■NO 182号 モピ通信

■NO 182号 2017年5月1日

編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所 

 

母たちのライフヒストリー その5

『Voice from Mongolia, 2017 vol.32』

 ノロヴバンザトの思い出 76

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

 事務局から知らせ

 モピ年会費納入のお願い

 

 

中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査(2002年) より「母たちのライフヒストリー」その5

(小長谷 有紀)

(人間文化研究機構理事)

ツェレンナドメドさんは一九三八年、寅年生まれの六十五歳。
ラクダを放牧して暮らしていた遊牧民の子は、国境を越えてモンゴル国で成長した。

――幼い頃のことを話してくださいますか?

わたしはアラシャー盟のウネトゴルに生まれました。一人娘で、父の名前はドブチンと言い、アラブ系の人です。母の名前はセムジンと言います。二人とも牧民でした。ウネトゴルはラクダのふるさとです。両親は一生ラクダの放牧をしました。モンゴルに行く前は百三頭のラクダをもっていました。一九四〇年にモンゴルに移住しました。国境あたりにいたラクダをハルハ軍が追って行ってしまいました。それでわたしたちもモンゴル国に住むようになったのです。モンゴル国のツァイラン(現在のウムヌゴビ・アイマグ、ノヨン・グンの領地で、軍事基地)に一年間滞在して、そこからアルハンガイ・アイマグのホトント・ソムのホーラインホダグと言うところに送られ、わたしたちはそこで生活をしていました。七~八世帯が一緒でした。

わが家の家畜と言えば、ラクダが九頭、七~八頭のウシ、ヒツジとヤギが二十数頭でし た。一緒に暮らしていた家はかなり裕福で、たくさんの家畜を持っていました。モンゴルにいたとき、二十歳以上の人にはパスポートが与えられていました。わたしは 一九四八年、十歳のときにホトントで学校に入りました。わたしの兄といとこのプレブ(母 が姉妹同士の息子)はオラーンボラン(赤い部屋の意。社会主義下の芸術活動施設)の音楽 関係の仕事をしていました。それでわたしは兄の近くで学校に入りました。わたしのいた学校の校長先生の名前はダムディンスレンでした。学校が教科書や鉛筆な どを全部無料でくれます。授業料はただでした。今覚えている同級生にはバルガンスレン、 ツェレンジャブ、プルブフーと言う人たちがいます。わたしの小さいころの友だちにマロー シャと言う名前の髪の長い子がいました。だいたい一九五〇年か、一九五三年までの間にホ トント・ソムの学校で一緒でした。わたしは今でもぜひ会いたいと思っています。アルハンガイのホトントは人が多くて、国境から遠い内地なので、内モンゴルから来た わたしたちを逃さないようにそこに送ったのでしょう。アルハンガイはとてもすばらしいころです。草も水も豊富です。多くの世帯が一緒に遊牧していました。それほど遠くへ移動 することもなく、旱魃になることもありませんでした。埃が立つこともなく、緑の濃いとこ ろです。

アルハンガイはウマのふるさとだと言われています。実際、各家庭はいくつもの小さな 群れからなる馬群を持っていました。ヤギの乳や牛乳も豊富でした。乳しぼりは一日に三回 もします。そうしなければ母畜の乳が張ると言うのです。秋にはクリームからバターをグゼ ー(ヒツジやヤギの第一胃を大きく風船のように吹いて伸ばして乾かした袋)に入れて七~ 八個作ることができます。

最初にわたしたちと一緒に来た世帯のうち、オラド地方のトソノー(ダリスレン)、ジン ジゲイ(独身)、グンジドマー(子どもが二人)、シャル(子どもが四人)などは南ゴビまで 来てそこに残りました。アルハンガイまで来ませんでした。南ゴビは牧草地が悪く、旱魃が あり、草がまばらです。

わたしたちは一九五三年にアルハンガイから南ゴビにやって来て、ノヨン・ソムのハン ホンゴル第二バグで三年間生活して、一九五六年に中国に戻って来ました。南ゴビのツァイ ランにいた三十世帯の一〇五人が、約六千頭の家畜、九百頭あまりのラクダを追って国境を 渡ってやって来ました。

なぜモンゴルから戻って来たのかと言えば、モンゴルと中国が相互に住民を返す条約を 結んだため、一九五六年に両側の軍事会合によって返されたのです。それでわたしたちはモ ンゴルのアラグシャンドからこっちに出て来て、アラシャー盟のウネトゴル・ソムに来まし た。ウネトゴル・ソムは付属ソムでした。現在のエジネーに属します。一九六〇年ごろにウ ネトゴル・ソムをエジネーに所属させました。

わたしたちは一九五六年九月に戻って来て、その年の十一月にわたしは就職しました。 わたしは読み書きができたので、アラシャー左旗の婦女連合会の幹部になりました。

わたしたちと一緒に戻って来た人のなかでシャルチンはアラシャー盟合作社の主任とし て勤めました。ヤランピルはウネトゴルのソム長を務めました。ヤランピルはわたしの母方 の叔父です。母の弟です。プレブはアラシャー盟のオラーンムチル芸術団の創設者です。

プレブとわたしはいとこ同士で、同じ家庭で育ちました。きょうだいのように親しい間 柄です。ボルドバートルは思想宣伝部に任命されました。その後、そこからオラーンムチル 音楽隊に行きました。帰国後、わたしたちは教育を受けていたので仕事を与えてもらい、生 活を整えてもらいました。

――その後の家族の状況を話していただけますか?

一九六一年に夫と知り合って、結婚しました。「ハルハのスパイ」「内人党(内蒙古人民革命党員)」「実権派の富牧」「牧主」といった多くのレッテルを貼られて、わたしは一九六六 年九月から糾弾されはじめました。夫は教師をしていました。子ども(養子)が一人いました。娘のナランツェツェグはまだ三歳でした。夫は学校の施設のなかに閉じ込められていました。わたしは林業工場に行かされて、母はウネトゴルの放牧地にいました。このように一家四人が三ヶ所に別れて生活していました。
わたしは一九六八年十月から五七幹部学校(思想改造所)で監視のもとで働きました。 月給は二十五元でした。子どもの手当ては月十元でした。一九七〇年に夫は仕事に復帰し、 一九七一年の十一月からやっと一家四人が一緒に生活できるようになりました。その後、二人の子どもを養子にもらいました。一九七三年には正式に名誉回復されました。わたしは全国婦女連合会から三十年勤務名誉証書をいただきました。ずっと子どもは生まれず、三人の子どもを養子にしました。

――文化大革命の渦中では主にどういう理由で批判されたのですか?罪名はなんでしたか?

主に「ハルハのスパイ」として糾弾されました。わたしは帰国後、キリル文字ができる ので多くの人たちにキリル文字で手紙を書いてあげました。ハルハに親戚や友人をもつお年寄りたちがわたしに頼んで手紙を書かせていました。それに、先方から届いたキリル文字の 手紙をわたしに読ませていました。そして、その返事を書かせていました。そんなことをし ていたので、文化大革命がはじまるとそうした親切がぜんぶ禍となって、「ハルハのスパイ」 をしていたと言うことになり、無実の罪を着せられました。ハルハへ手紙を書かせていた人たちも批判されてひどく問い詰められていたようです。そ れで誰かがわたしのことを「ハルハのスパイだ」と言ったようです。

――最近になって、モンゴルに行かれましたか?

一九八六年に、モンゴル国ウムヌゴビ・アイマグのノヨン・ソム中学校で美術の教師を していた、いとこの弟ゾリグトが訪れて来ました。それで、わたしは二連市から出国してモ ンゴル国に行って来ました。そのあと、一九九五年、一九九八年、二〇〇二年にそれぞれ行 きました。親戚たちがいまモンゴル国にいます。その生活はわたしたちには及びません。し かし、モンゴル国の自然や牧草地はすばらしいです。二〇〇三年九月三日ツェレンナドメドさん宅(エジネー旗の中心地市内)を訪問し、聞き 取りをおこなった。

 

 

『Voice from Mongolia, 2017 vol.32』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「モンゴルにいたのでは暮らしは良くならない。家族と離れるのはさびしいけどね」 ―――ナサー(39)ウランバートル出身

ウランバートル23時55分発、韓国・仁川空港へ向かう便は、込み合っていた。搭乗を待つ間にも眠気に襲われ、席に落ち着いたら即寝よう、と決め込んでいたはずが、 隣りの席の男性と会話が始まってしまった。エコノミークラスの座席に、がっしりした 体躯を何とか押し込んでいる。この時間でも律儀に供される機内食をさっさと平らげる 姿は、パスした私の分を「どうぞ」したら良かったかと思わず悔やんだほど。

韓国へは「仕事で」、建設現場で働いて数年になるという。今回は、自分の商売の売 り込みも兼ねているとか。売りたいのは、ラクダの発酵乳。そして松の実。鞄の中にサ ンプルを持参している。

今は春だけれど、松の実(サマル)と言えば、言わずと知れたモンゴル人の秋のお楽 しみ。リスのように、歯で硬い外皮をカリッ、中身を食べてポイッ。昨秋立ち寄ったフ ブスグルの知人宅では、「ちょうど山で取って来たところ」と松ぼっくりのまま、ゴロ ゴロと袋に入れてくれた。

興味を引かれて質問する。自分で取りに行くの?かつてお世話になったビジネスマン は、生活が苦しかった子どもの頃(おそらく社会主義の最晩年か体制移行直後)、自ら 取りに行き、売って生活費の足しにしたものだよ、と言っていたのをふと思い出す。「い や、地方の人が集めたのを買う。直接買い付けに来る中国人が高値をつけるから、相場 が上がってしまってね」。機械で圧をかけて外皮をむいて、袋に詰めて商品とする。「味 見してみるかい」と、鞄の中から取り出した袋には、きれいに皮を除いた松の実がギッ シリ。スーパーの試食にはすぐ手が出る私だが、商品サンプルが減っては、と遠慮した。 味わったら最後、サマル販売の北海道代理店を任されてしまいそうで(考え過ぎか?)。 とにかく、仁川の厳しい税関で没収されないといいが。

未明に仁川に到着、1 時間ほど待ってバスで郊外の町へ向かうという。入国カードの住 所欄に、器用にハングルを書き込んでいる。高収入、そして新たな出会いと学び。以前 から多かった韓国への出稼ぎは、さらに増えていると聞いた。

ここ数年、「日本に働きに行きたいけどどうすれば」と、モンゴルの知人友人から聞 かれることが増えた。長引く不況、そして安い労働力を求める日本の技能実習制度の広 がり。国外へ行くためにかかる経費と、現地で得られる賃金、そして新天地への期待。 諸々を算盤で弾くと「YES」と出るのか。「座っている賢人より、行動するバカであれ」 との諺もある。留学してそのまま外国に居住する道を探る人も少なくない。「だって、 帰る理由がないもの」。日本に長い友人は、祖国を愛する故の辛辣さで言うのだ。

「今月の気になる記事」

モンゴル農業を応援する JICA 草の根技術協力事業に関わっている関係で、首都からダ ルハンへ向かう幹線道路を走ることが多い。ロシア国境へと続く国際道路沿いに、小麦 や野菜を栽培する国内有数の農業地帯が広がる。何度も行ったり来たりしながら、現在 進行形の問題を全く知らずにいたのは、いつもとんぼ返りのせいだ。地元の方々とゆっ くり語り合う時間を、次こそは、と思う。

Ш.プレブスレン:モンゴルで賄賂がいかにはびこっているか、ノヨン山問題を見れ ばわかる
(筆者:Ч.オルドフ)

土壌研究者のШ.プレブスレン博士のインタビューをお届けする。 -ガツォールト鉱床の認可を無効にすることを求めた裁判が4月4日にあり、あなたは 不服をあらわに議場から出て来られました。今回もまた、延期になったのですか。

「そうです。会議は様々な理由をつけて、何度でも延期される。裁判所のこの体たらく、 権限を制限する法律を制定することはできないものか。これは一例で、他の件でも何年 もにわたり、先送りにされるのを、国民は飽きるほど目にしています。いくら何でもひ どい。南北の隣国では、こうした案件は申請に基づき、日を置かずに対応されるシステ ムになっているのに」

-この裁判が延期にされたのは今回で何度目ですか?

「昨年2月以降、一審、再審で合計10回以上延期された。その度、弁護士が体調不良、 急用、書類不備、責任者側の要望などあらゆる理由が上がります。とはいえ、祖国の行 く末を憂うマンダルソムの年配者らが振り回されているのが気の毒です」

-今回の延期の理由は何だったのですか。

「大元にあるのは『センテッラゴールド・モンゴル』社側の申し立てでしょう。今から 8年前、2009年に鉱床活用の認可を取得する前に県の土地事務所に提出されている べき書類一式が、この期に及んでも、揃っていない。裁判が延期になる主たる理由はこ れに尽きます。自然環境の評価、引き起こされる環境破壊を評価することもなく、現地 のヒ素含有量の調査も、凍土の調査もしないまま、認可を手にしてしまう、魔術師たち の一例がこの企業です。モンゴル国内で賄賂がどれだけ有効であるかを示しています」

―社会に不正を生み出す、多くの問題のなかで、どうしても耐え難いことのひとつがノヨン山の金採掘だと思います。将来的に、国土にどのようなリスクが生まれますか?

「ズーンハラー、バローンハラー、バトスムベル、ボルノールと言えば、モンゴルの農 業生産を担う、唯一の地域です。ハラー、ボローの河川がもたらす栄養豊かな低地に、 わが民族の歴史と生活、将来は支えられて来ました。『ノヨン山を掘りおこすことでもたらされることを理解しない顔を続けているのは、どこの誰で、何を考えている?わが 国から出ていく金の利益のために、命をはぐくむ大地、祖国の将来を壊しても何とも思 わないのか』。何百人もの農業技師ら教え子の質問に、私も、答えるべき義務があると 思う。この闘いから一歩も後に引かないことを、教え子たちに、ここで誓いたい」

-もうひとつの質問は、一部の人々が「ノヨン山を保護するとの名目で、センテッラゴ ールド社を恐喝している」という話です。そのあたりはご存じですか。

「愛国者の顔をして、一部のNGOが、鉱山会社に圧力をかけカネを要求しているとい う話は、新聞等で知っています。運動の支援者の中に、こうした考えの持ち主がいるこ とは否定できません。個人的には、この年まで、人並みに堅実に暮らし、一度たりとも 泥棒のような真似をしたことはないし、誰の前に出ても恥じることのない誠実な生き方 をして来たつもりです、自画自賛になりますが。2009年から「ノヨン山を救おう」 運動を立ち上げ、Facebook やツイッターなどSNSを通じて集めた5万筆の署名を政府 に提出しました。このように責任感を持って、モンゴルの人々の関心を集めることも意 識しながら、運動を進めて来たのです。ノヨン山の自然を残すためなら、鬼になること も厭いません」

-今後はどのような取り組みを予定されていますか?

「われわれは現在、責任の重い2つの選択肢の前にいます。ふるさとの大地をだいなし にして、食の安全を脅かし、将来の疾病発生率を上昇させるほうに進むか、或いは今お 腹は満たされなくても、次世代に汚れのない自然環境を手渡すか。現在の世界の潮流と しては、次世代のために、健康に良い自然の食品が人々に選ばれています。何千年前か ら祖先が暮らして来たこの地に、私たちはここで、これからも暮らして行くのです。モ ンゴルの地、民族の独立と存在意義は、ふるさと、そして母なる地球を、自分の命以上 に大事にする心にこそある、と思うのです」

―2017年4月7日 政治ニュースサイト POLIT.MN http://www.polit.mn/content/read/121744.htm (原文・モンゴル語)

(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)

 

 ノロヴバンザトの思い出 その76

(梶浦 靖子)

ノロヴバンザドの返信

あわててノロヴバンザドにノロヴバ手紙を書き、日本の街のライブハウスの料金システム や、私自身の金儲けの目的で観客からお金を取っていたわけではないことを説明した。そし て、自分はあくまでモンゴル民謡を少し習って、自分の楽しみのためなどでたまに演奏活動 をしているいわばアマチュアであることを観客に伝えるようにしていることも書いた。聴き に来てくれる観客も私の大学時代の友人が多いので、そうしたことは理解してくれて、私と 本場モンゴルの歌い手とを混同するようなことはないと思う、とも伝えた。そして、今後も時々演奏活動をするかもしれないし、またモンゴル音楽についての講座と いう形のイベントをするにも、実際歌って見せることをしたほうが興味を持ってもらえるか もしれない、といったことも書き、そういう活動をすることを了承してほしいと書き添えて 手紙を送った。それから確か2、3ヵ月かもう少し経って、ノロヴバンザドから返信が来た。彼女の手紙 はたいてい、キリル文字筆記体をボールペンか鉛筆で猛スピードで殴り書きをしたかのようなものが多く、いつも判読に苦労するのだが、この時はきちんとタイプライターで打ってあ った。落ち着いた印字は、人への相談や熟考のあとを伺わせた。1997 年月月の日付のその手 紙には、私の手紙に対する返答が箇条書きにまとめてあった。その一つ、私が演奏活動をす ることについての返事はこうだった。

あなたはオルティン・ドーを正しく学んでいるので、どこで歌ってもよいでしょう。 しかし喉の力の面で、モンゴル人のようには歌えていないことは明らかです。私も日本の歌 を歌いたいと思うけれど、日本人のようには歌えずにいる。だから、歌ってはいけないと禁 ずる権限は私にはありませんよ。

この一文を読み胸を突かれたような気がした。やはり、私自身感じていた通りなのではな いかと思った。「どこで歌ってもよい」とはあるものの、気にせずどんどん歌いなさい、とい う様子ではない。むしろ、権限があり可能であれば制限したいというのが本音ではないのだ ろうかと感じた。彼女に近く接し、彼女の感じ方考え方を見聞きしたことを思い返してもそ う思えてならなかった。何より、もしも逆の立場であったなら、自分もまたそうした思いを 抱くのではという気がした。

彼女の「本音」をいくら推し量っても切りがない。結局は自分で考えて判断するしかない。 そうして私はその後かなり長いこと、この件を自分の中で転がし続けることになった。

「お得意様」への春着な思い

他国の人々が自分の国の伝統音楽に興味を持ち学んでくれるのは、とても光栄で誇らしく、 うれしいことだと思う。しかしそれが度を超したならどうだろう。つまり、彼らが私たちを 置き去りにして活動の規模や範囲を拡げ、まるで自分たちこそが、たとえばモンゴル音楽の 演奏家やモンゴル民謡の歌手であるかのように活動していったなら?それで彼らの方が「モ ンゴル音楽をする人」として世間に知られるようになったら?やはり不当なことではないだ ろうか。

それはありえないことではない。メディア、マスコミの発達の度合いや情報発信力のある 方が有利である。そして、私が関わっていた二十数年前の状況では、その点あきらかに日本 側に分があり、モンゴル側は一方的に不利であった。その後、インターネット、SNS が発達し、 情報発信のツール面はかなり平等になったと言えるが、人的な力や経験値といった点で、な おモンゴル側が不利ではないだろうか。

そうした力の違いにまかせ、諸外国の人々が私たちの預かり知らぬところで私たちの音楽 を好き勝手に扱っていたなら、何とも言えない淋しさ、哀しさ、やるせなさを覚え、不当の 感を募らせるのではないだろうか。

現地の音楽家に遜色ないくらい上手に歌い演奏できているかどうかは関係ない。万が一、 現地の音楽家よりも完璧にできていたとしても、それで許されることではないと思う。

そうは言っても、モンゴル音楽を好きになり学ぽうとする諸外国の人々は、モンゴル側に とっていわば[お客]「お得意様」のような存在でもあるだろう。彼らはモンゴル音楽のコン サートに足を運び、CDなどを購入してくれるに違いない。そのような、せっかく興味を持 ってくれた人々に対し、勝手に歌うな、演奏するな等と言うのは、いかにも度量が狭いよう で気が引けることだろう。それに、せっかくの「お得意様」を失いかねない。それはモンゴ ル側にとって大きな不利益だ。

こうした問題は、すでに普及し良く知られている音楽、たとえば西洋音楽とそれにルーツ を持つポピュラー音楽にはあまり起こりえないことだろう。また世界の他の国や地域の音楽 すべてにあてはまるかどうかわからない。少なくともモンゴル音楽については、私が見聞き してきた限りでは、明らかにこうした問題が生じうる。

そうしたことを考え続けて、モンゴル音楽の解説や宣伝、広報的なことを何よりも優先し てやる方向に私は重きを置くようになった。それで、たとえば日本においてモンゴルの音楽、 民謡、ノロヴバンザドらモンゴルの音楽家の知名度が確実に上がったと実感できるまで、自分が歌う活動はとりあえず封印するくらいしようとも思った。むしろ、そうならなければ自 分が不当なことをしているようで、安心して歌うことができない気がした。20 世紀が終わる 少し前の頃に、そうした考えがまとまったかと記憶している。

(つづく)

 

 意味深い京都の佇まいを訪ねて

(荒木 伊太郎)

◎ 壬生寺(みぶでら)

京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院です。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三 井寺)の僧快賢。 中世に寺を再興した、融通念仏の円覚上人が創始したとされる。 「大念仏狂言」を伝える寺として、また新撰組ゆかりの寺としても知られる。 節分には、厄除け、無病息災を祈る人が非常に多く参拝される。

 

 

 事務局からお知らせ

(齋藤 生々)

第16回モピ総会
2017年4月9日(日)午後 1 時 ZAM(大阪市中央区東心斎橋)に於いて

始めに・3月5日心筋梗塞で逝去された会員 吉崎清子さんを偲び、全員で黙とうし冥福 をお祈りしました。

第16回モピ総会の結果
会員 総数 121名 (3月31日現在)

出席会員数 12名
委任状 87名 計99名(成立)

第1号議案 事業報告書、財産目録、貸借対象表及び収支決算書付議の件。 議長は、理事長より本案について付議された旨を述べ、これを議場に諮った ところ、満場一致をもって 異議なく可決決定した。

委任状を提出していただきましたみなさま、ありがとうございました。

 

 

 2017年度モピ年会費納入のお願い(再度)

平素モピ活動にご協力を賜りありがとうございます。近年のモピ活動の中心的な事業は モンゴル支援事業です。近畿圏の小学校からの要請をうけて活動しています。

長年、継続事業だった「黒板を贈る」事業、モンゴル全土約 600 校に 1552 枚(2015 年まで) の黒板を届けることができました。ご支援してくださった方々、道なき道を運んでくれたモ ンゴルスタッフ、大きなプロジェクトでした。昨年度はモンゴル宮殿の子どもたちの音楽交 流事業がありました。また前に歩むことができますよう、今年もみなさまのご協力をお願い 申し上げます。

会費・寄付金の送り

先郵便振替

口座番号 00940-6-8413

加入者名 モンゴルパートナーシップ研究所

銀行振込(三菱東京 UFJ 銀行谷町支店)

口座番号 普通 5096982

口座名義 トクヒ)モンゴルパートナーシップケンキュウショ

(事務局)

(すでに納めていただきました皆さま、ありがとうございました。)

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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI

事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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