■NO 161号 2015年7月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
ホルツ氏インタビューの連載
『Voice from Mongolia, 2015 vol.13』
ノロヴバンザトの思い出 その59
意味深い京都の佇まいを訪ねて
編集後記
ホルツ氏インタビューの連載
チョイジンギーン・ホルツ、地質鉱業産業省元大臣
ホルツ氏インタビューの連載
小長谷有紀 (人間文化研究機構・理事)
6.モンゴルにおける鉱産資源開発の歴史
L:モンゴル人は自然資源を利用してきた歴史をもっていると思います。すると、モンゴルの 地質をいつから調査するようになったのですか?
H:四季に合わせて遊牧してきた遊牧民の先祖がいるモンゴル人には自然の資源を利用してき た長い歴史があります。わが国の地質学者たちの調査を見ればわかります。モンゴル民族博 物館やモンゴル美術博物館に行ったことがあるでしょう。そこに、モンゴルの土地で発見さ れた石器、銅、鉄武器時代のとてもおもしろい展示があります。モンゴルの土地に住んでい た古代の人びとは石、銅、鉄を採掘し、自分たちの生活用品や飾り物を作っていました。銅 や鉄を採掘して使用する技術が優れたものだった証拠はそこにある展示物です。彼ら金や銀 で作った飾り物の形は人びとの興味を引いています。古代の遊牧民は世界の文化史に特別な 文化史を加えたと研究者がみています。
モンゴルの地で政権を掌握したフン、鮮卑、トバ、柔然、トルコ、ウイグル、キリギス族 の中に「鍛冶屋」という専門の人がいたと歴史書に書かれています。これについてモンゴル のベテランの考古学者 D.ナワーンさんの本に詳しく書かれています。552 年の冬、アルタイ のテュルク人たちが大きな反乱を起こし、柔然に滅ぼされました。この反乱を歴学者たちは 「鍛冶屋の反乱」と呼んでいます。
また、911 年ごろから契丹族の人びとはたくさんの鉄の工 場を作っていたことも書かれています。モンゴル帝国が設立されてから自然の資源を利用す るのは国家の政策で決められてきたと言ってよいでしょう。モンゴル人の礼拝している山、 川、河やその他の土地を勝手に掘ったり、さまざまな宝石、金、銀を探したり、またそれを 採掘したりすることが厳禁されてきました。
これについてチンギス・ハーンの「大法典」か ら読むことができます。支配する各地の法律に従うことを命じ、支配された国の政治、社会 を整備していたチンギス・ハーンの「大法典」は、モンゴル人の自然を保護する精神が深く 含まれている法律です。当時、こんな法律があった国はなかったと思います。モンゴル帝国 時代には自然資源を調査したり、加工したりする技術はトップクラスだったと言える根拠が あります。大きな戦争が起きるときには、武器を作るために自国の資源や、その資源を加工する技術がなければ成功できません。当時もそうだったわけですし、もちろん今でもそうで す。時代は異なりますが、この大きな例を日本の第二次世界大戦に参加した歴史からみるこ とができます。当時、日本の武器を作る技術はそんなに悪くなかったと言える根拠がありま す。
しかし、自国の資源のない日本は長年続いた大きな戦争に成功することができませんで した。日本が戦争に負けた大きな理由の 1 つはこれです。
一方、モンゴルの歴史を研究している外国の学者たちは、当時、モンゴル人は武器をつく る資源を自分たちで加工していなかった、武器は自分たちで作っていなかったなどと書いて いたのを読んだことがあります。私は歴史学者ではありませんが、こんな考えを持っている 人びとに賛成できないのです。これはモンゴルについて知識のない人びとが書いているもの です。当時、モンゴル人には武器を作る自分たちの技術があって、自分たちですべての武器 を加工していました。当時、モンゴル人はモンゴル以外にどこにもない構成の「鋼鉄」を加 工し、それで刀を作っていました。これはとても固いけれども、軽くて、しなやかな鉄でし た。ですから、モンゴル刀は簡単には折れず、しかも簡単に鈍くならない、サビないなど、 たくさんの長所があります。モンゴルで発見された考古学的遺物に関する科学的な分析の結 果が動かぬ証拠となります。ただ馬に乗った少ないモンゴル人があちこち走っていたわけで ありません。戦争をするうえで質の良い武器や戦闘技術が必要です。鉄の鉱石を発掘し、高 い技術で加工し、良い武器を作る伝統は長い年月続きました。調査を行いモンゴルの 地質構造について論文や本を出版しています。
1727-1728 年にモンゴルに来た旅行者(U.P.ティムコフスキー)は自分の日記に「ヨロー川 周辺から採掘している鉄の鉱石を溶かして鉄の鍋、容器を作ってキャフタに行って販売して います」と書いていました。その後、モンゴルに入ってきた外国資本の会社からモンゴル政 府にヨロー川周辺の鉄鉱石を条約の上で使用したいと依頼していた公文書史料があります。 18 世紀からイギリス、スウェーデン、ロシア、アメリカの探検家や研究者がモンゴルに来る ようになりました。この時からモンゴルの地質や資源のことが世界に知られるようになりま した。20 世紀初期にヨーロッパ、アメリカの探検家、研究者らの 200 ぐらいの調査隊がモン ゴルにやってきて作業を行っていました。これらの調査隊は、とにかくモンゴルの地質構造 や地下資源について情報を収集し、そのテーマで研究をしていました。1864 年から北京・張 家口市(カルガン)・ウルガ(ウランバートル)・キャフタ・シベリア方面で研究していたア メリカの地質学者 P.ポムパーはモンゴルの東南地方の地質構造や地下資源についてとてもお もしろい情報を集めていました。それからアメリカの地質学者 U.A.ウアイト(アメリカ 1869 年)、J.ミルナ(アメリカ 1877 年)らがモンゴルの地質構造や地下資源について情報を収集 し出版しています。またイギリスの学者地質学者 D.カルルテルス、M.P.プライス(1910 年)、 オーストリアの学者、地質学者 E.ジュス(1910 年)、アメリカの学者、地質学者 R.C.アンド リュース(1918-19、1922-25、1928、1930 年)らがモンゴルに来て、中央アジア、その中でモンゴルの地質構造や地下資源についてとてもおもしろい研究を「ロ シア地理学協会」がしていました。19 世紀初期から「ロシア地理学協会」は中央アジアにた くさんの調査隊を派遣しています。ロシアの有名な学者、探検家 N.M.プルジュワルスキー (1870 年)、M.B.ペフツォフ(1878-79 年)、G.N.ポターニン(1876-99 年)らの指導した調査 隊も含まれています。中央アジア、とりわけモンゴルの地質構造や地下資源について初めて のとても詳しい情報を世界に広めた調査を行ったのは、ロシアの有名な地質学者 V.A. オーブ ルチェフの指導した調査隊です。この調査隊は 1892− 94 年にモンゴルに来て地質の調査を始 めました。その後、D.A.クリメンツ(1891 年)、I.P.パチコフスキー(1903 年)、P.K.コズロ フ、(1907-09 年)、A.A.チエルノフ(1910 年)、M.A.ウソフ(1913-14 年)、M.K.コロヴン(1914 年)、A.E.ペルスマン(1917 年)らの指導した調査隊がモンゴルで調査を行いました。「ロシ ア地理学協会」によって行われた地質調査やその学者たちがこのテーマで書いた論文は今で も使われています。
それ以降、世界の地質学や構造学を知るための、中国・シベリアのプレート調査を行って いる研究者の数はますます増えています。
L:モンゴルの経済の鉱業分野にいつから外国からの資本が入るようになったのですか?これ に対しモンゴル人はどのように判断していましたか?
H:外国の地質調査の大きな調査隊が調査を行い始めたその時からモンゴルでの資源を調査す る、採掘することを厳しく監視するようになりました。特に金、銀や宝石などを探すことに 厳しく監視していました。
地質調査をするこれらの大きな調査隊の裏の目的は、モンゴルの資源に深く関係している ことをモンゴル側は知っていたでしょう。そして国を守り、外国人に自国の富を簡単にはあ げられないという考え方が生まれ始めたと思います。そして、最初はセツェン・ハン、トゥ シエート・ハン、サイン・ノヨン・ハン、ザサグト・ハンなどの盟長たちが領地内の資源を 調査したり、採掘したりすることを禁じた命令を作成し、それを守るよう厳命していました。
1780 年ごろからモンゴルで金、銀その他の宝石を採掘する作業を観察する目的の特別管理 局が設立されています。この特別管理局は歴史上に「金の管理局」と書かれています。「金の 管理局」は、最初はサイン・ノヨン・ハン盟の西、ザサグト・ハン盟の北、アルタイ山脈の 南を踏査していました。やがて対象地域を広げて、とても広い地域を当てはめるようになり ました。「金の管理局」は長年存続して、モンゴルの土地に金、銀その他の宝石を無断で調査、 採掘しないように監視する義務をきわめて優秀に果たしていたという公的な記録があります。
モンゴルの鉱業分野に初めて外国から得た資本は 1900 年から入ってきたと言える証拠があ ります。1900 年 3 月 13 日、金を採掘する目的で「モンゴロル」協会が事業を始めていました。 「モンゴロル」[露清合弁企業。ロシアのほかベルギーなどが投資していた。清は課税権だけ を保有し、実際の操業はロシア人によって行われていた]の本社はサンクト・ペテルブルク にありました。この会社の主な株主はロシアの未亡人女王マリヤ・ペオドロフナ、ベルギー の王リオポルドだったことが公文書史料にあります。また、ロシアの「ゾロトロス」協会、 パリにある工業を発展させるロシアの協会、ベルリンにある「メンデルソン K」商会、サンク ト・ペテルブルクの国際銀行、パリにあるオランダ銀行、ロシアの中国銀行などがある程度、 参入していました。そしてこの協会のトップの名簿の中に李鴻章と言う中国人の名前があり ました。この人は中国でかなり高位の役人だったそうです。彼は投資者に金を採掘する許可 をモンゴル側から引き出し、モンゴルにおける金採掘事業を実施していたそうです。その目 的で 1900 年ごろに北京にあるロシア・中国の銀行を経由して、彼の名前で百万ルーブルの金 がロシア側から振り込まれていました。彼はモンゴルで金の採掘事業を開始させる目的で自 分の付き人だったオランダ出身のフォン・グロトという人をモンゴルに派遣していました。 フォン・グロトは李鴻章の付き人をする以前、北京にあるアメリカ大使館に勤めていたそう です[このような事実は確認できない]。このフォン・グロトがこの事業の主な役割を果たし ていて、この事業を始めた人のように思われます。最初に彼は、モンゴルで金鉱山がたくさ んあることを知って、この情報をオランダやロシアの影響力のある人びとに伝えました。フ ォン・グロトはモンゴルに来て、とにかく金を採掘する許可を得ることから仕事を始めてい ます。これに関して、モンゴルにあったロシア大使館の領事 S.N.シシマレフが協力していま した。しかし、失敗に終わっており、モンゴル側は彼らに一切許可を出しませんでした。そ してフォン・グロトはヨロー川周辺のフデル、ハルガナタ、フイテンなど地域で、許可なし に金を採掘する作業を始めています。このときからフォン・グロトはモンゴルでの「モンゴ ロル協会」を指導することになりました。
「モンゴロル」協会はこうして事業を始めてからまもなく、トゥシエート・ハン盟、ツェ ツェン・ハン盟の盟長らは、許可なしで金を採掘していることに反対し、「モンゴロル」の活 動を完全に中止するよう要求しました。また、人びとは「山川を掘って、神を怒らせた!」 と怒りを現して、さまざまな方法で反対していました。
K:そして「モンゴロル」の活動は中止されたのですか?
H:中止することはできなかったそうです。しかし、人びとの反対運動の結果「モンゴロル」協会は金を採掘する正式な許可をモンゴル側から取るようになりました。金を採掘すること でモンゴル側と正式な条約を結ぶようになりました。1908 年に「モンゴロル」協会はモンゴ ルで 20 年間金を採掘する条約を結びました。その条約には「モンゴロル」協会に金を採掘し てその利益の 16.5%をモンゴル側に渡すと書かれています。これは、当時のモンゴル側にと って、とても有利なことでした。その後、ボグド・ハーン政権のとき、この条約を改定して います。新しい条約では 20 年間ではなくて「1921 年 5 月まで」と決定し、利益の 20%をモ ンゴル側に渡すと書かれています。そして新しい条約で「モンゴロル」協会は金を採掘する 作業を続けることをできました。「モンゴロル」協会は金を採掘する作業にアメリカの機械だ けを使っていたという情報があります。そしてそこに 40 人ぐらいのアメリカ人の専門家が勤 めていました。そこでアメリカの機械を使っていたのですが、ほとんど手作業で行っていた そうです。1915 年にモンゴル財務省から「モンゴロル」協会の活動に関して、調査をしたそ うです。調査の結果、そこで働いていた人数は合計 2,500 人ぐらいで、採掘した金をドイツ のハンブルク、オランダのアムステルダム、フランスのパリへ輸出し、市場価格で販売して いることが明らかになったそうです。また、「モンゴロル」協会は活動を開始してから合計 15 トンの金を採掘し、1,000 万米ドルの利益を得たことが明らかにされています。何年にどのぐ らいの金を採掘したかについての資料はモンゴルの公文書にあります。皆さんに機会があれ ば、これらの資料をみてください!これはモンゴル政府が自然資源の保護問題に注目してい たことと、外国の投資家に対して警戒をしていたことの証拠になる資料だと思います。モン ゴルの歴史上、政府が自然資源を調査したり、採掘したりする問題に対して行った政策は、 その時代の政府によって違いがあります。しかし、この問題がいずれの政権においても重要 な案件であったことに異論をはさむ人はいないでしょう。ボグド・ハーン政権は地質鉱業分 野に積極的な政策を取り始めていました。とにかく、モンゴルで地下資源を調査する、そし て採掘し、利用することを優先的な目的としていました。この事業に国内外の会社を参加さ せるのは正しいことだという理解は、この時代に初めて出てきました。そして、地質鉱業の 事業を管理させるために 1913 年に「金銀などの鉱山を開始する規則」を決定しました。この 規則で資源のある土地を国内外の会社にリースで使用させる、または契約に従って使用する 許可を出しています。そして、資源のある土地をリースで使用させ、契約上使用している国 内外の会社からモンゴル側に払う税金を採掘した資源の種類、量、利益によって決めること も決定されていました。たとえば、金銀銅から 20-30%、石炭から 10-20%を、鉛白や鉛の 15-20%、プラチナ、ダイヤモンドの 30-40%をモンゴル側に税金として支払わなければなり ません。この規則には、鉱山での作業を希望するモンゴル人は内務省に、外国人は外務省に 依頼書を提出すると書かれています。
この依頼書には自分の出身地やその他の必要事項、そ して、鉱業を始めようとしている地域名、採掘したい資源の種類、埋蔵量などについて詳し い情報を提出しなければいけないことを固く義務づけています。これは「試掘権」「採掘権」 「鉱業権」などです。しかし、これらの許可を出す前に、その土地がモンゴル人の礼拝する 場所かどうかを調査することも記されています。モンゴル人の礼拝する山や川周辺には許可 を一切出さないという規定もこの規則にあります。ボグド・ハーン政権はモンゴルの資源に ついての情報を積極的に収集し、それらの埋蔵量を確定する作業を行っていました。当時の 収集した情報によれば、石炭、鉄、銅、金、銀、鉛白、鉛、亜鉛、塩、黒鉛などの資源量が 多いことが明らかになっていました。しかし、これらの資源の量を確実に確定し、利用する 作業は幾つかの理由で進んでなかったです。当時、わが国には国内外の投資で金を採掘する 会社が 20 社ぐらい、石炭を採掘する会社は 10 社ぐらいありました。石炭の鉱山といえば「ナ ライハ炭鉱」であると言っても過言ではありませんでした。石炭の豊富な埋蔵量のあるこの 鉱山は 1915 年に使用が開始されました。最初、そこではロシア人の専門家たちばかりが働い ていました。そして 1922 年 12 月 22 日、政府の決定でナライハの炭鉱を「国有鉱山」としま した。これは 1921 年の人民革命後に設立された人民政府から鉱業分野を発展させるために行 ったたくさんの事業の中の一例です。そして、この日を「モンゴル国の鉱業分野記念日」と して毎年祝うようになりました。去年、私たちは鉱業分野発展の 90 周年記念日を祝しました。
『Voice from Mongolia, 2015 vol.13』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「モンゴルの田舎はいい。山、水、きれいな空気。緑、ベリーなど果実が豊かで、生活費 はあまりかからないし、家畜がいるから肉はある。心配事やストレスも少ない。今やどこで も携帯電話やインターネットが使えるし、住むとしたらボルガンの北の方、ホタグウンドゥ ルか、ヘンティーのダダル、ビンデルあたりが最高かな」
― P.ガンホヤグ(46)、食糧農牧業省上級専門家(家畜政策)、トゥブ県出身
先週、モンゴルの農業省関係者5人が北海道・十勝の農業生産現場を視察に訪れ、通訳と して同行する機会を得ました。そのうちのひとり、ガンホヤグ(ガナー)さんをご紹介しま す。
社会主義時代の集団的生産体制、ネグデル(牧畜協同組合)の最後の時期に、トゥブ県バ ヤンジャルガランソムのネグデルに家畜受精師として赴任。以来、20年以上畜産分野一筋。 「まさに体制が変わる時期で、ネグデル所有の家畜をソム住民に分け与える仕事にあたった。
子どもから大人まで、ひとり40-45頭ずつ」。92年以降は同県の農業局で羊・ヤギの繁 殖を担当、97年以降は省農業局の上級専門家として、モンゴル家畜プログラムなどで家畜 の品質向上やリスク対策などにあたる。
今回は1週間滞在し、農業生産の現状に加え、所得向上のためのさまざまな取り組みを視 察。地元 JA がオーガナイズし、農家が野菜や加工品を直売、年間150日あまりの営業で売 上3億4千万円を誇るファーマーズマーケット「愛菜屋」(帯広市のお隣の芽室町)では「モ ンゴルの未来が見えた気がする。畜産品や乳製品販売と組み合わ せられたら」。また畑の隣でカフェを経営、または農場敷地内に 加工施設やレストランを備え、自社加工のヨーグルトやアイスを 販売するなど、自分スタイルの農業に挑む若手後継者と交流し、 「モンゴルでも若者の農業離れが大きな問題。こういう農業スタ イル、加工技術をぜひ伝えたい。両国の農業者同士の交流もすすめたい」と熱く語った。 地方出張も多く、すべての県を歩いたという彼に「住むならどこ?」と尋ねた答えが冒頭のひとこと。しかし、でも妻は英語教 師で、娘(22)も息子(16)も家畜とは縁がまったくないと のこと。娘への土産のマックのノートパソコン、喜んでもらえる といいですね
(写真説明)回転寿司店で。イカも完食したのはさすが
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【イベント情報です!】7/11(土) 爽やかな夏の十勝でナーダム見物いかが?
先月の当コラムでも少しお知らせしましたが、北海道在住のモンゴル人たちによるナーダ ムがこの夏、私の住む十勝で開催されることが決まりました!
会場は、帯広市から車または JR で約30分、十勝ワインのふるさととして知られる池田町・ まきばの家キャンプ場(池田町清見144☎015-572-6000)。
モンゴル中が祝祭ムードに包まれるナーダム初日の7/11(土)午後1時スタートです。
この機会に、ナーダム見物を兼ねて、ベストシーズンの緑あふれる十勝へ遊びにいらっしゃいませんか?
主催は、道内在住のモンゴル人でつくる北海道モンゴル交流協会。北海道生まれの自分た ちの子どもたちに祖国の文化を見せたい、そして、モンゴルについて地元の方々に知っても らいたい、という趣旨だそうです。道内各地から60人くらいのモンゴル人が結集し、モン ゴル相撲や弓射、野外料理ホルホグ、民族衣装コンテストなどで交流を深める予定です。
地元のモンゴルに関心のある企業人や市民でつ くる「とかちモンゴル会」(私が事務局をしています)では、地域のみなさんでイベントを盛り上げる 応援企画を検討中。
モンゴル人による企画内容案は、とかちモンゴル 会ブログhttp://tokachimongol.seesaa.net/ に 掲載しています。詳細決まり次第、同ブログで随時 お知らせしてゆきます。お楽しみに!
ちょっと心が動いたあなた!宿泊についてのご 希望、アクセスなどの観光情報が必要であれば、お手伝いします。
「とかち晴れ」の青空の下でお会いできますように!
ノロヴバンザトの思い出 その 59
(梶浦 靖子)
異文化音楽をどう迎えるか
モンゴルの民主化にともない、1990 年代初頭はノロヴハンザドをはじめモンゴル音楽家 の日本公演が倍増した時期だった。公演を主催する呼び元は、音楽プロダクションのほか、 地方自治体や民間の団体などさまざまだった。それらの実施したコンサートに直接触れ、 あるいはノロヴバンザド達から話を聞くなかで、モンゴル音楽および音楽家の受入れかた。 扱いかたについて、考えさせられたことがある。
もっとも問題が多く思われた例はこうだった。ノロヴバンザドとモリン・ホール奏者、 もうひとり楽器奏者からなる出演者らを、実に無茶な形で公演させたというのである。 一日に数回、最大で3公演詰め込んだスケジュールで数日間、狭い車に乗せられあちこち連 れ回され、しかも季節は真夏で、蒸し暑さと疲労でとうにかなりそうだったという。そして 演奏するのは町内の夏祭りの会場や、どこかの宴会場だったという。駆け出しの新人歌手の キャンペーンならそういうこともありうるだろう。しかし国からいくつも賞を授けられた、 モンゴル国を代表する芸歴数十年のベテランの歌い手を遇するやり方ではない。国が国なら ば国際問題にもなりかねないことだった。またオルティン・ドーがとても体力を消耗する歌 であることを常識として知っていれば、とても成しえない暴挙だ。私にその話をしてくれた 時ノロヴバンザドは呼び元の人々について、
「あの人達はイフモーですよ!」
と忿懣やるせない様子だった。
イフモーとは ikh (たいへん)muu(悪い)のことだ。「大悪(おおわる)」とても訳したら
いいだろうか。モンゴル語で普通に言う表現かどうかわからない。外国人の私にもわかりや すいよう、よく使われる単語をくっつけて作った言葉かもしれない。
確かにモンゴルの音楽家は日本では知られていない。しかしそれは、両国間に文化の交流 が少なかったからであり、けっして彼ら音楽家の地位や実力のせいではない。異文化の音楽 を紹介する場合は、その文化、社会におけるその音楽および音楽家の地位やありかたをでき るだけそのままもってくるべきものだろう。それができないのなら、その音楽を呼んで来て はならないのである。異文化を迎えようとするなら、学ばねばならないことは数々あるのだ。こうしたことを取り締まる法律はなく、呼ぶ側の良識と、呼ばれる側の用心にゆだねられ ている。
あるいはまた、音楽家を十分に納得させないまま彼らの音楽を流用した例もあった。ノロ ヴバンザドの話では、あとでまた報酬を支払うからという約束で録音したのに、そうはなら なかったという。ノロヴバンザドはその担当者に何度も連絡をとろうとしたが先方は無視し 通したらしい。結局、彼女が報酬を受け取ることはなかった。その録音物を販売して得た利 益を、たとえ自分の懐に入れず、慈善活動などに活用したとしても、許容されるべきことで はないだろう。異文化を「迎える」以前の話だ。
私も彼女から頼まれてその関係者に電話したことがある。しかし、そんな約束はしていな いからの一点張りだった。契約書などの証拠もないし、私自身、法律的なこともわからないし、実際の状況を見ていないため強く問いただすこともできなかった。
当時モンゴル国は国際的な著作権条約に加盟していなかった。していたとしても、民謡な ど伝統音楽の場合、音楽家の権利は十分に守られているとは言いがたい。私の手に余る問題 でまったく力になれず、今も悔いの残る出来事だった。モンゴルが市場経済の世界と初めて 直接関わるようになった時代の話である。モンゴル側も大いに学習したしヽ今ではそのよう な事態に陥ることはなかろう、と思う。
(つづく)
意味深い京都の佇まいをたずねて
(荒木 伊太郎)
◎ 仲源寺(ちゅうげんじ)・目やみ地蔵。
京都市東山区四条通大和大路東入る(南座の少し東)にある浄土宗の寺院。 山号は寿福山、本尊は地蔵菩薩で目疾(めやみ)地蔵とも称される。
眼病に霊験があるとして信仰されている。
矢田寺(あじさい寺)と松尾寺に行って来ました。当日は晴後曇で紫陽花は見頃、人多く 大変でした。その上、このお寺はかなりな石段を昇らないと花のあるところや本堂に行けま せんので頑張って歩きました。そのお陰で膝と脹ら脛が痛く、いまもそろそろ歩いています。
珍しい紫陽花・松尾寺の塔の写真を添付します、楽しんで下さい。
編集後記
梶浦さんの記事、ノロヴバンザト先生に対する日本側の無礼な対応、モンゴルの資源に対 しての色々な国の思惑、生きていく中での出来事は大変なことが多々ありますね。
今回は、アジサイの花で気持ちを静めることができそうです。