も着る物もすべてが欠乏状態にあったのですから、仕方ない面もあります」
―当時のわが国は社会主義国家でした。思想教育のようなものはあったのでしょうか。 「わが国はそうした方針は取りませんでした。ソ連では国内で働かせた日本人に共産主義思 想を浸透させる取り組みを多く行いました。そのため、帰国後に、日本において共産党支持 が広がりましたが、ほどなく消えました。ロシアによる思想教育は成功しませんでした。モ ンゴルに残りたい、と要望した日本人がいました。理由は、その人のふるさとが米国の空襲 にやられ、家族を失った。そのうえ、新しい日本は、米国の影響で資本主義国家になるとい うことでモンゴルに残留したい、と要望書で説明していました。わが国は残留を認めません でした」
-後年、捕虜となった人たちはモンゴル人について、どのような思い出を語ったのでしょう か。良いこと、悪いこと、どのようなものがありますか。 「ロシアにいた日本人、モンゴルにいた日本人の書いた手記、本などがありますが、かなり 違いがあります。モンゴル人については、やさしい、情け深い、怒りっぽい、良い人たちな どと書かれていました。国家間の関係が改善した後のことですが、カスガ(訳注/故・春日行 雄さん。『ウランバートルの灯みつめて五十年』などの著書がある)という医師はモンゴルに 戻って来て、ダンバダルジャーに慰霊のための寺院を建てたほか、モンゴルの孤児院に寄付 をしました。そのことから見て、モンゴル人は、彼らに同情心をもって接したのでしょう。 日本から戦友の遺骨にお参りするために多くの人が訪れるようになりました。特に、政界の 要人のみならず、日本人観光客の多くが訪れる場所となっています」
2019年1月11日付 ウヌードル紙 https://unuudur.mn/111027/
(記事セレクト・訳=小林 志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。
鈴木裕子さんのエッセイ集
(小長谷 有紀)
鈴木裕子さんからのお便りを掲載します。 鈴木裕子さんは、公邸料理人としてウランバートルにある日本大使館に勤務されていました。 それまで縁のなかったモンゴルと出会い、モンゴルの不思議な面白さを SNS でエッセイを発 信。それらの中からいくつかのエッセイを再構成してお届けします。いずれまた、ご本人に よる自己紹介もお願いしますので、まずはモンゴルの多様な側面に出会っていく彼女の声を お楽しみください。
(鈴木 裕子)
肉料理◇煙に巻くお肉
モンゴルに敬愛する女性シェフがいる。友人関係のスタートが国籍や暮らし性別に関係な く、会ったその時から、あっ人だと思い、相手もそう感じてくれるということがある。公邸 のイベントに招聘された彼女はまさにそういう人だった。
わたしたちは碌に言葉も通じないのに、二 人で勉強に高級レストランに食べ歩こうと 約束し出掛ける。女性が遊びに出かける時、 子供がいても日本とは違って引け目なくご 主人や家族に預けられるのが普通。何せ子沢 山な女性は国から表彰され、孫の世話もする でしょうからと定年も年金支給も早くなる お国柄だ。子供は母親の子ではなくみんなの 家族だからそれが当たり前というのがモンゴル式だ。
彼女と職場をおなじくする彼女のご主人もチャーミングな人で、彼ら二人ははとても子供 がいるとは信じられないくらいいつも熱愛のカップルなのだが、当時はまだ面識がなかった。 その彼から彼女の携帯にレストランの食事中にそれこそ 10 分おきかというくらいに電話が入 った。困ってない?話は通じる?アツアツな上に心配性。これをネタに今でも私たちは彼を からかう。そんな彼らのお店のすてきなごはんは、在モンゴル中いつもわたしを癒すご馳走 だった。
任期はいつまでだろう?そんな思いがよぎる頃、寒くなる前に主人の作るシャルロックを あなたに是非食べさせたいとテレルジに誘われた。かわいいお子さんたちと出かける水の豊 かなテレルジ。水辺近くの林に着くと、最年少の4歳を筆頭に子どもたちが駆け出した。枯 れ枝集めスタートだ。その間にシェフたちが前日にマリネしてくれたお肉に長い金串に刺す。 もういいよ、というくらい薪が集まった頃にはいつの間にか焼き床もできていた。
子供たちとバトミントンをしていると良い匂いが漂ってくる。火に駆け寄ると不思議な焼 き方をしていた。まったく炎を立てないのだ。少しくらいなら上に手をかざせるほど温度が 低い。炎が立つととすかさず蓋に穴を開けたペットボトルで水をかける。炎が立たないとい うことは、煙い!煙い!火の代わりに煙り。焼き上がりは焼き手が薪から目を離さずにどれ だけ丁寧に火のお世話をするかが鍵なのだという、じっくりの燻し焼きだ。
火の番は名人に任せ、彼女と時間を共にした。一緒に食べ飲んだかけがえのない思い出が 次から次へと溢れ出す。そんな私たちを囲む景色は短い秋の美しい黄色が夢のようだ。そこ に、お待たせとしっとりと焼き上げられた串。齧り付くと、ジューシーで柔らかく、ナチュ ラルスモーキーな何とも言えない香り。これでウィスキーを一杯やったら最高だろう。櫛型 に切った生の玉ねぎを勧められ、一緒に食べると進む進む。炭のない文化の知恵、美味しい さがそこにあった。あらゆる土地で人はそれぞれに美味しいに知恵を絞ってきたんだなぁ。 そういえば、夏の公園などの屋台のごろっとした牛の串焼きも隣にいつもペットボトルがあ ったっけ。でもあれはこのご主人の火の守りとは雲泥の差、ただ焼いた肉だった。使う火や その扱いによってこんなに違うとは、素晴らしい料理人の腕に感服した。
同行の子供たち三人に混じり四人めの子供として食べ、あまりに気持ちがいい風が吹いて いたので、地面に寝転んだらそのままお昼寝をしてしまった。モンゴル最後の秋の冷涼な空 気が、温かな日差しが、冬の準備を始めた木々をやさしく撫でていく。おまけみたいにわた しも撫でられた。最高だ。
前日仕込みの羊肉マリネはパプリカ、ペッパー、ガーリックパウダー、タバスコ、カレー パウダーなどにオイル。奥行きがある味でほんのりだがジンワリと辛い。あのショルロック はどうにも忘れ難い。そして思い出すたびに海を隔てて彼女たちのご健勝を深く願う。美味 しいのそばでいつもしあわせでいてほしい。しあわせを共にした人たちの幸いを願い、また しあわせを共にしたいと思う、この万国共通の思いに乾杯。しあわせの記憶はどこにいても わたしを深くあたためる。
食材◇岩塩王国
内陸のモンゴルには、ほんのりとピンクオレンジがかった素晴らしい岩塩がある。中でもウランバートルから西に千数百km のオブスフール盆地で産出 されるジャムツダウスが有名だ。神聖な塩と言われ伝統医療に も利用されてきた塩の名の由来は健康のジャムツ=健康の神 と、ダウス=塩からきている。マグネシウムが少なく味わいが 穏やかだから肉だけでなく野菜にもと用途が広くとても美味 しい。
しかし、岩塩は硬い。そしてモンゴルで市販される塩の粒が 粗いものが多い。だから海の塩みたいにはさっと溶けてはくれ なくて、料理をしているとなかなかに困った。そこでわたし塩 を二種の篩にかけた。細かいものは、味の微調整や、粉物を作 る時に、あるいは料理添える時用に。中ぐらいの粒はお肉など 焼いたり炒めたりの振り塩に使い、篩を通らない大きめな粒は、 飽和食塩水にした。慣れてくるとこの食塩水は長く煮たくはな い汁物の味付けなどにとても便利だった。そんな岩塩は現地で
500g70 円ほどで、日本でのモンゴルの塩の売価を考えるとすごく安い。
日本でこそさまざまな塩が手に入るが、モンゴルではサイズはさまざまながらモンゴル産 の岩塩一辺倒。大きなスーパーでも海塩はまず見かけなかった。唯一輸入品を多く扱う高級 スーパーでやっと見つけたが、ありきたりのものが岩塩の 10 倍のお値段とはびっくり。お隣 の中国では土地ごとに調味料は指定の一銘柄が基本なんて聞くとあるだけましとは思いつつ、 そこまでお金を取るならばゲランドあたり銘柄を入れて欲しいと思ったものだ。
市場に行くとプレート状の岩塩をよく見かけた。これは飾りではなく実用品でバーベキュ ーで焼いたお肉を擦り付けて食べる。肉汁滴る焼き肉に岩塩は最高だ。ミルキーな味わいの モンゴルの岩塩は羊肉との相性が素晴らしい。
料理を塩の粒サイズ分け始めるのは面倒だった。けれど面倒なんて言っていたら思う料理 はできない。日本規格の料理を実現する為に、黄身の白っぽい卵に黄身を加えて茶碗蒸しの 色を調整したり、不揃いな十把一絡げな野菜や缶詰から色や形やサイズのを揃えて選ったり の手間がモンゴルで必須だった。そしてないものは作らなきゃ。という訳でわたしは鍛えら れた。今どき日本では何の役に立つことがない加工品を作るスキルが身に付いた。今なら二 世代年上の昔の日本のお母さんたちと料理話が合うだろう。人とつながるコミュニケーショ ンツールでもあり続ける料理だから、このいまどき珍しい体験もご褒美と言えなくはない。
何でも作ろう。面白がって、その心がけが海外で料理する最大のコツかもしれない。ない ものは作らなくちゃ食べられない。しかし心配は要らない。自分の食い意地が料理をさせてくれるのだ。
寒さ◇ミトンの方があったかい
体験した事がないような寒さは面白いことをいろいろと 教えてくれる。その一つが手袋だ。日本で寒がりのわたしは 皮手袋を愛用していた。ニットは風や雪などの水気を通すの で寒いと思っていた。しかしその革手袋がモンゴルでは全く 役に立たなかった。しばらく外を歩いたら、文字通り指先か ら凍えが始まり、痛くなり、そのうち感覚が無くなる。凍り そうな指先を拳の内側に入れても、グーパーと動かしても、 − 数十度の寒さは容赦がない。こんなものじゃダメだ。
ミトンにしてはどう?と声をかけてくれた人がいた。ミト ン⁉︎聞いた時はピンと来なかったが、年末の帰省土産を物色 中に思い出して細い糸で編まれた二重になったカシミア製 を買ってみた。ミッフィが手にしていたようなミトン。半信疑だったが、使ってみたらこれがいい!自分の指の体温が隣の指をあたためる。雪がどん なに付こうとも、溶けたりしないモンゴルの寒さ。払ってしまえばどうという事はない。そ れにモンゴルの冬には日本のような風はない。
手袋が見つかった時はホッとした。指が凍りそうになる度に、お店や喫茶店に駆け込んで いては、遠くへ行けはしないのだから。本当の寒さの中は、末梢神経をあたためて感覚を取 り戻す中継地点がないと歩けない。動くか暖を取らなければ凍ってしまう。
モンゴルではカシミアは一大産業だ。そこら辺を歩く山羊の多くはカシミア。とにかく軽 くて暖かい。山羊の毛は羊の毛のようにはバッサリと刈れない。あたたかくなり、毛の生え 替わる時にブラッシングをしてこそげて、それを硬い外毛と内側の毛に選り分ける。人件費 が安く材料の重さに価格が反映するので、特にこの手袋や帽子みたいな小物類は値頃感があ る。市内の旗艦店に行くとよくセールをしていたからちょくちょく見に行った。またウラン バートル郊外のカシミアブランド GOBI の工場併設店ならオーダーもできるし、売り場の品を 安く小さくだけでなく大きくもサイズ直しもしてくれる。モンゴルに行ったら是非お買いものを。
旅人◇しあわせの達人
ある夏の機上、わたしは三人席の真ん中、左右はそれぞれ違 う旅行社の大きなツアーグループに挟まれた。これが愉快に年 代を超えた修学旅行生のように盛り上がり、あっという間の5 時間だった。降りる時に前後のお席の方々にお休みになれなか ったのでは?ごめんなさい!とお詫びしたが、あまりに面白い 話に聞き耳を立てちゃった、こちらこそごめんなさいと返され、 周りからわたしも、わたしもと声が上がった。今回はあの日会 ったすてきな旅人たちと、これからモンゴルに向かわれる方々 へのファンレターを書こう。
きっかけは小柄な年上の女性たちの手荷物を座席上にあげて 差し上げたなんて些細なことだったかと思うが、グループに連 なる席を人に譲るような心映えのお二人は素晴らしく気立てが よく社交的な楽しい方々だった。星空や馬に逢いたくて旅した 彼女たちはわたしの知らない地方をそれぞれ旅していた。また彼女たちからすれば実際住み 肌感覚でモンゴルを楽しんでいたわたしの話は興味深かったに違いない。
さまざまな話をする内に、彼女たちがとてもたくさんの旅をしていることに気が付いた。 たずねると行っていない都道府県がないかもや、アジアはおろかヨーロッパや北欧などさま ざまな国々を訪たなんて話が飛び出す。もう買いものでも、快適さでも、グルメでもない彼 女たちの旅。感じる自分を愉しむその究極に手を伸ばす人たちが目の前にいた。そんな人た ちの旅先にモンゴルはもってこいだ。
そしてまた彼女たちは、自分のことは自分でという実務的で自立した人たちでもあった。 自然に近づくというのは、不便を許容すると同義語だ。その点、楽を好み、自助努力より人 に頼みを持つような人は、モンゴルを旅先に選ばない。いや選べない。そもそも日本の快適 さを手放せない人はゲルは泊まろうとは思わない。
当時ミアット航空一社限りの成田便は高値安定、更に添乗員必須のツアーともなれば代金 は相応にかかる。そして体験というプライスレスを人はなかなか理解できない。だからモン ゴルの旅人たちは自分の稼ぎと脚力で旅する人たちだったのだった。働いて自分の自由を手 にした人たちの真摯なキラキラとした瞳は忘れがたい。隣にいるとワクワクに感染する、そ んなすてきな人たちだった。
訪れれば、モンゴルは私たちが今まで目にした事もない世界を体験させてくれる。旅した 人達は地球に生きもの達と肩を並べても暮らせる人間の在り方があることを経験する。旅人 たちは、自然との一体感と感じる自分の感性をお土産に日本に帰っていく。それは目に見え たりはしないけれど一生の宝になるに違いない。日本航空も直行便が乗り入れたモンゴルわ たしもまた訪れよう。
モンゴルの新型コロナ感染症の状況(2022年1月24日現在)
(斎藤 美代子)
1月末、日本ではオミクロン株が急激に増加していますが、モンゴルのコロナでも70% 以上がオミクロン株に置き換わったと言われています。
毎日、モンゴル保健省がコロナに関する情報を発信しており、FB や web サイトで見ること ができます。以下のように多くの情報がまとめられた形となっています。
1月24日の表を簡単に見てみますと、
左列上:昨日 PCR 検査で確認された陽性者数:2089人、ウランバートル1373人、地 方716人、輸入症例0人。
左列真ん中:入院患者数11,573人 軽度3731人、中程度6655人、重度1084 人、重体103人とそのうちの子供(2,121人)と妊婦(1,242人)の数、自宅療養 者数54,136人、今までの死亡者数2021人、
左列下:その日の死亡者(この日は0人。もしもあれば性別や年齢に関する情報) 真ん中の列:地方の各県での感染者数と 1 週間の病死者の中でコロナが原因の人の割合 (22.7%)
右列:これまでの感染者数の移り変わりをグラフ化してあり、今現在オミクロン株のために 大きく上昇していることがわかります。
右列真ん中:全人口のワクチン接種状況の数値
ワクチン接種 1 回目終了69.7%、2 回目終了66.7%、3回目終了31.0%、4回目終 了2.0%となっています。 右列下には、感染拡大を予防するため、2月2日に迎えるツァガーンサル(モンゴルの正月) は家族だけで祝いましょう!と呼びかけが書かれています。
モンゴルではすでに4回目の接種が1月から始まっています。2021年2月から開始さ
れたワクチン接種では、1、2回目は多くの人が中国製のシノファームを接種しました。他 にアストラゼネカ、ロシア製のスプートニクを一部の人が接種し、その後、12歳以上18 歳以下の子供たちには日本の支援によりファイザーが使用されました。3、4回目のブース ターではシノファームとファイザーから選択できるようになっています。
ブースター接種が進んでいることもあり、経済のため、ウィズ・コロナに進もうとしているのが現在のモンゴルの状況だと思います。
斎藤様 モピ通信234号をありがとうございます。
志歩さんとモピとのご縁がわかりました。 さて、オミクロンは日本各地で急拡大しており先が見えませんがモンゴルではどうなってい るのでしょうか。モンゴルでの現状を通信にちょこっとでも掲載頂ければ有難いです。
吉崎彰一拝
白澤(ハクタク) サロール画
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