■NO 145号 モピ通信

■NO 145号           2014年2月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

 

「モンゴル野球青春記」映画上映会のお知らせ

    東京・ウランバートル3000キロメートル(23)

    ノロヴバンザトの思い出 その45

     日本映画「蒼き狼」に対するモンゴルでの評判(連載)

     編集後記

 

 

 「モンゴル野球青春記」映画上映会のお知らせ

このたび、特定非営利活動法人モンゴルパートナーシップ研究所(MoPI)では、下記のとおり、映画館をお借りして「モンゴル野球青春記」を鑑賞する会を企画いたしました。

本作は、日本の青年がモンゴルで野球を教えた実話にもとづいて制作されたものです。脚 本のもとになった『モンゴル野球青春記』(太田出版 2000 年)は、2000 年度ミズノスポーツ ライター賞最優秀賞に選ばれました。また、今回上映する作品は、昨年末、アメリカの LA で 開催されたスポーツ映画祭でグランプリを受賞しました。

日本人がモンゴルで悩みながら交流し、互いに成長していく姿は、素直な感動をよびます。

当日は、1979 年にモンゴルに留学して以来、モンゴル研究を続けてきた小長谷有紀(国立 民族学博物館教授、NPO モンゴルパートナーシップ理事)が、映画の前に簡単な解説をさせて いただき、また映画の後にはみなさんと話をはずませたいと思います。

本企画を主催するモピの会員のみなさまにかぎらず、広く、一般の方がたのご参加もお待 ち申しあげております。

 


日 時 2014年2月7日(金)

時 間開場9時
解説 午前 9時半

上映 10時 ~ 12時(118分)

ところ 淡路東宝2(淡路駅から徒歩2分) 費 用一般2000円

学生 1000円

参考:映画公式サイト

NPOモピのサイトからもごらんいただけます。

お問い合わせ先:国立民族学博物館・小長谷研究室(直通06-6878-8274)

モンゴルパートナーシップ研究所・連絡室(075-201-6430)

 

 東京・ウランバートル3000キロメートル(23)

                                      ー 学生寮で夏休み ー

(梅村 浄)

<学生寮のスィートルーム>

2013 年 8 月、ゴビとバヤンウルギーへの旅からウランバートルに戻ってきた私と娘は、帰 国するまでの 10 日間、モンゴル大学の外国人学生寮に泊まりました。3 年前の留学当時同級 生だった K さんは今も学生寮の住人で、日本に帰国中。モンゴル出発前に彼女と新宿で飲ん だ時に相談したら、学生寮のマネジャーにメールで問い合わせてくれたのです。

ウルギー滞在中に、日本に居る K さんから「寮に入れます」と携帯メールで知らせが入り ました。しかし、16 日、マネジャーの携帯電話にかけても、なかなか通じません。K さんに メールすると、学生寮に夏休みに残って居る日本人学生の Y さんを紹介してくれました。彼 女が部屋に見に行ってくれたのですが、寮には居ないようです。窮余の策でショートメール を送ったところ、レストランで夕食中にようやく、電話がかかってきました。 「今晩、何時でもいいから来なさい。入り口のジジュール(門番)に言っておくから」 との返事。

11 時頃、友人の車で送ってもらい、入居した 102 号室は一部屋にベッドが 2 つ。トイレと 洗面所がついている 2 人部屋でした。広い窓にはカーテンがない。仕方がないのでウルギー で買ってきたスカーフを出して、ばんそうこうで窓に貼り付け、窓の内側に荷物の入ったダ ンボール箱を並べました。少しは外の道からのぞかれずに済みそうです。Yさんは翌日からテ レルジ旅行に出るからと、鍋、包丁、食器、調味料、洗濯用たらい、室内用物干まで貸して くれました。助かりました。

翌日、食材の買い出しから帰ってきたら、マネジャーのボルマーさんが戻ったところでし た。車椅子を見てジジュールを呼び、寮の入り口にある数段の階段を持ち上げるのを手伝っ てくれました。

しばらくして、トントンとノックの音が。
「車椅子では大変だろうから、112 号室に移ってはどうかしら」 ボルマーさんが向かい側の部屋に案内してくれました。ツィンのベッドルームとリビング、 オーブン付きの電気調理台に冷蔵庫、洗濯機、シャワー付きの広い部屋です。 「費用はいくらかかりますか」
「同じよ。1 人 1 日 10 ドルです。気に入ったら掃除婦を呼んで、
掃除させましょう」

応接セットと厚いカーテン付きのスィートに、それから 10 日間 ばかり住むことになりました。

色白で淡い色の髪に眼鏡をかけ、ロングスカートを纏っている ボルマーさんは、ロシア系のモンゴル人です。彼女の部屋に部屋 代を払いに行った時、ヨーロッパから来たバックパッカーとは、 流暢な英語で話していました。そ、そうでした。ここは外国人学 生寮なんですから。

間もなくウランバートルに戻って来た K さん、Y さんを部屋に 迎えて、彼等がキープしていた越の寒梅を酌み交わしなから、女 子会をして盛り上がりました。

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2013 年 8 月 23 日

モンゴル大学外国人学生寮 112 号室で (梅村浄撮影)

<ダシチョイリン寺>

学生寮のまん前に寺院があります。翌日出かける時に、のぞいてみました。鳩が沢山住み着いているところは、日本のお寺と変わりありませんが、寺の庭を歩いているお坊さんの袈裟 の色は黄色です。お堂も色鮮やかで、金色のマニ車が周りについています。マニ車の中には チベット仏教の経文が納められており 1 回廻すとお経を 1 回読んだだけの功徳があるとされ ています。私も家族の健康を祈って、一渡りマニ車を廻して歩きました。

庭で1人の女性が片手に器を持って、反対の手に持った柄杓で空高く牛乳を投げ上げてい る姿を見ました。四方に投げ上げ、ひたすら祈っている様子でした。ツァガーンサル(旧暦 の正月)の時に、年の幸を祈って四方にスー(牛乳)を撒くモンゴルの古い風習について習 ったことがあったのですが、実際に眼にしたのは初めてでした。

一つのお堂に入りました。薄暗いお堂の真正面に 10m はあろうかと思われる金色の観音菩 薩像が立っています。入り口近く右手にある木製の番台におばさんが坐っており、連れ立っ て入って来た中年男性二人組がお金を支払いました。やがて一人は白いハンチング帽を脱い で、右奥で小さな机に坐っているラマ僧の前に坐りました。何やら相談をしているようです。

左手に置かれた木のベンチには、デールを着た年配の女性と若い女性がおしゃべりしなが ら順番を待っていました。呼ばれてラマ僧の前に坐ると、短いお経が読まれました。

観音菩薩像を見上げるように距離を置いて床几が置かれています。6 歳ぐらいの女の子とバ ギーに赤ん坊をのせた白人の母親が、モンゴル人の義母らしい女性と一緒に坐りました。時 間をおいて黄色い袈裟を来た僧が入って来て、菩薩像の前に左右 3 人づつ対面して坐りまし た。僧たちの前に置かれた机に若い見習い僧が 6 人分の古ぼけた教典を運んで来ると、読経 が始まりました。

子どもたちは最初静かに坐っていましたが、赤ん 坊がむずかりだしたので、母親が抱き上げてあやし ながら歩き回りました。読経が終わると、義母は魔 法瓶にいれたお茶を僧にふるまってから、布施を包 みます。その後、赤ちゃんも含め全員が教典を順次、 頭に戴いて祈祷は終わりました。

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2013年8月25日 ダシチョイリン寺のお堂入り口

(梅村浄撮影)

ダシチョイリン寺は 1990 年 7 月 6 日に再建されたことが、正門の入り口に掲げられた看板 に記されています。

モンゴルとチベット仏教との関わりは 16 世紀まで遡ります。南モンゴル王であったアルタ ン・ハンはチベットの高僧、ソェナム・ギャツォをモンゴルに招いて、ダライ・ラマの称号 を与え、自分は施主となりモンゴル全土にチベット仏教を広めました。
 この称号が現在ま で続いているダライ・ラマ制度の始まりだったんですね。ダライというのはモンゴル語で「海」 ですし、ラマはチベット語で「師」という意味です。

20 世紀になりモンゴルが社会主義国になってからは、殆どの寺院が破壊され、多くの僧 侶が虐殺され、仏教は廃れたように見えました。
 1990 年代に社会主義から市場経済に移行 後、仏教が復活。ダシチョイリン寺もこの時期に再建されました。ウランバートルを訪れる 観光客はガンダン寺、チョイジンラマ寺を訪れることが多いのですが、ダシチョイリン寺は 住民たちが気さくに訪れる場所になっています。

<ツァム>

今回も涼と一緒に国立ドラマ劇場に行きました。夕方からなので、いつも前の広場に設置されたビアホールで軽食をつまみつつ一杯飲んでから、入場します。入り口に上がる急坂の スロープはあるのですが、劇場内のトイレに行くにはエレベーターがないので、涼は車椅子 から降りて階段を歩きます。モンゴルではバリアがある故に、足を使わなくてはならず、良 い訓練になります。

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2012年8月15日 ツァムの仮面 国立ドラマ劇場にて 梅村浄 撮影

ホーミー、オルティンドーなどの歌、馬頭琴をはじめとするモンゴル楽器の演奏、踊り、 軟体芸などが披露される中に、仮面舞であるツァムがあります。杖をもって白衣を着たひげ じいさんが狂言回しで現われて始まり、音楽とともに恐ろしい形相をした明王や動物の顔を 象った大きなかぶり物を冠って登場する一団が舞を舞います。ひげじいさんのひょうきんな 動きに笑いつつも、これは一体なんだろう?仏教以前からあるシャーマンの儀礼かなと思って観て来ました。 調べて見ると、ツァムはもともとチベット仏教のラマ僧に限り修業が許される密教の修会だったのです。(『モンゴルの仮面舞儀 礼ツァム』木村理子著)16 世紀にチベット仏教が伝来した時から、 モンゴル国内の各寺院で行われて来たものが、社会主義時代にそ の伝統が途絶えていました。1990 年市場経済に移行後、ダシチョ イリン寺が中心になってツァムを復興復元する努力を重ねて来た ことを知りました。うーん、なるほど。学生寮の真ん前にあって、 普段着でぶらりと訪れてきたこの寺で行われる真っ向勝負のツァ ム。ぜひ一度観てみたいものです。(2014.1.22)

 

  ノロヴバンザトの思い出 その45

(梶浦 靖子)

ツォグバドラハ氏のこと

モリン・ホール奏者のイシダンツァン・ツォグバドラハ氏は、1943 年ドンドゴビ県デレ ン郡に牧民の家に生まれた。買い与えられたモリン・ホールを弾いて遊ぶようになったの はわずか6才の頃だったという。遊牧の暮らしをしつつ、周囲の大人だちから演奏法を学 び、モリン・ホールの演奏で身を立てるべく十代後半で首都ウランバートルに出た。社会 主義時代には、さまざまな技芸の教室やサークルを擁する青少年クラブという施設があっ たので、そこでモリン・ホールの演奏技術の研鑚を積み、やがて国立人民歌舞団のメンバー となったという。私か出会った頃には、人民歌舞団の伝統楽器オーケストラで首席モリン・ ホール奏者すなわちコンサートマスターとなっており、文化芸術専門学校のちの文化芸術 大学でモリン・ホールのクラスで教えるようになっていた。

人の好さげな顔立ちにやや小柄な外見で、スーツを着てブーツを履いた姿は、どこか日 本の田舎の校長先生といった風情だった。

私がノロヴバンザドのクラスにお邪魔するようになった当初は、うさん臭げに私を見る ばかりでほとんど囗も聞いてくれなかった。足しげく通って半年以上たってからようやく 気を許してくれるようになったものである。

歌舞団の楽器奏者はみな西洋音楽の理論を学んでおり、各自の楽器で西洋曲も演奏でき る。ツォグ氏はそのうえピアノも巧みに弾きこなし、ノロヴバンザドのクラスでは発声練 習「オーハイ」のピアノ伴奏もしていた。オーハイのメロディーに適切な和音をつけ、即 興的な分散和音を華麗に鳴らすのだった。

プロのモリン・ホール奏者は、人民歌舞団のほかいくつかの劇場に所属する者も合わせ て、ウランバートルだけで数十名いた。そのうち名手といえる奏者のなかでも、ツォグバ ドラハ氏の腕は随一だったと私は思う。まず表現力の幅広さがすごかった。荒々しいほど に勇壮でダイナミックなフレーズから、優しく繊細な調べまで弾きこなす。何より素晴ら しいのはその音色で、甘く艶やかな響きは他の追随を許さないものだった。

モリン・ホールの独奏演目には、馬のさまざまな動きを描写したメロディー群を組み合 わせたものがあり、「モリニイ・ヤヴダル(馬の動作)」と総称される。そうした曲やオ ルティン・ドーのメロディーを独奏する際は、自身の技術をいかんなく発揮し、聴く者を 魅了した。

CD『モンゴルの歌声』(ビクター)にツォグバドラハ氏の演奏が収録されている。特に 「ジョノン・ハリン・ヤヴダル~ジョロー・モリニイ・ヤヴダル」という曲目では、氏の 超絶技巧が堪能できる。音色の美しさ、表現の豊かさは実に素晴らしい。さらに驚くのは、 モリン・ホールは二本弦であるから一度に二つの音程しか鳴らせないはずが、氏の演奏で

はまるで一度に三つか四つの音が同時になっているかのように聞こえるのだ。素早く流麗 な運指と弓さばきのなせる技なのだろう。

それがオルティン・ドーの伴奏になると、一転して歌い手を盛り立てる補佐役となる。 歌声をよくと聞き取り、それにしっかり合わせて演奏する。装飾音は最小限にとどめて、 ひたすら歌い手に寄り添い支えるような伴奏をしたものだ。

オルティン・ドーの場合、歌とモリン・ホールとの関係は、間違いなく前者が主で後者 が従だ。歌い手自身が指揮者となって、旋律を自分の思い描く通りに決然として歌わなけ ればならない。むしろモリン・ホールの音を聴き過ぎて気を取られると、演奏の全体がガ タガタになってしまうのだ。それはまるで馬とその乗り手のようでもある。乗り手がしっ かりしなければ馬はあらぬ方向に走り、乗り手を振り落とすこともある。オルティン・ドー とは、歌い手がモリン・ホールという馬の楽器を上手に従え、乗りこなす歌なのかもしれ ない。西洋音楽では歌い手と伴奏者(ピアノ一台でも、オーケストラでも)とは、相手の 音をよく聞き取り、互いに呼吸を合わせなければならない。その点は実に対照的だ。

ところが、ツォグ氏より年若いモリン・ホール奏者には、歌い手の声をあまり聴かず、 まるで歌い手に対抗するかのように、勝手な装飾音を入れてくる者がしばしば見られた。 歌よりも自分の演奏を目立たせたいかのようだった。そのような伴奏はオルティン・ドー を歌う側には邪魔なだけで、良い歌唱の妨げにしかならない。

ロシアの作曲家スミルノフはモリン・ホールによるオルティン・ドーの伴奏を[カノン canon 的]と評したことがある。カノンとは、西洋音楽の対位法にもとづく楽曲形式の一 つで、一つの声部の旋律を他の声部が少し間隔をあけて模倣し進んでいく。スミルノフは あくまで、オルティン・ドーの演奏で楽器が歌の旋律を追いかけるようなさまを例えて表 現したと理解すべきだろう。上記のようなモリン・ホール奏者は、オルティン・ドーの伴 奏も西洋のカノンなど対位法の曲のように演奏すべきと誤解しているのではないかと思わ れる。各声部が基本的に対等な関係で、拮抗するように奏でられる対位法の曲と、モンゴ ルのオルティン・ドーとは音楽性が異なるのだ。

ツォグ氏のような伴奏で歌うと、一人でアカペラで練習している時よりもずっと上手に 歌える。これは気のせいではなく、かたわらで聴く人にもはっきりとわかるほど違いがあ る。オルティン・ドー歌手の多くがツォグ氏に伴奏してもらうことを希望していたし、特 にノロヴバンザドはほとんど自分の専属のようにツォグ氏を伴奏者として重用していた。 オルティン・ドーの伴奏はツォグバドラハ氏のようであるべきではないかと思う。

独奏においては一人の表現者として華やかなパフォーマンスを見せて輝き、伴奏では歌 い手より一歩下がってサポート役に徹する。モリン・ホール奏者はそうあるべきではない かと思う。ツォグバドラハ氏はモリン・ホール奏者の理想的な姿を体現していたと私は思 う。

そのような素晴らしい演奏家であったツォグ氏は、1996 年、まだ五十代のうちに心臓を 患いこの世を去った。実に惜しむべきことである。氏の力量と姿勢を受け継ぐ者が、まし てや超える者がその後のモンゴルにいるのかどうか、今のところ私には確かめる術がない。

ミチン・ジリン・ソド(申年の雪害)

すっかり冬本番となり、気温は毎日マイナス30度に達した。積雪はそれほどでもない

が、あたりは一面雪で覆われ、それが昼間の日ざしで少し溶かされては凍りつく。つるつ るに凍った道を子供たちはダッと駆け出し、ツツーとすべって前進して見せる。子供だけ でなく大人も、年輩のご婦人も同じようにやる。転ぶものはほとんどいない。雪景色と工 場の煙でそこらしゅう真っ白な中、頭上には青空がかいま見える。モンゴルではクリスマ スも新年も大して祝うこともなく、淡々と年が明ける。

1992 年の景色も去年と変わりないが、社会、経済の混乱も本格化していった。商店の棚 はずっとカラカラなままで、毎日5、6軒かそれ以上の店を回っても大したものは手に入 らなくなった。日本の実家からの物資を取りに税関へ行こうとしてもバスがまったく来な くなった。仕方なく、通りすがりの車をヒッチハイクし乗せてもらう。帰りだけどうにか 一本バスが来たりした。 市民たちは協力し合い、手分けして店を回り、友人の分も買って帰るなどした。オルティン・ドーのクラスでも、生徒たちとツォグバドラハ氏はどこの店にどの製品が置いてあっ たなどと情報を交換し、何かみつけたら私の分も買っておいてと約束し合っていた。私に 者を売り込んできた生徒もいた。果実のエキスのびん詰を「とても体に良い飲み物だから あなたに特別安く、100 ドルで売ってあげよう」というのだが、同じ品が数十トゥグルク で売られているのを見たので断った。

留学当初から断水や停電は時おりあったが、このころにはまるで日常茶飯事のように頻 発した。断水に備えて、鍋やヤカンそして洗たく用のたらいにつねに水を入れておくよう になった。停電すると料理もできず食事ができなくなるので、電気のあるうちにと、毎日 あせりながら米を炊いたり煮炊きするようになった。

水は出てもお湯がでなくなることがあるので、今のうちにとあせりながらシャワーに入 るようになった。各階に一個しかないシャワー室は、もうずっと電球が切れたままだった。 換えの電球も手に入らなくなっていた。ロウソクの灯りでシャワーに入る。さらに、シャ ワー室の床のタイルは、取り替えようとして途中でやめてしまったらしく、はがされたタ イルが散らばったままだった。その中で大急ぎで髪を洗いシャワーを浴びた。どうかこの 泡を洗い流すまでお湯が止まらないように、せめて水が止まらないようにと祈りながらシャ ワーをかぶった。

発電所の燃料節約のため、地区ごとの送電を意図的に止めているともっぱらの噂だった。 ある日の夕方6時頃、寮の電気が切れた。まさに米を炊こうとしていたところだったが、 いたしかたなく部屋で布団をかぶって電気が来るのを待つことにした。あたりはもう暗く 本を読むこともできないのだ。普通なら 1 時間ほどで電気は復旧するのだが、この日はな かなかもどらなかった。2時間、3時間過ぎてもまったく電気は来ない。どうなっている のかと不安になり、苛立ったがどうすることもできない。苦情を言い立てるルートもない。 もうすぐ4時間たとうとしている。ふと窓の外を見ると、となりのアパート(数+メート ル離れているが)は電気が着いている。さっきまで同じように停電していたのに、なぜこ ちらはもどらないのか。どういうことだ!?と叫んでも、発電所には届かない。布団をか ぶってじっとしているほかなかった。

結局、停電は4時間半におよび、ようやく米が炊けて夕食を食べられたのは夜中の 11 時 だった。

モンゴルでは中の年にソド(雪害)が多いとされる。ミチン・ジリン・ソドなどという 言葉もある。「申年の雪害」という意味だ。奇しくもこの年 1992 年は申年にあたり、その 言葉通りになった。テレビのニュースでは、例年以上に寒く地方は大雪に見舞われたこと、 雪で地面の枯れ草を食べられず、家畜が次々と死んでいったことなどが連日報道されてい た。そして経済の状況はさらに悪くなっていった。みな大変そうではあったが、人々が荒 れて騒ぐ様子は見られなかった。不安かーがった泣き顔の人も目につかず、誰もができる限 りのことを淡々とやっている風だった。

商品が何もなくなった店の中では、たたんだダンボールの上に若い男性が寝そべってい た。買い物に来たが何もなく、帰るのも癪なので品物が来るのをここで寝て待っているら しかった。何時間も何日も何も来ないかと思うと、突然あらしのようにトラックが荷を積 んでやってくることがある。それを待っているのだろう。眉間にしわを寄せて目を閉じ、 唇を固く結んだ男性の表情は、何かめぼしい物を手に入れるまではここを動かないぞと決 意しているようだった。

中国大使館は昔の中国の城を思わせる造りの大きな建物である。そのまわりをビザを求 めるモンゴル人の行列が取り囲んだ。国が何とかしてくれるのを待たず、自分の手で物資 を手に入れようと中国に向かうようになった。家畜の毛皮など畜産品をかついで中国で売 りさばき、商品に換えるのだ。

道を行く誰もがとてもたくましく見えた。しかしこの状態がいつ終わるのか、いつ経済 は好転するのか誰もわからなかった。私はもうすぐ留学を終えて日本に戻る。そうすれば

この状態とも離れられる。しかし彼らはどうするのか。これから先も同じようにたくまし くいられるのか。もっと楽に暮らせる日は来るのか。暗澹たる思いがした。見上げた灰色 の空に雪がちらついていた。

 (つづく)

日本映画「蒼き狼」に対するモンゴルでの評判(連載)

小長谷有紀(国立民族学博物館)

はじめに

角川映画として日本で上映された「蒼き狼」は、日本とモンゴルの合作であると謳われて いた。ただし、その合作のあり方をめぐって日本では法的手続きに則り、現在、係争中であ る。諸新聞の報道によれば、2007 年 2 月 28 日、角川事務所が著作権を侵害したとして東京地 裁に提訴された。

そもそも本映画は、チンギス・ハーンによる建国 800 周年記念となる 2006 年(日本におけ るモンゴル年)や、日本モンゴル外交関係樹立 35 周年記念となる 2007 年(モンゴルにおけ る日本年)をめざして、日本とモンゴルの合作映画として企画されていた。資金繰りが不調 であったところ、角川春樹事務所が資金調達を請負うこととなり、その後はそれまでの両国 関係者の意向がまったく無視されて角川春樹事務所の企画として実現された、と言う。こう した経緯に対して、当初の日本人企画者側が司法に訴えるという事態に至っているのである。

また、モンゴルでも当初の企画においてチンギス・ハーンを演じることになっていたモン ゴル人俳優ソソルパラム氏による批判などが見られた。その後、映画が完成するに及んで、 一般上映されると、映画の内容そのものに対する批判が相次いだ。その後は、批判も沈静化 し、現時点では、社会主義時代に長い閧モンゴルでは禁じられていたチンギス・ハーンにつ いて、外国製であれ、その内容の如何に関わらず、知的な刺激になったことを愛でるという 世論に落ち着いている。

本稿では、本映画について、モンゴルの映画館で観たモンゴル人の感想やゴシップ紙での 批評を資料としてモンゴルでの評判を記録し、「文化の往還」としての問題点を整理しておく。

モンゴル側の合作度

たしかに、本映画は、モンゴルで撮影され、その景色はモンゴルのものである。モンゴル

人俳優としては唯一人アマルサイハッが忠実な部下ゼルメの役を演じているが、日本語で作 られた映画であるために、彼の台詞は用意されていない。モンゴル側にもニャムダワーとい う監督がいる。本映画のほとんどを占める戦闘シーンは、大量の騎馬兵の迫力と技術によっ て成立しており、それらはすべてモンゴル人エキストラによって生み出されている。さらに、 モンゴル政府から6億 9800 万トゥグルク(約 7000 万円)が拠出されている。

本映画の宣伝によれば、総製作費 30 億円とあるから。この金額に基づいて金額面のみで算 出すると、モンゴル側からの合作度はさしずめ 2.5%であると言えるであろう。 モンゴル側での評判

モンゴルにおける日本語新聞「モンゴル通信」102 号(3 月 10 日付)によれば、チンギス・ ハーンの母親役の演技に対する評価や、戦闘シーツの撮影技術などに対して一定の評価が得 られている。しかし、モンゴルでは巷での酷評を利用してトーク番組が放映され、また「日本 人たちがチンギス・ハーンについてとても酷い、お笑い映画を作った」という記事(エルデブ ヤブダル紙 2007 年第5号)にもなっている。実際、映画館から出てきた女性は「ああ、笑え るものを見た」と同行の男性につぶやいていた。

また一部の行動的な人びとは、モンゴルの歴史と文化をゆがめた作品であることを理由に、 即刻、世界中での上映を中止し、撮影のための拠出された税金の還付を日本側に求めるとい う内容の手紙を在モンゴル日本大使館、モンゴル大統領およびモンゴル首相に対して送った、 という声明をテレビで発表し、さらに新聞でも意見書が公開された(フムース紙 2007 年3月号)。 本映画とほぼ同時期に企画されていた、もう1つのチンギス・ハーン映画(浅野忠信主演、

セルゲイ・ボトロプ監督「モンゴル」2007)については、ロシア人による脚本にモンゴル人が 大いに反対し、その撮影がモンゴル国では許可されなかったと噂されている経緯もあるため、 その映画と比較しつつ、「偉大な歴史をゆがめる権利は誰にもない」という見出しの記事も見 受けられる(ソーニーメデー紙 2007 年3月 16 日)。

これほどの酷評と過激な反応はなぜ起きているのだろうか。これほどまでにモンゴル人を 憤慨させるのはなぜだろうか。本映画はチンギス・ハーンを批判するためではなく、賞賛する 意図をもってもっぱら日本人が製作したものであり、モンゴルの歴史に対する賛美こそあれ、 モンゴルの文化に対する軽蔑はなかったはずである。にもかかわらず、モンゴル人が違和感 どころか、侮辱や怒りさえ感じるのはなぜなのだろうか。

いくつかの次元に分けて解読を試みる。

(つづく)

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編集後記

2014年最初の編集になります145号です。今回から小長谷先生のレポートの連載が始まりま す。みなさま楽しみにお待ちください。

1ページ目に案内しています映画会、モピ会員以外の人であっても参加できます。当日ご都合がわるく不参加であっても、周りの方々に呼びかけていただければありがたいです。よろしくお願申し上げます。

(事務局 斉藤生々)

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