■NO 180号 モピ通信

■NO 180号 2017年3月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

 母たちのライフヒストリー

『Voice from Mongolia, 2017 vol.30』

  ノロヴバンザトの思い出 その74

   2017年新年会報告します

   意味深い京都の佇まいを訪ねて

    事務局から&雑感

 

 

中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き   取り調査

(2002年)より「母たちのライフヒストリー」その 3

(小長谷 有紀)

(人間文化研究機構理事)

ツェレンナドメドさんは一九三八年、寅年生まれの六十五歳。ラクダを放牧して暮らして いた遊牧民の子は、国境を越えてモンゴル国で成長した。

――幼い頃のことを話してくださいますか?

わたしはアラシャー盟のウネトゴルに生まれました。一人娘で、父の名前はドブチンと 言い、アラブ系の人です。母の名前はセムジンと言います。二人とも牧民でした。ウネトゴ ルはラクダのふるさとです。両親は一生ラクダの放牧をしました。モンゴルに行く前は百三 頭のラクダをもっていました。一九四〇年にモンゴルに移住しました。国境あたりにいたラ クダをハルハ軍が追って行ってしまいました。それでわたしたちもモンゴル国に住むように なったのです。

モンゴル国のツァイラン(現在のウムヌゴビ・アイマグ、ノヨン・グンの領地で、軍事 基地)に一年間滞在して、そこからアルハンガイ・アイマグのホトント・ソムのホーライン ホダグと言うところに送られ、わたしたちはそこで生活をしていました。七~八世帯が一緒 でした。

わが家の家畜と言えば、ラクダが九頭、七~八頭のウシ、ヒツジとヤギが二十数頭でし た。一緒に暮らしていた家はかなり裕福で、たくさんの家畜を持っていました。

モンゴルにいたとき、二十歳以上の人にはパスポートが与えられていました。わたしは 一九四八年、十歳のときにホトントで学校に入りました。わたしの兄といとこのプレブ(母 が姉妹同士の息子)はオラーンボラン(赤い部屋の意。社会主義下の芸術活動施設)の音楽 関係の仕事をしていました。それでわたしは兄の近くで学校に入りました。

わたしのいた学校の校長先生の名前はダムディンスレンでした。学校が教科書や鉛筆な どを全部無料でくれます。授業料はただでした。今覚えている同級生にはバルガンスレン、 ツェレンジャブ、プルブフーと言う人たちがいます。わたしの小さいころの友だちにマロー シャと言う名前の髪の長い子がいました。だいたい一九五〇年か、一九五三年までの間にホ トント・ソムの学校で一緒でした。わたしは今でもぜひ会いたいと思っています。

アルハンガイのホトントは人が多くて、国境から遠い内地なので、内モンゴルから来た わたしたちを逃さないようにそこに送ったのでしょう。アルハンガイはとてもすばらしいと ころです。草も水も豊富です。多くの世帯が一緒に遊牧していました。それほど遠くへ移動することもなく、旱魃になることもありませんでした。埃が立つこともなく、緑の濃いとこ ろです。

アルハンガイはウマのふるさとだと言われています。実際、各家庭はいくつもの小さな 群れからなる馬群を持っていました。ヤギの乳や牛乳も豊富でした。乳しぼりは一日に三回 もします。そうしなければ母畜の乳が張ると言うのです。秋にはクリームからバターをグゼ ー(ヒツジやヤギの第一胃を大きく風船のように吹いて伸ばして乾かした袋)に入れて七~ 八個作ることができます。

最初にわたしたちと一緒に来た世帯のうち、オラド地方のトソノー(ダリスレン)、ジン ジゲイ(独身)、グンジドマー(子どもが二人)、シャル(子どもが四人)などは南ゴビまで 来てそこに残りました。アルハンガイまで来ませんでした。南ゴビは牧草地が悪く、旱魃が あり、草がまばらです。

わたしたちは一九五三年にアルハンガイから南ゴビにやって来て、ノヨン・ソムのハン ホンゴル第二バグで三年間生活して、一九五六年に中国に戻って来ました。南ゴビのツァイ ランにいた三十世帯の一〇五人が、約六千頭の家畜、九百頭あまりのラクダを追って国境を 渡ってやって来ました。

なぜモンゴルから戻って来たのかと言えば、モンゴルと中国が相互に住民を返す条約を 結んだため、一九五六年に両側の軍事会合によって返されたのです。それでわたしたちはモ ンゴルのアラグシャンドからこっちに出て来て、アラシャー盟のウネトゴル・ソムに来まし た。ウネトゴル・ソムは付属ソムでした。現在のエジネーに属します。一九六〇年ごろにウ ネトゴル・ソムをエジネーに所属させました。

わたしたちは一九五六年九月に戻って来て、その年の十一月にわたしは就職しました。 わたしは読み書きができたので、アラシャー左旗の婦女連合会の幹部になりました。

わたしたちと一緒に戻って来た人のなかでシャルチンはアラシャー盟合作社の主任とし て勤めました。ヤランピルはウネトゴルのソム長を務めました。ヤランピルはわたしの母方 の叔父です。母の弟です。プレブはアラシャー盟のオラーンムチル芸術団の創設者です。

プレブとわたしはいとこ同士で、同じ家庭で育ちました。きょうだいのように親しい間 柄です。ボルドバートルは思想宣伝部に任命されました。その後、そこからオラーンムチル 音楽隊に行きました。帰国後、わたしたちは教育を受けていたので仕事を与えてもらい、生 活を整えてもらいました。

――その後の家族の状況を話していただけますか?

一九六一年に夫と知り合って、結婚しました。「ハルハのスパイ」「内人党(内蒙古人民 革命党員)」「実権派の富牧」「牧主」といった多くのレッテルを貼られて、わたしは一九六六 年九月から糾弾されはじめました。

夫は教師をしていました。子ども(養子)が一人いました。娘のナランツェツェグはま だ三歳でした。夫は学校の施設のなかに閉じ込められていました。わたしは林業工場に行か されて、母はウネトゴルの放牧地にいました。このように一家四人が三ヶ所に別れて生活し ていました。

わたしは一九六八年十月から五七幹部学校(思想改造所)で監視のもとで働きました。 月給は二十五元でした。子どもの手当ては月十元でした。一九七〇年に夫は仕事に復帰し、 一九七一年の十一月からやっと一家四人が一緒に生活できるようになりました。

その後、二人の子どもを養子にもらいました。一九七三年には正式に名誉回復されまし た。わたしは全国婦女連合会から三十年勤務名誉証書をいただきました。ずっと子どもは生 まれず、三人の子どもを養子にしました。

――文化大革命の渦中では主にどういう理由で批判されたのですか?罪名はなんでしたか?

主に「ハルハのスパイ」として糾弾されました。わたしは帰国後、キリル文字ができる ので多くの人たちにキリル文字で手紙を書いてあげました。ハルハに親戚や友人をもつお年 寄りたちがわたしに頼んで手紙を書かせていました。それに、先方から届いたキリル文字の手紙をわたしに読ませていました。そして、その返事を書かせていました。そんなことをし ていたので、文化大革命がはじまるとそうした親切がぜんぶ禍となって、「ハルハのスパイ」 をしていたと言うことになり、無実の罪を着せられました。

ハルハへ手紙を書かせていた人たちも批判されてひどく問い詰められていたようです。そ れで誰かがわたしのことを「ハルハのスパイだ」と言ったようです。

――最近になって、モンゴルに行かれましたか?

一九八六年に、モンゴル国ウムヌゴビ・アイマグのノヨン・ソム中学校で美術の教師を していた、いとこの弟ゾリグトが訪れて来ました。それで、わたしは二連市から出国してモ ンゴル国に行って来ました。そのあと、一九九五年、一九九八年、二〇〇二年にそれぞれ行 きました。親戚たちがいまモンゴル国にいます。その生活はわたしたちには及びません。し かし、モンゴル国の自然や牧草地はすばらしいです。

二〇〇三年九月三日ツェレンナドメドさん宅(エジネー旗の中心地市内)を訪問し、聞き取 りをおこなった。

 

 

『Voice from Mongolia, 2017 vol.30』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「息ができなくて死にそう!」―「煙と闘う父母の会」デモ参加者、ウランバートル在住

氷点下の寒さの中、デモに参加した市民のプラカードには、こう書かれていた。ウランバー トルの大気汚染への対策を求める市民運動が続いている。主催者の報告によると、これまで に昨年12月 26 日、今年 1 月 28 日と 2 回のデモを行え、政府に要求書を提出したが、公式 の回答は得られていない。今後は研究者と連携することを計画、引き続き対応を訴えていく という。

煙が 子孫を絶やす わが子を危機にさらす

煙が 肺を痛めつけ 思考まで奪い去る

煙が 国を汚し 山々も見えない 煙が 政治家が 祖国を微塵にする

息ができないよ みんな祖国(ここ)で生きてゆく権利があるはず

息ができないよ 家や車 お金より 欲しいのは健康

息ができないよ 子どもが元気に育つのを見たい

息ができないよ 政権争いより 急いで何とかして (M.ヒシグスレン)

ツァガーンサルを来週に控えた2月中旬、同会の facebook ページに寄せられた1篇の詩が、 デモに加わる人々の思いを代弁している。

2001年、初めてウランバートルで迎えたツァガーンサルの晴れやかさを思い返してい る。当時ホームステイしていたホローロルで、家族とともに知り合いの家を巡った。すれ違 う人々の表情は明るく、お互いへの親愛の情があふれていた。まっさらな21世紀と曇りの ない青空が、当たり前のものとして、そこに在った。

早いものでそれから16年がたつ。振り返るのはこのへんにして、未来を変えようと動き 出した同世代の人たちとともに何ができるか、考えたいと思う。

煙と闘う父母の会 утааны эсрэг ээж аавууд グループページ https://www.facebook.com/groups/763976830421472/ (モンゴル語)

「今月の気になる記事」

先日札幌で開かれた北海道・モンゴルビジネスフォーラム(北海道モンゴル経済交流促進 調査会など主催)で、JICA 事業でモンゴルのビジネス環境を調査する経営コンサルタントの 方が「資源大国のモンゴルだが、地上資源である『家畜』が生かされていない」と話してい ました。モンゴルでカシミヤ・ラクダのウールの衣料製造販売を手掛ける、バヤラグウルジ ー社のウルジーボディジャブ社長(46)はバヤンホンゴル県の牧民家庭の出。「カシミヤよ りさらに暖かいヤクのウール製品を」とPR、事業を通じて遊牧民の生活向上にもつなげた い、とも話していました。同国では2年連続で気象災害の恐れとの報道があったばかりです が、モンゴル中のゲルに、穏やかな初春が来ることを願いつつ…。

Д.トヴァーンジャブ「遊牧民を定住させることで、人口集中や大気汚染が緩和される」 (筆者:Ч.オルドフ)

フブスブル県ジャルガラント村出身、ネグデル功労者、労働英雄受章者のД.トヴァーンジ ャブのインタビューをお届けする。

-こんにちは。良い冬をお過ごしですか。

「冬営地は平穏です。フブスグル県北部では雪が降りましたが、南部は昨年の生産は順調で した。牧民からも良い話が聞かれるので、基本的に家畜も仔も順調のようです」

-これから地元に戻られるそうですね。今回首都に来られた用件は何でしたか。

「モンゴル労働英雄協会と TV9チャンネルの主催で、年 1 回放映されるインタビュー番組で 呼ばれました。今年で 7 回目になりますが、6 回目に参加し、戻るところです。われわれが集 まり、意見を聞いてもらい、経験を次世代に伝えられるので、協会やテレビ局の関係者に感 謝しています。モンゴル国民そして地元の皆さん、新年のお祝いを申し上げます」

-羊を扱う市場から仕事をはじめ、労働英雄として表彰されましたね。農業分野で多くの新 たなアイデアを実践、的確な方針を地元に広めて来られました。現在、どんなことを考えて おられるか、教えてください。

「遊牧民の国、モンゴルの放牧酪農は世界に知られています。次の世代にも伝統を伝え、担 い手である若い牧民に経験を伝え、学んでもらいたい。自生する植物で飼料をまかなう家畜 の肉、乳、乳製品は、まったくのエコ食品です。このことを広く PR し、流通させれば 6 千万 あまりの家畜を抱える牧民の暮らしを支えられる、大きなマーケットがある。政治はこのこ とに注意を払ってほしい。放牧地を囲い、牧民の生活環境を整え、集合住宅を供与し、定住 化する政策に着手してほしいのです。最近の若い牧民は定住したいようだが、そういう状態 になっていない。かつてのホトアイル(ゲルの集落)は6世帯で生活をしていたが、現在は いくつものゲルを備えた牧民世帯が見られる。それなら、政府が政策で後押しして、定住を 推進するのがいい。家畜の恩恵は、モンゴルに固有の資源です。牧民は夜明けから日暮れま で仕事をします。自分の家畜のために草や飼料を確保し、敷き藁を整え、畜舎を温かくし、 広々とした放牧地で太らせる。『肥えた家畜からは草原ほどの利益』と言われるとおりです。 家畜と牧民は表裏一体と見て、抱き合わせの支援策が必要です」

-牧民の定住化にまず何が必要となるでしょうか。

「県、ソム、バグの大部分に送電線が来ています。これを草原のホトアイルまで届けられな いか。その意味でも住宅が必要です。牧民の生活環境が充実すれば、人々はザハで商売をし ようと、街に移り住むことばかり考えなくなる。県や、首都での暮らしを追い求めなくなる。 地方で暮らす環境を整備すれば、一極集中が引き起こす大気汚染。土壌汚染なども次第に緩 和に向かうでしょう。放牧地をどう使うかの問題を解決し、牧民の住居となる集合住宅、電 化を確保すれば、人みな親が残した家畜を引き継ぎ、ふるさとに土地を持って家畜のもたらす恩恵で暮らすのではないでしょうか」

-これまで何年、家畜と関わって来られましたか?

「1964年、14歳のときから、1990年まで家畜を育てて来ました。この期間、政府 からあらゆる表彰を受けました。2004年に、労働英雄の名誉を得ました」

-お子さんは牧民になられましたか?

「息子6人のうち、3人が後を継ぐ形で家畜と暮らしています。家畜の世話をし、馬を競馬 で走らせています。うちの子らは、将来孫たちを牧民にするでしょう、代々そうなってほし いと願っています」

―主に、どんな家畜を飼養していましたか?

「うちは雌の羊を専門にしていました。私の考えでは、牧民なら100%無事に冬を越させ る、出産させるのが義務。牧民は率先してアイデアを出し、最適な実践を普及し、何をすれ ば収益が上がるかを考え抜くべきです。それが私のして来たことです」

―例えばどんなことでしょうか?

「30年ほど前に、草を劣化させない方法を広めました。冬の放牧のために、山の麓に掘っ た井戸は今も変わらず水をたたえています。先ほど、牧民にとって快適な住まいが重要と言 いましたが、オトル(家畜の移動)の際にもあてはまります。テントに泊まって過ごすと、 雨や雪に降られて疲弊します。早く家に帰りたい、という気持ちになり、焦りが生じます。 快適な住居があれば、家畜を最良の状態に仕上げるために努力を続けるでしょう。こうした 考えで、28キロのオトル用のゲルを考案しました。馬やオートバイに積むのも容易でした。 荷車から出して設営もできる。ヤギやヒツジは、車の下で暖を取る。車の上から家畜を見守 ることもできる。かつてはこのように暮らしていました。おなかがいっぱいになった羊は、 牛のような糞をします。千頭の羊が牛のような糞をした場所にゲルを立てて留まることはで きません。夏ならなおさらです。風や暴風のときは500頭の羊を入れる畜舎を建設したこ ともありました。草が生えない場所を、草地にして草刈りをする、弱った家畜のための畜舎 の整備などの刷新を行って来ました。すべての経験が今に受け継がれています」

-現在は家畜を世話することがありますか?

「家畜は 90 年代に子どもに譲りました。2003年からジャルガラント村に『イデルジャフ ラン』組合を立ち上げ、小規模のフェルト工場を運営して、地元に供給しています。国のた め、県のためにして来た仕事、生産品が評価を得て、人々に喜ばれています。フブスグル県 の中心や県内の村々から人々がフェルトを購入しています。靴を作る人からの注文がありま す。元気な羊の羊毛が原料なので、フェルトの熱、エネルギーが違う、といって消費者に好 評なので嬉しく思い、さらに意欲を燃やしています」

-若い牧民に向けてひとこと、お願いします。

「家畜を扱う仕事がもたらす、大きな幸(さち)。そのことを子どもや次世代に伝えたい。そ ればかり言い続けていますが」

『ゾーニー・メデー』紙より

―2017年2月17日 政治ニュースサイト POLIT.MN http://www.polit.mn/content/86256.htm  (原文・モンゴル語)

(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)

 

 

 ノロヴバンザトの思い出 その74

(梶浦 靖子)

歌うことの迷い

ノロヴバンザドの日本公演の手伝いから遠ざかり、それでもモンゴル音楽にかかわる活動 がしたいとなると、自分が歌う活動しか思いつかなかった。アリオンボルトが来日してくれ てその夢は叶い、かなりの回数、人前で歌う活動ができた。しかしそうしながらも、何か心 に引っかかるものがあった。自分のそうした活動がある種の問題をはらんでいるような思い にいつもつきまとわれた。

つまり、二十歳を越えた大人になってから初めてモンゴルを訪れ、初めてオルティン・ド ーの実地訓練に参加しただけの人間が、アマチュアとはいえモンゴル音楽の演者という立場 で、小さいとはいえ舞台に立ち、モンゴル民謡を歌って日本の人々に紹介することはどうな のか、どういう意味があるのか、という疑問と迷いである。自分がモンゴル音楽に対して何 か不当なことをしているのではないかという疑問と迷いだ。少数ながらも観客として集まっ てくれた人たちの前で歌い拍手をもらうとうれしい。有難く思いつつも、「いえ、私ごときで 拍手などしないでください、これがモンゴルのオルティン・ドーだなどと思わないでくださ い、本場のモンゴルの歌手はこんなものではないんです、もっともっとすごいんです」等々 と言いたい気持ちになった。

しかしまた、音楽における自由は否定されるべきでない、とも思った。異文化の音楽であ っても、愛好する自由があるべきだし、関連する社会の慣習に触れない限り、学習する自由 もあるべきだろう。異文化の音楽に親しみ理解を深めるためには、その楽曲を聞き覚えたり、 歌や楽器演奏の実技を習うことはとても有効だし必要なことでもある。モンゴルの民謡や楽 器を習う日本人が増えれば、日本におけるモンゴル音楽の認知度が上がり、モンゴル音楽の ファンが増え、聴衆のすそ野が広がり、いわば人気が上がることにつながる。それはモンゴ ル音楽とモンゴルの音楽家の利益ともなりうる。とはいえ、何より重要なのはそれが彼らモ ンゴル民族の音楽として認知されることである。それなしで、ただ楽器だけ楽曲だけが知ら れても意味はない。モンゴルの音楽家のことが知られなければ意味がないのだ。私にとって ノロヴバンザドはとりわけ広く知られて欲しい歌手だった。モリン・ホール奏者ならツォグ バドラハだろうか。そうしたモンゴルの名歌手、名演奏家が日本でも広く知られて欲しいと いう気持ちで、通訳の仕事もレコーディング補助も、モンゴル音楽解説の文章の執筆もやっ ていた。

自分が人前でオルティン・ドーを歌う活動も、自分の楽しみのほか、そうした目的でやっ てきた。しかし、あまり度が過ぎたなら、モンゴルの音楽家ではなく自分自身の紹介、自分 の宣伝となってしまう。そうなっては明らかに、モンゴル音楽に対して不当な行いとなる。 どう考えても私かモンゴルの音楽家を代表しうる者であるはずがない。モンゴル音楽の各ジ ャンルと楽器、そしてモンゴルの音楽家たちが何よりもまず知られるべきなのだ。

そのためにやるべきことは何か。やはり、モンゴル音楽を紹介すること、モンゴル音楽に 関する知識や情報をもっともっと発信することだろうな、と考えるようになった頃、モン ゴル国に行き来している友人からこんなことを伝えられた。「梶浦さんがお客さんからお金を取ってオ ルティン・ドーを歌っていると聞いて、ノロヴバンザドさんが「どういうこと!?」と訝(い ぶかっ)でいたよ」しまった!と思った。ノロヴバンザドヘの説明が足らなかったのだ。

そして異文化の音楽を取り扱うには、越えなければならない問題がまだまだあるのだと痛 感した。

(つづく)

 

 

 2017年新年会報告します

(モピスタッフ 村上 雅彦)

日 時 :2017年1月29日 12:00~14:30 (肥後橋”徐園”於いて)

参加者 :(敬称略)

味方、井上、石井、伊藤、金田(子供 2 人) 小長谷、斉藤、鈴木、中野、早野、 福島、細川、松本、村上

計16名

式次第

* 小長谷理事長の新年の挨拶に続き各理事よりの挨拶。

*  モンゴル子供宮殿の子供たちと奈良学園の生徒たちとの音楽講演(昨年6月23~28日) で発表された演奏の中で youtube に録画された演奏(ハイドン交響曲101第3楽章) 放映。

*  小長谷理事長より、今回演奏会に最年少で参加した斉藤さんのお孫さんが(ムルン君)、 アメリカカーネギーホールでの演奏会に出場されるとの発表有り。将来世界的有名な バイオリン奏者となられること期待したい。

* 尚、1月28日の奈良学園への出前授業の際、古川校長先生にこの音楽交流会を継続 する意味でも奈良学園の生徒たちを、モンゴル子供宮殿への派遣検討をお願いした事 報告。

* 会員の石井さんより、アジャ・リンポチェのチラシをモピホームページに掲載してい ただいたことについて理事長にお礼の挨拶の後、アジャ・リンポチェの紹介有り。 1950年中国青海省生まれ、2歳でチベット仏教ゲルク派の生き仏として認定され、 1998年アメリカに亡命、チベット仏教文化活動をされている、平和活動に貢献さ れている。モピ通信でも報告通り昨年来日され、講演をされましたアジャ・リンポチ ェの自叙伝(現在英語、モンゴル語、中国版)、近々日本語版書籍を発表される予定で す。著書の売り上げ代金は、モンゴル子どもがん病院に全て寄付されます。

* (発行されれば、モピが一括して購入します。協力していただける方はモピ事務所までご連絡くださ い。よろしくお願い致します)。

* 小長谷理事長より、モピ創設17年目(NPO 法人設立16年目)に入るので、モピの足跡を残す 意 味で、映画(アニメ?)作成してはとの提案有り、司会者よりシナリオを金田さんに、絵コンテを味方さんにお 任せし、監督を小長谷先生に・と提案がありました。 (本件は会員皆様のご意見をお聞きしたく事務局までご連絡頂ければ幸甚です。)

* 今年も、少し人数が少なめでしたが大いに盛 り上がりました。最後に金田さん姉妹による歌の披 露も有り、楽しい新年会でした。

村上様新年会のお世話、報告ありがとうござ います。 (金田 悦仁)

当日、司会進行なさっていた村上さんから、 モピに若い人に参加してもらうための方策 はないかと突然のご指名を受けました。苦し 紛れに「去年はアニメや実写の映画が話題になり、若い人を動員したので、モピがモンゴルを舞台にした映画を制作し、公開して話題に なればモンゴルブームが起こるかも」というような軽口をたたきました。

瓢箪からコ駒ということもありますので、実現性を考えてみる価値はあろうかとおもいます。 小長谷先生をプロデューサーとし、とりあえず原案をわたしに作れとのことでした。

原案ができれば、シナリオを起こし、引き受けてくれる監督を探し、制作費を工面し、完 成後の公開方法を決めるといくことになろうかとおもいます。 当日は、また絵コンテは味方さんに、音楽監督は斎藤美代子さんにお願いするなど、モピ会 員の才能をいかすことも提案されました。資金は千里財団からとの声もありました。

実現するには、 原案は、わたしも考えますが、モピ内部から募集した方が面白いでしょう。あるいは、一 般から公募も。制作費は千里財団からの助成金とクラウドファンディングで募金する。 公開はネット公開なら簡単。劇場公開できれば。

モンゴルを舞台にモンゴルの歴史や文化、宗教や生活習慣などを紹介しながら、現代に生き る遊牧民出身でウランバートルに生きる青年と、モンゴルとはなんの関わりもない日本の女 性との出逢い。時空を越えた物語とかはどうかな。なんて、ありがちですが、空想していま す。

映画作りに関わることは、魅力的なことと感じる人は多いと思うので、制作過程に若い人を 巻き込んで行ければいいかなと思います。夢みたいですが。

下記投稿がありました。

(徳山 理沙)

mopi の原稿を読んでいると、私が思っていたよりももっともっと壮大な(予算のごっつい) プロジェクトだということが分かり、私みたいなお手軽な提案が意図に沿っているのかと不 安になっています。が、とりあえず書きました!!

* 小長谷理事長より、モピ創設17年目(NPO法人設立16年目)に入るので、モピの足跡 を残す意味で、映画(アニメ?)作成してはとの提案有り、司会者よりシナリオを金田さん に、絵コンテを 味方さんにお任せし、監督を小長谷先生に・と提案がありました。

(本件は会員皆様のご意見をお聞きしたく事務局までご連絡頂ければ幸甚です。)

を受けて↓

どの世代にも親しみやすい絵本をベースにした動画はどうかな、と考えました。

★絵本の中身は、MoPI17 年を 17 歳の少年の成長に例えたお話・とか。

★絵本という実物も作れるし、絵本をもとにした動画で広めることもできます。
2 言語対応も簡単(アフレコ)、イラストが持つ普遍的なやさしさが MoPI に似合っている などが良さとして挙げられます。

★ほとんど絵本のまま パーツが動く動画のイメージの参考です。

★ネット公開を前提にしているので作品は 3-5 分。上映会などには不向きになってしまいま す。
★MoPI といえば「黒板」なのでこれまでに寄付した枚数の黒板の数をページ数(コマ割り) にして、つくる絵本も素敵だなと思いました。

井上雄彦 黒板 – Google 検索

描く人は大変… 以上、心のままに思いついたことを書かせていただきました。何かのヒントになれば嬉しい です。

 

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

◎ 「三千院」{京都市左京区大原来迎院町) 三千院は延暦年間(782~806)に伝教大師最澄が比叡山東堂に一院を開いたのに始まります。 平安後期以来、皇子・皇族が住持する宮門跡となり寺地は京都市中に移動しました。 明治維新後現在の地に移り「三千院」として1200年の歴史をつないでいます。 大原の地は、慈覚大師円仁により天台声明の根本道場が開かれ、「念仏」による祈り の里として往生極楽を願う人々のあこがれの里となってきました。

 事務局に届いた案内です。

青山讃頌舎・美術館2017春の開館「穐月明・春展→里の歌 旅の歌」の御案内メールを

お持ちの方にご案内いたします。

昨年の秋の展示では穐月明の精神的柱である仏教を中心とする祈りの世界にスポットを当てました。 今回、春の展示は穐月明が最も愛した美しい自然がテーマです。華美な花より野の花を愛し、ここの自然を何時も美しいと言ってた画家の目を通して日常の草花や旅の風景を楽しん で頂きたいと思います。

*今回まちかど博物館「錦絵館 野がけ」より資料を提供していただきました。これから新 緑も芽吹き始め様々な花々が咲き始めます是非お出でください。

開館日時:2 月 11 日~5 月 28 日の土日

開館時間:午前 10 時~午後 5 時(入館 3 時 30 分まで)

ホームページ:    Aoyamautanoie museum(http://aoyamautanoie.net/)

*近鉄青山町駅より徒歩 15 分、大村神社に隣接、お車は神社の駐車場へ。

青山讃頌舎

〒518・0221 伊賀市別府718番地5 TEL090 9860 6432

〓〓〓穐月 大介〓〓〓

 

 モピ雑感

(齋藤 生々)

*小長谷先生を囲んでの懇親会などは得難い機会です。モピ 創設17年目に入る今年、その軌道を映画にするという提案に 目を輝かす人たち、その場でその気になって話をどんどん盛り 上げて楽しむなど、にぎやかで、華やかで、新年会は楽しい会 になりました。新しい年の始まりの集いには、沢山の人たちが 集ってくださることを願っています。

*2月は、モンゴル学習支援授業の要請が集中する時です。 講師としてモピの看板を背に協力していただいているみな さま、ありがとうございます。

*4月には、定例総会を開催いたします。4月9日(日)を予定し ています。ご案内、委任状など後日送ります。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

*2017年度も引き続きご支援下さいますようお願い申し上げ ます。

(カーネギホール前で・2017.2.12)

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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