■NO 156号 モピ通信

■NO 156号           2015年2月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

2014年度黒板プロジェクト配布報告

『Voice from Mongolia,2014 vol.8』

 チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

 MoPI新年会ご案内

 

 2014年度黒板プロジェクト配布報告

(モンゴル在 斎藤美代子)

2014年度も黒板を無事に配布し終わりました。 黒板プロジェクトを開始してから 13 年が過ぎました。

2014 年寄付していただいた黒板は 5 枚です。数は少な くなりましたが、ずっと 13 年の間、継続して寄付して くださっている方々、新しい方、ご自分で黒板を見に 行かれる方々、どの黒板も寄付をくださった方の思い を込めて手渡しました。改めて、2014 年度寄付してく ださったみなさんにお礼を申し上げます。

今年はトゥブ県の学校とゴビスンベル県の学校に黒 板を配布することになりました。トゥブ県の学校はウ ランバートルからそう遠くないため、地方から移動し てくる生徒が増えているそうで、先生方から感謝の言 葉を伝えてほしいと頼まれました。ゴビスンベル県については、 寄付された方がモピ通信に訪問記を詳しく書いてくださってい ます。読ませていただいて、ぜひ多くの方が自分の黒板を訪ね て行ってほしいなあと思いました。

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地方を訪ねて思うのは、国も少しは教育現場を考えるように なっているということです。でも今はまだインフラ整備など大 掛かりなプロジェクトが優先されているので、先生方の努力で 学校が動いている状況には変わりありません。私たちが黒板を 持って行って、いらないといわれるような状況にはまだまだ遠 いのが現状です。

これからどこまで続けられるのかわかりませんが、息の長い プロジェクトとして、来年も黒板を届けたいと思います。

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(黒板報告は、2015年1月、モピ通信155号に掲載の予定でしたが紙面の都合で掲載できませんでした。)

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『Voice from Mongolia,2014 vol.8』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「古いものは歴史を感じさせてくれ、何とも居心地がいい。モンゴルでは 1930 年代に古い寺 院が破壊し尽くされた。その後ロシアがもたらした都市の建物、街並みも今では古くなった。 次々に取り壊され、新しいガラス張りのビルにとって変わられていくのが残念でならない」

―ボヤンバダラフ(40)NTV テレビ・ディレクター兼プロデューサー、フブスグル県出身

朝からの雪で一面の銀世界に、畑を美しく切り取るように聳える防風林が映えていた。こ こは、北海道・十勝、畑作が盛んな芽室町、100 年前に建てられた赤レンガ倉庫を改装した焼 き肉レストラン。はるばるモンゴルから道内を取材するためやってきたテレビ局スタッフ 4 人のひとり、ボヤンさんは言った。「ゆくゆくは地方に住みたい。自分も歴史を感じるような 建物の改築に取り組みたい」。モンゴルでも、渋滞や大気汚染の多大なストレスから、地方に 住むという選択肢が現実味を帯びているようだ。

傍らには、北海道に入植して 4 代目の畑作農家で、地元の肉牛農家とともにこのレストラ ンを経営する尾藤光一さん。おじいさんの代に農家がお金を出し合って建てた豆類や小豆の 倉庫は、出荷が機械化されるにつれ、入口が狭く、フォークリフトでの積み出しができない ことから使われなくなったが、「歴史的な建物を後世に伝えたい」という思いで地元の農産物 を提供するレストランに生まれ変わって 6 年になる。尾藤さんの持論は「大地から奪うので なく、『補う』ことで畑の力を最大限引き出す農業」。土壌分析のデータをもとに、作物という形で畑から持ち出されたミネラルを畑に入れる「土づくり」を実践して 23 年。質のよいジ ャガイモは、シンガポールなど海外からも引き合いがある。モンゴルの農業に、土づくりの ノウハウを伝えることで貢献したい、と情熱を込めて語る姿を、カメラで切り取った。

「来日する前、日本は遠い国だったが、北海道に来て数日、今はモンゴルにいるかと錯覚 するほど」。その理由は「チンギスハーンのふるさとを流れる川が 6000 キロ流れてオホーツ ク海に流れ込む、その水のつながりを感じた」ことという。同行するカメラマンのガンバヤ ルさんとともに、モンゴルで初の、希少な野生動物を紹介する番組の制作にも関わった。

撮影のこぼれ話をひとつ。特産品を紹介してと乞われ、長いもなど野菜に加え、地元産焼 酎を手にとったところ、「酒の映像は流せないの」。そんなの常識でしょ、という物言いに、 アルコールは社会問題だった、と納得。その直後、商業施設の一角に建ったモンゴルのゲル に案内すると、「エスギー(フェルト)のいい匂い!」と一同笑顔。どこから持ってきたかス タッフの手には買ったばかりの日本酒と紙コップ。「しきたりだから」と即座に封を切り、乾 杯していた(!)。

日本の総務省の補助金を受けた道内 テレビ局関連会社の事業で、道内各地 を巡り 10 日余り取材し、6本の 30 分 番組を制作し、モンゴルで放映する。 テレビのむこうのモンゴルの人たちに、 北海道の技術や食にとどまらず、大都 会にはない地方ならではの魅力が、そ して地域に誇りを持ち、ローカルの最 高のものでグローバルを目指す道産子 の開拓スピリットがどうか伝わります ように。きっと、モンゴルの地方発展 のヒントも見つかるのではないだろうか。

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(写真説明)帯広市内に設置されたゲルで 記念撮影。前列左端がボヤンさん

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「今月の気になる記事」

鉱物資源開発による経済成長のはずが、経済の危機的状況が伝えられる最近のモンゴル。 昨秋には長引く不況の責任を取るかたちで首相が辞職するほど事態は深刻のようです。モン ゴルで実際何が起こっているのか、現地エコノミストの直言をお届けします。ちなみにわが 国の長期債務(主として国債)はすでに 1000 兆円を突破、これは GDP の 200%にも及ぶそうです。

Х.バトソーリ:債務の天井が絵空事だというなら、世銀に行って聞いてみよ

筆者:М.ガンツェツェグ

エコノミストのХ.バトソーリに時事問題について聞いた。

-経済の危機的状況は、破たん寸前のところまで来ているとエコノミストや政治家が発言し ています。なぜ不況に陥ったのかについても様々な見立てがあります。あなたのご意見は。 「政策決定を担う人々、国民の代表者たる政治家を支えるエコノミストたちの説明を見ると、 外国投資の落ち込みが原因とされ、長い名前の法律のために投資が止まったことで生じたと している。このような間違った考えを大衆に広めているのです。経済は外国投資と直結して いるかのような、外国投資がなければ国が発展しないとのイメージが広がるのが残念でなり ません。もちろん外国投資を否定するつもりは毛頭なく、適正な形で活用すれば経済に有益 なのですが、投資をあてにするような過ちを犯すと、経済を破たんさせ、いつのまにか国を 植民地状態に陥らせるような側面があることは多くの実例が示しています。

外国投資によってもたらされる経済状況は、通常の経済活動による適切な収支の動きとは 違います。モンゴルが長期にわたり安定して発展することを目指すなら、国内の資産、機会 をあてにして発展する経済を持つべきです。我が国で名を知られた評論家は政府に助言を与 えているようです。首相のサイハンビレグが国会で 2 度話した内容と、評論家の持論がまっ たく同じであるのが気になりました。評論家が自分の考えを書いてよこしたのではとの疑念 がわきました。国の財政機関から出される発展モデルというのがあり、評論家の論説にも登 場します。政府からの社会への福祉や年金をカットし、国有の資産をすべて民営化せよ、借 金をせよ、政府の関与を小さく、という方針で、ラテンアメリカ、アフリカ諸国は、新しい 形の植民地状態に陥りました。この方針には注意深い対処が求められます。

評論家は『債務の額がGDP何パーセントまで、との上限を設け、それ以上になると国が 破たんするというような作り話はやめてほしいものだ。支払い能力があれば何パーセントで もあり得る。わが国には豊かな、莫大な資源があるのだから』と書いています。よくこんな ことが言えたものです。債務の上限は、政府に助言する評論家にも影響を与える国際機関に よって出されている。わが国のような発展途上の経済の国は、GDPの 40%とされています。 さらに、わが国で尊敬されているアメリカの著名なエコノミスト、ハーバード大学のケネス・ ロゴフ教授も明言している。2つの確かな根拠があるのです。本当に、上限がないというの なら、世銀に行って、掛け合ってみるがいい。エコノミストは経済を、政治家は政治を語る べきです。本題から反れることはともかく、これはいけません」

(中略)

-評論家の言うように、債務はただ数字の上だけのことではないのですか? 「わが国には莫大な債務を背負っています。開発銀行、『チンギス債』『サムライ債』と3つ の大きな借金があります。この3つの借金だけでも年間1億2千万ドルの利子が上乗せされ ています。2017 年には開発銀行の6億ドルの返済が必要です。2018 年にはチンギス債の5億 ドル、2022 年には 10 億ドルが償還時期を迎えます。こんな額を支払う能力は我が国の経済に ありません。『斧が振り上げられるまで牛は落ち着いて休んでいる』という諺がありますが、 2017 年まで借金を続けていくのでしょうか。その時になって誰が責任を取るのかも不明です」

-まさか財政破たんはしないでしょう。エコノミストたちの見方はどうですか。 「私見ですが、破たんすることは本来ないはず。なぜなら、この2年はモンゴルの歴史にな かった規模の予算が組まれていました。総合予算のほかにも予算がありました。(中略)モン ゴル史上最大の額のトゥグルグがモンゴル経済に流通していました。そんななかで経済破た んの淵まで来ているということを、サイハンビレグ首相本人が認めたのです」

-どうしてそんなにお金があったはずが、経済不況で破たん寸前に追い込まれたのですか? 「この質問には、巨額の金を実際に使った人々にお答え願いたいものです」

-ならば、不況から脱出する手立ては何でしょうか。首相はベイルアウト(訳注:公的資金 投入による救済措置)を実施することで不況を脱すると発言しましたが、あなたはモンゴル の実情に合わないと論評して注目を集めました。 「民間企業がリスクの極めて大きい事業を行い、大きな損益を被り、倒産してしまうと政府 が対応を迫られます。政府から資金が貸し出されます。借金とはいえ、返済される余地なく、 消えてしまいます。その莫大な公的資金は、納税者のお金があてられるか、紙幣を増刷して 確保されます。紙幣を発行し、税金で民間企業に融資することは、不況を脱しても続きます。 民間企業側にはモラルハザードが生じます。政府から資金調達を受けられるので倒産しても 何とかなる、という見方が広がるのです。これはアメリカで実践された方法です。民間企業 は政府資金を得て生き延びます。もともと、政府と経済が別々の構造を確立している国の政 策をモンゴルで模倣してもうまく行くとは思いません。もし、民間企業が政府から資金を受 けて操業することを制度化すれば、民間セクターを重視して発展するという方針が本質的に違うということになる。どんな国も、特に途上国においては、政府が後押しして、国有の製 造業を育てることが発展への近道となる。韓国、シンガポール、マレーシアなどの発展の歴 史が示している。モンゴルが発展するためにはこの路線を外れることはあってはならないと 考えます。

(中略)

モンゴル銀行は、直近の2年間におよそGDPの 15―20%に相当する額を市場に供給し、

これが現在の不況の原因となりました。これによって米ドルの為替レートが2年の間に急激 に上昇しました。非公式ですが、インフレ率も 30―40%上がりました。モンゴル銀行が出した 最新の数字を見ると、わが国の外貨準備高が大幅に減りました。13 億ドル、つまり4、5週 間しかもたない額です。さらにモンゴル銀行自体の短期債務の支払い分9億5千万ドルを引 くと4億ドルにも満たないことになります。中国とのスワップ協定による 15 億元は、わが国 の外貨の必要を満たすのに大きな助けとなりましたが、計算するに、すでに 10 億元ほどを使 い果たしているかも知れません。こうした措置も、中国の中央銀行に巨額のトゥグルグが蓄 積されることになり、多大なリスクになっていることも述べておきます。

-『ある日、棘が抜けたように不況から立ち直る』と証券取引所の所長が発言しました。オ ユトルゴイの投資協定が合意すれば、経済の問題はなくなる、と。同意できますか。 「現実的でない話です。そんな魔法のようなものはどこにもない。直接、間接的な国の借金 の重圧をさらに増やそうとすることは大きな問題です。不況どころでない、破たん寸前であ ると認めた首相とは残念ながら同意見です。既に起こっていることをそんなことはないと躍 起になって否定していましたが、とにかく現状を認めたわけです。外国への借金について話 し合う必要がある。総額で 210 億ドルです。このうち、政府の債務が 50 億ドルという公式の 数字があります。

残り 160 億ドルが民間セクターということになります。エコノミストは政 府債務が実際にはどのくらいあるか疑念を抱いています。50 億ドル以上あるのではないか。 対外債務は、GDP40%を超えない範囲にとどめる、という国際機関の指針、国内でも定め られているはずですが、現実には超えているようです。

-実質 55 パーセント超、との話が、補正予算編成時に国会議員の間で取り沙汰されました。 こうして話している今も政府庁舎ではこの数字を巡り、2党の間で言い争いが続き、政治状 況はまたも良くありません。 「モンゴル人民党は、政権参加の際に、債務の上限を引き上げないことを条件としていまし たが、今は自分から 70%に引き上げようとしていることが、政党の衰退、個人的利益を前に すれば国を犠牲にすることの現れです。50%または 55%にせよ、法律違反は明白です。国家 の債務の話しか出ませんが、モンゴル経済は民間セクターに影響されるというのなら、民間 セクターの債務についても話し合う必要がある。経済全体にどれほどの重圧であるか。急激 に発展した国家の歴史を参照すれば、国有企業、または政府の調整があってこそ発展できて います。シンガポールでは市場の調整役を政府が担っています。GDPの 23%が国有企業に よります。韓国もGDPの 25-30%を政府系企業が占めます。わが国は生産の 15-20%を占 めていますが、この数字を見ればわが国はこうした国々より市場経済が進展している国とい うことになり、なのになぜ発展しないのかという疑問がわいてきます。 また、最近、首相が民営化について発言することが増え、評論にもよく取り上げられていま す。どう考えても、教育、医療機関などを民営化すべきではありません。モンゴルにおける 現在の民営化は、合法化された賄賂の一つのかたちにほかなりません。人の手で作ったので ないものを民営化することはいけないと考えます。建設した建物、頭数を増やした家畜を個 人に払い下げることはいいです。土地、資源などはその1%も人が作ったものではない、国 民の共有財産を個人のものにしてはいけない。

―先ほどあなたは、外国投資に基盤をおいた経済ではいけない、と話しました。でもオユト ルゴイが稼働していた年にはかなりの経済成長が実現しましたよね。

「わたしの見方は違います。オユトルゴイはモンゴルに莫大なリスクをもたらしています。 一時的には大金が入ってきます、当然の流れです。個人に例えれば給料日に財布がふくらみ、 気分が高揚し、冷蔵庫も食べ物であふれんばかりになりますが、月末には状況が一変するの と同じこと。オユトルゴイのもたらすお金はわが国の給料ではない。協定内容も不利です。 モンゴルに利益どころか損益を与えました。免税についても特例扱いです。ロイヤルティが 支払われるといいますが、わが国の債務との差し引きとなります。どれほどの量の資源が国 外へ運び出されたか、実際の販売額がどれくらいか、それに見合うロイヤルティが支払われ ているのかどうか、それも疑わしい。こんな状況で 34%を売り、税収があるという話をし、 採掘が続くのはおかしい。何か目的があってこんなことになっているのかと思います。2015 年、オユトルゴイは 79 万トン、『エルデネト』は 59 万トンの資源を生産するそうですが、国 に支払う税金の額はオユトルゴイが 3240 億トゥグルグ、エルデネトが 4470 億トゥグルグな のです。公正さを欠いていて、正当化の余地はありません。幸いわれわれにはエルデネトと いう国有の利益を生み出す工場があります。本当に貴重な、わが国を支える『乳牛』と言っ てもいい。エルデネト社は我が国の鉱物資源活用の模範であり、国の発展のカギです。エル デネトを模範に設立した資源工場が2、3か所あれば、モンゴルは急速に発展できる。経営 方針を持ち、個人的な利益に惑わされず、能力ある専門の人々の手に託せば、近い将来実現 可能と思われます。

―首相は、支出を減らし、福祉を削減すると発表しました。このようにお金をかき集めるこ とで、不況を脱した事例はあるのでしょうか。 「この政策は元々、間違っています。不況時の経済対策としては多くの国では逆に、政府か ら社会への資金を増やします。多少かき集めるような政策を実施するのは不況でない時です。 経済が拡大したときにさらに拡大路線の政策を取ったばかりに、今になってそれを変えるこ とが難しく、レートは下落、インフレが進行したのです」(後略)

―2015 年 1 月 7 日政治ニュースサイト POLIT.MN

(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)

 

 チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣

ホルツ氏インタビューの連載2-1

小長谷有紀 (人間文化研究機構・理事)

 

2.モスクワ留学

 

K:あなたは地質という専門を自分で選びましたか?

H:そうです。ただし、いろいろな理由があります。最初は「ムン・アデイル[これまた同じ という意味のモンゴル語]」という大学に入学する許可を持っていました。

K:そうなのですか?「これまた同じ」という大学に入学したのですか?そんな名前の大学が あるのですか?

H:私がどのようにしてこの「これまた同じ」という大学に入学する許可を得たか、どのよう にして地質専門家になったのかについて、興味があれば話してあげてもいいですよ!私が中 学校を卒業するころには、田舎の学校でも外国の大学に入学する許可が少々おりるようにな っていました。ただし、ほとんどの生徒はモンゴル国立大学に入学していました。外国の大 学に入学する許可は、優秀な生徒にしか与えませんでした。これはウランバートルでも田舎 でも同じように決定していました。その年、わが学校にも外国の大学に入学する許可がきて いました。その 1 つをわが学校の校長や先生たちが私に与えると決定していました。日本の 教育制度はわが国と違うと思います。ですから、私のこの話は皆さんにはわかりにくいかもしれません。当時、わが国では教育はすべて無料でした。そのため、生徒本人が頑張って優 秀な成績を出せば、どこの大学にも入学できます。しかし、入学試験は必ず受けなければな らないです。その試験に受かれば大学に入学することができます。そして 1957 年の夏はじめ てウランバートルに来ました。当時のウランバートルを今のウランバートルと比較すること ができません。昼と夜のように違います。しかし、田舎から来た私には当時のウランバート ルはとても大きな都会のように思われました。大小たくさんの車やバスが走っていて、アス ファルトの道の横に色鮮やかな信号がありました。17 歳までこのようなものを見たこともあ りませんし、見るどころか聞いたことさえなかった私には、本当に不思議でした。初めてウ ランバートルに来て外出するときは、父から全然離れませんでした。「迷子」になりそうでと ても怖かったからです。

当時、外国の大学に入学する子どもたちのことをモンゴル人民革命党中央委員会が直接指 導していました。それで、父と一緒にモンゴル人民革命党中央委員会へ行きました。そこで 外国の大学ではどんな専門の勉強ができるかについて情報を聞きました。鉱業エンジニア、 電気エンジニア、小麦工場のエンジニア、肉牛乳工場のエンジニア、地質学者などの専門で 勉強することができることを知りました。そしてどの専門にするかと考え始めました。私は 「地質の専門ではどの大学にも行かない!」と決定しました。「地質学者とはやたらに森や川 に行き、自然界の精霊を怒らせる仕事だ」と思っていました。

モンゴル人は「自然界には精霊がいる。彼らを怒らせてはいけない。木を勝手に切ったり、 土に穴を開けたり、川に汚いもの入れたりすれば自然界の精霊が怒って、たくさん雪を降ら して雪害になる。あるいは、雨を降らさないで旱魃になり、病気が増え、人びとの生活が苦 しくなる!」と信じていました。何百年、あるいは何千年も前に、わが国土に住んでいた古 代人がそう信仰してきました。そして、毎年、春や秋になると、自然界の精霊を慰めて「オ ボー祭祀」をしてきました。皆さんはモンゴルの田舎に行ったことがあると思います。「オボ ー」とは何かを知っていると思います。オボーに自然界の精霊が集まってくる!とモンゴル 人たちは信仰していました。そしてこの神々のために最上の乳製品をささげます。これを「オ ボー祭祀」と言います。かつて「行政祭祀オボー」がたくさんありました。そこには、王侯 貴族たちが集まり、儀礼を行っていました。わが国に社会主義制度が設立されて以降、こう した儀礼は禁止されていました。1990 年代からこの伝統的な行事が再開されました。今は大 統領の命令で「行政祭祀オボー」を再開しました。「ハン・ヘンティー山のオボー」、「アルタ ン・オボー」、「ハン・ホゥヒー山のオボー」、「ソブラグ・ハイルハン山のオボー」などのオ ボーに 4 年に 1 度「政権の崇拝儀礼」を行う伝統を再開しています。この儀礼には、大統領 や首相、その他の政府要人がいつも参加しています。大草原の遊牧民たちが自然界を信仰し、 環境を保護する伝統は、今もわが国の人びとの頭の中に深く存在していることをこれらの行 事は証明しています。

けれども、私は鉱業エンジニアの専門を専攻しようと決定しました。この専門を選んだの には理由があります。「もし、鉱業の知識を身につけたらナライハの鉱山に勤めるでしょう。 ナライハの鉱山に勤められたら故郷のスフバータル県に帰るのに近くて便利だ!」と思って いたのです。皆さんはナライハの鉱山がどこにあるか知っていると思います。そこはウラン バートルから東方 45 キロメートルの距離にあります。大事なことは、故郷となるスフバータ ル県に行く道沿いにあります。ナライハ鉱山はモンゴルの最初の鉱山です。ウランバートル 市に石炭を提供している唯一の鉱山です。1922 年に人民政府からナライハの鉱山を国立にす ると決定しました。そして 1945 年、ナライハ鉱山が完全に開業されました。その後、シャリ ーン・ゴリーン鉱山、バガ・ノール鉱山と次々に国立の鉱山が設立されました。今はタワン・ トルゴイの炭鉱を利用する準備が進められています。このタワン・トルゴイは粘結炭の埋蔵 量で世界一の鉱山です。

私は父を連れてモンゴル人民革命党の中央委員会を再び訪れました。そこで、鉱業エンジ ニアを専攻しました。この専門でソ連にしか留学できなかったです。

当時、留学する学生の「学費」に関する問題をその学生の選んだ専門に基づきどこかの省 が負担していました。私は鉱業エンジニアを専攻したので、私の学費に関する問題を工業省が負担すると知りました。「学費」には留学中に 1 度モンゴルへ帰る往復旅費(列車で)と学 費、毎月の奨学金などが含まれていました。そして、留学する最初の年に必要な生活費など が与えられていました。そこで、私はまず工業省に行きました。管理局にモンゴル人民革命 党の中央委員会からの資料を見せて、再び登録されました。そこで、「あなたたちは 8 月 15 日より前に来てください。その時にどこの大学に留学するかは明らかになります。今は休ん でいいですよ」と言われました。そして、父と 2 人で故郷に帰ることにしました。夏の季節 で、ナーダム祭が近づいていました。ナーダム祭は遊牧民のモンゴル人にとっては最大の祭 りであると皆さんも知っていると思います。ナーダム祭をモンゴル人は楽しみにずっと待っ ています。その時、父と一緒に故郷に帰り、ナーダム祭に行くことを本当に楽しみにしてい たことは今も記憶に鮮明です。私たち 2 人にとっては、外国の大学に入学することは一番大 事だったのですが、故郷に帰ってナーダム祭に行われる競馬の準備をすることはもっと大事 な仕事でした。父は競馬が大好きでした。わが家は毎年のナーダム祭にたくさんの馬を競馬 に出馬していました。父の馬はたいてい優勝していました。父は故郷でとても有名な人でし た。私は今、当時の父の立場にあります。私も今、毎年、出馬させています。私の馬もナー ダム祭の競馬によく走ってくれています。私が公務員の仕事をしていたころは、かなり外国 に行きました。いろいろな国の素晴らしい祭りを経験しました。しかし、「モンゴルのナーダ ム祭」は違います!ナーダム祭の朝はとても素晴らしいということは、家畜のそばで育って 家畜の世話をしたモンゴル人にしかわからないでしょう。本当に素晴らしいのです。最近、 「モンゴルのナーダム祭」をユネスコの世界遺産に登録するという話題が取り上げられてい ます。この問題はもうすぐ解決できるだろうと思います。

当時、私たちはいくつかの家族と一緒に夏の宿営地に住んでいました。ほとんど親戚同士 で、7-8 家族の「ホト・アイル」[宿営地]で夏の宿営地に住んでいました。各家族の子ども が多く、多ければ 10 人以上の兄弟もいただろうと思います。わが「ホト・アイル」の子ども の数は 40 人近くになっていたそうです。そして、その土地の人びとは、わが「ホト・アイル」 を「たくさんの子持ち」と呼んでいました。家の家族はヒツジ 1,000 頭ぐらい、ウマ 200 頭ぐ らい、ラクダ 150-160 頭ぐらい、牛 200 頭ぐらいありました。そして父と 2 人で故郷に帰っ てきて、競馬に出馬しました。その年のナーダム祭も盛り上がってとても楽しかったです。 わがウマは相変わらずとてもよく走りました。そして、8 月中旬に父と一緒に再びウランバー トルへ向かいました。そして、工業省に行きました。そこで留学する学生たちにどんな専門 で、どこの国のどんな大学に留学することに決定されたかを教えていました。省の管理局の 局長の部屋に学生たちの名前を呼んで、どこの国のどんな大学に留学することが決定された かを教えていました。私が部屋に入るとき、そこに 2,3 人の学生が待っていました。私も彼ら の後ろに並んでいました。最初の 2 人が留学証明書を持って部屋から出ました。その後、「ド ンドゴビ県から来ましたバンザラガチーン・アディヤ、モスクワの地質学大学」と呼んでい ました。私の前に立っていた彼も留学証明書をもらいました。彼が出た後「スフバータル県 からきたチョイジンギーン・ホルツ!」と呼ばれました。私が一歩前へ出ると、「これまた同 じ!」と言われました。そして部屋を後にしました。そこから出て、「これまた同じという大 学があるのかな」とびっくりしていました。本当に幼かったですね。そうでしょう?

そして、留学が決まったから父と 2 人で準備をし始めました。工業省から私たちに少し現 金をくれました。そのお金で自分用のコート、スーツ、靴などを買いました。外国ではモン ゴルの民族衣装を着てはいけない!と思っていたのかもしれません。故郷にいたときにはそ んなヨーロッパ風の服など着たこともありませんでした。そして 1 つの木の箱を手に入れま した。昔からモンゴル人は遠くのところへ、何ヶ月も「ラクダの隊商」をしていました。こ の時に人びとは 1 つの木箱に生活品を入れて持って行っていました。その箱を「旅の箱」と 言います。父と一緒に手に入れたその箱はそれと同じ意味を持つ箱だったと思います。そし て、私はその木箱の中に買ったものを入れました。そしてその箱を袋に入れます。遠くへラ クダの隊商にでも行くような雰囲気でした。私自身もそう感じていたのかもしれません。当 時の店にはスーツケースを売ってなかったのか、父と一緒に「ザハ」で小さいスーツケース を買いました。それにもうちょっと質の良い服を入手しました。そして出発の日が来ました。

父と一緒にウランバートルの駅に着きました。当時タクシーはほとんどありませんでした。 バスはありました。しかし、バスは待ち時間が長かったものです。今とはまったく違います。 そして父と 2 人で駅に歩いて行きました。私は「父さん!疲れるでしょう」と思って荷物は すべて自分で背負っていたことを今も覚えています。そして駅に着くと、そこには人がたく さんいました。当時、留学する子どもを両親や親戚、兄弟などが皆で見送っていました。行 く人と見送る人でウランバートル駅は混雑します。子どもが留学する家庭では出発前日に親 戚を集めてごちそうを準備し、小さな「宴会」を催していました。そして、留学する子ども にメッセージを送ります。このようにして皆で見送りをしていました。子どもが留学すると いうことはその家族にとっては大きな誇りです。1990 年代の初めにソ連や東ヨーロッパでペ レストロイカが始まってから、モンゴルの青年たちがそちらの方へ留学するのは減りました。 今は留学生の数が増えています。しかし、今の若者たちはほとんど、西方に私費で留学して います。彼らは飛行機で飛んでいます。ウランバートルから直行便か乗り継ぎ便でどこの国 にも自由に行ける時代になりました。

その日、父と一緒に人ごみの中を、汗を流しながら進んで、やっと私の乗る列車のところ に着きました。そこには工業省の担当の人が来ていて、学生の名前を呼んで列車に乗せてい ました。当時、私たちの切符は工業省が買ってくれました。父と 2 人で名前を呼ばれるのを 待っていました。そしたら「モスクワ市の地質学大学に留学するチョイジンギーン・ホルツ、 列車に乗りなさい!」と大きな声で呼ばれました。こうして私は初めて自分が「地質学大学」 に留学することを知りました。これで、「地質学者」になる道が開かれたのです。当時から 50 年近く過ぎ去っていますね。

L:モスクワに着いてどんな気持ちでしたか?たいへんでしたか?

H:初めてのモスクワは素晴らしかったですね。その偉大な町に住んで、大学に通っていた時 代が遠くなるにつれ、当時の素晴らしさをますます感じるようになりました。青春とは素晴 らしい時代ですよ!初めて列車に乗ってモスクワに向かっていたときの楽しい思い出が残っ ています。私たちが初めて列車に乗たっとき、真っ白のシャツにネクタイをして、新しいス ーツを着ていました。そして列車の窓を開けて、頭を窓から出して一日中眺めていました。 ソ連、その中でシベリアの生活はモンゴルとは全然違います。途中で見た町、村、車、たま に猛スピードですれ違う長い、長い列車、ロシア人、一言もわからないロシア語の会話など、 見た、聞いた、すべてのものが不思議でした。私たちは初めてこんなことを自分の目で見て いました。そして、「シベリア鉄道」を 5 日間走ってモスクワのヤロスラブリ駅に到着したと きには、あの真っ白のシャツと新しい服が真っ黒になっていました。モスクワに到着した最 初のころはロシア語がわからなくてしょっちゅう「厄介な」状況に陥っていました。ウラン バートルで中学校を卒業した子どもたちのロシア語は、田舎の中学校を卒業した私たちと比 べればとても上手でした。私の中学時代にはロシア語を教えてくれる先生がわが県にはいま せんでした。そのため、私たちはロシア語をほとんど勉強せずに卒業しました。モスクワへ 出発する前に私たちは「入学試験」を受けることになりましたが、「私は 10 年間優秀な成績 を修めた。モスクワに着いて、ロシア人の中に入って、ロシア人の先生に教えてもらえば、 ロシア語を自然に覚える!この試験は受けない!」と思っていました。とても勝手でしょう? 私が中学校を卒業した年に優秀な成績で卒業したのは 2 人だけでした。その 1 人は私で、も う 1 人は学者の D.トゥムルトゴー氏でした。皆さんは D.トゥムルトゴー氏をご存知だと思い ます。モンゴル語、言語学に関して多くの本を出版した優秀な学者です。彼は現在、モンゴ ル科学の言語学研究所の所長をしています。当時、入学試験を受けてない、あるいは入学試 験に合格できなかった学生は留学させないという制度でした。それで私は試験を受けること にしました。私たちはロシア語と数学の試験を受けました。最初はロシア語の試験でした。 私を含めて 5 人がこの試験を受けました。この中でホブド県から来たチメドという子どもと 私だけが中学校を卒業してそのまま大学受験を受けていました。彼らの 1 人がバヤンウルギ ー県の労働委員会の会長を務めていた人でした。当時、モンゴル国立大学に付属する、ソ連 に留学する学生を対象にした「初級ロシア語」を教えるところがありました。私たちと一緒 に試験を受けていた 3 人はここで勉強していました。

(つづく)

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

晴明神社は京都一条戻り橋にある「魔除け」「厄除け」の神社です。ご祭神は「安倍晴明公」 921年摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれました。 平安時代中期に陰陽師・天文学者として数人の天皇に仕え信頼を得ました。

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 MoPI新年会のご案内

モンゴルのお正月(サガンサル)に日をあわせ、モピ新年会として皆さまと集う機会を用意 いたしました。お忙しいことと存じますが、万障繰り合わせご参集下さいますよう願ってい ます。

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参加申込みは、2月10日までに。 電話&FAX 又は、e-mailでお知らせください。

(075-201-6430)

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

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〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
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MoPI通信編集者 斉藤 生々

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