■NO 155号 モピ通信


■NO 155号
           2015年1月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

 新年のご挨拶

 ホルツ氏インタビューの連載開始にあたって

『Voice from Mongolia,2015 新年特別編』

  ノロヴバンザトの思い出

  山羊祭り

  意味深い京都の佇まいを訪ねて

  お知らせ

 

 

  新年のご挨拶

 

新年あけましておめでとうございます。

今年は羊年。ヒツジといえばモンゴルでしょう? モンゴルは日本以上に、新しい状況がうまれつつあります。だから、ぜひ、みなさんと ご一緒に、モンゴルとの新しい関係を作り出せたら、と思っています。 とまれ、今年もよろしく。

(理事 小長谷 有紀)

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あけましておめでとうございます。

2014年 さまざまな出来事がありました。半年前のことが、遠い過去のことであ るかのように感じられることさえあります。そんな中で大国の首脳が相次いでモンゴル 国を訪問したことが私には強く残っています。モンゴル国がそれだけの国際社会から注 目される存在になったというでしょう。モピが発足した当時には考えられませんでした。 世界が、モンゴル国がそして日本が大きく変貌していく中で、NPOがどうあるべきか、 よく考えるべきだと思います。モピは、幸い小長谷先生がおられます。舵取りを間違え るということはないでしょう。でも念頭にあたって、自分の頭で考えてみることも無駄 でないでしょう。

新しい年、会員の皆様にとってよい年となりますようお祈りいたします。

(理事 松本 勝博)

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新年明けましておめでとうございます。

2015年が皆様にとって、モンゴルの友人の皆様にとっても穏やかで前向きにすご すことが出来る一年でありますように。
MoPIでの出会いを楽しみにしています。

(監事 福島 規子)

 チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣

ホルツ氏インタビューの連載開始にあたって

小長谷有紀 (人間文化研究機構・理事)

これまで私たちは「社会主義的近代化」という用語を作り出し、社会主義のもとでどのよ うな近代化が実現されてきたかという実態を理解するため、政治家など政策立案担当者ある いは実施担当者に対するインタビューを実施してきました。

そのうち 2000 年代初期に実施したインタビューについてはすでに、みんぱく(国立民族学 博物館)の SER(Senri Ethnological Report)というシリーズで公開しました(SER41 号、 42 号、71 号、72 号)。ダウンロードして読むことができます。またその一部は『モンゴルの 20 世紀』(2004、中央公論新社)で一般書としても刊行しています。

これらのインタビューは、やや構成を変えながら英訳も刊行してきました(SER96

号、107 号)。逐語訳ではありませんが、英訳されることによって、世界中で多くの読者を 得ることができるようになりました。

このたび、9 月 10 日付けで、これまで英訳されていなかった最後の 3 点が刊行されました (SER121 号)。同書では、モンゴルで長く鉱産資源開発を担当してきたホルツ氏のインタビュ ーを収めています。ただし、オリジナルなモンゴル語とその英訳にとどまっています。日本 語は付していません。モピ通信では、このホルツ氏のインタビューの邦訳を紹介します。

モンゴル国は中国とロシアという 2 大国に挟まれ、サンドイッチ状態です。

サンドイッチ の具がおいしいのは、ここに世界 10 位とされる諸鉱 産資源が埋蔵されているからです。この開発をめぐっ て、20 世紀を通して、モンゴルはどのように尽力し、 あるいは翻弄されてきたのか。地面を掘ることが禁じ られてきた文化的伝統のなかでどのように鉱産技師 が育成されてきたのか。はたまた、21 世紀の現在は どのような国際環境におかれているのか。興味はつき ません。モンゴル人のなかでもとりわけまさに「当事 者」と言えるホルツ氏のインタビューをお読みいただき、理解の一助としてください。

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チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣

1. 幼少時代から

2.モスクワ留学

3.モンゴル国立地質研究所での地質調査

4.ソ連との協力関係

5.エルデネト鉱山の開発

6.モンゴルにおける鉱産資源開発の歴史

7.国営化の流れ

8.民営化以降の諸問題:オユー・トルゴイに焦点をあてて

1.幼少時代から
小長谷有紀(以下 K):きょうは、モンゴル国地質鉱業産業省の元大臣 Ch.ホルツさんとお会 いすることができて、とても嬉しく思います。モンゴル国の地質鉱業産業分野の発展についてお話する時間をもっていただき、ありがとうございます。ホルツさんの幼少時代の思い出 から始めたいと思います。あなたはどこで、何年にお生まれになりましたか?両親と兄弟に ついてお話しくださいませんか。

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チョイジンギーン・ホルツ(以下 H):私も皆さんとお会いできて、とても嬉しいです。私は 地質学の専門家として長年、モンゴル国の地質鉱業産業分野で働き、この分野が猛烈な速度 で発展した実態の生き証人ですから、皆さんの質問に十分お答えできると思います。まず、 私の幼少時代の思い出から話を始めましょう。

私は 1939 年 3 月 2 日、現在のスフバータル県ハルザン郡に生まれました。1939 年はモンゴ ル国と日本のあいだで戦争が始まった年です。この戦争はモンゴルの歴史では「ハルハ河戦 争」と呼ばれています。日本の天皇軍となる、関東軍は、わが東方国境の向こう側、内モン ゴル、満洲国の領土に長年にわたってひそかに兵力を集結させて、この戦争を始めました。 しかし、関東軍は負けてモンゴルの領土から追い出されました。モンゴルでは毎年 8 月末に 「ハルハ河戦争戦勝記念日」を祝います。この戦争におけるモンゴルの勝利は、わが国の現 代史において重大な影響を与えた、と研究者たちは実証しています。一方、皆さんの国では この戦争の歴史はほとんど語られてないそうですね。そうでしょう?これには理由があると 思います。何よりもまず、日本はこの戦争で負けたのですから、面白くないでしょう。この 戦争は最初から侵略戦争でした。この戦争が始まった理由について、今話をするのは妥当で はないと思います。ですからもう、この戦争について話しません。この戦争の歴史について、 わが国の歴史家たちは十分に研究し、結果も出ているので、私がそれを増やしたり、減らし たりすることはありません。

ただし、この戦争が始まる直前に起きた大事なできごとについて、お話ししたいと思いま す。日本とのあいだで戦争が時間の問題であった 1939 年の初頭、わが国の政府はソ連政府に 対して地質の専門家グループの派遣を要請しました。そして、ニコライ・アンドレイヴィチ・ マリノフを代表とする地質調査団が到着しました。わが国の政府はこの調査団に対して、ド ルノド・モンゴルの水資源調査を依頼しました。この地域で日本との戦争が起こると政府は みていたからです。ドルノド・モンゴルの地域は水資源の少ない大草原です。戦争が始まれ ば、この地方に大量の軍隊が駐屯するのは当前のことでした。そして、彼らに飲料水を提供 することが最大の課題とみなされていました。この地方に住む遊牧民たちは伝統的な「手井 戸」[手で砂を掘る浅い井戸]の水を人間や家畜に使用していました。しかし、このような「手 井戸」では、兵隊たちに足りないのは当然です。N.A.マリノフの指導するこの調査団は、与 えられた任務を成功させたそうです。この調査団は任務をまっとうしたそうです。この調査 団の仕事は、モンゴルの地質調査研究の進展に大きな影響を与えたことを述べておきたいと 思います。とにかく、この調査団によって、モンゴルの地質調査研究は現代的な水準に基づ いて科学的に実施することができるようになったと言っても過言ではありません。この調査 団の代表である N.A.マリノフは、全生涯をモンゴルの地質調査研究に捧げた人です。彼は 2000 年に亡くなるまで、モンゴルの地質調査研究について興味深い本や論文をたくさん書いた、 まさに専門的な研究者でした。N.A.マリノフがモンゴルで調査した年つまり 1939 年の、10 月 6 日にモンゴル人民共和国政府の命令で工業建設省に付属して「鉱産資源部門」が設立さ れました。こうしてわが国に鉱産資源を管理する公的機関が設立されました。1939 年、この ような重要なできごとがあり、モンゴルの鉱産資源部門の発展に大きな影響を与えたのでし た。

私の父は伝統的な遊牧民です。しかし、彼は遊牧をしませんでした。父は、今日の私たち のように学校で勉強したことはありませんが、モンゴル縦文字をきれいに書いたり、読んだ りすることのできる人でした。1920 年初期、わがダリガンガ地方から初めて 40 人が徴兵され たそうです。その 1 人が父でした。父は「私は兵役期間中に読み書きと算数ができるように なった」と私たちに話していました。父は 1925 年、モンゴル人民革命党の党員になったそう です。その時から、父はモンゴル人民革命党から与えられた任務を果たすために県や郡のす べての行事に参加していました。1927-30 年、父は郡長を務めていました。しかし、私は彼の 養子です。私の実父は、養父の実兄でした。実父は、実の弟にわが子を養子に出したそうです。私はそんな父のもとで育ちました。そして、その家の一人っ子の養子でした。モンゴル の家族で一人っ子は「どんな権利」を持っていたか、皆さんご存知だと思います。私もその ように育ちました。両親は私をとても大事に育てました。私はこの両親の言うことを聞き、 彼らにたくさん教えてもらいました。私の信頼、人びとについての考えやこの世についての 考えは彼らの影響によって生まれたとも言えます。父は悪いことをしたからと怒ったことは ありません。「父に怒られる!」と怖がったことは一度もありません。

イチンホルローギーン・ルハグワスレン(以下 L):どこの小学校にいつ入学しましたか? H:私はスフバータル県の 10 年生中学校を卒業しました。そこで小学校に入学しました。秋 9 月 1 日に新学期が始まるといつも馬で通学していました。同級生も皆、馬で通っていました。 最近、ウランバートル市では「スクールバス」があって、子どもたちはそのバスで学校に通 っています。「スクールバス」ができる以前は、両親が自分たちの車で送り迎えをしていまし た。人びとはこれを「モンゴル人は贅沢すぎる」と批判していました。しかし、田舎では、 状況は今も異なっています。私たちの時代のように、今も馬で通学している地方があります。 私は 10 月 1 日から翌年の 4 月 1 日まで県の中心地に住んでいました。中学校の夏休みには、 馬に乗って田舎の家に帰っていました。小学校に入る前、5 歳ぐらいのときに今の私たちが使 っている「新文字」(キリル文字)で読み書きを習いました。

皆さんにとっておもしろいかもしれないので、これについて少し話しをしましょう。 1944-45 年の申年、故郷に大きな被害をあたえる雪害になりました。その年の雪害はモンゴル 国全体に広がった大きな雪害でした。モンゴル人の「申年に雪害になる!」というのは噂で はありません。遊牧民は自然や地球をいつも観察しています。そしていつ雪害になるか、い つ旱魃になるかを予知する豊富な知識がある人びとなのです。その年、故郷には雪がたくさ ん降って家畜を放牧することができなくなりました。そこで、遊牧民たちは雪の少ない地方 へと家畜を移動させることになりました。移動については、皆さんご存知だと思います。遊 牧民たちは、春以外の季節にはいつも移動しています。この移動の伝統は、昔から受け継が れてきました。その年の雪害に父も移動することになり、私も同行することになりました。 私はラクダに乗せられ、ヒツジの毛皮のデールを何枚も重ねて行ったことは今も記憶に新し いです。父と私はモンゴルと中国の国境に近い、雪がほとんど降ってない地方にゲルを立て ました。しかし、今はこの地方は国境地域となって、遊牧ができなくなっています。私たち とは別の家族も一緒に移動していました。そして、私たちは移動式ゲルを 3 つ立てて、そこ にしばらく住むことにしました。当時、わが国では「全国文盲撲滅運動」が行われていまし た。ウランバートルや県中央からきた先生たちが遊牧民の家を訪れて文字を教えていました。 そして、私たちが[雪害避難のために]移住した地方に 1 人の先生がやってきました。しか し、その先生に教えてもらう人はいなかったのです。なぜなら、移住中の人びとには、文字 を教えてもらうような暇がなかったからです。

しかし、今考えてみれば、父を恐れていたように思われます。父の教えてくれた道に進ん だから「地質学者」という素晴らしい専門にたどりつきました。また、責任のある政府の仕 事をすることができました。私をこの道に歩ませるために父は大いに努力したと思います。 私が公務員になった時も父は私を訪問し、「息子よ、この仕事は正しい、しかしこの仕事はま ちがっている。至急、正さなければならない」などと教えてくれていました。父に大いに助 けられました。今の私は、父のそんな立場に似ています。私の兄弟や親戚は、しばしば私に 相談しにやってきます。そして、私は彼らに正しいか、まちがっているかを指南する人とな っています。私の兄弟や親戚のなかで、私だけが政府の仕事をしていました。

皆、朝から晩まで仕事をしていました。たと えば、1 人が群れの放牧をしていれば、1 人は行方不明の家畜を探しに行くなどで忙しかった のです。そして、移動式ゲルには、先生と 2 人だけで残っていました。つまり、やることの ない 2 人だけが残っていました。その先生は私にアルファベットの 35 文字と読み書きを教え てくれました。今私たちが使っているアルファベットは、実は 33 文字ですが、これにモンゴ ル縦文字の“ө ”、“ү ”、の 2 文字をプラスして 35 文字になりました。このようにしてアル ファベットを学び、読み書きができるようになりました。当時、チェスとドミノも習いました。父と私たちと一緒に親戚のおじいさんが来ていました。おじいさんは家畜の当番をして いました。そしてチェスが上手でした。私と毎晩チェスをしていました。当初、私はまった くチェスがわかりませんでしたが、おじいさんが教えてくれました。しばらくしておじいさ んは「坊や、チェスを持ってきて、一緒に遊ぼう」と言ってくれるようになりました。この ようなことがあってから、私はチェスが大好きになりました。今もやっています。モンゴル 人にはチェスをする伝統的な習慣があります。今もわが国から世界チェス選手権にいつも参 加しています。チェス世界チャンピオンがモンゴルには何人かいます。最近、国際チェス連 盟代表 K.ウレムジーノフがモンゴルを訪問しました。この人はカルムイク・モンゴル人です。 国際チェス連盟は、わが国に「チェス宮殿」を建設する予定だそうです。わが国にはチェス をたしなむ人が多いので、国際チェス連盟がこのような指示を出したそうです。

そうではありません。遊牧民の 1 日の仕事は朝の 4-5 時から始まって、夜中の 11-12 時まで続きます。こうしてドミノで遊ん でいるとき、父と他の人たちは順番に家から出て外にいる家畜を観察していました。また、 天気の様子も観察していました。父が観察に行くたびに父の代わりにドミノをして遊んでい ました。そうしてドミノを覚えました。でも、ドミノをする伝統はモンゴルにありませんで した。仕事のない人たちが時間を過ごすために遊んでいたかもしれませんね。

幼いとき、父は昔話をたくさん話してくれました。父の話してくれた昔話を全部暗記して いました。父が昔話を話してくれると直ぐに覚えていました。モンゴルの昔話は長短いろい ろあります。今考えてみれば、私は物事を直ぐに覚える少年だったと思います。新しいもの を直ぐに覚えていました。

学校では一番身長の低い子でした。そして、先生は私を一番前の列の机に座らせていまし た。私のクラスには私より身長の高い子がたくさんいました。そして年齢的にも私より年上 の生徒が少なくありませんでした。私はクラスの中では成績が優秀で、数学の得意な生徒で した。数学のできない生徒たちは私を頼りにしていました。身長の低い生徒なりの「苦しみ」 もありましたよ。クラスの「背の高い生徒」が私を引っ張って「おまえ、この計算の答えを 出せ!すぐ出せ!さっさと出さないと殴るぞ」と言います。男の子も女の子も皆同じでした。 そして彼らの数学の宿題をしてあげていました。私の計算した結果をみんなで互いにカンニ ングしていました。そんな感じで学校生活を過ごしていました。通学している子どもたちは 家に帰って宿題をしますが、私にはそれができませんでした。学校の休みが始まってようや く馬に乗って家に帰ります。家に帰れば、勉強する時間はまったくありませんでした。母は 足が悪かったので、母の手伝いをして、家を掃除し、井戸から水をくみ、燃料を準備し、子 ヒツジや子ヤギの世話をします。これらの仕事をすべてしていました。学校で先生の教えて くれた授業は私の頭の中にそのまま残っています。先生の話してくれた、教えてくれたこと を全部暗記していました。このようにして 10 年間優秀な成績を修めました。そして 17 歳で 中学校を卒業し、1957 年の夏、父と一緒にウランバートルにやって来ました。大学に進学す るのが目的でした。

当時、わが移動式ゲルにはたくさんの人が訪れていました。家畜を探している人がしばし ばやって来ては泊まっていました。あの年の雪害では、わが故郷のほとんどの遊牧民が私た ちの移住してきた地方で冬を越したかもしれません。この地方には風に追われて、多くの家 畜が来ていました。このように風に追われてきた家畜を家主たちが探しにきていました。そ して、家畜を探しにきた遊牧民は、わが家に泊まっていました。家に泊まっていた人の数は 30 人ぐらいになっていました。冬は大体 5-6 時ごろに日が沈みます。そしてすぐに暗くなり ます。家畜を探しに来た人びとに私たちは馬肉をゆでてあげていました。夕食を食べた後、 大人はたいていドミノで遊んでいました。早く寝ないためにこうしてドミノで遊んで時間を すごしていました。冬の移動(オトル)の時には早く寝てはいけないのです。昼間、草原に 行ってきた家畜は、ずっと観察していなければなりません。もし、家畜が牧場で草をよく食 べていなければ、次の日の牧場をどうするかと言うことを考えなければなりません。人びと は「遊牧は簡単な仕事だ」と思っているかもしれません。

 

 

『Voice from Mongolia,2015 新年特別編』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

【7 年ぶりのウランバートル・昨夏】
昨年 7 月中旬、モンゴル出張の合間に、小雨そぼ降るザイサンの丘へ。近年の建設ラッシュで、眺めが一 変していました。てっぺんで振り返ると、後方にもマ ンションが立ち並んでいました。

スフバートル広場(今はチンギス広場に改名)周辺 に行くと、高層ビルが増え、以前のままの姿のトゥブ ショーダン(中央郵便局)を見つけてなんだかホッと しました。それにしても老舗のウランバートルホテル が何と小さく見えることか…。渋滞の車列を横目に走 るトロリーバスに、思わず「がんばれ!」

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【ハイルハンの〝お母さん〝と再会】

大草原エコロジースクール(2002-2006 年実施) で訪れていたアルハンガイ県チョロートのハイル ハンバグでお世話になったオトゴンお母さん(写 真左)、お元気です!数年前からは、息子のバト エルデネ(バーギー)さん(右)の経営するツー リストキャンプ“ハーディン・ザム”(トゥブ県 バヤンツォグト)にお住まい。変わらぬ熱烈なキ ス、ハスキーボイスでウルムをすすめられ、一気 に時が戻りました。バーギーさんは、羊毛を使っ た断熱材製造に関わり、首都とダルハンを往復す るご多忙な毎日とのことです。

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【ありがとう午年】

地元十勝・帯広でも多くのモンゴル人に出会えました。

北海道開拓を支えた農耕馬たちの活躍を今に伝えるば んえい競馬が開催されている帯広市競馬場では、体重1 トン近い輓馬(リッキー号)とご対面。アルハンガイで 牧民育ちのイデレー(右)、臆することなく至近距離へ。 調教師さんのはからいで、輓馬にまたがったモンゴル人 御一行、蹄の大きさに「ラクダみたい!」。

競馬場隣の商業施設とかちむらにはゲルも設置され、 未年の十勝にモンゴルブーム到来の予感…本年もどう ぞよろしくお願いします!

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「今月の気になる記事」

民主化 25 周年を迎えたモンゴル。時代の波に乗り、自由を求めて社会を変えた当時の若きリーダーたちは既に 50 代、社会の中枢にとどまる。四半世紀を経て、彼らは何を手にし、何 を失ったのか、民主化と同時に市場経済の荒波に飛び込み、翻弄され続ける祖国の現状はど う映っているのか…。25 年前、厳冬の中始まった民主化運動の原点を今に伝える記事をどうぞ。

C.エンフアマル:歴史家として、革命の当事者として感じたことを書く

(筆者:X.モンゴルハタン)

今回は、ジャーナリストの C.エンフアマルさんをお招きしました。かつて≪ザスギーンガザリーンメデー≫≪ゾーニーメデー≫などの新聞社に所属した後、現在は≪スポルティン・ ウング≫紙で仕事をしています。1989 年から 1990 年にかけての民主化革命に積極的に参加し た数少ないジャーナリストのひとりです。民主化革命 25 周年に際し、歴史を掘り起こす意味 で、興味深いインタビューをお届けします。

―1990 年の民主化革命には、ジャーナリストとして関わったのですか、それとも市民として?

「民主化革命の初日から参加したが、当時はジャーナリストではありませんでした。モン ゴル国立大学の歴史学科を 1988 年に卒業したばかりでした。革命博物館の説明係として勤務 しながら、博物館管理局の労働組合関係の仕事もしていました。当時、モンゴル民主同盟に ついては何も知らないまま出かけ、活動にのめり込んだのです。1989 年の 12 月 10 日の日曜 日、どこの博物館も土日など休日は休みでなく、職場へ向かって歩いていました。すると、 同僚のニャムドルジと道ですれ違い、「オイ、道の向こう側に俺たちみたいな反体制派が集 まっている、行かないか」と言われた。出勤したばかりではあったけれど、2 人して出て歩い て行きました。青年文化会館の東側に行くと、200 人以上が集まっていました。1982 年-83 年にイルクーツクの国立大学語学研修所で出会った友人の顔も見えました。“ハサル”ジャ ガー、その妻のオルナー、“ロックの怪物”ムンフサイハン、小学校からの同級生 T.ガンボ ルドやムンフゲレル、モスクワの映画芸術大学を卒業して戻ったばかりのドラマシアターの 俳優連中も。ほどなく毛足の長い黒いデールをまとった小柄な若者が出て来て、「今日は世 界人権デーです。モンゴル民主同盟の発足を発表します」。それが現在の大統領エルベグド ルジでした。続いて何人かが主張を繰り広げました。この初集会から帰ると、ニャムカと私 は同僚の B.バトニャムに声をかけてモンゴル民主同盟の支部-最も早い時期に出来た支部の ひとつ―を職場内に立ち上げた。私は博物館管理局の労働組合事務長という役付きだったこ とを考慮し、ニャムドルジを支部代表に、私が副代表になりました」

-支部を作り、まず何をしましたか?

「民主同盟の取り組むすべての活動、デモや集会に参加しました。1990 年 2 月 18 日、民主同盟の大会議が文化宮殿で開催された際には支部代表として出席しました。前日 15 時から民 主同盟の作業部会が開かれ、Ts.エルベグドルジが初の大会で話し合う議題を紹介した。その 中には『大会議の代表者の人数を決める、民主連合の代表者会のメンバーを紹介する、組織 のあり方、議題の承認、民主同盟の旗やトレードマークの提案、アジェンダ、規則の承認』 などがあった。提案を 33 人の構成員によって承認しようと、名前を確認したら 34 人いた。 今ではメンバー35 人などと書かれていることもあります。代表者会議のメンバーとして、C. ゾリグ、D.スフバータル、C.アマルサナー、G.ニンジ、I.ジャフラント、バトスフ、Ts.エン フトゥブシン、D.ソソルバラム、Ts.エルベグドルジの 9 人が承認された(中略)」

-この会議のすべての資料が手元にありますか?すべてを逐一記述されたのですか?

「職業病でしょうね(笑)。歴史学者というものは、自分の生きた時代を記述する。どん な人も一生のなかで何かしら重要な出来事に立ち会うものですが、私の場合は 1990 年の民主 化革命がそうでした。だから、この革命を外から評価するのではなく、どっぷりと中に入っ て、何があったのかについて、誰かに聞いた話でなく、自身が直接感じて理解したことを後 世に記録として残す。それを私の果たすべき使命と考え、その後も継続して日記を付けてい ます。例えば、モンゴルでは『1.国家は国民の生活を正しく導く能力を失ってしまった… 3.政治システムに “裏口” からの介入が定着し、支配層が固定された 4.支配者層と 労働者層に分断。精神面でも学びの質低下、イデオロギー劣化。東洋の文化から遠ざかり、 空論がはびこる。宗教を弾圧、児童労働の活用』…そんなことを感じています。(中略)1990年 2 月 18 日、日曜日の朝 9 時に文化センターで大会議が始まった。モンゴル民主同盟の代表、 C.ゾリグが開会宣言、『モンゴル民主同盟の第1回大会に 16 の県、5 の都市に発足した各支 部の代表者が参加しています。チェコスロバキアやドイツの国々からも代表者が駆けつけて います。代表者の 70%が労働組合員で、モンゴル人民革命党員も 13 人参加しています。大会 を取材するために、6 か国から 20 人あまりの記者が取材に来ています』と伝え、盛大な拍手 が送られました。続いて、俳優の D.ソソルバラムが民主同盟の声明を読み上げました。プロ に読ませることで、政治を鋭く批判した声明をより多くの国民に届ける意図があったのです。 (中略)」

―「俺たちのような反体制派」との言葉が出ました。実際に反体制派だったのですか?

「そうです。1984 年に国立大学に入学してまもない 9 月、呼び出しを食らった。社会学部 長のハバフ先生に『お前は何をやらかそうとしているのだ』と詰問されたのです。人民革命 党大会の資料をもとに、どうして労働組合の『ザローチョーディーン・ウネン』紙や『ピオ ネーリーン・ウネン』紙に何ページも掲載した?それぞれ別の機関ではないか。党のウネン 紙だけに掲載されるべきものだ』とこっぴどく叱られ、『お前はモンゴルとソ連の友好に水 を差し、異を唱えている、民族主義者、ニヒリスト、資本主義者なのだな。資本主義者は若 者を上の世代と分断しようと躍起になっている、その一派だな。そうなら学生と名乗るな、 国民の名に恥じる』…こんな調子です(笑)。1984 年 9 月ですから、ペレストロイカの前、M.C.ゴルバチョフが出てくる、はるか以前のことですよ」

―学生時代から抵抗し、抑圧もされて来た。民主同盟と出会うべくして出会ったのですね。

「そうです。(中略)でも当時は反体制の活動に深入りしていなかった。ちょうど同時期 に私の生活に大きなことが起こっていました。民主同盟の運動と、妻の妊娠が重なったので す。学生で一人娘の妻は、心臓が弱く、医師からリスクが大き過ぎるから妊娠はしないよう 止められていた。でも本人は『男の子よ。私にはわかる。あなたに息子を産んであげる』と 意に介さず、お腹はすでに大きかった。(中略)民主同盟の会合が続くなか、いつ生まれて もおかしくない状態でした。(中略)病院に妻を残して、ハンガーストライキの行われてい る場所へ急ぎました。(中略)その夜は幸い何も起こらず過ぎて朝、人々が職場にむかう時 間に帰宅しました。その夜、J.バトムンフ書記長が政治局の解散を宣言し、ハンガーストライキは勝利をおさめたのでした」

―ほかにも、あなたのノートに記録された興味深い歴史はありますか?

「『あるもので戦え』と言いますが、私の場合、記録だけはいくらでもある。(中略) 民主同盟の第 1 回大会で、建国 80 周年記念についてバーサンが発言した後、各人が意見発表 した。 口火を切ったのはウブルハンガイ県からの牧民ガンゾリグ、続いて民主社会主義運動を主宰 するハタンバータル、バイオコンビナートの職員ボルドバータル、ハグワスレン、友好連合 の Ts.バダラフ、トゥデヴハンドらが発言。休憩(12 時 45 分から 14 時)のあと、”新前進” 運動の代表 J.ボル、チメグドルジ、レニングラードから来た学生のエンフアムガラン、ナン ジッドらが続いた。(発言内容の)例を挙げると、現在国会議員の L.エンフアムガランは『経 済学者を緊急招集し、協議会を!ソ連で学ぶ学生らに課題(ベトナムの実践のように)を与 えることもできる。各アイマグの新聞には自由がない。名誉回復委員会も機能していない』、 セレンゲ県の税関で副長官を務めるナンジッドは『経営やビジネス人材の育成を』と述べま した。また第 52 学校の教員ゾリグトは『わが国では人口 10 万人あたり収監されている者の 割合が 330 人、アメリカでは 217 人、英国では 97 人、オランダでは 35 人である』と体制を 批判した。(中略)モンゴル国立大学の教員ハタントゥムルは『1 万人から 1170 人を抽出した 社会学の調査によると、“生活に満足”7%、“指導者の能力不足”67%、“複数政党制支持” 74%、“世帯の所有する家畜数の制限は不要” 90%、“正義の不在”85%、“政治の無策”71%、 が“出版、情報発信の独占状態を変えるべき” 80%、“人権違反がある”68%、“モンゴル国内に外国軍隊駐留は不要”80%、との結果だった』と伝えた。(中略)当時、仕事をクビにな った活動家を職場に招いて、職員らに会わせる集会を企画したところ、同僚の中には善意か ら『職場の組合役員である君が、テレビやラジオであらゆることを批判している、こんな輩 を連れて来て大丈夫なのか』と心配する人もいた。この”不正行為者”のひとりが現在のモ ンゴル国大統領エルベグドルジですよ」(後略)

―2014 年 12 月 5 日 政治ポータルサイト「Polit.mn」

(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)

 

 

 ノロヴバンザトの思い出 その 54

(梶浦 靖子)

歌い手の年季と貫禄

早くもその年の秋、ノロヴバンザドらは再び来日し公演した。その時は江差追分の全国 大会のゲストとして招かれ、伴奏のモリン・ホール奏者はツォグバドラハ氏だった。江差 追分の関係者とはモンゴルで知り合っていたこともあり、同じような流れで私はノロヴバ ンザドに会いに行き、通訳の補助といった形で彼らに同行した。

そうやって地方自治体や企業などが受入先となって、年に一、二回は来日し公演するの が恒例となり、私も何がしか手伝うのが常となった。特に仕事という形で主催者から頼ま れなくとも、ノロヴバンザドに会いに行けば必ず身の回りのことを手伝うことになるのだっ た。

そうした中で舞台でのノロヴバンザドはもちろん、楽屋裏や、宿泊先のホテルでの様子 も目にして、歌い手として年季の入った貫禄を感じることも多かった。まずあまり緊張し て神経質になることがない。濃いめの牛乳を買っできて等、食べ物飲み物の注文はあった が、それ以外はおおむねリラックスして過ごしていた。日本のスナック菓子をつまみなが ら、「あなたもどう?この魚おいしいわよ」と私に勧める。見るとそれは昆布のおつまみだった。モンゴルでは海産物を食べっけな いので、ともかく「海のもの」でひと括りにしていたようだ。

「先生これは魚じゃなくて海草です」
と私か言うと、
「あらそう?まあいいじゃないの。食べなさい」 と勧めながらまた食べる、といったのん気なやり取りがあったものだ。 そして発声練習をいつしているのかわからなかった。宿泊先ホテルに午前中に迎えに行

き、どこか店に昼食に連れて行き、少し買い物などしてから夕方にコンサート会場へ向か うスケジュールで、特に発声練習のための場は設けていなかった。本番前のリハーサルの 時に、音響機器の調整のためオルティン・ドーを一曲くらいしか歌わず、そのまま楽屋に 入り、お茶を飲んで待ち、本番へ向かうという具合だった。私かホテルに迎えに行く前に 部屋で練習していたとしても、そう長時間、思い切り声を出すことはできなかったと思う。

ほんの少しオルティン・ドーを学んだが、曲を歌う前にはある程度の時間をとって発声 練習をしなければ、なかなかそれなりの声は出ないものだった。それがノロヴバンザドは ほとんど事前の発声もせず、本番であれだけの声が出せるというのは、やはり並々ならぬ ことだ。もういつでも十分に声が出せる体になっていたのだろう。

そうやってリラックスしているノロヴバンザドも、出番の一時間くらい前になると、顔 つきが真剣になり、キッと遠くを見つめて軽くフフンとハミングし、舞台に備え集中する のだった。その姿にはプロとしての威厳と貫禄がみなぎっていた。

衣装へのこだわり

こんなこともあった。コンサート直前に、久しぶりに袖を通したノロヴバンザドの衣装

のベルトがかなりゆるくなっていた。しばらく食欲のない日が続いてあまり食べていなかっ たためやせていたのだった。これはいけないとノロヴバンザドは旅行カバンから裁縫道具 を取り出し、その場でベルトのホックを付け替え始めた。

「先生、もう時間がありません。出番です。直さなくても大丈夫ですから」 とせき立てても、意に介さない。顔色ひとつ変えず、 「大丈夫だいじょうぶ。すぐ終わるから」 とチクチク縫っている。全く動じない。どこまでもマイペースで落ち着き払っている。

シュシュッと糸の端を留めて切る手際の良さは主婦としての年季も見せつけるものだった。 さっさと縫い終わり、ベルトを身に付けて、

「さあできた。どう?このほうがいいでしょう」

とにこやかに言い、何事もなかったように舞台へ向かった。時間も間に合った。彼女の 器の大きさが現れていたと今にして思う。実際、ベルトの緩みは遠目に見るとそこまで気 になるものではなかった。しかし本人は納得が行かなかったのだろう。たいていの物事に はこだわらないが、衣装には妥協しないようだった。

そういえばモリン・ホール奏者のツォグバドラハ氏も同じようなことがあった。コンサー ト会場に入ってすぐ、舞台衣装のデールと帯にはきっちりアイロンをかけるよう命じられ たことがある。と言っても誰もアイロンなど持ち合わせていなかったので、私は会場の衣 装管理の部署を訪ねた。幸いそこにアイロンがあったのでお借りして、その場で使わせて もらうことにした。しかし規則でスチームは使えず、ドライの状態で使ったが、なかなか シワがとれない。表面が絹製の、厚みのあるデールの生地にはドライのアイロンが効き目 が薄いのだ。スチームを使わせてもらえないかと頼んだが、規則だからということで無理 だった。しかたなく、渾身の力を込め、アイロンに体重を乗せるように懸命にかけた。

そうして時間も迫ってきたので切り上げ、持ち帰った。しかしそれを受け取ったツォグ 氏に、「なんだ?アイロンはかけなかったのか?」と言われへたり込んでしまった。

スチームが使えないのでそれで我慢してください、と言うしかなかった。なんだそうな のか?とツォグ氏は不満そうだった。そもそもデールは特別シワがよっていることもなく、 アイロンが必要には見えない状態だった。それにデールの帯は薄く長い絹の一枚布で、そ れを折りたたむこともなくいわば無造作に胴に巻きつけるもので、巻いた途端にしわくちゃ になるものである。だから素人目にはしわくちゃのまま結んでもいいように思えるのだが、 そこにこだわりがあるようだった。

コンサート会場に着いてからでなく、ホテルにいるうちならフロントから借りられたの だろうが。しかし念のため、モンゴル人音楽家の付き人は、アイロンを常に持ち歩かなけ ればならないと思ったことだった。

(つづく)

山羊祭り

(梅村 浄)

黒い山羊は首に縄をつけられて山羊囲いから引っぱられて来ました。 大きな 5 歳のオス山羊です。昼過ぎにこの家のお父さんが市場から買っ てきました。「メェー、メェー」と鳴きながら、脚を踏ん張って前に進 もうとはしません。

モンゴルの西端バヤンウルギー県のウルギー市は標高 1800m にあり ます。9 月始めの真っ青な空から、陽射しが真っすぐに家の前庭にさし てきます。客は JICA モンゴル駐在スタッフ2人とモンゴル人通訳、カ ザフ人老爺といってもいい風貌の H さん、これから 1 年間、この地の障 害者センターでボランティアを始める T さん、私と娘の涼、涼の介護者 O さんの 8 人です。

 

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茶色いシートの上に連れて来られた山羊の首をお父さんがナイフで 切ると、お母さんが持っている洗面器に鮮血が迸り出ました。山羊は何 回か「グェー」と鳴き動かなくなりました。ランニングシャツ姿の次男がナイフを受け取り、4本脚の膝関節に切れ目を入れました。すばやくひっくり返して腹の毛皮 を縦に切り、前脚をそれぞれの持ち手が支えている間に、にぎり拳で毛皮をはぎました。日干し レンガの家の壁にかけてある紐に、首を切り落とした山羊の身体を逆さにつるします。さらに背 中の毛をはいで、くるりとまとめて黒い毛皮を地面に落としました。うす桃色の肉に光が当たり、 山羊の命が輝きました。

「すっかり市場で売っている肉になっちゃったね」 と、通訳のモンゴル人女性がつぶやきました。

胸骨を裂き、肺と心臓を取り出します。腹部を真っすぐ縦に切って、肝臓、腎臓、最後に胃と 腸を一塊で取り出して、お母さんと近所の女の子がバケツに汲んできた貴重な水で、消化途上の 緑の草をていねいに洗い流しました。洗面器の血と睾丸は敷地内の端の方に捨てます。モンゴル で多数派を占めるハルハ・モンゴル人は羊の血を食べますが、イスラム教徒であるカザフ人は、 山羊の血は食べません。

さっそく、室内の作業用テーブルに、あたたかい肝臓を持ち込み、ナイフで角切りにします。 左麻痺がある娘の涼は、T さんに肝臓が動かないように押さえてもらって、右手で切りました。

手を洗って、この日のために庭に建てられたカザフゲル、ウィーに皆で入ります。モンゴルゲ ルと違って真ん中の柱がないので、天井が高く広々としています。部屋の壁にはカザフ模様の壁 掛けが数枚、かけられていました。縦 1.5 横 3m の赤い木綿布の中に青、黒、緑、赤の糸で四角い 幾何学模様が縫い取りされたもの。円形の花模様が繰り返して刺繍されている壁掛けもあります。 壁際には色とりどりの飾りをつけたベッドが、今宵、何人かの客人が泊れるようにと、用意され ていました。

ビニールシートを敷いた床には羊の毛で作ったフェルトの絨緞が何枚か敷かれていました。真 ん中に据えられたテーブルを客とこの家の家族、親戚のおばさんや知り合いが囲んでも、ゆうゆ うとした広さです。30 畳程度でしょうか。

陽はまだ高くウィーの天井の穴から室内に光が差し込みました。アーロール(乳製品)やボー ルツォグ(揚げたパン)、ナッツ類、日本から持って来たゼリーなどをつまみながら、待っている うちに肝臓がゆで上がりました。軟らかい肝臓はすぐに食べることができるのですが、固い山羊 の肉は 3 時間ぐらい煮込むので、時間がかかります。この家の長男カウガーは、20 代の始めに脊 髄損傷になり、車椅子生活をしています。毎日、タクシーの運転手をして稼ぎ、一家の家計の一 端を担っています。彼のおごりで、ロシア製のパイナップルビールが女性達にふるまわれました。 もちろん、自家製の馬乳酒と、食料品店で買って来たビールも。

カウガーはカザフの楽器ドンブラを巧みに弾いて歌い、ウルギーの市民劇場を一杯に出来るほ どの腕前。ドンブラは半分に切った洋梨型の胴に 2 本の弦を張って、指で弾いて演奏する中央ア ジア特有の楽器です。ゆったりしたリズムで弦を搔き鳴らし、掠れた甲高い声で夫婦の愛の歌を うたいました。歌詞をモンゴル人通訳さんが、日本語で伝えました。

「お父さんとお母さんが離ればなれの所にいて、お父さんはお母さんに会いにいきたいんだけ れど、会えない。その気持ちを歌っているんです」

次にカウガーは素早いリズムにのせて歌いました。長髪が浅黒い額にかかり、つま弾いた弦の 音が誘い出す皆の手拍子を追う目は、とても愉しそうです。

「いろんな男性とつきあったんですね。そんな女性をおそれているんですかね」 「女は恐いものなのよって」
この家に居候しているボランテイアの T さんと通訳さんが解説してくれました。

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お父さんはテーブルに坐り続けていましたが、お母さんは南側についている扉を開けて入って来たり、出て行ったり、山羊の煮え具合を見計らっ ているようです。その度に外の光がウィーの中に差し込みました。

近所の若者も三々五々入って来て後に坐り、お父さんと一緒にカザフ人 の大合唱。日本の歌をと所望されて「故郷」を斉唱。JICA の若い見習いス タッフが「津軽海峡冬景色」を絶唱したところに、新たにギターを持参し て来た若者とカウガーの二重唱。

お母さんが山羊の肉と内蔵をジャガイモとニンジンと煮込んだ料理を、 大皿に載せて運んで来た頃、ちょうど日が暮れました。前日から引き続き 停電です。ろうそくに灯をともして、お父さんが唱えるイスラムの祈りの

後、塩で味付けしただけの命の味を、しっかり噛みしめていただきました。肉は噛みごたえがあ り、内蔵はさらにこりっとして、歯が丈夫でなくては呑み込めません。しかし、そのなくなるス ピードの速いこと。

私たちは山羊祭りの前日も、その翌日も 3 晩連続で、お父さんの家で夕食をご馳走になりまし た。他の 2 晩は山羊肉のスープに細く切った麺を浮かべたゴリルタイシュル、お母さん手製の塩 味のうどんです。店で出されるものより塩がうすく、滋味にあふれた味です。3 晩目は頭と脚 4 本 の肉とコラーゲンを分け合って食べました。あ、そうそう、お母さん特製のじゃがいもサラダも ありました。

山羊祭りは終わりました。
別れの時、お父さんが挨拶してくれました。 「日本の皆さんに来てもらって、とても嬉しかった。家には今、3 人の息子と 2 人の娘がいる。T さんは我が家の一番下の妹だよ。涼さん、来てくれてありがとう。あなたも我が家の娘だ。ぜひ、 来年も来て下さい」

帰国後、涼はこの春生まれた 1 頭の子山羊を、T さんから誕生日プレゼントにもらいました。今、 その子はお父さんの遠い親戚の家に預けられて、冬囲いの中で干し草を食べ、-40°Cのウルギーの 冬を初体験しています。

(2014.12.10)

 

 

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

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良縁・子授け・安産・家内安全を願って参拝の人が絶えないのは、「敷津(しきつ)神社」 です。この神社には、安産の神様「木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)」が祀られていて、 藁の護符が授けられるので「わら天神」と呼ばれ信仰され親しまれています。

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(事務局 斉藤生々)

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