■NO 152号 2014年10月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
草原の町、チョイルにて
ノロヴバンザトの思い出 その52
現在日本文学におけるチンギス・ハーンの利用(4)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
モピ参加のイベントを紹介します
編集後記
草原の町、チョイルにて
―黒板の学校を訪ねて ―2014年9月
(瀬戸岡文子)
知りあいのデーギー(バトデルゲル・横浜市在住)から「ぜひチョイルの私の家を訪ねて ください」と前からお誘いをいただきながら、昨年は夫の健康問題などがあってモンゴルに 行くことはできませんでした。 が、念願かなって今年はこの9月に5泊という短い日程で したが、モンゴルを訪れる機会を作ることができてたいへん幸せでした。
今回の旅の目的の一つは、チョイルにある黒板を届けていただいた学校を訪問し、子ども たちに会うことでした。私は2003年から MoPI をとおして毎年1~2枚の黒板を届けてい ただいているのですが、最近はモンゴル人留学生などの知りあいもふえてきて、「私のふるさ との学校にもぜひ・・・」とたのまれることも多くなってきました。 ちょうど10年前(2004 年)にモンゴルの旅で知りあった川崎さんも、その後 MoPI の黒板の活 動に参加されるようになって、私たち 2 人の黒板はこのところ 2 枚セットにして一緒に同じ 場所に届けていただくようになりました。
2002 年から始められたMoPIの黒板のプロジェクトは、現地スタッフ・ムーギーさんた ちご一家、ドライバーさんたちの尽力でモンゴル全国の 600 の学校に 2 枚ずつという当初の 目標をこえて、今年 1 月には 1534 枚(通信No144)にまで達したそうです。とてもすごい ことです。が、このところ目標が達成され、とりたてての宣伝が少ないためか、届けられる 黒板の数がどんどん少なくなっているようで、川崎さんと私はとても残念に思っています。 小長谷先生のいう、《私たちはモンゴルの未来を担う地方の子どもたちを応援していますよ》 というメッセージ”は今でもとても意味深いものがあるのではないかと思うのですが・・・。
ここ数年はモンゴルでもガソリン代が高騰し輸送費がとてもきびしいと以前からお聞きし ているので、私たちは MoPI で用意していただいた黒板を、相手方にうけとりに行ってもらう ことにしています。で、今回もウランバートルに住むデーギーのお姉さんが、美代子さんと 何度か連絡をとって、チョイルの学校まで黒板を運び、新学期に間にあうようにと届けてく ださいました。はじめはデーギーたち3人兄弟の出身校(ゴビスンベルソムの 1 番学校)に 2 枚と考えたのですが、デーギーの希望もあって町にある 2 つの学校に 1 枚ずつということに して、川崎さんと私の連名でお願いすることになりました。
この夏、1 番学校では夏休みの校舎改修工事が9月の新学年に間にあわず、
しばらくは 2番学校の教室を間借りしての授業が午後から行われていると聞いたのは、8月末でした。私 たちは短い滞在のため、学校訪問の時間が午前中しかとれなかったので、午前中に 2 つの学 校を訪問する予定でいました。 けれど訪問が午後までになればとても時間がたりなくなり そうです。それで急きょデーギーのお母さんが連絡をとってくれて、1 番学校の生徒を特別に 午前中に集めていただいて、午前中に 2 番学校のあいている教室で 1 番学校の生徒たちにも お会いする機会を作っていただくことができました。
さて訪問当日(9月8日)です。さわやかでかわいた朝の空気の中、クリーム色の校舎の 2番学校の玄関前に 1 番学校の4年生の子どもたち二十数名がもう集合していました。担任 の先生も一緒です。今回デーギーと一緒に同行してくれたデーギーの娘のニンジェーは、昨 年 6 月に来日するまでこのクラスの子どもたちと一緒に学んでいたので、久しぶりにみんな と会ってお互いにちょっとはずかしそうにしていました。
今回用意していったのは、3年 前にもスフバートルの学校で見 せた日本紹介の4枚のカラーコピーの写真。そして今回のメイン はMoPI通信(No144、149)にも紹介された、例の梅村 浄さん作の『やまんば』の紙芝居でした。
この春、東京・練馬のハワリンバヤルでも上演したものです。 今回はデーギーという強力な助っ人がいるので私が日本語、デー ギーがモンゴル語を担当し、交互に読み進めながらやってみまし
た。この7月には吉祥寺の朝市にでかけて、加藤政文さんという 紙芝居の達人に上演のコツをお聞きしていました。 ―紙芝居は1人で演じるので登場人物の声を使い分けること、読 み手は右斜めに構えて子どもたちの反応をみながら右側から場面 にあわせて緩急自在に紙を抜くことなどです。デーギーとは出発 前に 1 度、読みあわせの練習もしました。
日本語・モンゴル語の交互だったので、ほんとうの紙芝居のよう にはいかなかったかもしれませんが、子どもたちはけっこう楽しんでくれたようでした。この紙芝居はモンゴルでの子どもたちとの交流のよいツールになり ますね。梅村さんには大いに感謝です。
そして、つぎは金子みすずの『ほしとたんぽぽ』の童謡絵本(JULA 出版局、松田ヒシグス レンさん訳のモンゴル語を貼って)から、日本の小学校の教科書にもある「わたしとことり とすずと」を紹介しました。今度はニンジェーが上手になった日本語をみんなに披露して、 私がモンゴル語でやってみました。
「すずと、ことりと、それからわたし、みんなちがってみんないい。」、「・・・・ブグド・ウ ウル・ウウリーン・サイハンタイ」―私も大好きな詩です。通じたかな? じつは私もずいぶん前に、小学校で教えていたことがあるのですが、やはり教師 の経験のあるデーギーがモンゴル語でいろいろと口添えして、お ぎなってくれました。担任のルハクワスレン先生は、「いつも子 どもたちと詩を勉強しているのでこの詩もおぼえたい」と言って くれました。みすずさんのすばらしい詩を、モンゴルの多くの子 どもたちにもぜひぜひ知ってほしいと思っています。
学校には日本紹介の写真、紙芝居と絵本をプレゼントし、子どもたちには3篇のみすずの詩を日本語・モンゴル語で紹介した手作りミニ絵本とボールペン、 キャンデーを袋に入れてプレゼントしました。川崎さんが写真とプレゼントの係をしてくれ ました。
つぎは、2番学校の3年生の教室です。先ほどの子どもたちより少しおさない感じですが、 やっぱりキラキラの瞳です。ここにはたくさんの先生方も見に来ていました。 以前この学校の先生だったという年配の2人の先生まで、美しいデール姿で後ろの席に座っ ていました。ほかに学校のマネージャ―の方々、またかけつけた県の教育課(?)の担当の 方にもごあいさつしました。
後でとなりの部屋に通されましたが、その部屋は子どもた ちが休み時間に自由に遊べるモンゴルの伝統遊びの部屋で した。シャガ―、シャタル(モンゴルのチェス)、モンゴル のオニス(パズル)、ほかにも骨とシャガ―を糸で結んだパ スルのようなものがあって初めてみました。後できくとこ ろによれば“ツェツェン・ベル(賢い嫁という意味)”とい うもので、昔お嫁さんをもらいに行く時、お婿さんの父親 が作ったツェツェン・ベルをお嫁さんになる人が解いて、 解ければ結婚が許されたとか。解けなかったら??大変で すね。モンゴルのきびしい環境の中で生きぬくには、女性も賢くなければいけないという教 えなのでしょう。
私たちは、美しいモンゴル文字の書道や学校の功労者のトロフィーがかざってあるコーナ ーをとおりぬけて、大きい生徒たちの校舎の中にある校長室で、先生方と一緒にお茶をいた だきながら少しお話しました。2番学校のエルデネチメグ校長先生は、以前1番学校の先生 だった時にデーギーの弟さんの担任もされていたそうです。また授業を終えてから、中国系 アメリカ人の日本語の先生も入って来られました。
2番学校はチョイルでは一番学校よりも歴史が古く、創立75周年(現在の校舎ができて から60年)の12年制の学校で生徒数は 640 人、先生 35 人(1 番学校は生徒数 930 人、先 生 50 人)だそうです。
校長先生からは MoPI の活動についてもたずねら れました。黒板配付の表を示して、チョイルのあ るゴビスンベル県にも2006年にはMoPIの
黒板が10枚届けられていること、今はおもにウランバートルの障がい児をうけいれ ている学校に黒板が届けられているとお話ししま した。また2011年にMoPIがだした新聞の 意見広告《私たちは日本の核のゴミをモンゴルへ 捨てる計画に強く反対します》のモンゴル語版な どをおわたししました。この問題は今なお水面下 で交渉があるかもしれず、その計画がいつまた浮 上するか先行き不明のようです。私のモンゴル語はとても未熟でことば足らずでしたが、私 たちの想いがチョイルの学校の先生や子どもたちに少しでも伝わればいいなあと思いました。 デーギーが通路の上を指さしながら、「ここにとても大切なことばが書かれていますよ」と教 えてくれました。
そこには《フーヘッド・ネグ・エルデネ、フムージル・ミャンガン・エルデネ》 ―子どもは一つの宝、教育は千の宝―と書かれていました。モンゴルの人々の教育への熱い 想いです。
私たちが訪ねた 1 番学校の4年Б(ベー)組のクラスから記念にといただいたマグカップ には、チョイルの人びとが大切にしているチョイリン・ボグド山の岩に描かれた“ツガアー ン・ダリ・イへ・ボルハン(仏)”の写真、
また2番学校の先生たちが職員旅行で訪れたというフブスグル・ダライの美しい写真の額の下の方には、クリーム色の学校の校舎の写真とと もに私たち2人の名前までもが小さくプリントされていて驚きました。 そして私たちはチョイルの学校の方々の暖かい気持ちをたくさん感じながら帰途についたの でした。
ノロヴバンザトの思い出 その52
(梶浦 靖子)
青山でのコンサート
レコーディングの翌日、ノロヴバンザド一行は音楽イベント出演のため音楽事務所の人 とともに新潟へ向かった。交通費の関係で残念ながらそちらにはついて行けなかった。
一行が東京に戻り、青山で彼らのコンサートが行われた。場所は演奏用の小さな舞台の ある洒落たバー&レストランだった。4、5人が掛けられる十数個のテーブルが並ぶ店内 は上品な間接照明で照らされ、青山という場所のなせる技か、なんともセンスよく美しく 見えた。
どのテーブルも満席となった店内を、私はノロヴバンザドの手を引いて歩き舞台まで誘 導した。モリン・ホールのバトチョログンがすでに舞台で演奏の態勢で待っていた。そし てモリン・ホールがオルティン・ドーの出だしの開放弦を弾き鳴らしコンサートが始まっ た。ノロヴバンザドの歌声が店内に響き渡る。マイクも必要ないくらいの声量とまばゆく 光り輝くような歌声は、集まった聴衆を圧倒し、一曲歌い終わるや割れるんばかりの拍手 が湧き起こった。
モリン・ホールの独奏が会場を沸かせると、ホーミーのヤヴガーンがトヴショールを爪 弾きながら倍音唱法の妙技で驚かせる。伴奏メロディーをバトチョローンがモリン・ホー ルで弾き(本来はエヒルで奏でられる)、それに合わせてヤヴガーンが西モンゴルの舞踊 をユーモラスな表情をまじえて踊って見せる場面もあった。
偶然だが音楽家3人のキャラクターがそれぞれ際立ち、面白いバランスを見せていた。 華やかな歌声と絶大な貫禄、安定感で中心をなすノロヴバンザドと、クールで理知的な様 子のバトチョローン、さらに茶目っ気と愛敬のあるヤヴガーンという具合で、「いいトリ オだね」と評された。
盛況のうちに終演となり、そのまま打ち上げパーティーとなった。人々はみなモンゴル の音楽家に興味津々で話を間こうと取り囲む。いろいろな人がいた。主催者の知り合いの 企業の人。どこかの新聞か雑誌の記者という人。モンゴルの音楽家の発言に聞き耳を立て、 連れの人間に中国語で伝える人。どこかの大学の教授だという人は指揮をするようなしぐ さで私を指さし「君ィ、通訳しなさアい!」と言い渡した。そんなことをしなくとも普通 にしゃべって来てくれたらそのまま通訳するのだが。
日本の音楽家も何人か見に来ており、ノロヴバンザドらと対面した。ミュージシャンの 細野晴臣氏や清水靖晃氏もいた。もともとこのコンサートは彼らをメインとする音楽イベ ントの一環として聞かれたものだった。細野氏とノロヴバンザドとの会話を通訳したこと はとても特別な記憶として残っている。
舞台での演奏の出来映えも、会場の洗練された雰囲気や、観客とモンゴル音楽家の交流 の様子も、本当に素晴らしいものだった。レストランという小さな会場であることも、歌、 楽器のソロが基本であるモンゴル音楽の個性に合っており、むしろセンスのよさを際立た せていた。いま思い返しても、私が見たモンゴル音楽の演奏会としては最高であったかも しれない。
打ち上げのホームパーティー
その翌日だったと思うが、ラジオ局のスタジオを借り切って、マスコミ対象の演奏も行 われた。ラジオ、テレビ局や雑誌、レコード会社の人々を招き、彼らモンゴルの音楽家を 紹介するものだった。私はなりゆきで司会の人のそばで通訳など手伝うことになった。ス テージは普段はロックバンドが使っていそうな作りだった。
開演前、マイクがセッティングされノロヴバンザドらがそれぞれの位置に立ち、声や音を出しマイクチェックをした。 ノロヴバンザドはいつもの通り、歌う声に合うよう距離をおいてマイクの前に立っている。 するとスタッフの一人が駆け寄って、マイクをもっと彼女の近くに置き直した。ノロヴバ ンザドはいつも通りの距離を保つため一歩後ろに下がった。同じ人が来てまた近くに置き 直した。顔を見ると眉間にしわを寄せている。どうやら、ノロヴバンザドがマイクの使い 方を知らないものと思い込んでいるようだった。私はやむなく飛んでいって、マイクを元 の位置に戻した。この日の演奏も好評のうちに終わった。
さらにその翌日、主催者の家でホームパーティーが聞かれた。日本でのスケジュールを すべて終えての打ち上げの会である。主催の事務所の人が5、6人と、レコード会社の人 も2人ほど参加した。仕事がどれも上出来に終わったので、音楽家たちも一息ついて上機 嫌だった。ノロヴバンザドは始まりの乾杯のおり、皆がグラスを掲げる中、オルティン・ ドーを一曲歌い上げたほどだ。コンサートやレコーディングの思い出話に花が咲き、これ からも機会を見つけてぜひ一緒に仕事をしましょうと約束して会はお聞きとなった。
翌日、一行はモンゴルヘと帰っていった。事務所の人が一人だけ、関西国際空港まで送 り届けるということで同行し、私たちは東京駅の新幹線のホームで見送りとなった。十日 近くも一緒にいてすっかり慣れ親しんだため、ノロヴバンザドと通訳の女性は別れの際、 涙をこぼしていた。つられて事務所の人も涙ぐんでいた。私も、願ってもない素晴らしく も目まぐるしかった体験に軽く目まいを覚えながら、一行を見送ったのだった。
(つづく)
現代日本文学におけるチンギス・ハーンの利用
一研究翻訳が文学作品へ転換されるときー (4)
小長谷有紀(国立民族学博物館教授)
国際シンポジウム「文化資源として利用されるチンギス・ハーン」
@滋賀県立大学 080125
5.〈出生の秘密〉の応用
井上靖が『蒼き狼』で文学的主題として設定した〈出生の秘密〉はその後の作品でどのよ うに応用されるであろうか。
井上作品から 12 年後の 1972 年、チンギス・ハーンを主人公とする小説「ジンギス汗」が 楳本捨Ξによって著されるが、これは 1955 年の作品「成吉思汗」の再刊行である。いずれの 版にせよ、楳本作品ではチンギス・ハーン自身に〈出生の秘密〉は設定されていない。一方、 妻ボルテの略奪については、すでにテムジンの子を宿していたという設定にしており、その 胎児を守るために略奪した人びとの言いなりになると設定されている。この部分は、再刊時 に章夕イトルが「美女プルウテ」から「悪夢」へと変更があり、貞操感が維持されているこ とをより強調するタイトルへと変更されている。そして、夫テムジンのもとに戻って来たと きにはすでに子どもを連れており、その子はテムジンの実子であるにもかかわらず、テムジ ンには理解してもらえないので妻ボルテが母として苦悩する、というドラマがつくられてい る。
つまり、楳本作品において、『蒼き狼』の主題である〈出生の秘密〉は、チンギス・ハーン 自身には設定されず、ジュチにのみ設定されている。ただし、実際の出自に間題はなく、た だ疑われているという設定なので、(出生の疑惑)が設定されていた、と言えよう。
さらに、楳本作品の後半では、母ボルテよりもむしろジュチ自身が悩む。それが兄弟関係 や恋愛関係にまで影響を及ぼしており、また父チンギス・ハーンが悩んでいるだろうと思い やって悩む。このように楳本作品においては、〈出生の疑惑〉という主題か、兄弟や恋人との あいだに創作された会話によって、はっきりと強化されていた。ジャムカの死で終わるので、 この楳本作品は、「元朝秘史」で言うと巻8で終わっていることになる。こうした基本的な結 構は初刊で実現されているので、井上作品に先立って、ジュチに関して、〈出生の秘密〉ではなく〈出生の疑惑〉が設定されていた。 他方、神戸在住の華僑である陳の作品では興味深いことに、こうした〈出生の秘密〉であれ、〈出生の疑惑〉であれ、出生をめぐる文学的主題はまったく取り上げられていない。略奪 前に妊娠していたという立場で解説するにとどめている。
2000 年の森村作品は。楳本作品の主題であった〈出生の疑惑〉を息子ジュチにではなくチ ンギス・ハーン自身に設定して展開している。すなわち、楳本作品に見られた主題である(出 生の疑惑)という問題を、井上作品に見られた発想であるくチンギス・ハーン自身における 問題〉として接木したことになる。以下に詳細に確認しておこう。
森村作品における〈略奪、妊娠、出生〉という一連の事件は次のように設定されている。 まず、略奪された直後にホエルンは、新しく夫となるエスゲイヘの復讐を心に誓う。次に、 テムジンは略奪後1年以上経ってから生まれるので、出自上の秘密を設定させない。ただし、 毋はこの生まれたばかりの赤ん坊に新夫エスゲイヘの復讐を託す。このように、森村作品で は、実の息子が、母にとって略奪をした敵であるがゆえに実父を憎むという貌定となってい る。まさしく、エディプス・コンプレックスが設定されたのである。
森村作品では続いて、エスゲイの死後に、一家は近縁集団に見捨てられる。その理由が、 テムジンの出生に対する言いがかりであり、その結果、自ら引率する集団の中でもテムジン は出生に疑いを抱かれるようになる。
このように森村誠一は、井上靖によって発明された〈チンギス・ハーン自身における問題〉 としての〈出生の秘密〉をひとたび否定する状況に設定したうえで、再び利用することによっ て、〈出生の秘密〉ではなく、不当な〈出生の疑惑〉へと変更しているのである。
一般に、エディプス・コンプレックスとは、世界各地の神話から導かれた概念であった。 フロイトの弟子であったオフトー・ランクは「英雄誕生の神話」(原著は 1906 年)で、子ども が成長過程で囚われる観念や行動と、虚構化された物語上の英雄とが呼応することを指摘し た。世界各地の神話を渉猟してその典型を整理すると、身分の高い両親のもとで、生前から 困難が設定されており、まず誕生を警告する告知(夢、神託)があるのだが、その内容はたい てい父の危機を予告するものであるため、こめ危機を回避せんがために、父あるいは父の代 理者によって、子どもは生まれてから殺されるか捨てられるかし(たいてい箱に入れられ水に 流される)、それを動物もしくは身分の低い人間が助け、当該の子は無事に成長し、ただし紆 余曲折があり、ついに実の両親に再会し、父に復讐して名声を得る、というものである。
ところが、まったく 100%神話的創作であるわけではない『元朝秘史』では、実際に父エス ゲイが早々に毒殺されてしまうので、森村作品のように、母ホエルンに復讐心を設定し、ま たそれによって息子テムジンにエディプス・コンプレックスを設定したとしても、物語の冒 頭部で早々にコンプレックスを抱く対象そのもの(父)を失ってしまう。その喪失を埋めるか のようにして「地果て海尽きるまで」征服を続けるという筋書きになっているようである。
息子のジュチについては、『元朝秘史』の巻IIにおいて、相続の議論に際して弟チャガタイ から、父の実子ではないと謗られるが、チンギス・ハーンは差別するような人ではなかった ことが、ジュチのセリフによって強調されるようになっている。一方、井上靖の「蒼き狼」で は、チンギス・ハーンは自分自身と同じ悩みをもった男として息子のことを終生、気にかけ、 応援し続けたうえで、最後に裏切られたというシーンを演出し、さらに裏切りがデマだった というシーンも演出して、ジュチの死を悼むチンギス・ハーンを人間的に描いていた。森村 作品でもこのプロットはそのまま踏襲されている。
以上のように、チンギス・ハーン自身に対してく出生の秘密〉を設定しているのが井上作品 で、それを〈出生の疑惑〉に変更して設定しているのが森村作品である。複者を柵者と比較 しておこう。
第一に、チンギス・ハーンに設定されるのはエディプス・コンプレックスであり、しかし、 父エスゲイが毒殺されることによって消失したので、複雑な心理を抱えることなく、実力を 発揮していく。
第三に、遺言に意味を持たせて、チンギス・ハーンの死後についても多くの紙幅を割いて いる。『元朝秘史』の扱っていない時代、すなわち孫のフビライ軍が日本にやってくる元寇ま で言及して終わる。 このように、森村作品は井上作品に比べれば、〈出生の疑惑〉を文学的主題として利用しつつ も徹底することはなく、歴史解説に近い性格を帯びている。 言い換えれば、井上作品は、突出して心理ドラマと呼びうる性格を帯びていたのである。小 説として人気を博した理由が了解されよう。その主題の核心は世界的英雄チンギス・ハーン 自身に設定された(出生の秘密)にあり、それによって小説は全体として〈脛に傷を持つ男 の立身出世の物語〉となるのである。 歴史上、最大の版図を築いたなどと一般に賞賛されてきた人物に関して、意図的に傷を付す ことで身近な存在にせしめた、という点で、まさしく大衆化が果たされた、と言えよう。
2006 年に執筆が開始された堺屋作品は、本文のほかに注釈が多く、本稿でとりあげた5作 品のうちでは、最も歴史解説に腐心しているという意味で非文学的である。井上靖が文学作 品において創造した〈チンギス・ハーン自身の出生の秘密〉と、小林高四郎が翻訳書におい て歴史的事実と解説したく長男ジュチの出生の秘密〉については、第1巻の注で、「妻ポルテ の略奪」の真相は?と題しておおよそ次のようにまとめている(堺屋 2007 : 281)。
チンギス・ハーンの父が女を略奪して妻にしたという点については「史実では跡付けられ ない。情況としても嘘臭い」として退けている。すなわち、チンギス・ハーンの出生の秘密 をまったく否定している。その代わり、妻ボルテが略奪されたという点については「事実だ ろう。各史書にも書かれているし、」として受け入れている。すなわち、息子ジュチの出生の 秘密については肯定している。
第二に、同様に複雑な心理を抱えること’なく、息子ジュチについてもそれほどずっと悩む ことはない。ジュチが業務命令違反を犯しているという噂を聞いて激怒する程度である。
ただし、本文では、妻ボルテを奪還した際に生後二ヶ月の赤子を抱いていたためにチンギ ス・ハーンは一瞬、わが子ではないという疑惑を感じて悩むけれども、自分の子として育て ようとするという筋が仕立てられている(堺屋 2007 : 212-213)。妻を奪還した際に彼女が赤 子を抱いているという状況設定は、楳本作品を踏襲している。この操作によって実は妊娠時 期が前倒しされるので、自分の子である可能性が高まるから、〈出生の秘密〉ではなく〈出生 の疑惑〉を設定していることとなる。そして、この疑惑を父として否定してみせるという状 況設定は、他の作品に見られない性格設定になっている。すなわち、そんなことにくよくよ 悩まないのが英雄であるという見方が示されていることとなる。
このように、日本の5大作品は全体として、英雄をめぐる(出生の秘密)についての多様 な解釈を展開させている。こうした解釈の多様性をもたらした原因は何よりも「元朝秘史」 そのものがもつフィクション性であったろう。
6,さいごに
『元朝秘史』はそもそも史実をありのままに記載したものではないことが了解されている ので、これをどれほど正確に利用しても、あるいは正確に利用しなくても、史実かどうかを 議論するのは不適切である。また、文学である以上、創作活動であり、史実を超える力量が そもそも作者に求められている。したがって、歴史を舞台にした小説や映画の内容について、 史実かどうかを争うこと自体、不毛である。 ましてや、異文化に属するという意味での他者が、ある集団の歴史や文化を利用するときに は、なおさら誤解に基づく利用があっても当然である・と思われる。今日、街を歩いても、雑 誌をめくっても、あらゆるところで、外国から流入した現象を勝手に自己流に解釈して利用 しているという状況に満ちている。すなわち、私たち現代人の生活世界はそもそも、 異文化理解というよりもむしろく異文化誤解の複合体〉として成立していると言っても過言 ではない。史料の利用ならびに異文化の消費について、そのように理解しておいたうえで、 2007 年に8本とモンゴルの合作と謳われた角川映画『蒼き狼-地果て海尽きるまで』をさい ごにふたたび位置づけておこう。この映画は、そのタイトルに明瞭に現われているように、 井上靖の「蒼き狼」を参照した作品である。 映画「蒼き狼」では、チンギス・ハーン自身に関して〈出生の秘密〉は明示的に設定されていないが、母ホエルンをして「蒼き狼の血など要らぬ」と発言させていることからわかるよ うに、井上作品にオリジナルな「蒼き狼の血の原理」に依存している。日本人によって生み 出されて広く長く受容されてきた井上作品にもとづいているにもかかわらず、本映画は現代 日本人にあまり受容されなかった。それはなぜだろうか。すでに今日の日本人にとっては、 「出生の秘密を持った男が出世する」いう物語の展開は、受容しがたいのではないだろうか。 三浦展が「下流社会一新たな階層社会の出現」で示すように、経済格差が明確で下流に上昇 志向が見られないという現代においてはすでに、立身出世という概念が賞味期狠切れとなっ ている。と考えられる。また、映画に活劇を求めないという模本的な理由があるのかもしれ ない(渡辺 2007 : 37)。いずれにせよ、「出生の秘密を克服して出世した偉大な英雄チンギス・ ハーン」という幻想によって日本とモンゴルがつながる時代はもはや終焉を迎えているよう に思われる。
一方、モンゴルでは、社会主義時代に禁じられていたとされるチンギス・ハーンについて、 想定していなかった解釈が日本から提示されたために、当初は大きな反発が見受けられた(小 長谷 2007)。しかし、現在では世論も落ち着き、改めて自分たち自身で歴史を見直すという動 きが生まれていると言う。だとすれば、誤解の効用とも言うべき現象が生じていると、日本 人による映画化を積極的に評価することもできるだろう。
参考文献
井上靖 1959「蒼き狼」文芸春秋社
井上靖 1959「「蒼い狼」の周囲一成吉思汗を書「苦心あれこれ」『別冊文藝春秋』72 号、166-169 頁
井上靖 1961「自作「蒼き狼」について」『群像』1961 年2月号、174-180 頁
字野伸浩 2005「モンゴル帝国時代の贈与と再分配」松原正毅・小長谷有紀・楊海英編著『ユ ーラシア草原からのメッセージ』平凡社
楳本捨Ξ 1955『成吉思汗丿鱒書房
楳本捨三 1972『ジンギス汗』番町書房
岡田英弘 1986「チンギス・バーン一将に将たるの載略」集英社
大岡昇平 1961「『蒼き狼』は歴史小説か」『群像』1961 年 1 月号、217-225
頁丘英夫 2005「義経はジンギスカンになった!ター
尾崎士郎 1940 「成吉思汗」新潮社その6つの根拠 l アーパンプロ出版セン
小谷部全一郎 1924「成吉思汗八源義輊也丿冨山房
幸田露伴 1927『隹姿蛇姿』改造社(『幸田露伴全集』第 12 巻所収、1950、岩波書店
小長谷有紀 2007「日本映涵「蒼き狼」に対するモンゴルでの評判」
「文化の往還」ニ ュースレター
2.
- 小林高四郎 1940『蒙古の秘史』生活社
- 小林高四郎 1936 (訳)ウラヂミルツォフ著「チンギス・ハン傳 JH 本公論社
斎藤美奈子 1994「妊娠小説亅筑摩書房
堺屋太- 2007「世界を創った男チンギス・ハン 「絶対現在」日本経済新聞社
高木彬光 1958『成吉思汗の秘密丿光文社
陳舜臣 1997 1 チンギス・バーンの一族』朝日新聞社
土井全二郎 2006
「義経伝説をつくった男一義経ジンギスカン説を唱えた気骨の人・小 谷部全一郎伝」
那珂通世 1907 (訳注)「成吉思汗實録」大日本図書
フロイト 1957『夢判断』新潮社
三浦展 2005『下流社会一新たな階層社会の出現』
光文社
三浦雅士 2005 r 出生の秘密』講談社
- 宮脇淳子 2002「モンゴルの歴史」刀水書房
- 宮脇淳子 2006「井上靖の「蒼き狼」は歴史小説であるか、単なる英雄物語、どちらか?」 「ぺるそーな」2006 年9月号、72-75 頁
森村誠一 2000「地果て海尽きるまで一小説チンキス汗」角川書店 森村宗冬 2005『義 経伝説と日本人』平凡社
柳田泉 1942「成省思汗平話 壮年のテムジン」大鰥堂
山本健吉 1961「歴史と小説」読売新聞(夕刊)昭和 36 年1月 18 日
ロベール、マル 1975「起源の小説と小説の起源」河出書房新社
渡辺信也 2007 F 観客の欲望をつなぎとめるために一日本映画考」
「nobody」25、34-37 頁 Badamkhatan 1996 Ethnography in Mongoliath vol.3.(in Mongolian)Ulaanbaatar Bulag,U.E.”Hunting Chinggis Khan’s Skull alld Soul: Eurasian Frontiers of Hitorical , Ideological and Racial lmaginations”(unpublished manuscript) Horchabaatar.L.(拉・胡日査巴特爾)1990 「哈騰根十三家芻祭祀」(モンゴル語)
Miyawaki, J. 2006 ”The Japanese origin of the Chinggis Khan legends”, lnner
Asia,Mongolia& lnner Asia Unit, Unit University of Cambridge. Volume 8. Number
l .2006.pp.123-134.
意味深い京都の佇まいを尋ねて
モピ参加のイベント・ご案内
グローバリゼーションの先進地 シルクロードは今・・・ JICA関西
10月18日(土)13:00~ JICA関西・体育館(神戸市中央区脇浜海岸通り1-5-2)
JR灘駅から徒歩12分 阪神岩屋駅から徒歩10分
MoPIは、活動紹介の他、ミニゲル、試着、物品販売、 占いで参加します。
お近くにお住まいのみなさまの参加、ご協力ください。お願いいたします。
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2014年度 国際交流フェスティバル「千里万国博覧会」
「交流ブース出展」
H.O.M.E.千里交流拠点
10月26日(日) 10:00~ 関西大学 千里山キャンパス・100周年記念会館ホール
(大阪府吹田市山手町3-3-35) 阪急・関大前駅下車、徒歩約5分
※いろいろな国が参加する関大でのイベントにモンゴルが出ていないと声がかかりました。 今回、イベント参加者は事前に登録が必要でした。モピスタッフの他に早野直子、花瀬朋子 さんの参加協力をお願いしました。
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氷上町東地区国際交流協会設立20周年記念事業
平成26年11月2日・3日
丹波市立東小学校体育館・運動場
お知らせ
モピ会員、黒板プロジェクト発案者(と聞いています)
前川 愛さんの本が発刊されましたのでご案内いたします。
モピでは取り扱っていませんがチラシで案内していますので
各自取り寄せて購読下さいますようご案内いたします。
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