■NO 127号 モピ通信

NO 127号     2012年07月01日

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モピ事務所からお知らせ

東京・ウランバートルから3000キロメート (7)

「蒼き狼」になった気分で世界史の授業

モンゴルの小学校生活4

ノロヴバンザトの思い出 その32

編集後記

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モピ事務所からお知らせ

 1 ホームページアドレスが変わりました。

          http://mongolpartnership.com/ 変更をお願い致します。

 2 サンクトペテルブルグの旅 (費用などの質問に答えて頂きました。)

2012年12月23日 ~ 2013年1月7日までの間の数日を予定しています。
同行し案内してくださるのは林 俊雄先生(創価大学教授)です。

興味のある方は、モピ事務所までお知らせ下さい。

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一般的なのはアエロフロートによるモスクワ経由です。
この季節はやはりやや高くなります。
ネットで調べると、往復で8~10万円くらいです。
この場合、モスクワで2泊くらいして、クレムリンと国立歴史博物館、
プーシキン美術館を見るのがいいでしょう。
両都市のホテル代は高く、都心だと3つ星クラスでも
1室2人部屋で 1人当たり1.5~2万円はするでしょう。
したがって、合計7泊すると、20~25万円くらいでし ょう。

またモスクワ~ペテルブルクを夜行列車で行く方法もあります。
もう一つは、
フィンランド航空でヘルシンキ経由でペテルブルクへ入るルートです。
こちらは往復で14~15万円くらいでしょう。
この場合、行きか帰りにヘルシンキに滞在して、
国立歴史博物館を見ることができます。
こちらは全部で25~30万円でしょう。
なおロシアはビザが必要で、5000円かかります。(林 俊雄)

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東京・ウランバートル3000キロメートル (7)

ー 海路と陸路をつないでウランバートルへ その2 ー

(梅村 浄)

蘇州から北京へ

2010年6月16日夜、蘇州から北京行きの夜行列車に乗るべく、
一人でタクシーに乗りました。
行き先はホテルのフロントで紙切れに書いてもらいました。
全財産をいれた青いスリー ウェイバッグとピンクのウェストポーチが頼みです。
街灯が灯った駅前広場では、土産物を売る露店が商いをしており、
屯している客の影がざ わざわと行き来していました。
桃を箱買いして土産にする家族がいました。
シートに並んだ 丸々とした桃を横目で見ながら、
急ぎ足で駅構内へ。
北京行きD386 特急列車は午後9時38分発です。
北京語のアナウンスはわかりません。
行き先の漢字と発車時刻の数字が表示された電光掲示板をにらみつけ、
その前の列に並ぶこと しばし。。。ようやく改札が始まりました。
同じコンパートメントには、ビジネスマンらしい中国人男性が既に入って居て、
英語で対応してくれました。
寝台車の下段でぐっすり眠ることもできず、
うとうとしているうちに翌朝 7 時過ぎには北 京南駅に着きました。
10数年前に娘と一緒に長春から夜行列車で北京に来た時のことを思い出しました。
長春師範大学日本語学科の男子学生に頼んだ軟臥(文字通り柔いベッドの寝台) の
チケットが取れなかったので、硬臥(固いベッドの寝台)で夜中に北京に着きました。
暗くて狭い駅前に客引きをしていたタクシーを拾って、
彼のエスコートでホテルまで行きました。
北京には4つの駅があります。北京駅、北京北駅、北京南駅、北京西駅です。
記憶の中の駅がどれだったか定かではないのですが、
おぼろげに浮かび上がる駅舎の姿と比べると、 この駅はぴかぴかでした。
それもその筈、北京南駅は 2008 年にオリンピック開催に向けて、
リニューアルされていたのです。
北京侣松園は昔ながらの四合院造りのホテルでした。
中庭に向いてぐるりと部屋が配置されています。
フロントで英語が話せる受付けの女性に、夜の京劇のチケット手配を頼みました。
夕方から始まる京劇を見ようと、表通りに出てタクシーを拾いました。
翌日は日本語ガイドと一緒に頤和園と万里の長城を訪れました。
頤和園は清朝第十一代皇 帝の光緒帝が、
摂政である西太后の避暑地として再建させた建物です。
西太后には贅の限り、
残虐の限りを尽くした権力者としてのイメージを持っていましたが、
実像はどうなのでしょう。
頤和園での振る舞いを知れば知る程、そのイメージは上塗りされるばかりでした。
光緒帝は日清戦争で敗北した清朝の勢力を立て直そうと政治改革を目指しましたが、
西太 后に阻止され、頤和園の一画、玉瀾堂に幽閉されました。
広い昆明湖に面した玉瀾堂のぐるりを回りながら、
光緒帝が政治改革の同志と連絡をとろうとしてもとれない構造に作られた
二重の壁の説明を聞きました。
北京郊外の八達嶺長城に行きました。
登る手前に、お土産物屋さんがあります。
何を買おうかと見回っていると、女店員が次々に日本語で勧めて来ます。
高価で重い花瓶にはもちろ ん手が出せません。
2センチばかりのドーナツ 型に細工した翡翠を、
赤い紐で組んだ携帯ストラップを、6 個まとめ買いしました。
ガイドに入場券を買って渡され、帰りの時間 を打ち合わせてから
一人で長城に登り出しました。欧米人の姿もありましたが、
殆どは中国人観光客で、紺と白の縞の着物に大きな帽子をかぶった
少数民族と思しき一家と出会いました。
曇り日でしたが、傘をさして登っている人たち もいます。
5 人以上横並びで歩いても、ゆったり歩けるほどの幅でした。
地表からの高さは平均 7.8 メートル、城壁の北側には、
銃眼を開けたレンガの壁が築かれ、
所々に敵を偵察する望楼が築かれています。
最近の調査によると、万里の長城は中国領土の東から西まで、
2 万キロメートルに及んだと言います。
秦の始皇帝時代からの、
漢民族とモンゴル族を含む北方民族の攻防の歴史が刻まれています。
モンゴルヘ行ったら、長城の北側から見える世界を
知るのだろうかと怪しみながら、城壁の石畳を上がったり降りたりしました。
ウランバートル行きの寝台車チケットは日本国内では手に入れられません。
ガイドと一緒 に、バウチャーを持って、
王府井にあるエイチ・アイ・エス 北京のオフィスまで行きました。
軟臥を頼みましたが、とれたのは硬臥のチケット 1 枚でした。
この日の夕方は、翌 6 月 19 日の早朝に北京駅から出発する
ウランバートル行きの列車に乗り込むために、
北京駅に近い北京国際飯店に宿を取りました。
最上階の回転するレストランから北京の夜景を眺めていると、
ようやく、旅の解放感が湧いてきました。

北京からウランバートルへ

ウランバートル行きの列車は古びた車両の国際列車です。
4人定員のコンパートメントに、ドイツ人の若いカップルと一緒になりました。
これから1日半をかけてウランバートルまで 行くのです。
むむむ、英語力がぁと思っている場合ではありません。
最初のうち、コンパートメントから出て、
通路の窓から変わりゆく景色を写真に撮り続けました。
葡萄棚が豊かに広がる田園地帯から、列車は黄土地帯にさしかかります。
中国北方 の砂漠から長い年月をかけて風で飛ばされた砂が
黄河流域に50メートルから200メートルの 厚さに堆積しています。
日本に来る黄砂の源と初対面したわけです。
いつまでも通路の椅子に坐っているわけにはいきません。
2段ベッドの下にある自分の席 に戻りました。
男性の方は、上段に寝そべって本を読んでいました。
茶色い短髪で背が高い 彼は、ベッドからはみ出さんばかりです。
金髪で小柄な女性は黙って坐って、日記をつけて いました。

「どこから来たんですか?」
「ドイツから」
「どこに行くんですか?」
「僕たち中国を回って、今からモンゴルに行くんですよ」
型通りの挨拶をしました。

互いに外国語なので、かえって聴き取りやすい英語を話せるような気がします。
彼等はコミ ュニティカレッジで中国語とモンゴル語を数ヶ月間学んでから、
この旅に出て来たこと、素 晴らしい自然のあるモンゴルでは、
ランドクルーザーとガイドを雇って、
フブスグル湖の方 まで行くことを話してくれました。
窓の外を見ると、
丈の低い木が生えている平原を貨物列車が通り過ぎて行きました。
内モンゴル地区にはいったようです。
夜中に中国とモンゴルの国境、エレーンホトに着きました。
検査官が車両をまわって、パ スポートのチェックをします。
その間に、列車の車輪の交換作業が行われました。
中国とモンゴルでは鉄道の軌道の幅が違います。
車体をジャッキで持ち上げ、
中国で使用している狭軌道の車輪を作業員が手でゴロゴロ押して行った後に、
モンゴルの広軌道にあった車輪を押して来て付け替え、車体を降ろします。
もちろん乗客はその間、列車に乗ったままです。
夜間作業であるにもかかわらず、女性の姿も見えました。
時間がかかりすぎたせいで,私は眠 ってしまったようです。
ドイツ人の若者がパスポートを受け取り、持って来てくれました。
翌朝、食堂車に行くと、もうここはモンゴル。
昨晩の夕飯は中華料理でした。
今朝はジャ ム付きクレープに卵焼き、きゅうりとトマト、
ホットコーヒーという西洋風の朝食でした。
昨日の中国人女性に変わって、今朝はモンゴル人女性がウェイトレスです。
払うお金も、中 国元からトゥグルクに変わりました。
手持ちのトゥグルクがなければ、中国元でもドルでも構いません。
正午をまわってしばらく、建物が立ち並ぶ中に観覧車が見えたと思ったら、
ウランバート ル駅に着きました。
お互いに写真を撮りあい、列車から降りる時に荷物を下ろしてくれた
彼に「ダンケシェーン」と挨拶すると
「アウフヴィーダーゼン」と
笑顔とドイツ語が返って来て、
二人は急ぎ足で迎えのガイドを捜しに行ってしまいました。(2012.6.20)

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 ■「蒼き狼」になった気分での世界史の授業

(大阪府立桜塚高等学校・田上 浩)

 高校で世界史の授業を担当しています。
6月になって中国史はモンゴル(元)に入りました。
そこでまた、例によってMoPIの齋藤さんに無理を言って、
モンゴルの民族衣装をお借りしました。
もちろん、モンゴルの歴代ハーン(王)になりきって授業をするためです。

いつも思うのですが、
シルク?の肌触りと見事なデザインと刺繍に
モンゴルの歴史が凝縮されているかのようで す。
どこまでも続く草原の青い空の下で、
これを着て馬に跨ればさぞかし気持ちがよいだろうと思います。
そして、 これまたいつも思うのですが、
梅雨が訪れつつある蒸し暑 い大阪で、
狭い教室に40人の高校生がひしめく熱気の中で、
この格好で授業をすることほど愚かなことはありませ ん。
しかも、3年前にお借りした時に比べて帯(ベルト) のホックが
きつくなっている気がしてなりません。
それでも気を取り直して教室に向かいました。
昨年春に 転勤した今の学校では初めてのコスプレ?授業。
生徒の反応が気になりましたが、
1年生ということもあ って素直に?湧いてくれました。
これがモンゴルの民族衣 装であること、
モンゴルの草原地帯で暮らす
遊牧民をチンギス=ハーンが統一したこと、
チンギス=ハーンとその末 裔が建てた大帝国によって
13世紀にユーラシア世界が形成されたこと・・・
といった話を 進めていく中で、
私は「蒼き狼」というニックネームを頂戴しました。
言わずと知れた若き日のチンギス=ハーンの異名ですが、
こちらの「蒼き狼」は若くないばかりか、
「レポートを 提出しない奴は、冷酷無比に特別課題を与えるぞ」とか
「授業中に居眠りしたり内職する奴 は情け容赦なく減点するぞ」などと、
本物に比べてやたらとスケールが小さい。

高校の世界史は近年、時間軸からみる地域史の集積にとどまらず、
空間軸からみる地域世 界相互のつながりに比重を置く傾向があります。
これまでなら軍事的側面を中心にしたモンゴルの急速な勃興とその後の分裂、
中国史における南宋にかわる征服王朝・元の出現と
紅巾の乱を経て明への王朝交代までを時代順に追うという授業展開が一般的でした。
しかし、今 使用している教科書でもモンゴルの軍事力とともに
帝国を支えたムスリム(イスラーム教徒) 商人たちの
交易ネットワークと経済力、中国の巨大な生産力が結びついて
13世紀のユーラシア世界が形成されたこと、
そしてモンゴル帝国崩壊後も継続してゆくネットワークが持つ
今日的意味・・・といったものに焦点が当てられています。
複雑に交錯する事象をどうわかりやすく説明するか、
教える側にとっても実力が試される場面です。
そこで、通り一遍の説明にならないような
工夫の1つとして民族衣装を使っています。
最初のクラスの授業を終えた後、
何人もの生徒が「撮らせてもらっていいですか」と断りつつ
スマートフォン(私は持っていないのに、生徒の多くが所持)を出して撮影。
中にはポーズを取れとリクエストする厚かましい奴もいます。
そのくせ、「衣装を着てみたい人」とよびかけ ても、誰も手を上げません。
「先生みたいな趣味ありませんから」俺をなんやと思てるねん!
ここに掲せてもらったのは、その時生徒が撮ってくれた写真です。

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モンゴル小学校生活 4

(齋藤 美代子)

5月18日、娘は小学校の 1 年生を終了しました。
学期ごとの通知簿などはないらしいのですが、
終わりの時期には一応テストもあり、
点数をつけられたりしたようで、
いい成績の場 合は証明書のようなものをもらってきていました。
ずっと宿題を担当している夫いわく
「よくがんばったよ、親も子どもも」ということで、
なんとか学校生活の1年目が終わりました。
とにかく長い夏休みが始まりました。
5月19日から8月31日までです。
あまりの長さに日 本の子どもたちが聞くとびっくりするのではないでしょうか。
モンゴルでは 6 月 1 日がこど もの日で祭日なのですが、
低学年以外の学年もこの6 月1日からは夏休みになります。
幼稚園も6月1日から夏休みです。 夏休みにはいったとたん、
朝の渋滞がなくなりました。
車のほとんどが子どもたちを送るためだったようです。
子どもが夏休みに入ると、すでに社会も夏休み気分になり、
なんとなくのんびりしたような感じがただよっています。
空は真っ青で白い雲が浮かび、日差しは強く夏らしくなってきました。
今年は雨も多いことから、緑もくっきりしています。
いったいこの長い夏休み、どうやって子どもたちは過ごすのでしょうか。
娘の学校からは、 一応宿題として1冊問題集が渡され、
その中にはモンゴル語、算数の問題などがあり、
この1年の復習をするようになっています。
80ページほどあり、毎日少しずつ勉強したことを忘れ ないようにやりましょう、
という指示が出されています。
それ以外に、夏休みに行った田舎 について、
絵を書いて文章を付けて本にしてきなさい、という宿題もあります。
どこの学校でも宿題は出ているでしょうけれど、
それだけをやってずっと家にいる子どもは少ないと思います。
モンゴルの夏はやはり草原に行くのが普通なのです。
田舎に親戚のあ る家は田舎に帰るでしょうし、
ない場合でも郊外に行く場合が多いのです。
仕事をしている 人たちも7月を過ぎると1ヶ月近く休みを取ることも可能なようで、
一家で田舎に行ったり、 郊外で過ごしたり、というのが普通です。
とにかく子どもたちは、夏は外で遊ぶのが仕事です。
夜は10時くらいまで明るいので、寝る寸前まで1日中、
草の上を裸足でかけまわります。
夏にそうしないと厳しい冬を越すことはできない、
ということらしく、風邪の予防は夏の外 の空気、
という考え方が一般的です。

今年は6月に入って雨が多く、なかなか気温が上がりません。
おじいちゃんと郊外で過ごす予定のうちの子どもたちもまだでかけられずにいます。

でも、6月に雨が降る年はいい夏になると言われています。
草が緑になるには、雨が必要なのです。
雨のおかげ で緑はどんどん濃くなってきています。
この雨のあと、6月末には晴れて暑くなるという予報です。
暑いといっ ても30°Cになるかどうか、そして湿気はありません。
モンゴルの一番いい 季節が近づいてきました。
冬の厳しい寒さも、空気の悪さも、 学校もなにもかも忘れる夏。
モンゴル の爽やかな夏は子どもたちにとって 最高の季節です。
日本の子どもたちに もこの開放感を味わってほしいなあと思います。

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ノロヴバンザトの思い出 その 32

(梶浦 靖子)

ダンスパーティーと女性記念日

その後もエンフチメグとは、お互いの住まいを行き来して会っていた。
そのうち彼女はモンゴル人の友人を私に引き合わせるようになった。
男性の友人は、日本とビジネスをしたいからと、
その仲立ちを頼んでくるようなことが多く、
そうした要望には答えられなかったが、
女性の友人とは、エンフチメグを交えて何度か遊びに出かけた。
ある時、’93 年の初めころだったが、
ダンスパーティーがあるから行きましょうと
エンフチメグが誘ってきたので行って見ることにした。
パーティー当日の夕方、私がそれなりの格好に着替えて寮で待っていると
彼女が兄の運転する車で学生寮までむかえに来た。
最近彼女に紹介された女友達のサラントヤーも
一緒に乗っていた。はしゃいだ様子の
サラントヤーは顔を合わすやいなや、
「元気だった?」
と私を抱きしめ、頬にキスをしてきた。そして、
「私にもキスしてちょうだい!」
と、頬を突き出してきた。
断るわけにもいかないのでその通りにするのだが、
何度やっても恥ずかしい。
モンゴルでは一般にスキンシップが濃いが、同性の気安さもあるのか、
若い女の子同士の方がその傾向が強かった。
私が車に乗り込むと、パーティーの会場に向かう前に
もう少し支度をするからと、エンフチメグの家に行った。
彼女とサラントヤーはそこでまた別の服に着替え、お化粧をした。
「この服とこの服、どちらを着たらいいですか-?」と
はしゃいで私に聞いたりした。その後、また車で会場へ向かった。
会場は市の中心部の劇場か文化施設の一室で、若い男女数十人が集まっていた。
それで何を踊るのかと言うと、
日本で言えば運動会のフオークダンスに近いものだった。
革命後に作られた、社会主義の理想にかなうような歌詞で、
小学校唱歌のような「明るく健全」な楽曲に合わせて、
男女一人づつペアになって「オクラホマミキサー」に似た
ダンスをするのである。
民主化は始まったばかりで、まだまだ社会主義時代の習慣が続いていた。
一曲終わるごとに男性が別の女性に申し込んで、
ペアとなる相手を替えるのだが、組む
相手の男性の手がどれも汗でべたべただった。
そのうち、遠い外国まで来て運動会のフオークダンスのような
踊りをしていることがなんとも変に思えてきて、
何やら不条理な空間に迷い込んでしまったような感覚におちいった。
モンゴルはその後、急速に西側諸国の文化を取り入れて行き、
ダンスの場も、日本の80年代のディスコのような店ができ、
数年後にはヒップホップなどの音楽も若い世代に浸透して、
いわゆる尻上がりアクセントの「クラブ』のような場所もできていった。
日本の社会が戦後40年以上かけてたどった大衆音楽の変遷を、
モンゴルは10年もかけずに体験したことになる。
そうした急激な変化には、いろいろと
「消化不良」な面もあるのではないかと心配になる。
余計な気遣いかもしれないが。

女性記念日

ダンスパーティーからしばらく経って、またエンフチメグに誘われた。
モンゴルでは3月8日は「女性記念日」に制定されている。
社会主義的な男女平等の思想から、女性解放を祝うという意味があるらしい。
ほかの社会主義国でも同様に祝われるようだ。
その日に友達の家で
記念のパーティーをするから行きましょうということだった。
夕方に訪れた場所はエンフチメグの男友達の家だった。
エンフチメグと私とサラントヤーが到着すると、
そこの住人のほか男性が2名来ていた。
ゆでたヒツジ肉の料理とスープとコールスローサラダなど
おなじみの料理がふるまわれた。
店頭であまり見かけないホール型のバタークリームのケーキも出してくれた。
男性の一人が切り分けたが、互いケーキを放射状ではなく
碁盤の目のように切ったのはモンゴル式なのかどうか。
わいわいと談笑してお酒がすすんでくると、
モンゴル人女性たちは 「今日は女性のための日だから、思い切りいばっていいんだ!」
などと言い出し、目の前の男性たちを殴ってやろう!
などと本気のような冗談を言い始めた。
私にも、一緒に殴ろう!いやむしろ先に殴れ!とけしかけて来たのを、
あいまいに笑ってやり過ごした。実際に殴ることはなかったが。
出席した男性の一人は、
国立歌舞団のモリン・ホール奏者でアリオンボルドという名前だった。
歌舞団の劇場に通ってはいたが、私はあまり面識はなかった。
エンフチメグたち は、民謡のことをいろいろ教えてもらったら
いいじゃないかと言ったので、私も、そうか など考えた。(つづく)

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■■ 編集後記 ■■

あっという間に季節が変わり、暑い夏になりました。
モピ通信127号 田上 浩先生に授業 風景を書いていただきました。
「蒼き狼」らしい先生の写真も・。教える側もあの手、この手。
印象に残る素敵な授業だったことでしょう。

モピ通信に掲載させていただける原稿を募集しています。
お寄せ下さることを願っています。

「サンクトペテルブルグの旅」現在1名参加申込みが来ています。
2度とない企画ではないかと思います。
参加していただける方が沢山ありますよう願っています。

「モンゴルの学校に黒板を届ける旅」は、7月31日に出発します。
今回、自ら障害のある身ながら、ご自分の手で黒板を届けるという旅になりました。
セレンゲ県の学校に、数人が同 行します。
どんな旅になるのか・報告は9月号で紹介させていただきます。

7月、モピ例会開催月ですが、スタッフ会議のみの開催にさせていただきます。
少しでも、 涼しくなる季節にご案内いたします。

近年日本を襲う暑さは、異常という厳しい暑さが永く続きます。
どうぞみなさま充分に気 をつけてこのシーズンを乗り切ってください。
モピ通信は、8月1日号はお休みです。よろしくお願い申し上げます。

(事務局 斉藤生々)

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