■NO 196号 2018年9月1日
編集・発行 : 特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所
小長谷有紀 エッセイ
ノロヴバンザトの思い出 その88
モンゴル草原の旅 報告
事務局からお知らせとお願い
小長谷有紀 エッセイつづき
(小長谷 有紀)
(国立民族学博物館・超域フィールド科学研究部教授)
外国力士に「ありがとう」と言えない日本社会
けだし、兆候は以前からあった。めったに相撲を見ない私だが、 偶然、2017年春場所の千秋楽をテレビで見て、かなり不気味な印象 を受けた。横綱・稀勢の里が、けがを押して出場し、モンゴル人・照ノ 富士を相手に連戦して優勝したときのことである。力ではなく精神を讃 える、観衆の異常なまでの熱狂ぶりに、全体主義と同じ危うさを感じた のだった。
問題はもっと深刻だったことを、私は星野智ユキ著『のこった もう、 相撲ファンを引退しない』(こころから)で知った。普通なら読まなかっ たにちがいないのに相撲関係の同書を読んだのは、毎日新聞(2017年 12月3日付)の中島岳志氏の書評のおかげである。中島氏によれば、声 援の多寡は日本人力士かどうかできまるという。同書は、外国人力士をあたかも敵のように みなす応援や差別的な声がずっと続いてことについて、時系列を追って整理し、そうした現 象を「日本人ファースト」と分かりやすく命名して、「スポーツの場で起こることは、やがて この社会を覆っていくのです」と憂いている。一連の騒動に先んじて書かれていいたものだ。 同書を読んで私が最も強い印象をうけたのは、誰にでも何らかの差別的感情は生まれるもの で、それを全否定することなく、集団的熱狂にこそ警鐘を鳴らしている点である。たしかに、 差別的感情そのものを根絶やしにすることは難しいにちがいない。しかし集団的熱狂を制御 するためには、やはり一人一人が自分の心のなかに生まれる差別的感情を察知する力が必要 であろう。
一連の騒動中、私が受けたメールのなかには、「今回は書かないのですか? ぜひ書いてく ださい!」という励ましもあった。今回は、というからには前回があったことを意味する。前 回とは、朝青龍の引退時を指している。朝青龍は、場所中に泥酔して一般人に暴行をふるっ たかどで、横綱審議委員会から引退勧告を受け、速やかに引退した。このとき、私は毎日新 聞(2010年2月6日付)に寄稿した。そのキャチコピーには「ありがとうと言えない日本 ―ホスト社会の未熟さ示すー」とある。今読み返してみて、そのままここに再掲しても差し 支えがないほど、何も変わっていないことに愕然とする。否むしろ、オリンピックを再来年 に控えた今こそ、より一層、こんなことでホストがつとまるのか、とも言える。とはいえ、再掲するのはいかにも芸があるまい。そこで、8年前の拙稿の枠組みを本歌取りよろしく参 照しながら、2018年版に更新して責をふさごう。
日本国法務省入国管理局のホームページに掲載されている統計によれば、2016年末現 在、約2百38万人が外国籍をもって日本に住んでいる。総人口1億2千750万人(201 5年)のわずか1.87パーセントにすぎないが、ほぼ新潟県の人口に匹敵するから、決して 少なくはない。前回の拙稿では2008年末現在で222万人であったことに比べると、こ の8年間に7パーセント増加している。前年末と比べても15万人増加し、過去最高を記録 したという。
出身国別に見ると、中国および韓国からだけで100万人を超える。さらに、フィリピン、 ベトナム、ブラジル、ネパールと続く。近年では、とくにベトナムやネパール人の増加が著 しい。日本は2007年に、65歳以上と定義される高齢者が総人口の21パーセントを超 え、すでに「超高齢社会」へと突入したのだから、外国から来た人びとは働き手として重要 な日本社会の構成メンバーとなっている。いわゆる農村の花嫁や大きな下請け工場での労働 者ばかりでなく、例えば、大学が生き残るためにも留学生たちがアルバイトすることで巷の 食堂は成り立っている。スーパーマーケットも、コンビニエンスストアも、宅配便も、彼ら なしでは成り立たない。2008年以降は、経済連携協定に基づいて、インドネシアやフィ リピンさらにベトナムから看護師や介護福祉士の候補者を受け入れることができるようにな った。今後ますます、あらゆる側面で、さまざまな名目の下、外国からくる人びとによって 私たちの社会は支えられていくだろう。言い換えれば、彼らを他者として排斥すると自分た ちのシステムそのものが成り立たなくなるだろう。 角界にいるモンゴル人力士はどう違うのだろうか。 「日本人横綱を」と連呼したくなるのも無理がないほど、角界を背負って来たのはモンゴル 出身の力士たちだった。久しく横綱がモンゴル人だけだったのは、何も日本人力士が不甲斐 ないからだとは、私は思わない。力士になりたい日本人が少ないからだろう。格闘技の才能 があったとしても、自分の子どもを力士にしたいと思う親は少ないからだろうし、親の反対 を押し切ってまで力士になりたいという子も少ないだろう。
こんなことを思うのも実は、かつて PTA 活動の一環として、ある親方をお招きして子育て について講演していただいくという企画があり、観衆を集めるのに苦労したことがあるから だ。なぜ親方を招くことになったのか、その経緯はわからないが、私たち PTA の委員は、各 家庭に電話をかけ、強制的な動員をかけなければならなかった。角界の子育ては普通の人び とにとって決して理想ではないし、子弟を角界に送りたいし思う親も稀有な存在だから、結 局、人は集まらなかった。
メタボ症候群に臆することなく精進し、自らの肉体を異形にしてまで改変しなければなら ない世界に飛び込んでみたい若者は少ないだろう。さらに私たちなら知ってしまっている。 強くなるまでには可愛がりとかって称せられていたような、理不尽な殴打があるかも知れな い。そんな「伝統」があるとはつゆ知らず、純粋に格闘技だと誤解して学びに来る人びとが いなければ、次世代再生産はこれまで十分に果たせなかったのである。 もっとも誤解はすぐに解消された。日本で稽古をつめば、すぐに日本の相撲が決してスポー ツではなく「伝統」であることは否応なしに理解できる。だから、かの朝青龍も、断髪後の 記者会見で「こんど生まれ変わるなら大和魂をもった日本人として横綱になりたい」と言っ てみせた。言い換えれば、技と力で負けることはなかった。ということであると私は思う。 力士のみならず、一般のモンゴル人たちも、大相撲の巡業がモンゴルに来て実物を目の当た りして以降、相撲が純粋なスポーツではなく、日本の「伝統」であることを理解している。 そして、この「伝統」なるものが曲者だ。
角界にいる外国人を排斥すれば、とりわけ強いモンゴル人たちを排斥すれば、明らかに質 は下がり、つまらなくなるだろう。さすれば、経済的効果も下がるだろう。そればかりでは なく、大事な「伝統」が継承されなくなるにちがいない。ところが「伝統」ゆえに、外国人 には強く同化を迫る。しかも、この「伝統」は勝負事であり、さらに付言すれば個人競技で あるから、大リーガーでチームの一員として受け入れられる勝負の世界とは異なり、強くなれば排斥される。これでは、外国人力士はたまったものでない。 「伝統」がもたらすそんな有形無形の圧力を念頭において考えてみると、朝青龍が決してヒ ーローでなく、常にヒール(悪役)であったことは、いかにももっともなことである。彼の生 来の性格に合っていたのか、自らあえてそう演じたのか、あるいはそう仕立てられたのかは ともかく、合理的な選択ではあつたろう。嫌われ役として愛される道があったのだった。け れども、朝青龍につづいて横綱になった白鵬や日馬富士たちはちがう。彼らはむしろ同化の 道を選んだ。
白鵬は2007年に日本人と結婚し、同年、綱取りに成功した。このとき、多くモンゴル 人たちが、横綱になってから日本人と結婚してほし欲しかったと思ったのは、嫁取りと綱取 りの順番によって、なんとなく背後に権謀術策を感じるためだと思われる。実際には、純粋 な実力による綱取りであり、純粋な恋愛による嫁取りであつたとしても、この時点で、モン ゴルから見れば白鵬は日本人になってしまった。彼ほど頻繁に「伝統」という言葉を使う力 士はほかにいないではないか。
相撲は天下泰平の象徴的行事となり、いわば平和構築を可視化する手段となったのだった。 戦争の代替からこうして生まれ変わった「伝統」をこそ愛するべきではないだろうか。グローバル時代の二十一世紀なのだから、世界中からの出身者が丸腰で闘う姿を、みんなで楽し めばよいではないか。同化をせまるのではなく、外国人のままでいてもらおう。その方が変 えるべき「伝統」の課題が浮かび上がっていいのではないか。風はいつも、外からしか吹か ない。
朝青龍の場合は、入幕当初からさまざまな言動が取り沙汰された。そしてそのたびに私た ちは何がいけないとされているのか、という内なるコード、隠された掟を知った。細部の見 える拡大鏡付きの手鏡のように、物議をかもす朝青龍によって、私たちは自画像を見すえる ことができたのだった。出身地を問わず、全力士にとって、反面教師であり、また、防波堤 でもあったろう。そんな彼が去って彼自身の問題は解消した。しかし、私たちの問題はちっ とも解決されていなかった。だから、今回の一連の騒動で、再び、強いモンゴル人力士に対 する偏見を目の当たりにしなければならなかったのだ。
徒党を組んでいるとして、「モンゴル人互助会」がやり玉にあげられもした。一般的に、移 民コミュニティが連帯するのは当然であるのに批判されているのは、どうやら星取りの調整 などをしているからであるらしい。金銭の受け渡しがなければ八百長ではないと彼らをかば うつもりはない。まさに日本の伝統を習得した結果だと彼らをほめたたえるわけにもいくま い。ただ、熱狂的な罵言雑言を浴びせながら勝負しなければならない彼らなら、あえて日本 人力士を優勝させるために星取り調整をする知恵もあることを指摘しておきたい。
私たちは、古代には優れた技術や技能をもった渡来人を受け入れてきたという。ホスト社 会としての歴史を有する。また、近代には日本人自身が移民として新天地を開いてホスト社 会に受け入れられたという経験ももつ。にもかかわらず、現在におけるホスト社会はどうあ るべきか、私たち一人一人はどうふるまえばよいか、まだまだ検討中であり、模索中である。 さあ、東京オリンピックまでに、間に合うだろうか。(終わり)
(MYB 新装第5号「平成」は穏やかな時代だったか 小長谷有紀エッセイから)
モピ事務局に届いた一文です。
通信をありがとうございました。内容が充実していますね。一気に読みました。 小長谷先生のモンゴル力士へのヘイト現象については、興味深く読ませて頂きました。マス コミを信じてはいけない。正しい情報源を自分で 鵜呑み判断しないといけないと思いました。
(吉崎彰一)
ノロヴバンザトの思い出 その88
(梶浦 靖子)
最後の対面
修士課程に入学して間もなく、体の変調に気がついた。いくら眠っても疲れが取れないる 何日過ぎても疲れたままで、しかも原因不明の体の痛みが続いた。肩こりというレベルでは なく、太めのキリで刺されるような痛みが、ズキンズキンと一日中続く。痛みのため頭の中 も目の前も真っ白になってしまうことも度々だった。しかし食事中と入浴中、そして夜眠る 時は痛まないのが不思議だった。履修する授業の数を最小限に抑え、何とか前期の授業をや り過ごした。
6月末になると早くも、長い夏休みに入る。そのあいだ休み続ければ回復できるかなと思っ たが、だめだった。本を読むことも何もほとんど出来ないまま夏は過ぎ、新学期が来てしま った。どうしようもなく、入学の保健センターで相談し投薬治療を始めた。効果があったの か、どうにか状態が落ち着いてゆき、西暦2001年、新世紀を迎えた。
修士2年になった頃から修士論文の枠組みを考え始め、文章もいくらか書き始めたるそう したなかで、ノロヴバンザト本人に聞いて確かめたいことがあれこれ出てきたので、彼女に 手紙を書いた。具体的な質問をいくつか書き、また来日したら会って話して欲しい旨を書き 送った。先にも書いたように4、ノロヴバンザトは年に一度は来日公演していたが、その頃に は、私がその公演に関わることも、彼女らに面会することも難しくなっていたので、期待と
諦め半々で頼んでみた。 するとその年の夏の終わり頃であったか、来日したノロヴバンザトから連絡が入り、滞在 先のホテルで会えることになった。久しぶりに直接話をしたところ、私が大学院に進んで勉 強に励み、モンゴル音楽の研究と記述を進めていると見なしてくれており、頑張っているよ うですね、と喜んでくれていた。とてもうれしいことだった。
オルティン・ドーに関していくつか質問をし、それに答えてあれこれ話してくれた中で、 特に印象的だったのは、彼女が歌ったオルティン・ドー曲「穏やかな世界の太陽」の音源の、 1860年代半ばの古いものと、比較的新しい70年代後半のものについて尋ねた時のこと だった。二つの音楽は同じ曲を同じ歌い手ノロヴバンザトが歌ったものでありながら、フレ ーズの切れ目や細やかな節回しが違っており、歌唱時間も新しい録音のほうが三十秒近くも 長くなっている。この違いはどのように考えるべきか、歌い手本人の見解を確かめたかった のだ。彼女の返答は次のようなものだった。 「若い頃よりも年を重ねた頃のほうが歌唱の技術も向上していて、息もながくなった。」 「若い頃はまだ芸術的な思索が深まっておらず、歌い方の工夫もすくなかった。」 「音楽でも美術でも、あるいは産業でも、つねにより良いものを作り出そうとするものでし ょう。より良くなるのは、それ以前とは変化するということ。技術が向上すれば、生み出さ れる結果が異なってくるのは当然のことです。」 考えてみれば至極当然の道理である。しかし実際このように簡素に言葉で言い表すのはなか なか難しいのではないか。芸術や表現というものの一面を鋭く突いた言葉のように思えて、 とても心に残っている。生きてノロヴバンザトと対面できたのはこの時が最後となった。
「モンゴル草原の旅」報告
(モピスタッフ 村上 雅彦)
出発2日前6月18日早朝、大阪吹田、高槻を震源とする震度6.0弱の地震あるも、6月 20日夜、日本からの7名はウランバートル国際空港に到着。現地スタッフ3名の出迎えを 受け直ちにウランバートル市内のズチ・ホテルに向かう。我われ7名の内訳は、モピ会員2 名、非会員4名、それにモピスタッフの村上である。年齢は60~70歳代で、いずれも時 間が自由にとれる世代である。非会員4名は、村上の企画紹介がきっかけで集まった京都府 立洛北高等学校の卒業生。同窓会行事を通じて卒業後に知り合った最大年齢差は15年以上 あるメンバー。
今回の旅行はモピが初めて主催企画したものであり、村上と現地のムーギー・美代子さん の入念な準備のもとに、飛行機チケット手配から宿泊予約までモピで行った。現地での移動 は美代子さんのご主人とその PTA 友達のオチさんが所有・運転する2台の四駆車によること ができた。その結果、一般のツアーとは違った、メンバー各自の要望に沿って、状況変化に 応じた行程をとることができた。大きな家族旅行といった雰囲気であった。
行程は、初日にウランバートルに泊まり、つづいて近郊の草原の観光キャンプに3泊、そ の後ウランバートルに戻り2泊。すなわち現地で5泊、機内で1泊という内容であった。
モンゴル国立公園での野生馬(タヒ)、鹿、マーモット、鷹の巣、さらに乗馬、草花のスケ ッチ、ラマ教寺院跡、民俗芸能鑑賞等、メンバーそれぞれの思いが叶えられた旅であったと 思う。
ちょうど8年前に私が訪問したウランバートルに比べ道路舗装が進んでいるが、交通渋滞 はあまり改善されていないように感じた。新空港への高速道路建設で砂埃がひどくあるも、 モンゴルの新しい息吹を、首都ウランバートルを通じて感じ取るという旅であった。今回の 旅には、モピとしての使命というものは特に設定されていなかったが、現地スタッフの献身 的なご協力と熱心な会話を通じて、メンバーの一人ひとりのモンゴルについての知見をさら に深め、またモンゴル初訪問のメンバーにとってはモンゴルをより身近なものに感じていた だく機会になったと確信する。
来年も同様のツアーを計画しています。 関西以外の方々も全国主要空港から仁川 経由での参加が容易です。是非ご検討下さ い。最小参加者4名としますので早めに仮 の御予約でもお知らせ下さい。なお、今回 の旅のすべての写真・スケッチは村上がデ ータとして保管しています。
最後に、無事に実りの多い旅を終えるこ とができたことを現地の御三方とメンバ ーの皆さまに感謝申し上げます。
(後記)
キャンプ最後の夕べにメンバーと現地スタッフの全員で「しれとこ(知床)旅情」をモン ゴル語で合唱した。岡村さんが学生時代に試みた訳をムーギーさんとオチさんがネイティ ブ・チェックしながら、皆で何度も口ずさんだ。二人によれば、モンゴルの人にも親しみや すいメロディとのこと。帰国後さらに練られた訳語が送られてきたので添付する。読者諸氏 におかれても折をみて楽しんでいただきたい。
事務局からお知らせとお願い
2018年9月8日 11時 ~ モピ事務所にて臨時総会を開催いたします。 委任状を提出していただいたみなさま、ありがとうございました。まだの方
9 月7日までに事務局に届きますようにお願い申し上げます。
(事務局 斉藤生々)
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特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI
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MoPI通信編集責任者 斉藤 生々
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