人類学者は草原に育つ
『Voice from Mongolia, 2020 vol.73』
進化する思いやり
事務局からお知らせ
************************************************************************************
小長谷 有紀著 人類学者は草原に育つ
(臨川書店フィールドワーク選書)9
変貌するモンゴルとともに
日本学術振興会監事・文化人類学
(小長谷 有紀)
第三章 爆走モンゴル— — 一九九五年から九七年、モンゴル、ロシアを踏査
素朴な動機
こうして、その後の展開を振り返り、かつそれなりの成果を一望す ると、なんだかとてもしっかりした計画が事前にあったように思われ るかもしれないが、もちろんそんなものは何もなかった。正直に言え ば、はじめての留学や、はじめてのフィールドワークがそうであった ように、行ってみたいという動機があっただけである。とくに、モン ゴル国では社会主義時代、現地調査ができなかった。社会主義圏の研 究者以外の私たちには、現地調査の機会そのものが封じられていたか ら、否が応でも行ってみたい気持ちはふくれあがっていた。できるだ けすみずみまで行きたい、とりあえず一目でもいいから見たいという 思いが科研になったのだった。
だから、私たちは走りに走った。毎年夏の一カ月をついやしておお よそ五千キロメートルから年によっては八千キロメートルを走った。私は毎年、道中に一度 だけ倒れた。女性は男性よりも月齢の影響を身体で感じながら生きている。一カ月も調査し ていると必ず一度はエネルギーの波の衰えを来たし、体調をくずした。それが他の調査隊メ ンバーにとって必ずしも迷惑ではなかったことは、萩原守さんの調査日録からも読み取れる (『体感するモンゴル現代史』南船北馬舎、二○○九年)。みんなにだって休養は必要だった のだ。
何しろ、道はほとんど舗装されていない。橋はほとんどかかっていない。全行程のおよそ 九割がオフロードであった。また、モンゴル語で「ジャラン・ユス(69の意)」と呼ばれて いる旧ソ連製のジープはサスペンションが悪い。悪いと言うよりもほとんど無いかのごとく、 大地から車体が受ける衝撃を、私たちは車体と共有しなければならない。車の中でしっかり つかまっていなければならないから、けっこう筋肉を使う。しっかりつかまっていても車内 を飛び跳ねてしまい、あちこち当たって痛い。行きたくて乗っているのだから、精神的には辛くなくても、肉体的には辛い。加えて私は当時、腰痛持ちだったので、本当に意識が朦朧 としてくることもあった。そんなときには言いたかった。「私をここで捨てて行ってくれ」と。 これは 一九八八年にはじめてのフィールドワークをしたとき、ホームステイ先の母から聞 いた、彼女が数え十一歳のときのセリフである。モンゴル国のダリガンガ地方から中国内モ ンゴルのシリンゴル地方へ、旧暦二月二日、父親に背負われ、素足は外気にさらされるとい う状況で、ウマに乗って一晩走り抜いて仏教弾圧から逃げたときのセリフである。私はさわ やかな夏、しかも車で移動しているのだから、その苦労は比べられないけれども、肉体的疲 労が蓄積してくると、本当に「私を捨てて行って欲しい」と思った。「私はここでゆっくり滞 在して調査します」と何度言おうと思ったかわからない。
もしも私がそう申し出れば、調査隊長の松原先生はおそらく許可してくださっただろうと 思う。人類学の現地調査には、主として二種類ある。一つはじっくり滞在し、ゆっくり生活 をともにする滞在型のフィールドワークであり、もう一つはざっくりと通過し、しっかり観 察する踏査型のフィールドワークである。それぞれをステイ型とサーベイ型と呼んでおこう。 一般に文化人類学的現地調査とは、前者のステイ型をさしており、またの名を参与観察とも いう。たとえば、家族の一員として生活をともにし、わが身を研究対象の外におかずに、参 加しながら観察するのである。研究者自身が対象社会にかかわっていることによって、実は 当該社会ではある種の反応がある。参与観察という用語は、自然科学のように純粋に客観的 な観察はできないという意味を教えるものである。私がもし、申し出れば、サーベイ型から ステイ型への移行を認めてくださっただろうと思う。もちろん、心配しながらも。
しかし、私は申し出なかった。やっぱり、どんなに苦しくてもついて行って、あちこち見 ておきたいという素朴な動機があったとしか言いようがない。モンゴルのように広大な国土 をもつ国をくまなくまわるのは容易ではない。時間的にも、資金的にも。いまのこの貴重な チャンスは逃したくなかったのである。あちこち回ったからといって、ただちに論文が書け るわけではない。それは、はじめてのフィールドワークときわめて対称的である。ステイ型 の場合は一カ月の滞在に始まっていくつ論文を書いたかわからないほどに個人的業績が展開 していった。一方、サーベイ型の場合は一カ月の踏査の三回分を集めても、もちろん科研全 体としては成果があるが、個人としてどれを書いたと指し示すものはない。では意味がなか ったのかというと、まったくそうではなく、大いなる意味があった。あらゆる仕事をするう えで、全体像を把握しているというのは、とてつもなく重要な意味がある。誰がどこのどん な話をしても、おおよそわかる。少なくともわかるような気になれる。「知りません、行った こともありませんし」などという言い訳はできないところに自分を追い込んで、さまざまな 仕事に取り組んでゆくことができるようになる下準備が、この踏査型フィールドワークであ った。
踏査型フィールドワーク
一年目の一九九五年は、モンゴルからトゥバへの国境越えをめざした。まず、ウランバー トルからオラーンゴムへ飛行機で飛んだ。日本側は松原先生をはじめ、中央アジア史を専門 とする濱田、堀、ユーラシアの考古学を専門とする林、モンゴルの法制史を専門とする萩原、 そして人類学を専門とする楊、小長谷の七名。モンゴル側は案内役に上述のスレンさんと考 古学者ナワーン先生の二名。そこからジープ三台で走る。ジープはウランバートルから地上 を走って迎えに来てもらっていた。
北をめざしたが、国境の向こう側にトゥバ人文研究のドルジ所長が迎えに来てくれていた にもかかわらず、モスクワからの許可を取り付けることができず、南下し、トゥバに代えて バヤンウルギー県を踏査した。なお、モンゴル語でアイマグと呼ばれる行政単位を本書では 便宜上、県と訳しておく。また、その下部の単位であるソムは、郡と訳しておく。日本の郡 は、行政執行権をもたないものなので、その意味では不適切な訳となるが、かといって村と 訳すとあまりにも無意識に伝達される空間のサイズがちがいすぎる。モンゴル国のソムは平 均するとおよそ七千平方キロメートルで、東京都と大阪府を合わせても大きい。それを「村」 と訳してしまってはさまざまな誤解を生むと思われるため、あえて郡と訳しておく。
国境の町ボルショから北行きをあきらめて南西に向かい、バヤンウルギーに入った。ここ は一九四○年にカザフ人を安堵するために設けられた県である。県庁所在地のウルギーの郊 外で、カザフ人のテントを訪問したとき、私たち日本人がモンゴル語で話しかけたのでカザ フの老人が猛然と怒り出した。「ここはカザフ人の土地だ、外国人のおまえたちがなぜモンゴ ル語で話すのか、カザフ語で話せ」とモンゴル語で怒った。モンゴル国のなかの少数民族で あるカザフ人と多数派のモンゴル人のあいだの軋轢を感じさせた。
この印象だけを述べると、カザフ人が弱者のように思われるだろうが、さらなる弱者がい る。それがトゥバ人である。そもそもバヤンウルギー県は、スターリン時代にソ連邦カザフ スタンで発生した大飢饉のために四散したカザフ人の一部を安堵したり、中国新疆ウイグル 自治区の動乱を避けて逃亡してくるカザフ人を安堵したり、中ソ国境の要とすべく、モスク ワからの指示により設置されたと考えられる。カザフ人がいたからカザフ人のための県をつ くったというよりもむしろ、カザフ人がかつてそれほどいなかったからこそモンゴル国へ移 住するカザフ人のための県をつくったと言ったほうがいいだろう。そのため、もともとそこ にいた人たちが圧迫されることになる。もっともマイナーな人びととしてトゥバ人がいる。 その言語はテュルク語系だから、カザフ語とは互いになんとか通じることができる。しかし、 両者のあいだは宗教が異なる。カザフ人はイスラームを信仰するのに対して、トゥバ人はチ ベット仏教を信仰する。
私たちは些細なできごとや微妙な物言いから、実態を推測的に把握し、課題を発見しなが ら先に進んだ。ホブド県でムンフハイルハン郡に至る。ムンフハイルハンはアルタイ山脈の 四千メートル級の山である。ムンフは永遠を意味し、ハイルハンは敬愛する山を指す。その 麓にある郡にはアルタイ・ウリヤンハイと呼ばれるグループが集中して住んでいる。スレン さんは一九八○年代までここでフィールドワークをしていた。彼の研究上の本拠地で、彼の 知り合いのお年寄りたちを紹介してもらい、話をうかがった。さらにザハチンと呼ばれるグ ループが集中して住んでいるムスト郡まで南下する。この一帯では、南下はアルタイ山脈の 登坂を意味した。ムストとは氷のあるという意味である。その後はひたすら東へ向かい、ウ ランバートルへの帰還をめざしながら、ゴビアルタイ県の北部、ザブハン県の南部、アルハ ンガイ県の南部、ボルガン県の南部を踏査した。考古学者のナワーン先生の誘導で、これら の地域にある著名な考古学上の遺跡を見学した。松原先生はもともと考古学出身であり、調 査隊には考古学者の林さんも入っていたので、さらにナワーン先生を加えて、彼らのおかげ で、空間的に踏査するだけでなく、時間的に踏査する感性をもつことができたのは幸運なこ とだった。
突厥時代の墓とされる石人はたいていゆるやかな丘の日の当たる斜面に立地する。ウイグ ル時代のような農耕がさかんになったときの都城は現在でなら蚊帳が欲しくなるような窪地 に立地する。そんなふうに微妙な地形と遺跡の関係を体得しながら、モンゴル高原の時空が 把握されていくように感じられた。
『Voice from Mongolia, 2020 vol.73』
(会員 小林志歩=フリーランスライター)
「日が昇るや否や、お客さんたちが次々と訪れて来ます。僕たちも晴れ着を身にまとい、 十何人でグループになり、近隣や親戚のお家へ挨拶に参ります。挨拶して回っていると 真っ白なタオルや文房具などたくさんの新年プレゼントを戴いていました。新しい服の 帯に真っ白なタオルをぶら下げて、明るい笑い声を上げながら馬を並走する少年少女の 姿が、お正月の故郷でよく見られる光景でした」イラビス・ホロンバイル出身
古い資料の中に「故郷のチャガン・サル」と題した文章を見つけたのは、ちょうど今年の 旧正月だった。偶然のことながら、あまりにもタイムリーで、導かれるように読んだ。一緒 に挟んであった資料の日付は2003年とあり、確か京都の郊外で、内モンゴル出身の留学 生たちの旧正月の集まりにおじゃましたときにもらったものだと思う。当時、夏ごとにモン ゴル国に出かけるようになって5年ほどたっていたが、もうひとつのモンゴルとはほとんど 接点がなかった。ただ、並んでいたごちそうが、細切りのピーマンなどの野菜の入った、中 華風のモンゴル料理だったことが印象に残っている。
「ホロンバイルの両親とチャガン・サル(お正月)を過ごさなくなって十年になります」と 始まる、この文章の作者はイラビスさん。ホロンバイル、と言えば、一年前に訪れた中国・ ロシア国境地帯の草原地帯だ。豊かな緑が広がる、モンゴル人にとっての心のふるさとのよ うなところ、と内モンゴル出身の友人が言っていた。この文章には、陰暦12月に入ると始 まる年越しの準備から元日に至る人々の様子が、子どもだった作者の目線でわかりやすく綴 られている。
12月23日のバガ・シネ(小正月)の大掃除、火の祭祀は、火の神様を天界に送り出す 行事。大掃除の後、夕暮れの頃、バターやチーズ、チャバグ(干しなつめ)などを家のいろ りにくべて家族が順に拝礼し、祝詞が述べられる。どこの家からも香ばしい匂いが漂う。チ ンギス・ハーンが大軍を率いて出生するため、お正月を一週間早めて祝ったことに由来する そうだ。
お世話になった人や親戚にベレグ(お歳暮)の品々をもって、年末の挨拶をして回るのは、 子どもの仕事になることが多かったという。両親の代理での訪問となるため、年長者に対す る挨拶や言葉遣いに気をつけなければならず、家の教育やしつけ、子どもの成長ぶりを評価 する場でもあり、「伝統文化のリアルな教育の場でもありました」。
イラビスさんがこの文章を書いた、もしくはモンゴル語で書いたか、語ったものをどなた かが日本語に翻訳されたのは、少なくとも今から20年近く前。その時既に親元を遠く離れ て10年たっていたことになるから、このお正月の風景は80年代だろうか。いや、それよ りもっと以前だったかも知れない。
コロナ禍の2021年、モンゴル国のツァガーンサルについても書き留めておきたい。ビ トゥーンと呼ばれる大晦日を翌日に控えた、2月のとある日のこと。オンライン会議中、自 宅のパソコン画面から、ウランバートルの大学教授らがため息交じりに話した。「23日まで 厳しいロックダウンです。道路は封鎖され、警察が待機しています。年始回りなんてしよう ものなら、50万トゥグルグの罰金を取られます」。日本円で約2万円、それは大変!だから、 今頃みんなスーパーに走り、食料品の買いだめに忙しいのだという。地方でもアイマグやソ ムなど町では同じような状況だったようだ。 「サルシニィーン・メンデ・アイルトガヤ」(新年のご挨拶を申し上げます)。モンゴルの元 日にやむなく仕事の連絡を入れることになった、牧場経営者のモンゴル人に、そうメッセージを書いた。日本在住四半世紀という方だが、さすがにこの日は家族と自宅でのんびり過ご しているだろうと思ったら、牧場に来て忙しそうに仕事をしていた。モンゴル語をよくご存 じですね、すごいね、と流ちょうな日本語で褒められた。ずっと年下の私にさえ、敬意を込 めて例年挨拶して下さるウランバートルのバーギーお兄さん、あなたのおかげ。
大晦日には、昼からブヘール・マハ(羊肉料理)をはじめ、女性たちはご馳走を準備する。 天地の神々とご先祖様に備えた後、お酒が注がれ、捧げられる線香、そして拝礼して年の順 に席へ。年配者にひざまづいて感謝を表し、祝福のことばとお年玉をいただく。「おばあさん はいつもひとりひとりに相応しい祝辞を、韻を踏みながら詩のように歌いました」。家族がそ ろって食卓を囲み、一晩中明かりをともし、歌声と笑い声とともに賑やかに遊び過ごしたと いう。「大晦日からお正月の一カ月は、どこへ行っても笑顔と美味しいご馳走があふれて、子 どもたちの多少の『過ち』も許されていたため、僕たちにとってお正月は自由の楽園でした」。
お歳暮、大晦日、お年玉と笑い声。遠い日の記憶がよみがえって来る。随分形骸化してし まった感のある、私たちのお正月だが、その源流をたどれば、同じところにたどりつく気が する。
モンゴル人のイラビスさん。あなたが綴った、思い出のチャガン・サルの美しさに、モン ゴル人でなくても、胸を打たれます。勝手に引用させてもらったこと、どうかお許しくださ い。30年を経て、世代がかわっても、変わらぬお正月の風景が、そこにあるでしょうか。 あなたはどこで、どんな新年をお過ごしでしたか。ホロンバイルのお正月、いつの日か訪ね てみたいと思います。
今月の気になる記事
ホロンバイルの旅仲間から、昭和初期に日本で作成された、大陸の地図のコピーをもらっ た。「外蒙古」、「内蒙古」、そして、「満洲国」の一角に「呼倫貝爾」(コロンバイル)の地名 が見える。少し下ると現在のモンゴル国の東の国境にあるハルハ河。「内蒙古」の南西に目を 向けると、小さな湖を抱く青海省がある。そこにはデード(デート)・モンゴルと呼ばれるモ ンゴル人が住んでいる。その多くは17世紀にグシ・ハンに率いられてこの地に移り住んだ 青海蒙古の末裔であるという。日本語では上モンゴル、高地モンゴルなどと訳されている。 内、外、そして上。そう区分し、色分けしたがるのは、外から目線ではないか。Ч.チミドの 有名な詩「私はモンゴル人」Би Монгол хүн は、そんな心の叫び。枕詞はもういらない。彼/ 彼女はモンゴル人、ただそれだけで、いい。
Б.ブルゲッド:『モンゴル国の国民になりました、政府庁舎においでください』と言われた 時、信じられませんでした」
(筆者/Э.ボルガン)
「あなたはモンゴル国の国民になりました。政府庁舎に来て下さい、と大統領府から連絡 があった時、信じられませんでした。長年待ち続けた知らせが突然来たのです。心の奥深く 秘めた、誰にも言えない、待ち望む気持ち。気持ちがほぐれて、目標がはっきりと見えて来 た。でも、この決定はわれわれふたりだけの望みではなかった。先生方や友人たちも待って くれていた。目指す道の先には、幸せが待っているものですね」。そう語るこの男性、名はバ ルジ・ブルゲッドという。
デード・モンゴルのフルログ旗、アルガル(牛糞)の煙たなびく遊牧民のゲルに生まれ、 地元でモンゴル語や文学を専攻した。モンゴル国に来たのは2004年。妻デグミ-さんも、 デード・モンゴル出身で、ウランバートルで出会って結婚。昨年9月、一家はそろって、正 式にモンゴル国の国民となった。どんなわけで、モンゴルに残ることを希望するに至ったの か、ここでどのように暮らしているのか、読者に向けて思いを語ってもらった。
-デード・モンゴルのご出身とのこと、デード・モンゴルの人々の歴史やふるさと、現在の 暮らしについてまずは話して頂けませんか。 「デード・モンゴル人は、中国の西の端フフノール(青海)、ガンス-(甘粛)省の各地をふ るさととしています。そこでは、遊牧文化が今日に至るまで、途切れなく受け継がれていま す。地方にゲルを建て、家畜の世話をして生活をしています。私がモンゴル国へと出発した 頃は、伝統的な暮らしはかつてのままでした。ここ10年ほどで馬に乗る人が減り、オート バイや車に乗っていますが、以前はラクダやヤクにゲルを積んで移動していたものです」
-デード・モンゴルでは、モンゴル語で教育を受けることは可能ですか。 「モンゴル語で教育を受けることができます。モンゴル語で教える小・中学校があります。 フフノールには大学も一校あります。56校の小学校があり、子どもたちはモンゴル語で学 んでいます」 -あなたは文学に精通し、作家・詩人としても活躍しています。子どもの頃からモンゴルの 文学に触れていたのですか。 「モンゴル文学の黄金期と称される時代の古い書籍は、フフノールにもたくさん届いていま す。父親が20世紀のモンゴル文学の古典作品を集めていたのです。私は中学生のときに『清 きタミル河』や『曙光』『ズルフニィ・ヒレン(心の怒り)』などの長編小説、ベグツィーン・ ヤボ―ホランの『銀の馬勒の音』、バブー・ハグワスレンさんの『オヤンギィーン・トイログ (旋律の輪)』などの詩集を読んでいました。その後、2002年に内モンゴル文学組合に1 年勤務し、モンゴル人作家の略歴や作品を『世界文学』という雑誌で紹介していました。作 家の略歴をモンゴル文字で書き写し、『ハルハの女たち』と名付けた特別号を、モンゴル文字 で出版しました。こうして、姿かたちを一度も見たことのない作家たちの作品や略歴を紹介 していたわけです(中略)」
-モンゴルに来た頃の思い出を教えてください。どのようなきっかけだったのでしょうか。 モンゴル国と人々はどのようにあなたを受け入れたのでしょうか。 「モンゴルには大学の招へいで学生たちが来ていました。私は大学院の修士課程で学ぶため に、2004年に来ました。最も困難だったのは、話し言葉でしたね。地元の方言を話して いましたから。当初はお互い、意思疎通に苦労しました。人々は『どこから来た子なの』と 言われるとウブス、ホブド(訳注/モンゴル国西部の県。少数民族が多く居住する)と答えた りもしました。なぜかといえば、当時南の方から来た、と言っても、デード・モンゴルは全 くというほど知られていなくて、内モンゴルと言えばわかるけれど、という感じでした。
人々は皆温かく受け入れてくれました。言葉や発音の違いですが、私にとっては興味深く 感じられました。作家たちはこんな遠隔地から来ていたのだ。それ以上に、年配の作家や研 究者が「デード・モンゴル」と聞いて関心を持って下さり、色々と話しが盛り上がるのが嬉 しかった。さらに言えば、人文研究所の先生方はデード・モンゴルのことを非常によくご存 じでした。ラムスレン・フレルバータル先生とは胸襟を開いて、ふるさとの自然について語 り合いました。『デード・モンゴルには、ヤギやラクダはいるのか、家畜の世話はどんなふう にするのか』など色々と質問して下さいました」
-発音など文化の違いをどのように乗り越えて来られたのですか? 「発音の差異は、それで苦悩するようなことではありません。モンゴルの伝統的な暮らしに はなかった外国のことばが今日のモンゴル、さらに世界各地に散らばって生きるモンゴル人 の語彙となっていることを理解したのです。妻は、モンゴル師範大学で言語学の修士号を取 りました。どんなテーマで論文を書くかについてもふたりで話し合って、デード・モンゴル の口語に見られる外来語、ハルハ・モンゴル口語の中の外来語を比較して研究しました。デ ード・モンゴルは、技術用語の多くが中国語の語彙で、中国語を通じて理解する。一方のモ ンゴル国ではロシア語です。研究の一環でバヤンズルフのザハ(市場)に行ったときのこと です。使い慣れた、ふるさとの言い方なのですが、『ツァガー・ノゴーください』と言ったら、売っていた人が「お前は内モンゴル人か、内モンゴルから来たホジャ-(訳注/中国人を指 して使われる蔑称)だね。バイツァイというモンゴルのことばを知らないのね」と言われま した。こちらはツァガー・ノゴーというモンゴル語を言ったのに、モンゴル人が『バイツァ イ』という中国語をモンゴル語である、と言ったのです。その後も、建築資材のザハなど多 くの場所で調査をしました。外来語が多用されることにより、人々の間で誤解が多く生じて います。モンゴルに来た当初は『こちらが正しい』『いやいや、こっちの方が』などと言い合 いをしたこともありましたが、研究をすすめるうちに、この争いには勝者がいないことに気 付いた。わたしたちの使うことばにいかに多くの外来語が入っているかを理解したのです。 わたしたちのすべきことはただひとつ、モンゴル語の持つ、免疫力を今以上に高めることで す」
-モンゴルに来て、文学研究所での文学者らとの出会いがあったそうですね。どのような人 たちから支援を受けましたか。エピソードなどありますか。 「モンゴルに来て2か月くらいたった頃のことです。授業がない日は街をぶらついていまし た。すべてが興味深く感じられ、キョロキョロしながら歩いたものです。無意識に、モンゴ ル文字がどこかにないか、目で追うのが常でした。当時のウランバートルでは、市街地のネ オンや看板は英語や外国語が中心でした。ある日、ノーツ・トブチョー(秘史)という縦文 字の看板が目に飛び込んで来たので、中に何があるのだろう、と入って行きました。2階に 上がると、以前略歴を紹介するなかで親しんだ著名な作家たちの肖像画が壁に多数掲げられ ていた。鍵のかかっていない部屋はないか、と探したら、ドアが開いている部屋が見つかり、 人がいるようでした。机のむこうから、背の低い、年配の男性が挨拶をして下さり、「きみは 詩人?それとも作家?」と聞かれました。わたしは「そう、詩人です」と答え、イスに腰掛 けました。出身を問われ、デード・モンゴルと答えました。こうして、詩人のチラージャブ さんと初めて出会ったのです。当時、チラーさんは作家連盟の理事を務めておいででした。 そんな話をしているところに、詩人のバヤルジャルガルさんが入って来ました。親しく話す うちに、翌日に予定されていたモンゴル・日本作家会議の招待状をもらったのです。会場に 行くと、私が尊敬してやまない作家の面々が勢ぞろいしておられました。こんな幸せなこと は、人生にそうそうありませんよね。国際的な会合だったので、私は銀杯に入ったミルクを 手にした作家たちに迎え入れられたのです。忘れられない出来事となりました。それ以来、 作家の皆さんと親しく交流し、詩を披露する大会などにも参加するようになり、オペラ劇場 や文化宮殿の公演もすべて見に行きました。ここ10年は、詩人が打ち寄せる波のように出 現しています。モンゴル国の中心部で生まれた詩は特に、ことばの選択や表現が際立ってい ます」
-デード・モンゴルや内モンゴルの文学を、モンゴル国に繋ぐような仕事を20年続けて来 られていますね。これまでの成果について、教えてください。 「内モンゴルの教科書には、モンゴル国の文学作品が相当数、掲載されていました。近年に なって削除され続けて、今や教科そのものが切り捨てられた。このことは国境のこちらにい るわたしたちが泣き叫んでも、何もできません。もし母語を守りたい、同胞を支援したいと 思うなら、言うだけでなく、行動を起こすことが必要です。何よりまず、文学作品から取り 掛かりたいと思います。 わたしは、モンゴルのキリル文字の文学作品を、モンゴル文字に転記しました。数多くの文 学作品や詩のアンソロジー、科学の論文も転記しました。そうした本を読んで啓発された子 どもたちがモンゴルに来て学位論文を書きます。わがモンゴル伝統アカデミーは、雑誌『科 学と生活』を2012年から定期的に刊行していて、その後押しになっていると思います。 この雑誌には、モンゴル人研究者の論文をモンゴル文字にして編集するとともに、デード・ モンゴルの先生方の論文も掲載します。現在までに、モンゴル文学の作品から60冊をモン ゴル文字に転記して出版したほか、デード・で出版された40冊ほどをモンゴル国で出版し ました。また20冊ほどの研究書も書籍化しています。2006年に大学を卒業してからは、モンゴル伝統アカデミーに勤めています。遊牧民と学生の交流事業を毎年企画し、これまで に200人以上がモンゴルに来ました。ここ2年は、残念ながら感染症により、実現できて いません。(中略)この交流セミナーに参加した若者たちはモンゴルへの理解や認識を深め、 満足感を抱いて、それぞれの生活の場に戻って行きます。モンゴルへの留学を希望する学生 が、かなり増えています」(中略)
-ふるさとのデード・モンゴルでは、モンゴル国の方角を向いて、その日の一番茶を捧げる そうですね。モンゴル国は夢の国である、と多くの旅人の手記に出て来ます。 「モンゴル帝国時代、われわれはどれほど強大な国だったでしょう。1227年にチンギス・ ハーンはタングートを従え、西方へ遠征して以来、騎馬モンゴル民族の遊牧文化は途切れな く続いています。だからこそ、わが国章よと、全世界のモンゴル人が敬意を表します。国章 ということばは、人々の心にある、大きな刻印です。デード・モンゴル人は右方向、モンゴ ルの方に向かって鞍を置きます。そうしなければならない、とでも言うように、ちょうどモ ンゴルの方角に向けて、お茶や乳の一番良いものを捧げます。ほとんど無意識にそうしてい たのです。デード・モンゴルを旅し、土地に馴染んだモンゴル人研究者やジャーナリストが 帰国して書いたものを読んで、古い時代とのつながり、象徴するものを理解したのです」
-モンゴルの国籍取得には何年かかりましたか。内モンゴルの人々からは、非常に困難だと の話も聞かれます。家族でモンゴル国民になるまでの経緯はどのようなものでしたか。 「モンゴル国の国民となるための申請を提出したのは、2014年のことでした。家族で申 請をする場合は、その時点までに継続して8年間モンゴルに居住していることが条件のよう でした。申請書類は何度も返され、追加の書類を求められました。最終的には大統領府に書 類が送られ、一定期間を経て大統領令で認められるということのようです。わたしたちの場 合は6年待って、念願かなってモンゴル人になることができました(中略)」
-どうしても聞いておきたいことがあります。16年間モンゴルで働き、暮らしたあなたが 気付かれたモンゴルの変化について、教えてくださいますか。 「建物が激増し、ひとびとの心も世界に向けて開かれました。外国の文化がどんどん入って 来て、外国式の教育も支持を得ています。若い人たちの多くが、成功者になることを夢見て、 起業し、儲かるビジネスを手掛けたいといいます。それも悪くはありませんが、あまりにも 多くの若者や労働力が外国に流出しています。ビジネスのことしか眼中にない人も少なくあ りません。モンゴルに来た当初、会う人の多くが文学の話をしていましたが、近頃は作家や 芸術家と会ってもビジネスの話をしている状況です。
研究や芸術に生きる人たちが、資本主義によって囲い込まれて、本来の力を弱められてい るように感じます。自らの作品をネットで広めることを何より重視し、多くの人に知られた い、との考えに引っ張られ過ぎているようです。肝心なことは、作品の質がどうかで、そこ にもっと注意を向ける必要があるのではと思われます」(後略)
(2021年1月20日)
ニュースサイト https://eguur.mn/172386/
(原文モンゴル語) (記事セレクト・抄訳=小林 志歩)
※転載はおことわりいたします。引用の際は、必ず原典をご確認ください。
進化する思いやり
(2021年2月16日・京都新聞夕刊 現代のことば) 掲載記事
日本学術振興会監事・文化人類学
(小長谷 有紀)
むかしむかし、人は自分のまわりにいる人たちのことを思いやった。であろうと思う。 言い換えれば、会うことのない人たちについてまで思いやることができたかどうかはわから ない。
まれに奇特な人がいて、ご先祖さまたちの物語をつむぎ、それらを伝えていくことによっ て、見知らぬ人とのつながりが深く意識され、思いやりの範囲は広がったかもしれない。そ れでも、縁もゆかりもない人びとについて思いをいたすのは難しかったに違いない。
ところが、いわゆる環境問題が大きくクローズアップされるようになると、私たちの思い やりの範囲は飛躍的に拡大した。始まりは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962 年)だった。彼女は、鳴かなくなった鳥たちを観察して、環境汚染による健康被害を警告した。 私たちは、素直に驚いたり、少々疑ったりしながら、あらゆる生物とともに生きる人類の行 く末を意識するようになった。人間から生物全体へ、地域社会から地球全体へと、思いやり の範囲は徐々に拡大した。
さらに、バックミンスター・フラーの『宇宙船地球号操縦マニュアル』(1968年)など によって資源の有限性について指摘されるようになると、私たちは「持続可能性」を意識す るようになった。人への思いやりが、生涯を通じて出合うことのない地域の人たちや、未来 の人たちへと拡充されたと言えよう。
2018年8月、当時15歳だった少女グレタ・トゥンベリさんがスェーデンで始めた「未 来のための金曜日」というストライキは、まもなく世界中に広がり、温暖化によってもたら される危機について、専門家にとどまらず、子どもたちにも了解されていることを示した。 未来を憂いるという思いやりが広範な世代にわたるようになったことの証しであろう。
このように、思いやりは進化した。そして、今また新たな進化の時をむかえている。新型 コロナウイルスの爆発的感染によって、私たちは、世界中の人びとが運命共同体であること を知った。利己的に自ら守ると同時に、無症状感染者として他人にうつさないよう利他的な 行動を心がけている。さらに、より困難に陥っているだろう人たちのために、寄付を通じて 食を分配するなど多様な思いやりも実践されている。
日本では、感染による死者よりも、自殺者の方が多くてコロナ渦で増えている、と聞けば、 隣近所に対してあえてお節介を増強するべきなのかもしれない。
さらに、観光という欲求への対処も変わるのではないだろうか。みずからおもむく代わり に、当地の人に依頼して、ビデオで様子を伝えてもらう。依頼された人は、伝える仕事を通 じて、これまで知らなかった地元の魅力を知る。それはきっと、依頼された人にとっても喜 びだろう。そして、依頼した人にとっては、映像の中で喜んでいる人を見るという喜びも加 わる。思いやりの展開は、畢竟、他人の幸せを共有するという幸せにつながっていくのだろう。
************************************************************************************
斉藤様
(吉崎 彰一)
新年おめでとうございます。 今年も通信を楽しみにしております。さて今回は八尾教授の報告に興味を持ちました。
12,000人ものシベリア抑留者がモンゴルで強制労働させられ1割以上の方が亡くなっ ている。モンゴルでの抑留者の状況を監視者の方のヒアリング内容も含めて、 知りたいですね。ウルジーさんのことを含めて。第二弾の報告をぜひお願いしたいです。
事務局からお知らせ
(斎藤 生々)
2020年度モピ総会の予定のご案内
2021年4月10日(土) 11時 ~ 場所:現時点では、コロナのことがあり、開催できるのか決めることができません。 決定次第お知らせいたします。よろしくお願い申し上げます。
**********************************************************************************
特定非営利活動法人 モンゴルパートナーシップ研究所/MoPI
〒617-0826 京都府長岡京市開田 3-4-35
tel&fax 075-201-6430
e-mail: mopi@leto.eonet.ne.jp
URL http://mongolpartnership.com/
編集責任者 斉藤生
**********************************************************************************