■NO 171号 2016年6月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
国際研究フォーラム
『Voice from Mongolia, 2016 vol.23』
ノロヴバンザトの思い出 その68
意味深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からお知らせとお願い
編集後記
国際研究フォーラム
「ロシアと中国の国境:諸民族の混住する社会における
『戦略的パートナーシップ』とは何か?
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事)
シネヘン・ブリヤート人に関する言及
「日本人が病毒をまいてエヴェンキ人に大きな被害をもたらした。しかし、ブリヤート人は被害 に合わなかった。日本人はブリヤート人には親密だと言われていた。実際に、あの急性の伝染病 の毒をブリヤート人には注射しなかった。エヴェンキ人やウールド人はみなあの伝染病に感染し た。これは 1 つの事件だ。もう 1 つは 1940 年代初めに、ブリヤート人を大きな戦乱から逃れさせ るために動員して移住させたそうだ。彼らをシネヘンから移住させ、興安嶺を越えさせてホーリ ンゴルに送っていたそうだ。ホーリンゴルのブリヤート人たちはたいへん豊かな草原をもち、た いへん豊かな生活をしていると言われていた。そのためにホーリンゴルへ移動したい人が増えて いた。本当に、日本人がブリヤート人を動員し、みずから引率して移動させていたことは事実だ。 しかし、どのような目的で移住させていたかを誰が知っているだろうか。本当に、戦乱から逃れ させるために安全な場所に送っていたのか、ほかに何かの目的があったのか、わからない」(B さ ん、ダグール人、1937 年生まれ)
「私たちウールド人は、概して大きな災難に遭った。1730 年代、新疆のウールド人は大勢死ん だ。ペストで世帯ごと死んだそうだ。ウールドはフルンボイルに来てからも細菌兵器で死んだ。 細菌兵器でブリヤート人たちは死ななかった。なぜなら、ブリヤート人は日本人と親しいからだ。 当時の日本の第7、第 8 師団の病院に、ブリヤート人の女医と看護婦たちがいた。・・・彼らが来 て、感染したウールド人を診察した。しかし、彼らは塗り薬、飲み薬があるにもかかわらず、も ってこなかったので、彼らも感染した。そして彼らは急いで戻った。日本時代、ブリヤート人は たいへん尊敬されていたよ。興安西省のもっとも上の長官にブリヤート人[ウルジン将軍]を任 命した。日本人はブリヤート人ととくに親密だった。なぜなら、彼らはロシアから来たからだ」(E さん、ウールド人、1935 年生まれ)
アガ生まれのブリヤート人ウルジン・ガルマーエフ(1888-1947)は、1932 年 3 月、日本が満州 国を建国した時に興安北省警備軍司令官少将に任命され、のちに 1939 年、ハルハ河戦争(ノモン ハン事件)にも満州国側から出征した。彼に代表されるように、日本側はロシアの教養をもつ移 住ブリヤート人を重用した。このため、ブリヤート人は他集団からは戦争の加害者と見られる傾 向がある。
ブリヤート人のホーリンゴルおよびシリンゴルへの南下は大きく分けて 1930 年代と 1940 年代 の2度あった。満州国の設立に先行して、リンチンドルジに率いられた集団はシリンゴルにとどまり、日本学校で養成されるスパイに人材を提供した。また、終戦前には 1943 年から 45 年にか けて 3 度、ウルジン将軍に率いられて南下した。やがて日本の敗戦とそれに続く国共内戦のため に、国内流浪が始まる。この流浪による悲惨を生じさせた責任は、いまのところ、リンチンドル ジ1人に負わされている状態である。リンチンドルジとともに南下したブリヤート人と移動に反 対したブリヤート人との間では、リンチンドルジに対する評価が異なり、もちろん、後者がリン チンドルジに対して厳しい公式見解を強調する。
ここで確認しておきたいのは、日本の植民地活動がシネヘン・ブリヤート人を利用したために、 彼らと周辺諸民族とのあいだに不信感を生じさせたということである。また、同時に、シネヘン・ ブリヤート人内での分裂も少々もたらしたと思われる。
ちなみに、B さんは、エヴェンキ人と結婚し、4人の子どもをみなエヴェンキ人として登録した。
「エヴェンキ人として生きれば、子どもたちにとって有利だろうと当初思っていた。実際に、 私の選択は正しかったと思う。いま、私の息子の 1 人がエヴェンキ旗の副旗長になっている」「私 の妻と子どもたちはエヴェン人、私は半分のダグール人、半分のモンゴル人の血をもっている。 私の父はダグール人で、母はモンゴル人であった」と語った。
「私は半分のウールド、半分のブリヤートの血をもっている。私の息子は 4 分の 1 のウールド、 4 分の 1 のブリヤート、4 分の 1 のダグール、4 分の 1 は混血である」という人もいれば、また、 「夫はホルチン、私はバルガ、4 人の子どもがおり、長女の夫はエヴェンキ人、次女の夫はダグー ル人、長男の嫁は漢人、次男の嫁はブリヤート人」と紹介する人もいた。
このように、現代では通婚により、諸集団のなかでも、よりマイナーな集団のあいだでは融和 が進展し、それゆえに「戦略的パートナーシップ」が不要になっている。
シネヘン・ブリヤート人の移動・越境の記憶
このたび収集した口述史のなかから、シネヘン・ブリヤート人の移動に関する箇所を抜粋する と、自分自身の経験と、父母や親族からの伝聞との2種類に分けられる。ここではそのような語 られ方の違いを無視して、単純に事実として、いつ、どんな移動をしているかということだけを 箇条書きにする。なぜなら、この雑多な記憶の束から、これまで実際に知られて来た移動を本流 と呼ぶとすれば、この本流にはきわめて多くの支流があることを確認したいからである。そして、 これらの支流は、戦略的なシナリオをもたずに、試行錯誤を積みあげていくという戦術と見なす ことができるだろう。
1940 年代の放浪状況の多様性
H さん(ブリヤート人、1937 年生まれ)1945 年夏、家族 9 人、牛車 12 台でホーリンゴルへ向 けて出発。総勢 170 世帯、700 人、10 万頭。大興安嶺の森林を切倒しながら、54 日かけてホーリ ンゴルに到着。父はロシア語ができるのでロシア兵と雑談。ホーリンゴルに 10 数日滞在してウジ ムチンに到着。ロシア軍が家畜を盗むので、ハルハ軍に支援を依頼して取り返す。ドロンノール の北側で八路軍と応戦。タイブス旗で家畜の大半を失う。張家口でアメリカ人宣教師グループの 支援を受ける。ウラド中旗で徳王の軍隊と遭遇。エジナに入境。ゴロナイ川でカザフの盗賊に遭 遇。1949 年、エジネ旗に約 50 世帯が到着。52 年に西北大学に入学。エジネのブリヤート人はド ンド川の遮断工事に参加して現金収入を得た。50 世帯は 1954 年から 55 年にかけて 3 度にわたっ て帰還。姉はエジネで結婚していたのでとどまり、夫が 1964 年の洪水で亡くなってから、65 年に 帰還。
L さん(ブリヤート人、1931 年生まれ)生後すぐに両親が離婚。実母はシリンゴルへ行き、 戻らなかった。実父もシリンゴルへ行き、のちにシネヘンに戻った。母方の祖母のもとで育ち、 1945 年に 15 歳で嫁に行き、それほど家畜はなかった。10 人の子どもを産み、5 人が育ち、現在 3 人の子どもがいて、1954 年生まれの長男が 1991 年にウランウデに移住した。嫁ぎ先の祖先がアガ 出身なので、ウランウデに移住し、レストランを経営して成功している。
R さん(ブリヤート人、1932 年生まれ)両親がオノン川からシネヘンに移住してきた。1945 年の春、シネヘンを出発し、ホーリンゴルに到着したあと、さらにリンチンドルジのいるシリン ゴルへ移動。ボドンギーン・シル(ボドンゴの丘)で八路軍から逃走し、母と生き別れとなる。 さらに西へ行く途中、父の病気のため、ウラド中旗で 3 年間とどまる。他の家の手伝いをして糊 口をしのぐ。別の放浪ブリヤートと合流し、結婚。母が生存しているという噂をきき、1951 年、 シネヘンに戻る。離婚して、母が養子にしていた子ども(義弟)と 3 人で暮らす。1957 年母死亡後、再婚。1959 年養子もらい、弟を独立させたが、1961 年、離婚。1966 年に再婚し、1968 年、 弟の娘を養女にもらう。ウラド中旗にいた数軒はみな帰還した。
S さん(ブリヤート人、1942 年生まれ)父はラマ僧だったので、1931 年にシネヘンに逃げて 来た。母は同じ頃、12 人で移動し、ハイラルでパンチェン・ラマをおがむ。シネヘンで知り合っ て 1940 年に結婚。1942 年 2 月に生まれた赤ん坊を連れて秋、ホーリンゴルへ、1945 年に王爺廟 へ、そこで 1946 年父死亡。張家口からアメリカの宣教師の移動の最後尾につけて西へ移動。ウラ ド中旗、ロボンチャムボ、バダジリン砂漠を経て、ラブラン寺で1年、甘州で2ヶ月、ラブラン 寺でまた1年、1951 年にシネヘンへ帰還。1953 年に小学校に入学。
B さん(ブリヤート人、1930 年生まれ)1945 年、15 歳のとき、家族 5 人で 30〜40 頭のウシ を連れて西寧まで移動した。1947 年、八路軍に家畜を捕られる。1948 年、母と祖母は青海で死亡。 1954 年、シネヘンに戻る。国からの支援はなく、親族から支援を受けて、翌年、エヴェンキ人と 結婚。息子はエヴェンキとして登録し、ブリヤート人と結婚。
以上のように、翻弄されていた時代の移動は、個別事情に応じてきわめて多様である。にもか かわらず、これらの移住者はほぼすべて 1950 年代に帰還したことは興味深い。
(づつく)
『Voice from Mongolia, 2016 vol.23』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「もっと何日も、何日でも泊まっていきなさい。次は、家族みなで戻って来なさい」
―オトゴンさん(81)牧民、アルハンガイ県出身
2002年から5年間、MoPI主催のスタディー・ツアーにスタッフとして関わらせても らった。ウランバートルから西へ600キロのアルハンガイ県チョロートソムのハイルハンバ グで、遊牧民のゲルにホームステイする2週間の旅。繰り返し訪れるうちに、地理的には遠い ハイルハンが、近しい場所になった。足が遠のいて数年たつと「望郷」の念で思い起こした。 空の青、草原と木々の緑、そして乳製品のクリーム色。対照的に、着古した地味な色のデール に身を包んだオトゴンさん。そこにいつも、あなたがいた。
社会主義体制下で同ソムのネグデル(牧畜協同組合)を率い、その後は国会議員にも選ばれた、 ゴンボラグチャーさん(故人)の妻で、頼れるツアースタッフのバトエルデネ(バギー)さんの 母。ツアーを開催していた頃は、バグの中心に、バギーさんの姉家族とお住まいだった。日本か らやって来たツアー参加者ひとりひとりを「ミニフー」(わが子、うちの子の意。年少者への、親 しみを込めた呼びかけ)と抱きしめ、熱烈なキスで迎えてくれた、ハイルハンの「お母さん」。
モンゴル人の愛唱歌「母の歌(ミニー・エージ)」の歌詞をご存じだろうか。私の母は、素晴ら しいお母さん、心優しいお母さん。間違ったことをしたときは厳しいお母さん。年老いても何で もできるお母さん…
母の日を過ぎてほどなく、Facebook 経由で飛び込んで来た訃報だった。享年81。昨夏の訪問 時、繰り返しかけて下さった冒頭のことばが最期になった。あのハスキーボイスはもう二度と聞けない。
小さな身体にあふれんばかりの愛情で、国や文化の違いなど気にすることなく、出会う人みな を「わが子」と受け入れた。ともに過ごした時間はほんのわずかでも、私たちの心にあなたは生 き続けています。今までも、そしてこれからも。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
知らせをくれたのは、ツアーに通訳として同行 してくれたこともある孫のトゥメンウルジーさ ん。「祖母がみなさまのことをいつも笑顔で話し ていたことが思い出されます」と書き添えられて いた。訃報に接し、第3回ツアーに参加したSさ んは「初めてモンゴルを訪れ、長い旅路の果てに 到着したハイルハンで温かく迎えて下さったバ ギーさんのお母さま。あの時なぜか涙があふれて 来たことを思い出しました。」
華奢で小柄、短い髪。着古したデールにくわえ煙草。台所ゲルの、鍋の前が定位置で、座っている姿を思い浮かべることができない。つぶらな 瞳は、いつもいたずらっぽく輝いていた。その手に、自分で醸すシミーンアルヒ(発酵乳の蒸留 酒)の杯があるときはなお一層。家族が都会に呼び寄せても、ふるさとを離れることを長年拒ん でいたが、近年は、首都やその近郊で家族と過ごしていた。
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今月の気になる記事
モンゴルの友人の親戚が、心臓病の手術のために東京に滞在しています。がんなどの治療目的で 中国や韓国へ行く、という話もよく耳にします。家族の病を経験して初めて、地域に高度な医療 があること、患者の費用負担を軽減する公的制度があることの有難さが身にしみました。現地は まもなく4年に一度の総選挙。新政府には何をおいても、多くの国民が切望する公的医療サービ スの拡充に取り組んで頂きたいものです。
「寄付で暮らすモンゴル」
(筆者:Х.モンゴルハタン) 現在のモンゴル社会に、寄付という美しい顔を持つようになって久しい。寄付を募って問題を解 決したことのない業界はなく、寄付に協力したことのない人は皆無だろう。やれ病気が発生した、 ゾド(雪害)になった、感染症が広がった、子どもがやけどした、病院を建てる、増床する、な どと口実や理由には事欠かない。仕方ないー政府がわずか300万の人口を満足に養い、課題を 解決することができないのだから、自力ではどうすることもできない状況に置かれた人々は、社 会に助けを求めるしかないではないか。
最近の例では、0-9か月の乳児の間で麻しん感染の拡大がわかりやすい。国内にある唯一の感 染症専門病院では対応しきれず、ワクチンや注射器、針等の備品が不足に陥った。この世に生を 受けて数ヶ月足らずの幼子の命が、あまりに早く失われる悲しい状況を、黙って見ていることは、 誰にもできようもない。誰かの命令や決定を待たず、人々は心をひとつにして、各人にできる限 りの募金で手を差し伸べた。
国家功労アスリートで、元横綱ダグワドルジも立ち上がり、感染した赤ちゃんの診療に欠かせ ない専用の注射針、総額1千万トゥグルグの医療用モニター2台を日本から取り寄せて贈った。 また自動注射器5-6台も発注、5月中旬に届く予定という。社会的に認められた著名人による 社会貢献のお手本となるような、善意の支援である。一般市民や企業からも、国境を越えて支援 の手が差し伸べられた。留学や仕事のために外国で暮らすモンゴル人たちもインターネット経由 で手を結び、麻しんの子どもたちが必要とする医療機器や備品が続々と届けられている。 ロシアのモンゴル人学生組合、サンクトペテルブルグ市の軍アカデミーで学ぶ学生たち、同市内 で慈善活動に取り組む「80&80の会」が共同で、病に苦しむ幼い子どもらの治療に32万ル ーブルの寄付を集め、ロシアから酸素濃縮器4台、注射器用ポンプ2台、脈拍計6台、カテーテ ル備品20セットを国立感染症研究センターに送ったことも報じられた。これらはほんの一例で、 韓国やアメリカなど、善意のモンゴル人が世界各地から手を差しのべ、寄付を届けている。
「元気に旅しているときにラクダをもらうより、あわてふためいている時の針が有難い」と言う 諺がある。生まれたばかりの幼子を医療の不備によって、天に送り返すなどという、あってはな らない事態に際しては、寄付を募り、できる限り協力し、感謝の念を抱く。とはいえ、「すべての 良いことは、良くないことと隣り合わせ」と言われるように、美談には良くない話もついてくる。 オーストリア在住のモンゴル人たちが麻しんの子らが必要とする吸入装置を送った際、チンギス ハーン国際空港の税関における官僚的手続きで 10 日も留め置かれたというのだ。活動の中心だっ たЖ.エルへムバヤルは、求められる書類を揃え、許可が出るまで、省庁を訪ね歩かねばならなか った。通関には然るべき手続きが必要とはいえ、一分でも早く病の子どもの元へ届け、治療に役 立てられるべき備品が、何種類かの書類のために 10 日もかかってしまった。保健・スポーツ省の事務官 C.ラムバードが対応に乗り出し、県の病院と感染症研究センターに医療機器が届けられた。
多くの人に影響がある感染症のほか、モンゴルでは治療できない難病や先天性の障害も多い。 こうした事態に際して、日々の食事やバス代に事欠く暮らしの人々にとっては、寄付にすがるほ かに選択肢はない。わが国の医療制度は不備で、設備も不十分、医師の能力や倫理にも問題があ るなど、理由を挙げればきりがない。最も残念なのは、親の無責任によって、幼い子どもが熱い 鍋にさわってやけどした、など健康を損なう事態が近年とみに増えている。しかしながら、やけ どの治療や手術には莫大な費用がかかる。こうした事態によって、寄付を募る広告を、前回見た と思えばまた、という感じで続いているのが残念でならない。テレビの「25チャンネル」で放 映されている『千トゥグルグのプロジェクト』の善意のキャンペーンを活用し、火傷治療センタ ーに必須の医療機器が 1 億 1 千万トゥグルグで整備された。
また近年、がんは、モンゴル人の間に存在する静かな疫病、と言ってもよいほどであるのが調 査で明らかになっている。ジャーナリストのムンフバヤスガランは、自身のTV番組を通じてが ん対策キャンペーンを展開、早期診断のためのコンピューター断層撮影機器、国立がん研究セン ターの増築工事にかかる45億トゥグルグが、2016年の国家予算から削除されようとしてい たのを阻止した。また、現在同センターの肝臓・胆嚢・膵臓などの科長で医学博士の チンブレ ン、功労俳優の T.アリオナー、社会功労賞を受けたЦ.ホラン、国営ラジオテレビ局アナウンサー のБ.ガンチグマー、同センターの医師P.ムンフバト、Б.ムンフデルゲル、法律家で弁護士のЛ. シレンらが共同で、「心(肝臓)あるモンゴル人基金」を設立し、国内で初めて、肝がん患者の移 植手術を行うのに必要な資金を調達するために活動を繰り広げている。こうした健康問題に対す る募金は枚挙にいとまがない。
一方、自然災害である干ばつやゾド対策については、モンゴル人はどれだけ協力して支え合え るのか。この例として、今春、17県の62ソムで「白いゾド」(訳注:冬の大雪による家畜の被 害)と、15県の51ソムで牧民が「部分的に雪に覆われた状態」にあることから、牧民を応援 しようと功労俳優の C.ジャフラン、T.バヤスガランの二人が「春の詩」チャリティーコンサート を行った。4日間の公演の収益を、義務教育学校の児童生徒や一般市民による寄付と合わせて、 乾草1万2千包・240トン、飼料40トン、20リットルの水容器150個、家畜の仔のため の防寒着8千枚をとり揃えて、国家緊急対策機関に送り届けた。
大勢が力を合わせれば海のごとく、と言われる。しかし、国レベルの問題を解決するのに、常 に人々の寄付や支援に頼るなど、有り得ないことだ。寄付は、途方にくれたときの最後の手立て。 しかしながら、モンゴル政府が安定し、発展に向けた政策が明確に推進され、寄付で問題を解決 する悪しき慣習から脱するのはいつの日か…。
『ゾーニーメデー』紙よりー2016 年 5 月 6 日、政治ポータルサイト POLIT.MN http://www.polit.mn/content/79747.htm
(原文・モンゴル語)(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)
ノロヴバンザトの思い出 その 68
(梶浦 靖子)
内モンゴルとの違い
留学から帰国した 1992 年以降、90年代半ばにかけて内モンゴルのモリン・ホール奏者何人か と知り合った。彼らがオルティン・ドーの伴奏をしてくれることになったが、なんと、どの人も そろって、モンゴル国のオルティン・ドーを知らなかった。少なくとも、私か習ってきた曲をど れも知らなかった。’「穏やかな世界の太陽」も「涼しく美しいハンガイ」もだ。モンゴル国の伝 統音楽の関係者であれば知らないはずのない曲だ。一般の人でもだいたい知っている。仕方なく、 曲をカセットテープに録音し、さらにメロディーを五線譜に起こして渡し、曲を覚えてもらわな ければならなかった。また演奏中、歌い手の息継ぎの際には、モリン・ホールは素早く次のフレ ーズの出だしの音を弾くべき、といった細かい点も伝えなければならなかった。
内モンゴルにオルティン・ドーが無いわけではないが、演奏される曲目がモンゴル国とはかな り異なっているらしい。演奏される機会も少ないようで、モリン・ホール奏者の誰もがオルティン・ドー伴奏の経験を積むわけではないようだった。 内モンゴルの民謡歌手が舞台でオルティン・ドーを歌うのを見たことがある。曲目はモンゴル国では聴いたことがないもので、発声は中国の京劇のそれによく似ていた。歌声の抑揚、強弱の 付け方が突発的で、とっぜん大声で強く歌ったかと思うと、次の音はとても小さく静かに歌う、 といった様子だった。モンゴル国のオルティン・ドーでは、メロディーの強弱は漸次的で、ゆっ くり段々と強くなり弱くなる傾向がある。
京劇に似た発声や、強弱の付け方の特徴は古くからのことなのか、比較的新しいことなのか、 あるいはその歌い手個人に特徴的なことなのか等は、調べるには至らなかった。
1921 年のモンゴル人民革命以降、モンゴル国と内モンゴルは国家として別の歴史を歩んでいる。 それ以前の清朝支配の時代から、当時の外モンゴルと内モンゴルでは、漢民族からの文化的影響 あるいは干渉の度合いも違っていた。もちろん中国から見てより近い「内の方がそれは強かった。 当然、その音楽もそうした環境の影響を受ける。両者の音楽は「モンゴル(伝統)音楽亅という 一つの枠組みで見られるべきことはもちろんだが、それぞれに独自の歴史をもつ音楽として見る 必要があるとも強く感じられた。
「母のない白い仔ラクダ」
譜例31の「母のない白い仟ラクダ Onchin tsagaanbotgo 」は留学中にノロヴバンザ ドに習った曲の一つだ。曲のフレーズは5つと少なく、小 振りな曲ということで、ベスレク・オルティンードーの一 つとされている。歌詞は次の通り。
母のない白い仔ラクダは お腹が空いては 甘えて啼く 母のいる白い仔ラクダは 母ラクダの後をついて遊ぶ母のない白い仔ラクダは 雌ラクダの後をついて啼く後に続く歌詞もずっとラクダのことを歌っている。 祝いの席などで歌われることの多い
オルティン・ドーであるが、この曲は親を亡くした子供の悲しさが描かれているので、あ まりそうした席では歌われない。小さい曲だがショランハイもあり、メリハリの効いた印 象の強いメロディーをしているので、オルティン・ドーを手短かに紹介するのに適してお り、モリン・ホール奏者にも練習してもらうことが多かった。楽譜はどれも私の歌うキー に合わせた調で書いて渡すようにしていた。
ある時、伴奏をしてくれていたあるモリ冫・ホール奏者が、私が書いて渡したこの楽譜 を指さして、
「調号が間違ってるよ」
と言った。つまり、この楽譜のメロデーがC(ド)の音を主音とする短音階であるな らば、西洋音楽で言う「八短調」となり、譜例32のような音階になる。つまり調号のフ ラット♭は3個になるのだ。なのに、私の譜面ではフラットは2個しか書かれていないこ とをさして、彼はそう言ったのだった。
私かこの譜面にフラットを2個しか書かないのは、この曲が五音音階であることを言い たいがためである。モンゴル民謡のうち、短調のように聞こえる曲は譜例33のような五 音音階に基づいている。ドを主音とすると譜例の通り、レ(d)とラ b (As)の音を持たない。 ゆえに、ラにつけるフラットを楽譜の頭に書く必要はなくなる。この曲にはラ♭,の音はなく、 西洋音楽の八短調とは違うことを示唆しようとするものである。そうした書き方は、音楽民族学 の場で、諸民族の音楽の採譜などでしばしば使われる。そのことをモリン・ホール奏者にも話し たのだが、彼は、
「何を言ってる!モンゴル音楽は西洋音楽と同じだ!」
とやや気色ばんだ。彼は要するに、モンゴル音楽は西洋音楽と同じくらい価値があると 言いたかったのだと思う。いや価値はともかく、音楽的な特徴はいくつも違う点があるだろうと 説明しようとしたが、先方は、何言ってる!といきり立つばかりで聞く耳をもたず、収拾がつか なくなってしまった。当時は大変な思いをしたが、今では印象深い出来事として思い出される。
その後、90年代の末になると、モリン・ホールの演奏を学ぶ日本人もちらほら現れて きた。そうした人たちとも知り合い、同じようにこの楽譜を渡し曲を合わせてもらうなど した。その際にも記憶に残る出来事があったが、それはまた機会があれば触れることにし よう。何にせよ、私にとり色々な意味で思い出深い曲と楽譜ではある。
(つづく)
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
今回の京都は足腰が痛くて悩んで居られる人 のために守護神の祀ってある 護王神社です。神社は京都市上京区烏丸通り下長 者町下ル(御所の西側)にあります。
主祭神は和気清麻呂公です。・足腰の健康 ・ぜんそく封じ 若い人には結婚・子授け・安産などいろいろなご 祈祷がされます。 参拝の人は多くあとをたちません。
事務局からお知らせとお願い
●チャリティ講演会とモンゴルの音楽
講演者 小長谷 有紀
日 時:2016年6月11日(土)
開演13:00〜15:00 会 場:関西外国語大学ICCセンター(4階ICCホール)
主 宰:国際ソロプチミスト枚方
(小長谷先生の講演会のご案内です。お待ちしています。)
●京都新聞に掲載されました
6 月 23 日午後 5 時 5 分関空着、いよいよ来日する日が近づいてきました。
本番の公演は、26日奈良学園登美が丘中学校講堂で午後1時開演します。
子どもたちは 目下猛レッスン中ときいています。
京都在住の会員の方にお世話になり、今回、このような記事にまとまりました。
ありがとうございました。
今回、モンゴルの子どもたち受入れにかかる費用の支援をお願いしたところ、会員以外の 方々からも沢山お心を寄せていただくことができました。感謝申し上げます。
音楽交流は奈良、大阪、京都にまたがって行動します。多くの方々の思いが凝縮された日程に なっています。最終日の最後はモピ事務所で。詳細は、後日報告いたします。
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