■NO 177号 2016年12月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
国際研究フォーラム
ノロヴバンザトの思い出 その73
バヤンソムーチメデーのお父さんの田舎のゲルを訪ねて
意味深い京都の佇まいを訪ねて
事務局からおしらせ
編集後記
国際研究フォーラム
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事)
「はじめに」
ユムさんは未年生まれの七十三歳。人びとから「ユム・エージ(ユムお母さん)」と呼ばれてい る。一九三一年、中国内蒙古自治区アラシャー盟エジネー旗のバヤンボグドに生まれた。ユムさ んは七人きょうだいの末っ子で、兄四人と姉二人がいた。上の兄が寺の管理係だったので、家は いつも寺に近い牧草地を選んで建てられていた。家畜は、寺から預かっているヒツジやヤギが三 百頭とロバが十数頭いて、まずまずの生活だった。ユムさんは七歳のときから母親とともにヒツ ジやヤギの群れを放牧するようになったと言う。幼いころ放牧していたときの故郷には、ゼルリ グ・オロス(野生の麻)が生えているオロスト(麻のあるという意)湖、ホルスト(葦のあると いう意)湖、フルジグド(河川跡のトネリコという意)湖など湖が多く、シヘル・ボヤー(甘草) の生える美しいところだったと回想して話してくださった。
――子どものころの状況について話していただけますか?
わたしは十五歳で嫁に行きました。
一九四六年のある日、子ラクダ連れの雌ラクダに荷物を積んだ多くの人たちがラクダを曳き、 雌ラクダや子ラクダを鳴かせながらわたしの家の外にやって来て下営し、ゲル(移動式住居) を二、三軒建てました。それがわたしを嫁にもらう家なのでした。そのまま彼らは結婚式の準 備のために十数泊しました。
その十数日間、わたしは一軒のゲルの中に閉じ込められて外に出ることは許されませんでし た。二人の兄嫁が交代でわたしを見張っていました。いま考えてみればやはり子どもでしたね。 ゲルのフェルトの薄いところに小さな穴を開けて、そこにやって来た家の様子をのぞいていた のでした。
わたしの姑の名前はアビルミドでした。エジネー旗では有名な裕福な家の一つでした。舅は、 この妻と折り合いが悪く、やがて家を出て行きました。それで姑は夫のいない一人暮らしとな りました。
彼女には養子が四人いました。わたしの夫は唯一の男の養子で、ほかに姉が二人と妹が一人 いて、すべて養子でした。わたしが嫁いだとき、二人の姉はすでに結婚しており、二人の姉婿 たちがいましたが、そのほかにも約十人の召使がいました。実際のところ、養子たちは息子も 娘たちも、その嫁とその婿たちも、ある意味で召使でした。夫の一人の姉がウシの乳しぼりを し、もう一人の姉がラクダの放牧をしていました。二人の姉婿は屋外で雑多な仕事をして、嫁 のわたしはヒツジの放牧をしていました。
姑は夫の妹ミダグをたいへん可愛がっていました。ほかの子どもたちやわたしたちはみな姑に 殴られていました。姑はたいへん厳しい人でした。わたしが最もひどく殴られたのはある年の移 動中で、わたしがヒツジの群れを追って進んでいたときでした。わたしにはいつまでも忘れられ ません。
そのとき、わたしは歩いてヒツジの群れを追っていました。群れが大きかったので一人で追う のはたいへんでした。姑はミダグを抱きかかえてロバに二人乗りしながら、荷物を載せたロバの 群れを追っていましたが、ロバは茂みの草が食べたくてなかなか思うように進んでくれなかった のです。ロバが手に負えなかった姑はわたしを呼んだのですが、わたしはヒツジの群れで精一杯 でしたので、彼女を助けることができませんでした。
ところが、わたしが群れを追いながらふと気がつくと、姑はロバに乗ってこちらに向かってい ました。わたしはドキッとしました。殺されるわと思っていると、近づいた姑は、「この子を降ろ して」とミダグをわたしに渡しました。姑の表情や声にあまり怒りが現れていなかったので、わ たしはすばやく妹を引き取って地面に降ろしたのですが、その途端、姑はわたしを殴りはじめま した。頭や顔といわず叩きに叩いて、「おまえは耳が聞こえないのか」 と罵りながらひとしきり叩きおいて、また娘を抱いて乗せて去って行きました。
わたしはたいへん悲しかったのですが、痛みをこらえながら群れを追ってうしろから進むしか ありませんでした。姑は荷積みのロバとともに先に移動先へ到着し、ゲルを建てて室内を整えて から、夫にわたしを迎えに来させました。
迎えに来た夫を見て、わたしは姑に殴られたことを訴えて泣きたいと思いましたが、夫も日ご ろ殴られているので、悔しい気持ちはみな同じではないかと思い、黙っていました。夕暮れにな り、ようやく群れを追って到着したときには食事の用意もできていました。
「お前は家畜を放り出して行ってしまうかもしれないと思っていたけれど、来てくれたね。肉 を食べなさい」と姑はわたしにヒツジのあばら骨を一本取ってくれました。あのときはほんとう にひどく殴られましたね。
――ご主人のお名前は?
夫の名前はツェレンダライでした。当時、国民党の軍隊に強制連行されましたが、その後、 人民解放軍になって、その関係で蘭州にある軍の学校で勉強し、一九五九年に帰って来て、わた したちは結婚しました。結婚する前も夫は時おり軍隊から戻って来ていました。一九五九年に夫 はエジネー旗の役所に勤めるようになりました。夫は癌で亡くなりました。
――当時の生活についてもう少し話していただけますか?
わたしは末っ子だったのでかなりわがままに育ちました。八歳まで母の乳を飲んでいました。 十五歳のときに母の意志でアビルミドと言う裕福な家に嫁がされましたが、父はたいへん嫌がっ ていました。
「末っ子の娘をこの年で嫁にやることはない」 と母と喧嘩して、母に対してとても怒っていました。しかし、母の主導権によってすでに先方と の話が決まっていたので、仕方がありませんでした。父は怒ったままわたしの結婚式には出ませ んでした。
わたしたちの結婚式は盛大でした。兄嫁たちがわたしの長い髪を二つに分け、花嫁を連れて 行く段取りになったところで、母からの乳を味わう儀式のとき、わたしはかなり泣きました。
自分の家から連れ出されて見知らぬよその家に案内されたときはたいへん寂しく思い、言い ようのない嫌な気持ちになりました。しかし、わたしはまだ幼かったので生活の厳しいルールを 知らなかったと言えるでしょう。いったん嫁に行けば実家に戻るのはたいへん難しくなると言う ことに当時はまったく気づきもしませんでした。子どもの遊びのように思っていました。
その後、長年にわたって母を恋しく思うとき、家を恋しく思うとき、あの一日の儀式によっ て一生の運命がすべて決まってしまったのだと、はっきりとわかったのでした。
姑はとても厳しい人でしたが、夫はたいへん良い人でした。
わたしは十五歳で嫁に行き、十六歳のとき、一九四七年に妊娠しました。妊娠八ヶ月のとき に引越しをしていましたが、移動中に姑が何かの薬を飲めと言うので飲みました。その薬を飲ん だあと、急にお腹が痛くなり、流産しました。それからわたしは生涯、妊娠しませんでした。姑 がいったいどんな薬を飲ませたのか、そもそもなぜ薬を飲ませて堕胎させたのか、わたしはいまだにわかりません。その年の冬、わたしは姑と放牧するためにゴロナイへ移動しました。越冬し て一九四七年の春ゴロナイから戻る途中でそのように流産したのです。
ゴロナイは良い冬営地でした。そこは葦が高く生えるのでウマが入っても見えませんでした。 ゴロナイには水溜りがありました。しかし、溜まり水は家畜に飲ませて、人間は飲みませんでし た。人間は井戸水を飲むのです。なぜ溜まり水を飲まないかと言えば、それを嫌っていたわけで す。流れの無い水を良くないと見なしていました。
――家畜の乳しぼりについてはどうでしたか。一日に何回しぼっていましたか?
ヤギは朝一回しぼります。ゴロナイにいたときはウシの乳しぼりもしていました。ウシがた くさんいました。乳しぼりは自分たちの生活のためにすることで、乳を売ることはありませんでした。
――当時の移動の状況について話していただけますか?
むかしバヤンボグドにいたときはそれほど遠くまで移動しませんでした。近くに移動します。 冬はゴロナイまで移動します。ウマ、ウシ、ラクダのすべての家畜を追って移動します。春にな れば、また河岸の方向、バヤンボグドに移って来ます。
家畜の食べる草としては、ホルス(葦類)、ヒヤグ(別名ハグ)、ウスン・ウブス、シャル・ ツェツェグ(黄色い花という意)、シヘル・ボヤー(甘草)、オロス(麻類)、バル・シャバグ、シ ャラルジ(ヨモギ類)、ソハイ(タマリスク)、ツェグレグ、白い穀類(ブゲレゲルジゲネ)など の栄養のある植物がありました。
放牧の仕事で最もたいへんなのは家畜が出産のピークを迎えるときの仕事だと思います。わ たしの姑の家では毎年約三〇〇頭のヒツジとヤギが出産します。昼も夜も家畜の出産を助けます。
家畜の体力が劣っている年は母畜が生まれたばかりの子畜を嫌うことが多いものです。その 子畜に母畜の乳を飲ませるのも、母畜にわが子に対する愛情をもって子畜を認めてもらうのもた いへんな仕事です。
親から十分な乳を与えてもらえない子畜には液体食を与えなければなりません。小麦粉を塊 のないように注意してバンタン(小麦粉をどろどろに煮込んだ汁)として煮込み、バターを加え、 子ヒツジや子ヤギに哺乳瓶で飲ませます。バンタンに塊があれば哺乳瓶の先の穴が詰まって、子 ヒツジや子ヤギがそれを無理に飲もうとしてバンタンをこぼしてしまうことがあります。それに、 塊があればそれが子ヒツジや子ヤギの喉を詰まらせてしまう危険性もあります。ですから子ヒツ ジや子ヤギ用のバンタンを作る小麦粉は十分に粉状にして、まず冷たい水で少しも塊がないよう に混ぜてから、煮なければなりません。
――嫌われた子畜はどうやって母畜に面倒をみさせますか?
ヒツジには、トイゴルノ(トイゴすると言う作業)をします。母畜の乳をしぼって子ヒツジ の尻尾や腰につけて、ゆっくりした和やかなメロディーで「トイーゴ、トイーゴ」と言って歌い ます。
ヤギもヒツジと同じ方法で面倒をみさせます。しかし、ヤギについは「トイゴする」と言わ ずに、「チョイゴする」と言います。同じようにゆっくりした穏やかなメロディーで「チョイーゴ、 チョイーゴ」と言って歌います。
ラクダについては「フイスする」と言います。子ラクダを嫌がる母ラクダには、その胎盤を 鼻に乗せ、子ラクダを嗅がせながら「フイス、フイス」と言って悲しいメロディーで歌えば、ラ クダは優しい動物なので、涙を流して鳴きながら反芻し、わが子を認めてくれるのです。
――むかしは、いつもどんなものを食べていましたか?
姑の家には召使が十数人いました。わたしたちは毎朝出かけて乾いた木の枝を背負って来ま す。それからみな一緒に朝のお茶を飲みます。朝のお茶にはザンバー(はったい粉)、チーズ、バ ター、クリーム、あるときは、油揚げのパンも出ます。昼は主にオンド(ヒツジの脂肪を解かし、 生の小麦粉を炒め、狐色になったところへ、煮出した茶をそそいで作る、ルーのような飲料)を 作って飲みます。晩は小麦粉や粟で食事を作って食べます。たまに肉を煮て食べます。肉のスー プには粟や小麦粉を入れた料理を作って食べます。一日の食事を習慣的に「朝のお茶」、「昼のお 茶」「晩ご飯」と言います。
姑は裕福でしたので、いつも新鮮な肉を食べていました。少しでも時間が経った肉は食べま せんでした。月に約三頭のヒツジを食べますので、だいたい十日間に一頭のヒツジを屠って新鮮 な肉を食べていました。
肉を煮たあとはいつもわたしたちに分けてくれました。わたしたちが勝手に取って食べるこ とはできませんでした。わたしたちは、あばら骨一本ずつか、肉がほとんど削りとられたあとの 腿の骨や脛の骨といった肉しか食べられませんでした。
――ユムさんは養子をもらいましたか?
一九四七年に流産してから妊娠しませんでした。それで、六年後の一九五三年に息子一人を 養子にもらいました。その後、自分の姉からも娘を一人養子にもらいました。名前はアルタンツ ェツェグとい言います。今年、三五歳になります。娘はまだ独身です。小学校の教師です。一九 六九年の酉年生まれです。今は研修のために通遼に行っています。
わたしは旗の中心地に来ても仕事がありませんでした。そこで、たくさんの子どもたちの世 話をして育てました。保母のような仕事をしながらその給与で二人の子どもたちを学校に行かせ、 卒業させました。多くの子どもを預かって育てましたので、その子どもたちはみなわたしのこと をお母さんと呼んで、正月や何かの折にはわざわざ会いに来てくれます。
わたしがこの一生で最も残念に思うことは、実母の世話を十分にしてあげられなかったこと です。最後には会うこともできず、亡くなったことを人づてに聞きました。
一九五四年の冬、母は七〇歳を越えていました。その冬は雪がひどくてとても寒い冬でした。 たいへん冷え込んだある日の晩、わたしが放牧から戻って来たとき、家に誰かが来ていました。
「寒かったでしょう。お腹がすいたでしょう。こっちに座って食事をしなさい。火に当たりなさい」 などと言って家族のみながあまりにも親切でいつもと違うので、わたしは何かあったに違いない と思うとぞっとして嫌な気持ちになりました。母がどうかしたのか、母に何かあったのではない か、と言う思いが浮かんで来ました。お茶を飲み、食事をして身体を温めたあと、家に来ていた その人が
「あなたに知らせることがあって参りました。良い知らせもあれば、悪い知らせもあります。 まず知らせたいのは、ご主人からの伝言で、ご主人はお元気でいらっしゃるそうです。ま もなくあなたたちに会いに戻って来るそうです。もうひとつの知らせは、お母さんが亡く なられたことです。お年寄りのことですから、仕方がありませんね。気をしっかりもってください」
と、わたしが感じていたことを知らせてくれました。 母はそのひどい雪の冬の寒さのなか、ラクダを探しに出かけて、野外で凍えてしまい、窪地に座ったまま亡くなったそうです。 このことでわたしは下の姉に不満を抱いています。母がその大雪の冬の寒さの中、ラクダを探しに出かけて七日経っても帰って来ないのに、彼女は探してくれなかったのです。身内の者が いないかのように放っておいたわけです。それだけの高齢の人が凍えることも死んでしまうこと も気にせずに放っておいたのです。凍死したのを他人が見て知らせてくれたのです。この話をわ たしはあとになって聞きました。
母が生きていたとき、その面倒をみることができませんでした。亡くなったあとも祈祷をし ただけで、葬式に加わることができませんでした。一生、残念に思います。
その代わり、姑についてはわたしが十分に世話をしました。十五歳で嫁いでから親として敬 い、嫁として使われ、殴られていましたが、彼女の言うことを聞いて十数年一緒に生活しました。 その後、わたしは一九五九年から旗の中心地で働く夫のもとにいましたけれども、行ったり来た りで姑の面倒をみていました。一九六一年に姑が半身不随になって介護を必要とするようになっ たとき、夫とわたしは姑を旗の中心地にある自宅に迎え入れ、便器を運ぶなど四~五年間世話を しました。
思うように実の母の世話をすることができなかったので、わたしは自分の愛情と親孝行の気 持ちを義理の母に注ぎ、その面倒をよくみました。一九六五年に姑は亡くなりました。姑のこと をわたしはほんとうに子どものように抱き上げたりしながら十分に世話をしました。
二〇〇三年九月二日午前九時ごろ、ユムさん宅(エジネー旗中心地市内)を訪れて聞き取りを おこなった。
ノロヴバンザトの思い出 その 70
(梶浦 靖子)
伝記の作成を打診
そうしたいきさつで、ノロヴバンザドの日本公演を手伝う機会はほぼなくなった。理由は他に もあるかもしれない。モンゴル音楽のコンサートを観ての感想というか不満を先にいくつか書い たが、その主宰者が知り合いだった場合、そうしたことを私が彼らに言ってしまっていた。私が 観客として訪れていた時も、公演直前になって手伝いとして呼ばれた場合もある。私としては、 一人のモンゴル音楽のファンとしての感想や、意見要望を世間話ついでに伝えただけのつもりだ ったが、先方としては何か、小娘に意見された、と思ったかもしれないし、通訳もできる雑用係 として雇われた者が何を、と感じたかもしれない。
モンゴル音楽がより良い形で知れ渡・ってほしいと思うがゆえの行動で、できるだけ穏便な話し 方をしたつもりだったが、理解されたかどうか。ともかくも、ノロヴバンザドの公演に参画でき ないとなると、他に活動のしかたを考えねばならなかった。
歌手ノロヴバンザドを紹介する本を日本で出版できないかとも考えた。モンゴル音楽、モンゴ ル民謡についての解説と彼女のプロフィール、活動の記録などを合わせたら面白いものができる のではと考えた。それにはノロヴバンザドの協力が必要だ。彼女の半生記、伝記の部分が大半に なるだろうから、改めて彼女に詳細なインタビューをしなければならない。なんとか実現できな いだろうかと、彼女に手紙で打診した。
しかしそれについての返答はなかった。その後も彼女から手紙は何通か来たが、その件に触れ てくることはなかった。なぜかはわからない。彼女の伝記はもっと高名で地位ある書き手が執筆 すべきという考えだったろうか。私も力不足は重々承知していたが、たとえば良い編集者の人に 恵まれて、指導を受けられれば、それなりのものが書けると思っていたし、書き手は特に有名で ある必要はないと思われた。
私と彼女の共著という形にしては?という私の申し出が問題だったろうか。原稿料や印税は彼 女のほうに多く行くようにしたいと伝えたが、それでもまだ取り過ぎと見なされたろうか。やる となると時間のかかる大変な仕事になるであろうから、私としても幾らかは報酬を受け取りたい と思った。無料奉仕を宣言する勇気はなかった。
ノロヴバンザド自叙伝の発売
ともかく詳しい理由はわからないまま、彼女の伝記を書く機会は得られなかった。モンゴル国 で彼女の自叙伝(Duulimkhorvoodduulakhgejtӧrsӧn min’(広きこの世で歌うため生まれ た)が発売されたのは、打診をしてから2~3年後の 1997 年のことだった。
夫で小説家であるバンズラクチ氏が彼女の話を聞き書きし、まとめあげたもので、出版を請け 負ったのは日本モンゴル文化経済交流協会ということだった。私の打診に対する答えとしては、 ノロヴバンザド一人だけでなく様々な人が関わっていたらしい。
出版後すぐの来日時にはノロヴバンザドに会うことができた。コンサート終了後の楽屋を訪ね た私に、完成した同書を手渡してくれて、「これを良く読んで、その上で質問があったらまた聞い てきなさい」ということだった。
確かに、まずは地元モンゴル国内に向けて同書のようなものが必要だったろう。しかし私が考 えていたのは日本とモンゴル以外の諸国、できれば広く世界の人々にもわかるような、モンゴル の音楽、民謡、および歌手ノロヴバンザドの紹介本だった。「広きこの世で~」は、ノロヴバンザ ドを知らぬ人などいないモンゴル国の読者には良いが、そのまま翻訳しただけでは日本やその他 の地域の読者にはなかなか伝わらないと思われる。文中にあるモンゴル独特の文化や習慣につい ての解説が必要だし、モンゴルの音楽ジャンルや楽器の説明も不可欠だろう。その他、彼女の生 い立ち、牧民の家庭や草原での暮らしの様子などもモンゴル外の人々に知らせなければならず、 それについてノロヴバンザドにまたインタビューをする必要がある。
結局それが叶うことはなく、ノロヴバンザドは天に召されたわけである。私は本当に、モンゴ ル民謡の良さ美しさ、ノロヴバンザドという歌手の素晴らしさを、より詳しくより活き活きと伝 えたかった。今こうした文章を書き続けているのは、それを果たせなかった過去に一矢報いたい からかもしれない。
(つづく)
バヤンソムーチメデーのお父さんの田舎のゲルを訪ねて
(瀬戸岡 文子)
仔馬に焼印をつける行事 《タムガニイ・ナイル》
モンゴルの遠い親戚?
「まるで親戚の家に行くみたい」とは、今回のモンゴル旅の同行者、友人の浜口鈴代さんの言葉 だ。チメデー(ツェレンチメド)&ナムーン夫妻とは、5年ほど前からの知りあいで、悲喜こも ごもあった彼らの大学生活の4年間をずっとかたわらで見てきた私にとって、彼らの家族はモン ゴルにいる遠い親戚?のような存在であったかもしれなかった。彼らには3年生の秋、フーヘン バートルが生れたので、試験や卒論などで二人がたいへんな時期には、いつもモンゴルからチメ デーのお父さん(ガンボルドさん)が田舎の家畜を親戚に託して来日。保育園の送り迎えなど育 児・家事で強力な助っ人となり、その支えもあって二人はめでたく今春一橋大学を卒業すること ができた。現在ナムーンは社会人として歩みはじめ、またチメデーはひきつづき大学院で学んで いる。
旅を前に。
旅の日程は9月7日~14日。そのうち9日~12日までの3泊4日をチメデーの実家、トゥブ 県バヤンソムの町のお母さんの家とお父さんの田舎のゲルにお世話になった。2年前の MoPI 通信 No153チョイルへの旅の記録に、知りあいのゲルが車窓から見えると書いた。それが今回の訪 問先のガンボルドさんのゲルだった。ウランバートルからの移動は往路は列車(マイント駅まで 100キロ、3時間ほど)、復路は親戚の車(2時間ほど)。また川崎さんと私の名前で贈った黒 板をバヤンソムの学校に訪ねたいという希望もあった。まったくの偶然だったが、黒板を贈った バヤンソムの学校は、後に知りあったチメデーの出身校でもあったのだ。またついでながらバヤ ンソムの車の移動でお世話になったチメデーの親戚は、ウランバートルで今回もお世話になった 知りあいのガイド、ドーギーの旅行会社の社長の親戚でもあったのだった。いくら人の少ないモ ンゴルとはいえ、人のつながりがまた他の知りあいにつながっていく・・・これもまた不思議な めぐりあわせだった。
9月の旅を前にちょっとした異変があった。というのは、この夏バヤンソム周辺では雨がとて も少なく、水不足になってしまったので、お父さんは8月末に急きょそれまで協力して一緒に家 畜の世話をしてきた親戚と別れ、別な親戚と井戸の近くに引っ越しをするとのことだった。―モ ンゴルの遊牧民はその時々の天候や草などの生育状況によって、ゲルを移動するとは聞いていた ものの、なるほどと思うと同時に、そんなあわただしい時に私たちが訪問して迷惑ではないかと いう私の心配に「モンゴルではいつもそんな感じだし、モンゴル人は気にしないから大丈夫です」 とのチメデーの返事にもまたなるほどと思った。そんな時どんな状況の変化にも臨機応変に対応 するモンゴル人、またいつもきちんと予定どおりに行動する?日本人のそれぞれの民族性の違い を感じてしまう。 さらには私たちのゲル滞在の2日目(9月11日)に、お父さんのところで今年生まれた仔牛た ちに焼印をつけるモンゴルの遊牧民の秋の恒例の行事《タムガニイ・ナイル》が親戚を招いて行 われるということだった。ふつうの観光ではなかなか体験できない興味深い貴重な機会になりそ うだった。
ガンボルド家では昨年チメデーのお姉さんが結婚し、この春出産したといううれしい年でもあ ったので、チメデーの帰国で久しぶりに一家がそろうこの行事を楽しみにしているようだった。 またこの機会にお父さんとチメデーが相談をしてお姉さんに分ける馬を決めるということもあっ たようだった。
ガンボルドさんの田舎のゲルの夏の仕事、馬の搾乳と馬乳酒つり
さてゲル訪問の2日目。朝一番のガンボルドさんの仕事は、夜間草を食べて散らばった馬をゲ ルの近くに集めることから始まった。まず遠くの馬たちを男たちが馬やバイクで追う。隣の若い 親戚の家族には2年生の双子の男の子と女の子がいて、ちょうど週末でゲルに帰ってきていた。 その子たちも手伝って2つのゲルの家族全員そろっての共同作業だ。お母さんたちもがんばって いる。それぞれがかけ声をだし、自分の着ている上着を広げたり、また石を投げたりして馬を追 い、群れごとに馬を集めていく。各人が自分のできることをあたりまえのようにして働く姿は、ほんとうに見事な連携プレーを見ているかのよう だった。小さな子どもたちまでもが、自分が今何 をどうするべきかよくわかっているのがすごいと 思った。そしてたくさんの親馬のグループができ、 仔馬はロープにつながれた。つぎに乳搾り。つな いだ仔馬を母馬のところに人が連れて行くのだが、 毛色や模様が違っていても、よく馬の顔が見分け られるものだといつもながらとても感心してしま う。そして親子をペアにすると仔馬に乳を吸わせ、 乳が出てきたところで人がいただくという遊牧民 のおなじみの方法。
お父さんのガンボルドさんが 馬をおさえ、お母さんのニャムスレンさんが乳を搾る。お母さんは作業用のデールを着て、膝には膝あて、日よけの帽子にスカーフやマスクで顔 を覆い完全防備の姿でカッコいい。馬の搾乳はひとあたり搾り終えるのに1時間以上もかかるの だが、この作業を夜の8時過ぎまで日に6回ほど毎日くりかえす。町では公務員のお母さんだが、 毎週末お父さんのゲルに通って手伝っているのだ。また裁縫上手のニャムスレンさんは町では家 のミシンで仔馬用のロープや家族全員分のデールもとても上手に縫う。田舎のゲルでは馬の乳搾 り、お料理からゲルのお掃除まで、ほんとうに手を休める暇もなくこまごまとよく働く。モンゴ ルのお母さんのお手本のような人だ。
夜には一日分の馬乳を容器に集め、撹拌の作業をすること3時間。約1万回もかきまぜるとい う。私たちも前の晩、そのお手伝いをしたのだが、フフールという木の棒をなるべく高く強くリ ズミカルに繰り返すその作業はけっこう大変だった。が、夕暮れ時あたり一面をオレンジ色の光 にそめ雄大な大草原に沈んでいくまばゆい太陽をみながら、みなで交代したその作業はとても楽 しかったし、深夜まで、けして明るいとはいえないゲルの電灯の下でガンボルドさんとニャムス レンさん夫妻が作業用のデールを二人でとてもていねいに洗濯していた姿もとてもほほえましく、 今回の旅の印象として私の心にきざまれたのだった。
そして翌朝には、ほどよく発酵がすすんで、モンゴル人の大好きな馬乳酒が出来上がったのだ った。バヤンソムのあたりも馬乳酒のおいしい地方ということで、道路沿いにあるお父さんたち のゲルには、ウランバートルにむかう車がときどき馬乳酒を買いに立ち寄っていた。販売の価格 は1リットルで2500トゥグルグ。こうした馬乳酒つくりは7月から10月にかけて毎日続くということだった。
客人がぞくぞく・・・
お昼ころ、ウランバートルからお姉さんのソロンゴの家族が到着。生後6ヶ月のテグシバヤル のなんともかわいい笑顔に癒される。ガンボルド夫妻にとっては二人目の孫だ。チメデーはお父 さんと何やらノートに記入しながら相談。お姉さんの馬を決めている様子だった。もうひと組ウ ランバートルからやって来たのは同じ留学生仲間のビルゲ―(電通大大学院生)の家族。こちら も赤ちゃん連れの若夫婦で彼のおじいさんと一緒。これまでおじいさんたちに育ててもらってい たわが子を、この秋初めて日本に連れ帰るとのことだった。自転車が趣味のビルゲ-は以前自転 車でウランバートルから12時間もかけてここまでやって来たという。またアウトドア派の彼は 日本でも富士登山をモンゴル人仲間によびかけ、もう8度も富士山頂をきわめたというすごい若 者だった。チメデーとナムーンも2年生の夏、彼らと一緒に富士登山をして山頂まで登ったと聞 いていた。 午後になると知らないうちにぞくぞくと人が集まってきていた。近所の人たちだ。親戚も来てい た。見るとチメデーはオールガというかなりの長さの馬とりざおを巧みに操って目あての馬を追 っている。聞けば、それまで乳を搾らせたことのないこの春初めて子を産んだ馬や性格の荒い? 馬を初めてつかまえて、これから搾乳できるように人に慣らしていくのだということだった。友 人は馬を追うチメデーを見て、「西部劇の俳優さんみたい。かっこいいね」と興奮気味だった。私 も東京では温厚でひかえめな青年チメデーが、ふるさとの草原で遊牧民になって馬をつかまえる 雄姿にわくわくしながらカメラをかまえたのだが、広すぎる草原で、しかも動きが早すぎてなか なかシャッターチャンスが決められなかった。ガンボルドさんも「チメデーが馬をつかまえるの を見たかい」と私に聞きながら自慢の息子の活躍に大満足の様子だった。
■ いよいよ仔馬に焼印をつける
夕方になっていよいよ仔馬に印をつけるための焼きごてが用意され、チメデーと親戚
の叔父さんがバーナーで熱し始めた。真っ赤に焼けた鉄の焼きごてを仔馬のお尻のあたりにおしつけるのだから、ふつうに考えてもそうとう熱くて、仔馬が痛がって暴れるのではないか?と想像した。友人は「かわいそう」と言って、かなり離れた場所から遠巻きに見ている。私は少し近づいて様子を見守った。―が、その瞬間はほんのあっという間の出来事で、お父さんと親戚の叔父さんが二人がかりで、仔馬をおさえてはいるものの、思いのほか馬は痛がりもせず?ちょっと驚いたふうではあったが、無 事にガンボルド家の“四角の中の太陽と月”のマークがつぎつぎと刻印されていった。仔馬たち があまり痛そうでなかったのには少しほっとしたのだった。そして宴会・・・ごちそうはヤギの ボードグ料理そして夜もふけてきてのゲルの中での宴会(ナイル)。挨拶の馬乳酒の後、日本から のお土産のウイスキーもお父さんから客人のひとりひとりにふるまわれた。メインのヤギのボー ドグ料理も見事にできあがって運ばれ、親戚の叔父さんがナイフで上手に切り分けてくれ皿にき れいに盛られた。
この料理はその日の朝ゲルの裏手につながれていた犠牲のヤギそのまんまの胴体部分に、肉と 少しの水、塩と香辛料などを入れ、ホルホグ料理同様焼いて熱くした石を入れてしばり、バーナ ーの火で毛を処理した後こんがりとした焼き色がつくまでよく焼いた料理で、以前はこのあたり の草原にもたくさんいたタルバガ(マーモットの仲間)でこうしたボードグ(包む)料理を作っ ていたそうだが、最近はめっきりタルバガがいなくなってしまいヤギで作るようになったとのこ とだった。
私は初めてこの料理を食べのだが、その肉はまったく臭みもなく、とても香ばしくしかもあっ さりとして思った以上に食べやすくおいしかった。つけあわせのじゃがいもとニンジンもほくほ くでこちらも大変においしかった。ゲルの中は近所の方、知りあいそしてバヤンソムに住むお父 さんの親戚のご家族でいっぱいだった。しばらくしてお坊さんも奥さんと二人の子ども連れで到 着し、お経をあげてくれた。後で聞くと、《ヒーモリン・サン》という人の心や魂を元気にさせ、 運を開くというありがたいお経だということだった。とても和やかなひとときだった。お父さん のガンボルドさんはニコニコととてもうれしそうで、知りあいや親戚の集うこの豊かな時間を心 から楽しんでいるようだった。物の多さや便利さではけしておきかえられない精神的な豊かさが そこにあるように思えた。ガンボルドさんは私に「日本人の家族は大体何人くらいかい?」と尋ね た。―私たちモンゴル人はたくさんの家族に囲まれてこんなにも満ちたりた時間をもっているん だよと彼は言いたかったのだと思った。
宴会はいつもはデンベーなどのゲームで盛り上がると聞いていたのだが、この日は日本からや って来た私たち二人が残念なことにお酒の飲めない年配者だったためか?最後は写真撮影会のよ うになったのだった。はじめはこの二人で、つぎはこの三人で、つぎはこの四人で・・・・つぎ はこの家族で・・・最後はゲルいっぱいの全員でと親戚の人たちの写真をつぎつぎと写真係よろ しく私は請われるままにとり続けて、真夜中になって宴はようやくお開きになったのだった。写 真をとることでみなさんに喜んでいただけたことをうれしく思った。またそんなタムガニイ・ナ イルの席で以前バヤンソムの学校の副校長をしていたというガンボルドさんのお姉さんから「あ なた方の黒板をうけとりましたよ」と直接に聞けたことはとくにうれしいことだった。
■ バヤンソムの黒板の行方
最後に《バヤンソムの学校訪問と黒板の行方について》簡単にご報告しておきたい。
今回希望していたバヤンソムの学校訪問がチメデーやお母さんのニャムスレンさんのつきそい で実現した。校長先生とお話した後、2年生18人の午後のクラスで、梅村さんの『やまんば』の紙芝居と絵本『スイミー』(レオ・レオーニ)をチメデーと一緒に日本語とモンゴル語で読み聞 かせ、金子みすずの2篇の詩を紹介した。読み聞かせの上手な浜口さんにもお手伝いいただいた が、子どもたちは日本語という外国語で聞いたお話をどう感じただろうか?『スイミー』はチメ デーと、『あおくんときいろちゃん』(レオ・レオーニ)はナムーンと一緒に訳したものを絵本に 貼りつけて、紙芝居などと一緒にプレゼントした。たしかめたかった黒板のことだが、5年前(2 011年)斉藤美代子さんから「バヤンソムの学校に届けてきました」と連絡をいただいていた。 今回当時の副校長だったガンボルドさんのお姉さんからもうけとったことをお聞きできたのだが、 その後2年前に校長が変わったこともあってか、川崎さんと私の2枚の黒板の行方についてはと うとう不明であった。ちょっと残念だったが、そういうこともあるのだということを知った。2 002年にほかの日本人の方から贈られた別の黒板はその学校にまだあってちゃんと使われてい たのだから、私たちの黒板もきっとどこかにはあって使われているのだろうと思う。MoPIの 黒板の活動も大きな達成をとげて、ひとくぎりした今、これまで毎年送り続けモンゴルの各地に 届けていただいたマイ黒板を、また機会があればいつの日か“遠い親戚”の住むモンゴルに訪ね てみたいと思っている。
意味深い京都の佇まいを訪ねて
(荒木 伊太郎)
京都市上京区下立売七本松東入るにある浄土宗のお寺です。大本山「百万遍知恩寺」の末寺にあ たります。境内には地蔵堂があり、この堂に祀られた「妻取地蔵菩薩」が縁結びのご利益があっ たとして信仰を集めています。境内は整理、清掃がされていて美しいお寺です。
事務局からお知らせ
(1) モピ新年会のお知らせ 2019年1月29日(日)
開催場所:肥後橋中国”徐園” 12時開演
詳細は、次号でお知らせいたします。いろいろご予定もあると思いますが 1 月 29 日 をモピ新年会に充てていただけますようにお願い申し上げます。 沢山のみなさまが参加をお待ちしています。
(担当 村上 雅彦)
(2)エルミタージュの旅のご案内
以前、モピツアーでお願いしようとしていた、林先生から、下記のような案内がありました。 ご都合があうかたはぜひどうぞ。一番良い解説が聞けること、間違いなしです。
エルミタージュは世界最強の博物館です。
(小長谷 有紀)
トンボの眼の佐々木章さんの仲介で、添付のような内容で僕が講師となってエルミタージュその 他の博物館の見学をすることになりました。費用は、関空発でも成田発でも 35 万円くらいだそう です。Mopiの関係者で参加したいという方がいらっしゃいましたらご連絡ください。
(林 俊雄)
(3)アジャ・リンポチェ法話&懇親会
12月17日にスノーライオン(大阪本町)にて(15時〜17時)開催す ることになりました。
内容
1:アジャ・リンポチェの法話。
2:主催者からアジャ・リンポチェの著書の紹介。
アジャ・リンポチェの著書は、現在、英語版(Surviving the Dragon)、モンゴル語版と中国語版の3言語で出版されています。 この本は幼年期からアメリカ亡命した現在までの、アジャ・リンポ チェの激動の半生を綴った初めての自叙伝です。日本語版も翻訳はほぼ完了しており、来春には出版できる見込みです。 アジャ・リンポチェは2014年、モンゴル国ウランバートル市に子 供白血病・がん病院を設立して、その運営及び慈善事業を行ってお り、著書の売り上げは全額、この病院に寄付されることになっています。
(会員 石井菜倫)
小長谷有紀著書下記本を紹介します。
ネット又は近くの本屋さんなどで各自購入してください。
よろしくお願いいたします。
編集後記
2016年最後のモピ通信です。今年はモンゴル宮殿の子どもたちを受け入れ、奈良学園 吹奏楽部との音楽交流が行われました。たくさんの方々の好意が力になり成功させることが できました。モピのすごさを感じた事業でした。ご支援、ご協力賜りましたこと改めて御礼 申し上げます。来年度も変わりませずよろしくお願い申し上げます。
(事務局 斉藤生々)
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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI
事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430
e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp
MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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