■NO 181号 モピ通信

■NO 181号 2017年4月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

 

 母たちのライフヒストリー その4

『Voice from Mongolia, 2017 vol.31』

  意味深い京都の佇まいを訪ねて

  ノロヴバンザトの思い出 その75

  モピ年会費納入のお願い

  委任状の中のひと言欄から

  事務局から

 

 

  母たちのライフヒストリー その4

中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査

(2002年)より「母たちのライフヒストリー」その4

(小長谷 有紀)

                                                                                                                         (人間文化研究機構理事)

デムジドさんは子年生まれ、六十八歳。一九三六年生まれ。両親ともにハルハの出身であ る。父はスフドルジと言い、一九○七年の未年生まれ。母はサンダグと言い、一九一三年の 丑年生まれ。母はモンゴルのバヤンホンゴル・アイマグのジョノンワン旗で生まれ育ち、一 九三○年、十七歳のとき、エジネーにやって来て、のちに所帯をもった。夫となったスフド ルジは同じくハルハのタイジワン旗の人である。きょうだい五人のうち一人の兄が僧侶であ り、迫害されると聞いて、逃げることになった。両親は心配して、きょうだいのうちの誰か を連れて行けと言い、弟のスフドルジが行くことになった。それで、スフドルジはすでにも うけていた四人の子どもと妻と、両親ときょうだいたちと別れて、僧侶である兄とともにエ ジネーにやって来たと言う。兄はここエジネーでも僧侶になり、後に亡くなった。弟のスフ ドルジがエジネーでサンダグと結婚し、この土地の人間となったのである。

――あなたの子どものころの話を聞かせていただけますでしょうか? わたしたちは二人姉妹でした。わたしの姉は二十一歳で、一九五五年に亡くなりました。

わが家は裕福ではありませんでした。貧乏と言ってよいでしょう。三十~四十頭のヒツジ、 ヤギと、二頭のウマがあり、ウシはいませんでした。ラクダもいませんでしたので、移動す るときは人から借りていました。近距離なら、荷を背負って移動していました。

わたしの本当の両親は、わたしが幼いころに離婚して、母は別の人と暮らしはじめまし た。継父は良い人でした。名前はダンザンサンボーと言います。実の父も別の人と暮らすよ うになりました。文化大革命のときに、トルゴード党員だの、内蒙古人民革命党党員だのと レッテルを貼られて、殴られ批判され、監禁されていたところ、身体を悪くして死にかかっ ていたので、病院に連れて行くということで監禁場所から出されましたが、立つこともでき ないまま、ロバに乗せて移動する道中、亡くなったと聞きました。

なぜ移動中に亡くなったかと言うと、長いあいだ暗い牢屋に監禁されて日も見ず風にも あたらなかったのに、突然屋外に出されて吐いて死んだのです。わたしたちは渦中にまった く会うことができませんでした。あとで骨を拾うこともできませんでした。

両親は離婚しましたが、わたしは父に会いに行っていたのでした。一九六六年に挨拶に 行ったのが最後となりました。牢屋に監禁されて、一九六九年に亡くなりました。

――何歳のときに結婚なさったのですか? わたしは二十歳のとき結婚しました。夫の名前はナムハイジャブです。一九五六年にわ たしたちは結婚しました。ナムハイジャブは幼いころに両親を亡くしており、姉のもとで姉 の一人娘であるツェベルマーと一緒に暮らしていました。わたしたちは幼ななじみでした。

長女のユムチンジャブはわたしが十九歳のときに産みました。両親のもとで産みました。 まだ結婚式をすませぬうちに、一九五五年に生まれた子どもです。結婚するとき、わたしの 両親はわたしたちに小さなゲルを建ててくれましたが、これには住まずに子ヒツジや子ヤギ、 荷物などを入れて、ナムハイジャブの家に住み込みました。のちに、夫の姪のツェベルマー に家を譲り、わたしたちはわたしの両親がくれた小さなゲルに住みました。

ナムハイジャブは姉一人と弟たちの四人きょうだいでした。彼の父はチョイジンジャブ と言い、敬してチョイジルと呼ばれていました。早くに亡くなって、長兄ダルジャーは、恰 幅が良く、元気でしたのに、癌で亡くなりました。二番目の兄のツェベグミドは徳王の軍隊 から逃れているあいだに亡くなりました。姉のコルローは「テジェーブル(飼育)」と呼ばれ ていました。おそらく子どものころの甘やかされた呼び名だったのでしょう。この姉の娘が ツェベルマーです。アラシャーからやって来た若者バルダンと一緒になりました。それで、 この二人にナムハイジャブは家を譲り、わずかしかなかった家畜の大半を譲りました。

わたしたちは両親がくれた小さなゲルに住み、家畜を分けました。わたしは父から四十 頭のヒツジ、ヤギをもらっていましたが、これらを彼らに分けて所帯をもたせました。しか し、結婚式はせず、若者バルダンを家に住まわせ、わたしたちが放牧などを手伝いました。

そして共有化することになったとき、わたしたちの家畜は、ヒツジ、ヤギが百頭あまり、 ラクダが十頭ほどになっていました。一九五八年に合作社になり、その冬に人民公社になり ました。一九五九年から、人民公社でラクダを放牧するようになり、当初は百頭だったラク ダをうまく育てて数年で三百頭にしました。

一九八七年に馬鬃郷に行きましたが、翌年にラクダを返却しました。私有家畜は百頭ほ どで、わたしたちはここで放牧しています。息子のシジルは他人を雇って馬鬃郷でラクダを 放牧していました。私有化した家畜はいまでは六百頭になっています。

――あなたはどこの合作社(ホルシャージル)でしたか? わたしたちは、現在のサイハントーライ・ソムのザーンツァガーン・ガツァーの所属で

した。当時、わたしたちの合作社は「開花ホルシャージル」と命名していました。人民公社 になって「開花ネグデル」になりました。そこでは一晩にして開花すると言われていたので、 そのような名前になったそうです。

文化大革命中に、この名前が問題になりました。人民公社の時代になると、すべての家 畜に、開花の頭文字「ツェ」の焼印を押しました。ダムジャー・ダルハン(ダルハンは名工 の意)と呼ばれる名工に依頼して、大小二種類の焼印を作らせ、すべての家庭で作業して、 すべての家畜にこの焼印を押したのです。ヒツジとヤギにはその角に小さな焼印を押し、ラ クダやウマなどの大型家畜にはその腿に大きな焼印を押しました。

文化大革命時代に、この花は何の花かと問題になり、赤い花か黒い花か、と詰問されて、 結局、名称が変更されました。

――両親がくれた小さなゲルというのはどのようなものでしたか? 四枚のハナの小さなゲルです。しかし、ショバダやハドホールのことを思えばそれほど

小さくはありませんでした。 エジネーにはいろいろなゲルがあったものですよ。五枚壁、六枚壁のゲルがありました。

ツェージン・ゲル(胸のゲル)と言うのは、天窓があり、格子壁がなく、オニ(屋根棒)を 使ったものです。ツェージン・ゲルをまたハドホールとも呼んでいました。ショバダ・ゲル (尖がったゲル)と言うのは、天窓がなく、三枚壁の小さなゲルです。ショバダ・ゲルは天 窓がありませんけれども、家によっては小さな天窓を作る場合もありました。胡楊の木を丸くたわめて穴をあけて天窓のようにしていたのです。家によっては古い洗面器のまわりに穴 をあけて代用していました。

一般にトルゴードではゲルを縦長に建てます。しかし、ハルハではゲルを平たく建てま す。ハルハの天窓は「八角形」とか「ホルロー」と呼ばれ、タマリスクの木を用います。胡 楊でいろいろな家具や道具を作ります。蒸留酒を作るときの樽、搾乳桶、乳を発酵させる桶、 チーズを作るときの重石や型、ゆりかごなどです。井戸から水を汲んで家畜に水をやる桶も 胡楊で作ります。

――お子さんは何人ですか? 病院で産みましたか、草原で産みましたか? わたしには七人の子どもがいます。一番目はユムチンジャブ、二番目はガルサンポンツ ォク、三番目はゲレル、四番目はナラントヤー、五番目はシジル、六番目はバトランゴイ、 七番目はサラントヤーです。家督を継いでいるのはシジルです。ユムチンジャブを産むとき

は家に医者を呼んでもらいました。漢族の医者でした。 ナラントヤーを産むとき、病院で診てもらうと 「逆子だから病院で産め。十日ほどで生まれる」 と言われたので、急いで自宅に戻り、用意をして再びラクダに乗って来て入院しました。本 当に一晩中痛み、苦しみ、夜が明け、朝日が射してようやく生まれました。そして産婆さん が

「朝日が射すとともに生まれた子だからナラントヤー(陽光)と名付けよう」 と言って、そう名付けました。バトランゴイが生まれるときは、あらかじめ病院の近くに移 動して来ておいて、病院で産みました。ほかの子はみな草原で家の中で、人を呼びにやって 産みました。たいていわたしの継父が立ち会ってくれました。出産ではそれほど辛い目には あいませんでした。

――あなたがたは文化大革命中、どのような状態でしたか? わたしたちは迫害されて地獄を見ました。夫のナムハイジャブは解放後ずっと合作社の 長や、生産隊長などを歴任してきました。一九六四年に運動が起こり、かつての長はすべて 解雇されました。そうこうしているうちに文化大革命が到来し、さまざまなレッテルを貼ら れました。ナムハイジャブは「走資派」と言うレッテルを貼られ、一九六七年に捕えられて、 殴られ、反抗して黒い家(牢獄)に監禁されました。

当時、わたしはシジルを産んだばかりで乳飲み子を抱えていました。夫は二年間つかま ったままでした。わたしたちは会うこともできませんでした。二人の子どもたちは自分たち で会いに行くと入れてもらって自由に会えました。子どもはかまわないと言うことでした。 しかし、わたしは挨拶に行っても監視つきで、ことばを交わすなと怒鳴られていたので、ろ くに話もできませんでした。

夫は一九六九年に牢獄で病気になり、起きあがれなくなったので家へ戻りました。なん とか治ってからは、ふたたび半分の罪を着せられていて、生産隊に連れて行かれて労働させ られました。一九七三年にようやく本当に罪を着せられなくなって自宅に戻ることができま した。当時、殴った人びとのことは忘れません。わたしの実父も捕まって牢獄に監禁されて 亡くなりました。わたしの母と継父はなんとか捕まらずにすみました。捕まりそうになった ときに政策が転換したのです。

一度、批判闘争集会で母と出会いました。集会のあと、継父が一頭のラクダの肉をすべ て炒めて、骨を切って準備しているので、「何をしているのですか」 と聞くと、

「今からわたしたちは牢獄に監禁されるかもしれないので、おまえの子どもたちのため に食糧を準備しているのだ」

と言いました。息子のシジルが生まれて一週間ぐらいのころに夫が連れて行かれたので、ま だこれからも捕まえに来るかもしれないと思って、彼らは準備をしていたのでした。

当時はこうして疑念を抱きつつ暮らさなければならなかっただけでなく、本当に生活が 苦しかったのでした。わたしは罪人の妻でしたので、どんな仕事をしても五点の給料しかも らえませんでした。月に九元でしたので、とても親子四人は暮らすことができませんでした。 そのために両親に頼って子どもを育てました。

一九七三年にナムハイジャブも帰宅して、ラクダを放牧するようになると、彼に十点、 わたしに八点がつくようになりました。両親には黒いヒツジ(カラクルヒツジ)があてがわ れ、放牧しました。こうして徐々に生活が成り立つようになり、負債もなくなりました。

当時は、病気や借金に苦しむほかに、いついかなるときにどんな罪をなすりつけられる かわからないという不安な気持ちで暮らしていました。それはとても人間を脅かし、身体に 毒でしょう。

サンズチョイダンと言う人がいました。恐怖で自殺したそうです。大勢の人びとととも に批判闘争集会に出席したあと、散会しても会場に残り、タバコを吸って、何かを考えなが ら座っていたそうです。その夜、彼は小さなハドホール(ツェージン・ゲル)の前で首をく くって死んでいたのを、翌朝、人びとが見つけました。当時、彼は五十歳ぐらいだったろう と思います。彼の遺体は馬車で運ばれ、サンブレグの北にある胡楊林のなかで焼かれたそう です。彼の姉の息子がいまアラシャー右旗のバンディダ活仏です。この活仏がのちにエジネ ーにやって来て、彼の遺体を焼いたところを祭りました。

悪い時代は過ぎ去り、良い時代が来ました。しかし、「年齢はわが身に降り積もり、雪は 山に降り積もる」ものです。

母も父も夫も、逝ってしまいました。継父は一九八二年に癌で亡くなり、母は一九九○ 年に七十七歳で亡くなりました。夫は一九九六年に六十六歳で亡くなりました。

わたしは二○○三年七月にこの移民村にやって来ました。ここで末の娘サラントヤーと 住んでいます。娘はもう年端もいっているのに、まだ結婚していません。

――あなたはモンゴル国を訪問しに行きました?親戚とお会いになりましたか? きょうだい親戚と会いました。モンゴル国に行きました。父の故郷であるダイチンワン

旗に行きました。しかし、母の故郷であるジョノンワン旗には行けませんでした。

二○○四年八月二十六日午前、移民村にあるデムジドさん宅にて聞き取りをおこなった。

 

 

  『Voice from Mongolia, 2017 vol.31』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「ひとりでもやるかどうか。それを考えて、決断されるといいと思います」

―吉﨑清子 さん(MoPI会員)山口県出身

手元に1本のカセットテープがある。タイトルは「2004年夏、ハイルハン」、MoPI 主催のスタディーツアーに参加した吉﨑さんが、ホームステイしたゲルで録音されたも の。遊牧民家庭の子どものあどけない声、大人たちの歌声とともに、その場の空気感ま で、閉じ込められているようだ。よそいきを着た母と手を取り歩く嬉しさを、年老いた 母への思慕を、伝え切れなかった父への感謝を歌う、人々の愛唱歌の数々。子どもたち と肩を並べ、膝を抱えて座り、笑顔で眺めていたあなたの姿が目に浮かびます。まるで 昨日のことのように。

ツアーで出会った、アルハンガイ県チョロートソム・ハイルハンバグの子どもたちが 学校に行きそびれないよう、何かしたい――ツアー参加者の発案で始まったささやかな 教育支援は、10年目を迎えた。「ひとりでもやる、という人が複数集まれば、きっと大丈夫」。発足時、背中を押してくれたのは、彼女の言葉。現地からの支出報告を確認 しながらの会計報告のまとめ、寄付を下さった方へのご礼状や年次報告の郵送など、必 要なことを迅速に、きめ細かにこなして下さっていた。

ご主人とともに、島根県の山里・吉賀町へ移住されてからは、田畑を耕し、人と語ら い、日々の暮らしを満喫されていました。息子さんの留学先オーストラリアへ、友人の 案内でインドへ、そして、北海道でモンゴルイベントを企画する度に、遠い島根からは るばる駆けつけて下さいました。一人で街を歩き、気に入った店やスポットを見つけ、 スケッチを楽しむ姿は、まさに「旅の達人」でした。

暮れに頂いたメールには、「わが家は明日から下関です。昔は母たちが世話をしてく れましたが、今では2人とも高齢。こちらが世話をいたします。順繰りですね。では、 お互いに良きお正月を過ごしましょう」。

 

年明けに馬頭琴ライブを主催され、 忙しくされているかな、と思っていた ら、急な病で入院されたとの報せ。ほ どなく、ご家族に見守るなか、旅立た れました。

クリスマスのメール、「うちも昔は クリスマスプレゼントを用意するのを 親も楽しんでいました。かなり大きく なるまでサンタを信じていた息子たち でした。今では笑い話です」。そのま んままねしよう、と密かに期して、興 味津々で聞いた子育ての話の続き、も っと聞きたかった。「母は太陽」とよ くおっしゃっていた言葉どおり、いつも優しく、楽しそうな吉﨑さんでした。感謝とともに、ご冥福をお祈りいたします。

写真:留学生らとバンシ(小さな餃子)を作る吉﨑清子さん(左)2016 年 3 月撮影

「今月の気になる記事」

東日本大震災と福島の原発事故から丸6年。4年前、安倍首相が世界に向けて「福島の状 況は制御されている(アンダーコントロール)」と言い放った、その現場は「汚染水がタンク にどんどんたまり、プールに核燃料が残ったまま。何より解け落ちた燃料がどこにどれだけ 分布して、どういう形状、組成になっているかも分からない。今も大きな地震が来たらひと たまりもない状況」(元日本原子力研究所研究室長の田中文也さん談、北海道新聞2017年 3月17日付)。なかったことに、なんて、到底できません。今回は、ウラン資源大国からの 声です。

アレバ社のウラン探査が終了、さて次は… (筆者:Ч.ゾトル)

ウラン採掘で世界最悪の事業展開を誇るフランスのアレバ社が、モンゴル国内の開発 に手を伸ばしつつ、しばらく動きが鈍かったが、先般から再び動き出した。同社はこれ まで資源探査の認可による展開はご存じのとおりで、その間もたらされた害悪は、ドル ノゴビ県ウラーンバダラフソムの住民にふりかかった災厄が示している。そしていよい よ、ウランの活用に向けて動き出した。2015年に下りた資源活用の認可5件で、

世界の市場に打って出る計画という。あたかも、モンゴルの人や家畜、ふるさとそのもの を破壊する巨大な「毒蛇」が冬眠から目覚め、這い出すかのように。

2008-2009年、C.バヤル政権の時期に出したウランに関する100件を超え る認可のうち、アレバモンゴル社の所有していたのが41件。市民の反対運動が沸き起 こり、現在は37件となったが、すべて2020年まで、まだ期間がある。ライセンス のある地域は、スフバートル県、ドルノゴビ県、ドンドゴビ県、アルハンガイ県内で、 そのうち5件がウラン活用に関する認可である。過去数年なぜか目立った動きがなかっ たのが、ここへ来て突然に動きがあり、今後もたらされる被害や危険性に、人々の関心 が集まっている。

アレバモンゴル社は、公式サイトによると、2015年からモンゴルでウラン採掘、 活用事業を始める、とする。ウランには毒性、危険性がないとの説明も添えてある。し かし、これまでなぜ静かだったのか、その理由については、探査の報告書を見る限り、 ウラーンバダラフでふりまいた被害をどうすればなかったことにできるか、悪評をきれ いにするか、が焦点となっている。また、活用を開始するにあたり、どんな宣伝を行う べきかにも腐心していたようだ。例えば、「国境なき獣医団」というNGOに、11億 トゥグリクの資金を提供し、探査地で生じた人や家畜の病気は、ウランや放射性物質が 原因とは言えないという総括報告をさせ、人々を洗脳した。一方、モンゴル政府による 2013年の総括では、「家畜が死んだのは放射性物質による」と明記されている。ア レバ社は、上記の調査の実施期間も、ウラン採掘のための準備を進め、採掘のための機 材設備をモンゴルに入れ、ドルノゴビ県ウラーンバダラフに設置済み、との情報もある。

経済状況という、もうひとつの理由もある。2011年に日本で「フクシマ」の原子 力発電所が爆発した後、世界中でウランの需要、原子力発電所は受け入れられなくなっ た。ウランや放射性物質、関連商品の国際市場価格が下がった。これにより、アレバ社 は倒産の危機に追い込まれ、2014年に48億ユーロ(≒54億米ドル)の損失を計 上した。企業価値36億ユーロのアレバ社の負債は、58億ユーロに至っていた。

当時のウォッチャーや研究者の発言で特筆すべきは「倒産寸前の企業は非常に危ない、 当然のこととして、最もカネがかからない方法でウランを採掘し収益をあげようとし、 自然環境の破壊や被害の責任を取る者がいなくなる恐れがある」。世界の、ウラン採掘 反対を掲げる市民運動が反対の立場を明確にした。その流れに反して、わが国において は、フランス外遊から帰国したエルベグドルジ大統領が、アレバの子会社「カジェゴビ」 に認可2件を与えた。

このように、アレバ社は探査の認可を求め、活用認可すべてを更新して2015年に モンゴルにウラン活用を開始すると言いながら、2017年までは水面下での動きに留 まっていた。それは、世界市場におけるウラン価格の低迷が続いたせいだと受け止めら れている。根拠として、アレバ社が 2010 年にドルノゴビのウラ―ンバドラフソム内でウ ラン探査認可のもとに、試験採掘を行い、イエローケーキで2.7トンが、モンゴル国 境で留め置かれているという。所在について、ある情報源は「ウラーンバダラフにおい て、特殊な容器に保管されている。一部のサンプルは国外に送られ、品質の確認がなさ れた」とした。

破滅のふちのスフバートル

「ゾーニーメデー」紙は、アレバの子会社カジェゴビが、ドルノゴビ県ウラーンバダラ フの環境を破壊し、人・家畜そして自然を地獄絵のようにして立ち去り、現在スフバー トル県に狙いを定めていることを「将軍のふるさとが破滅のふちに」と題した連載記事で繰り返し報じた。これは、具体的な事実、情報に裏付けられている。 今日、スフバートル県は、家畜の口蹄疫や痘瘡が蜘蛛の巣のように発生している唯一 の県となっている。野生動物のゼールの群れが口蹄疫をまき散らし、殺処分も捕獲で病 気を封じ込めることは困難だ。これはアレバの子会社カジェゴビがスフバートル県に入 る際に、道路整備、放牧地や道路、用地の明け渡しを行ったことと関連があると言って 差し支えないだろう。野生のゼールは、病原体を運ぶかも知れないが、発生源ではない。 現在起こっていることの裏に何があるのか、読者や世間一般の方々には理解してもらえるだろう。

アレバ社は今から6年前にスフバートル県での事業を始めていた。当時、牛痘が多数 発生し、「ノツトイ・メデー」紙は、二つの出来事を関連づけ、軽い調子ではあるが興 味深い記事を掲載した。例えば、韓国で牛の病気の発生と、鉱山開発に関連があり、開 発のため用地が明け渡される中で、牛の病気が拡大したという。スフバートル県で起こ っている事も、鉱山開発との関連があるのでは、と考える所以だ。

2016年の総選挙の時期に、スフバートル県ダリガンガソムでのボーリングに従事 した企業に対して住民が反対運動を展開したことを、読者の皆さんは記憶しておられる だろう。彼らは、人々の関心が選挙に集まっている間に、石人など太古の遺跡の数々を 運び、人々の猛反発に合った。この出来事を、古代遺跡の調査、文化保全事業であると、 人々を洗脳しようとする動きもあった。アレバが認可を持つ地域、言い換えればウラン の探査・開発地では、同社の下請けとして施工にあたるボーリング業者が作業に従事し ている。

ボーリング作業では、地面を掘り、地下の地層のどこかにあるかを明らかにする。ウ ランを取り出すために、何層でも掘り進む。平たく言えば、地下に存在する細菌、バク テリアなど良いものも悪いもの含めて全てが掘り起こされ、地上にさらされることにな る。ウランのみを採掘するために、ウランを取り出した残りは全て捨て去るので、放射 性物質を含むゴミや廃棄物が生じ、ウラーンバダラフソムで人や家畜に健康被害をもた らしたことも、この廃棄物のためと、現地調査を実施した研究者やNGOが主張してい ることを思い出してほしい。そうだとしたら、今日スフバートル県全域で発生する口蹄 疫、痘瘡の理由も容易に解明される。NGOの中には、ウラン探査でボーリングが行わ れた地域に、口蹄疫、痘瘡が発生したとの研究や根拠となる情報を示しているところも ある。

ウラン採掘が実施された、過去何年かに起こったことを人々は忘れない。そこで引き 起こされた害悪は、拭い去ることができない。一方で、被害はさらに広がっている。そ して、いよいよこれから、アレバ社のモンゴルでの採掘・活用が始まる。モンゴル国内 に21の県があり、アレバ社のウラン開発認可は37件。生き残るのは、どちらだ…

―2017年3月16日 政治ニュースサイト POLIT.MN http://www.polit.mn/content/read/120284.htm  (原文・モンゴル語)

(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)

 

 

  意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

◎ 貴船(きふね)神社 京都市左京区鞍馬貴船町180

水神である高?神(たかおかみのかみ)を祀る。古くから祈雨の神として信仰され、全国の料理・調理業・水を扱う商売人から信仰を集めて居る。 創建の年代は明らかでないが、社伝では反正天皇の時代に創建されたとしている。

晴を願うときは白馬を、雨を願うときは黒馬を奉納された。実際は馬にかわって木の 板に描いた馬が奉納されて、このことから絵馬が発祥したと言われる。 また、縁結びの神として信仰もあり、若い人で賑わって居る。

 

 

  ノロヴバンザトの思い出 その 75

(梶浦 靖子)

演奏会のチケット代

私は留学したころにはもう大学の学部を卒業していた。学生として所属していれば大学 の教室などを借りて無料の演奏会をしたり、音楽民族学などの授業で演奏させてもらった り、大学の学祭に出演するなどできただろう。それもできなくなっていたので、考えられ る方法としては、街のライブハウスなどの店に出演させてもらうことなどがあった。

店によってシステムは異なるが、例えばライブのチケット料金の 20 人分までの金額は店 側の取り分となり、21 人目以降の額は出演者がもらえる、というやり方があった。または 出演者がチケット 30 人分の金額を店側に払ってチケットを買い取るやり方もあった。それ を出演者が自分で手売りし、演奏の当日にそれ以上の入場者があればその分のチケット代 は出演者の取り分となる、といった具合である。言わば、出演者は店側に手数料もしくは 場所代を支払って演奏をさせてもらうのだ。チケット代はそのためのもので、ストレートに出演者の懐に入るわけではない。 私の場合、友人知人にハガキで演奏会のお知らせを送って、見に来てくれるのは 10 人もいれば良いほうだったから、儲けなど出たことはなかった。ただ、ライブハウスではなく、 「スーホの白い馬」との関連で、公立の小学校の特別授業に呼ばれ演奏した時などは、謝礼や「お車代」ということで幾らか包んでくださったことはあったが。 ともかく、そうした市場経済の国の、街のライブハウスのシステムなど知らないせいで、ノロヴバンザドは訝しく思ったのだと言える。 そうだとしても、私のような立場の人間が観客からお金を取ってオルティン・ドーを歌ったり、モンゴル音楽を使って金儲けをするならば、ノロヴバンザドは大いに反感を持ち反対 の立場を取りうることがわかった。また、ノロヴバンザドのそうした反応を知る以前から、 私自身、モンゴル音楽の演奏活動について、どうも不当なことをしているかのような後ろめ たさを感じており、どうしたものかと考えていた。ノロヴバンザドのそうした反応を見て、 この問題は突き詰めて考えざるを得ない、と痛感したのだった。

(つづく)

 

 

  2017年度モピ年会費納入のお願い

平素モピ活動にご協力を賜りありがとうございます。近年のモピ活動の中心的な事業は モンゴル支援事業です。近畿圏の小学校からの要請をうけて活動しています。

長年、継続事業だった「黒板を贈る」事業、モンゴル全土約 600 校に 1552 枚(2015 年まで) の黒板を届けることができました。ご支援してくださった方々、道なき道を運んでくれたモ ンゴルスタッフ、大きなプロジェクトでした。昨年度はモンゴル宮殿の子どもたちの音楽交 流事業がありました。また前に歩むことができますよう、今年もみなさまのご協力をお願い 申し上げます。

会費・寄付金の送り先郵便振替

口座番号 00940-6-84135 加入者名 モンゴルパートナーシップ研究所

銀行振込(三菱東京 UFJ 銀行谷町支店)

口座番号 普通 5096982
口座名義 トクヒ)モンゴルパートナーシップケンキュウショ

(事務局)

 

 

  委任状のひと言欄から・

(小林志歩)

先日、シベリアの少数民族についての文献を調べていて、帯広市図書館で(道内のどこかの 図書館所蔵を取り寄せて)みんぱくの「季刊民族学」のバックナンバーを借りたのですが、 ちょうどその号に、友の会の関係で、小長谷先生と松本さんが寄稿された文章が掲載されて いて、嬉しく読みました。たいへんご無沙汰していますが、皆さまにまたお会いしたいです!

(藤原道子)

モンゴル文字のタテ文字が現在、教育の中で、又、社会の中でどのように受け入れられてい るのか・・知りたいです。

 

 

  返答(齋藤美代子)

娘は今6年生で、モンゴルでは中学生になります。 今年からモンゴル文字(縦文字)の授業が始まりまし た。

91年の民主化後、縦文字の使用が復活され、一時 は小学1年生の最初から縦文字でモンゴル語(国語) の授業が行われていた時期もありました。この年代の 子たちは現在30歳くらいでしょうか。彼らの中には メモを縦文字で取るような人もいるそうです。ただ、 それは数年間だけで、また制度が変わり、現在は小学 1年生の最初の文字はキリル文字に戻っています。

縦文字の授業は日本の古典のような扱いなのかなあと思い ます。また、ノートに書いて練習を続けるという点では書写 に似ている気もします。娘に授業はどうかと聞くと「書くの はおもしろいと思うけど、宿題が多いので大変」ということ でした。12年生まで6年間勉強するようです。

街中を見てみると、お役所など公共機関の看板などはキリ ル文字と縦文字の両方を書くことが義務付けられているの で、以前よりは目にすることが増えました。書道のように筆 で縦文字をかいて額に入れてプレゼントすることも流行っ ているようで、縦文字アートもよく見かけます。急激な縦文 字への移行は失敗に終わったようですが、徐々に静かに縦文 字は復活しているのかもしれません。

 

 

  事務局から

(事務局 斉藤生々)

第16回モピ定例総会のご案内

平成 29 日年4月9日(日)午後1時00分 ~ 開催場所: Z A M (ゲル・レストラン)

大阪市中央区東心斎橋 1-7-10, 3F 連絡先: 080-1526-7606

(事務局 斉藤生々)

メール、はがきにてご案内を送っています。委任状の提出を重ねてお願い申し上げます。

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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