■NO 158号 モピ通信

■NO 158号 2015年4月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所

 

 MoPI定例総会のお知らせとお願い

 2015年度会費納入のお願い

『Voice from Mongolia, 2015 vol.10』

 ノロヴバンザトの思い出 その56

 ホルツ氏インタビューの連載 3

 編集後記

 

 MoPI定例総会のお知らせとお願い

(理事長 松原 正毅)

先にご案内いたしましたとおり下記日程で第14回MoPI総会を開催いたします。 委任状の提出などをお願いしていますがお済でしょうか。まだの方は、至急に返信を お願い申し上げます。

27年4月11日(土) 11時:MoPI事務所にて

2015度年会費納入のお願い

平成27年度が始まります。景気が上向いている」と叫ばれていますが、あちこちの暗いニ ースにかき消されているように思います。モピの活動にも会員の減少という流れが形になっ て現れています。が、今だからこそモピの理念を生かし、自分のできることを見つけて、こ れからも共に何かの担い手になって頂きたいと願っています。

モピは派手な動きはしていませんが確実に、誠実な動きは止めておりません。世間からは 高い評価をいただいています。これからも奢ることなく粛々と努力してまいります。

今後とも変わりなくご支援下さいますようお願申し上げます。27年度の会費をお願いし たくよろしくお願い申し上げます。

MoPI定款に記載しています会費は、一口 3,000 円です。年々世間の事情が厳しくなり 3,000 円では まかないきれないのが実情です。強制ではありませんが、 2口会員、3 口会員、1 万円会員としてご協力し ていただければと願っています。

振込み先・ 郵便振替 口座番号 O0940-6-84135

加入者名 モンゴルパートナーシップ研究所

 

銀行振込 三菱東京UFJ銀行 谷町支店 口座番号 普通 5096982

口座名義 特定非営利活動法人モンゴルパートナーシップ研究所 理事 松原 正毅

電信振込みの場合 トクヒ)モンゴルパートナーシップケンキュゥショ

(事務局 斎藤生々)

『Voice from Mongolia, 2015 vol.10』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「今は、教え子たちの夢が、私の夢。夢がかなうよう、全力で後押しします」 ―ジャンチブ・ガルバドラッハ(52)、学校法人理事長、アルハンガイ県出身

帯広市内で先日開催されたロータリークラブの交流イベントに、ウランバートルで「新モ ンゴル学園」を経営するガルバドラッハさん、通称ガッラー先生がゲストとして招かれ、講 演されました。家族連れで来日した苦学生が母国に学校をつくるという夢をかなえるまで、 そして現在について、流暢な日本語で語りました。

95年に妻、4人の娘を連れて国費留学生として来日。学業のかたわら、家族を養うため に早朝は新聞配達、夕方は運送会社での荷積み、夜は居酒屋と3つのアルバイトをかけもち する毎日でした。それでも「新聞配達はジョギングがわり、荷積みはジム通い、と明るく考 えていました」とはさすが!国費の期限が切れ、苦しかった私費留学の時期にロータリー米 山奨学生に。「アルバイトをかけもちしてやっと得ていた月額と同じ金額でした。お礼を言い にロータリークラブの例会に出席した際は、原稿を用意していたのに、涙が止まらず、ひと ことも話せなかった」。

留学時代を支えた山形のロータリークラブの人々に「モンゴルに学校をつくる夢を実現し て、恩返しします」と約束。以降は、寝ても覚めても、バイト中も、どんな学校にするか考 え続けていたとのこと。2000年10月、念願かない、新モンゴル高校を開校。ロータリ ークラブの会員らが「柱一本の会」として 1 年 1 万円の寄付を募り、400人近くの協力で 校舎建設資金が提供されたとのこと。「モンゴルの教育の良いところを残し、日本式のよいと ころをミックス」して、国際舞台で活躍、平和に貢献する人材の育成に力を注いでおられます。

東日本大震災の際は、直後の3月21日に交通の寸断された東北へ入り、モンゴルから持 参した50枚の絨毯と義援金を手渡されました。2014年には日本の高専をモデルにした 高専、工科大学も開校。「学校をまるまるもらった恩を、これからは『倍返し』してゆきます」。 教え子には、初心を紙に書き、コピーを常に持つように伝えており、卒業生は国連事務総長、モンゴル国総理大臣、ノーベル賞受賞などの大志を胸に、 米国や日本のトップの大学、企業などで活躍中。既に学 園構内に将来、卒業生がモンゴル初のノーベル賞受賞者 となったときのための銅像の台座を用意しているガッラ ー先生の夢が、近い将来、現実のものとなりますように!

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 写真説明)叔父さんがノモンハン事件で亡くなったという Y さ んとガッラー先生(左)。

平和な世の中に生きる幸せを感じます。

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「今月の気になる記事」

今回は、ガッラー先生の故郷でもあるイ県の、県知事のインタビューをお届け します。2002年から5年間、MoPI ツアーで訪れていた当時は、現地まで途中一泊してい ましたが、現在は同県ツェツェルレグまで長距離バスの所要時間は8時間、朝8時発で夕方 には着くとのこと。私事ながら、筆者はこの夏、ツアーの滞在地、ハイルハンバグ再訪を計 画中。もちろん道案内をお願いするのは、当時ツアーの現地スタッフとしてお世話になった G.バトエルデネさん(県知事ではありません!)です。

D.バトエルデネ「地方の発展には、道路整備より住民のための施策が重要」

(筆者:T.バトサイハン)
アルハンガイ県知事の D.バトエルデネに時事問題について聞いた。

-未年を迎える年末、アルハンガイ県は家畜の数でモンゴル一の県となりました。家畜数が 最多というのは言うまでもなく快挙ですが、ほかにも昨年は同県にとって数々の達成が実現 した年だったのでは?

「計画した事業はどれも順調に実施できました。家畜は400万頭に達し、国内トップです。 これは母なる地球、自然の賜物ですが。また、ツェツェルレグ市を4万-5万人規模の都市 にすべく、インフラ等の建設整備が始まっています。暖房用発電所建設も決まり、“ゴダムジ (街路)”プロジェクトも実施しました。現在は“ボルガンハンガイ”の名の新たな住宅地区 の整備にも着手しています。このように事業の進捗は順調です

-今年の仕事は何から始められましたか?

「2014年は“実のある事業で実績を重ねる”目標を掲げ3つの大規模事業を実施しまし た。県内の全ソムにワンストップの窓口サービスを普及しました。公共事業についての広報 も強化しました。“1村1品”のソムごとの特産品のブランド化も進めました。一方、今年は “住民ひとりひとりのために”のスローガンで、住民が健康、快適な生活を営むことのでき る環境づくりに力を入れます」

-発展は道路から、と言われます。アルハンガイ県の道路や土地は“街路”プロジェクトで 本当に良くなりました。今後は発展のためのどのような政策をすすめますか。次に来る大規 模事業は何ですか。

「アルハンガイは過去2年間で、発展の基礎を正しく築くことができたと思っています。開 発というのは道路を整備し、建物を建てるだけではなく、そこに住む人々を豊かにすること を重視すべきです。今後の開発政策は住民に向けられます。県の人口は9万2千人です。人 口300万人達成の日に生まれた赤ちゃんも、わが県が最も多かったのです。わが県では、 300万人目の国民たちには政府の認定に基づいて2部屋の住宅をプレゼントしました。ア ルハンガイ県の教育の状況は国の平均を下回っているので、まず初等教育に力を入れます。 保育所不足の問題は2015年中に解決し、ツェツェルレグ市では保育園(訳注:モンゴル 語ではツェツェルレグ)に行けず、取り残される子どもを一人たりとも出さないようにした い。この9月1日には保育所の入所率100%を達成することを目指しています」

-国中で財政不況がささやかれています。アルハンガイではどの程度実感されていますか。 概して、県民の生活水準はどうですか。

「県内には約 1 万7700の牧民世帯があり、家畜数は国内で最も多い。牧民はミルクや乳 製品を生産して流通させています。行政機関としては不況を実感していますが、牧民にとっ ては購買力が落ちるような不景気の影響は皆無といえます」

-県が発展するにつれて県民の生活も向上することが重要ですね。住民の生活向上のために 具体的にどんな事業が行われていますか。

「県は発展の基礎を正しく築いています。わかりやすく説明すれば、すべての事業が住民の 生活を向上させることにつながっています。“街路”プロジェクトでは8.6キロの道路、7 つの交差点、歩行者道路、自転車用道路や街路灯を整備しました。これらのすべてが住民の 社会経済の基盤を整えるものでした。またわが県は“環境に優しい”開発に力を入れ、暮ら しやすい環境の整備も進めています。住民自身も参加して雇用創出にもつながっています。 2013年には労働省から最も多くの雇用を生み出した県として表彰されました」(中略)

-アルハンガイ県は自然環境にも恵まれていますね。観光振興策はありますか。

われわれは“環境に優しい”開発のモデル県となることを掲げています。とはいえ、鉱山開発セクターもどのように支援するかも重要です。アルハンガイには銀、金、ウランといっ た多種の鉱物資源があるのです。これを、何とか適正に活用したい。石炭がない県なので、 石炭の鉱床が確認されれば一定規模で活用したいところですが、その他についてはさほど急 いで掘り起こす必要はありません。地下の資源に手をつけるより、手始めに大地の上にある 豊かな資源を有効活用することからだと思います。たくさんの温泉を活用する、史跡や遺跡 の数々を活用する、手つかずの美しい自然の景観を見てもらうなど、です。観光の面では、 ツーリストキャンプをあちこちに建てては放置するのではなく、システム化して地域的な取 り組みとして発展させることを考えています」

-氷上シャガイを県として後援、協会を設立されましたね。今後も継続されるのでしょうか、 また、このスポーツを選んだ理由は何ですか。

「氷上シャガイはアルハンガイ発祥と云われています。伝統として守っている何人かの元気 な先輩方がおられ、県がスポンサーになり応援すべきと考えました。協会の代表として活動 を盛り上げています。子どもや若者をこのスポーツに参加させ、裾野を広げ、競技の階級も 増やしたい考えです」

『ゾーニーメデー』紙より)

-2015年3月12日、政治ポータルサイト POLIT.MN

(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)

 

 ノロヴバンザトの思い出 その56

(梶浦 靖子)

曲目変更のドタバタ

そうこうするうちに小泉文夫記念コンサートが開場となり、観客が入り始めた時、楽屋 で身仕度を整えたノロヴバンザドがとんでもないことを言い出した。

「今日歌う曲のうち、2曲目はもっと簡単な曲に変えようと思う」 のどの具合のせいで音域的に難しくなったと言うのだ。 もっと気軽な規模の演奏会なら別にかまわないだろう。しかし今回は学術的な要素が強く、出演する各国の音楽の特色や歴史的背景などを司会の教授が解説、紹介しながら演奏 が進む。それらの音楽や楽曲の解説を前もってまとめたパンフレットが観客に配られるの で、曲目を変更するとなると、その旨を観客に伝える必要がある。さらに新たな曲の説明 もしなければならない。それを司会の教授にやってもらわなければならないのだ。開演直 前の慌ただしい中、司会をなりわいとしているわけでは無い教授にそうした面倒ごとを頼 むのはためらわれることだった。

私はあわてた。予定通りの曲を歌えないかとノロヴバンザドに問い返したが、とても無 理だという。たしかに話す声も普段と違い苦しそうなので、高音などで失敗したとしても 不思議ではない。それもまた避けたいところだ。曲の変更もやむを得まいと思った。

予定していたものよりも小規模で音域の狭い曲で、オルティン・ドーではなくオルタヴ タル・ボギン・ドーの「遥かなる蜃気楼」(前出譜例 15)を歌おうということになり、私 は舞台袖へ飛んでいった。

制作の責任者に事情を伝えているうちにもう舞台は開演となった。舞台裏はスタッフが せわしなく動き、あわただしさと緊張感につつまれていた。その後、司会の教授が最初の 出番であるインドの音楽についての解説と演奏者の紹介を舞台で語り終えて袖に戻ってき た。私は事の次第を説明し、新たに歌う曲の歌詞や背景をその場で伝えた。突然の変更に おわびを述べ、どうかよろしくお願いいたしますと頭を下げ、その場を辞した。どっと汗 が出た。大仕事を一つ終えた気持ちだった。

やれやれと楽屋へ戻った私にノロヴバンザドがまたとんでもないことを言い出した。 『さっき言った曲はやっぱりやめて、もっと小さな曲を歌うことにする』 と言う。なんだってそうなるのだ!「遥かなる蜃気楼」は四番まで歌うので曲が長くて声がもたないかもしれないからやっぱりだめだ、というのだ。 それなら最初からそう言ってほしい。もっとよく考えてから決めてくれないか!と、いろんな思いが囗から出かかったが飲み込んで、 私は思い直してくれるよう頼んだ。今しがた変更を申し出たばかりだ。その時でさえ舞台裏は張り詰めた空気で、曲の変更に対して、あからさまではないが、何だって?!とい う様子があった。これでまた行ったらどうなるのか?出番までもうさほど時間もない。ま た話をしに行く勇気は私には無かった。今からまた責任者をつかまえて話を通し、司会の 教授に再びの変更を伝えるのは、考えるだけで恐ろしいことに思えた。

その事情を話すとノロヴバンザドは、 「だったら無理に伝えることはない。私たちが曲目を間違えて演奏したことにすればいい でしょう」と言うのだった。

「先生、それはまずいです」

それでは観客に嘘の解説を聞かせることになる。それはまずいだろう。道義的にまずい。

やめたほうがいい。しかしどうにもノロヴバンザドらを説得することができなかった。 正しい曲名と歌詞の内容を観客に伝えるべき、せっかくパンフレットに載せた曲名と訳 詞が無駄になるのは観客に良い印象を与えない、パンフレットを作成した人たちの労が無駄になる、等々の理由を話してみたが、彼らにはあまり響かなかった。 せっかく来てくれた人たちにはできるだけいい歌を聴かせたい、失敗する可能性の高い 曲をやるほうが失礼だろう、という考え方のようだった。準備をしてきた過程よりも、い ま現在、より良い演奏を聴かせるほうが大事、といったところだろうか。観客がまじめにパンフレットを読むことが想像できなかったとも考えられる。 そうするうちにもうモンゴルの出番となってしまった。楽屋から舞台へ向かう間も私は、

先生、思い直してください、「遥かなる蜃気楼」を歌ってくださいと言ってはみたが、 ノロヴバンザドはもう舞台に意識が行ってしまって、ほぼ耳に入っていないようだった。 そうして結局、違う曲を歌ったのだった。オルティン・ドーの曲の中でも小規模で音域 も狭い「エルデネ・ザサクの子馬」という曲たった。私は脱力しどこかむなしいような心 持ちでその様子を袖から見守った。その日のノロヴバンザドの歌声は、確かにいつもより音色が荒れているようで、何より声を伸ばし切れていなかった。ロングトーンが普段より、 気持ち数秒短いように思えた。にもかかわらず響きの強さはさほど変わらないようだった のはさすがと言うべきか。

ノロヴバンザドらは拍手喝采をあびて出番を終えた。いろいろあっても舞台はまずまず 形がついたからまあいいかと私も思うことにした。

CD化されて

 コンサートも盛況のうちに幕を閉じ、出演者も舞台スタッフその他関係者もみなほっと 胸をなでおろし、互いの労をねぎ等っているとき、はっと思い出した。今回のコンサート は録音され、そのままCD化されるのだった。CDの解説文はコンサートパンフレットの ものをそのまま使う。これはまずい。私は制作者に「実は」と事の次第を話した。ええ?! と驚いていたが、ともかくコンサートは無事終わったのであまりお咎めもなく、レコード 会社の担当者と話をするようにとのことだった。

後日、言われた通りにしたのだが、担当者となかなか連絡がつかず、やっと話ができて も、先方も対応を決めかねるようで、上に相談してみるということだった。しかし待てど もその返答が得られず、私は「エルデネ・ザサクの子馬」の解説の文を一方的に郵送した、 と思う。いや結局、先方の連絡を待って送らなかったのだろうか。かなり以前のことなの でそのへんは記憶があいまいになっている。

その翌年にCDが発売となり、関係者ということで私にはその見本盤が送られてきた。 中身を見て驚いた。曲名とその解説文が修正されていない。くだんの一曲が録音と解説とが合っていないままだった。これはまずい。あってはならないことだろう。私はコンサー トの関係者に連絡し相談したが、何ともしようがなかった。レコード会社にも問い合わせ たが、明確な対応は得られなかった。いずれにしろ、CDの内容を修正することはもはや 不可能だった。 モンゴルに関わっていると、こういった体験は少なからずある。モンゴルの人々、社 会では何かにつけ、なぜか物事がとつぜん変更になることがよくある。そこには、変化を 恐れずむしろ好み、その時点でよりよいことを選択しようとするような彼らの性質が現れ ているのかもしれない。それと共同で事をなすのは、段取り通り予定通りを尊ぶ日本人に は骨の折れる点が多々あるということかもしれない。『小泉文夫記念音楽会ライブ』のC Dを手に取るたびそうしたことが思い起こされる。

(つづく)

 チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣

ホルツ氏インタビューの連載

小長谷有紀(人間文化研究機構・理事)

3.モンゴル国立地質研究所での地質調査

大学を卒業してモンゴルに帰ってきました。当時、モンゴル国立大学には地質調査学科が 新たに設立されていました。私と一緒に大学を卒業した D.トゥムルトゴーと 2 人で、そこで 教師をするという希望を持っていました。当時、ソ連やその他の国の大学を卒業してきた学 生たちの就職は、やはりモンゴル人民革命党の中央委員会が決めていました。「大学を優秀な 成績で卒業してきた若者たちを大学の先生として渡すわけにはいかない。工場にも優秀な学 生を送るべきだ!」という話がモンゴル人民革命党の党内から出たそうです。そして、モン ゴル人民革命党の中央委員会の議決によって、私は内閣付属の「地質研究所」に就職し、D. トゥムルトゴーは教員になりました。

そして、就職先に行きました。当時「地質研究所」の所長はマームジャビーン・ツェレン ドルジでした。モンゴル国立大学を卒業した 11 人、チェコの大学を卒業した 7 人、ソ連の大 学を卒業した 7 人、全部で 20 人ぐらいの専門家が働いていました。また、ソ連から派遣され た専門家もいました。この研究所から毎年、地質調査団が地方に派遣されていました。全部 で 2 つ 3 つのグループがありました。1 つのグループにソ連から派遣された調査員が 4 人以上 同行するという規則がありました。仕事に着いてまもないうちに所長に「私はもうすぐ調査 団の仕事を確認しに行くつもりです。あなたも一緒に来なさい!」と言われました。そして、 所長と一緒に地質調査団を訪れました。当時、ソ連から派遣されてきた専門家のことを私た ちは神のように見ていました。彼らの中には本当に知識の高い専門家がたくさんいました。 また、イデオロギーもかなりありました。ソ連人の専門家の言うことを聞かない、彼らから の相談を受け入れなかったら「反ソ連」、あるいは「モンゴルとソ連の友好関係の敵!」など と言われ、罰を与えられることもありました。こうして、地質団の仕事を見てゆくうちにそ こでのソ連人専門家の意見を聞く機会が与えられました。ときには彼らと激しく議論するこ ともありました。

なぜなら彼らの中には地質学についての知識が乏しい人もいたからです。たとえば、ウォ ルフラムという化学物質は単独で存在しません。このウォルフラムには他の化学物質が必ず 付いているのは確実です。地質専門家であればその物質を正確に言うことができます。しか し、ソ連の専門家から「いいえ、そうではありません。ウォルフラムにこんな物質が含まれ ていると聞いたことがない!」と私に議論をふっかけてくる人もいました。ウォルフラムだ けではなく、自然にあるいろいろな資源に含まれる物質を彼らはまったくわからないか、あ るいは聞いたことがある程度でした。そして、私と論争を起こしていました。私も抗弁し、 結局、彼らが知らないことが判明し、「降参」するようになりました。彼らのうち誰一人もモ ンゴル語はまったくわかりませんでした。私たちはロシア語で議論していました。当時、地質団の委員だったモンゴル人の専門家たちは「こら、ホルツ、やめなさい!そんなことを言 ってはいけません!あなたはソ連の専門家たちと論争を起こしたり、彼らを知識不足だと言 ったりしてはいけません!政治事件に巻き込まれますよ!」と言っていました。彼らの言う ことを考えてみると「そうかもしれない!政治事件に巻き込まれるかもしれない!」と思っ ていました。そして、一緒に来た所長たちの前で彼らと論争しないように心かけました。当 時「所長に何と言われるかな」と怖がっていました。しかし、所長はこの問題についてまっ たく違う考えを持っていたことが明らかになりました。彼は地質学者たちに「専門家と言う のはこのように知識の豊かな人を言う!」、「地質学者というのはこうじゃないといけませ ん!あなたたちは彼を見習いなさい!どうですか?あなたたちはロシア語で彼のように話さ ないといけません!」と言うようになりました。彼のこの言葉を聞いて私は「鼻が高く」なりました。

そして、所長と一緒にこの仕事を終えてウランバートルに戻ってきました。それから、間 もなく私は「地質研究所」の経済計画課の課長に任命されました。そして、1 年 6 ヶ月後に政 府の議決が下されて地質鉱業省が設立されました。これは、わが「地質研究所」を拡大させ るために設立された機関でした。地質鉱業省が設立されたことは私の人生にとって新たな一 歩となりました。地質鉱業省の大臣は M.ツェレンドルジが任命されました。M.ツェレンドル ジ氏は地質専門家ではなかったのですが、わが省の問題をよく理解し、指導するにふさわし い豊富な経験をもち、優しく、賢明な人物でした。私は省の経済計画課の課長に任命される ことになりました。これは「地質研究所」に勤めていたときの私の仕事でした。それに、地 質鉱業省の「総合地質学者」に任命されました。そこで働き始めた最初の時期にもまた、「お かしなこと」がたくさんありました。ある日、M.ツェレンドルジ大臣に「ホルツ君、あなた は 1 つの命令書を計画して来なさい!」言われました。そして M.ツェレンドルジ大臣は命令 の内容を紹介してくれました。地質調査団の団長がミスを起こしていました。そして彼を解 雇して他の仕事に任命するという内容でした。彼は地質調査グループの仕事を数年も指導し ている豊富な経験の持ち主だったので、彼を地質鉱業省付属の公的運送機関長に任命する予 定だったそうです。この内容で命令を作成することになりました。そして作成しました。そ れをもって、大臣の部屋へ行きました。M.ツェレンドルジ大臣は私の作成した命令書を注意 深く読んでいました。そして何も言わずに私をしばらく見つめたのち、

-あなたは、こんなふうに命令を書くのか?これは 1 人の人間を解雇して、違う仕事に任 命している命令ですよ。そうでしょう?と聞いてきました。これに対して私は、

-そうです!と言って、座っていました。

すると彼は、 -わかっているのならなぜそれを書いていないのか?あなたは何を書いて来たのか?私は

あなたにこんな乱暴なことを書いて来いとは言っていないですが!と怒っていました。そし て、

-あなたはモンゴル人なのか?ロシア人なのか?あなたの書いたこの中にモンゴル語の文 章は 1 つもありません!これを持って行きなさい!私の命令に従ってもう一度書き直して来 なさい!と言ってその命令書を返してくれました。大臣から急にこんな激しい言葉を聞いて、 急いで部屋を出ました。そして自分の部屋に戻り、自分で書いた命令書をもう一度読んで見 ました。大臣に言われたことは本当でした。内容もはっきりしていなくて、まさに「乱暴」 になっていました。そして書き直すことにしました。そして、書く前に、この問題でわが省 から解雇された人がいるか、公文書を調べて見ました。そして、書き始めました。仕事が終 わった後、一人で部屋に残って、ドアをしっかり閉めて、自分の書いた命令書を大きな声で 何度も呼んで、4,5 回書き直しました。そして大臣の部屋へ再び行きました。

M.ツェレンドルジ大臣は私の書いた命令書を注意深く読んでいました。そして、これでい い!と言いました。さらに私を見つめて、「1 つの命令書を作成するのにこんなに時間をかけ てはいけない!これからあなたが担当する問題はたくさんある!こんな調子ではまったくだ めだ!あなたは地質鉱業問題を扱う政府機関に勤めている専門の地質学者ではないか!省の 仕事を早く理解しなければいけない。ここから出ている命令はすべてモンゴル人民共和国の地質鉱業分野の発展に直接関係があるのだから、問題の大小に関係なく、責任をもつことが 大事だ!」と厳しく言われました。

こうして、大臣から与えられた義務を果たすために本当に「いろいろたいへん」でした。 当時、わが省には自分の担当の仕事を 10 本の指のように知っている、豊富な経験をもつ専門 家がたくさんいたのは、私にとって大きな支援となりました。大学を卒業してまもない私は、 どんな問題についても彼らと相談することができたので、彼らのことを今も尊敬し、感謝し ています。こんなふうに勤めていると、私はいつのまにか地質鉱業省の副大臣に任命されて いました。つまり、私が任じていた経済計画課課長の仕事を省の副大臣の地位にするという 命令が下されていたのです。これは「モンゴル人民革命党の中央委員会会員」という立場で した。当時、党員数が 1 万人もいたモンゴル人民革命党は、政府の全権を握る強力な組織で した。しかし、モンゴル人民革命党の中央委員会の会員の数は 100 人ぐらいだったと思いま す。彼らの 1 人が 26 歳の私でした。それからまもなくウランバートル市の第 10 地区から出 馬して、人民大会の会員(今の国会議員)になりました。また、モンゴル革命青年委員会の 中央委員会の会員にも任命されました。私はこれほどの短期間に、これほど多くの職場に任 命されていました。この時初めて職場の数を「怖がる」ようになりました。私は地質鉱業省 の副大臣に 1976 年まで任命され、1976-80 年には同省の大臣に任命されていました。

その後、モンゴル人民共和国から在ソ連大使館で地質鉱業問題を担当する書記に任命され ました。地質鉱業省の大臣や副大臣に任命されていたときは 1 週間のうち 5 日間、必ず会議 に出席しなければなりませんでした。しかし、私のおもな仕事はモンゴルの地質鉱業分野の 方針を確定し、それを実施することでした。この仕事を私は本当に「自分の思い通りに」続 けました。当時、わが国では地質鉱業の分野に特別に注目していました。1961 年 7 月に開催 されたモンゴル人民革命党の第 14 回大会から地質鉱業分野を発展させるための 10-15 カ年計 画を立てるという大きな目標が出されました。しかし、当時はモンゴルだけではなく、すべ ての社会主義国に地質鉱業分野を発展させる大きな目標が立てられていました。この分野で 社会主義国の協力が進展し始めていました。私が省に勤め始めていた時代はこんなにおもし ろい、忙しい時代でした。

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

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〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
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e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集者 斉藤 生々

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