■NO 188号 2017年12月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
母たちのヒストリー その8
Voice from mongolia 2017 Vol38
この夏のモンゴルの旅―アルハンガイ県とドルノゴビ県
ノロヴバンザトの思い出 その81
モンゴル学習支援事業の報告
事務局からお知らせ
中国内モンゴル4自治区アラシャー盟のエジネー旗における聞き取り調査(2002年) より 「母たちのライフヒストリー」その8
(小長谷 有紀)
(人間文化研究機構理事
ドルガルツォーさん、白い辰の年、一九二八年生まれ。二○○四年聞き取りの時点で七十六 歳。エジネー旗のジャルガラント・ソムのナランボラグ・ガツァー中心に生まれた人。
――幼いころの生活について話してくださいませんか?
幼いころと言うのは非常に厳しい時代でしたよ。わたしの母親はハルハ人でした。バル
ダンザサグ旗の人だったそうです。ザサリ活仏もまたバルダンザサグ旗の人だったそうです。 父母からの子どもは兄とわたしの二人です。兄の名前はゴンボといいます。兄はソブノール やサイハントーライあたりで暮らしていましたが、六十歳で亡くなりました。わたしは幼い ころに養女として出されました。養父の名前はダンザンで、もう一人の養女の姉がいて、三 人で一緒に生活していました。養父には二百頭余りのヒツジ、ヤギと、二十頭ほどのラクダ がありました。
夏になると、数人の奥さんたちがヤギを搾乳します。搾乳量は豊富でした。
一夏にシュ ールメグ(チーズ類)を何袋も集めることができました。酒の道具(鉄製容器)に脂肪分を 保存していました。冬も夏と同様に乳製品を食べていました。また、ツァガーントス(発酵 バター類)を集めて、屠殺したヒツジのグゼー(反芻胃)に入れて保存します。ヤギの皮製 のトロム(袋)にも乳脂肪を注いで保存します。秋に、ヤギ、去勢ヤギを屠るとき、皮を裂 かないで皮袋トロムを作ります。破らないで作った皮袋トロムをなめしてきれいにしておき、 夏になるとツァガーントスを注ぎ入れます。トロムにいれた脂肪分は時間が経っても質が変 わりません。それで、次の夏に再び新しい乳製品を食べるまで、冬、春にトロムに入れた脂 肪分を食べます。グゼー(反芻胃)やトロム(皮袋)に入れた乳脂肪は普通、保存しておき、 お正月のときに二つに分けます。半分は正月のときに来客にご馳走します。半分を再び保存 して、春の厳しい時期に食べます。当時は一日中、食事はすべて乳製品でしたよ。朝は火に かけて泡立てさせた乳のウルムやシュールメグを混ぜて食べてから放牧に行きます。冬には、 シュールメグを懐に持って出て野外で食べます。昼間、家には戻りません。一日、シュール メグやビシラグを口に含んで溶かしていれば、空腹を感じないものですよ。
一般に、昼には穀類入りのオンドを飲みます。乳を飲みます。アイラグ(発酵乳)を飲 みます。夜になると、ヤギを搾乳し、乳をあたためて泡立ててからエーデム(ヨーグルト類)を飲みます。冬の夜には肉汁の食事を食べることもあります。貧乏な家ではほとんど肉を食 べることはありません。夏は、フェルトを作るとき、一頭の家畜を屠ってみなで肉汁を飲み ます(肉を食べます)。それをフェルトの宴会と言います。冬になれば、正月や読経、ジャス (寺院の家畜群)を作るといった際に、家畜を屠って肉汁を飲みます。それ以外はたいてい 乳製品です。冬の正月から厳しい春にかけての時期に食べる肉は、秋から冬への変わり目、 氷が解けたり、凍ったりするころ、屠ってグゼーに入れて物置台の上に置いて凍らせたもの です。その際、犬や鳥に食べられないように置きます。人によってはグゼーを地面に埋めま す。家の影になるところや、物置台の下に穴を掘って埋めます。
乳製品はいろいろな方法で食べることができます。乳やチャガー(発酵乳の一種)はい ろいろな方法で飲むことができます。エーデムを飲むと言うのは、温かい乳にアイラグ(発 酵乳)をいれて飲むことです。ホールモグを飲むと言うのは、冷たい乳にアイラグ(発酵乳) を混ぜて飲むことです。ツィーデムを飲むと言うのは、アイラグ(発酵乳)に水を入れて薄 めて飲むことです。また、ホリマグと言うのはタラグ(ヨーグルト)と乳を混ぜて飲むもの です。一般に、年寄りの話では「食で良いのはホリマグ、衣服で良いのは絹」といいます。 またエーズギー(乳製品の一種、醍醐といわれている)を煮て食べると言うのは、とてもお いしい料理です。エーズギーを煮るときには技能が必要です。乳を加熱しながら泡立てると きに、上からアイラグ(発酵乳)を少しずつ入れて、出てくるシャルオス(乳しょう)をど んどん掬い取って、それから除去したシャルオスを再び入れて煮ると、すばらしいエーズギ ーになります。エーズギーは空腹をよく抑えます。エーズギーを食べて出かけるとお腹がす きません。たっぷり栄養があります。
また、乳製品としてアルヒ(蒸留酒)も蒸留します。酒を蒸留するのもまた手間がかか ります。ドゥージンと言う容器があります。冷却用の鍋に水を入れて何度も水を交換しなけ ればなりません。酒の味が薄まらないように何度も味見をします。蒸留酒が薄いと水のよう に何の味もせず、おいしくありません。
さあ、食の一つとして、またチュルゲルを採って食べます。これには二種類の食べ方が あります。一つは鍋に入れて煎って穀類として食べる方法です。もう一つは粉にしてザンバ ーのように食べる方法です。粉にするときは、あらかじめ採集したチュルゲルを水に浸して 煮て、再び乾かして煎り、それを粉にします。油っぽい、茶色の粉ができます。チュルゲル は砂地に生えます。もともとゴロナイにチュルゲルがたくさん生えていました。また、シャ ル・フーレグの粉も作って食べていました。シャル・フーレグをヘレスとも言います。アラ シャー右旗ではシャル・フーレグの粉でザンバーを捏ねて食べることが多かったそうです。 シャル・フーレグの粉にツァガーントスを入れて、酸乳を混ぜて食べるとおいしかったので した。けれども、裸麦で作るザンバーには及びませんよ。ほかにまた、ホシ・ハムホグの種 も洗って煮て食べます。これも洗って乾かして煎って粉にしてザンバーにして食べます。ジ グドも集めて食べます。概して、野生の植物に頼っても生きていけるほどでした。
――家畜が食べる草について話してくださいますか?
エジネーにはラクダの食べる草がたくさんありましたよ。有名なトーライ(胡楊)、ソハイ(タマリスク)、ザグ(サクサウル)をはじめとして、モリン・シャラルジ(ヨモギの一種)、 ホニン・シャラルジ(ヨモギの一種)、シャグシグ、ホルス(葦)などがありました。胡楊や トネリコの密林には人の歩ける道がありませんでした。また、ウルグスト・ハムホグとオス ン・ハムホグ(ともにアカザ類)と言うラクダの大好きな草がありました。それから、キヤ グ(=ヒヤグ)、ヘレス、ローリという葉の大きい草、ボトゴン・タバグ、ホシ・ハムホグな どの草はとてもたくさんありました。今は水が不足し、草は根こそぎなくなりつつあります。 当時、ボルガス(ヤナギ類)もたくさんあったのでした。ボルガスの木でゲルの部品を満た します。壁を作り、屋根棒を作ります。川の上流におもむいて、ボルガスの木を切って、川 に流すと流れてきて、下流に流れて来たら受け取って、ゲルの木造部品を使っていた、と老 人たちは話していました。
わたしは十七歳でブフツァガーン(ブフは相撲取りの意)と言う人と結婚しました。トルゴード人でした。彼は名前どおり力士でした。ボルガスの木を根ごと引き抜く、と言われ ていました。エジネー旗の名前を三十年間とどろかせていた力士でした。彼はバヤルトブシ ンの養子でしたよ。ドゥンドゥブ・タイジはボラグ・ハトン(ハトンは妃の意)の養子でし た。ボラグ・ハトンはバヤルトブシンの娘ですから、彼はボラグ・ハトンの弟になります。 わたしはブフツァガーンと寅年に離婚しました。わたしと離婚したあと、彼はツェレンバル マーと再婚して、つい最近、亡くなったそうです。ブフツァガーンの遺産を継ぐのはツァガ ーンバートルです。現在、甘粛省の粛北県に勤めているそうです。とても教養のある人にな ったとか。
――あなたは骨接ぎをするとお聞きしましたが、いつ、誰から習ったのですか?
ええ、骨接ぎと言うか、怪我をした人たちが遠近各地から来るので、さすって拭いて良 くしてあげています。これをどこから習ったとどう言えばいいでしょうか。もっぱら家畜の 骨や関節を見ているうちに、その位置や特徴、つながり方などがわかるようになりました。
大事なのは注意して観察することでしょう。 子ヤギや子ヒツジが足を折る、脱臼した家畜が逆子になる、人の妊娠の不正常、肩こり、手足の骨折、捻挫、脱臼、アキレス腱切断、肉離れなどいろいろな怪我を十指で感じて触っ ていると治す方法がわかってきます。最初のころは、触って異常であることはわかっても、 治す方法はわからずに困っていました。今では、見ればわかるようになりました。十指の力 と感覚がとても大事です。さすったり、引っ張ったり、もむように押したり、ひっぱったり、 軽くはたいたり、軽くたたいたり、あるいはもんだりするなどの手で治療する方法のほかに、 治療の背後にある保養もとにかく大事です。保養が悪いと再発します。
保養には、薬を飲むことと包帯を交換することの二つが相互に関連します。エジネーに は、いろいろな薬用植物があったのですよ。むかしは現在と違って、薬も病院もなく、医者 がいませんでしたからね。わたしたちは自分自身の経験によって、植物の効能を知り、摘み 取り、調合し、薬として利用していました。留意すればいろいろあるものですよ。ゼールゲ ネ(麻黄)、チャツァルガナ(沙棘)、シャル・モドン・ドルス、ソハイなどすべて利用して いました。たとえば、ソハイの葉で皮膚病を治していました。皮膚が痒くなる病気には煮て 飲みます。また汁を塗ります。また、ソハイを用いて、体内に水がたまる、肩が凝る、肩甲 骨に沿って痛くなる、筋肉痛などの際にお灸をします。また、マルガイン・ザラー・ウブス と言う植物がありました。この植物をわたしは自分でたくさん刈って集めていました。洗っ て干して集めます。この草の薬には、止血や傷口の治療を早める効果があります。たとえば、 落馬して怪我をする、犬に咬まれる、転んで怪我をするなど怪我をしたとき、乾燥させたこ の植物を粉末にして傷口にかけ、包んでおくと、止血して皮膚がもとどおりになります。ザ ラー・オロンと言う植物もあります。花が咲いているときに採って干しておきます。転んで 怪我をしたり、骨が折れたりしたのを治します。皮膚と骨に役立つ薬です。
わたしはもともと薬などをあまり使いません。今や、薬用植物がなくなっているので、 もっぱら両手の感覚と力で治していますが、年をとって力も弱くなっていますよ!
ええ、こんなことを話して、あなたたちに役に立つのか立たないのかわかりません。年 寄りの身というのは不用品になっています。けれども、近隣の人たちが骨や関節などがどう したこうしたと、わたしのところに来るので、さすったり、もんだりしてあげると彼らは「治 った」と言って帰って行きます。気持ちの問題なのかもしれませんが、本当に治っているよ うです。モンゴルの諺に「気から来た病は信心で治る」と言いますでしょう。
二○○三年九月二日にダライフブ鎮のドルガルツォーさんのお宅で聞き取りをおこない、翌 日に再度聞き取りした。残念なことに、二○○五年、エジネーを再訪したとき、ドルガルツ ォーさんはすでに亡くなっていた。二○○四年七月十八日永眠。合掌。
『Voice from Mongolia, 2017 vol.38』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「先に着いた人は、後から来る人のために、できることをするのが当然です」
―-モンゴルパートナーシップ研究所理事 小長谷有紀
モンゴル渡航歴20年目のこの夏、初めて、小長谷先生のご案内でモンゴルを旅する機会 を得ました。乳や乳製品の文化を学び、楽しむ人々でつくる「ミルク一万年の会」が先生の 調査に合わせ、モンゴルの乳文化を学ぶツアーを企画。先生と一緒に草原へ行ける。しかも、 行き先はMoPIのスタディーツアー「エコロジースクール」のスタッフとして何度も訪れ たアルハンガイ!先生がどんなふうにモンゴルを解説されるのか、この目で見たい――と即、 参加を申し込んだ。
参加者は22人、乳製品の加工や販売、乳業関係などチーズやミルクが専門の方々が多い。 先生と長年の付き合いであるベテランドライバーらの運転で、トヨタ・ランドクルーザー8 台に分乗して首都を出発。エコロジースクール参加者には懐かしいバギー(バトエルデネ) さんは先導の 1 号車だった。
世界遺産のオルホン川流域では、遊牧国家の遺跡の数々をたどる。「トルコからウイグル、 モンゴル族へと主人公が入れ替わりながら、街や交易、技術、農業など征服された国家の実 践を取り込んで、遊牧文明がレベルアップした」。トゥルクのカガン(王)の功を称える碑文 が残るホショーツァイダム遺跡(8世紀)では「ここは草原の『中原』(物事が起こる中心地)。 ここを制する者がユーラシアを制した」。歴史を知ることで、見える景色は紙の地図とジオラ マくらいの違いがあるのではないか。目の前の現象を見ているつもりで、見逃しているもの の多さを思い知らされた。
足元のマメ科植物から渡り鳥の航路、道中のトイレの評価(ちなみに5つ星は草原トイレ)、 解体される羊の瞳の色の変化に至るまで、その解説はきめ細かく、歯切れよく、無駄がない。 人類学者の眼は、時にズームで、時に俯瞰的に、風景を切り取って見せる。よって、初めて モンゴルに来た人でも、全体像をとらえることが可能となる。
写真は、馬の搾乳を見学した後、ゲルにおじゃましたときの一枚。至近距離からご主人に カメラを向ける参加者が気になり、「写真撮っていいですか?」と声をかけた私。夜、ツーリ ストキャンプのゲルで先生から鋭い指摘。許可を得ているようで、相手に強いている。限ら れた時間で可能な限りの情報を得ようと、矢継ぎ早に質問を繰り出す。それは「記者のコミ ュニケーションスタイル」。先生なら、相手の気持ちを汲みながら「こうしようか?」と提案 する。聞かれたくないであろうことを避けながら、相手が口を開くのを待つ。多くの方のオ ーラルヒストリーを聞き取り、記録されて来た先生のフィールドワークの一端に触れた、ゲ ルの夜だった。
冒頭の言は、旅の空2日目、道なき道をひた走っての鹿石群(紀元前1000年頃?)見 学後、テルヒーンツァガーン湖畔の宿への到着が深夜にずれ込んだ時、先に到着して、くつ ろいでいた旅仲間へのひとこと。4日間の草原行は、運転手さんとの阿吽の呼吸、それ以上 にあふれるサービス精神で、持てる時間をフルに使い、ラクダキャラバン体験までさせても らった。「モンゴル通なんだから」との期待に応えられず、叱られてばかりだったが、「ツア ーをやったらいい」との励ましを、そしてツアー後も、さまざまな学びのヒントをもらって いる。
「変わり続けるモンゴルに伴走して40年」。自然体で、颯爽と、はるか先を歩く先生。見失 わないように、その言葉を聞き漏らすまいと、駆け足で追いかける旅は続く。
(敬称略)
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「今月の気になる記事」 草原の旅で、羊の群れをオートバイで放牧する牧民を見かけました。日々の放牧の「足」 として、燃料を要しても馬より便利、と感じる人が増えているのでしょうか。 かつて、馬で生計を立てる牧民はアドーチンと呼ばれていました。「遊牧民のなかでも、かっこ良くてたくましい人として見られている」(野沢延行著『モンゴルの馬と遊牧民』原書房、 1991 年)。モンゴル国内で飼われている馬は、かつてなく多い約 329 万頭(2015 年末)。馬文 化の行方が気になります。
A.アルタンシャガイ「馬への愛情とと もに育った私。男に生まれた意味がそこ にある」 インタビュアー:Б.アルタンホヤグ
騎馬民族モンゴルの遊牧文化、無形の文 化遺産を守り、広く周知することを目的 とした「タリーン・トゥメン・アドー(草 原の馬まつり)という文化イベントが先 ごろの週末、ヘンティー県バトノロブ郡 で開催された。2013年、2014年 の国家「アドーチン」(馬牧民)選手権 優勝者、上位入賞者である国家栄誉馬牧 民、アムバーダグダン・アルタンシャガ イにインタビューした。
―「草原の馬まつり」には必ず参加していますか?今大会の特徴は何かありましたか? 「もちろんです。開催される度に、必ず参加しています。馬も出しています。モンゴルの人々 が崇拝する美しい馬群の名声を広め、伝統文化や遊牧民の暮らしを外国からの観光客に知っ てもらい、広くPRする目的で開かれるこの行事を発案し、主催するすべての人たちにお礼 を言いたい気持ちです。今大会は、内モンゴルからも参加があり、国境の向こうに参加者の 範囲が広がった。馬牧民の競技会だけでなく、大会3日目には「草原の狩人・タイガの猟犬」 競技もありました。
―定期的に開催されることで、どんな成果が表れていますか? 「若い牧民の技能が向上し、モンゴル国の各地で開催される競技会で、わがバトノロブの若 者たちが優秀な成績を収めている。また、地域そのもののPR、地域ブランドの確立を目指 す取り組みのひとつにもなっていると思います」
―馬を飼う生活の技は、誰から受け継ぎましたか?どうして必ず馬の仕事をしたいと思った のですか。 「父が馬牧民でなかったとしたら、家畜や馬にこれほど深く入れ込む人間にならなかったか も知れない。父はヘンティー県ビンデル郡で知られた調教師であるC.アムバーダグダンで した。4歳から父の後をついて馬のそばを歩き、競馬の騎手もしました。幼い頃に夢中にな ったことは自然と好きになるものです。小さい頃からすぐそこに馬がいたから馬が好きで勇 ましい子どもに育ったのでしょう」
―今は、地方でもテレビやインターネットで情報が入るようになりました。競馬の騎手の子 どものリスクの議論がよく聞かれます。このことについてはどう思っていますか? 「もちろん議論はあっていいと思っています。でもメディアの方々の取り上げ方は極端であるようにも見えます。子ども時代、ずっと騎手をして育ち、競馬という古代からの良き伝統 をいかに失わず伝えるかに取り組んでいます。子どもが個人の意志で、馬から落ちてケガを するなんてあり得ない。子どもが『この馬には乗らない』と言い張った場合、殴っても無理 やり乗せて送り出す、そんな親は少なくなりました。昔は、鞭を使ってもやらせました。人々 は発展について良く話します。もちろんわれわれにも発展は必要です。自分も若い世代であ るし、そのことは否定しません。大事なことは伝統を重んじる、文化を失わずに後世に残すことです」
―騎手をしていた頃、落馬でけがをすることも多かったでしょう。「もう馬に乗りたくない」 とまで思うほどのケガもありましたか? 「もちろん、何度も落ちた。でもその度に、自分が悪いと思った。自分の馬のことも心配だ った。父がどう言うかが恐かった。今は落馬した子どもでなく、調教師のほうが恐れるよう になってしまった」
―オールガ(馬捕り竿)で馬を捕える、人に馴らされていない新馬の扱いには、芸術的な技 を要すると聞きます。そのへんはいかがでしょうか? 「もちろんです。前腕に力をかけて馬を捕え、引っ張って、倒す。速度と視力が求められる。 全速で駆けて4本の脚が空中にあるときに引っ張ると、馬は倒れる。暴れ馬の、その一瞬を つかむのは至難の業。新馬の調教では、馬がどの方向に逃げ、跳ね上がるかの見当を付けて 動くという、繊細な技量が求められます」
―初めて国家レベルの競技会に出場したとき、会場に向かう段階でどの程度自信がありまし たか? 「優勝するなどという自信はなかった。地元のバトノロブ郡の名を挙げられたらいいなあと は思っていた。でも失敗を恐れる気持ちはなく、緊張せず平常心で行かなければと自分に言 い聞かせていた。馬乳酒用に、自分の馬を捕まえ、つなごうとしている人のように落ち着い ていたよ」
―21県を代表する馬牧民たちと競い、勝ったときの気持ちは? 「まずふるさとの名を知らせることができた、と思い、誇らしく思った。生み育ててくれた 両親への感謝の念がわいた。出場するために支援してくれた地元の皆さん、電話して『どう してる?何かできることがあれば言ってくれ』と気にかけてくれた、タイワンジャルガル郡 長にもお礼を言いたかった」
―郡では知られた調教師でもいらっしゃいます。 「そうです。馬を愛する、馬とともにある男は、調教をします。2013年夏に郡から名誉 調教師の称号を頂きました。ナーダムで、大勢の人に囲まれて、鍛えた馬を待つときの心浮 き立つ瞬間はいいものです。馬が来る方角に度々目をやりながらね。こうして馬への愛情を 育んで来た、男に生まれて良かったとつくづく思う」
―オールガを手に、馬上で立ち上がり疾駆する感覚はどのようなものでしょうか?」 「うーん、ちょうど良い言葉を見つけるのが難しいですね」
―自信にあふれ、歌い出したいような感じでしょうか、その時どんなことを考えるか、また どんな気持ちになるのか。読者に教えてくださいませんか」 「人は、好きなことをしているとき、幸せです。私は馬に乗っているとき、本当に気分がい いです。多くの駿馬、ナーダムで乗る見栄えのいい馬たちがいない状態の自分など考えられ ない。朝の冷気のなか、馬で駆けるとき、祖国の広大さを賞賛したくなり、モンゴル人に生 まれたことへの誇らしさでいっぱいになります」
―草原馬まつりの競技会で、優勝は逃しましたが、トップ5に選ばれたそうですね。地元の チャンピオンのあなたをやり込めるほどに、バトノロブ郡の馬牧民の技能は高いのですか? 「優勝、準優勝はうちのバグの若者たちだったので、本当に嬉しかったです。毎年開催され るメリットは多い。なぜなら、モンゴル人は馬を他の何より愛し、文化遺産として誇りを持 つことを子どもたちに教えるようになった。これは馬牧民にとって、やる気につながり、将 来馬群を増やし、国家や地方のコンテストに出場してふるさとの名を響かせたいとの意欲に つながっています」
―今日、大半の若者は遊牧の暮らしを離れ、街で定住しています。このことを憂えています か? 「現代の発展に足並みをそろえ、ついて行かねば、と皆考えている。とはいえ、家畜の恵み は大きいものです。地元の若い人には携帯電話より、馬を大切だと思ってほしい。鞍や馬勒、 馬つなぎに始まる遊牧の暮らしと伝統のすべてが身近なものではなくなっても、忘れ去られ ることのないようにと願います」
モンツァメ通信 2017年11月15日 http://montsame.mn/read/71558
(原文・モンゴル語)
(記事セレクト&日本語訳:小林志歩)
この夏のモンゴルの旅―アルハンガイ県とドルノゴビ県
(瀬戸岡 文子)
―2017年8月14日~23日―
今年は初めてアルハンガイ県とドルノゴビ県に行くことができた。旅の前半(8月14日 ~19日)は“ミルク1万年の会”主催の、小長谷有紀先生が同行・案内してくださる“ア ルハンガイにモンゴルの乳製品を訪ねる旅”だった。
ウランバートルから700km西のテルヒーン・ツァガーン湖までの往復を8台のランクル 車に分乗して走破した。参加者にはチーズ・乳製品関係や食の専門家の方が多かった。小長 谷先生以外は知らない人ばかりの一人参加だったがMoPI通信の翻訳記事でいつもお名前 だけは知っていた帯広在住の小林志歩さんも現地参 加されることがわかってちょっとうれしかった。
往路 は普通の観光では行かない北回りのルートを通って途中のハル・ボヒン遺跡(契丹城址 9 世紀)、小長谷 先生が20年ほど前の調査でご尽力されたビルゲ・ハ ーン遺跡(突厥時代 8 世紀、礎石とレプリカ)とホシ ョー・ツァイダム博物館(トルコの援助で開館、石碑 のほんものがある)をまわりウギー湖泊。そしてエル デネマンダルの鹿石群とヘルクスール遺跡群(ともに 紀元前の古代遺跡)を見ることができた。モンゴル草 原に550基以上あるという鹿石をこれまで写真で は見たことがあったが実物を現地で見たのは初めて だった。角のある鹿が飛翔するようにシンプルに描か れていてとても美しい。まるで現代アートのようだっ た。そんな鹿石が林立するその中にたくさんのヘレク スール(語源はキルギス人のお墓)が無造作にごろご ろと広がっていて実に圧巻、壮大な眺めだった。
美しいマイハン・トルゴイキャンプ場に後ろ髪をひ かれながらの帰途はチョロート峡谷、ツェツェルレグと南をまわってハラホリン泊。はじめてモンゴルを訪れた20年前一度ハラホリンを訪れた ことがあったが、その後日本の援助で2010年にカラコルム博物館が開館し、またオゴデ イハーンの宮殿跡(?)が近年新たに発掘されていた。発掘はさまざまな場所で今もなお現 在進行形なのだった。
また今回の旅では遊牧民のゲルでの乳製品つくりもたくさん見ることができた。モンゴル の乳製品の種類は実に豊富で、30~40種類にもなるという。テルヒーン・ツァガーン湖 周辺は標高も高く、2000メートル以上の高地に生息するヤクやハイナグ(雄ヤクとメス 牛との混血種)が家畜として飼われその搾乳も見ることができた。ヤクの乳は高脂肪で栄養 価が高く貴重とのことだった。ウルム・バターオイル・ハイルマグ・ホサム・タラグ・アイ ラグ・アーロール・ホロート・スーンホロート・エーズギー・ビャスラグ・・・。日本人に はなじみのうすい加工過程をもつ乳製品のかずかずだったが、後日小長谷先生にいただいた 資料・モンゴルの乳加工体系の系列図をみてようやく頭の中が少しだけ整理できたような気 がした。この時立ち寄ったオンドル・オラーンには 18 世紀清朝乾隆帝時代に 300 人が移動し てきた歴史があり、シリンゴル地方の宮廷乳製品のスーン・ホロートが、木型はプラスチッ クに変わったものの250年後の現在までそのままの形で伝承されていたのだった。 『人とミルクの1万年』(平田昌弘・岩波ジュニア新書)によれば農耕不適切地だった西アジ アの乾燥地帯ではB.C7000年ころに乳利用が開始され、主に自然環境に強く影響をう けながらユーラシア大陸で多様に発達。冷涼な地域だったからこそ可能だったモンゴルのウ ルムは世界の乳製品の中でもベストスリーに入るおいしさだと書かれていてなるほどと思っ た。雨の多く降ったこの夏、いたるところにいく筋もできた小川を車でスリル満点に何度も 渡るたび、同乗のKさんと一緒に7号車の老練な運転手ツェベーンさんに「サインジョロー チ!(運転うまいですね!)」と感嘆し、石ころだらけの狭くて真っ暗な山道を深夜遅くまで 運転してくださったサインジョローチたちに感謝しつつ、小長谷先生の解説つきのぜいたく でワクワクするようなアルハンガイへのディープな旅は終わった。
さて“ミルクの会”のツァーの解散後、旅の後半(20日~23日)はアットホームな 旅となった。3年前友人デーギーとチョイルの実家を訪れたのだが、今回は彼女のお姉さん夫婦のお世話 になりドルノゴビ県のサインシャンドを案内していただくことができた。以前テレビ番組で サインシャンドのシャンバリンオロンというエネルギースポットが紹介されたのを見て、で きたら訪れてみたいと思っていた。ドルノゴビ県に行くのは初めてで県都のサインシャンド はウランバートルから約500km。夏の暑い時期の長距離移動はちょっとたいへんかと思っ たが、お姉さんの話では道路もよいし車を夫婦交代で運転するので大丈夫とのことだった。 デーギーの11歳の娘ニンジェも同行してくれた。朝ウランバートルをゆっくり出発してお 昼にはチョイルの彼らの実家に立ち寄り、お父さんがその朝準備しておいてくれた羊肉のホ ルホグ料理をご馳走になり、さらに南に向かった。ドルノゴビ県に入りアイラグという町を 通った。この町の学校には 2005年にMoPIの私の黒板が 1 枚届けられていたのだが夏休み なので今回は残念ながらパス。景色はだんだんと平たんなゴビになり美しく輝く夕陽が地平 線のかなたに沈むのを見とどけてしばらくして夕やみのサインシャンドの町に無事に到着で きた。
翌朝高台にあるホテルからは人口2000人のサインシャンドの町がすべて見渡せた。朝 日に向かって手をあわせる村人を見かけた。はじめにお姉さんが以前勤めていた県庁に行っ て後任の若い行政部長の方とお会いした。ドルノゴビ県は人口約5万人。日本の静岡県とさ まざまな交流があるそうだ。輝く太陽と恐竜のドルノゴビ県のロゴマークの入ったすてきな 写真集をいただいた。 そして今もモンゴルの人々から“ラブジャー”と敬愛されている200年ほど前のゴビの活 仏、ダンザンラブジャーの博物館を見学した。ラブジャーはハマリーンヒード寺院を建て従 来なかった女性の教育を始めたり、演劇による布教を進めるなど多彩だったが、詩人として も有名で彼の作詞した“ウレムジーン・チャナル”という女性を讃える歌は今でもお祝いの席などでよく歌われているそうだ。 ラブジャーの遺品を代々守り、社会主義時代の弾圧の嵐の去った民主化後 1991 年にこの博物 館を建てたという第7代タヒルチのアルタンゲレルさんに、お会いすることができたのは幸 運だった。
ダンザンラブジャーについては『モンゴルを知るための 65 章』(金岡秀郎、明石書店)に遺 品は大半焼失したことが書かれているが、それでも充実した展示はすばらしかった。歴史の 先生だったという学芸員の年配女性の流れるような説明があまり聞きとれずに残念。お姉さ んがラブジャーの詩の一節を教えてくれた。“ウールン ボーガード ボロー オロヒン ツァグト ウウデン ホイモリン ヤルガー ヨオン・・・” ―雲がたれこめ雨が降るとき、 ドアの近くの下座と奥にある上座のちがいはなにもない。死ぬとき、富んだ人と貧しい人の ちがいはなにもないー人間の平等を教えたものだ。 それから車で2006年に再建されたハマリーンヒード(寺院)にむかいお参りした。周辺 のゆかりの場所もあわせて同年、世界遺産として認定されたとのことだった。まわりは一面 赤い大地が印象的でいかにもエネルギーがありそうだった。その日は平日で参拝者も多くは なかったが、地面に横たわってエネルギーを全身に浴びている人々の姿があり、私もそこに 坐ってみた。晴れ渡ったゴビの真っ青な空の下、僧が108日間修業をしたというたくさん の瞑想の洞窟はひっそりと静かだった。それから近くの小高い丘に続く階段を登り 3 つの願 いごとを書いた紙を燃やして祈願。 さらに階段を中腹まで登ってゴビの大地を見渡すあずまやまで行き休憩した。広大でなにもない
“イフ(大きな・偉大な)ゴビ”の風景を遠くまでよく見わたすことができた。 今回の旅ではアルハンガイとドルノゴビの両方の違いを肌で感じることができてよかったと 思う。 歴史的にも多くの遊牧民族の興亡の舞台になったアルハンガイは、やはりとても豊かな大地。 草たけも高く水も森も豊かだった。そしてゲル(人)も家畜も多かった。一方、ゴビはきび しく乾燥した過酷な大地でゲル(人)も少なく、家畜もラクダ以外は少なかった。が、ゴビ もまたモンゴル人の大好きなふるさとに違いなく、今回とくにこの地を文化的に高めたダン ザンラブジャーのゆかりの地を訪ねることができてよかった。ハマリーンヒードは前世でラ ブジャーの弟子だった人だけが訪れることができると聞いた時は、なんだかちょっと不思議 な気持ちになった。
旅の最後、ウランバートルへもどる 道で、昨年友人とお世話になったバヤ ンソムのガンボルドさんのゲルに立 ち寄った。ここでも馬乳酒などありっ たけの乳製品のご馳走の歓待をうけ た。やっぱりウルムとハイルマグはお いしかった。今年はお客用のきれいな ゲルが建てられ、ソーラー発電の冷凍 庫まであった。ガンボルドさんは別れ 際に来年はぜひ 1 週間泊まりに来る ようにと強く私をハグした。モンゴル の人たちのこのまっすぐな人なつこ さとあたたかさをまたなつかしく感 じたこの夏だった。
ノロヴバンザトの思い出 その81
(梶浦 靖子)
音楽のサポーターを目指すこと
ここまでを読んで、モンゴル音楽に興味を持ち、自分でも楽器か歌を習ってみたいと思っ ても、人前で演奏するのが良くないように言われるのでは意味がない、近づかないでおこう か、などと思ってしまう向きもあるかもしれない。
もちろん、当の伝統社会に外国人を演者として受け入れる意向がないのに、その伝統音楽 の歌い手や演奏家を目指したり名乗ったりするのはナンセンスなことだが、たんにファンや 愛好家としてその音楽に関わって行くなら、見聞を広めるという意味でも良いの裾野を広げ るという意味でその音楽の発展にもつながり、とても良いことだと思う。楽器や歌の演奏活 動も程度問題であり、行なう人間の意識次第の面もある。
異文化の音楽とより良い形で関わるやり方として考えられるのは、いきなりその音楽の歌 手や演奏家を名乗るのではなく、その音楽のサポーターを目指すことだ。たとえば、みずか らをその音楽の愛好家、支援者であると表明し、その音楽の宣伝活動をするのである。
今はインターネットでブログを公開したり、SNSを利用する環境も整っている。それら を使って、まずは自分の演奏活動についてではなく、音楽そのものについて情報発信するべ きだろう。人々に伝えるべきことはいくらでもある。楽器や音楽ジャンルの解説、音楽家た ちのプロフィールやキャリアの紹介、楽曲の解説や聴いた感想、コンサートのレポートや感 想などだ。
曲の紹介も、みずから楽器や歌を練習した経験を活かして、この曲のこのフレーズはこう いう風に難しい、といったエピソードを加えればより興味を引くかもしれない。
また、モンゴルで自主制作されたCDは、ライナーノーツには曲名など最小限の情報しか ない場合が多い。ブログ等でCDの紹介をするついでに、演奏者のプロフィールや曲目解説 をより詳しくブログに載せることも考えられる。もしモンゴル側からその文章を CD につけた い等の要望があれば、できるだけ融通を利かせる、等である。
書いた内容が正しいかどうか、また発表しても良いかを確認できるよう、現地の音楽家ら と密に連絡を取り合っているのが理想的だ。
また、テレビ等でモンゴル音楽が使われていたなら指摘し、その感想を交えつつ曲目や演 奏者について解説する、という方法もある。ちなみに、モンゴル民謡をサンプリングしたエ ニグマの曲はしばしばBGMとして使われている。
そうした解説等の文章は、当のモンゴル人よりも、知識ゼロの状態から学んでいった外国 人のほうが、世界の人々にわかりやすいものが書けるかもしれない。そのように情報を発信 することは、その音楽を宣伝し理解を深める上で役に立つ。モンゴル音楽と現地の音楽家に 利益を還元することになるだろう。
そうしたサポーター的活動のかたわら、年に数回ほどみずから人前で歌い演奏し、それを ブログで報告するといった具合にすれば、さほど不当なことにはならないと思うのだ。
ハリスンとシャンカル
G.ハリスンとR.シャンカルには、伝統音楽の担い手と外部の愛好家の関係としてのつ の理想型が見出せる。
言わずと知れたビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスン George Harrison (1943~ 2001)は、ビートルズとして活動していた時期にインドの伝統楽器シタールを知り、1965 年 に発表されたビートルズのアルバム「ラバーソウル」収録の曲「ノルウェイの森」にシター ルの調べを取り入れた。これはロックにシタールが導入された最初の例とされる。そして’ 66 年にはインドの音楽家でシタールの名手、ラヴィ・シャンカル Ravi Shanar(1920~2012) と出会い、彼に師事して本格的にシタールの演奏を学び始めた。
’71 年にはシャンカルの要請を受け、バングラデシュ飢饉救済のためのチャリティーコンサートを開き(於マジソン・スクエア・ガーデン、NY)、’73 年にはシャンカルとコラボレ ーションしたアルバムを発表するなどした。
ハリスンは音楽的な新しい体験とアイディアをシャンカルから受取った。シャンカルは ハリスンの師(インド風に言えば「グル」)として、世界のビートルズファンから知られ 尊敬を集めるようになり、その活動範囲と音楽的成功はインドを超え世界的なものとなった。 両者は互いを尊敬し、友情と協力関係は生涯に渡った。どちらか一方ではなく、相互に多大 な利益をもたらし合った。
両者の活動によりインドのシタールという楽器も広く世界に知られるようになった。シタ ールという楽器の名前や形状、その音色や演奏する図のイメージなどは多くの人が認知する ところとなった。ハリスンは異文化音楽のサポーターとして良きお手本であると言えるだろ う。
ハリスンが自身をイギリス人初、もしくは唯一のシタール演奏家などと宣伝した様子はな い。そのような必要がないほどの地位と名声をすでに手にしていたとも言えるが。そしてシ タール奏者として自分一人を押し出すようなレコードではなく、シャンカルという演奏家を 世界に知らしめるようなコラボ・アルバムを制作、発表したことは注目すべきだ。 誰もがハリスンのような立場で活動するわけにはいかない。しかし「本家」を尊重し利益を 還元しようとするその姿勢は、異文化音楽を愛好する者すべてが記憶に留めておくべきだと 思う。
(つづく)
モンゴル学習支援事業&奈良学園小学校 その2
~子どもたちからお手紙が届きました~
事務局からお知らせ
1)2018年度モピ新年会の予定
1月28日(日) 肥後橋中華料理”徐園” 沢山の方々のご参加をお待ちしています。
2)2018年6月 モンゴルの旅を計画中
詳細のご案内は、次号にてお伝えいたします。楽しみに!
2017年度最後のモピ通信をお届けいたします。2001年6月特定非営利活動法人の 認可を得て活動しているモピ、設立当時約500名だった会員は現在3分の1になりました。 所帯は小さくなっていますが、しっかりと動いています。モピ通信が毎月発行できる原稿もきちっと届きますし、モンゴル学習支援事業の要請もあり沢山の方々の協力も得ることが出 来ています。お蔭さまで2017年無事に終わりることが出来そうです。
ありがとうござい ました。
来年度も変わりませず、モピ活動にご協力くださいますようお願い申し上げます。
(事務局 斉藤生々)
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