■NO 167号 2016年2月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
モンゴルのデザイン:自然環境と社会環境並びに歴史的背景 2
『Voice from Mongolia, 2016 vol.19』
ノロヴバンザトの思い出 その64
意味深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からおしらせ
モンゴルのデザイン:自然環境と社会環境並びに歴史的背景 2
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事)
<動物意匠に描かれた闘争心>
先史時代の岩絵がモンゴル各地に散見される。ドンドゴビ県のウルジー山には 10 キロメー トルにもわたって続く岩絵があり、鹿が描かれている。また、ボルガン県、ホブド県、バヤ ンホンゴル県など各地で農耕作業も描かれており、農耕が営まれていたことを証明している。 ただし、一般に岩絵は年代特定が難しい。
遊牧政権の王権を象徴するモニュメントとして、ヘレクスルがある。モンゴル語で「キル ギス人の墓」という意味だが、墓ではなく太陽崇拝の祭祀遺跡とする説もある。円形もしく は方形の石囲いで囲まれた、積み石塚である。モンゴルのほかに、トゥバ、アルタイ、天山 に分布する。同じ地域に鹿石が分布する。鹿石とは、鹿の図像が浅く彫り込まれた高さ1〜 3メートルの石柱(角柱が多い)である。デフォルメされた鹿の図柄が石全体を覆い、その ほかに耳飾りや首飾り、弓矢と盾、帯、短剣とナイフなどが描かれている。それゆえに、戦 士を表していると考えられる。ごくまれに人面のついているものもある。
なお、石によって生前の兵士個人を讃える習慣は、のちの突厥時代(552〜630 年、682〜744 年)の石人に再び受け継がれている。ただし、石人の多くは右手にワイングラス、ベルトの 上で左手に短剣をもつ像となり、よりリアリスティックである。石人に付随するバルバル石 列は生前殺した敵の数と言われている。
上述のヘレクスルや鹿石は、その出土品から紀元前 10 世紀にさかのぼり、スキタイに先行 する。
スキタイはヘロドトスの記録によって知られており、もともと、前7世紀から4世紀にか けて黒海北岸で活躍した騎馬遊牧民の文化を指していた。1970 年代以降、シベリアでの発掘 調査が行われるようになると、その起源はさらに古く、モンゴルの北、シベリア東部にさか のぼることがわかった。炭素 14 年代測定法により、トゥバのアルジャン一号墳は前9世紀後 半から8世紀前半で、また同じくアルジャン二号墳は、それより 200 年ほど新しい前7世紀 末で、後者からは鉄製品と、5700 点総重量 20 キロに及ぶ金製品が出土した。
こうして、騎馬遊牧民はスキタイも匈奴も、ユーラシア草原の東から西へと移動したと考 えられるようになった。
「スキタイの3要素」として広く知られているのは、馬具と武器と動物模様である。馬具 も武器も軍事遊牧文化を直接、反映している。動物模様は、スキタイ前期では鹿などが単独 で表現されていたが、鹿の角が複数盛り造られている様子はスキタイに先行する鹿石に共通しており、後ろに見返る姿は後期に発展する「動物闘争文」に共通している。動物闘争文と は、ライオンやワシやそれらの合成仮想獣であるグリフィンなどの猛獣が草食獣に噛み付い た絵柄である。こうしたデザインは動物に類感する軍事的闘争精神の現れと言えよう。
後期スキタイ美術はギリシャやペルシャの影響を受けていることを特徴としている。アル タイのパジリク古墳群からの出土品には、西からのペルシャ絨毯と東からの絹織物があり、 デザインとともに文物が交差したことを証明している。この絨毯には、ペルセポリスの浮き 彫りと同じ騎士像が描かれていて、かつ北アジアにしかいないヘラジカが描かれている。東 西どちらで作ったかはわからないが、東西のデザインが共存している。
スキタイに続いて東に起こった匈奴では、南から農耕民や技術者を移住させ、定住集落も 建設したが、全体としては西への民族移動を歴史的に促進した。
匈奴の墓はノインオーラ。ウランバートルの北。紀元後1世紀前半。毛織物の絹織物のズ ボン。最古に近いもの。
<東西交流と南北交流>
草原の軍事文化が闘争的であるとしても、それによってもたらされたのは文化の交流であ る。モンゴル帝国時代もまた、パクスモンゴリカと呼ばれる平和が築かれ、東西文化が交流 したことは、マルコポーロなどの旅行記が示している。
モンゴル帝国時代を創出したチンギス・ハーンは、モンゴルにおける一大フィギュアであ り、各種商品で消費されている。チンギス・ハーン肖像画は大きく2種類存在し、モンゴル 国ではもっぱら台湾故宮博物館に所蔵されている肖像が流布しているが、周辺のブリヤート では近代に起源を持ち、日本製ではないかと言われる欧風肖像画スタイルの肖像が今日でも カレンダーに利用されている。
興味深い現象として、現代、富裕層が過去に遡及してアイデンティを獲得する傾向がある。 舞台衣装に限らず、パーティ衣装として、人びとは帝国時代を模倣した衣装を身につけ、さ らに過去を遡及して匈奴時代の推定衣装を着る。ウランバートル市郊外にある観光施設、巨 大なチンギス・ハーン像の下に匈奴博物館があることに象徴されるように、選択的過去を設 定し、同一視するオーセンティック戦略がデザインのうえで実践されている。
そもそも、モンゴルはヨーロッパやロシアに対して破壊的イメージとともに皇族衣装デザ インを提供したし、さらに 20 世紀においてもスターウォーズのパドメ・アミダラ姫のように サンプリングも提供した。
13 世紀、はじめてチベット仏教と接触したチンギス・ハーンは戦闘の神さまとして大黒天 のみを受け入れた。16 世紀のアルタン・ハーン(1407-1582、在位 1551-1582)は、現在の内 モンゴルの首都である呼和浩特を建設する一方で、チベットに進出した際、仏教に帰依し、 のちに青海に迎華寺を建立し、第 3 代ダライ・ラマを迎え、やがてモンゴル全土にチベット 仏教が広まった。モンゴルにおけるチベット仏教は闘争の宗教から平和の宗教へと転換した のである。
清朝時代にはとくに各地に寺院が建設され、男子の多くが弟子として仏門に入った。自由 な戦争が許されないなかで、かつて戦士であるべき男性たちは結果的に僧侶となり、多様な 階梯に序列化された。上述の 1918 年の統計によれば、成人男性の約半数が僧侶であった。言 い換えれば、遊牧はそれだけの学生を食わせるだけの豊かな社会でもあった。
モンゴルには、チベット仏教の源であるチベットに存在しない風習として、王侯貴族が信 仰の証に人間集団を寺院に寄付するという風習がある。王侯貴族が活仏などの高僧や寺院に 人間集団を寄付することによって、チンギス・ハーンの末裔による支配と、チベット仏教に よる支配という聖俗2種の統治系統が並存することになった。これらの2つの統治原理をあ わせ持つ制度は、清朝が辛亥革命(1911)で倒されてのち、共戴、ボグド・ハーン時代 (1911-1924)に明示的となった。
チベット仏教の浸透は、インド起源のアーユルベーダが北進するなどの南北交流をもたら す。ただし、南北交流そのものは古くから行われていた。一方的に定着文明の先進さを遊牧 民が受容したわけではない。遊牧民側もデザインの発信者であった。例えば、羊の漢字が美や祥、善など高付加価値を表現する文字に用いられるのは、遊牧文化の優越性を反映してい る。また、北京を建設したのは元朝時代、フビライ・ハーンであり、北京の胡同はモンゴル 語のホダグ(井戸)ないしホト(宿営地、街)に由来している。
<イデオロギーによる同化と異化>
1924 年に外モンゴルで社会主義政権が確立してからは、国際的なイデオロギーを受容する ことによって、近代化が進められた。騎馬遊牧民の末裔は、馬から下りて、工場労働者や公 務員や農民になった。これら戦士たちの戦闘目標は社会主義の建設となった。
当時のプロパガンダポスターは、生活文化の多様な側面にわたって、社会主義のもとでの 近代化が生活デザインをグローバルに牽引していたことを物語っている。
しかし、冷戦と中ソ対立のため、モンゴル人は、ヨーロッパ化するモンゴル国と、アジア 化する内モンゴルとの分断を経験した。スプーン・フォーク・ガラスのコップなどのモンゴ ルと、箸・お茶碗の内モンゴルとに分断されたのである。生活文化デザインの違いが見られ るようになった。その違いは 21 世紀にも引き続き明瞭である。
また、社会主義イデオロギーは宗教を否定し、仏教寺院のほとんどが破壊され、わずかに 博物館が残る程度となった。そのため、チベット仏教デザインは生活文化と断絶した。外モ ンゴルでは 1990 年以降、内モンゴルでは先んじて 1980 年頃から、チベット仏教が復興する とデザインにおいても再び大きな影響を及ぼすようになった。
『Voice from Mongolia, 2016 vol.19』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「あなたはラッキーですね。よくない方へ変わる前のモンゴルの人々と出会うことができたか ― オノン、留学生、オブス県出身 ―
ウランバートルに行くと、変わらないものより、変わったものが目につく。以前はなかっ た東京や札幌にもあるような高層ビルやホテル、ブランドショップなど。首都中心部にある トゥブショーダン(中央郵便局)やウランバートルホテルなど、社会主義時代に建てられた 建物が一回り小さく、形見が狭そうに見えてしまう。もちろんロシアの影響下で整備された 古いロシア風の住宅群だって、たかだか数十年。歴史的に見れば、この街の一時の姿なのだ ろうが。
私がよく知っているウランバートルは世紀が変わる頃のものだ。最近は「移行期」と呼ば れ、『当時はタイヘンでしたが、今のモンゴルは違います』と一歩距離をおいて語られる90 年代とその後しばらく。とはいえ、社会主義体制崩壊に続く民主化から既に10年近くがた ち、持てる者、持たざる者は既にはっきりしつつあった。多くの人が豊かになりたいと切望 し、生活の糧を稼ぐ小さなビジネスに追われていた。
98年頃、何度目かのモンゴル旅を思い出す。数日前の大雨で橋が壊れ、車が立ち往生し た日暮れ、通りがかりのオートバイの男性が止まってくれた。モンゴル人の友人とふたりし て後部シートに跨り、お土産の米袋を両ハンドルにぶら下げての3人乗りで目指す牧民宅に 送り届けてもらった。頭上にはサーモンピンクに染まる夕焼け空。必要なものは何でもお金 で手に入る(と思わされる)日本の都市生活と、まったく異なる暮らし。電気や水道などモ ノがなくても、知恵と家族があれば、自然のなかで人は生きてゆける。ヒトという生き物が、 持ちうる強さ、優しさ、生活の知恵とわざがここにはあるのだ、と思った。
「あなた方は、私たちには映画に出てくる人々みたいに見える」と牧民に言われたのもこ の頃だった。イマドキのアウトドアウェアやカメラなどを手にしていたからか、忙しなく動 き回る挙動からの印象か、今となってはわからない。あなた方の日常のありふれた一コマ、 ゆったりした立ち居振る舞いこそが、私には映画のワンシーンのようだ、と言いたかった。 カタコトのモンゴル語では到底伝えられなかったが。
それから20年が過ぎた。28歳の今を生きるモンゴル人女性の言葉を「よくない方へ変 わる」と私は解釈したが、モンゴル語で「ヒャムラフ」(不調になる、混乱する)。彼女の真 意はもしかしたら別のところにあったかも知れない。オブス県に生まれ、モンゴル第2の鉱 山都市エルデネトで小中学校時代を過ごし、大学進学後はウランバートルへ。放牧地の管理 や飼料を研究し、今回は短期の留学だが、チャンスがあれば日本で学位を取り、研究職に就 きたいという。フィールドワークで牧民と関わる中で、人心の変化を肌で感じているのだろ うか。
今、モンゴルの草原をふらりと旅したら、牧民は受け入れてくれるだろうか。ゲルにソー ラーパネルが付き、手にはスマホの牧民からどんな言葉が聞けるか、興味はつきない。
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今月の気になる記事
大型スクリーンより、手元のスマホの画面から目が離せないのはモンゴルも日本と同じの ようですが、時代の変化を見つめ続けて来た映画人も健在。初の映画として名が挙がって いる『モンゴル・フー(モンゴルの息子)』、ネット情報によると撮影地はアルハンガイだ そうです。見てみたい!
Ж.ソロンゴ 「初のモンゴル映画は、アメリカで旋風を巻き起こしたのです」
モンゴル・キノ連合の会長で、映画監督、芸術功労者として勲章を受けたソロンゴ氏のイン タビューをお届けします。
(筆者:Х.モンゴルハタン)
*まずは芸術功労者としての叙勲おめでとうございます。2015年はモンゴルの映画界に とっては歴史的な1年でしたね。
「昨年はモンゴル人が映画を制作し始めて80周年の記念すべき年でした。1935年10 月11日に当時の党トップ、П.ゲンデン首相、Г.デミド、Х.チョイバルサンが署名してモ ンゴル・キノ映画製作所が設立され、市役所の建物が供与されたのが始まりです。いかに映 画制作に重きが置かれていたかわかります。まだモンゴル人が映画を作ったことはありませ んでしたが、ボグドハーンから庶民に至るまで人みな映画を見ていました。映画はすべての 芸術のなかでも最重要と理解され、草原に撒き散らしたような遊牧民を啓蒙し、学ばせ、社 会化するのが目的でした。わが国は当時貧しかったが、映画制作のための機材、カメラなど を購入し、人材育成が始まった。1935年はモンゴル映画の記念すべき『ファースト・シ ーン』が刻まれたのです」
*初のモンゴル映画『モンゴル・フー』は国内での上映が禁止されたそうですね。政治体制 が変わり、党中央委員会のこの決定は無効になりましたか?
「1936-37年頃のモンゴルの生活を物語る、モンゴル人俳優の出演による『モンゴル・ フー』という長編映画で、ロシア人たちが制作しました。ウランバートルで上映されると、 人々は自分たちの暮らしについてモンゴル人自身が演じる映画を見て喜んでいたのですが、 反体制派による事件が取り沙汰されると、作中に登場する反体制派『トム・トルゴイ』とい う僧侶たちのシーンをカットせよ、との声が上がりました。ロシア人製作者は自分たちの資 金で作った映画を削除することを拒み、党委員会が上映禁止に踏み切った。決定を覆す措置 がないため、未だに決定は生きています。90年代中頃、こっそり何度か上映したことはあ ります。近く無効の決定が出され、公式上映が実現するでしょう」
*一方で、この作品は米国で上映され、当時のモンゴル人について世界が知り、センセーシ ョンを巻き起こしたとも言われていますね。
「モンゴルでの上映禁止後まもなく、ロシア人は1938年に米国に持ち込み、上映を行い ました。その年に製作された映画のトップ10に数えられ、米国の大新聞に記事が掲載されました。満人の抑圧から自由になったばかりのモンゴルは、疫病や苦難が蔓延した人口の少 ない民族と見られていたのです。そんな中上映されたこの映画により、人々の暮らす姿を通 じて、モンゴルという国と民族を知らしめた。この出来事についての史料が欲しい、と米国 大使館に要請し、アーカイブから見つかった資料が手元にあります」
*米国のメディアは作品について、またモンゴルについて何と書いていましたか?
『モンゴル人は月の上にいるかのように暮らしている。木のない丘が連なり、小さな馬に跨 り、他に例を見ない暮らしぶりの人々である。チンギスハーンの遺したこの国の命運はロシ アと中国のどちらかの手に落ちるだろう。しかし、モンゴル人の目は火のように輝いている。 この国民には将来があるのではないか』と1938年のニュ-ヨークタイムズ紙の記事が伝 えています。このように、モンゴル国が滅ぶことなく、アジアの真ん中に確かに存在してい ることを世界に伝え得たことが『モンゴル・フー』の歴史的意義なのです」
*国内で映画製作が始まった当初は、モンゴル人はどのように関わっていましたか?多くの 登場人物をロシア人が演じていたように思えますが?
「ロシア人の製作でもモンゴルの監督たちは参加していました。M.ロブサンジャムツ監督は モンゴル人として初めて外国の学校を卒業し、モンゴル人が手がけた初期の映画から監督と して関わりました。しかし、作品からは名前が削除されています。長く刑務所に拘留され、 93年に名誉回復されました。またT.ナツァグドルジもドイツで学んで帰国した初期の映画 監督のひとりでした。当時、映画製作に関わるなか、逮捕され、反体制派として拘留されま した。ヨーロッパで教育を受けた知識人の多くが政治犯として職を追われたのです。われわ れはこうした歴史を掘り起こし、見直すことにも取り組んできました。また研究者と共同で、 モンゴルの映画史について7、8冊の書籍を編纂しました」
*『ガイハムシグト・デルゲッツ(素晴らしいスクリーン)』プロジェクトを通じて、昨年は 多くの視聴者がテレビに釘付けになりました。制作時の裏話などはありますか?
「映画についての映画です。当時の俳優の大部分が今日なくなっているので、代わりに現在 の俳優が演じました。例えば『ツォグト・タイジ』で有名なЦ.ツェグミドの演じた役を息子 のЦ.トゥムルバータルが演じました。『セレルト』の医師役には、女優だった母の代わりに C.オユン議員に演じてもらいました。こうした興味深い企画で4、5本制作しました。今後、 属品として12本を制作する予定です」
*モンゴルの映画界で、イデオロギーに関わって問題視され、上映禁止となった映画はどの くらいありますか?
「ドラマ『トゥムニィネグ』の第2話は『リンチン・ビャムバエブ(訳注:ビャムビーン・ リンチン。20世紀モンゴルの偉大な作家・言語学者)を彷彿とさせる』との理由で政治局 に差し止められました。この決定は今も有効であるため、わたしたちはバヤンズルフ区裁判 所に無効を求める請願を出しています。当時は、作品を手がけた映画人たちの(制作にあた った)1年分の給与も支払われなかったといいます。党が動いて刑務所送りは免れたことで、 それ以上は言えなかったようです。 また1960年頃にもД.ジグジド監督の『トゥムニ ィ・ガザル』という記録映画が上映禁止になりました。インドへのモンゴル訪問団に同行し て撮影されたが、資本主義国の立派な建築物や良い部分を喧伝したと糾弾されました。この 決定の無効を求める動きも出ています。一般に、モンゴル映画の歴史には、多くの映画が制 作中止に追い込まれ、上映を差し止められました」。1937年の粛清のほか、1964年の Д.トゥムルオチル、Ц.ローホーズ、Б.ニャムボー、 Б.ソルマージャブの件(訳注:党の 政策を批判した現場のリーダーが追放された)でも関係者すべての資料が処分されたようで す。最も近い時期では、1985年に政治局員だったС.ジャランアージャブの関連した映像 すべてが処分されたことを目にしました」
*35ミリフィルムに刻まれた映画の数々は、長く歴史に残ると言われます。しかし、現代の技術革新を受けて変わった部分もあると思います。
「世界で初めて映画が作られたのは120年前のことです。フランスのリュミエール兄弟に よる35ミリフィルムの作品でした。当時の作品は今なお真新しく、きれいなままです。な ぜなら、映画のフィルムには銀メッキが多用され、1メートルのフィルムに1ドル50セン トの価格がかかる。1メートルは一秒にあたり、映画 1 本の制作には1万メートルのフィル ムが必要ですから大きな経費がかかる。35ミリの映画に刻まれた60本あまりの映画は、 最新技術を用いて高画質でHD化されました。その意味では、1935年以降のモンゴル国 の歴史は映画フィルムに記録されて保存されています。ナーダムで優勝した力士や名馬、党 の指導者、国内外からの賓客などすべての出来事が専門技術により、最近収録された映像の ような状態で見ることができるのです」(中略)
*記録映画は、ナーダムをはじめ、特別な行事があれば必ず制作されたと聞きます。アーカ イブに保存された興味深い事実はありますか?
「1984年に金日成がわが国を訪れた時の映像があります。飛行機は使わず、どこへ行く のも鉄道という方。モスクワから汽車で向かう途中の村々での歓迎、またモンゴル国境のセ レンゲで出迎えました。イフ・テンゲルの麓に2階建ての迎賓館があるます。そこに、主席 を迎えるために、北朝鮮側がエレベーターを取り付けていた。この建物は今もあります。金 日成をバトムンフが出迎え、スフバータル勲章を授与されました。主席は訪問に先立って、 ひとつのリクエストを出していた。『53年にモンゴルに来た際に花束を贈呈してくれた少 女や運転手と会いたい』と。30年前のことについて、内務省や諜報員が調べたが見つから ず、訪問を撮影した記録映画をきっかけに見つかったそうです。花束の少女は、ハイラース のある小学校の教員になっており、運転手は既になくなり、息子が代わりに面会した。主席 から2人に自らのサイン入りの純金時計が贈られたが、現在の価値で7~8千万トゥグルグ の高価なものだったとのことです。これは単に再会を求めたのではなく、モンゴル人が歴史 を重んじ、保存しているかを試したようにも思えます。記録映画というのは本当にすごいも のです。記録されていない出来事はないほどです。しかし、社会体制が移り変わり、国中が 混乱に見舞われていた時期、皆が豚のような袋を担いで商売をした時期については、映像が 残っていないのです。この期間は、映画の制作が止まってしまった。とはいえ、民主化運動 の初めから、街の店で棚から売る品物がなくなり、空のショーケースなどは私自身カメラに 収めていますが」
*モンゴル・キノ連合は現在どのような作品を制作していますか?
「市場経済への移行する時期に、127の工場が閉鎖されるなか、キノ製作所は残りました。 資金力のない組織で、人々は関心を払わず、何もなくなってしまい、制作は完全に止まって いました。現在は、モンゴル・キノ連合として活動が復活し、当時撮影に使用された衣装や 小道具のレンタル事業が行われています。また、3つのパビリオンが映画や音楽のビデオク リップ、テレビ番組の撮影スタジオとして時間単位で使用されています。最近ではドグミド の長編映画『チョニィン・ドルラル』が制作されました。人里で恋に落ちたオオカミを描い た作品ですが国際的な映画祭に出品され、入賞しました。現在は『タリーン・ザム505』 という映画の撮影が進んでいます。われわれとしては歴史に残る偉大な映画を、そして若者 に商業映画を作ってほしいとの思いがあります。今は年に40本ほどの長編映画が新作とし て上映されます。映画館も4-5館オープンし、映画を見る人は多くなりました」(後略)
『ゾーニー・メデー』紙より
-2016年1月15日、政治ポータルサイト POLIT.MN
http://www.polit.mn/content/74848.htm
(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語抄訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その 64
(梶浦 靖子)
曲目変更の問題
日本におけるモンゴル音楽の活動について、主に日本側の問題点を挙げてきた。ここか らはモンゴル側に再考をうながしたい点をいくつか述べたい。
一つは、先にも述べたが、コンサートでなぜか必ず予定した曲目の一つか二つを変更す ることである。それも本番直前あるいはその曲の出番直前にである。そこで日本側のコン サートスタッフは大あわてとなる。新しい曲のタイトル、どういったテーマの曲か、歌で あれば歌詞の内容などをその場で演奏者たちから聞き取り、それを司会者に伝える。モン ゴル音楽のコンサートではたいてい演奏曲目を記したプログラムが観客に配られるので。 司会者はそれを見ながら「すみません、何曲目のOOという曲は△△に変更します」とア ナウンスする。文にしてみると大したことないように見えるが、現場はなかなかのパニッ クである。そうした事件がモンゴル音楽のコンサートでは毎回のように起こるのだ。
モンゴル側がなぜそのように曲目を変えたがるのか、詳しくはわからない。コンサート 直前か最中のあわただしいなか申し出られるため、それに対応するのに手一杯で、詳しく 理由を聞き出す余裕がなかった。歌の場合は、のどの調子が良くないので、高音の出てこ ない曲に変えたい、というやむを得ないケースもあった。しかしそうした要因の考えにく い楽器演奏などでも曲の変更を申し出られることがしばしばで、変更する理由も意味も不 明なことが多かった。まるで曲目変更が行われなければいけないと考えているかのようだっ た。まさか、そのように突然ムリを言ってスタッフを慌てさせ、なおかつ言う通りにさせ てしまうことを「大物の証拠」のように思っていやしまいか。そんなことはないように願 いたい。そう勘ぐりたくなるほど、それは毎度くり返されるのである。
置き去りにされる観客
基本的に、コンサート制作者らは演奏者がより良くパフォーマンスできるよう奔走すべ きではある。できる限り演奏者がやり良いようにはからうべきだ。プログラムに載せるべ く、楽曲の背景を調べ、曲名や歌詞を日本語に訳し、解説の文章を考えたりと数力月前か ら準備してきたスタッフの労苦が水泡に帰すことも、より良い演奏のためならば致し方な いのかもしれない。
ただ問題なのは、それによって観客が置き去りにされてしまうことである。モンゴル音 楽を含め、異文化の音楽のコンサートに時間とお金をさいて足を運ぶ人というのは、多か れ少なかれ、文化についての見聞を広めたいという意欲を持っていることが多い。ただ音 楽を聴いて楽しむばかりでなく、その音楽に関する知識や情報を取り込むべくやってくる 人が多いと思う。その場合、司会者の語る演奏者や楽曲の紹介、ちょっとしたエピソード、 配布されるプログラムは重要な情報源である。
そこまで熱心ではなく、誰かの付き沿いで来た観客であっても、プログラムの文や司会 の話は、聴き慣れない音楽の演奏に意識をかたむける上での助けとなる。いつであったか、 モンゴル音楽のコンサートで楽曲紹介のプログラムが配布されていなかった時のこと、客 席の婦人が、「ああ、歌詞(の日本語訳)でも見られたらもっと入り込んで聴けるのに」と 残念そうに言う場面を見たことがある。観客はその音楽にまつわる様々なことを知りたい と願っている。特に日本人の観客はその傾向が強いように思う。
海で外界から隔てられて暮らしてきたから余計になのか、日本人は外国の様々な事物、 文物を数多く知りたがるところがある。中世の日本を訪れたヨーロッパの宣教師たちが、 出会った日本の民衆から、西洋の文化や社会の様子などについて質問攻めにあった話を残 している。日本人にとって、知識や情報をできるだけ多く取り込み、体系的に整理するこ とは苦行ではなく、むしろ娯楽であるようだ。現代日本の「おたく文化」はその極みの一 つであるかもしれない。
せっかくプログラムにまとめられた曲の解説や歌詞の訳がまったく無駄になり、それとははまるで関係のない曲が演奏されたのでは、どこかはぐらかされたような、残念な気持ち になる。それでは、モンゴル音楽に対する興味がそがれかねない。せっかくコンサートに 足を運んでくれた人をそんな気持ちで帰らせては、残念なことこの上ないではないか。
モンゴル側の損失
そうしたことはモンゴル側の損失につながる。モンゴル音楽に興味を持った人なら、会 場で販売されるモンゴル音楽のCDを購入していく可能性も高いのだ。
かってそうしたCDと言えば、レコード会社が音源を買い上げ、演奏者たちにはレコー ディング時の報酬が支払われるだけで、CDが何枚売れようと演奏者に還元されることは なかった。民主化し経済危機を乗り越えた今のモンゴルは、自分たちでCDをレコーディ ングし制作するだけの設備も持てるようになった。 2000 年代に入った頃から、コンサート 会場には彼らが自主制作したCDが並べらるようになった。その収益は彼らが直接手にで きるようになったのだ。
コンサートに満足し、モンゴル音楽に興味を持った人が多ければ多いほどCDを購入す る人も増える。モンゴル側の利益につながる。興味がそがれたならその逆である。音楽の 解説、楽曲や演奏者の紹介、歌詞の翻訳等は、観客に興味を抱かせるのに必ず役に立つ。 それはモンゴル側の利益に役立つのである。そのことをモンゴル側はもっと考えるべきで はないか?モンゴル音楽のコンサートに立ち会って何度もそう思った。
民主化以降、モンゴルの音楽家たちの生活も大きく変わった。かっては国立の楽団に所 属し、その給金で十分に生活していけたが、物価は何倍にも上昇し、給金だけで暮らすこ とは困難となった。家族が働いていて収入がある者はよかったが、そうでない者は自主的 に活動の場を切り開いて行く必要に迫られた。事業で成功した家族親類の資本や外国の知 人を頼りに新たに楽団を立ち上げる者も出てきた。そうした中で、諸外国で公演を行い外 貨を獲得することも、音楽家として生き残る上で必須の課題となった。
日本はモンゴルに対する親近感も高く、民話「スーホの白い馬」が知られていることも あり、モンゴル音楽に対する潜在的な興味もまずまず、あると言える。モンゴル音楽にとっ て重要な市場となりうる国のはずである。
しかしいまだ日本の社会において、モンゴル音楽は「知る人ぞ知る」音楽に留まってい る。モンゴル音楽を愛好する人はいる。コンサートに足を運ぶ人はいる。しかしその多く は、モンゴルに留学あるいは仕事で滞在した人や、在留モンゴル人の友人といった「モン ゴル関係者」である。一般的な音楽好きの大がコンサートにやってくる例はまだ少ないの ではないか。いたとしても、上記のようないきさつで興味をそがれてしまい、何となく足 が遠のいてはいないかと危ぶまれる。
曲目変更のドタバタが、より多くの聴衆を遠ざけ、日本におけるモンゴル音楽の盛り上 がりを妨げている可能性を、モンゴル側は真剣に考えてみてほしいと思う。
何を演奏するかはその日の気分で決めるのがモンゴル流だとしても、自分たちの伝統社 会の中で演奏する場合と、モンゴルをほとんど知らない聴衆に向けて演奏するのとでは、 同じやり方でいいはずがない。ただ音を聴かせるだけでなく、モンゴル音楽をできるだけ 詳細に知ってもらうためには、解説、翻訳といった手順が不可欠だ。それには事前の準備 が必要である。そして、予定通いにこなすこともまた優れたことでもあると知ってほしい。 公演当日、充分に声が出せるよう、決めておいた曲目を最も見事に演奏できるよう、自分 の気持ちや体調を持っていくことも実力のうちとする考え方もあることも記憶していてほ しい。
モンゴル音楽のさらなる成功を期するなら、そうした手続きをけっしてなおざりにする べきではないと、モンゴル側には強く訴えたいと思う。
(つづく)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
◎ 松尾大社に参拝してきました。 松尾大社「まつのおたいしゃ」(京都市西京区嵐山町)は大宝元年(701年)社殿が創建
された京都で最古の神社の一つです。 祭神は2柱で、大山咋神 「おおやまぐいのかみ」
中津島姫命 「なかつしまひめのみこと」 醸造の祖神・洛西の総氏神としてあがめられている。厄除け、宮参り・七五三・十三参り
の祈祷やまた、交通安全・家内安全・病気平癒の祈祷に訪れる人が絶えない。 添付写真は ◎ 大鳥居 ◎ 楼門 ◎ 拝殿の大絵馬 です。
事務局かお知らせ
(斎藤 生々)
◎1月30日 モピ新年会&肥後橋徐園にて
新年会宴席で、小長谷先生から1月15日毎日新聞にモピ名誉所長(前理事長)松原正毅先生の 記事が掲載される旨の情報を得ました。
「対立する世界をどうとらえるか」
という議論です。「現在、松原先生しか語れないという 貴重なご意見です。」と小長谷先生メール配信の方々には、ゲラを添付し送りましたが紙媒体の方々には紙面が A3 より大きく コピーすることが出来ませんでした。掲載された新聞は事務所に確保できています。
事務局に届いた感想
松原先生の記事を送っていただき、ありがとうございました。 争いのない地球を創り出すのはなかなか難しいことと思いますが、世界をひとつにという方 策を市民から提案されていることに力強さを感じました。 今後とも元気に頑張っていただきたい方ですね。一度、坂の上の雲ミュージアムに行ってみ たくなりました。(梅村 浄)
本日(1月15日)毎日新聞に投稿された松原先生の記事を読ませていただき、現在世界 で起こっている、民族問題、宗教問題等々は、人類が誕生した700万年前からの歴史と今 後の地球が存続する将来を考えると、歴史の1頁にすぎないと考えられる。 従い、松原先生の提案されている”世界研究所の創設”は全く同感です。(村上 雅彦)
◎事業名の変更のお知らせです。
出前授業を「モンゴル学習支援事業」としました。(2016 年 1 月から実施します)
◎音楽交流の打ち合わせ
2月12日 奈良学園で行われます。(モピから、斎藤美代子、ダシダワー ムンフバット)
◎モンゴル製ラクダの靴下
現在手持ち分は、即完売しました。2月8日には、ラクダ、ヤクの靴下。レッグウォーマー(ひざ上/下)など届きます。温かいと大好評を得ています。 (イベントにだけ広げていましたが、こんな良いものをモピ会員さんに何故分けないの・の一言から始まりました。)
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