■NO 146号 モピ通信

■NO 146号           2014年3月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

 

 東京・ウランバートル3000キロメートル(24)

 ノロヴバンザトの思い出 その46

 日本映画「蒼き狼」に対するモンゴルでの評判(2)

 摂南大学PBLプロジェクト最終報告会に参加して

 MoPI総会のご案内

 

 

 東京・ウランバートル3000キロメートル(24)

 — モンゴル岩塩・スーホの始まりー

(梅村 浄)

<オブス湖とダウスト山の塩>

「お土産に何を買おうかな?」

「そりゃあ、ノーリンダウス(湖塩)でしょう。オブス湖の塩は一級品よ」

と買い物につきあってくれたオドノーさんのお母さんが即答。私は店の棚から小袋に詰めた 塩を 10 個ばかり取って、カゴに入れました。2010 年の 12 月、留学中だった私が正月に一時 帰国する前のことです。

オドノーさんは日本語通訳として、2010 年夏に東モンゴルを一緒に旅した時からの知り合 いで、留学中には毎週、私のアパートでモンゴル語の家庭教師をしていました。お母さんに は、ボーズの作り方を教えてもらい、妹のオユナーさんとは、学生と一緒にシャガイのゲー ムで大盛り上がりしたこともあります。

2012 年の春、我が家にウランバートルからオドノーさん姉妹が泊まりに来た時、袋に入っ た大きいものを手渡されました。

「お土産ありがとう。重かったでしょう。これは?」

「岩塩よ」

ほのかにピンク色に光る白い岩の塊です。

「どうやって食べればいいの?」

金づちを持って来てと言われて、道具箱から金づちを取って来ると、オドノーさんは袋に入れた塊を力いっぱい叩き始めました。そう、彼女は「モンゴル暮しに必要なことは何でも任せなさい」と頼りがいのあるモンゴル女なのです。

店で買った塩のように細かくすることはできませんでしたが、小瓶に入れたカケラはほん のりピンクの光を集めて、その後、親戚や友人達のキッチンに配られて行きました。

世界の塩の 3 分の 2 は岩塩ですが、日本には鉱脈がないため海水から作ります。

岩塩は 5 億年から 200 万年前、海の一部が大陸の移動や地殻変動で陸地に閉じ込められ、海水の湖と なったものが干上がって塩分が結晶となり、その上に土砂が堆積してできたと考えられてい ます。

モンゴルにはいくつか塩湖があります。オブス湖はモンゴル最大の塩湖です。

周りにある 岩塩層の塩分がこの湖に流れ込んで、濃い塩水になっているのです。

お母さんがお土産に勧 めてくれたノーリンダウス(湖塩)は、この湖からとれます。

グーグルの地図でオブス湖の北を見て行くとロシア国境をまたいで、

岩塩でできたダウスト山があります。地図を拡大すると、茶色の大地にいくつもの四角い凹みがみえます。露天掘りで岩塩を採掘しているのでしょう。

スクリーンショット 2014-02-26 15.30.51

国立民族学博物館調査報告にモンゴル人政治家インタビューをまとめられた小長谷有紀さ んが、ツェデンバルの弟アヨーシの故郷がオブス県であることを思い出して、その資料を紹 介して下さいました。ツェデンバルは 1940 年から 40 年間以上モンゴル人民共和国の人民革 命党書記長を勤めた社会主義時代の政治家です。

そのインタビューには 1926 年にオブス県ダウスト郡に生まれたアヨーシが、子ども時代の ことを語っている部分があります。 「わが家は春には少し山を登ったところの春営地に宿営し、穀物を植え、そして夏営地に移 動しました。時にはオブス湖畔に春営することもありました」 「わが故郷の山々には塩が豊富です。ジャムツ・ダウスという岩塩です。とくに塩の多い「ダ ウスト・オール(塩の山)」という美しい山があります。1966 年にモンゴルとソビエトの政府 が国境についての条約を結びました。この条約によって、その山の一部がソ連領になってし まったのです。山のこちら側がモンゴル領として残りました。ロシア人は自国領土となった 部分から塩を採るようになりました。わが国でも、以前と同様に自国領土の部分から塩を採 っています」 「少し地面を掘って斧でたたくと、大きな四角形の塩が採れるのです。わが家ではこうして 採った塩を 1 年まるまる使っていたのですよ。とても良質な塩でした」 当時も今も、岩塩は変わらずそこにあるようです。

なおオブス湖とその周辺地域は、2003 年にユネスコの世界遺産に登録されました。

<モンゴル岩塩・スーホの始まり>

オドノーさんからもらった岩塩を砕いたカケラは、スープに入れれば自然に溶けて使えま すが、炒め物や焼き魚には使いづらい。知人にわけてあげる岩塩がなく なったので、2013 年の春、モピの事務局の斎藤生々さんに頼んで粉末状の岩塩を送ってもらいました。 その時ふと、これを娘の涼と一緒に販売したらどうかと思い立ちました。

彼女は 2012 年夏にモピが行った黒板を贈る旅に参加して、すっか りモンゴル好きになっていたので「うん、やろう」と 話がまとまりました。イラストレーターの友人にカー ドを作成してもらい、その後、斎藤生々さんにお願い して、印を刻してもらいました。

スクリーンショット 2014-02-26 15.07.12スクリーンショット 2014-02-26 15.07.19

 

 

 

 

 

(スーホのカードと印 梅村浄 2014 年 2 月 21 日撮影)

 

しかし、まてよ。地球上では 1945 年から 1998 年までに 2053 回もの核実験が行われ、旧ソ 連は 715 回、中国が 45 回核実験を行いました。ロシアと中国に囲まれた内陸国であるモンゴル国で採掘される岩塩には2カ国の核実験の放射能がふりかかってはいまいかと心配になりました。

先日、大分県産の干し椎茸を測ったところ、核実験あるいはチェルノブイリ由来と思われる セシウムが検出されました。私たちは福島第一原発の爆発以前から、実は持続的に被ばくし 続けていたことを改めて確認しました。

関西にある会社から 1l (=1.4Kg になりました)の粉末状岩塩を取り寄せて、あるびれお 市民放射能測定所でセシウム値を測ってみました。設置しているヨウ化ナトリウムシンチレ ーションカウンターでは、セシウムは全く検出されませんでした。販売は OK です。

2011 年 5 月に日米・モンゴルの間で、日米がモンゴルのウランを輸入する見返りとして、 モンゴルに核プラントを輸出し、自国の核のゴミ捨て場を作る包括的燃料供給交渉が進めら れていることが報道されました。福島第一原発の爆発を受けて、モンゴル大統領はこのプロ ジェクトの中止を表明しましたが、核開発がモンゴル国のエネルギー計画から下ろされた訳 ではありません。

モピはモンゴル人に核の危険性を伝えるために、モンゴルの新聞に意見広告を出す運動をしてきました。

東京で行われる反原発デモの参加者に日米モンゴル間の包括的燃料供給構想はなくなっていないことを訴えて、岩塩を買ってもらい、その一部をカンパしようということにしました。

<スーホの売り上げ>

主旨に賛成だからカンパしておこう、岩塩は日本になくて珍しいから、と言っても、食べ ものですから美味しくなくては売り上げにつながりません。 関西にある会社は、ダウスト山で採掘されたジャムツダウスを輸入、製品化して販売して います。取引先のモンゴルの会社は日本の保健所の食品衛生法の基準に従って、岩塩塊を砕 いて粉末状、粒状、大・中・小の塊にし、袋詰めの時に不純物を取り除いて輸出している。 一度、現地に行き確かめてきたので、安心して販売しているとのことでした。ジャムツダウスは3億5千万年前に火山の爆発が加わってできた固い岩塩です。うーん、 オドノーさんにもらったピンクの岩塩もそれに違いない。塩がべとつく要因になっているマ グネシウム(にがり)が検出されない、焼き塩の状態の塩で、鉄分、カルシウム、カリウム 等含まれています。

塩だから「甘い」というのはちぐはぐな形容詞ですが、この岩塩には精製された食塩には ない味わいがあって、生野菜にふりかけるだけでもっと食べたくなり、焼き魚の旨味をきり っとさせてくれます。知人からは自家消費だけではなく、プレゼントしたいから送って欲し いと頼まれることが増えました。

私たちが住んでいる西東京市では反原発の意思をもつ人達が集まって、4 ケ月に 1 回、デモ をやっています。人口 20 万人の市ですが、近くの区市から参加してくれる人もあり、毎回、 100 人余りが市内の各コースを歩いています。スーホの岩塩はその都度、涼が車椅子に載せて 持って行くと、すぐ売り切れるほどの人気なのですが、本年1月のデモではすっかり忘れて しまいました。「殿様商売」と笑われ、どうしても欲しい人には自宅まで、わざわざ買いに来 てもらった次第です。

(2014.2.21)

 

 ノロヴバンザトの思い出 その46

(梶浦 靖子)

 楽器の写真撮影

中年の雪害に見舞われ、留学生活残り少なくなった91年2月、手つかずにいた楽器の調 査にようやくとりかかった。もともと歌の調査が目的であったから楽器にはさほど深入り するつもりもなかったが、それにしても最低限の説明ができる程度には調べておかねばな らない。とりあえず楽器の写真だけでも撮ろうと思い、歌舞団の楽器を写真撮影できない かをモリン・ホール奏者のアリオンボルドに相談した。団長の許可を取れば大丈夫だろうということだったので、彼から団長にその旨を伝えてもらうことにした。数日後さっそく 劇場の団長室を訪ねた。団長はちょび髭を生やした五十代の男性で、劇場に通ううちに顔 は見知っていた。団長はにこにこと笑顔で、やあこんにちはと迎えてくれた。写真を撮り たいことを話すと、ああいいよという調子で、ものの2、3分で話が済んだ。モンゴルは こういう点がいいと思った。

さらにその数日後、私はカメラと寮で使っているベッドのシーツをたずさえて劇場に行っ た。シーツは楽器が見えやすいよう下に敷くのだ。アリオンボルドに付き添ってもらいな がら、劇場内で写真を撮っていった。あちこちの練習室に置いてあるお琴などを撮影した。 また、出勤して楽器の手入れや個人練習をしている楽器奏者にちょっとしたお菓子など渡 しお願いして、手に持っていた楽器をシーツを敷いた机の上に置かせてもらい撮影した。 楽器の全体像と各部分の拡大写真を撮った。

弦の本数の異なるお琴、ヤタグを数種類、西洋のコントラバスのように使われる巨大な モリン・ホール、三味線に似たシャンズ、二本の金属弦をはさみ込んだ弓で弾くホーチル、 横笛のリンベ、吹奏楽器は、アルペンホルンに似たウヘル・プレーükher büaree 、西洋の クラリネットを折り曲げたような形のエヴェル・プレーever brüee(「角笛」の意)、 楽器も撮影した。打楽器には、皮を張った太鼓類bümbür、丸い金属盤を連ねたドードラ ムduudulam などがあった。しかし撮りそびれた楽器もいくつかあった。

団長の許可を取っていたが、楽器奏者それぞれに対してはアポイント無し、突然の押し かけ撮影になった。それでも誰もがこころよく撮影させてくれた。モンゴルの人はそういっ たところがありかたいと思った。本当は演奏者一人ひとりともう少し親しくなって、てい ねいにお礼をして撮影したかったところだが、余裕がなかった。申し訳なくも、ありがた いことだった。

 

スミルノフの仕事

モンゴル国立人民歌舞団の器楽部門は、十数種のモンゴル伝統楽器から成るオーケスト ラの形をとっている。このような大編成になったのは社会主義体制になってからのようだ。 それ以前のモンゴル音楽についてはいまひとつはっきりしない。モンゴル帝国の時代、ハー ンの宮殿では大人数での楽器演奏が行われていたらしいことがうかがえる。清朝支配下の 時代は、器楽合奏があったとしてもより小規模であったろうと想像されるのみである。そ もそもモリン・ホールをはじめとする弓で弾くタイプの弦楽器は、独奏が基本である。横 笛のリンベもだ。ほか上記の吹奏楽器や打楽器類は仏教寺院由来のものと思われる。 人民革命後のモンゴルは、旧ソ連の指導のもと社会主義国として整備されてゆき、それ に合わせて伝統音楽は新しい国民音楽として再編されていった。

その指導的役割を担ったのが旧ソ違から派遣されたスミルノフだった。 B.F.スミル ノフBoris Fyedorovich SMIRNOV(1912-1971)はペテルブルグ出身のレニングラード音 楽院作曲科に学んだ作曲家で、民俗学者でもあった。 1940年、音楽教師教名とともにモン ゴルに入り、以後7年間にわたってモンゴルの音楽家たちに和声や調性など西洋音楽の理 論や五線譜の読み書き、舞台での演奏のマナーにいたるまで教え、伝統楽器によるオーケ ストラの形成を指導した。前述のエネビシによれば、当初モンゴルの音楽家たちは、メロ ディーを気分で変化させる事なく楽譜通り厳密に演奏することや、高さの異なる音を同時 に鳴らすことに大いに戸惑ったらしい。またスミルノフは作曲家としていくつかの器楽曲 や声楽曲を残しているが、二十世紀モンゴル国の作曲家B.ダムディンスレンとともに、 モンゴル国の代表的オペラである「悲しみの三つの丘Uchirutai gurvan tolgoi』を共同 で作曲もしている。

かつては革張りであったモリン・ホールの共鳴胴の正面(共鳴版)が木版に変えられた のも、おそらくこの頃であったと思われる。共鳴版には西洋のバイオリンやチェロと同じ ようなfの形の共鳴孔が二つ開けられた。さらに共鳴箱の内部には、前後の共鳴版を支え る「魂柱(こんちゅう)」にあたる小さな突っ張り棒が取りつけられた。

モンゴル人はそれについて「スミルノフがそうした」と言う。ただモリン・ホールの改変についてスミルノフは特に言及しておらず、著書で紹介しているモリン・ホールの写真 の多くは革張りである。モリン・ホールの改変が具体的にいつどのように進められたか、 スミルノフが実際どの程度かかわったか詳細は明らかではないが、彼の存在がその契機に なったことは間違いないと思われる。

また、モリン・ホールの調弦もこの頃、現在のように変えられたらしい。現在のモリン・ ホールの弦2本は、正面から見て左側の弦がF(ファ)で右側がそれより高いB(シ♭) で、完全四度に調弦される。しかしかつては完全五度の調弦で、しかも左右の弦の高低が 逆であったらしい。ツォグバドラハ氏も幼いころ学んだのはまさに後者の調弦のモリン・ ホールだったという。長じてウランバートルに来てから完全四度で調弦が逆のモリン・ホー ルを弾かねばならなくなり大麦だったそうだ。なぜそのように調弦が違ったのかと尋ねる とやはり「スミルノフがそうしたんだろう」ということだった。

さらに、前述のエヴェル・プレーなどはこの頃、西洋のホルンを参考にして作られ、伝 統楽器オーケストラに加えられたらしい。

楽器や調弦の改変について細かないきさつがつかみにくくなっているのは、単に記録を 残すことに意味を見出さなかったのか、あるいはそれなりの事情などあったのか。いずれ にしろさらなる調査、情報の整理を要するところだ。わずか七十年ほど前のことであるの に、スミルノフの存在と業績はまるで「言い伝え」か何かのようになっている。

 

(つづく)

 日本映画「蒼き狼」に対するモンゴルでの評判(2)

小長谷有紀(国立民族学博物館)

 作品としての稚拙さ

社会主義時代にロシア映画によって映画鑑賞力を身につけてきたモンゴル人にとって、本 作品は学生の練習作品程度にしか見えないレベルの作品にすぎない。

上映中、不自然な演技に対してはどっと笑いがうずまく。その様子はまるで学芸会を思わ せる。学芸会程度であるならば、チンギス・ハーンの名前を使うことはない。「日本モンゴル 合同練習作品とでも銘打ち、チンギス・ハーンの名を使うべきではない亅という感想をもら す人もいる。チンギス・ハーンの名前を単に商業的に利用しているにとどまらず、名称が商品 の実態にそぐわないのであるから悪徳利用に類していると言われても仕方があるまい。上映 中、途中退席する人もいる。すなわち、映画あるいは芝居としてそもそも語るべきものでは なく、批評に値しない。

実際のところ、モンゴルでも作家、芸術家、学者たちが大手新聞に本映剔の批評を寄稿す ることはない。けれども、この映画鑑賞を通じて浮かび上がる、文学的テーマの成り立ちを めぐる文化的齟齬について記しておくことは「文化の往還」を考えるうえでふさわしいであ ろう。

 (モンゴル文化に対する無配慮さ)

書籍や脚本のように文字で書かれたものなら、書かれていることだけをチェックすればよ いだろうけれども、映画の場合は、プロットとは別に多様な情報が発せられてしまう。

モンゴル人なら決してそんなふうにハーンがふるまうとは思えないポーズを、反町隆史演 ずる日本人チンギス・ハーンはしてしまっている。たとえば、腕組みというのは、音楽を試聴 してチェックするなどの現代人の作業用のしぐさであって、王が王座に着いているときにす るような態度としてはありえない。

また、ハーンの位を得て人びとが感涙するという重要なシーンで、上段に座している日本 人チンギス・ハーンの衣装は、下段から股座が覗いて見えるほど短い。このような衣装は王 位にふさわしいものではない。このように、身体感覚をめぐる微妙な、しかし重大な差異が あり、モンゴル人のコードに抵触しているのである。撮影現場にはモンゴル人監督やスタッフ も同行していたので、こうした問題は本来なら、関係者の配慮によって回避できるはずであった。しかし、そうした指摘はことごとく撮影現場で無視されたらしい。 そもそも、日本人俳優の乗馬姿は、モンゴル人の目から見ると馬に乗せられている風情で あって、馬を操っている様子とは認められない。日本人にとっては十分に乗馬しているよう に見えるかもしれないが、モンゴル人から見れば馬に乗れない人であることが見てとれると いう差異は致命的に大きい。スタントマンを利用しさえすれば実現可能であったはずのリア

リティがそこにはない。映画上のリアリティとは作り込むことによって実現するのであって、 そのまま撮るナチュラリズムと、細部の作り込みによって生ずるリアリズムとはそもそも異 なるという単純な制作上のミスを犯しているように思われる。

また、テムジン(チンギス・ハーンの幼名)が乗っている馬はおとなしく、太っていて、 走らない、老いた馬であることがスクリーン上で遠くからでも目視されるため、モンゴル人 の目には「羊の馬」(羊群放牧用の馬)に見える。すなわち、子どもが放牧の手伝いに出かけ てゆく姿として日本人チンギス・ハーンは映るのである。さらに、馬たちはどれも首を縦に 振ってハエを追い払っているので、とても戦闘に出て疲弊している駿馬ではないことが看取 される。馬について詳細な知識をもっている人びとの目にとても適うものではないと言えよ う。

日本語の台詞がモンゴル人の笑いを誘う場面もある。ボオルチという登場人物がいて、テ ムジンは大声でこの名を呼ぶ。しかし、この名の本来の意味が「奴隷」という意味であるの で、「わが奴隷君!」とあまりにも明るく親しげに呼んでいるのが、モンゴル人としてはお笑 いとして受け止められている。オリジナルな『元朝秘史』では、テムジンに一生仕えるよう に父から指示されるという人物であるために、この固有名が文脈と違和感がなかったという 点は、日本の作品では考慮されてこなかった。

また、ハーンの位を正式に得るまでのあいだ、すなわち映画のほとんどの時間、テムジンは 身内の人びとから「族長」と呼ばれている。この「ゾクチョー」という音はモンゴル語では 「わがゾークチ(運ぶ人)」すなわちレストランで働くウェイターの職に就いている、親密な 人を意味する。したがって日本人チンギス・ハーンが人びとから尊敬のまなざしを注がれる シーンがすべて笑いの場面に転化する。

上映中にモンゴル人たちが笑う意味を一つ一つ分析すると、まさに異文化「誤解」が明ら かになる。たとえば、日本映画「蒼き狼」では松方弘樹演ずるトオリル・ハーンがテムジン からクロテンの毛皮のコートをもらう場面で、松方は大いに喜んで「おお、どこから得た?」 と尋ねるシーンがある。その大仰に喜んで見せる仕草が笑いを誘っているという一面もある ものの、さらに「どこで得た?」という質問は字幕上「どこで買った?」というモンゴル語 会話となる。これは現在、交換市場で見られる一般人の表現であるために笑いの対象となっ ている。

また、毛皮のコートがもつ文化的文脈が異なるという見解をもつモンゴル人研究者もいる。 日本人にとって高価そうに見えるクロテンの総毛皮コートは、現代モンゴル人が理解すると ころの当時のモンゴル人の衣装としては決して上等なものではなく、地方に行けば、そして 昔ならば、たいてい狩人がいて、貧富にかかわらず、どこにでもあるものだった、と了解し ており、テムジンが父の友人であった王にクロテンを貢ぐのは、決して上等なものだからと いう理由だけではなく、むしろ苦しかった昔を思い出して欲しいと・いう記号として使用され た、というのである。そのような文化的コンテクストを無視して脱文脈化されているために、 なおいっそうの笑いが生じているらしい。

このように、モンゴル人に見られることを想定しているのならば避ける必要があっただろ う問題箇所が多々認められる。合作と銘打つ以上、観客としてのモンゴル人が想定されてい たはずであり、配慮が不足しているのは否めない。

ちなみに、「蒼き狼」の「あお」は灰色の意味であるが、灰色のなんらかの斑点あるいは模 様のある毛色を指していただろうと思われる。しかしながら、モンゴル語字幕では原語で示 されるために、誤訳かどうかという正確さが問題視されることはない。言葉の訳はむしろ問 題ではないことも興昧深い。

 

 摂南大学PBLプロジェクト最終報告会に参加して

(村上 雅彦)

1月25日(土)「摂南大学 PBL プロジェクト最終報告会」に外部審査員として参加しました ので、下記報告します。(摂南大学は、大阪府寝屋川市在、学長今井光則博士の総合大学)


1.PBL とは、問題解決型学習法(Problem-Based Learning) 又は プロジェクト達成型学習法(Project- Based Learning )と理解されている。 摂南大学では教育の最重要課題として、毎年4月から学生達が自主的に PBL プロジェク トを立ち上げその成果を発表している。

2.昨年度(平成24年)のプロジェクトはつぎの14プロジェクトを279名の学生が立 ち上げその成果を発表された。

(551教室での発表)

(1) 寝屋川市における環境学習支援と淀川水系を中心とした流域連携プロジェクト

(2) ミニ鉄道プロジェクト

(3) 紙芝居ボランティアを通した社会貢献

(4) 地域を知り、地域を調べ、地域を変えていく

(5) ピース・ツーリズムー学生が企画する学生対象の平和学習旅行プラン

(6) モンゴルにおける国際協力プロジェクト

(7) ミュージカルをしよう-摂津大生と市民で作るミュ-ジカル・プロジェクト

(552教室での発表)

(1) 居住空間リノベーションの温熱環境アセスメント

(2) 過疎地域におけるグリーンエネルギー活用プロジェクト

(3) すさみ町における津波避難対策プロジェクト2013

(4) すさみ町における過疎地域活性支援プロジェクト

(5) 子供株式会社の設立と運営

(6) 都市と地方を結ぶツーリズム

(7) 交野市の活性化プロジェクト

 

3.上記プロジェクトで相談された関係市町村、寝屋川市立桜小学校長、北大阪商工会議所 他の関係者に加え、モピを代表して私が外部評価者として参加しました。 時間の関係もあり両教室での発表には参加できず、(株)各プロジェクトの内551教室で の発表のみ参加して、モンゴルに関してコメントしました。

4.モンゴルの発表ではモピ事務局の斉藤さんとの面談にて聴取したモンゴル文化習慣、子 どもの教育等、更に、大阪のモンゴル料理店、モンゴル領事館などより情報収集した内 容を発表し、プロジェクトとして(1)紙芝居を利用する小学生対象の環境教育(2)ゲル地 域対象のごみ処理対策の2案を提案されていた。

5.モンゴルのプロジェクトを立ち上げたのが経済学部二回生が中心となり、指導助言をさ れているのが内田教授でした。同教授は、今年3月にモンゴル訪問予定されています。 私より、ウランバートルにある、モンゴル・日本人材開発センターに是非訪問されては と話したところ、既にアポイント取られているとの事でした。

最後に、今回の報告会に参加した感想は、学生たちが自主的に企画立案したプロジェクトを地域の住民(主に子供)、行政(市町村)の関係者、民間企業、NPO 等と協働して作り上げ、 しかも、昨年4月より約10ヶ月間、通常の授業も受けて、恐らく夏休みも返上して、上述 14PBL プロジェクトを纏め、短い時間(各チーム15分程度)でパワーポイントを使い発表 されたこと、更に、既に地域住民に貢献しているプロジェクトも有り、今後貢献する可能性 のあるプロジェクトも多数あり感銘を受けた。

尚、発表された14プロジェクトのパワーポイント原稿はモピ事務局に保管していますので、 興味のプロジェクトが有りましたら、閲覧して下さい。

スクリーンショット 2014-02-26 15.24.51

 

 MoPI総会のご案内

 

平成26年3月29日(土) 午後3時から

場所 MoPI 事務局(京都府長岡京市開田 3-4-35)

25年度事業報告/決算報告 26年度事業計画/予算案 その他

お忙しいことと存じますが、ご出席くださいますようお願い申し上げます。

委任状を添付いたしますので、

出欠のお返事を3月28日までに届くよう返信してください。

よろしくお願い申し上げます。

(事務局 斉藤生々)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

連絡室
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

本部
〒565-8511 大阪府吹田市千里万博公園10-1

国立民族学博物館小長谷研究室内

tel:06-6876-2151(代表)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

カテゴリー: モピ通信 パーマリンク