■NO 216号 モピ通信

 人類学者は草原に育つ

『Voice from Mongolia, 2020 vol.65』

 学習支援事業子どもたちの手紙

 事務局からお知らせ 

小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ (臨川書店フィールドワーク選書)9

変貌するモンゴルとともに

小長谷 有紀著

風景の断片

こんな風にダイジェストで留学生時代のことをつづってみると、 畢意、事件ばかりにスポットを当ててしまいがちだ。 毎日、事件がおきていたわけではないことはもちろんご理解いた だけるだろう。常日頃はむしろコツコツと勉強していた、という ことにしておこう。

いまから30年以上も前のウランバートルの町は落ち着いてい て、自動車もあまり走っていなかった。バスのほかは、ソ連製の 黒い公用車チャィカがときおり走っているばかりである。夜にな るとたいてい酔っぱらいがふらふらしていた。

夏の始まりに雨がふる。一滴二滴と数を数えられるように雨が 降り始める。すると、学生たちは一斉に寮から飛び出して、ワッ ーと騒いで、待ちわびた雨を浴びて祝したものだった。

たまにホテルのレストランに出かけてもメニューに揚げられて いる食事はたいていなかった。一方、食堂にいくと、地方からやってきたお年寄りたちが、 スープ入っているコショウをペッペと吐き出していた。香辛料文化がまだまだ受け入れられ ていなかったのである。私が大好きだったのは、モンゴル語でアールツと呼ばれる。ヨーグ ルトを暖めたようなスープである。いまではもう都会ではほとんど見当たらない。

食料事情はあまりよくなかったが、パンは豊富にあった。そのおかげでずいぶんと太った。 野菜といえば、ジャガイモ、タマネギ、マンジンと呼ばれるカブ、ニンジンくらいなもの。 しかもニンジンは指ほどに細かった。街の通りで、中国人が売っていた。肉を入手するのは むつかしいが、学生たちが帰郷した際にヒツジの肢体を背負って戻ってくると、おすそわけ をしてもらった。11月ともなれば、日中の最高気温が零下以下になるので、冷蔵庫のなか で暮らしているようなものであり、血で汚れるなどということはなく、そのままかついで運 んで来る人もいた。

ウランバートルで一番食材豊富な店は、外国人の技術者用の商店である。私たち留学生は 技術者でもないが、そこに並んで貴重な食材を入手した。魚はときおり売りに出るが、誰も 買わない。魚を買うのは日本人留学生のほかにはベトナム人留学生(当時はいわゆる北ベトナ ム、ベトナム民主共和国)くらいのものだった。また、瓶詰めの商品だからといって油断はできない。一つ一つに入っている量が違う。一見して違う。これが工業製品かと思うほどに。 だから、「それください」と特定の個体を指差して希望を述べるべきだった。それが賢い消費 者への道だ。

住宅事情はというと、学生寮にはバスタブがなく、シャワーのみだが、使用途中でしばし ば水になるので、往生した。暖かい湯につかりたい!という願望を達すべく、私たち女子留学 生二人は、日本大使館に文化アタッシュとして勤務する小池孝行さんの自宅に定期的におし かけた。私たちは自分宛の郵便物を大使館で受け取ることになっていたため、しばしば大使 館にも訪れた。スパイの能力などありません。と主張しようにも、ちょくちょく大使館に出 入りしている以上、モンゴル側から見れば、それだけで怪しく見えたにちがいない。ならば、 館員私宅を訪問してさらに疑いが強まったとしても、かまうものか、それよりもバスタブ! がライフラインだった。当時お世話になった小池さんは2013年2月からキルギス共和国 で大使を務めておられる。学生寮には、私たち留学生のほかにモンゴル人学生たちもたくさ んいた。彼らが夏休みに帰郷すると、南京虫(トコシラミ)が上の階へと上昇を開始し、猛攻 撃を受けた。帰郷できない留学生に集中するのである。まいった。夜中に明かりをつけて、 じっくりと昆虫観察にはげんだ。

新しいものをみると、何でも匂いをかぐ友人がいた。モンゴル語で真実はウネンといい、 匂いはウルネという。さらに価値をウネという。これらの単語はとても発音が似ていて、そ れはそのまま意味の近さを示していると思われる。匂いで価値や真実をみきわめるものだと いう五感でつちかわれた哲学がいかにも実存しているように感じられた。現在でも、遠来の 客など、挨拶に相手の匂いをかぐという習慣はまだ残っている。しかし、どんなものでも匂 いをかいで品定めする行為は今ではもう見かけることがない。

そう言えば、こんなことがあった。日本語を学んでいるモンゴル人の書いたひらがなを見 てみると「あ」でもなく「お」でもないような字だったので、違うよと指摘すると、その人 は「かまいません、これは私の(お)ですから」という。えええ?そういうものなのか!速記の 要領なんだなあ。人に見せるわけでないなら、自分さえわかればいい。漢字学習に相当な時 間をかけている日本の教育システムからは発想しえない考え方だった。まねるのはサルのす ることです、と別のモンゴル人も言う。「まなぶ」が「まねる」に限りなく近い私たちの教育 観や学習観とは根本的に違うような気がした。

産んでいけ

こうした断片的なささやかな風景のひとつひとつに、意味が宿って いると思う。とっておきの断片を最後に紹介しておこう。このエピソ ードについてもすでに書いたことがある。「子どもができると困るか ら」と断ったら、「産んでいけ」と言われたことだ。

モンゴル人の人たちは顔かたちという点で日本人ととてもよく似て いる。だから、留学当時は親戚や知人のそっくりさんを見つけては楽 しんでいた。しかし、それは顔が似ているというだけであって、性格 まで似ているわけではない。むしろ、かなり違っていると思われた。

好きでもない人に言い寄られたのなら、きっぱり断ればよい。しか し、いろいろなことを教えてくれる兄貴のような存在であれば、むげ に断りたくない。だからといって、特段、行為に及ぶ気はない。そん な場合には、どのように断ればよいだろうか。とりあえず、私は「子 どもができると困るから」と日本人ふうに腕曲的に断ってみた。する と、言われたことばが「産んでいけ」である。何も断ることはないだ ろう、そうなったらそうなったで、産めばよいだけではないか、というのである。

ここで、少々、社会背景を説明しておかねば誤解を招くだろう。当 時、国立大学の女子学生たち、とりわけ地方出身の女子大生の多くが、 すでに母親になっており、子どもはいなかの実家にあずけて進学していた。 だから、まず子どもを産み、子を親にあずけ、都会に出て勉強するというのは、彼らにとっ てごくごく自然なことであった。また、結婚してから出産という順番は必ずしも多数派とは 言えず、出産してだいぶ年月がたってからようやく結婚式を挙げるという順番もしばしばあ ることだった。人口の少ない社会にとって、子どもは単に個人のものではなく、社会的な財 産であることを反映していたのかもしれない。1979年当時、総人口は150万人ほどで あり、首都ウランバートルの人口は40万人にも満たなかった。二つの大国にはさまれなが ら、圧倒的に人口の少ない国であった。

それにしても、「産んでいけ」の一言は、私にとってもよい教訓となった。日本人ふうに腕 曲的に言っても通じやしない。顔がそっくりだからといって、似ていても非なる人びとなの だ。その魅力がようやく分かり始めたころ、私は留学を切り上げたのだった。

(第一章終わり)

『Voice from Mongolia, 2020 vol.65』

(会員 小林志歩=フリーランスライター)

「自分は日本だし、弟は韓国で出稼ぎ。モンゴルの政治がまともだったら、今頃もっと豊か になって、自分たちがこうして外国で働くことなんてなく、家族と生活していられたはずだ」

―技能実習生(33)

どうしても欲しいものがあり、買うのを手伝って欲しいと技能実習生に頼まれた。本体価 格10万円を超えるハイスペックのスマートフォンである。最近同じ会社が発売した、手頃 な新製品の倍以上の高値だが、どうしてもその機種がいいのだという。家電店で問い合わせ たら、在庫があったので喜んだのも束の間、購入手続きの段になって携帯電話会社による分 割払いの審査が通らなかった。安定した収入があるのに、外国人だからか?売り場のスタッ フは「理由はお答えできないんです」。最近審査が厳しくなっています、とのみ告げられた。 結局、メーカー直営店にオンラインで注文、彼は望みの品を手に入れた。 「カメラの性能がすごくいい。満足だ」。

「日本にいる間の目標は、技術を身に付ける、日本語ができるようになる、煙草を止める、 この3つ」。愛する妻と幼い2人の息子と遠く離れた場所で、馴れない仕事に励んでいる。実 習先は技術系だが、「元々、学校では観光学科だったんだ。モンゴル中のソム(日本の町村に あたる行政単位)の名前は頭に入っている」。学校を出ると、鉱山採掘現場など様々な職を経 験した。

最近来たモンゴル人実習生のなかには、高校や大学を卒業後、社会人デビューが日本での 技能実習という若者もいる。最近、酪農家に入った実習生の女の子は、モンゴルの国立大学 の法学部を卒業し、「元々は留学したかった。だけど資金的に難しかったから、とりあえず日 本に行き、お金も貯められる方法として技能実習を選んだ」と話した。

そんななか、降ってわいた新型コロナ感染の拡大。米国や英国などに比べれば、日本国内 での感染による死者は、少数にとどまっている。そのことは何よりだが、長らく豊かさを享 受して来た私たちは、残念な現実に直面している。

「モノづくりの国」のはずが、国民が必要とするマスクさえスピーディーに大量生産でき ないこと。PCR検査のための最新技術や機材がないこと。前例やマニュアルのない不確実 な問題への対処、その決断に時間がかかり過ぎること。自分の言葉で語り、決断できるリー ダーが少ないこと…。NHKの人気バラエティ番組ではないが、「ぼーっと生きていた」ツケ だろうか。

人手不足だった観光・飲食などサービス業は、壊滅的な状況が続く。存続の危機に陥った 企業では、実習どころではなくなっている。一方で、中国などから来るはずだった大勢の実 習生が来日できず、困っている業界もある。法務省は4月、職場での実習継続が困難になっ た実習生が、他業種に変更することを認めると発表した(日本経済新聞、4月17日付)。技 能実習制度も、これを機に、研修という建前から、より実態を反映した労働契約に改めるこ とがよいと思う。

モンゴルでは、4年に一度の国会議員選挙が6月24日 に実施される。ある実習生は「選挙なんて、全く興味ない」 と吐き捨てた。国家体制の大転換に伴う無秩序や混乱の中 で幼少期を過ごし、経済不安や物価上昇、腐敗、格差の中 で大人になればそう言いたくもなるだろう。ただ、その年 月に社会が何に投資して来たか、して来なかったか、折し もそれが白日の下に晒されており、その結果は人々が、私 たちや子ども達が引き受けることになるのだ。政治の力、 そして、政治を動かす人々の力が、試されている。

(会員・フリーランスライター 小林志歩)

⇧〈5月下旬、帯広市内で撮影。 花言葉のように、皆さまが「幸福」でありますように! 

(小林志歩)

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今月の気になる記事

年、ノモンハン事件(1939年)の戦跡を訪れたのをきっかけに、モンゴルの人々に とって、この出来事―「ハルハ川の戦い」がどんな意味を持ち、社会主義崩壊を経た現在ど う語り継がれているのか、知りたくなった。ウランバートルに行ったら、旧ソ連・モンゴル 連合軍を指揮したG.ジューコフを称える記念博物館を訪れたいと思っていたが、いつにな ることやら…。そんな折、5月9日の第二次世界大戦戦勝記念日にちなんで、同館に関する 記事を見つけた。

ロシアで大祖国戦争と呼ばれる第二次世界大戦について、ノーベル文学賞を受賞したウク ライナ出身の女性ジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが、従軍した女性 たちの記憶を聞き取った『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳、岩波現代文庫)が最 近、漫画(小梅けいと、KADOKAWA)になった。戦争を知らない子どもにも大人にもおススメ したい。

それにしても、1945年3月の東京大空襲の後、A.ヒトラーが死に、ドイツが降伏し た5月の時点で、当時の日本のリーダーたちはどうして決断できなかったのだろうか。

「両国の人々が協力して闘った時代があった」 (筆者:B.ソロンゴ)

大祖国戦争(Аугаа эх орны дайн)の戦勝75周年記念の9日を前に、今回はジューコフ 記念博物館の管理者、D.アマルタイワンさんをお招きした。彼女は教育が専門で、軍に2 2年間勤務している。

-まもなく75回目の戦勝記念日です。モンゴル人民共和国がどのような役割を果たし、ど ういう影響があったのかについて話すことから始めたいと思います。20世紀におけるモン ゴル人民共和国の運命、その後のモンゴル国にも関わる世界での立ち位置や、どのように発 展を目指すかについて、隣国ソ連との関係が大きなウエイトを占めていました。

第二次世界大戦について話す前に、ハルハ川戦争の話をすべきでしょう。私たちは昨年ハ ルハ川の戦いの80周年を祝賀しました。わが国は、労働者、農業者、牧民の権益を第一に考え、平等を保障するために、社会主義の道を選びました。1921年以降に起こった数多 くの問題でソ連が手助けをするようになります。軍隊の演習もそのひとつです。1936年 に両国間に相互援助協定が結ばれました。それに基づいて、ハルハ川の戦いで、モンゴルと ゲオルギー・コンスタンティノヴィチ・ジューコフが指揮するソ連の連合軍が、日本側を完 膚なきまで打ちのめし、大きな責務を果たしました。

なぜこの話から始めるかと言えば、両国の関係性がそのようなものだったからです。モン ゴル国民は自ら戦争という辛酸を体験したことにより、ロシア国民にふりかかった過酷な境 遇に対して、即座に自分のことと受け止めました。また苦しんでいる友人を助けるべきだ、 というモンゴルの諺もあります。1941年6月22日に戦争が始まると、翌日の23日に は既にモンゴル国民が家畜を引き連れて、兄弟であるロシアの人々のために寄付を申し出て います。モンゴル人民共和国の人々は自発的に、労働者や農業者、赤軍の兵士に援助を贈る のだと支援中央委員会を立ち上げ、1941-1945年に6度、支援品が続々と送られま した。この取り組みの先頭に立ったのは、人民革命を率いたダムディン・スフバータル氏の 妻ヤンジマーさんでした。1941年から43年にかけて3回、支援物資を前線まで輸送しました。

この贈物の意味するところは「われわれはあなた方とともにある。あなた方はわれわれが 辛いときに心から助けてくれた。大勢の兵士たちがハルハ川で永遠の眠りについた。その恩 義を、兄弟としての戦いの記憶を胸にわれわれは、こうしてやって来た」でした。戦時中、 モンゴル人は前線に58万4千頭の軍馬を送った。さらに戦車班、航空中隊など多くの援軍 を送った。モンゴルの人々の善意の寄付で製造された戦車が、ベルリンまで赴き、解放戦線 に加わり、その戦車が今ザイサンの丘にある。モンゴルの人々の心からの支援を記念して2 017年に「勝利を目指した軍馬たち」の銅像がモスクワ郊外に建っています。今日でも両 国軍は積極的に連携していて、そのことにも私たちは感謝の念を抱いています。

1939年、ハルハ川の戦いは128日間に及びました。3か月余りにわたり、ドルノド の国境地帯で過酷な戦争を身を以て味わったからこそ、わずか2年後に始まった大祖国戦争 に際しては、持てるもの全てを捧げたのです。牧民は家畜など食糧を差し出し、工場の職員 は、時間を延長して働いた。差出人不明の、返信用の宛先のない多くの手紙が残っています。 「あなた方の勝利を信じています」との内容でした。

1941年-43年まで、ソ連の領土をドイツ人が侵略、破壊しながら占領しました。し かし43年3月にロシア人がドイツ軍に反撃、その後は解放戦線で西ヨーロッパの12の国 が解放されました。1941年以前、1939年9月1日にドイツ人によるポーランド侵攻 により戦争の火ぶたが切られたとされ、大祖国戦争と呼ばれています。この戦争により、ソ 連では2700万の人命が奪われた(※訳注/第二次大戦による犠牲者は日本が約310万 人、中国は約1000万人と言われている)。1942-45年に12の軍都と要塞一か所が 建設されました。この戦争で戦ったのは男たちだけではない。老人や子ども、若者らすべて の国民による総力戦でした。(中略)

歴史を継承し、後世に残すという大切な仕事に携わる者として、戦争に関する興味深い史 実にも触れておきましょう。私たちが誇りに思う人物、ゲオルギー・コンスタンティノヴィ チ・ジューコフです。(中略)モンゴルの国民は、この人のことが大好きです。折に触れ、彼 への感謝を口にします。ハルハ川の戦いにおいて、モンゴルの独立、国土を完全な形で維持 するために第一軍団を率いて勝利を手にしました。それにより、わが国は世界で初めてのゲ ル博物館を建てるに至っています。その後、モスクワをドイツから取り返し、レニングラー ド封鎖を破り、スターリングラード攻防を制して、45年4月、最も早くベルリンに入りま した。路線バスで「次はジューコフ博物館」とアナウンスを聞くたび、感謝を新たにします。

興味深い企画展

-2016年の戦勝記念日に「ソ連の情報局より」とのテーマで新聞の切り抜きを展示した ことがある。写真展も開催された。私の手元に、1940年から1945年に発行された「モ スクワの夕べ」という新聞の複写がありました。現在のわが国の「ソヨンボ」紙は当時「赤い星」という名で発行されていました。この2つの新聞の比較を試みたところ、「モスクワの 夕べ」に掲載された記事は3日後にモンゴルの新聞に掲載されていた。大戦中に起こったあ らゆる出来事や情報を、当時のモンゴル人は母国語で読んでいました。これこそ、祖国とい うものの価値だと感じます。皆が戦時中において、すべき仕事を実にしっかりとしていた。 戦場だけが戦いだと理解してはいけない。この自分にとって初めての展示には思い入れのあ るものです。

翌年の企画展は、女性と戦争がテーマでした。祖国大戦争の頃、合計77人の女性がソ連 の国家英雄勲章を受けている。調査によると、優秀なパイロット、医師、通信兵、狙撃兵が いた。最も感動したのは、女性の戦車隊員についてです。勲章受章者のうち、3人が戦車隊 員でした。ひとりは、弾が尽きて爆撃を受けるやいなや、飛び出して近くにいた敵の戦車の 大砲を自分の胸でふさいだそうです。2人目は、戦地に行って連絡が途絶えた夫を探すため に、姉と協力し財産をすべて投げ打って戦車を仕立て、自分で運転して戦闘に加わりました。 また、戦闘機の女性パイロットの生きた歴史も興味深いものです。夜間に空襲を行い、「深夜 の悪魔」とドイツ軍から恐れられました。また、1036人の敵を倒した狙撃の名手もいた。 自らの銃に、倒した敵の数だけ線を刻んだものが後世に伝わっています。(中略)

歴史を子どもたちに

-戦争は望ましいことではありません。多くの国がそう理解していることでしょう。冷たく 光る兵器、愛する人の命が奪われる…なんて耐え難い苦しみです。私たちの大きな目標は、 この戦争がもたらす全てのことを知ってもらう、周知することにあります。そのためには、 可能な限り、事実に基づいて伝えるように努めています。でたらめな事を言ってはいけない。 無理解に陥ることなく、欲望のために攻撃をしない、他人の所有するものを奪い取ることな く、平和に穏やかに暮らすことが必要だ、と後世に伝え、理解してもらうのが、私たちの役 割です。当館はモンゴルだけでなく、外国の軍隊の歴史についても展示しています。将来に おいて、再び血を流すようなことがあってはならない。第二次世界大戦には60を超える国々 が巻き込まれました。(中略)

私たちは、中学校の先生方と連携した取り組みも展開しています。先生方は子どもたちが 歴史を知ることができるように資金をかけて準備し、しっかりと話をします。

昨年の5月9日に、モンゴル国は世界で138番目の国になりました。何の、と言えば、 戦争に行った人々の写真を手に街を行進する行事が実施された138番目の国だということ です。「栄光を永遠に」との名の委員会の主催による行進には9千人あまりの学生や子ども達 が集まりました。大変嬉しく感じました。黒いオートバイに乗ったバイカーの若者の姿もあ りました。私もその日のために、戦争に行った人たちの写真を印刷しました。幼い子どもら が興味を持ち、盛んに質問していました。「これは誰々だよ」「たくさんの勲章だね」などと 話しながら。自宅から祖父や父親の勲章やメダルを持参し、誇らし気に行進する子どもを大 勢見かけました。「この子たちは、人々が生き抜いた歴史に誇りを持ち、大切に感じている。 モンゴル国の将来をしっかりと担ってくれるだろう」と感慨深く受け止めました。

博物館では展示以外にも、様々な形の取り組みを行っています。移動展示、クイズ大会な どのイベントなどを企画しています。学校とも連携しています。モンゴル国、そして文化遺 産として、この博物館が引き継がれ、歴史を知ってもらえるよう、努力を続けてゆきます。 専門家の養成にも力を入れています。今年は「すべてを前線へ」と銘打った企画展を開幕し ましたが、感染症によってオンラインでの展開となりました。大祖国戦争当時に、モンゴル からどのような支援が戦地へ送られたか、その贈物や衣服などの史料、作品等を展示してい ます。興味深いものとして、支援品を戦場へ送る際に手渡された旗などがあります。

「ゾーニーメデー」紙より転載

ニュースサイト http://www.polit.mn/a/82484 2020年5月4日

(原文モンゴル語)

(記事セレクト・抄訳=小林 志歩)

※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。

モンゴル学習支援事業&アサンプション小学校

(実施日1ら月28日)

~先生、子どもたちからお手紙が届きました~

(このお手紙は、2月にモピに届いていましたが紙面の都合で今号になりました)

事務局からお知らせ

コロナウイルス感染自粛というこの期間、悪いことばかりでなく良いと思える時間が沢山 ありました。みなさまいかがお過ごしでしょうか・

2020年度モピ年会費収めていただいたみなさま、ご支援感謝申し上げます。 未納のみなさま、モピ活動が維持できますようご協力をよろしくお願い申し上げます。

(斎藤 生々)

お世話になった皆様へ

6月3日(水)長らく開館を見合わせておりました伊 賀市 ミュージアム青山讃頌を開館いたします。伊賀市 立の美術館施設として初めての展覧会は「穐月明名品 展・やすらう世界」

6月3日(水)〜8月2日(日)です。

まだまだ警戒が必要な中での開館ですので3密を避 ける等感染防止にご協力お願いいたします。開館状況な どは引き続き Web サイトなどでお確かめ下さい。
We サイト http://aoyamautanoie.net/museum/ 

お問い合せ:伊賀市文化交流課 05 95-22-9621

一般財団法人☆東洋文化資料館

*☃*青山讃頌舎*☃* 穐月大介

サロールさんへ!! 毎回いろんなテーマ、色づかいにおどろき、次を期待してしまう・

モンゴルから素敵なアートをありがとう。

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事務所
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430

e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp

MoPI通信編集責任者 斉藤 生々

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